木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

2011年12月

今年は皆様にとってどんな年だったのでしょうか?

私には自身が大手術をし、その後遺症に悩まされると共に、何故か身の周りにも、不幸な出来事が次々と起こり、決して良い年ではありませんでしたので、是非とも来年は良い年になってほしいものです。

このブログも、初めての長期休刊(?)と最後は尻つぼみになりましたが、多くの方々に見て戴きありがとうございました。また、お三方には丁寧なコメントを度々賜り、こんな嬉しいことは、他にありません。

皆さまにとっても来年が良い年となり、ご健勝と益々のご活躍を心より祈っております。
来年もよろしくお願い申しあげます。


今年もあと数時間でおわります。

今年は東北地方の東の海岸周辺の方々にとっては何百年に一度とも思われる、大きな自然災害とそれにまつわる原発の人災にも見舞われ、多くの命が失われ、日本全体が震えた年でもありました。また、その際に行われた助け合いなどから、人と人の「絆」の有難さと大切さをも知らされました。

一方私個人にとっては、人生最大のピンチに立ったと思っています。
5月半ばまでは、一切の薬を飲むことなく、元気そのもので、京都あたりまでの近県内ではあるが、再々出掛けましたし、時には海外にも足をのばすなど、近所の人が呆れるほどに、重いカメラを持って、あちこちと飛び回っていたのです。

しかし、寄る年波には勝てず、大きな欠陥が見つかり、少し大きめの手術が必要と診断されたのです。医師は80才以上なら手術は奨めない、私の年代は余命が少ない事と、手術の後遺症の危険があり、手術をするか否かは、本人の判断と言う、これには参ったが、かなり不本意ながらも、受けることとしたのでありました。

手術は一応成功したものの、体力の回復は術後6ヶ月経って、漸く見えて来た感じがするようになりましたが、傷跡とその周辺の痛みは毎日の生活にかなりのブレーキとなっていて、痛み止めが手放せない状態が続いています。また、まだ爆弾は完全除去された訳では無く、重い物を持つことや、”気張る”ことなどをしないようにとの制限付なのです。

また、何故か今年はみの周りで不幸ばかりが続きました。
その一つは親戚が減ったことです。
私の曾祖父の時代に本家から分家が二軒出来て、これを三役とし、親族の代表的存在とした、親戚付き合いをしていたのですが、今年その三代目の生き残りが、95才でその生涯を閉じたのです。これによって、今の時代としては、親戚付き合いは途切れてしまいます。

具体的には書きませんが、この他にも幾つかの不幸な出来事が幾つか起きて、生きて行くのが以前よりも、相当に苦しくなった体に追い打ちを掛けられたようなものです。それを忘れんがためにカメラとブログに掛けてきましたが、それも中途半端な状態になり、結局は真の趣味になって無かったことを知らされ、今、茫然としている状態です。


   <<< 未完成 >>>



((未完成ブログながら、記録として残すために、後日(20120225)公開とした))

ブログを発行する以上は、定期的に発行すれば、繰り返し見て戴ける方には、より都合がよいと思うし、また、切れ目なく発行するために、少々無理をしてでも”取材”をすることで、体を動かして撮影するから健康によいし、頭を動かして編集する事でボケ防止になると考えて、手術後は隔日発行を続ける決意で再開した。

しかしこの決意も二ヵ月足らず、一昨日の京都宇治の「万福寺」で、あっけなく頓挫してしまった。内容など殆ど無い、お粗末なブログばかりであるのに、隔日発行を続ける事の難しさを知らされた。隔日発行にこだわる余り、気が付かない内にその質が更に低下し、目に余るブログを出していたが、それを指摘されるまで解らないという誤りまで犯していた。

芸術的センスのない私がこんな大きな重いカメラを持っても、”猫に小判”何万枚撮っても、良い写真を撮る事は始めから無理であった上に、何としても隔日発行が先に頭にあって、最近は写真の出来栄えの良し悪しさえも判断出来なくなってきたのだ、自分ではボケが始まったとは思ってないが若しかすると・・・・・・・?。

一時はブログを止めることも考えたが、ブログを止めればカメラも止めることになり、唯一の趣味、ある意味今の生甲斐みたいなものが無くなるし、折角出来たブログの友をもしかすると失う事になり兼ねない、絶対にそれは避けたいのである。

  カメラもブログも続けるが、隔日発行にこだわらない。これが結論である。

よってこれより先は、気の向いた時、または、ネタのある時にのみ発行となるので、前ぶれも無く何日も休むし、ネタがある時は連日発行と言うように、誠に無秩序、無責任極まりないが、ご了承を願いたし。なお、これによって写真の質が上がるなんぞは、夢にも思うなかれ、見たくもない写真を見る機会が少し減るだけのことである。


また、上記に関連し、記事ナンバー”671””678””679”は公開を取りやめして、悪い見本として今後の戒めとする一方で、中身の良し悪しは兎も角、これも私の生きた記録として大切に保管することにした。

本当の所はこんな記事は書きたくなかった、何故ならこれによって消極型人間になるからであるが、体調もこれありで、止むをえない決断と自分では思う。

2008年3月から始めた、写真を中心とした我がブログも投稿済みは700回が近づいてきた。このブログは私自身の生きた証、通った道を記録に残したい、そして体が動けなくなった時などに、振り返って見ることが出来たらと思って始めたのであった。

勿論、ネットに載せる以上は、少しの人で構わないが、見て欲しい、そして出来ればコメントを書き込んで欲しい、更に言えばそれによって、新しい友達が出来ればこんな素晴らしいことはないと思って3年半余り続いている。

私はどちらかと言うと、何事にも”熱し易く覚め易いタイプ”の人間である。だから、ひとのやることは何でもやって見たいので過去には幾多の趣味を体験してきたが、この”写真とブログ”もそのひとつに過ぎないと人は言うが、私にはこれが今を生きる全てなのである。

従って、この”ブログ=記録”は私にとっては貴重な財産なのだ。いくら懸命に書いても、一銭の価値もないし、私が死ねば一瞬に削除されてしまうものではあるが、せめて生きてる間は新しく書き足してゆくと同時に、過去の記録を速やかに見れるようにしたいのである。

それで今回先ずは主題として多くを占めてきた”京都と奈良の寺院神社と主要な観光施設”に絞り「地図形式のブログ索引」を作ろうと考えたのである。ホームページにもあるように索引としては既に公開しているが、更に進化したものを思い付いたのである。

京都、奈良にはそれぞれ1000とも言われる寺社があるが、その内から各種のガイドブックなどから主要な寺社を、更には興味のある主観光地を選び出し、それぞれの位置関係、凡その間隔距離を維持さたせた、言わば地図感覚の表に書き込み、既に尋ねた所は明確に解るようにし、ブログにリンクさせたのである。

ブログにもよく出るように、私の京都奈良行きは突然発生する、その為にはどの方面にまだ見てない所と既に尋ねた所があるのかが、一目で見られるのが有効である。先日も京都に急に行こうとしたが、行き先は車で走りながら考えたが、その時にも早速この表がばっちり役立って、効率よく回る行程計画が殆ど時間を掛けずに作れた。

本来ならば、白地図に尋ね先を浮き上がらせるように書き込むことが望ましいが、ネットで公開を前提にするにはHTMLによる他は無く、悪戦苦闘の末、不満足ながら、やっと形のみ完成したので公開に踏み切ったのである。Excelならば自由度が高いので如何様にも作れるが、HTMLで表を作る不自由、面倒くささに改めて感じ入ったしだい。

先ずは「京都市とその周辺」を作って見た。
     

施設名を5文字以内としたが、全体を横書きとしたので、表は横長となり、画面の小さいパソコンでは大変見難い表であるが、俄か勉強、”付け焼刃”の私のHTML理解力ではこれがベター、現状では我慢して見て戴かざるを得ないのである。画面表示を縮小するなどして、横方向を画面いっぱいに全体を表示出来ると少しは見られるかも知れない。

解り難いことであるが、表の見方は下記である。
この表は碁盤目に線を引き(線枠)し、縦4×横4=16枠がポケットサイズの地図本(昭文社刊)の1ページに相当し、そこにある施設名を書き込んだものである。表の数字はそのページ数を表し、数値のある線枠を左上とし(最大)縦4横4=最大16枠が1ページとなる。その各1ページの縦は約2.3Km、横は2.9Kmに相当するので、そのページ数を幾つ越えるかで凡その距離が掴める。
なお、表の列、行に施設が無い場合は表を小さくするために、削除してあるので、1ページが4×4より少なくなってるが、距離数は変わらないとする。また、特例として、90ページは施設が集中してるので、縦は4枠ながら横は6枠で1ページとしている。



     <<< 未完成 >>>



未完成ながら、記録として残すために後日(20120225)公開)





2011.12.13(火)、四日市へ用があり来たが、天気が良く暖かいしブログのネタにと久しぶりに四日市港にやってきた。しかし、残念ながら絵になる船はみあたらなく、ありきたりの写真になってしまったが、ブログのネタが切れた時のためにと残したもの。


D75888t

D75859t

D75876t

D75868t

D75897t

D75911t

D75916t

セメントを船積みする装置のようだ。

D75874t


海上保安庁の消火船「しょうりゅう」

D75906t

巡視船

D75904t


この立派な水門の想定津波は如何ほどなのだろうか?、ちょっと堤防が低すぎるように思うが?。。

D75918t

下は水門から川の上流を見ているが、この辺りは巨大津波がくれば、ガレキ以外に何もないようになるのであろうかと気になる。

D75919t


つまらない写真でお茶を濁すこととなったが、ブログのネタがなければ投稿を休むか、つまらない内容であっても隔日投稿を続けるかの選択であるが、結局私は後者を選んだのである。ご理解を賜りたし!。



((非公開としていたが、記録として残すために後日(20110225)公開))

2011.12.10(土)、突然の思い付きでやってきた京都山科、宇治の古寺巡りもここでまだ6寺にしかならない。道路は高速を降りた直後の国道のみが渋滞で他は土曜日にしては極めてスムース、昨年桜の時期の醍醐寺前の通りで大渋滞があったのが嘘のよう。

しかし、秋の日は沈むのが早いし、坊さんもサラリーマンの様に、門を16時にはきっちり締めるので、今日は朝の出が遅かったことも含め、今日見るのは6寺で打ち止めせざるを得なかった。京都に来る時はやはり、9時に現地寺着が原則と再認識した次第。今日はまだ体力も充分残っており、帰るのが少し勿体ないが、腹八分が健康のためとして、長い間入るチャンスを待っていた、本日最後になる、珍しい中国様式の寺にはいった。


「万福寺」  (まんぷくじ)
        京都府宇治市五ヶ庄三番割
        黄檗(おうばく)宗大本山
        拝観料¥500  駐車料¥500

D75760t

黄檗宗大本山である萬福寺の建築、仏像などは中国様式(明時代末期頃の様式)でつくられ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。寺内で使われる言葉、儀式の作法なども中国式である。本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色である。萬福寺は煎茶道の祖・売茶翁(ばいさおう)ゆかりの寺としても知られる。隠元と弟子の木庵性瑫(もくあんしょうとう)、即非如一(そくひにょいつ)はいずれも書道の達人で、これら3名を「黄檗の三筆」と称する。このように、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされた。隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹(もうそうちく)、スイカレンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれている。開山・隠元隆琦は中国明時代の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。

隠元が招かれて来日するのは1654年順治11年、承応3年)、63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺(そうふくじ)、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。隠元は長崎・興福寺の僧・逸然性融(いつねんしょうゆう)らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭(やらんしょうけい)という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに渡日を決意する。

承応3年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田(せっつとんだ、現・大阪府高槻市)の普門寺に住した。隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜(りょうけいしょうせん)をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。

寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。

D75766t

D75768t

D75781t

D75785t

D75787t

D75789t

下の写真は堂内ではあるが、「撮影禁止」の立て札はなかったので、びくびくしながらも撮らせて戴いたものである、また、ご本尊の釈迦如来の化身である「布袋」さんがでんとお座りになってたが、ここも撮影禁止の札はなかった。折角の布袋さんであったが、”埃をお召し”になっていて写真としてはあまり評価出来ない状態であったため、削除してしまったのである。このように、この寺は写真撮影に対して制限がかなり緩いのは大変有難いことであった。

D75794t

D75799t

D75808t

ゆったりとした伽藍の配置

D75809t

D75813t


お粗末な写真で申し訳ないが、広さを紹介するのに、この一枚しかないもので・・・

D75822t

D75838t

D75847t

D75848t


以上で”山科宇治の古寺シリーズ”は完結とするが、12月初旬の終わりにきてまだ紅葉に出会えたことは、大変嬉しかった。私の写真の表現能力では、紅葉などアクセントになるものが無いと極めて粗末な写真になるからである。

今日は寒く本格的に冬の到来を見せているが、手術痕の痛みも体力の減退も殆ど無く、単独飛行(?)最長距離往復200kmを記録した。こうやって実績を積み重ね除々に距離を伸ばしているが、さて、次はどこにするか・・・・・?。



ここまでこのブログで恐らく100を超える寺を紹介してきたが、殆どのブログでその寺の肝心要の「ご本尊」の写真を掲載していないのである。考えて見れば、これでは”お寺の紹介”にはならないと言えるかも知れない。ご存知の方も多いと思うが、美術館、博物館、お寺、神社などの殆どの多くの所で撮影禁止であるが故なのだが、これではメインディッシュの無い料理だ、いくら食べても腹が満たされないわなあと、今頃気が付いたのだ。だからと言って寺の紹介を止める事は、ブログを止める事になり、まだ、そこまで決断する気は無く、方向転換は避けられないものの、当分の間、恐れ多くも主人公の居ない田舎芝居を見て戴くことになるので、少しでもご理解を賜りたいのである。



2011.12.10(土)、相変わらずの急な思い付きで、遅れている紅葉を追っかけ、京都は山科区に来て「徳林庵」「毘沙門堂」「岩屋寺」「隋心院」と見て、今度は少し南に下がって、伏見区
にやってきた。

桜が最も綺麗と言う「醍醐寺」には昨年の春来ているが、時間が足りず、肝心要の秀吉が桜を眺めた場所には長蛇の列、ここは前回見てるからと、断腸の思いで通りすぎたのであった。

その代わりにと待たなくてよい、前回見てない他の所を廻ることにしたが、広い境内それに凄い人、時間が迫ってくるので、ゆっくり見ることもできなかった。そのために、今はもう一度でも二度でも入りたい気持ちがあるが、それは許されず、車の窓からちらちらと塀越しに庭内を眺めながらも、ぐっと堪えつつ門前を通過し「法界寺」にやってきた。


「法界寺」  (ほうかいじ)  別名:日野薬師  乳薬師
        京都市伏見区日野西大道町
        真言宗醍醐派
        拝観料境内無料   駐車無料(数台限定)

D75714t(1)


法界寺は、醍醐寺の南方、宇治市との境界に近い、京都市伏見区日野に所在する。日野は、『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野家の領地であった。日野家は藤原北家の一族で、儒学や歌道をよくした家柄である。

平安時代後期の永承6年(1051年)、もと文章博士(もんじょうはかせ)で後に出家した日野資業(すけなり)が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、日野家に代々伝わる、伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入したという。

寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち、日野資業の4代前の藤原家宗弘仁13年(822年)、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとするものである。

その後、平安後期の阿弥陀信仰の高まりや末法思想の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。

なお、浄土真宗の開祖である親鸞は、承安3年(1173年)に日野有範の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院がある)。

D75720t(1)

本尊薬師如来立像(重文)は平安時代後期の作で、この像に祈願すると女性の乳の出がよくなるとされ、「乳薬師」として信仰を集めているそうだ。


D75729t(1)

D75730t(1)

D75741t(1)

D75735t(1)

D75749t(1)

D75754t(1)


ここを見たあとの時刻は15時に近い、秋の日の”つるべ”は早く落ちるので、先を急がねばと思うも、私の頭の中の地図には、この辺りでまだ見てないのは「万福寺」しかなく、今日はそこまでがタイムリミットと考え「万福寺」へ向ったのであった。

「岩屋寺」から「勧修寺」の門前を通り、15分位走ったところに「隋心院」がある。ここは昨年「醍醐寺」の桜を見に来て次に入る予定にしていたが、時間が足りないために、もう一寺しか見られないことになり、ほんの少し回り路になる「隋心院」は効率が悪いと判断しパスして「勧修寺」に向ったのであった。

所が「勧修寺」はすでに門が閉まり入れて貰えなくて、門の写真を撮ったのみで帰途に着いたのであるが、「醍醐寺」の桜も以前来た時よりも華々しくないし、「隋心院」を選ばず、「勧修寺」にした事の後悔などがあって、あの日の足の重かったのは今も忘れる事は無い。もう歩くのさえ億劫になり、タクシーを拾って早く帰り、京都駅地下でのビールに気持ちを向けたのであった。


小野小町ゆかりの寺

「隋心院」   
         京都市山科区小野御霊町
         真言宗大本山
         拝観料¥500  駐車無料


我々が入る通用門

D75660t

「薬医門」

D75661t

隨心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。

第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして隨心院が建てられた。続く6世顕厳の時には順徳天皇後堀河天皇四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、寛喜元年(1229年)に後堀河天皇宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となった。その後一条家二条家九条家などの出身者が多く入寺している。

その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱によりほとんど焼失した。『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。その後慶長4年(1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。

江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、大僧正に至ったが、九条稙基が夭折したことを受けて寛保3年(1743年)還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も隨心院は「真言宗」にとどまっていたが、明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。隨心院は小野派本山となった。その後昭和6年(1931年)には真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称。昭和16年(1941年)には善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、隨心院は同派大本山と位置づけられている。

また近年、昭和48年には「はねず踊り」を創めたり、平成15年には「ミス小町コンテスト」、平成20年にライトアップ、平成21年には若手アーティストによる「極彩色梅匂小町絵図」という障壁画を取り入れたりと、新しい仏閣像を作り出している。



「小野梅園」

D75667t


「大玄関」

D75666t

D75688t


「歌碑」

D75671t


「庫裏」  ここから拝観料を払って本堂などに入る。

D75669t

D75685t


流石は世界の三大美女、絶世の美女ゆかりの寺、ふすま絵も俄然きらびやかである。

D75691t

D75694t

D75697t

D75703t

D75706t


ここを出たあとは、南下して「醍醐寺」の門前を通り、「法界寺」に向ったが、塀ごしに「醍醐寺」の境内がちらちら見える、入りたいがもう時間が無い、もしも”美しい紅葉”が見えたらどうなっていたか不明であるが、幸か不幸か紅葉は目にはいらなかった。ようやく高ぶる気持ちを押さえ、予定通り次の訪問地に向った。

2011.12.10(土)、朝起きて空を見て、突然遠出の撮影行を思い付き、出る事を決断して1時間も経たずして家を飛び出し、京都山科にやってきた。この後は宇治方面にも行く積りであるが、この辺りはお寺などが洛中や東山などと違って密集していないので、歩いて回るにはかなり効率が悪い所であり、”未訪問寺社”が解消されずにいたので、以前からマークしていたのである。


「岩屋寺」  (いわやじ)
        京都市山科区西野山桜ノ馬場町
        宗洞宗
        拝観無料  駐車無料


D75580t

D75583t

D75585t

D75587t


地面に落ち葉を敷き詰めた素敵な庭。
しかし、所詮は落ち葉間もなく枯れ果てて”ゴミ”と見なされ捨てられる運命だ。
秋は何とも心寂しくなるものだ!。


D75590t

D75616t

D75622t

D75591t


京都市山科(やましな)区西野山桜ノ馬場町にある曹洞(そうとう)宗の寺。智証(ちしょう)大師(円珍(えんちん))の作と伝えられる本尊不動明王は、浅野家の遺臣大石良雄(よしお)が山科に隠棲(いんせい)していたときの念持仏であった。境内には47人の赤穂(あこう)義士の木像を安置する木像堂、大石良雄植髪之墓がある。寺宝として大石の手跡が残されており、義士ゆかりの寺として訪れる人が多い

D75592t

D75593t

D75623t

D75604t

D75602t

D75612t


お寺の紹介をしていながらも、寺のもっとも肝心の「ご本尊様」の写真は殆ど掲載していない。これでは本当の紹介記事とは言えないとのご指摘は充分承知しているが、残念ながら多くの寺、有名な寺ほど、撮影禁止の張り紙があるからなのだ。

何故かと聞くと、仏様にカメラを向けることがいかんと言うのだが、寺のパンフレットやホームページや、各種文献などにいくらでも写真は載せられている。この写真を撮ったカメラマンは既に”罰”が当たってこの世にいないのだろうか?。

不思議な事にこの地蔵さん方にはそんな立て札もないので、撮らせて戴いたが、どうせこの先長くはない体、”罰”が当たってもええわい!、何事も撮れる時に撮って置くべしと思ったのである。

D75595t


この「岩屋寺」から山を越えて直線距離約2kmで伏見稲荷、その北は東福寺、泉涌寺などがあるが、山を越えるにはかなり迂回しなければならない、この辺りは昨年の春、醍醐寺から勧修寺を経て京都駅に帰る時に歩いた道だ。秋には入ってない「勧修寺」の門付近に来ると再度ここに入りたい衝動をぐっと押さえて通過し「隋心院」に向ったのであるが、それは次回に紹介したい。


2011.12.10(土)、例年ならもう紅葉は落ちてしまう時期ではあるが、幸にして今年は全国的に遅れているようで、微かな望みは叶えられ、ここは辛うじて間に合ったようで、元気が湧いてくると共に、大変に嬉しくなって、珍しく賽銭に百円硬貨が複数に成って来た。


「毘沙門堂」  (びしゃもんどう)
         京都市山科区安朱稲荷山町
         天台宗五箇室門跡  護法山
         拝観料境内無料、堂内¥500  駐車料無料(祭時は臨時駐車場あり) 


D75456t

D75462t

D75544t

D75541t


寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。

建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう、786 - 853)の創建で、太秦(うずまさ、現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 - 1017)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王(1669 - 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。


D75464t


この枝垂れ桜が咲いたらもう一度訪問したいものだ。

D75468t

D75473t

D75578t

D75474t

D75475t

これより本堂に入る(有料)

D75500t

D75504t

D75523t

D75527t

D75558t

D75566t


「勅使門}

D75567t

   
山科はこの辺りが北端になり、一旦山を降りて、北西に向えば南禅寺を初め多数の寺があるが、今日は初の単独長距離飛行、遠くには行かない計画である。そのために、山科から宇治に下り、帰路は京滋バイパスを使う予定のため南下し、目的地をまだ訪れてない寺に絞ったので、次は「岩屋寺」としたが、それは次回に紹介したい。



病み上がり以降1ヶ月余り続いた隔日発行のこのブログも、天候と都合に行く手を阻まれて途切れそうになり、気にしていたところ、2011.12.10(土)、朝8時近くになってからではあったが、起きて見ると天気もよし、そろりと伺うと単独行の許可も下りた、急いで仕度をして、兎に角飛び出したのは9時を回っていた。

行き先は花の無い時期となれば、自ずから京都か奈良になる。奈良は先日行ったので、ならば京都しかないと、高速に乗り走りながら行き先を考えた。
京都や奈良の寺社のことなら、大凡は頭に入ってる、しかし、術後の単独長距離走は初めてであるから、京都南ICで降りた周辺、それが山科なのである。出発が遅かったこともあり、山科後は宇治方面とすれば、帰路は京滋バイパスを通れば早いと読んで走ったのである。

今日は土曜日西名阪も新名神も車は多いが、楽々100Km/hを超えて走る事が出来たが、ICを出たとたん、国道は大渋滞、最初の訪問先をICに近い所にナビはセットしてあるので、かなり狭いがわき道に入って、10分もせずに目的の地蔵さんに到着した。


「徳林庵」    (とくりんあん)  通称:山科廻地蔵 山科地蔵 四ノ宮地蔵  
          京都市山科区四の宮泉水町
          臨済宗南禅寺派  柳谷山
          拝観境内無料  駐車場無し 

D75441t


「六地蔵縁起」(大善寺:1665年(皇紀2325)寛文5年)によると平安時代初期小野篁が、亡くなったとき冥土において生身の地蔵菩薩に出会い、教えに従って蘇生した
 852年(皇紀1512)仁寿2年小野篁は、木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(現在の
大善寺)に安置した
 1157年(皇紀1817)保元2年都では疫病が流行し、
後白河天皇は、都の出入り口に六体の地蔵尊を祀るよう平清盛に勅命する
勅命を受けた平清盛は、京洛の入口6カ所にそれぞれ六角円堂を建て1体ずつ分置し、西光法師に命じて供養させた
琵琶の名手だった仁明天皇第四皇子 四之宮 人康親王(さねやすしんのう)が失明され、この地に移り住まわれる
 1550年(皇紀2210)天文19年
人康親王の菩提を弔うために、子孫の
南禅寺第260世 雲英正怡禅師(うんえいしょういぜんじ)が創建する
 
江戸時代
 人康親王は、盲人・座頭の祖神とされ、毎年2月16日に、人康親王を弔うため、検校位を持つ琵琶法師たちにより琵琶演奏が行われた


D75439t

このお堂の前の道、車がすれ違うも容易ではない狭さであるが、旧東海道、旧三条通りと言う。昔はこれで良かったのかとつくづく思う。

D75443t

D75447t

D75448t

D75451t


上に書かれている「人康親王」の墓だそうだ。

D75450t


寺のホームページには駐車3台は可と書いてあったが、見当たらなかったので、路上駐車とし、急いで撮影しそそくさと次の訪問地「毘沙門堂」に向った。それは次回のブログとしたい。



本日(12/14)12.00に投稿した”湯の山温泉の紅葉”は、掲載した写真が余りにもレベルが低かったので、取り下げました。まだ、隔日投稿を続ける積りのため、写真の出来は代わり映えしませんが、この”山科宇治の古寺シリーズ”を繰り上げて投稿しました。そのために”湯の山温泉の紅葉”にご投稿いただいたコメントは見ることが出来ません(削除はしてません)のでご承知置き下さい。

2011.11.26(土)、多くの所で紅葉が遅れているが、我が家から近い湯の山温泉街周辺は如何かとやってきたが、いまひとつはっきりしない色加減だ、これはやはり異常現象なのだろうかと思いつつ回って見た。

昔と違って、温泉宿も泊まり客相手の店もどんどん減りつつある「湯の山温泉街」である。土曜日と言うのに殆ど人通りの無い寂しい温泉街である。御在所ロープウエーもあることだから、活性化を図ろうとするご仁はいないものかと思う。


「湯の山温泉」    三重県菰野町

D75384t

「大石」周辺

D75428t

D75433t

「三岳寺」の紅葉

D75415t

D75419t


「三岳寺」から見た御在所岳頂上付近とロープウエー

D75422t


2年続けて御在所ロープウエー(山上往復¥2100、駐車料¥800)の「年間パスポート(¥12,000)」を10月に購入し、昨年度は夏冬合わせて10回頂上に上ったので、充分元を取ったが、今年は4回に留まったのは大変残念なことであった。
伊吹山などとは気候条件が異なるからか、咲く花の種類が圧倒的に少なく、他に見るべき物が頂上付近には少ない事から、毎年再々上るには少し物足りない場所と思う。
少なくとも上がりか下りの片道は登山道を歩けば得られるものが増えるが、この山は結構厳しいので、それも私には難しい。
その上、今は到底山歩きなど出来ない体になったので、年間パスポートは有効期間が切れたままに放置してあり、今後はどうするか思案中である。




非公開としていたが、整理の都合上、後日(20120225)公開とした。

2011.11.26(土)、11月も下旬に入るも紅葉の名所とされる「もみじ谷」が色付いたとの情報が聞こえて来ないので、痺れを切らしやってきた。
来て見ると案の定、まだまだ本格的な色には程遠いが、それを記録に残したいと言うのは言い訳に過ぎない。実はブログのネタ切れのために、投稿せざるを得ないのである。お許しの程願いたし。


「もみじ谷」   四日市市水沢町

D75367t

D75327t

D75363t

D75369t

D75330t

D75334t

D75340t

11月も下旬というのに、まだまだ緑のまんま!。来る人もまばら!。これでは地元観光協会さん方は気がもめることと推測する。

D75345t

D75382t


祭の期間中ながら、紅葉はご覧の通り、まだまだであった。ここは特に遅れているように感じた。この記事を掲載する頃には、本来の色になってるであろうが、少し寂しい紅葉鑑賞となった。

体調と天気をよく睨みながら、そろりそろりと活動範囲を広げつつあるが、今日は我が家から車で小一時間で行ける「河内渓谷」に行く事にした。今日は相棒の体調が悪いので、こまごまと注意を受けての、術後初の単独行動である。(2011.11.24(木))


河内」渓谷
         津市安濃町
         安濃川の上流、安濃ダムの直ぐ下流にあり。

D75191t

D75203t

「門前ヶ淵」と言われる所(長徳寺と美濃夜神社の略中ほどにあり)

D75196t

D75186t

橋の上流側(ダム側)を見る。

D75194t


「安濃ダム」

D75210t

河川安濃川水系安濃川
目的/型式A/重力式コンクリート
堤高/堤頂長/堤体積73m/212m/246千m3
流域面積/湛水面積27.5km2/49ha
総貯水容量/有効貯水容量10500千m3/9800千m3
ダム事業者東海農政局
本体施工者前田・大日本土木
着手/竣工1972/1989
ダム湖名錫杖湖(しゃくじょうこ)


D75222t

D75245t

D75250t

ダムの周辺には多数の展望台や休憩場所が作られているが、紅葉は殆どなく、かと言って、桜の木も多くは無いが、何を見せようとしているのかよく解らない。

D75286t


きれいな所だけを切り取ったものではあるが・・・

D75300t

D75301t

D75303t


かくして初の単独飛行は早目の帰還で無事に幕を閉じた、またひとつ実績が積み上がった、今度は更に距離をのばそうと考えている。
とはいうものの、花が無い時期は私には活動範囲が限定される、結局お寺か神社になるのだが・・・・・・。

2011.11.21(月)、遅れながらもようやく色付き始めた紅葉を求めて奈良の北部、「芳徳寺」、京都府に一旦入って、「岩船寺」、「浄瑠璃寺」を、再度奈良市に来て「円成寺」を見た後、市中心部を通過して南下し、「正歴寺」と計5の寺を見て来た。
今日はまだ体力が少々残っているので、元気を出して次の訪問地に入った。


「弘仁寺」   (こうにんじ)  通称:高桶の虚空蔵さん
         奈良市
         真言宗  高野山 
         拝観料¥200  駐車料無料

D75162t

D75183t

弘仁5年(814年)、嵯峨天皇の勅願により、空海が創建したと伝えられる。空海は、自ら彫った虚空蔵菩薩像を本尊として安置したという。或いは、小野篁を創建者とする説もある。また、先立つ大同2年(807年)に、この地に明星が隕ちたことから、空海が神聖な土地として寺を建立したとも伝えられる。

元亀3年(1572年)、松永久秀の兵火により、伽藍の大部分が焼失する。

寛永6年(1629年)、宗全によって再興される。

D75165t

D75168t

D75170t

D75172t

D75173t

D75176t

D75179t

D75181t


今日はもう一つ、帰路の途中にある「神野寺」を予定していたが、最近にしては珍しく妻の方が疲労を訴えたし、私もかなりへたって来たので、帰路の安全運転のためにも無理は禁物と、殊勝にもあっさり諦めて本日はこれにて帰還することとした。自ら車を運転しての若干の遠出の実績がこれで出来た訳で、次へのステップを踏み出すことが出来るのである。


これにて「奈良古寺めぐり」は完結とするが、私が今,奈良の古寺として取り上げたのは、旅のガイドブックなどに書かれている、由緒のありそうな82寺としている。
この内、昨年までに28寺を見たが、今年は今回の6寺を含めて12寺であったから、82の内まだ34しか見てないことになるが、今年の奈良はこれにて”打ち止め”としたい。
ちなみに、京都は古寺を154としており、昨年までに47、今年17で合計63、ここもまだ半数に達していないのである。今年も残す所約1ヶ月、もう一度京都に、はたして行けるか否か・・・・・・・?。

このページのトップヘ