木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

2010年11月

No 9  香嵐渓(2)

2010.11.20(土)、TVの宣伝に乗せられて、香嵐渓にやって来て、第一報を先日当ブログでたっぷりと紹介したが、未だ足りない、それほどに紅葉が美しかったのである。

今更申すまでも無いが、どの写真も同じような駄作ではあるが、私にとっては思い出のひとこまひとこまであり、是非見てもらいたいので、敢えて掲載させて戴くものである。

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以上にて、2010年の香嵐渓の紅葉は完結とするが、紅葉は未だ未だ終わらないのである。
                                    
                                                                                                     完

No 8  直指庵

2010.11.18(木)、秋の京都、嵯峨野を歩きもみじ狩りを、今日は”T"さんと二人で楽しんでいるのであるが、その5番目に訪れたのは嵯峨野の一番奥、「北嵯峨」と呼ばれるあたりにひっそりと佇むのが「直指庵」である。

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 「直指庵」  (拝観料 ¥500)
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ウイキペディアによれば・・・・・
直指庵(じきしあん)は、京都市右京区にある浄土宗の寺院。山号は祥鳳山。寺号はない。本尊は阿弥陀如来。隠れた秋の紅葉の名所としても知られている。江戸時代の1646年(正保3年)に独照性円が没蹤庵を建てたのに始まる。名前の由来は独昭禅師が黄檗禅の正統さを「直指伝心」することを旨としたことによる。その後荒廃し、幕末に浄土宗の寺として再興されたのが現在の直指庵である。再興時の建物は明治年間に消失し、現在の建物は1899年に再建されたものである。

来訪者が想いを綴る「想い出草」というノートがある。1965年頃から始まったとされ、現在では5000冊以上に上るという。秋の特別公開時には寺宝とともにノートが公開されている。一部書籍やWebサイト等で「(女性の)駆け込み寺」「想い出草は女性の想いを綴ったもの」と紹介されているが、直指庵の公式サイトではこのような事実はなく誤りとしている。もちろん男性の拝観や「想い出草」への書き込みも可能である。境内にはモリアオガエルの生息地がある。


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「直指庵」と言えば、幸せに見放された女が救いを求めて来る所らしくひっそりとしているのが、あたかもそれらしき雰囲気かと思いきや、ウイキペディアによると、そうでもないらしいが、真実がどうかは別にして、そういう寂しさが漂う寺として置いた方が私は好ましいと思うのである。
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この「直指庵」も紅葉のきれいな所として、紹介されることは多いが、今日のこの色はどうしたものであろうか?。ここより少し北で標高も高い神護寺があのように赤く色付いているのに、ここは未だ先だと言う顔をしている。原因は相当に不幸な女が転がり込んでいるのかも知れない??。そうか!、ならば、そっとして置こう!。

道中で見つけた、「皇帝ダリア」が見事に咲いていた。

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大覚寺の駐車場に戻ったが、早くも15時を大きく回ってしまった。この次の訪問予定地は「清涼寺」と決めていたが、帰りのバスは17時30分に京都駅八条口を出る便を予約しているので、もうひとつ訪問するには時間が足りないし、混雑する市内を走ってもらわねばならないので、残念ながら、本日の京都歩きは”これまで”としたのであった。

今回は京都の”T"さんに車を運転して戴き、大変に楽な”京都てくてく歩き”(総歩行数16302)が出来たし、また、流石は京都の紅葉、息をのむ美しさも堪能させてもらったし、一人で歩くも気ままながら、道中のおしゃべりも楽しむ事が出来、本当に楽しい一日であった。
”T"さんありがとう。

                                      完

No 7  大覚寺

一眼デジカメを持った時点を”再京都元年”として、京都の名だたる所をシラミ潰しに写真を撮りまくろうと一昨年から始めたのであるが、今回は高尾等の所謂「三尾」と嵯峨野に絞った。

時あたも紅葉の季節、京都のお友達”T"さんの愛車のお世話になりながら、「高山寺」「西明寺」「神護寺」と回って、「三尾」を終了し、嵯峨野に向かい、最初は「大覚寺」に入った。

ご存知の通り、ここは「旧嵯峨野御所」と言われるところ、入り口からして風格が違う。


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 「大覚寺」  (拝観料 ¥500)
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ウイキペディアによれば・・・

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。

時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている

嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。

鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。

このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。

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嵯峨菊の展示があったが、余りにも改まった感じがあって、近寄る人もなく(?)・・・・・
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「嵯峨菊」
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「大沢池」
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京都は訪れる人が多いが、今は紅葉のシーズン、今日は平日であるが、駐車場はかなり混雑しているので、効率よく廻るためには、車を止めておいて、足で稼ぐが一番と心得て、車はここ「大覚寺」の駐車場に置いたまま、次の訪問地は約720m北方の「直指庵」に歩きはじめたが、その写真は次回に取っておきたいのだ。

                              続く 

No 6  神護寺

2010.11.18(木)、「高尾山・神護寺」にやってきた。高山寺は世界遺産でもあり余りにも有名であるから、今回3回目の訪問となったが、ここは紅葉の名所と宣伝されていたので、今回初めての拝観とした。

今回は京都のお友達”T"さんのお世話になり、名神高速道を走る定期バスで「京阪五条」というバス停まで来て、そこからは、”T"さんご愛用の、あの”パジェロ”に乗せてもらっての”京都テクテク歩き”なのである、そのスタートは「高山寺」、次は「西明寺」、そして3ヶ所目の「神護寺」まで歩いて来たのであった。

表参道より入る。
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 「神護寺」  楼門  (拝観料 ¥500)
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ウイキペディアによれば・・・・
神護寺(じんごじ)は、
京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。

京都市街の北西、
愛宕山(924メートル)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海東寺高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と言う。しかし、寺の根本史料である「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにももっぱら「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とあることなどから、本項でも「神護寺」の表記を用いる。

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ここでも、美しい紅葉に大満足したのであったが、こうやってブログに載せてみると、いつもの事ながら、こんなはずではなかったのにと言う程に、写真と現物の”きれいさ”の違いを認識させられるのであった。
私の使うカメラはまあまあの機械ながら、レンズ(タムロン製18~270mmズーム)は6万円余りも出したにも関わらず、プロなら見向きもしない安物であるから、自然の色合いをそのままに美しく表現することは難しいのかも知れないが、私にはこれ以上高価な”単焦点大口径レンズ”を使ったとしても、所詮は宝の持ち腐れ、結果は見えているのである。
写真を現物そのままに表現できれば、こんな嬉しいことはないが、それは私には永久に無理なように思っている。

時折小雨がぱらつくが、合羽や傘のやっかいになりながらも、余り濡れることもなくシャッターを押す事が出来た。この後、高山寺の駐車場まで戻り、あの憧れの”パジェロ”に乗せてもらって、次の予定地「大覚寺」に向かった。

                                                                              続く 

No 5  香嵐渓(1)

TVにて「香嵐渓」の紅葉が見ごろを迎えたとの情報が放映されたので、ならば行こうとしたが、その日は2010.11.20(土)、相当な混雑が予想されるが、”ままよ”と出掛けたのであった。

調べて見たら、ここに前回来たのは平成14年のこと、未だ現役のころ、そう言えば伊勢湾岸高速道が未だ運用されていなかったので、トヨタ博物館の前を通りがかり、思い付きで覗いた事を思い出した。いまは、湾岸道路の終点豊田JCTから東海環状道に入り、「豊田松平IC」で降りればほぼ一直線である。

高速道は極めて順調に走り、県道に入ると足助町が近づくに従い、車の速度はかなり落ちたが、いらいらするような渋滞を味わうこともなく、我が家から2時間足らず、午前10時すぎに到着することが出来た。駐車場も最も近いと思われる、足助支所にぎりぎりながら入る幸運にも恵まれて、お陰で歩く距離も極めて少なく済ませる事が出来た。

しかし、流石は天下の(?)「香嵐渓」、好天にも恵まれて、すでに沢山の人が訪れていた。

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広場では猿が大勢の見物客の前で仕事をしていた。
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香嵐渓はこんなものではない、まだまだあるが、それは次の機会とさせてほしいのだ。

                                      続く 

No 4  西明寺

2010.11.18(木)、京都市右京区槇尾(まきのお)町にある、「槇尾山・西明寺」にやってきた。

天気予報は晴れなれど、時折小雨がぱらつく中を多くの人が訪れて、あまり大きくはないが、早くも駐車場は満タン状態である。車は高山寺近くに止めて、そこから約800mほど歩いて「西明寺」表参道に着く。

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この川は「保津峡」方面に流れているようだ。

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 「西明寺」    表門。 (拝観料 ¥500)
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ウイキペディアによれば・・・
西明寺
(さいみょうじ)は、
京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は槙尾山、本尊は釈迦如来
高雄山・神護寺、栂尾山・高山寺とともに三尾の名刹として知られる。

寺伝によれば、天長年間(824年834年)に空海(弘法大師)の高弟 智泉大徳が神護寺の別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(1175年1178年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。
正応3年(1290年)神護寺より独立した。さらに兵火により堂塔は焼亡したが、慶長7年(1602年)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄13年(1700年)桂昌院の寄進により再建されたもの。

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西明寺裏の参道(この橋を渡る)
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さすがは紅葉の名所、たっぷりと”狩り”が出来たが、未だ京都の旅は始まったばかり、この後「神護寺」に向かうのであるが、それは後刻のレポートとしたい。

                          続く 

今年の京都の紅葉は、「三尾」方面と「嵯峨野」と決め、満を持してのお出掛けとなった。(注;「三尾」とは、高雄(尾)、槇尾(まきのお)、栂尾(とがのお)と言う山もしくは地名を言う)

今回は京都のお友達に廃材(材木)で作った、”花を生けた植木鉢などを飾る”ための粗末な出来栄えの「籠」を届けるついでもあって、紅葉狩りを同行してもらえると言う、普段は少ない、楽しい計画であった。2010.11.18(木)

いつものように新名神を走る「高速バス」を事前に予約し、前日に乗車券を購入(往復¥4000)して、バスは近鉄四日市を7時15分に出発した。高速は渋滞などなく極めてスムースに走った、京都東ICを8時40分に出ると通常の混雑にあうが、予定通り9時ごろに、「京阪五条」バス停に到着。

五条大橋のたもとのメタボ気味牛若、弁慶の前でお友達とドッキッグ、持参の籠を渡し、三菱の人気車「パジェロ」に乗せてもらう。この時期は大変な混雑と予想して来たが、例年より紅葉が少し早いせいか、左程の混雑も無く、最初の訪問地「高山寺」の駐車場に到着した(駐車料 ¥800)。

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紅葉は少し時期が早いかと思ったが、丁度一番きれいな時に来たようだ!。

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 「高山寺」

駐車場に近い裏参道より入る。(参拝料 ¥400)

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ウイキペディアによれば・・・・
高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。歴史 [編集] 高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい

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予報は晴れ、降水確率30%は当たった!。さっきまで青空を覗かせていたのに、急に雨が落ちて来たので、しばし雨やどり。

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ここには過去3回来ている、前回は15年位まえのことであるが、鳥獣人物戯画 以外は記憶が全くないが、それもそうだ、ここは質素な寺で有名だったのだ!。

帰りは表参道に出た。天気よければこのまま次の訪問地「西明寺」に向かうところであるが、雨具を車に忘れたので、念のため取りに戻って再出発したが、その後のことは、明日の巣穴(?)だ!。
                               続く

No 2

2010.11.10(水)、京都の紅葉情報を出来るだけ正確につかみたいと思い、近場の比叡山延暦寺などに来て、その帰途近くにある、「総本山園城寺・三井寺」(大津市園城寺町)に立ち寄ったのである。 (拝観料¥500)

紅葉には未だ少し早く、訪れる人も少なく、ゆっくりと見る事が出来た。

「仁王門」

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ウイキペディアによると・・・
園城寺
(おんじょうじ)は、
滋賀県大津市にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。
三井寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀にから帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上たびたびあった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。(中略)
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。


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「釈迦堂」
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「金堂」
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「弁慶引摺りの鐘」
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「一切経蔵」
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「三重塔」
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「観音堂」は修復工事中
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簡単ではあるが、三井寺の紹介は以上である。
                                                                                           完

No 1 日吉大社

2010.11.10(水)秋晴れのすがすがしい今日は、未だ紅葉には少し早いが、比叡山に来た帰り道、滋賀県大津市にある、山王総本宮・日吉大社にやってきた。

先ずは表参道を入る。(拝観料 ¥300)

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ウイキペディアによれば・・・・
日吉大社
(ひよしたいしゃ、元は「ひえたいしゃ」)は、
滋賀県大津市坂本にある神社。俗に山王権現とも呼ばれている。日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。旧社格官幣大社中世には二十二社の下八社のひとつとされた。
西本宮東本宮を中心に、400,000m²の境内を持つ。神の使いとして崇拝することで知られている。
最澄比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。
元亀2年(1571年)、織田信長比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉は当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。昭和初年に元の形に復した。

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「西本宮楼門」
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「西本宮本殿」
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ここは比叡山へ上がるための「坂本ケーブル」というケーブルカーへの乗り場のすぐ近くに位置している。また、琵琶湖の岸辺までは200mくらいの所に鎮座している神社である。

                          以上

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