木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

2011年11月

先日は孫娘に載せて貰っての京都嵯峨野であったが、今日は我がハンドルでの奈良、若干距離は短いが、高速道路を走る距離が少ない分、少し危ぶむ向きもあったが、何事もやってみなければ解らない、幸にして痛みも体のだるさも殆ど感じないので、やってきたのであった。

カーナビから京都府に入った事を告げられる。ここは京都府と言えども、南の最先端、県境近くに笠置寺、岩船寺、浄瑠璃寺があり。浄瑠璃寺から奈良東大寺までが直線距離で約4Kmしかないことから、昔は奈良の繁栄と共に建設されたものかも知れない。


「岩船寺」 (がんせんじ)  別名:「あじさい寺」  
       真言律宗  高雄山    
       京都府木津川市加茂町岩船上ノ門
       拝観料¥300   駐車料¥200

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写真では多くの参拝者が訪れているように見られるが、たまたま団体さんと一緒になったのみ。写真はある一部分のみを載せるから、誤解を生まぬよう注意が必要と認識。


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「三重塔」

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岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。この地区は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、文化的にも南都の影響が強いとされている。近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれている。

岩船寺は寺伝によると天平元年(729年)に聖武天皇の発願により行基が建立したと伝わる。その後、平安時代初期の大同元年(806年)に空海(弘法大師)の甥・智泉(ちせん)が入り、伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立した。弘仁4年(813年)には嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、岩船寺と称するようになったという。以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、草創の正確な時期や事情ははっきりしていない。

本尊阿弥陀如来坐像の像内には天慶9年(946年)の銘があるが、この像が当初から岩船寺の本尊であったという確証はない。「岩船寺」の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の銘記で、そこには弘安10年(1287年)の年記とともに「於岩船寺僧」の文字がみえる。

承久3年(1221年)の承久の乱の兵火により建物のほとんどを焼失するが、室町時代に三重塔などが再建される。江戸時代には興福寺の末寺であった。

 

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「本堂」

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「梵鐘」

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山の中のお寺であるから、紅葉はあると思っていたが、殆ど見られなかった。「あじさい」の時期に来るべきだったようだ。
ここから
山間の道を10分足らずで次の訪問地、「浄瑠璃寺」に着くが、それは次回としたい。









遅れている紅葉を待ち兼ねて、滋賀湖東、京都嵯峨野を見たが、まだ少し早く、本格的な紅葉には巡り合っていない。紅葉は急激で大きい気温低下で染まると聞いているが、ここの所は暖かい日が多く。まれに寒さが増してもそれほど温度差は大きくは無なかった。

2011.11.21(月)、朝起きて見ると、この秋一番の冷え込み、しかも天気も私の体調も良好。こうなったらもう出掛けるしかないと、予てから準備万端の”奈良古寺めぐり”に行こうとしたが、少しでも暖かい都会地よりも山間部の方が気温差は大きいだろうと考え、奈良北部、京都府の南端部の6~7ヶ所の古寺に焦点を絞った。

最初は””剣豪の足音が聞こえる・・・柳生の里””との声が高らかに聞こえる!。

「芳徳寺」  臨済宗大徳寺派  神護山芳徳禅寺
        奈良市柳生下町
        市営駐車場¥600  拝観料¥200(資料館を含む)


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柳生藩柳生氏菩提寺。柳生の地区を一望できる高台に位置し、門前の坂の途中に正木坂剣禅道場を構える。柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ。

北から寺へ登る坂が霊源坂、その登り口の橋は古楓橋であり、東南の小高い台地である山王台(清風台)とともに柳生十景に挙げられている。また、霊源坂の中ほど東側の地が柳生宗厳(石舟斎)の居住地とされる。

寛永15年(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩の開基、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した。宗矩の子列堂義仙が第一世住持となり、宗矩の遺領1万2500石のうち200石が芳徳寺に寺領として分与された。宝永8年(1711年)の火災により全焼したが、正徳4年(1714年)に再建された。

廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義が資金を遺贈し、本堂が再建された。その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた。


本堂には本尊の他、木造沢庵和尚坐像および、木造但馬守宗矩坐像を安置している。また、伝柳生三厳筆「月乃抄」などの寺宝を伝え、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されている。

木造但馬守宗矩坐像は慶安4年(1651年)に宗矩の7回忌にあたり、柳生宗冬が京都の大仏師康看に彫らせたもの。また、木造沢庵和尚坐像は明暦3年(1657年)に、列堂が京都の大仏師康春に彫らせたものであり、ともに前述の火災を免れ、今に伝えられている。



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ここに来て、やっと本物の”真紅の紅葉”を見る事ができて、来てよかったと実感!。

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本堂内部

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資料館

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「ヤツデ」  ウコギ科

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ここから国道369を少し下がると”小桜”の名所と聞く「南明寺」があるが、現在は未公開となってるので通過して、県道を走り京都府に入り、「岩船寺」を尋ねたのであるが、それは後述としたい。
                                                                                                 

2011.11.07(月)、21才になったばかりの、孫娘に載せて貰っての京都、嵯峨野散策も私の体力の消耗にあわせ、渡月橋周辺ぶらぶら歩きで幕を閉じることとなった。

今日は珍しく傷の痛みが少なかったが、いつもの様に日が傾く時刻になるとひどくなり始めた。孫達はまだ街中を歩いてるようだが、早々と車に戻ってしまった。

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今日の食事場所  洋食レストラン”琥珀”
最近はやりのマスコミに乗って人気があるらしく、もう午後2時を過ぎているのに、お客は多い。価格は安くはないが、少量でも見た目がきれいで美味しいものを食べたい私にはぴったりの店であった。


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「渡月橋」周辺のどちらを見てもすばらしい風景

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この写真の内容では、そのタイトルは「嵐山」でなく、嵯峨野もしくは渡月橋とすべきではないか、とのご意見があろうかと思うが、地図を見ると確かに、「嵐山」とは桂川の南側一帯であって、ここらは嵯峨野と呼ばれる地域のようだが、ここには「嵐山駅」や「嵐」の文字を使った店舗が多数あることからも、あたかも「嵐山」の地名のように見えるので、タイトルは考えた末に、私の独断と偏見のイメージで「嵐山」とした。「京都」とか「嵯峨野」とか「嵐山」という言葉には、特別な響きがあって、好むのは私ばかりではないようだ。


かくして、初めての親子女三代の行列が京都を旅した物語は終焉を迎えるのであった。
今日も楽しい一日が無事に終わった、孫達に感謝感謝である。

2011.11.07(月)、嵯峨野歩きのメインイヴェントにやってきた。雨の予報はなかったが、来て見ると空は暗く小雨がぱらついたが、濡れるほどではなかった。
昼食に何を食べようかと、探し続けたが4人の意見がぴったり合う場所に出逢わず、空腹の状態も限界、一旦嵐山に出て遅い食事をしてからの参拝となった。


「天竜寺」   臨済宗 天竜寺派大本山   霊亀(れいき)山
         京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町
         庭園、方丈拝観料各¥500

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天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786年 - 850年)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

足利尊氏後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅(かたびらのつじえき)あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。




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「庫裏」 本堂参拝受付

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「曹源池」のまわり、に見事な庭園が展開するが、今日は広角レンズを持たないので、その迫力を伝えられないのが大変残念だ!。

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「方丈」

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「リンドウ」

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「マメガキ」と書いてあった。「ビワ」程の大きさの柿がびっしり、お掃除中の”おじさん”に尋ねた所、柿は美味しくないと言っていたが・・・・・・。

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ここの庭は大変広く、全部を廻ると90分かかるとの声が聞こえていたが、まだ紅葉が始まっていないし、何よりも私は足が動かなくなったので、途中でギブアップしてしまった、また、本堂(方丈)には是非入りたかったが、庭歩きでも娘達の後を追うのが精いっぱい、残念ながら参拝は諦めざるを得なかった。

嵯峨野散策シリーズはこの後もう一遍あります。

2011.11.07(月)、孫娘の車に載せてもらって、久々に京都に来て、今日は嵯峨野を歩いている。この辺りは見るべき所が多くあり、いつも人通りが絶えない所であるが、今日は予報に反して、ぱらぱらと雨が落ちて来たのが効いたのか、いつものような人出ではなかった。


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嵯峨野観光鉄道「トロッコ列車」

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紅葉にはまだ時間があり、載ってるお客さんもまばらであった。

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嵯峨野ではおなじみの風景

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「二尊院」
参拝しようとやって来たが、葬式のために入ることができなかった。

2008年11月13日の二尊院は下記を参照されたし。
    http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20081118

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中の庭を覗かせていただいた。

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「落柿舎」

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「野宮神社」

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さすが縁結びの神様、多くの若い人達に交じって、孫達もまだ21才というのに、早くも祈っていた。

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最後の訪問予定の「天竜寺」に向けて歩くのであるが、ぼつぼつ体力の限界が見えて来た、カメラを娘に預け、重い足を引きずるように、三代の親子行列のしんがりを務めるのであった。


嵯峨野には2008年11月にバスツアーで来ているが、入った寺は化野念仏寺と二尊寺のみであって、それ以前にも来た様な気もするが、確信は無く、事実上初訪問としておく。


「常寂光寺」  日蓮宗  小倉山
         京都市右京区嵯峨小倉山
         拝観料¥500

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百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。

平安時代藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。

歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。


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紅葉は数多く植えられているが、残念ながら、まだ紅葉はほんの一部のみしか始まっていない。

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「多宝塔」

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この後、「大河内山荘」にとも考えたが、本日のメインとなる「天竜寺」を残して、ややスタミナが欠乏し始めたことと、紅葉が未だ先であること、また、昼食がまだであることなどを踏まえ、「大河内山荘」を省略して、竹林を散策しながら、通りに出ることとした。




[参考]   二尊院
     http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20081118

[参考]  化野念仏寺
     http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20081115


























孫娘の車に載せて貰って、京都嵯峨野に来て、「清涼寺」、「祇王寺」と回っての戻り路道に立派な門があった。、しっかり拝観料も取るので、さぞや立派なお寺と思い入ってみたが、これには参った!。ま、写真をご覧戴きたし。


「壇林寺(門跡)」   
       京都市右京区嵯峨小倉山畔
       拝観料¥400

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当寺は、平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)(786~850)が創建した寺院に由来する。皇后は、容姿美しく婦徳に秀で、学芸を愛され、橘氏の学校として学館院を設けたといわれている。  また、皇后は、深く仏教を信仰し、嵯峨の地に檀林寺と呼ばれる壮大な寺院を営み、盛時には、十二坊を数えたといわれている。  さらに、皇后は、当時、来朝した中国の僧、義空を師として、この寺で禅書を学び、これが、我が国で禅が唱えられた始めといわれている。  当寺は、この由緒によって、昭和39年から再建された寺院であるが、霊宝館には、皇后ゆかりの品をはじめ、日本、中国の仏教美術の数々が納められている。
…と言う節もあるが、一般には単なる古道具屋とも酷評されている。当初の由来は無くはないであろうが、今はガラクタを集め、小銭を稼ぐ古道具屋説を信じたくなるような気持だ。

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本堂としているが、コンクリート製?の建物はこれ一棟のみ。
内部にはいると奥行きは3m幅10mほど、細長くてとても寺とは言い難い雰囲気。
狭くて粗末な台の上にそれらしきものがびっしりと隙間なく並べられているが、全てが何の囲いもなく、手でさわろうとすれば、届く範囲、正に古道具屋の陳列そのもの。それぞれの価値が如何様なものか、私には知る由も無いが、見た所歴史的価値があるようには到底見えなかった。
もしも価値があるものなら、触れないようにガラス張りなどにしてあるはずと思う。
買いたい人が手に取って見られるようにしてあるのなら、寺とは言い難いし、拝観料を取るのは如何なものであろうか?。

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中に入ると、待ち構えていた年配の男が、説明をするだけならまだしも、”お守り”を売り付けはじめたのである、私は辞めさせたかったが、孫の幸せに少しでも、(気休めと解っていても)役立つのならと、何も言わず足早にそこを離れた。

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裏門まで造って尤もらしく装う。実際は直ぐ横で実用上は全く意味はなし。

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ブログにするには、ちょっと恥ずかしい内容になったが、看板と中身は必ずしも一致しないという典型的実例として参考にしてもらいたいので掲載した。ガイドブックに紹介されてないお寺であっても、入って見て、掘り出し物に出会う楽しみが、これでかなりしぼんでしまった事は事実であるが、時にはこう言う事も世の中にはあるのだと改めて感じた次第。

次は「常寂光寺」であるが、それは次回としたい。

孫娘の運転で嵯峨野に来て、二番目の訪問地は平清盛ゆかりの寺、来年は混雑を予想しての早目の入山となった。


「祇王寺」   真言宗大覚寺派  高松山  (尼寺)
     京都市右京区嵯峨鳥居本小坂
     拝観料¥300


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元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。また、平家物語には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と仏御前が出家のため入寺したとしても知られている。

その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。

苔の庭でも知られる




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「苔」が美しい!。

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どちらに転んでも大勢に影響の無い事ではあるが、このブログのタイトルを付けるに当たり、少し悩んだことがある。

地図を見ると、「嵯峨」の文字が付く地域は、京都市の西北部、高尾よりも西北部の地名に「嵯峨清滝」など多数あり、また、大覚寺や広沢池の周辺にも「嵯峨広沢」などがある。また、単に「嵯峨」と呼ばれている地域も狭い地域ながら存在する。
更には、「嵯峨野」とは、「嵯峨」と呼ばれる地域の隣、嵐電「有栖川駅」を中心とした狭い地域に表示されているが、「嵯峨」も「嵯峨野」も町名にはなってないのである。
また、別の地図では、化野念仏寺や大覚寺あたりから、渡月橋周辺までを「嵯峨野」と表示しているのもあるために、今回のメインテーマを「嵯峨野散策」としたのであった。


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「イワシャジン」
    {参考}:「ツクイワシャジン」
      http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-179.html

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ここからは道も下り、娘や孫と一緒のせいか、まだスタミナは充分ありルンルン気分で、次の「二尊院」に向った。今日は調子がいいぞ!。

                                        <つづく>


孫娘が車を買って一年、まだ高速道路のETCゲートを通過したことがないので、その体験をすることと、私が退院後盛んに京都に行きたいと言ってる事を合わせ、私達を京都嵯峨野に載せて行ってくれると言う。

孫娘の21才の誕生日祝いも兼ねると言う事も重なって、大蔵省(妻)もいつになく大奮発し、たっぷり(?)の予算を取るなど、誠に心強い。

可愛い孫や娘との京都、また、まだ長距離運転は避けたい私にとって、こんな嬉しい提案を断る事なぞ全くあり得ない事、更には、今日は体調も天気も良く、喜び勇んでやってきた。(2011.11.09(月))


まだ秋の行楽シーズンには一歩早く、高速道路は快適に走れたが、インターチェンジを降りてからはそうも行かず混雑に巻き込まれた。先ずは、天竜寺の駐車場(¥1000)に車を止め、すでに多数の人が行き交う嵐山の通りを北に数分歩いた所が、今日の第一の訪問先だ。


「清涼寺」   浄土宗 五台山   別名:嵯峨釈迦堂
         京都市右京区嵯峨
         境内は無料

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棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん、938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、実は模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺である。
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「豊臣秀頼首塚」  
ここを訪れたのは11月9日月曜日、その前日の大河ドラマ”江”で秀頼が自害したので、何ともタイミングのよいことと驚いた。

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名物「あぶり餅」をここで食する。
甘さを抑えた飴に浸し、一口にも満たない竹串に刺した小さな焼き餅7個が一皿。値段は¥70だったかな?。

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私の体調を考慮してくれてここが最遠地とし、ここより西方に歩き次の「祇王寺」に向った。


2011.11.04(金)、遅れ気味の紅葉に辛抱を切らし出て来たものの、紅葉の色付きはよくなく、その上、体調不良が重なって、難行苦行のお寺参りとなったが、最低3ヶ所は回らねばとの欲が帰る事を許さず、カメラを助手に持たせてまで上ったのであった。


「金剛輪寺」  天台宗 松峰山
         滋賀県愛知郡愛相町松尾寺
         拝観料¥500  駐車無料 

「黒門」

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琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、奈良時代の僧・行基の開創と伝える。行基は河内国家原(現・大阪府堺市)の出身で、出身地の河内を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる。行基の開創を伝える寺院は現在の大阪府や奈良県を中心に各地に多いが、当寺もその1つである。行基がこの地に一寺を建立したのは、文献によって天平9年(737年)とも言い、あるいは天平13年(741年)とも伝える。

その後、平安時代前期の嘉承年間(848-851年)には天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。行基の創建伝承についてはどこまで史実を伝えるものか定かでないが、当初は観音を祀る小堂であったものが、平安時代に入って近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台寺院として発展したものと思われる。また、金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があるとみられている。

平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残り、現存する本堂は、弘安11年(1288年)、近江守護佐々木頼綱の寄進を得て建てられたもので、この頃の金剛輪寺はかなりの規模をもっていたと思われる。天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。



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参道などにはセメントで造られた「千体地蔵」が風車とよだれかけで飾られて数多く並べられているので、”水子供養”と思われるが、そのことは寺のパンフレットには記述がないのは何故か不明。

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急な坂道ではないが、えんえんと続く参道は、既に体力の限界に来ている体には厳しい。少し歩く度に一休みしなければならなかったが、途中で何度も妻が引き返そうと言うが聞かなかった。手すり磨きのやせ我慢の参拝となった。

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「三重塔(待龍塔)」

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「明寿院」

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「ツワブキ」
     {参考}
      http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-325.html

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湖東三山としては、「百済寺」、ここ「金剛輪寺」の他に「西明寺」がここから数Kmの所にあるが、
家を朝9時過ぎに出て、まだ3ヶ所見ただけなのに、早くも少し日が傾いてきた。如何にのろのろ歩いているのかが解ると思う。出る時は快調だったが、早くも疲労困憊、「金剛輪寺」の坂道がこんなに長くつらいものだと改めて知らされたようだ。

いつものことではあるが、痛み止めは日に2回服用しており、午後も3時を廻ると効き目が薄くなり痛みが増えるのだ。帰り路の車運転もありこれが限度、「西明寺」は諦めて、帰路に着いた。

2011.11.04(金) 遅れ気味の紅葉を待ち兼ねて、まだ少し早いと思いつつも、紅葉の名所と言われる琵琶湖の東、つまり「湖東」の寺を見に来た。「永源寺」の次は・・・・・


「百済寺」   天台宗 釈迦山
         滋賀県東近江市百済寺町

         拝観料 ¥500   駐車無料

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琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈(えじ)とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。

平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。



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「喜見院の庭園」

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境内参道の両脇などに、多数の「ミツマタ」が植えられており、蕾が早くも出来ていた。花は春のはずであるから、何と気の早いことだろうか!。
道端の解説板によると、異常繁殖とも言える鹿達にも食べられず、常緑の葉は秋になっても美しく、境内緑化にも大いに貢献しているとある。木などにも爪跡さえなく、綺麗な状態でどんどん増やしているようだ。食べても余程不味いのであろう事が伺える、何せ”紙”だからねぇ!。

「ミツマタ」    花などは下記「木燃花図鑑」をご覧ください。  
                 http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-1.html

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「ミツマタ」はまだ木は小さいのが多いが、これが育って一斉に花を付けると、新聞などで紹介されて、見に来る人が増えて、有名になる日が来るのかも?。


「カンツバキ」か「サザンカ」の判別不能。
違いは花の散り方にあるが、それが判明するにはまだ少し時間が・・・

   「サザンカ」は下記を参考にしてください。
   http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-323.html

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今年の紅葉は少し変だ!、単に遅れているのみならず、色が鮮明でなく美しさに欠ける気がする。もしかするとこのまま赤くならずに散ってしまうことを恐れている。
昨夜のTVであのきれいな香嵐渓でさえ、紅葉の色付きが悪いと報じていたことからも伺える。


家を出る時は”体調極めて良好”であったが、先に見た「永源寺」で坂道を少し無理をして昇ったためか、急に疲労は来るし、痛みは出るはで通常ならば、ベッドに寝転ぶ所なのだがそうも行かず、また、今ここで帰っては如何にも情けないので、もう一か所回ることとして、「金剛輪寺」に向った。


今年は秋になっても暖かい日が続き、紅葉はかなりおくれているが、2011.11.04(金)天気も体調も良好、まだ万全な体力には程遠いが、負けては居られないと、かなり”やせ我慢”状態ながら、紅葉へと駆り出す気持ちが勝ち、飛び出したのであった。

我が家の近くから、鈴鹿山系を超えて直接滋賀県に入る道は、昔からあっても、狭く険しくて、通るのを躊躇していた。その道は国道421号、別名「八風街道」といい、「石博(いしぐれ)峠」周辺の難所に今年トンネルが開通したと聞いていたので、この日を待っていた一面もあった。

車の振動が傷口を刺激しないよう、ゆっくりとした速さ、時には止まって紅葉を見たり、写真を撮ったりしながらも約37Kmを70分で紅葉の名所の「永源寺」に到着した。
なお、ここ「永源寺」は昨年も来ており、2010.10.26付けのブログに詳細を載せているので、今回は写真のみとする。

永源寺  臨済宗永源寺派大本山  
      滋賀県東近江市永源寺高野町
      拝観料¥500  駐車無料 
       

「山門」周辺はまだ緑一色だ!。

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「本堂」

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「梵鐘」

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「禅堂」

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「含空院」

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「ツワブキ」

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裏口の駐車場に車を止めたので、長めの坂道を往復したので、かなり体力を消耗したが、まだ最初の訪問に過ぎず、ドリンク剤など注入して先に進んだ。次の訪問先は湖東三山として名高い「百済寺」に向ったが、それは後報としたい。

三重県から直接滋賀県に入る主要なルートは5ヵ所あり。北から、

① 三重県いなべ市から鞍掛峠(h=640m)を経て、滋賀県の多賀神社のある多賀町に入る国道306号を通る道。
② いなべ市大安町石博(いしぐれ)から石博峠(h=690m)を経て、東近江市永源寺町に入る、八風(はっぷう)街道、国道421号線を通る道。
③ 菰野町湯の山温泉から、武平峠(h=520m)を経て、日野市に入る、鈴鹿スカイライン(無料)、国道477号線を通るルート。
④ 東名阪自動車道「亀山JCT」から、土山に入る、新名神高速道路を通るルート。
⑤ 亀山市から鈴鹿峠を経て、土山に入る国道1号線。

・・・・となっているが、②は石博峠を越えて滋賀県に入った所の数Km(?)は、道幅が極めて狭く、2Ton車以上は通行が許されていないし、もし途中で対向車があると、どちらかがかなりの道を戻らなければならなかったので、殆ど実用されていなかった。
紅葉で名の知れた永源寺にはこの道が最も近いが、通ったことは無かった。

また、③のスカイラインは三年前の集中豪雨により道路が崩れ落ち、通行不能が続いていた。
このため、湖東三山など名所が多い湖東方面は地図上では30Kmもない近い所にありながら、随分と迂回させられ長距離を走らねばならなかったのである。

これが先ず、①は、この春最大の難所に「石博トンネル(全長4157m)」が開通し、あちこちで道幅が広げられ、誰でも安心して通れるようになったのである。
また、③の「鈴鹿スカイライン」も漸く修復工事が完成しつい先日全面開通したので、滋賀県が私の家からは随分と近くなったのである。

陽気がなかなか寒くならず、紅葉が遅れ気味の昨日今日であるが、手術痕には寒くなるのは効けるので好ましくないが、この際は仕方がない、寒くなるのを待っているが、残念ながら暖かい日が続いている。
11月4日(金)、好天で暖かく”痛み”も気にならない、少々紅葉には早いが、ブログのネタも欲しい所、エイヤ!とばかりに、急遽飛び出したのである。


ルートはやはり初通過の八風街道とした。
下は街道有一の片側一車線(全幅7.5m)のトンネル「石博トンネル」で、滋賀県側より見る。

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トンネルを出たあたり、滋賀県側を見る。

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標高が600m程度の所故に、すでに紅葉は始まっていた。

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上記茶屋の入り口で、珍しい花を見つけたが、名前が解らない。はなびらがもっと沢山あって抜け落ちたのかもと思い、良く見たが抜け落ちた形跡は見当たらないが、唯一輪のみ咲いているばかりなので、確信は持てない。はなびらが3枚なのは、「エイレンソウ」があるが、状況が全く異なる。額らしきは4枚であった。

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ご存知「ホトトギス」。

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なお、帰路は「鈴鹿スカイライン」を通って来たが、沿線の紅葉は今が旬、「八風街道」よりも格段に色どりが鮮やかで美しく感じた。しかし、残念ながら、疲労のために、とてもカメラに向う気力はなく、ひたすら安全運転を心掛けて走ったのであるが、道路は一部はまだ修復の工事中で一方通行であったが、通行車両も多くなく、スムーズに帰ることができた。



この後、先ずは「永源寺」に向い、その後幾つの寺などを回れるかは、私の体力次第であるが、それは後編としたい。

 

人も呆れるほどに、連日カメラを持って飛び回っていたが、ついにダウンし、5月(2011)はじめを最後に5ヶ月余りの間、シャッターを押す事がなかった。

生まれてこの方、一度も経験しなかった手術台に8時間乗り、人工心肺を使った手術のお陰で、以来4ヶ月になろうとするのに、未だに切った周辺の痛みと、動くと直ぐに息切れするなど、なかなか回復しない体力のために、”なまけもの”になっている。

しかし、私を呼ぶ花達の声(?)は日増しに高くなり、9月下旬、思い切って「なばなの里」に出掛けた。その後何度もこれらをブログにしようとしたが、一向にやる気が起きず、また、ネタ切れで後が続かないので今日まで放置していたが、いつまでも痛みや、体力不足に負けていてはいけないと、自らを奮い立たせて漸く今日公開するに至った。


私の車は長さ2mの材木運搬用のためライトバンなので、積荷が軽いと甚だしく乗り心地が悪く車の振動が手術痕を直撃するし、また、シートベルトが丁度傷口を押さえるために痛くて長距離の運転はとても苦痛なのだ。

重い物を持つ事は”余病”(本来の意味と異なり、漢字の持つ感覚とご理解を)に悪影響があり禁じられているので、三脚や交換レンズは助手(妻)にまかせた。しかしカメラが2Kg近くあり、重さは黙認するとしても、首に掛けるとこれまた胸の傷口を責めるので、手に持ちながら妻も呆れるほどにゆっくりゆっくりと進まざるを得なかった。二階までの階段を上がるだけで息が切れる程の体力だから、”なまけもの”が笑っているかもしれない。

なばなの里は、イルミネーションには少し日数があるし、花が少ない時期、つまるところ端境期とも言えるが、人気は衰えず結構多くの人で賑わっていた。


では、撮る花を増やすためにと、久々に「ベゴニアガーデン」に入ってみた。

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「フクシア」

ウイキペディアによると、「フクシア(Fuchsia)はアカバナ科の植物で・・・(略)・・・日本では訛って”ホクシャ”などと呼ばれる。英語では”フユーシャ”と読まれている。」とある。

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「グロキシニア」  イワタバコ科

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「マレーシアシャクナゲ」  ツツジ科

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そして、もう終焉を迎え始めた「ダリア」が、最後の力を振り絞って美しく咲いていた。

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カメラを構えている時は痛みを忘れているが、車に戻ると疲れとともに、傷口の痛みが襲って来た。勿論毎朝夕痛み止めトンプクを服用しているが午後2時を過ぎたので、その効果が切れて来たことも影響していると思われ、早々と帰途に着く。



長い間、ブログを休んで失礼しました。この間多くの方々が覗いて戴いた形跡があります、更新してなく本当に申し訳なく思っていました。

以前のように頻繁に発行することは到底困難ですが、これを機会に、これからも出来るだけ出して行きたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。  


                                    

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