木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

2011年12月

京都は観光客など多く道路は混雑する、また駐車料無料の所が少ない半面、寺社が密集しているので、車で回るよりは、適当な所に車を止めて数Km位の範囲を歩く方法が適している。
一方、奈良は寺社のある間隔が離れているので、歩くのには適さない、幸にして、駐車場は無料の所が多くて歩くよりも車で回る方が楽であり効率的なのだ。
特に今は歩いて疲労が増えると多くの寺社を見て歩けないので、今日(2011.11.21(月))は奈良に来た。

奈良県北部、京都府南端で4つの寺を見た、そして国道369に出て、奈良公園の中を付き切り南下して、奈良市南部までやってきた。


「正歴寺」    (しょうりゃくじ)
          真言宗 菩提山(ぼだいせん)本山
          奈良市菩提町
          拝観料¥500(本堂、福寿院共通)  駐車無料


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正暦3年(992年)、一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建した。往時には、報恩院以下86坊の堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、治承4年(1180年)に、平重衡による南都焼き討ちによって焼失した。

建保6年(1218年)、別当として南都焼き討ちで荒廃した興福寺の再興に約10年に渡り尽力した後、その地位を退いた大乗院院主の信円僧正が隠遁先として当寺を選び、「菩提山僧正」あるいは「菩提山御房」と呼ばれた。信円は当寺を法相宗の学問所として再興し、以後信円からその座を受け継いだ歴代大乗院門跡が当寺の門跡を兼帯、興福寺の別院正願院門跡となった。金堂、弥勒堂、講堂、十三重宝塔、経蔵、御影堂、鐘楼、六所社および別院などが整備された。また、報恩院家が開山の兼俊僧正の別院として寺務を管轄し、安養院と別院仰接院は浄土宗の念仏道場となった。

江戸時代に入り、慶長6年(1601年)には寺禄は約1000石を数えていたが、応仁の乱後に再興された82坊によって、往時の様を取り戻していた。本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などの堂塔伽藍が建ち並んでいたという。

寛永6年(1629年)、堂塔伽藍が焼失、300石の朱印地を与えられることとなった。江戸中期以降は、法相宗の影響が次第に薄れ、真言宗仁和寺の末寺となった。

明治廃仏毀釈によって荒廃した。往時の威容は、参道沿いに延々と続く石垣によってしのぶことができる。昭和42年(1967年)、本山仁和寺から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗る。


「福寿院」


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福寿院庭園

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「本堂」

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「僧侶の供養塔」

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「ナンテン」

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ここの紅葉はまだ緑が多くて紅葉には居たってないが、その代わりにとばかりに、「ナンテン」と「マンリョウ」が精いっぱい赤くなって我々を迎えてくれた。

このすぐ近くに「円照寺」があるが、非公開のために飛ばして、「弘仁寺」に入ったがそれは次回に紹介したい。





2011.11.21(月)、奈良県柳生の里の「芳徳寺」、京都府木津川市にある「岩船寺」「浄瑠璃寺」を見たあと、再び奈良県を走る国道369に出て、その道沿いにある「円成寺」に入ることにした。


「円成寺」  (えんじょうじ)  
        真言宗 御室派  山号:忍辱山(にんにくせん)
        奈良市忍辱山町
        拝観料¥400  駐車無料

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この寺は珍しく、門の外に池と庭園が作られ、紅葉が見事に色づいていた。

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「楼門」(ここからは入れない)

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寺に伝わる「和州忍辱山円成寺縁起」によれば、沿革は次の通りである。

天平勝宝8歳(756年)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真の弟子にあたる僧・虚瀧(ころう)により開創される。万寿3年(1026年)に命禅が再興して十一面観音を祀ったという。しかし、鑑真とともに来日した僧の中に虚瀧なる人物は実在せず、奈良時代にさかのぼる遺品、出土品等も見当たらない。以上のことから、この草創縁起は後世の仮託と思われ、「中興の祖」とされている命禅が円成寺の実質的な開基であると推定されている。

平安時代末期の保元元年(1156年)、京都仁和寺の寛遍が東密忍辱山流(とうみつにんにくせんりゅう)を開き、寺運は興隆した。この頃に本尊が当初の十一面観音から阿弥陀如来に代わったと思われる。

室町時代、応仁の乱(1466年-1476年)の兵火により堂塔伽藍の大半が焼失したが、栄弘が入り再興された。

江戸時代は寺中に子院23か寺を有するほどであった。

明治の廃仏毀釈による混乱により衰え、現在に至る。

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「本堂」

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「イチゴノキ」との表示がり、花と実が同時になっていた。

  「イチゴノキ」は下記に若干の記述があります。(木燃花図鑑)
     http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-526.html

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ここら辺り一帯は柿の名産地、小粒で丸いが、これも渋柿か?。

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術後初の長距離運転、ここまで来て走行距離120Kmを超えたが、まだ体力は充分あり、次の訪問地の「正歴寺」に向けて、奈良公園の中を走る国道369を南下し始めた。

そろりそろりと様子をみながら、自力での”お出掛け”の範囲を広げているが、今日は私がハンドルを握り、少し足を伸ばして、奈良の古寺を廻ってみようとやってきた。

一旦奈良市に入り「芳徳寺」を見たあと、近くの寺を総なめしようとして、京都の南端木津川市に入り、「岩船寺」のすぐ近くの「浄瑠璃寺」に来たのである。


「浄瑠璃寺」  (じょうるりじ)   通称:九体寺(くたいじ)
         真言律宗 小田原山            
         京都府木津川市加茂町西札場 
         拝観料境内無料  駐車料¥300

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浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。

浄瑠璃寺の起源や歴史については、当寺に伝来する『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるきのこと)という14世紀の記録が唯一のよりどころである。それによると、当寺は永承2年(1047年)、当麻(たいま、現・奈良県葛城市)の僧・義明上人を開基(創立者)、阿知山大夫重頼を檀那(後援者)とし、薬師如来を本尊として創建されたものであるという。義明上人、阿知山大夫重頼の2人の人物については、詳しいことはわかっていないが、重頼は地元の小豪族であろうと推定されている。

浄瑠璃寺は九体阿弥陀如来を安置する寺として知られているが、創建当初の本尊は薬師如来であった。九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立は創建から60年後の嘉承2年(1107年)のことであった。1つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。「九品往生」とは「観無量寿経」に説かれる思想で、極楽往生(人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる)のしかたには、仏の教えを正しく守る者から、極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えである。

中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。


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「本堂」

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本堂と池を挟んで正面に位置する「三重塔」

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「三重塔」

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「梵鐘」

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境内を見て回って、かすかな記憶が蘇った。確かここはかなり前に来ているが、何時誰と来たのかが全く思い出せない。大好きな作りの建造物や庭なのに思い出せない。ついにボケたか?。







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