木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

カテゴリ : 紅葉

2011.12.10(土)、朝起きて空を見て、突然遠出の撮影行を思い付き、出る事を決断して1時間も経たずして家を飛び出し、京都山科にやってきた。この後は宇治方面にも行く積りであるが、この辺りはお寺などが洛中や東山などと違って密集していないので、歩いて回るにはかなり効率が悪い所であり、”未訪問寺社”が解消されずにいたので、以前からマークしていたのである。


「岩屋寺」  (いわやじ)
        京都市山科区西野山桜ノ馬場町
        宗洞宗
        拝観無料  駐車無料


D75580t

D75583t

D75585t

D75587t


地面に落ち葉を敷き詰めた素敵な庭。
しかし、所詮は落ち葉間もなく枯れ果てて”ゴミ”と見なされ捨てられる運命だ。
秋は何とも心寂しくなるものだ!。


D75590t

D75616t

D75622t

D75591t


京都市山科(やましな)区西野山桜ノ馬場町にある曹洞(そうとう)宗の寺。智証(ちしょう)大師(円珍(えんちん))の作と伝えられる本尊不動明王は、浅野家の遺臣大石良雄(よしお)が山科に隠棲(いんせい)していたときの念持仏であった。境内には47人の赤穂(あこう)義士の木像を安置する木像堂、大石良雄植髪之墓がある。寺宝として大石の手跡が残されており、義士ゆかりの寺として訪れる人が多い

D75592t

D75593t

D75623t

D75604t

D75602t

D75612t


お寺の紹介をしていながらも、寺のもっとも肝心の「ご本尊様」の写真は殆ど掲載していない。これでは本当の紹介記事とは言えないとのご指摘は充分承知しているが、残念ながら多くの寺、有名な寺ほど、撮影禁止の張り紙があるからなのだ。

何故かと聞くと、仏様にカメラを向けることがいかんと言うのだが、寺のパンフレットやホームページや、各種文献などにいくらでも写真は載せられている。この写真を撮ったカメラマンは既に”罰”が当たってこの世にいないのだろうか?。

不思議な事にこの地蔵さん方にはそんな立て札もないので、撮らせて戴いたが、どうせこの先長くはない体、”罰”が当たってもええわい!、何事も撮れる時に撮って置くべしと思ったのである。

D75595t


この「岩屋寺」から山を越えて直線距離約2kmで伏見稲荷、その北は東福寺、泉涌寺などがあるが、山を越えるにはかなり迂回しなければならない、この辺りは昨年の春、醍醐寺から勧修寺を経て京都駅に帰る時に歩いた道だ。秋には入ってない「勧修寺」の門付近に来ると再度ここに入りたい衝動をぐっと押さえて通過し「隋心院」に向ったのであるが、それは次回に紹介したい。


2011.12.10(土)、例年ならもう紅葉は落ちてしまう時期ではあるが、幸にして今年は全国的に遅れているようで、微かな望みは叶えられ、ここは辛うじて間に合ったようで、元気が湧いてくると共に、大変に嬉しくなって、珍しく賽銭に百円硬貨が複数に成って来た。


「毘沙門堂」  (びしゃもんどう)
         京都市山科区安朱稲荷山町
         天台宗五箇室門跡  護法山
         拝観料境内無料、堂内¥500  駐車料無料(祭時は臨時駐車場あり) 


D75456t

D75462t

D75544t

D75541t


寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。

建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう、786 - 853)の創建で、太秦(うずまさ、現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 - 1017)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王(1669 - 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。


D75464t


この枝垂れ桜が咲いたらもう一度訪問したいものだ。

D75468t

D75473t

D75578t

D75474t

D75475t

これより本堂に入る(有料)

D75500t

D75504t

D75523t

D75527t

D75558t

D75566t


「勅使門}

D75567t

   
山科はこの辺りが北端になり、一旦山を降りて、北西に向えば南禅寺を初め多数の寺があるが、今日は初の単独長距離飛行、遠くには行かない計画である。そのために、山科から宇治に下り、帰路は京滋バイパスを使う予定のため南下し、目的地をまだ訪れてない寺に絞ったので、次は「岩屋寺」としたが、それは次回に紹介したい。



2011.11.26(土)、多くの所で紅葉が遅れているが、我が家から近い湯の山温泉街周辺は如何かとやってきたが、いまひとつはっきりしない色加減だ、これはやはり異常現象なのだろうかと思いつつ回って見た。

昔と違って、温泉宿も泊まり客相手の店もどんどん減りつつある「湯の山温泉街」である。土曜日と言うのに殆ど人通りの無い寂しい温泉街である。御在所ロープウエーもあることだから、活性化を図ろうとするご仁はいないものかと思う。


「湯の山温泉」    三重県菰野町

D75384t

「大石」周辺

D75428t

D75433t

「三岳寺」の紅葉

D75415t

D75419t


「三岳寺」から見た御在所岳頂上付近とロープウエー

D75422t


2年続けて御在所ロープウエー(山上往復¥2100、駐車料¥800)の「年間パスポート(¥12,000)」を10月に購入し、昨年度は夏冬合わせて10回頂上に上ったので、充分元を取ったが、今年は4回に留まったのは大変残念なことであった。
伊吹山などとは気候条件が異なるからか、咲く花の種類が圧倒的に少なく、他に見るべき物が頂上付近には少ない事から、毎年再々上るには少し物足りない場所と思う。
少なくとも上がりか下りの片道は登山道を歩けば得られるものが増えるが、この山は結構厳しいので、それも私には難しい。
その上、今は到底山歩きなど出来ない体になったので、年間パスポートは有効期間が切れたままに放置してあり、今後はどうするか思案中である。




非公開としていたが、整理の都合上、後日(20120225)公開とした。

2011.11.26(土)、11月も下旬に入るも紅葉の名所とされる「もみじ谷」が色付いたとの情報が聞こえて来ないので、痺れを切らしやってきた。
来て見ると案の定、まだまだ本格的な色には程遠いが、それを記録に残したいと言うのは言い訳に過ぎない。実はブログのネタ切れのために、投稿せざるを得ないのである。お許しの程願いたし。


「もみじ谷」   四日市市水沢町

D75367t

D75327t

D75363t

D75369t

D75330t

D75334t

D75340t

11月も下旬というのに、まだまだ緑のまんま!。来る人もまばら!。これでは地元観光協会さん方は気がもめることと推測する。

D75345t

D75382t


祭の期間中ながら、紅葉はご覧の通り、まだまだであった。ここは特に遅れているように感じた。この記事を掲載する頃には、本来の色になってるであろうが、少し寂しい紅葉鑑賞となった。

体調と天気をよく睨みながら、そろりそろりと活動範囲を広げつつあるが、今日は我が家から車で小一時間で行ける「河内渓谷」に行く事にした。今日は相棒の体調が悪いので、こまごまと注意を受けての、術後初の単独行動である。(2011.11.24(木))


河内」渓谷
         津市安濃町
         安濃川の上流、安濃ダムの直ぐ下流にあり。

D75191t

D75203t

「門前ヶ淵」と言われる所(長徳寺と美濃夜神社の略中ほどにあり)

D75196t

D75186t

橋の上流側(ダム側)を見る。

D75194t


「安濃ダム」

D75210t

河川安濃川水系安濃川
目的/型式A/重力式コンクリート
堤高/堤頂長/堤体積73m/212m/246千m3
流域面積/湛水面積27.5km2/49ha
総貯水容量/有効貯水容量10500千m3/9800千m3
ダム事業者東海農政局
本体施工者前田・大日本土木
着手/竣工1972/1989
ダム湖名錫杖湖(しゃくじょうこ)


D75222t

D75245t

D75250t

ダムの周辺には多数の展望台や休憩場所が作られているが、紅葉は殆どなく、かと言って、桜の木も多くは無いが、何を見せようとしているのかよく解らない。

D75286t


きれいな所だけを切り取ったものではあるが・・・

D75300t

D75301t

D75303t


かくして初の単独飛行は早目の帰還で無事に幕を閉じた、またひとつ実績が積み上がった、今度は更に距離をのばそうと考えている。
とはいうものの、花が無い時期は私には活動範囲が限定される、結局お寺か神社になるのだが・・・・・・。

2011.11.21(月)、奈良県柳生の里の「芳徳寺」、京都府木津川市にある「岩船寺」「浄瑠璃寺」を見たあと、再び奈良県を走る国道369に出て、その道沿いにある「円成寺」に入ることにした。


「円成寺」  (えんじょうじ)  
        真言宗 御室派  山号:忍辱山(にんにくせん)
        奈良市忍辱山町
        拝観料¥400  駐車無料

D74956t

この寺は珍しく、門の外に池と庭園が作られ、紅葉が見事に色づいていた。

D74962t

D74967t

「楼門」(ここからは入れない)

D74969t


D74963t


寺に伝わる「和州忍辱山円成寺縁起」によれば、沿革は次の通りである。

天平勝宝8歳(756年)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真の弟子にあたる僧・虚瀧(ころう)により開創される。万寿3年(1026年)に命禅が再興して十一面観音を祀ったという。しかし、鑑真とともに来日した僧の中に虚瀧なる人物は実在せず、奈良時代にさかのぼる遺品、出土品等も見当たらない。以上のことから、この草創縁起は後世の仮託と思われ、「中興の祖」とされている命禅が円成寺の実質的な開基であると推定されている。

平安時代末期の保元元年(1156年)、京都仁和寺の寛遍が東密忍辱山流(とうみつにんにくせんりゅう)を開き、寺運は興隆した。この頃に本尊が当初の十一面観音から阿弥陀如来に代わったと思われる。

室町時代、応仁の乱(1466年-1476年)の兵火により堂塔伽藍の大半が焼失したが、栄弘が入り再興された。

江戸時代は寺中に子院23か寺を有するほどであった。

明治の廃仏毀釈による混乱により衰え、現在に至る。

D74972t

D74997t

D75001t

D75004t

D75008t

「本堂」

D75012t

D75042t

D75046t

D75057t

D75055t


「イチゴノキ」との表示がり、花と実が同時になっていた。

  「イチゴノキ」は下記に若干の記述があります。(木燃花図鑑)
     http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-526.html

D75022t

D75026t

D75065t

ここら辺り一帯は柿の名産地、小粒で丸いが、これも渋柿か?。

D74970t


術後初の長距離運転、ここまで来て走行距離120Kmを超えたが、まだ体力は充分あり、次の訪問地の「正歴寺」に向けて、奈良公園の中を走る国道369を南下し始めた。

そろりそろりと様子をみながら、自力での”お出掛け”の範囲を広げているが、今日は私がハンドルを握り、少し足を伸ばして、奈良の古寺を廻ってみようとやってきた。

一旦奈良市に入り「芳徳寺」を見たあと、近くの寺を総なめしようとして、京都の南端木津川市に入り、「岩船寺」のすぐ近くの「浄瑠璃寺」に来たのである。


「浄瑠璃寺」  (じょうるりじ)   通称:九体寺(くたいじ)
         真言律宗 小田原山            
         京都府木津川市加茂町西札場 
         拝観料境内無料  駐車料¥300

D74875t

D74877t

浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。

浄瑠璃寺の起源や歴史については、当寺に伝来する『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるきのこと)という14世紀の記録が唯一のよりどころである。それによると、当寺は永承2年(1047年)、当麻(たいま、現・奈良県葛城市)の僧・義明上人を開基(創立者)、阿知山大夫重頼を檀那(後援者)とし、薬師如来を本尊として創建されたものであるという。義明上人、阿知山大夫重頼の2人の人物については、詳しいことはわかっていないが、重頼は地元の小豪族であろうと推定されている。

浄瑠璃寺は九体阿弥陀如来を安置する寺として知られているが、創建当初の本尊は薬師如来であった。九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立は創建から60年後の嘉承2年(1107年)のことであった。1つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。「九品往生」とは「観無量寿経」に説かれる思想で、極楽往生(人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる)のしかたには、仏の教えを正しく守る者から、極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えである。

中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。


D74885t


「本堂」

D74918t


本堂と池を挟んで正面に位置する「三重塔」

D74888t

D74900t


「三重塔」

D74905t

D74907t

D74908t

D74915t

D74924t

D74939t


D74934t

D74954t


「梵鐘」

D74942t


境内を見て回って、かすかな記憶が蘇った。確かここはかなり前に来ているが、何時誰と来たのかが全く思い出せない。大好きな作りの建造物や庭なのに思い出せない。ついにボケたか?。







遅れている紅葉を待ち兼ねて、滋賀湖東、京都嵯峨野を見たが、まだ少し早く、本格的な紅葉には巡り合っていない。紅葉は急激で大きい気温低下で染まると聞いているが、ここの所は暖かい日が多く。まれに寒さが増してもそれほど温度差は大きくは無なかった。

2011.11.21(月)、朝起きて見ると、この秋一番の冷え込み、しかも天気も私の体調も良好。こうなったらもう出掛けるしかないと、予てから準備万端の”奈良古寺めぐり”に行こうとしたが、少しでも暖かい都会地よりも山間部の方が気温差は大きいだろうと考え、奈良北部、京都府の南端部の6~7ヶ所の古寺に焦点を絞った。

最初は””剣豪の足音が聞こえる・・・柳生の里””との声が高らかに聞こえる!。

「芳徳寺」  臨済宗大徳寺派  神護山芳徳禅寺
        奈良市柳生下町
        市営駐車場¥600  拝観料¥200(資料館を含む)


D74750t

D74754t

D74753t

柳生藩柳生氏菩提寺。柳生の地区を一望できる高台に位置し、門前の坂の途中に正木坂剣禅道場を構える。柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ。

北から寺へ登る坂が霊源坂、その登り口の橋は古楓橋であり、東南の小高い台地である山王台(清風台)とともに柳生十景に挙げられている。また、霊源坂の中ほど東側の地が柳生宗厳(石舟斎)の居住地とされる。

寛永15年(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩の開基、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した。宗矩の子列堂義仙が第一世住持となり、宗矩の遺領1万2500石のうち200石が芳徳寺に寺領として分与された。宝永8年(1711年)の火災により全焼したが、正徳4年(1714年)に再建された。

廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義が資金を遺贈し、本堂が再建された。その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた。


本堂には本尊の他、木造沢庵和尚坐像および、木造但馬守宗矩坐像を安置している。また、伝柳生三厳筆「月乃抄」などの寺宝を伝え、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されている。

木造但馬守宗矩坐像は慶安4年(1651年)に宗矩の7回忌にあたり、柳生宗冬が京都の大仏師康看に彫らせたもの。また、木造沢庵和尚坐像は明暦3年(1657年)に、列堂が京都の大仏師康春に彫らせたものであり、ともに前述の火災を免れ、今に伝えられている。



D74756t


ここに来て、やっと本物の”真紅の紅葉”を見る事ができて、来てよかったと実感!。

D74757t

D74758t

D74759t

D74760t


本堂内部

D74765t


資料館

D74774t

D74777t

D74785t

D74793t

D74796t

D74805t


「ヤツデ」  ウコギ科

D74808t



ここから国道369を少し下がると”小桜”の名所と聞く「南明寺」があるが、現在は未公開となってるので通過して、県道を走り京都府に入り、「岩船寺」を尋ねたのであるが、それは後述としたい。
                                                                                                 

2011.11.04(金)、遅れ気味の紅葉に辛抱を切らし出て来たものの、紅葉の色付きはよくなく、その上、体調不良が重なって、難行苦行のお寺参りとなったが、最低3ヶ所は回らねばとの欲が帰る事を許さず、カメラを助手に持たせてまで上ったのであった。


「金剛輪寺」  天台宗 松峰山
         滋賀県愛知郡愛相町松尾寺
         拝観料¥500  駐車無料 

「黒門」

D74372t

琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、奈良時代の僧・行基の開創と伝える。行基は河内国家原(現・大阪府堺市)の出身で、出身地の河内を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる。行基の開創を伝える寺院は現在の大阪府や奈良県を中心に各地に多いが、当寺もその1つである。行基がこの地に一寺を建立したのは、文献によって天平9年(737年)とも言い、あるいは天平13年(741年)とも伝える。

その後、平安時代前期の嘉承年間(848-851年)には天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。行基の創建伝承についてはどこまで史実を伝えるものか定かでないが、当初は観音を祀る小堂であったものが、平安時代に入って近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台寺院として発展したものと思われる。また、金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があるとみられている。

平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残り、現存する本堂は、弘安11年(1288年)、近江守護佐々木頼綱の寄進を得て建てられたもので、この頃の金剛輪寺はかなりの規模をもっていたと思われる。天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。



D74441t



D74377t


参道などにはセメントで造られた「千体地蔵」が風車とよだれかけで飾られて数多く並べられているので、”水子供養”と思われるが、そのことは寺のパンフレットには記述がないのは何故か不明。

D74387t

D74389t


急な坂道ではないが、えんえんと続く参道は、既に体力の限界に来ている体には厳しい。少し歩く度に一休みしなければならなかったが、途中で何度も妻が引き返そうと言うが聞かなかった。手すり磨きのやせ我慢の参拝となった。

D74383t

D74396t


「三重塔(待龍塔)」

D74397t

D74408t

D74411t


「明寿院」

D74417t


「ツワブキ」
     {参考}
      http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-325.html

D74431t


湖東三山としては、「百済寺」、ここ「金剛輪寺」の他に「西明寺」がここから数Kmの所にあるが、
家を朝9時過ぎに出て、まだ3ヶ所見ただけなのに、早くも少し日が傾いてきた。如何にのろのろ歩いているのかが解ると思う。出る時は快調だったが、早くも疲労困憊、「金剛輪寺」の坂道がこんなに長くつらいものだと改めて知らされたようだ。

いつものことではあるが、痛み止めは日に2回服用しており、午後も3時を廻ると効き目が薄くなり痛みが増えるのだ。帰り路の車運転もありこれが限度、「西明寺」は諦めて、帰路に着いた。

2011.11.04(金) 遅れ気味の紅葉を待ち兼ねて、まだ少し早いと思いつつも、紅葉の名所と言われる琵琶湖の東、つまり「湖東」の寺を見に来た。「永源寺」の次は・・・・・


「百済寺」   天台宗 釈迦山
         滋賀県東近江市百済寺町

         拝観料 ¥500   駐車無料

D74296t

D74339t

琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈(えじ)とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。

平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。



D74305t

D74306t

D74346t

D74353t

D74355t


「喜見院の庭園」

D74313t

D74315t

D74318r


境内参道の両脇などに、多数の「ミツマタ」が植えられており、蕾が早くも出来ていた。花は春のはずであるから、何と気の早いことだろうか!。
道端の解説板によると、異常繁殖とも言える鹿達にも食べられず、常緑の葉は秋になっても美しく、境内緑化にも大いに貢献しているとある。木などにも爪跡さえなく、綺麗な状態でどんどん増やしているようだ。食べても余程不味いのであろう事が伺える、何せ”紙”だからねぇ!。

「ミツマタ」    花などは下記「木燃花図鑑」をご覧ください。  
                 http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-1.html

D74330t

「ミツマタ」はまだ木は小さいのが多いが、これが育って一斉に花を付けると、新聞などで紹介されて、見に来る人が増えて、有名になる日が来るのかも?。


「カンツバキ」か「サザンカ」の判別不能。
違いは花の散り方にあるが、それが判明するにはまだ少し時間が・・・

   「サザンカ」は下記を参考にしてください。
   http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-323.html

D74360t

D74364t


今年の紅葉は少し変だ!、単に遅れているのみならず、色が鮮明でなく美しさに欠ける気がする。もしかするとこのまま赤くならずに散ってしまうことを恐れている。
昨夜のTVであのきれいな香嵐渓でさえ、紅葉の色付きが悪いと報じていたことからも伺える。


家を出る時は”体調極めて良好”であったが、先に見た「永源寺」で坂道を少し無理をして昇ったためか、急に疲労は来るし、痛みは出るはで通常ならば、ベッドに寝転ぶ所なのだがそうも行かず、また、今ここで帰っては如何にも情けないので、もう一か所回ることとして、「金剛輪寺」に向った。


今年は秋になっても暖かい日が続き、紅葉はかなりおくれているが、2011.11.04(金)天気も体調も良好、まだ万全な体力には程遠いが、負けては居られないと、かなり”やせ我慢”状態ながら、紅葉へと駆り出す気持ちが勝ち、飛び出したのであった。

我が家の近くから、鈴鹿山系を超えて直接滋賀県に入る道は、昔からあっても、狭く険しくて、通るのを躊躇していた。その道は国道421号、別名「八風街道」といい、「石博(いしぐれ)峠」周辺の難所に今年トンネルが開通したと聞いていたので、この日を待っていた一面もあった。

車の振動が傷口を刺激しないよう、ゆっくりとした速さ、時には止まって紅葉を見たり、写真を撮ったりしながらも約37Kmを70分で紅葉の名所の「永源寺」に到着した。
なお、ここ「永源寺」は昨年も来ており、2010.10.26付けのブログに詳細を載せているので、今回は写真のみとする。

永源寺  臨済宗永源寺派大本山  
      滋賀県東近江市永源寺高野町
      拝観料¥500  駐車無料 
       

「山門」周辺はまだ緑一色だ!。

D74247t


「本堂」

D74238t


「梵鐘」

D74233t


「禅堂」

D74236t

D74220t

D74211t

D74261t

D74264t

D74275t

D74287t

D74292t


「含空院」

D74206t

D74202t


「ツワブキ」

D74243t


裏口の駐車場に車を止めたので、長めの坂道を往復したので、かなり体力を消耗したが、まだ最初の訪問に過ぎず、ドリンク剤など注入して先に進んだ。次の訪問先は湖東三山として名高い「百済寺」に向ったが、それは後報としたい。

三重県から直接滋賀県に入る主要なルートは5ヵ所あり。北から、

① 三重県いなべ市から鞍掛峠(h=640m)を経て、滋賀県の多賀神社のある多賀町に入る国道306号を通る道。
② いなべ市大安町石博(いしぐれ)から石博峠(h=690m)を経て、東近江市永源寺町に入る、八風(はっぷう)街道、国道421号線を通る道。
③ 菰野町湯の山温泉から、武平峠(h=520m)を経て、日野市に入る、鈴鹿スカイライン(無料)、国道477号線を通るルート。
④ 東名阪自動車道「亀山JCT」から、土山に入る、新名神高速道路を通るルート。
⑤ 亀山市から鈴鹿峠を経て、土山に入る国道1号線。

・・・・となっているが、②は石博峠を越えて滋賀県に入った所の数Km(?)は、道幅が極めて狭く、2Ton車以上は通行が許されていないし、もし途中で対向車があると、どちらかがかなりの道を戻らなければならなかったので、殆ど実用されていなかった。
紅葉で名の知れた永源寺にはこの道が最も近いが、通ったことは無かった。

また、③のスカイラインは三年前の集中豪雨により道路が崩れ落ち、通行不能が続いていた。
このため、湖東三山など名所が多い湖東方面は地図上では30Kmもない近い所にありながら、随分と迂回させられ長距離を走らねばならなかったのである。

これが先ず、①は、この春最大の難所に「石博トンネル(全長4157m)」が開通し、あちこちで道幅が広げられ、誰でも安心して通れるようになったのである。
また、③の「鈴鹿スカイライン」も漸く修復工事が完成しつい先日全面開通したので、滋賀県が私の家からは随分と近くなったのである。

陽気がなかなか寒くならず、紅葉が遅れ気味の昨日今日であるが、手術痕には寒くなるのは効けるので好ましくないが、この際は仕方がない、寒くなるのを待っているが、残念ながら暖かい日が続いている。
11月4日(金)、好天で暖かく”痛み”も気にならない、少々紅葉には早いが、ブログのネタも欲しい所、エイヤ!とばかりに、急遽飛び出したのである。


ルートはやはり初通過の八風街道とした。
下は街道有一の片側一車線(全幅7.5m)のトンネル「石博トンネル」で、滋賀県側より見る。

D74157t


トンネルを出たあたり、滋賀県側を見る。

D74159t


標高が600m程度の所故に、すでに紅葉は始まっていた。

D74160t

D74167t

D74169t

D74171t

D74174t

D74183t

D74175t


上記茶屋の入り口で、珍しい花を見つけたが、名前が解らない。はなびらがもっと沢山あって抜け落ちたのかもと思い、良く見たが抜け落ちた形跡は見当たらないが、唯一輪のみ咲いているばかりなので、確信は持てない。はなびらが3枚なのは、「エイレンソウ」があるが、状況が全く異なる。額らしきは4枚であった。

D74191t


ご存知「ホトトギス」。

D74196t


なお、帰路は「鈴鹿スカイライン」を通って来たが、沿線の紅葉は今が旬、「八風街道」よりも格段に色どりが鮮やかで美しく感じた。しかし、残念ながら、疲労のために、とてもカメラに向う気力はなく、ひたすら安全運転を心掛けて走ったのであるが、道路は一部はまだ修復の工事中で一方通行であったが、通行車両も多くなく、スムーズに帰ることができた。



この後、先ずは「永源寺」に向い、その後幾つの寺などを回れるかは、私の体力次第であるが、それは後編としたい。

 

No13  長谷寺(2/2)

少し時期を逸した感があるが、今年の紅葉はこれが最後だ!。

牡丹で名前を知られる「長谷寺」であるが、カレンダーなどプロの写真の被写体としてもよく見かける所である。ここは家から比較的近いこともあって、過去何回も訪れているが、紅葉の時期に来たのは初めての事で、大変美しいのには、改めて感動したものである。

先日その約半分を紹介したので、今日はその後半、最もきれいな所をお見せしたいのだ。

DSC_7621t
DSC_7634t
DSC_7626t
DSC_7629t
DSC_7639t
DSC_7642t
DSC_7645t
DSC_7647t
DSC_7648t
DSC_7649t
DSC_7650t
DSC_7655t
DSC_7652t
DSC_7659t
DSC_7666t
DSC_7667t
DSC_7672t
DSC_7677t
DSC_7681t
DSC_7682t
DSC_7690t

「本坊」へ入る門
DSC_7692t
DSC_7695t
DSC_7708t
DSC_7710t
DSC_7713t


以上、2010年の紅葉は、10/27の御在所岳を皮切りに、11/10に比叡山など湖西3ヶ所を、11/15に赤目四十八滝を、11/18に京都の高山寺など5ヶ所を、11/20に香嵐渓を、そして最後が、11/24に談山神社など3ヶ所を見て来た。

合計6の地域で、14ヶ所であったが、何処が一番かはそれぞれ甲乙点け難いほどに、全てが美しかった、歩いて、おしゃべりをして、コンビニのおにぎりを食べて、写真を撮って、ブログに載せて、コメントを戴いてなどと、お陰をもってたっぷり楽しむ事が出来た。これは関係する皆さんのご協力があったからこその事と、心からお礼を申すしだいである。それにもうひとつ、自身の健康にも感謝である。

                          完    


追記
次のブログからは、長編になるが、いよいよ”ニュージランド・シリーズ”が始まるよ!。

No 12  長谷寺(1/2)   奈良県桜井市

今年の紅葉は長谷寺で締めようと、一年半ぶりでやってきた。ここはご存知の通り、牡丹が有名であるが、紅葉も大変美しくしばしばカメラマンの標的になるお寺である。(駐車料¥500)

DSC_7518t
DSC_7528t

(拝観料 ¥500)
DSC_7527t

「仁王門」

DSC_7531t

ウイキペディアによれば・・・・
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明上人とされる。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

DSC_7540t

仁王門を入ると「登廊」がり、その両脇に牡丹が植えられているが、今回写真は省略する。
冬咲きの牡丹が早くも咲き始めている。
DSC_7542t
DSC_7543t
DSC_7544t
DSC_7545t
DSC_7547t
DSC_7548t
DSC_7552t
DSC_7556t
DSC_7565t
DSC_7566t
DSC_7570t
DSC_7585t

「五重塔」
DSC_7590t
DSC_7591t
DSC_7597t
DSC_7598t
DSC_7599t
DSC_7604t
DSC_7606t
DSC_7608t
DSC_7613t
DSC_7614t
DSC_7620t


余りにも紅葉が美しいので、一度に載せるには紅葉に申し訳ないないので、後半は次回に譲りたい。


                   続く

12月3日から10日まで海外旅行に行っていたので、暫くの間休んでいましたが、本日(12/10)の早朝帰ってきましたので、再開させて戴きます。なお、旅行記については追って掲載しますが、SDメモリを入れた荷物は明日到着しますし、写真の整理が付くまでの間、若干時間を要するので、作り置きのもので代行させますので、御了解を賜りたいと思います。


No 11  談山神社  奈良県桜井市

今年の紅葉は奈良で閉めようと、最初に「長岳寺」を、そして次にここ「談山(たんざん)神社」にやって来た。
ここは奈良では最高レベルという紅葉の名所として自他共に(?)認めるところである。ここには過去数回来ているが、この美しさはほんに格別だ!。

今日は2010.11.24(水)、平日ながら多くの人が訪れており、観光バスもどんどん上がって来る、予約のしてない車の駐車場は満タン、30分位の空き待ちを余儀なくされた。

DSC_7347t
DSC_7350t
DSC_7352t
DSC_7359t

(拝観料 ¥500)
DSC_7365t

ウイキペディアによれば・・・・・
談山神社(たんざんじんじゃ)は、
奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社。祭神は、藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。紅葉の名所である。神仏分離以前は、寺院であり、多武峯寺或いは多武峯妙楽寺という名称であった。

鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。(以下略)

DSC_7371t

「楼門」
DSC_7379t

「拝殿」
DSC_7380t

もとは寺院であったので、神社らしからぬ神社である。
DSC_7412t


ここはカメラのベストポジション、多くのカメラマン・ウーマンが砲列を敷く場所である。
DSC_7403t
DSC_7410t
DSC_7395t
DSC_7398t
DSC_7384t
DSC_7397t

「十三重塔」
DSC_7414t
DSC_7426t
DSC_7431t
DSC_7435t

「神廟拝所」
DSC_7446t
DSC_7449t
DSC_7450t

下の「神廟拝所」の前の広場を「けまりの庭」と言って、4月29日の「けまり祭」には「けまり」が行われるそうだ。
DSC_7458t
DSC_7460t
DSC_7462t
DSC_7465t
DSC_7488t
DSC_7500t
DSC_7502t
DSC_7512t
DSC_7515t


今年最後の紅葉は未だ終わらない、この後しんがりを務める「長谷寺」に向ったが、それは次回のお楽しみとしたい。

                         続く

このページのトップヘ