電話を切った後、愛奈は込み上げる涙を抑えきれなかった。拓人は自分に贈る宝石を買いに行こうとして、観光バスに乗った。その途中で悲惨な事故が起きてしまったのだ。
―何か土産を買ってきてやるから、大人しく良い子にしてるんだぞ。
 拓人がマンションを出るときの科白が今更ながらに思い出された。あの時、自分は何と応えただろう。いや、何も応えなかった。長い旅路に出る彼を見送りもせず、ふて腐れてベッドの中にいた。
 あの時、彼はデザートローズを買ってきてくれるつもりだったのだろうか。
 それなのに、自分は頑なに彼に背を向けた。
 それに、彼が出ていった後、自分は何を考えただろう。
―あんな男、この世からいなくなってしまえば良い。
 よりにもよって、そんな想いを抱いたはずだ。
 ああ、私のせいだ。私がいなくなっちゃえば良いなんて思ったから、拓人さんがこんなことに。
 愛奈はもう堪え切れず、両手で顔を覆った。堪え切れない嗚咽が低いすすり泣きとなって洩れた。
 と、それまで無言でハンドルを握っていた運転手の男が唐突に沈黙を破った。
「瀬道さんの話では、まだボスが死んだと決まったわけじゃないですよ。生存者の中にも死亡者の中にも名前がないってことは、まだ生きてるって望みもあるんですから」
 そのひと言に、愛奈の泣き声が止まった。
「ボスは奥さんに滅茶苦茶惚れてますからね。たとえ地獄まで行っても、奥さんに逢いたくて引き返してきます。そんな人ですよ」
 その声は愛奈が初めて聞いたボディガードの声だった。気のせいか、サングラスの向こうの細い瞳が優しく細められているように見えた。いつもは表情を消し去った無機質な印象が強いけれど、今はアンドロイドのような冷たい雰囲気ではなく、人間らしい温かな表情を浮かべている。
「あ、でも、ボスには内緒にしといて下さいね? こんなことを奥さんに言ったって知れたら、クビは間違いないですから」
 恐らく普段は社長の身内と親しく接することは禁じられているに違いないが、愛奈の哀しみ様を見かねて声をかけたのだろう。
 今はその心遣いが泣きたいほど嬉しい。
「とにかく今は気をしっかりと持って下さい。ボスは必ず生きてます。ちょっとやそっとで死ぬようなヤワな人じゃないです。何せ、業界では、何があっても笑わない、沈まない、必ずのし上がる鉄の男って呼ばれてるんですよ。あ、これも内緒ね」
 少しおどけたような物言いに、愛奈は思わずクスリと笑った。
「あ、やっと笑いましたね。奥さん、もう少し笑った方が良いです。奥さんが哀しそうにしていると、ボスまで元気がなくなりますからね」
「拓人さんが?」
 信じられない話に思わず訊き返すと、黒服の男は朗らかに言った。
「いつもボス、零してますよ。女は一体、何をすれば歓んでくれるのか、どうやったら歓んでくれるんだろうって。いつかは大真面目に俺に訊くもんで、俺、マジでボスも焼きが回ったなと思いましたもん。女のことにかけては俺なんかよりボスの方がよほど百戦錬磨なのに、たかだか女子高生一人の機嫌を必死に取ってるなんて、以前のボスなら想像もできないっスしね」
 あ、と、彼が頭をかいた。
「何かこれじゃ、ボスにたくさんの女がいるように聞こえますね」
 愛奈はもう、こんなときなのに笑いが止まらなかった。
「気を遣って下さって、ありがとう。拓人さんが無事に帰ってきたら、ちゃんと向き合って話してみます」
 愛奈の言葉に、ボディガードはニッと笑って頷いた。それから後はいつものように彼は二度と愛奈に馴れ馴れしく話しかけようとはしなかった。
 不思議だった。あんな卑劣なやり方で自分の身体を奪った男のことなんて、心配する必要はない。いなくなれば、愛奈は自由になれるのに。何故、自分の胸はこんなにも不安にざわめくのか?
 今なら判る。いや、恐らく応えはとっくに出ていたのに、愛奈がその応えから眼を背けて、真実を見ようとしていなかったのだ。
 不思議なことに、あれほど好きだと思い込んでいた反町君よりも拓人のことばかり考える。もちろん、反町君のことは今でも好きだ。
 彼のことも一生、忘れることはないだろう。
―僕にもっと力があったら、君を攫ってゆくのに。
 泣きそうな表情で告げてくれたあの一瞬は、たとえ拓人という男がいたしても心から消えることはない。大切な青春の宝物だ。
 だけど、その想いは拓人へのそれに比べれば、ほんの淡いものでしかない。
―私がいちばん好きなのは拓人さんなんだわ。
 幼いときから大好きだった従兄。優しい年上の男。一時は無理に身体を奪われ、毎日レイプのように抱かれることに怒りと失望を感じ、そんなことをする彼を憎いとすら思っていた。でも、その心の底では、やはり彼を憎みきれない、何か別の感情がまだ生きていることを私は知っていた。
 多分、女として彼に抱かれて、理不尽に自分を奪い尽くそうとする彼を憎む心と、裏腹に彼を慕う心が同時に芽生えてしまったのだろう。それとも、幼いときからのほのかな憧れがいつしか彼を一人の男性として恋する女心に変わったのだろうか? 自分でも気づかなかった真実が彼に抱かれたことで、はっきりと自覚した?
 いいや、そんな彼を好きになった理由なんて、今はもうどうでも良い。ただ、あの男が生きてくれてさえいれば。
 ボディガードに言われなくても、彼が今までたくさんの女たちと拘わってきたのは判る。子どもの自分だって、これほど女について知り尽くしている男がこれまで女っ気なしで過ごしてきただなんて思わないし、信じない。
 何より、彼ほどの美貌で社会的地位もある男なら、女の方が放っておかない。恐らく、その女たちの一人が涼子という女なのだろうということも。
 もちろん、好きな男が別の女とベッドを共にしたりするのが嬉しいわけじゃない。でも、それが過去のことなら、愛奈は何とか受け容れられる。大切なのは未来、これからではないだろうか。たとえ拓人が涼子とどれだけの夜を共にしていようが、愛奈にプロポーズするために、きちんと彼女との関係を清算し愛奈一人に誠実に向き合おうとしてくれたのなら、それで構いはしない。
 涼子のことも、拓人に逢ったら、ちゃんと訊ねてみよう。二人のこれからのためにも、どんな小さなしこりでも残しておかない方が良いのだ。
 愛奈はあたかも向こうに自分が進むべき未来への道が続いているかのように、真っすぐに前を見つめた。丁度その時、ボディガードが運転する車がマンション前の駐車場に止まった。