更に数時間が経った。午後七時、愛奈は浴室でシャワーを浴びた後、部屋でじゃれつく子猫と遊んでいた。今はエメと無邪気に何も考えないで遊んでいられるのがせめてもの救いだ。
 七月に入り、随分と陽が長い。陽は漸く暮れたばかりで、まだ西の空の端はうっすらとかすかに朱(あけ)の色をとどめて昼の名残を残している。
 汗ばむ季節なので、室内は緩く冷房を効かせている。その時、しじまを破って、ケータイが鳴り響いた。
「もしもし」
 二つ折りケータイを開くのももどかしく手に取る。思ったとおり、かけてきたのは秘書の佐伯だった。
―奥さま、朗報です。社長のご無事が確認できました。
 何と拓人はその事故に遭ったバスには乗っていなかったとのことだ。山の天候は気まぐれだ。拓人が山上の村を訪れていた最中、急に晴れていた空が曇り、にわか雨が降った。その悪天候のため、拓人は村人に引き止められ、本来乗るはずの次のバスに乗って山を下りたとのことだ。
 だから、生存者・死亡者ともに名簿に名前がないのは当然である。
―神さま、ありがとうございます!
 愛奈はこれまで高校受験のときくらいしか神仏に祈ったことはないけれど、この瞬間だけは心から神に感謝した。
 やっと拓人への気持ちに気づいたのに、もう遅すぎるのではと後悔の念に押し潰されそうだったのだ。
「エメ、お前をここに連れてきてくれた人が無事だったの。拓人さんが生きていたのよ」
 愛奈は子猫を膝に抱き上げ、人間に対するように語りかけた。子猫は利口そう瞳をくるっと動かし、本当に愛奈の言葉を理解しているようにも見えた。愛奈の瞳からひと粒の涙が溢れ、白い頬をつたった。

 二日後、予定より一日だけ遅れて拓人が帰国した。愛奈はボディガードに頼んで、空港まで連れていって貰うことにした。
「良いのかな。ボスに無断でこんなことしても」
 と、流石にこれには渋ったが、愛奈がどうしても迎えに行きたいのだと言うと、渋々、言うことをきいてくれた。
 拓人は羽田空港まで国際線で帰ってきて、そこからは国内線に乗り換えてI空港に到着する予定だ。マンションから空港までは車で一時間ほどだから、迎えにいけないことはない。
 手持ちの服はないので、制服を着た。
 午後一時、拓人の乗っているはずの飛行機が空港に着陸する。ゲートが開き、次々に昇降客がロビーに溢れ始めた。
 正面玄関へと続く長いエスカレーターの上方に長身の男が立った。どこに行っても拓人のルックスの良さと圧倒的な存在感は目立つ。通りすがりの若い女性がちらちらと彼を見て通り過ぎていくのが愛奈には判った。
 拓人の背後にはぴったりとビジネススーツ姿の男が寄り添っている。あれが秘書の瀬道だろう。
 エスカレーターが下に到着し、拓人がロビーへと足を踏み出す。
「拓人さん」
 愛奈は彼がこちらに気づく前に叫び、走り出していた。今日の彼はビジネススーツではなく、半袖のカーキ色のポロシャツ、グレーのズボンといったカジュアルな格好である。愛奈に声に気づいたのか、彼がかけていたサングラスを外した。
 その眼が愕いたように大きく見開かれる。
 走ってきた愛奈を拓人は愕きながらも、両手をひろげて受け止めた。
 いつしか忠実な秘書の姿はどこかへ消えている。気を利かせたに違いなかった。
「無事だったのね。私、ホントに心配したのよ。死んじゃったんじゃないかと思って」
 拓人が優しい笑みを浮かべた。
「馬鹿だな。俺がお前を置いて、一人で死ぬわけないだろうが」
 拓人は愛奈を抱きしめ、耳許で囁いた。
「迎えにきてくれて、嬉しいよ。それに、お前が泣くほど俺のことを心配してくれたのも」
「泣いてなんかないもん」
 愛奈が持ち前の負けん気ぶりを発揮すると、拓人はまた笑った。
「まあ、お前がそう言うのなら、それでも良いさ」
 彼がポロシャツの胸ポケットから小さな箱を取り出した。
「これをお前に」
 黒色の小さな箱にピンクのリボンが付いている。愛奈は渡されたそれを静かに開けた。
「あ―」
 箱の中から現れたのはベージュ色をした薔薇の形の石だった。そっと指で持ち上げてみると、石にワイヤーが巻きつけられていて、ネックレス仕様になっている。
「綺麗」
 愛奈は眼を輝かせた。
「これはデザートローズといって、砂漠でしか取れない珍しい石なんだ。普通、プロポーズするときはダイヤモンドだろうけど、これもあまりに定番すぎるだろ。だから、これを婚約指輪の代わりとして贈るよ。俺の嫁さんになってくれ、愛奈」
「この石を買うために拓人さんは事故に遭うところだったのね」
 愛奈がしみじみと言うと、拓人が眉を寄せた。
「何でお前がそれを知ってるんだ?」
「瀬道さんに聞いたの」
「あいつ、お喋りなヤツだな」
 拓人はぼやいたが、口調ほど怒っている様子はなく、むしろ面白そうな表情である。
「ありがとう、歓んで頂きます」
 愛奈の言葉に、拓人が息を呑んだ。綺麗な顔には〝信じられない〟と書いてある。
 愛奈は微笑んだ。
「でも、これからは無茶はしないでね。私は宝石も何も要らない。拓人さんさえ側にいてくれれば、それで良いの」
「おい、愛奈。俺は今、夢を見ているのか?」
 拓人はまだ夢見心地のような顔をしている。
「俺はお前に対して酷いことばかりした。そんな俺をお前は嫌っていたはずなのに」
「もう一度、最初から始めましょう。今、この場所から」
 愛奈は拓人の眼を見つめながら言った。もうこの男の傍以外に私の居場所はない。想いを込めた瞳の中に愛奈の固い決意を見たのか、拓人が頷いた。
「そうだな。俺はお前を手に入れたいと焦るあまり、やり方や順番を間違っていた。もう一度、俺にチャンスをくれ。俺には一生、愛愛奈だけだ。この世の誰よりも幸せにするよ」
 拓人は愛奈から砂漠の薔薇(デザートローズ)を受け取る。彼女が解き流した長い髪をかき分け、細いうなじを差し出すと、そっとネックレスをかけた。制服の胸許に純白の薔薇が今、たおやかに花ひらいた。

☆☆

 その夜。
 マンションの寝室で拓人と愛奈は十日ぶりに身体を重ねた。
「ありがとう、俺にもう一度、幸せになれるチャンスを与えてくれて」
 拓人が愛奈の身体中にキスの雨を降らせる。二人ともすべてを脱ぎ去り、一糸纏わぬ姿だ。
 涼子のことについて訊ねた時、拓人は彼に応えられる限り、誠実に向き合って応えてくれた。愛奈の想像どおり、拓人は確かに二年間、涼子と愛人関係にあった。が、拓人の心には常に愛奈の存在があり、彼は愛奈との結婚を決意したのを契機に涼子に別れ話を切り出した。
 そのため、嫉妬に狂い拓人を失うまいとした涼子が一方的に愛奈に嫌がらせを仕掛けてきたのだ。
 その後、拓人は涼子に以前に提示した手切れ金代わりの慰謝料に更に上乗せした金額を進呈しようとしたが、涼子は
―馬鹿にしないで。ここまでして別れようとする男に追いすがるほど、未練がましくも男に飢えてもいないわ。
 と、それらをすべて突き返してきたという。
 いかにもあの女らしい啖呵の切り方だと、話を聞いた愛奈は納得できた。恐らく涼子は涼子で、拓人に本気だったに違いない。拓人という男を間に挟んでの出逢いでなければ、あの涼子という女とは歳は違っても良い友達になれただろうのにと少し残念だ。
 拓人が愛奈に覆い被さっている。彼の腕が彼女の顔のすぐ側にあり、彼女は逞しい腕に閉じ込められた形だ。だが、互いの想いを確かめ合った今、この男の腕に閉じ込められるのはけして嫌ではない。
 囚われた小鳥は籠から飛び立つのではなく、自ら籠を自分の生きる世界だと定めたのだ。けれど、拓人はもう二度と愛奈を狭い鳥籠に閉じ込めようとはしないだろう。愛奈は何故か、そんな確信があった。
 拓人の唇が静かに降りてくる。自ら腕を伸ばして彼を引き寄せ、そのしっとりとした感触を受け止めながら、その夜、愛奈は世界中でいちばん幸福な花嫁となった。
               
                                                                     (了)

    
 




ヒナゲシ
 花言葉―恋の予感、未来の恋。別名、虞美人草、ポピー。 
     

デザートローズ
 宝石言葉―愛と知性。
 不必要な人との縁を切る、寛容さと深い愛情を育む。深い愛情を持って人と接することを可能にしてくれるパワーストーン。
 砂漠の砂の中から見つかる薔薇の花に似て美しい鉱物。別名をサンドローズともいう。花びら状の形が薔薇に似ていることからこのように呼ばれている。
 自分に本当に必要な人を見極め、その人との縁を取り持ってくれると共に、逆に不要な縁、害をもたらす人との縁は後腐れないように断ち切ってくれる効果あり。