木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

2011年03月

2011.03.23(水)、先日「サトウニシキ」という桜の花などを撮らせて戴いたお宅にて、更にいくつかの花が咲き始めたので、再度お邪魔した次第である。


「ショウジョウバカマ(猩々袴)」  ユリ科
早春を告げる花は、先ず花芽が伸びないうちから開き始める(下)。
長年、この花は見ているが、このような形は初見だ。

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花の茎が伸びながら開花が始まる・・・・。
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開花が完成!。
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御在所岳や我が家にあったものとは、かなり全体が小さいが、別の種かどうかは不明である。

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「バイモユリ(貝母百合)」別名:アミガサユリ  ユリ科

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ちょっと失礼して、スカートの中を!。
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以下は名前を聞いてこなかった。ご承知の方がありましたら、コメント欄のでも、記入戴けると有難いです。

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名前を聞いたことは間違いないのだが、忘れてしまった!。申し訳ないが、これも教えて戴きたいのです。惣菜に付けるものだそうですが・・・・。
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名前を聞いたら書こうとメモは持ってるのに、書く事を忘れてはどうにもならない。
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そして、更に別のお宅にお邪魔して・・・・・

「ヒマラヤユキノシタ」 ユキノシタ科
当ブログ初登場である。

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以上、今回も戴き物でまとめました。

2011.03.20(日)、東名阪道「鈴鹿IC」の近く、花川町と思しき地に、恐らく販売目的で生育と陳列をされている所、言わば”しだれ梅畑”が大変きれいと聞いてやって来たのである。

いやー!、きれい!。
流石は商品であるだけに、念入りの育成、手入れがされていて、見事!。

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河津桜?
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しだれ梅が見事に着飾って、お婿さんが迎えに来るのを待っていた。この嫁さん貰うのに、結納金はどれくらいなのかと、凡人は無粋なことが頭をよぎる。


2011.02.02(水)、御所の近くの「清浄華院」から始めた、京都てくてくも次が予定の10寺目になる、既に足の痛みはひどくなって来たが、未だ15時にもなって居ない、折角きたのだからと、自らを励まし歩いた。

本能寺跡から南西方向、四条通と烏丸通を横断しながら、約1.4Kmを歩いた。


洛中古寺シリーズ(10)仏光寺(ぶっこうじ)

   所在地  下京区高倉通仏光寺下ル新開町397
   宗派    真宗仏光寺派本山
   拝観    境内自由
   東西本願寺に次ぐ方城を構え南北朝、幕末維新には女性が門主に。


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佛光寺(ぶっこうじ)は、京都府京都市下京区にある真宗佛光寺派の本山。山号は、渋谷山(汁谷山)。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 - 1400年代前半)は、同じ浄土真宗の本願寺をしのぐ勢力があった。「仏光寺」とも表記されるが、正式には「佛光寺」である。承元元年(1205年)、専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞は越後国に配流された(承元の法難)。寺伝によると、親鸞は赦免の翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し、順徳天皇より聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、「興隆正法寺」と名づけた。これが後の佛光寺で、親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ、その後、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。しかし、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには寺伝以外の根拠に乏しく、史実としては、配流先の越後より直接関東方面へ向ったとする説が有力である。[1] 佛光寺教団の直接の母体は、武蔵国の荒木門徒(第3世源海)、阿佐布門徒(第4世了海)である。存覚の協力と時衆の影響の下、光明本尊・絵系図・名帳などの媒体を用いて布教活動に力を入れ、精力的に西国の布教をおこなう。結果、畿内以西の真宗念仏宣布の根本法城となった。これに対して本願寺第3世法主覚如は、建武4年(1337年)に『改邪抄』を著し、絵系図などを真宗にあらざるものと批判する。元応2年(1320年)、第7世了源により、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都東山に移すべく、山科から今比叡汁谷(しるたに)または渋谷(しぶたに)(現在の京都国立博物館の辺り)に寺基を移した。史実としての佛光寺は、了源が山科に建てた草庵を今比叡汁谷に移して寺格化したことをもって開創とする。佛光寺の寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来する。これにより「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、それを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したともいわれる。元亨元年(1321年)、覚如により親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を寺院化し、「本願寺」と号する(〈大谷〉本願寺の成立)。寺基の移転にともない佛光寺は、多くの参詣者を迎え隆盛をきわめる。一方の本願寺は、当時は青蓮院の末寺に過ぎず、第8世法主蓮如の時代の寛正6年(1465年)1月9日に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却されるまで次第に荒廃していく。佛光寺は、興隆にともない天台宗・延暦寺の弾圧が強まっていく。応仁元年(1467年)、第13世光教の時に応仁の乱が起こる。京都の街は戦火に巻込まれ、佛光寺も諸堂を焼失する。乱のさなかの文明3年(1471年)、蓮如は吉崎で布教活動を開始し本願寺教団は急速に発展していく。文明13年(1481年)には、第14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として別に創建、48坊のうち42坊など有力末寺とともに本願寺に帰参してしまった。佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。残った有力末寺6坊は、経豪の弟経誉を知恩院からよび戻し、佛光寺第14世とした。以上の経緯から経豪は佛光寺歴代に数えられていない。天正14年(1586年)に豊臣秀吉の懇請により、寺基を五条坊門の龍臥城(現在地)に移す。「仏光寺通」という通りの名前にもなっている。
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洛中古寺シリーズ(11)「因幡薬師堂(いなばやくしどう)」、またの名を「平等寺(びょうどうじ)」

   所在地  下京区松原通烏丸東入ル因幡堂町728
   宗派    真言宗智山派
   拝観    境内自由
   千年以上変わらぬ場所に佇み、安産、病気平癒に霊験あらたか。   

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平等寺は、京都市下京区にある真言宗智山派の寺院。山号は福聚山。本尊は薬師如来。因幡堂、因幡薬師の名で親しまれている。観音堂(十一面観音像を安置)は洛陽三十三所観音霊場の第27番札所である。京都十三仏霊場第7番。 『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに創建の由来が書かれている。縁起は諸本によって内容に若干の違いがあるが、おおむね次のような話である。大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(ゆきひら)は、長徳3年(997年)、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、重い病にかかった。ある夜、行平の夢に貴い僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に貴い浮き木がある。それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。それを引き上げてみよ」と言う。行平が賀露津の漁師に命じて、波間に光るものを引き上げてみると、それは等身の薬師如来の像であった。この薬師像を祀ったところ、行平の病は癒え、京に帰ることができた。この薬師像は天竺(インド)の祇園精舎の四十九院の1つ、東北療病院の本尊であった。行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束して因幡を後にしたが、その後因幡を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎた。その後、長保5年(1003年)4月7日のこと、行平の屋敷の戸を叩く者がある。戸を開けてみると、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。これが因幡薬師平等寺の起源であるという。なお、薬師如来像が引き上げられた年を天徳3年(959年)とし、行平は勅命で因幡国一宮に参拝し、京に帰ろうとした際に病気になったとする縁起もある。一説に薬師仏は因幡国にあった在地豪族・因幡氏の氏寺の薬師寺に安置されていたといい、行平が京都へ持ち去ったとされる。南都における寺院勢力の強勢振りを嫌い、平安京内には、官寺である東寺・西寺以外に寺院を建立することは禁止されていた。ただし、貴族の持仏堂は、建立が認められていた。本寺も、これに相当する。また、六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)のような、町堂(辻堂)の建立も認められていた。因幡堂も、これらと並んで町衆の信仰を集めた町堂の代表格である。

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「平等寺」を出て、烏丸通(国道367)に出て南下、数百メートルで五条通(国道1号)に出る、これをさらに東に300m程行き、やや斜めの道、富小路通に入り、200m余りで、お目当ての「長講堂」に着くが、門が閉ざされており、断念せざるを得なかった。

この辺りは「本塩竈町(もとしおがまちょう)」と言うが、ここも小さめの寺が密集しているが、門を開けている所は少ないし、何よりも足の疲労が限界を超えており、時刻は未だ15時になったばかりではあるが、ビールが頭の中に充満してきたので、足は頭とは別に京都駅(約1.5Km)に向っていた。(本日京都を歩いた地図上で計った距離は約9.3Kmであった)

駅ビルでビールにありついたのが、15時50分、少し早目の乾杯であった。
本日ここまでの歩数は実に19、908歩足腰が痛くなるのは当然のこと、体力の衰えはどうにもならない。ま、ここまで安全に、楽しく来れたのだからと、自らを慰め”鳥から揚げ”の味を噛みしめるのであった。

かくして、今回の”京都てくてく”は締めるが、合計するとお寺が11、神社が2、他に御苑と市役所も表だけであるが、見る事が出来、上出来と数の上では納得した。

前に書いた、京都の主要寺院168に対して、今回分を加えると、訪れた寺院の合計は63となり、その38%達成となった。未だ未だ行く所は多くあるのだ!。

なお、”感動度(?)”は余り高くなかった。それは真冬に古寺を廻るという企画に起因していることと思い、総合的には略満足な一日であった。(本日の総歩数22,965)


合計11編と言う、長編”洛中散策”もようやくこれにて完結した。お粗末な内容ながら、ご覧戴いた方々には、心から感謝申し上げる次第である。
桜のシーズンが来たら、再度歩いて見たいと思い、その時期を待ち焦がれているが、それまでに震災で被害に遭われた人達が落ち着かれる事を祈るばかりである。

                                       完


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今年咲いた我が家のクリスマスローズを紹介している。
各花に付けた数字は、種類別に付けた掲載順の番号であるが、厳密な区分はしていないので、或いは重複があるやも知れない。  撮影日 2011.03.02(水)

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ウイキペディアによれば・・・

ヘレボルスHelleborus)はキンポウゲ科のクリスマスローズ属に分類される植物の総称。ヘレボラスともいう。

クリスマスローズ」という呼称はクリスマスのころに開花する「ヘレボルス・ニゲル」だけを指した呼称であるが、日本の園芸市場では「レンテン・ローズ」と呼ばれる「ヘレボルス・オリエンタリス」なども「クリスマス・ローズ」の名前で出回る。多くの品種は、クリスマスのころではなくに開花する

自生地

「チベタヌス」が中国四川省から雲南省にかけて自生しているのを除けば、15の原種の全てが、東ヨーロッパからバルカン半島からトルコシリアに自生している。

20世紀後半の品種改良は主にイギリスでヘレン・バラード氏や、エリザベス・ストラングマン氏によって進められた。「クリスマスローズ」という呼称も「イギリスのクリスマス」に開花するという意味である。

夏は休眠状態となり根は活動を休止し、呼吸しているだけの状態となる。


花に見える部分は植物学上では「花」ではなく「がく片」という部分である。そのため「鑑賞期間」が比較的長い。 ただし本来の花弁も蜜腺として残り、これが大きく発達したものを選別した品種もある

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背景が変わると、花の色も大きく変わるが、実は同じ花なのだ!。

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この後、未だ数種類あるが、後報としたい。
相変わらず、内容の全くない、つまらないブログで申し訳ないと思ってはいますが、今の所何ともなりません、悪しからずご理解賜りたく思います。




お知らせ!
 ”花図鑑”がさらに充実しました!。 機会があればご覧下さい。
    http://sky.geocities.jp/spdpn334/hzukan-index.html
          3/24現在 386種の花を掲載中。


洛中古寺シリーズ(9) 「六角堂(ろっかくどう)」、正式には「頂法寺(ちょうほうじ)」

            (京都てくてく記の終盤)

   所在地  中京区六角通東洞院西入ル同之前町248
   宗派    単立
   参拝    境内自由
   親鸞ゆかりの寺、華道発祥の寺、西国三十三ヵ所札所としても著名。

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ウイキペディアによれば・・・・・頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。西国三十三箇所第十八番札所。本堂が平面六角形であることから、「六角堂」の通称で知られる。華道の家元・池坊の発祥の地としても知られる。寺伝によれば、延暦13年(794年)の平安遷都以前の創建で、開基は聖徳太子であるという。『六角堂頂法寺縁起』は次のように伝える。聖徳太子は、蘇我氏と物部氏との戦いに崇仏派の蘇我氏が勝利した後、報恩のため四天王寺を建立するが、そのための用材を求めてこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木に衣服とともに持仏の如意輪観音像を収めた箱を掛けておいたところ、如意輪観音像は重くなり動かなくなってしまった。夢告によりその観音がこの地にとどまり衆生を済度することを希望したので、その観音像を現在地に安置し、近くにあった杉の巨木を伐採して六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりという。観音像は、太子の幼少時、淡路の海で水浴している時に隋から流れついたもので、像高一寸八分、太子の前世の守り本尊であったものと伝承する。

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この御堂が六角形をしていることから「六角さん」と親しまれているとか。
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「地ずりの柳」、縁むすびの柳とも言われ、二本の枝を寄せて、おみくじを結ぶという。
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聖徳太子沐浴n池の跡というこの池の太子堂には、太子二歳像を祀っているそうだ。
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「へそ石」 京の中心を示す。あるいは当初の本堂の礎石という。
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ここの鳩は随分と人慣れしていて、これだけ近くでもポーズ(?)取ってくれた。
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この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭(たっちゅう)で、頂法寺の本坊にあたる池坊(いけのぼう)が執行として代々経営・管理に当たってきた。池坊の名は、聖徳太子が水浴したという池(又は井戸)にちなんでなづけられたものである。池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることとなっており、花の生け方に別格の妙技を見せることで評判となっていたことが15世紀の記録に残されている。文明年間(1469年-1486年)に池坊12世専慶が立花(たてばな)の名手として知られ、ここから池坊としての立花が生じ、天文年間(1532年-1555年)には、池坊13世専応が度々宮中に招かれて花を立て、また「池坊専応口伝」を表して立花の理論と技術を初めて総合的に体系化した。

池坊の本拠ビル
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この時点で、もうすでに足は疲労の限界、しかし、時間は未だ2時、もう少し頑張ろうと思い足を引きずって次に向う。



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2011.03.20(日)、今日は地区で「クリーン作戦」と称した、地域からゴミを無くす運動に参加したのであるが、”ゴミゼロ”意識が高まったのか、目立つゴミは殆ど無く、空き地を中心に歩いてプラスチック片などを少し拾って1時間程度で終わった。

ゴミが無いものだから、自然と目は花に向うが、厳しかった冬も漸く終わりが近づき、三寒四温ながら、ここの所暖かい日があったので、それを待ち兼ねていたように、早春の花が開き、私を盛んに誘っているではないか!。

既にご案内の通り、「花図鑑」を作り始めたので、あちこちの今まで撮って無い花につい目が行くようになった。「他所の花は美しい」と言うが、正にその通りであり、それを欲しがるのは”はしたない”としていたが、そうは言って居られなくなったのである。

それで、遂に長年の”禁”を破り、お許しがあったお家に限り撮影をさせて戴いたのである。
我が家にはありきたりの花しかないが、それぞれのお宅には、美しく珍しい花が沢山ある事に気が付いたのである、遠い所に出掛けなくてもである。
それで今日のブログはご近所からの”戴きもの”でまとめたのである。

最初は「ヒメリュウキンカ(姫立金花)」である。  キンポウゲ科

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我が家には、この八重咲きがあったが、いつしか居なくなってしまった。

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「ヒュウガミズキ(日向水木)」 別名:イヨミズキ  マンサク科サミズキ属

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「サンシュ」  ミズキ科ミズキ属

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庭のさんしゅう~の~木~~の出だしの歌は、ご存知「ひえつき節」であるが、恥ずかしながら、私はてっきりこの「サンシュ」の事かと思っていたが、今日念のために調べて解ったが、歌のは「山椒」のことであった!。

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「ミモザ」  マメ科ウジギソウ属

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「ヒイラギナンテン(柊南天)」 メギ科ヒイラギナンテン属

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「サトウニシキ(佐藤錦)」  バラ科サクラ属

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サクランボ用の桜らしいが、開花が随分早いし、シベがかなり大きいのが特徴のようだ。

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純白で小型の「スイセン」

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「花図鑑」には当然掲載するが、「スイセン」以外は新規登録(新しい花)とする。

なお、3/19現在346種類の花を掲載しているので、ご覧下さい。
     http://sky.geocities.jp/spdpn334/hzukan-index.html

少々時期がずれてしまったが、2/2の京都洛中てくてく歩き道中記の続編である。
この前に紹介した「誓願寺」からは200m位で、同じように商店街アーケードに面している。


洛中古寺シリーズ(7) 誠心院 (じょうしんいん)
   
   所在地  中京区新京極通六角下ル中筋町
   宗派    真言宗泉涌寺派 
   拝観    境内自由
   情熱の平安歌人として知られる、和泉式部の墓がある。

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住職の言葉・・・
誠心院は、以前は「じょうしんいん」と申しましたが、先代住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれています。
 寺伝に依りますと、初代の住職は平安の歌人和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼と申します。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、書写山円教寺の性空上人に勧められ誓願寺の本堂に籠りご本尊に教えを受けます。女人の身でも六字の名号をお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ浄土へ往生しました。
 上東門院彰子が父藤原道長に勧め、法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、東北寺誠心院としました。(現在の京都御所の東、荒神口辺りでした。)時に万寿四(1027)年の事です。鎌倉期には小川通りの一条上ル誓願寺の南に移転しました。この頃に泉涌寺の末に成ったようです。
 その後、天正年間に豊臣秀吉の命令で現所在地、寺町六角下ルに移転されました。禁門の変による元治元年(1864年)の大火から立ち直る間もなく、明治四年京都府知事の命令で、境内に新京極通りが通り境内地は二分されます。山門をはじめ堂宇を失い、将に寺門は荒廃を極めました。雲龍院からお越しの泉周応宗師を始め、箸蔵栄龍、曽我部俊雄、向井俊恭の四代の先住様方の弛まぬ精進と、檀信徒の惜しみない助力のお蔭で、平成九年の末、山門の建設が成った時には、檀信徒一同その喜びは一入でした。
 現在、天正年間に建立された「阿弥陀如来と二十五菩薩石像」を再建。また、「百親音巡拝」成満を記念して、「式部千願観音(和泉式部の面影を偲ぶ、千人の願いを込めた、万人に利益を施す聖観音菩薩と言う思いです。)」と「百八観音」、「神変大菩薩」の石像が建立出来ました。今後も事業の完成を目指して精進して行きたいと思います。

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「新京極商店街」「誠心院」のお隣が「永福寺」なのだ。

洛中古寺シリーズ(8)「永福寺」、またの名を「蛸薬師堂」

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人の往来が激しい新京極にオアシスのようなたたずまいの蛸薬師堂
病気平癒厄難消除に霊験あらたかな蛸薬師如来を奉る。

蛸薬師堂にはこんな話が伝わる。
病気の母を持つ僧侶の善光は「大好きな蛸を食べれば病気が良くなるかもしれない」
という母の言葉に悩む。僧侶の身で蛸(なまもの)を買うことは許されない。

しかし、母を助けたい一心で善光は蛸を箱に入れ買ってしまう。
すると町の人々が後をつけて来て、箱の中をみせろと責め寄る。
困った善光が祈りながら箱を開けると蛸が八軸の経巻となり霊光を放った。
驚いた人々が合掌し、南無薬師如来と称えるとふたたび蛸に戻り、
御池に入って輝いた。その光が善光の母を癒したとのこと。

この蛸薬師如来様は身体、心の病気、子宝、財産などあらゆる願いを叶えてくれるとされる。


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永福寺を出て、さらにアーケード街を行く。
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大好きな漬物が並ぶが、ぐっと堪えて先へ進む。
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商店の壁に京都らしい飾りが・・・
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知られて無い古寺ばかりで、飽きたと言われそうだが、まだまだ続きます。




過去のブログを整理分類した、”ブログの索引”へはこちらからどうぞ。
     http://sky.geocities.jp/spdpn334/blog-index/blog-index-1.html

2008年4月に始めて待望の一眼デジカメを購入して以来、気が狂ったかと思われる程に写真を撮りまくり、2011年2月末現在で7万枚目を超えた。すなわち2年11ヶ月の間、平均すると月に2千枚、一日は66枚という計算になる。

この膨大な”資産(?)”を単に保管するだけでなく、何とか活用したいと予てから考えていた。それで、先日、「ブログの索引」を作ってみたのであるが、これだけでは、充分活用しているとは言えないので、改めて考えて見たのである。

撮った写真の中身を見ると、圧倒的に「花」が多いので、花の図鑑が出来ないかと考えたのである。「ブログの索引」でも似たようなものはあるが、これはあくまでも、”見たいブログのページ”を直接出せるようにしただけであって、その中身、例えば「特定の花」で検索しても、その花にたどり着くには、ブログの中をスクロールしなければならない面倒くささがある。

また、写真は撮ったが、ブログに載せるには枚数が足りないとか、写真の出来が良くないとか、ひとつのブログとして余り写真の枚数が多いと見る人に飽きられるから掲載を遠慮するなどの理由で、埋もれた傑作(???)写真が相当多く存在する。

桜や梅、蓮や睡蓮など主要な花は、毎年の様に撮ってるが、これを時系列的に見たい、または、各地の花を比較して見たいなどの要望があるかも知れないので、同じ花は一か所にまとめて簡単に見られるようにして置きたいと思うのである。

それで考え付いたのが、ブログ作成方式で、「花の図鑑」を作ることである。一般のブログは発行日別、タイトル別に順次公開して行くものであるが、この「花図鑑」の場合は少し違って・・・

① 各花毎にひとつのページを形成し、撮影の時期や場所を変えて同じ写真を撮った場合は、そのページの先頭に追加して行くのである。(古いものも原則残す)
② 今まで撮ったことのない、花が現れた場合には、始めて新しいページを追加する。

③ 「花図鑑」のどのページからも、「検索」蘭に花の名前を入れれば検索することが出来る
④ ホームページから、「木燃花図鑑」をクリックすれば、花図鑑専用の索引が現れるので、そこから全ての花にダイレクトに行けるのである。

⑤ 近い将来は、花の名前を知りたい時のために、花の色などで、またはサムネイル画像から検索出来るようにするなどの改良を考えている。

前回、全てのブログを対象にして「ブログの索引」を作り、そこで抽出した花の種類は311であった。(ブログに掲載した名前の判明しているもの)
   http://sky.geocities.jp/spdpn334/blog-index/blog-index-1.html

写真は7万枚撮ったが、取捨選択により、原版を残しているのはその内の約40%、3万枚弱と考えられる。現時点では、その内の約半分強を抽出したにすぎないが、既に300種類を超えたので、”暫定的”ながら公開することにした。下記をクリックすると目次ページに行けるので、そこから各花に直接行く事が出来るようになっている。
 
   http://sky.geocities.jp/spdpn334/hzukan-index.html


なお、「クレマチス」と「テッセン」など、花の名前には別名もあるので、比較的よく使われる名前は、どちらからも同じ花に到着出来る。

桜など人気の花(?)は、「サクラ」の他に、「ヤマザクラ」や「ヤエザクラ」などと分けて別に掲載しているものもある。
この辺りの区分はかなり、独断と偏見に満ち溢れている事を詫びねばならない。

また、例の如く花の名前には間違いがあるやも知れないので、もしもお気づきの際は「コメント」などに、率直にご指摘を賜りたいと思っている。

では、暇と時間を持て余して居る方はご覧戴きたい。

前の訪問地「矢田寺」から、「寺町京極」商店街を南下、300mも行かずに到着した。


洛中古寺シリーズ(6) 誓願寺 (せいがんじ)
   
   所在地  中京区新京極通三条下ル桜之町453
   宗派    浄土宗西山深草派総本山
   参拝    境内自由
   落語の始祖、安楽庵策伝ゆかりの寺


「寺町京極」商店街
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アーケード街の途中にあるオアシス。
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オアシスの前が「誓願寺」だ。
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下の「迷子道しるべ」の石柱は「月下氷人石」と言われ探し物や落し物、訪ね人の仲介役になるそうだ。
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ウイキペディアによれば・・・・
誓願寺(せいがんじ)は、京都市中京区新京極通にある寺院。浄土宗西山深草派の総本山である。本尊は阿弥陀如来、依拠の経典は浄土三部経である。天智天皇6年(667年)、天皇の勅願により奈良に創建。平安遷都後、西山上人証空の弟子円空(1213年-1284年)が京都の深草に寺を建て布教したのが始まりである。日本各地に無住の寺を含めて400か寺余りの末寺がある。愛知県の三河地方を中心に四国や兵庫、京都に多くの寺が存在している。歴代の管長は三河地方から多く出ている。本山のある場所は京都の中心街である新京極にある。御所に近いことから朝廷との交流も多く見られた。能の曲目に『誓願寺』があるが、この本山のことを指している。扇の塚のある寺として芸能関係にはよく知られた寺である。説教から発達した講談、落語、漫才などの芸人の成就を祈願する寺として知られている。また、落語発祥の寺とも言われている。今でも関西地方の芸人たちがこの寺で練習会を営んでいる。戦前は西山三派と言われている深草派(誓願寺)、禅林寺派(禅林寺、通称永観堂)、光明寺派(光明寺)の浄土宗の寺が一緒になって運営されていた時代がある。戦後は、それぞれの派に別れ、独自の布教活動を行っている。浄土宗西山深草派の総本山が誓願寺である。また、三派が一緒に活動していた頃にできた西山専門学校(僧侶育成の専門学校)は戦後に京都西山短期大学と名称が変わり、同宗派三派のリーダーを育てる大学として現在ある。

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扇の塚
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この辺り一帯(中筋町、裏寺町)は小さい寺が密集する地域である。この後、訪問予定の2寺もお隣どうしであるが、都合上別々に紹介したい。




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2011.03.03(木)、名古屋農業センターにおける、少し早目の枝垂れ梅鑑賞を行った。前回その概要をレポートしたので、今回は第二弾”梅の詳細”をお届けしようと思う。

今年の梅は何処も例年より遅い開花となっているが、予想通りここも同様であった。

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寒椿とのコラボも・・・
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もう少しましなコメントを書き込むべきとは思いつつも、文章浮かばず、写真のみになってしまった事を、大変申し訳なく思ってます。

2011.02.02(水)、京都洛中をてくてく歩き道中記の続編である。
この前の訪問地、本能寺を出て、寺町専門店会商店街(アーケード)を300m足らず歩いた所、商店街のど真ん中、アーケードに面した地に「地蔵尊」はあった。


洛中古寺シリーズ(5) 矢田寺 (やだでら)
   所在地  中京区寺町通三条上ル天性寺前町523
   宗派   西山浄土宗
   拝観   境内自由
   お盆の「送り鐘」で知られ、本尊は京の代表的な名地蔵。 

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ネットにて借用
 金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で、通称、矢田寺の名で知られている。
 寺伝によれば、当寺は、平安時代の初め、大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)に創建され、以後、寺地を転々とし、天正7年(1579)に現在の地に移されたといわれている。
 本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は高さ約2メートルの立像で、開山の満慶(満米)上人が冥土へ行き、そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ、俗に代受苦地蔵と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。
 また、当寺の梵鐘は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として人々から信仰され、一年を通じて精霊送りには、多くの参拝者で賑わう。

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小さい寺ではあるが、参拝者が絶えることはなく、しっかりと庶民に支えられているようだ。

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寺の外は商店街とアーケードが続く。
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この商店街には珍しく数軒の古本屋があった。
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矢田寺を過ぎた辺りから、アーケード街は、「寺町京極」と「新京極」の二本が並行して南に延びている。私は新京極に入って南下する。




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今年の寒さは例年よりも厳しかったことが原因かどうか不明であるが、クリスマスローズの育ちが悪く、開花も遅くなっているが、ここの所急に暖かくなり、一斉に咲き始めたので、紹介して行こうと思う。  (撮影日 2011.03.02(水))


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ダブル(八重)はもともと遅く咲くが、今年は先日ようやく一株が咲いた。なお、あと二株蕾は付いてるが、かなり先になりそうだ。

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今回5種類を公開したが、この後も数種ずつを2~3回に分けて紹介しようと思っている。



2011.02.02(水)、洛中散策と称した京都てくてく歩きをやってるが、今回は洛中の今まで訪れてない所、つまりは、大きくて有名な所でない寺社ばかりを10社ほど訪れようとしているが、その中で、唯一名前が知られているのが、これから尋ねる「本能寺」であり、今回のメインとも言える所である。


洛中古寺シリーズ(4) 本能寺 (ほんのうじ)
  
   所在地   中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
   宗派    法華宗本門流大本山 
   拝観    境内自由
   「敵は本能寺にあり」で知られる、織田信長自刃の寺

下は京都市役所前にある、本能寺への裏門であるが、ビルに挟まれて、今にも押しつぶされそうに見える。

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ウイキペディアによれば・・・・

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の寺院。本尊は、日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の曼荼羅である。織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる。塔頭が七院ある(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院)。本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年(応永22年)、京都油小路高辻と五条坊門の間[1]に、日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。 1429年(永享元年)、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年(永享5年)、如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町(約4万m2)の敷地を有し、また多くの子院も有していた。 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、本能寺は、その本山として繁栄した。 1536年(天文5年)、比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。 その後、1547年(天文16年)-1548年(天文17年)の頃帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺し「第8世」を称し、四条西洞院・油小路・小角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き(いわゆる本能寺の変)、その際、堂宇を焼失した。

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流石、信長の墓は立派だ。

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本能寺の変での死者が祀られているとか、さすれば森蘭丸もここに眠るのであろと・・・
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他にもいくつか墓があるが、省略した。
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これが表門

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上の写真左端の石碑、「能」でない、再々火災に遭ったのはヒ(=火)が二つもあるからだ、火が”去”るようにと、願ったものだそうな。

表門を出るとそこは市役所前から南方に延びる、「寺町専門店会商店街」のアーケードだ。
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本能寺を出た後は、矢田寺などを廻り、下の旧本能寺跡に向ったのであるが、編集の都合上下記に示す。
中京区蛸薬師通小川通西南角 にある、旧本能寺の跡地には、標識があるのみである。
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記述を探して見た・・・
天正10年(1582)、織田信長は明智光秀の謀反によって本能寺で自刃し、天下統一を目前にして49歳の生涯を閉じた。
この時の本能寺は現在の “京都市中京区寺町御池下る” ではなく、本能寺の南西、直線距離にして約600m、堀川高校の北、旧本能寺小学校跡(中京区油小路通蛸薬師山田町)付近で、本能寺跡を示す石碑が建てられている。
 もっとも、現在の石碑も本能寺小学校の跡地に建てられる老人ホームの建設工事のために東に移動させられている。

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この石碑は誠に”らしからぬ”貧相なものであるが、現在は別の地にもう少し”まし”なのが建てられているそうである。

2011.03.03(木)、ここ数日暖かくようやく春到来を思わせたが、今日は庭の蓮甕に結氷する程の寒さに逆戻り状態、上も下も一枚多く着込んで出掛けねばならなかった。

珍しく今回は、名古屋のネット友達にご一緒させてもらっての、「名古屋農業センター」の梅見である。このお友達は、以前あるオフ会で一度合っただけで、その後ネット上での短信のやり取りを行っていた方であるから、殆ど顔も覚えていなかった。しかし、携帯電話で何とかなるでああろうと考え、約束の時間の11時に行くと、真正面に突然現れ、顔を見た瞬間に記憶が戻り、2年ぶりで再会することが出来たのであった。

今日は寒いし平日ながら、駐車場は既に埋まっており、多くの人が訪れていた。

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梅は7~8分咲きと言った所であり、蕾が多く残っていて写真には好都合。

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なばなとのコラボ。

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その他の花も・・・・・

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少し変わった水仙だ!。
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「モクレン」は”蕾固し”か・・・
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屋内展示場には盆栽の梅などが展示されている。

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以上は第一部たる”アウトライン”である、第二部では”梅の詳細”を掲載しようと思っている。

洛中古寺散策シリーズの再開です。


京都市役所は、すぐ北に御所、西に二条城、東河原町通りと鴨川の向こうに平安神宮、そして南は三条通りを挟んで本能寺と、正に京都の中心に位置している。
(人口約150万都市)


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姉妹都市提携は、ボストンやパリなど世界10都市だそうだ。

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市役所の正面から、寺町専門店会商店街のアーケードが南に延びる。
ここを入ったすぐ左が本能寺であり、その先にいくつもの古寺がある。
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では、次の訪問地「矢田寺」に向って、アーケードを入って行こう!。


”洛中散策シリーズ”の公開を再開しました、このあと未だ数編ありますが、花が咲き始めました、旬の話材が出た場合は中断させて戴きますので、ご理解を賜りたいと思います。

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