木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

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奈良、京都を尋ねる行動計画はばっちり出来ているが、3月になったと言うのに、中々花便りが届かない。今日2012.03.03(土)は久々ながらも一日限りの晴天、これを逃す訳には行かないとばかりに、例により急な思い付きで飛び出したのである。

奈良の梅のある寺などが本命としていたが、梅は二週間程も遅れているとの情報があるので諦めて、先ずは京都の「鷹峰」方面として、急遽「ナビ」の目的地を変更してのお出掛けとなった。今日は土曜日、高速は普通車を中心にかなり多いが、順調に走る事が出来た、京都市内はスムースとは言えないながらも、9時半頃に第一の訪問先に到着した。


「源光庵」   (げんこうあん)   
         京都市北区鷹峰北鷹峰47
         宗洞宗 鷹峰山寶樹林
         拝観料¥400、駐車無料

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源光庵は、貞和2年(1346)、臨済宗大徳寺住持の徹翁義亨(てつおうぎこう)により隠居所として建立された復古堂に始まる。その後、衰微していたが、元禄7年(1694)加賀(金沢市)大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)禅師が金沢の富豪中田静家の援助により再建され曹洞宗へ改宗した。また卍山道白は当時の曹洞宗の慣習(寺を継ぐと法系に従って僧は法系を棄てなければならない)を憂い、旧規の復古を願い自らを復古道人と名乗り本堂に「復古禅林」を掲げたとされた。ここから源光庵を別名「復古禅林」とも称されている。

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「迷いの窓」

「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表すとか。

窓は素晴らしい作りであるが、しかし、見える向こうの景色が今一で少し残念だ。それが「四苦八苦」なのだろうか?。

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「悟りの窓」

「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現するとある。

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この窓には何も書かれてなかったので、ならば「安堵の窓」と付けたらどうだろうか?。

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立派な庭であるが、尋ねる時期がよくなかった、緑が少なく、赤茶けているのは皐月であろうか?。

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好天の土曜日と言うのに、一般の参拝はわれわれだけ。
看板によると、11時から法要とあり、入れなくなる事を知ってのことだろうか?。

この「源光庵」の南北すぐ隣に古寺が2つあるが、それらは次回に紹介したい。


今回のシリーズのタイトルを「京都-鷹峰の古寺」としていたが、時間があって北区の南端を超えるに至ったので、異論もあろうが例により私の偏見で、北区+αと言う意味で「京都-北の古寺」シリーズとした。
                                            
                                          < 続く >




"京都には一体幾つの寺があるか?"と言う疑問に端を発し、先日(2012.01.05)のブログでは「京都の寺の数」というタイトルで一文を掲載した。
    http://blog.livedoor.jp/mokunen33/archives/2012-01.html#20120105

ここでは、”京都には千近くはあるとの見方がある」中で、その歴史や由緒がある程度確認出来る寺を私の勝手でピックアップし、今後の訪問対象としたのが合計318寺であった、なおその内、56の寺は全面非公開のため除くと、262寺となった。

この262寺々の若干の分析状況については前ブログに書いたが、ここでは前回の宿題を含め、次の2点を紹介したい。

① 所在地が把握出来る地図形式の表作成

   これはExcelにて作成したが、メモリー消費が大きいので直接ここに載せられないが、私用には、A4サイズ9枚に分割印刷し、それを張り合わせて使用している。(下はその写真)
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ここには、京都市外も含め、寺(橙色=非公開寺を除く):262、神社(青色):102、その他の観光施設(緑色):85に地下鉄を含む鉄道の駅(黄色)と、高速道路のICを載せている。また、それぞれの色は未訪問は薄く、訪問済みは濃くしてあるので、訪問計画は瞬時にして大半は決めることが出来るのだ。

北は、叡山電鉄鞍馬線の「京都精華大前駅」あたりからであるから、この地図上での最北は「妙満寺」「三宅八幡宮」あたりまでとした。なお、大原、貴船、鞍馬、高尾三山などは、少し離れているので別枠で表示した。

南は、近鉄京都線の「大久保駅」あたりまでとしたので、西は「善法律寺」、東は白山神社辺りまでとしたから、これ以南の「宝泉寺」や「蟹満寺」は入らない。

西は、嵯峨野の「化野念仏寺」「千光寺」あたりから、長岡の「光明寺」あたりまでとしたから、大原野の「勝侍寺」などは入らない。

東は、直線的には、比叡山麓のケーブル駅あたりから、「隋心院」「法界寺」そして宇治は「興聖寺」あたりまでとし、高速道京都東IC辺りから、醍醐寺辺りまでを変則的に飛びださせた地図にしたので、「毘沙門堂」や「三室戸寺」は含まれない。

従って、南北は約22Km、東西は約14Km(突出部)を網羅している。なお、紙の上では寺などの名前を原則的には横書きとしている関係上、南北の縮尺は約1/33000に対し、東西は約1/30000にせざるを得なかった。

また、この表(地図)は凡その距離感、所在方向などが解るので、主として行動計画用に使用している。突然のお出掛けにもこれを持てば、どの方面が今まで行ってない寺社や観光地が多いかが一目でわかるから便利に使っている。


② 寺のリスト (公開用)

寺のリストは様々な加工用としては非常に便利なExcelで作成しているが、これはメモリー消費が大きいのでこのブログ上では公開出来ない。それに代わるHTML版でかねてから作っていたが、漸く作成を終えたので添付する。
出来たてのほやほや故に、不満な出来栄えではあるが、恥を忍んで公開とする。


「京都の寺 270 」  (262寺に非公開寺の一部を追加)
   http://sky.geocities.jp/spdpn334/kyoto-tera/kyotera.htm

アイウエオの行別のファイルにしたかったのであるが、熟知出来ていないHTMLでのプログラミングは私には難物であるが故に、一つの表にせざるを得なかった。
そのために長くスクロールしないと目的の寺に到達しないが、取りあえずの公開と言う事で勘弁戴きたいのである。

”たったこれだけの表に!”と言うなかれ、問題にぶつかる度に本を買に走っての、難行苦行の末のやっとの思いの産物なのだ。
また、今後訪問の度に「掲載ブログ」欄には、掲載ページを追記して行く積りである。

なお、ホームページの表紙からも行けるので、興味のある方は一度覗いて見て下さい。
        http://sky.geocities.jp/spdpn334/index.html

  
まだまだ改良の余地は多々あるが、京都の寺はひとまずこれにて完了として、次は神社(102社を予定)とするか、奈良の寺とするか思案中である。

                                           以上

京都には昨年は4回、一昨年は8回尋ねており、お寺、神社、その他の観光地などを尋ねており、お寺に関しては、昨年が29の寺を、一昨年は31の寺を訪ねており、2008年以降で合計74の寺に参拝した。これまで比較的有名と思って、尋ねる目標としていた寺の数を160としていたが、まだその半数にも満たないのである。

ところで、京都にはいったい幾つの寺があるのであろうか?。

本屋を廻ってしかるべき書籍を探した結果、その索引を見て最も多いと思われるのを買って来た。それは、JTBの関連会社が発行する「京都大知典」と言う物で、縦217×横132×厚さ24mm、640ページ、初版2010/10発行、¥2500であった。この本の索引にある寺の数は495である。一説には、寺は1000はあると言うが、本当の所はまだわからない。

これ以外の本も含めて、知り得た寺院の全てをExcrlの表に数日かかって書き連ねて見た。
その結果、寺の概要が解り、由緒歴史がある程度解る寺が318、寺の名前と所在地のみが解る寺が66、それらを合わせると384寺となった。嵯峨野にあった”寺とは名ばかり”のまがい物などはは省いた積りである。

なお、以前指摘を受けたが、京都にはもっとあるはずだ、今回何故318寺なのかについての疑問は当然あると思うが、残念ながら選んだ基準などは何も無く、手に出来た資料を目いっぱい活用した上での、私の独断と偏見によるものとしか、言い様がない。この表はあくまでも私自身のために作成したものである事を改めて記して置きたい。

そして、上記の”寺の宗派や入場制限などの概要が把握出来て、短文ながら歴史が見られる寺”318を今後の尋ねる目標とした。取りあえずこの318寺について、分析して見る。本来ならば、この表を提示し本文を書くべきであるが、かなり大きな表であるために、ここに掲載出来ないのは残念な事である。

① 最初に重複記入を調べるために、名称別に並べ替えて見たところ、同じ名前の寺が京都にも結構ある事が解った。(カーナビセットの際、単に寺の名前だけで目的地をセットして、道を誤った事は前にも書いたが、要注意だ!)

例えば、「地蔵院」と言う寺は市内に2寺、府内合計では4寺もあった。他に「観音寺」「浄土院」「正法寺」「法輪寺」「蓮花寺」などはそれぞれ2寺づつあった。また、「知恩院」と「知恩寺」のように、「寺」と「院」だけが異なる所も結構あるので、正しい名称を使う事が大切な場合もある。

② 次に、歩いて入る事の多い私には、入れるか否(非公開等)かは、入れない寺まで歩く無駄を極力減らすためには、重要なデータであるので、”入場(制限)”などについて調べた結果。
 
境内自由(無料)としている寺は全部で129(/318=41%)あり、
 内、御堂に入る場合のみ有料な所が14、または庭園に入る場合のみ料金要が4寺、御堂非公開が3寺あった。(宝物殿などは対象外=以下同)

入場料が必要な寺は133(/318=42%) あり、
 内、御堂に入る場合別料金が必要な寺が3、庭園別料金は2である。
結局この両者=129+133=262(/318=82%)が、私の参観対象となる。

一方、前もって予約をすれば、多分入れる寺が10(/318=3%)あり。
また、全面非公開として、入る事の出来ない寺が46(14%)あることが判明した。
これは、合わせて56の寺(18%)となり、思ったよりも多くて、出発前の事前検討の必要性を改めて感じた次第。

③ 次に宗派について調べて見た。ベスト5は多い順に
 臨済宗 141、浄土宗 55、真言宗 40、天台宗 33、日蓮宗 19
仏教についての知識は全く無いので、例えば、”高野山真言宗”、”西山浄土宗”などは上記に含めていない。

④ 更に、私は朝の空模様を見て、”よし!今から行こう!”と突然に京都行きを思い付く事がしばしばなので、地域別にどの位、既に尋ねた寺とまだ見てない寺があるかが、一目で解るようにして置きたいのである。これが今回最大の目標。

その近辺は歩く事が原則であるから、表にした上で”所在地に距離感”を持たせたいと思うが、これはかなり難儀な話、取りあえずは”行政の区分”に従って、出来るだけ小範囲を一つのグループとなるように、括ってみたのである。

4-1 右京区(地図左上)  寺の数合計29(7)・・・( )内は訪問済みの寺(以下同)。
   また、このうち要予約または非公開が計10寺あり、下記の数には含まない(以下同)。
   内訳  高尾と北部 6(3)、東部 15(4)、南部(嵐山) 15(8)

4-2 北区 寺の数 合計26(1) 非公開等は内8。
   ここは金閣寺や大徳寺を含み、沢山の寺があるが、訪れたのは金閣寺のみ。
   大徳寺、高峰周辺には3~5の寺はあるが、比較的散在しているので、
   歩きで訪れるのは少し難儀な所であるからである。

4-3 左京区(地図右上) 寺の数 52(11)、非公開等は内10。
   北部 10(5)、中部 11(0)、南部 21(5)
   北部は大原、貴船、鞍馬を言い、中部は実相院から詩仙堂周りまでを、
   そして南部は銀閣寺~南禅寺あたりまでとした。

4-4 上京区 寺の数 27(4)、非公開等は5。
    北野天満宮から御所あたりまでであるが、寺が密集しているので、
    歩くには持って来いであるが、”まがい物”もあり、うっかり入るとひどい目に逢う事も。

4-5 中京区 寺の数 13(5) 内非公開等は1寺。
    二条城から壬生寺、島津製作所~鴨川までの範囲である。 

4-6 下京区 寺の数 13(5)、 内非公開等は5寺
    本願寺や京都駅のある地域である、東寺は南区に入る。

4-7 東山区 寺の数 56(10) 非公開等は内8寺。
    知恩院あたりから清水寺を経て東福寺あたりまでであるが、
    寺が多いので、国道1号線で分けるなど、更なる分割をすることになりそう。

4-8 山科区 寺の数 5(5)
    山科区は向日市に接する所から宇治市そして滋賀県との境までの広い地域であるが、
    お寺の数は少ない。

4-9  西京区 寺の数 17(3) 内非公開等は3寺
    北部 8(2)、南部 6(1)
    北部には西芳寺があり、南部は山間部なので歩くのは殆ど不可能であるが、
    小さいが花の寺として知られる勝侍寺などがある。

4-10 南区 寺の数 4(1)、内要予約寺が1あり。
    ここは京都駅の南から京都南IC近くまでの範囲であるが、寺の数は少ない、
    なお、この中に東寺が含まれる、こんな分け方はよろしくないが、
    今はこうして置く他は無いと思う。

4-11 伏見区  寺の数23(2)、内非公開は1寺のみ。
    西部 15(0)、 東部 7(2)
    西部とは伏見稲荷から京都競馬場あたりまでだから、かなり広く歩きは無理。
    東部は醍醐寺のある辺りから、先日尋ねた法界寺のある所近辺までとした。

4-12 その他 寺の数 36(5)  内非公開等は4寺。
    長岡京市 5(2)、 大山崎町 2(0)、 宇治市 10(3)、 京田辺市 5(0)
    木津川市 5(2)、 八幡市 2(0)、 その他 3(1)
          
皆さん方には、なんとつまらん事をやってるとお思いだろうが、これは私には大切な事、この地区列のリストを得たいがために表を作ったのである。

これから先は、この地区別に分けたものを、地図方式の表に書き込み、歩く距離の目安にすると共に、訪問済みの所にはリンクを張って即座にブログが見えるようにするつもりである。

また、上記の区分は固定的に考えず、”歩きやすさと合理性”を最大の狙いとしたいので、表は地区別に幾つか作り、場合によっては隣の地域の分も含める(オーバーラップさせる)ようにしたい。
また、当然の事ながら、神社(掲載予定は102社)や他の観光施設(掲載予定は149)、高速道IC、地下鉄を含む鉄道の駅なども書き加えたいと思っている。

なお、これは一つの表にすると、かなりの容量になるので、細切れにしない限り、公開は困難と思うが、今後の京都訪問の資料として、また、その後は奈良周辺をも含めて、やり通したいと考えている。

2011.12.10(土)、突然の思い付きでやってきた京都山科、宇治の古寺巡りもここでまだ6寺にしかならない。道路は高速を降りた直後の国道のみが渋滞で他は土曜日にしては極めてスムース、昨年桜の時期の醍醐寺前の通りで大渋滞があったのが嘘のよう。

しかし、秋の日は沈むのが早いし、坊さんもサラリーマンの様に、門を16時にはきっちり締めるので、今日は朝の出が遅かったことも含め、今日見るのは6寺で打ち止めせざるを得なかった。京都に来る時はやはり、9時に現地寺着が原則と再認識した次第。今日はまだ体力も充分残っており、帰るのが少し勿体ないが、腹八分が健康のためとして、長い間入るチャンスを待っていた、本日最後になる、珍しい中国様式の寺にはいった。


「万福寺」  (まんぷくじ)
        京都府宇治市五ヶ庄三番割
        黄檗(おうばく)宗大本山
        拝観料¥500  駐車料¥500

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黄檗宗大本山である萬福寺の建築、仏像などは中国様式(明時代末期頃の様式)でつくられ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。寺内で使われる言葉、儀式の作法なども中国式である。本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色である。萬福寺は煎茶道の祖・売茶翁(ばいさおう)ゆかりの寺としても知られる。隠元と弟子の木庵性瑫(もくあんしょうとう)、即非如一(そくひにょいつ)はいずれも書道の達人で、これら3名を「黄檗の三筆」と称する。このように、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされた。隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹(もうそうちく)、スイカレンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれている。開山・隠元隆琦は中国明時代の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。

隠元が招かれて来日するのは1654年順治11年、承応3年)、63歳の時である。当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺(そうふくじ)、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。隠元は長崎・興福寺の僧・逸然性融(いつねんしょうゆう)らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭(やらんしょうけい)という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに渡日を決意する。

承応3年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田(せっつとんだ、現・大阪府高槻市)の普門寺に住した。隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜(りょうけいしょうせん)をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。

寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。

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下の写真は堂内ではあるが、「撮影禁止」の立て札はなかったので、びくびくしながらも撮らせて戴いたものである、また、ご本尊の釈迦如来の化身である「布袋」さんがでんとお座りになってたが、ここも撮影禁止の札はなかった。折角の布袋さんであったが、”埃をお召し”になっていて写真としてはあまり評価出来ない状態であったため、削除してしまったのである。このように、この寺は写真撮影に対して制限がかなり緩いのは大変有難いことであった。

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ゆったりとした伽藍の配置

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お粗末な写真で申し訳ないが、広さを紹介するのに、この一枚しかないもので・・・

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以上で”山科宇治の古寺シリーズ”は完結とするが、12月初旬の終わりにきてまだ紅葉に出会えたことは、大変嬉しかった。私の写真の表現能力では、紅葉などアクセントになるものが無いと極めて粗末な写真になるからである。

今日は寒く本格的に冬の到来を見せているが、手術痕の痛みも体力の減退も殆ど無く、単独飛行(?)最長距離往復200kmを記録した。こうやって実績を積み重ね除々に距離を伸ばしているが、さて、次はどこにするか・・・・・?。



ここまでこのブログで恐らく100を超える寺を紹介してきたが、殆どのブログでその寺の肝心要の「ご本尊」の写真を掲載していないのである。考えて見れば、これでは”お寺の紹介”にはならないと言えるかも知れない。ご存知の方も多いと思うが、美術館、博物館、お寺、神社などの殆どの多くの所で撮影禁止であるが故なのだが、これではメインディッシュの無い料理だ、いくら食べても腹が満たされないわなあと、今頃気が付いたのだ。だからと言って寺の紹介を止める事は、ブログを止める事になり、まだ、そこまで決断する気は無く、方向転換は避けられないものの、当分の間、恐れ多くも主人公の居ない田舎芝居を見て戴くことになるので、少しでもご理解を賜りたいのである。



2011.12.10(土)、相変わらずの急な思い付きで、遅れている紅葉を追っかけ、京都は山科区に来て「徳林庵」「毘沙門堂」「岩屋寺」「隋心院」と見て、今度は少し南に下がって、伏見区
にやってきた。

桜が最も綺麗と言う「醍醐寺」には昨年の春来ているが、時間が足りず、肝心要の秀吉が桜を眺めた場所には長蛇の列、ここは前回見てるからと、断腸の思いで通りすぎたのであった。

その代わりにと待たなくてよい、前回見てない他の所を廻ることにしたが、広い境内それに凄い人、時間が迫ってくるので、ゆっくり見ることもできなかった。そのために、今はもう一度でも二度でも入りたい気持ちがあるが、それは許されず、車の窓からちらちらと塀越しに庭内を眺めながらも、ぐっと堪えつつ門前を通過し「法界寺」にやってきた。


「法界寺」  (ほうかいじ)  別名:日野薬師  乳薬師
        京都市伏見区日野西大道町
        真言宗醍醐派
        拝観料境内無料   駐車無料(数台限定)

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法界寺は、醍醐寺の南方、宇治市との境界に近い、京都市伏見区日野に所在する。日野は、『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野家の領地であった。日野家は藤原北家の一族で、儒学や歌道をよくした家柄である。

平安時代後期の永承6年(1051年)、もと文章博士(もんじょうはかせ)で後に出家した日野資業(すけなり)が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、日野家に代々伝わる、伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入したという。

寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち、日野資業の4代前の藤原家宗弘仁13年(822年)、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとするものである。

その後、平安後期の阿弥陀信仰の高まりや末法思想の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。

なお、浄土真宗の開祖である親鸞は、承安3年(1173年)に日野有範の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院がある)。

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本尊薬師如来立像(重文)は平安時代後期の作で、この像に祈願すると女性の乳の出がよくなるとされ、「乳薬師」として信仰を集めているそうだ。


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ここを見たあとの時刻は15時に近い、秋の日の”つるべ”は早く落ちるので、先を急がねばと思うも、私の頭の中の地図には、この辺りでまだ見てないのは「万福寺」しかなく、今日はそこまでがタイムリミットと考え「万福寺」へ向ったのであった。

「岩屋寺」から「勧修寺」の門前を通り、15分位走ったところに「隋心院」がある。ここは昨年「醍醐寺」の桜を見に来て次に入る予定にしていたが、時間が足りないために、もう一寺しか見られないことになり、ほんの少し回り路になる「隋心院」は効率が悪いと判断しパスして「勧修寺」に向ったのであった。

所が「勧修寺」はすでに門が閉まり入れて貰えなくて、門の写真を撮ったのみで帰途に着いたのであるが、「醍醐寺」の桜も以前来た時よりも華々しくないし、「隋心院」を選ばず、「勧修寺」にした事の後悔などがあって、あの日の足の重かったのは今も忘れる事は無い。もう歩くのさえ億劫になり、タクシーを拾って早く帰り、京都駅地下でのビールに気持ちを向けたのであった。


小野小町ゆかりの寺

「隋心院」   
         京都市山科区小野御霊町
         真言宗大本山
         拝観料¥500  駐車無料


我々が入る通用門

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「薬医門」

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隨心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。

第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして隨心院が建てられた。続く6世顕厳の時には順徳天皇後堀河天皇四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、寛喜元年(1229年)に後堀河天皇宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となった。その後一条家二条家九条家などの出身者が多く入寺している。

その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱によりほとんど焼失した。『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。その後慶長4年(1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。

江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、大僧正に至ったが、九条稙基が夭折したことを受けて寛保3年(1743年)還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も隨心院は「真言宗」にとどまっていたが、明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。隨心院は小野派本山となった。その後昭和6年(1931年)には真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称。昭和16年(1941年)には善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、隨心院は同派大本山と位置づけられている。

また近年、昭和48年には「はねず踊り」を創めたり、平成15年には「ミス小町コンテスト」、平成20年にライトアップ、平成21年には若手アーティストによる「極彩色梅匂小町絵図」という障壁画を取り入れたりと、新しい仏閣像を作り出している。



「小野梅園」

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「大玄関」

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「歌碑」

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「庫裏」  ここから拝観料を払って本堂などに入る。

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流石は世界の三大美女、絶世の美女ゆかりの寺、ふすま絵も俄然きらびやかである。

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ここを出たあとは、南下して「醍醐寺」の門前を通り、「法界寺」に向ったが、塀ごしに「醍醐寺」の境内がちらちら見える、入りたいがもう時間が無い、もしも”美しい紅葉”が見えたらどうなっていたか不明であるが、幸か不幸か紅葉は目にはいらなかった。ようやく高ぶる気持ちを押さえ、予定通り次の訪問地に向った。

2011.12.10(土)、朝起きて空を見て、突然遠出の撮影行を思い付き、出る事を決断して1時間も経たずして家を飛び出し、京都山科にやってきた。この後は宇治方面にも行く積りであるが、この辺りはお寺などが洛中や東山などと違って密集していないので、歩いて回るにはかなり効率が悪い所であり、”未訪問寺社”が解消されずにいたので、以前からマークしていたのである。


「岩屋寺」  (いわやじ)
        京都市山科区西野山桜ノ馬場町
        宗洞宗
        拝観無料  駐車無料


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地面に落ち葉を敷き詰めた素敵な庭。
しかし、所詮は落ち葉間もなく枯れ果てて”ゴミ”と見なされ捨てられる運命だ。
秋は何とも心寂しくなるものだ!。


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京都市山科(やましな)区西野山桜ノ馬場町にある曹洞(そうとう)宗の寺。智証(ちしょう)大師(円珍(えんちん))の作と伝えられる本尊不動明王は、浅野家の遺臣大石良雄(よしお)が山科に隠棲(いんせい)していたときの念持仏であった。境内には47人の赤穂(あこう)義士の木像を安置する木像堂、大石良雄植髪之墓がある。寺宝として大石の手跡が残されており、義士ゆかりの寺として訪れる人が多い

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お寺の紹介をしていながらも、寺のもっとも肝心の「ご本尊様」の写真は殆ど掲載していない。これでは本当の紹介記事とは言えないとのご指摘は充分承知しているが、残念ながら多くの寺、有名な寺ほど、撮影禁止の張り紙があるからなのだ。

何故かと聞くと、仏様にカメラを向けることがいかんと言うのだが、寺のパンフレットやホームページや、各種文献などにいくらでも写真は載せられている。この写真を撮ったカメラマンは既に”罰”が当たってこの世にいないのだろうか?。

不思議な事にこの地蔵さん方にはそんな立て札もないので、撮らせて戴いたが、どうせこの先長くはない体、”罰”が当たってもええわい!、何事も撮れる時に撮って置くべしと思ったのである。

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この「岩屋寺」から山を越えて直線距離約2kmで伏見稲荷、その北は東福寺、泉涌寺などがあるが、山を越えるにはかなり迂回しなければならない、この辺りは昨年の春、醍醐寺から勧修寺を経て京都駅に帰る時に歩いた道だ。秋には入ってない「勧修寺」の門付近に来ると再度ここに入りたい衝動をぐっと押さえて通過し「隋心院」に向ったのであるが、それは次回に紹介したい。


2011.12.10(土)、例年ならもう紅葉は落ちてしまう時期ではあるが、幸にして今年は全国的に遅れているようで、微かな望みは叶えられ、ここは辛うじて間に合ったようで、元気が湧いてくると共に、大変に嬉しくなって、珍しく賽銭に百円硬貨が複数に成って来た。


「毘沙門堂」  (びしゃもんどう)
         京都市山科区安朱稲荷山町
         天台宗五箇室門跡  護法山
         拝観料境内無料、堂内¥500  駐車料無料(祭時は臨時駐車場あり) 


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寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。

建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう、786 - 853)の創建で、太秦(うずまさ、現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 - 1017)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王(1669 - 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。


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この枝垂れ桜が咲いたらもう一度訪問したいものだ。

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これより本堂に入る(有料)

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「勅使門}

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山科はこの辺りが北端になり、一旦山を降りて、北西に向えば南禅寺を初め多数の寺があるが、今日は初の単独長距離飛行、遠くには行かない計画である。そのために、山科から宇治に下り、帰路は京滋バイパスを使う予定のため南下し、目的地をまだ訪れてない寺に絞ったので、次は「岩屋寺」としたが、それは次回に紹介したい。



病み上がり以降1ヶ月余り続いた隔日発行のこのブログも、天候と都合に行く手を阻まれて途切れそうになり、気にしていたところ、2011.12.10(土)、朝8時近くになってからではあったが、起きて見ると天気もよし、そろりと伺うと単独行の許可も下りた、急いで仕度をして、兎に角飛び出したのは9時を回っていた。

行き先は花の無い時期となれば、自ずから京都か奈良になる。奈良は先日行ったので、ならば京都しかないと、高速に乗り走りながら行き先を考えた。
京都や奈良の寺社のことなら、大凡は頭に入ってる、しかし、術後の単独長距離走は初めてであるから、京都南ICで降りた周辺、それが山科なのである。出発が遅かったこともあり、山科後は宇治方面とすれば、帰路は京滋バイパスを通れば早いと読んで走ったのである。

今日は土曜日西名阪も新名神も車は多いが、楽々100Km/hを超えて走る事が出来たが、ICを出たとたん、国道は大渋滞、最初の訪問先をICに近い所にナビはセットしてあるので、かなり狭いがわき道に入って、10分もせずに目的の地蔵さんに到着した。


「徳林庵」    (とくりんあん)  通称:山科廻地蔵 山科地蔵 四ノ宮地蔵  
          京都市山科区四の宮泉水町
          臨済宗南禅寺派  柳谷山
          拝観境内無料  駐車場無し 

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「六地蔵縁起」(大善寺:1665年(皇紀2325)寛文5年)によると平安時代初期小野篁が、亡くなったとき冥土において生身の地蔵菩薩に出会い、教えに従って蘇生した
 852年(皇紀1512)仁寿2年小野篁は、木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(現在の
大善寺)に安置した
 1157年(皇紀1817)保元2年都では疫病が流行し、
後白河天皇は、都の出入り口に六体の地蔵尊を祀るよう平清盛に勅命する
勅命を受けた平清盛は、京洛の入口6カ所にそれぞれ六角円堂を建て1体ずつ分置し、西光法師に命じて供養させた
琵琶の名手だった仁明天皇第四皇子 四之宮 人康親王(さねやすしんのう)が失明され、この地に移り住まわれる
 1550年(皇紀2210)天文19年
人康親王の菩提を弔うために、子孫の
南禅寺第260世 雲英正怡禅師(うんえいしょういぜんじ)が創建する
 
江戸時代
 人康親王は、盲人・座頭の祖神とされ、毎年2月16日に、人康親王を弔うため、検校位を持つ琵琶法師たちにより琵琶演奏が行われた


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このお堂の前の道、車がすれ違うも容易ではない狭さであるが、旧東海道、旧三条通りと言う。昔はこれで良かったのかとつくづく思う。

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上に書かれている「人康親王」の墓だそうだ。

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寺のホームページには駐車3台は可と書いてあったが、見当たらなかったので、路上駐車とし、急いで撮影しそそくさと次の訪問地「毘沙門堂」に向った。それは次回のブログとしたい。



本日(12/14)12.00に投稿した”湯の山温泉の紅葉”は、掲載した写真が余りにもレベルが低かったので、取り下げました。まだ、隔日投稿を続ける積りのため、写真の出来は代わり映えしませんが、この”山科宇治の古寺シリーズ”を繰り上げて投稿しました。そのために”湯の山温泉の紅葉”にご投稿いただいたコメントは見ることが出来ません(削除はしてません)のでご承知置き下さい。

そろりそろりと様子をみながら、自力での”お出掛け”の範囲を広げているが、今日は私がハンドルを握り、少し足を伸ばして、奈良の古寺を廻ってみようとやってきた。

一旦奈良市に入り「芳徳寺」を見たあと、近くの寺を総なめしようとして、京都の南端木津川市に入り、「岩船寺」のすぐ近くの「浄瑠璃寺」に来たのである。


「浄瑠璃寺」  (じょうるりじ)   通称:九体寺(くたいじ)
         真言律宗 小田原山            
         京都府木津川市加茂町西札場 
         拝観料境内無料  駐車料¥300

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浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。

浄瑠璃寺の起源や歴史については、当寺に伝来する『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるきのこと)という14世紀の記録が唯一のよりどころである。それによると、当寺は永承2年(1047年)、当麻(たいま、現・奈良県葛城市)の僧・義明上人を開基(創立者)、阿知山大夫重頼を檀那(後援者)とし、薬師如来を本尊として創建されたものであるという。義明上人、阿知山大夫重頼の2人の人物については、詳しいことはわかっていないが、重頼は地元の小豪族であろうと推定されている。

浄瑠璃寺は九体阿弥陀如来を安置する寺として知られているが、創建当初の本尊は薬師如来であった。九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立は創建から60年後の嘉承2年(1107年)のことであった。1つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。「九品往生」とは「観無量寿経」に説かれる思想で、極楽往生(人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる)のしかたには、仏の教えを正しく守る者から、極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えである。

中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。


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「本堂」

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本堂と池を挟んで正面に位置する「三重塔」

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「三重塔」

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「梵鐘」

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境内を見て回って、かすかな記憶が蘇った。確かここはかなり前に来ているが、何時誰と来たのかが全く思い出せない。大好きな作りの建造物や庭なのに思い出せない。ついにボケたか?。







先日は孫娘に載せて貰っての京都嵯峨野であったが、今日は我がハンドルでの奈良、若干距離は短いが、高速道路を走る距離が少ない分、少し危ぶむ向きもあったが、何事もやってみなければ解らない、幸にして痛みも体のだるさも殆ど感じないので、やってきたのであった。

カーナビから京都府に入った事を告げられる。ここは京都府と言えども、南の最先端、県境近くに笠置寺、岩船寺、浄瑠璃寺があり。浄瑠璃寺から奈良東大寺までが直線距離で約4Kmしかないことから、昔は奈良の繁栄と共に建設されたものかも知れない。


「岩船寺」 (がんせんじ)  別名:「あじさい寺」  
       真言律宗  高雄山    
       京都府木津川市加茂町岩船上ノ門
       拝観料¥300   駐車料¥200

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写真では多くの参拝者が訪れているように見られるが、たまたま団体さんと一緒になったのみ。写真はある一部分のみを載せるから、誤解を生まぬよう注意が必要と認識。


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「三重塔」

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岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。この地区は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、文化的にも南都の影響が強いとされている。近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれている。

岩船寺は寺伝によると天平元年(729年)に聖武天皇の発願により行基が建立したと伝わる。その後、平安時代初期の大同元年(806年)に空海(弘法大師)の甥・智泉(ちせん)が入り、伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立した。弘仁4年(813年)には嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、岩船寺と称するようになったという。以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、草創の正確な時期や事情ははっきりしていない。

本尊阿弥陀如来坐像の像内には天慶9年(946年)の銘があるが、この像が当初から岩船寺の本尊であったという確証はない。「岩船寺」の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の銘記で、そこには弘安10年(1287年)の年記とともに「於岩船寺僧」の文字がみえる。

承久3年(1221年)の承久の乱の兵火により建物のほとんどを焼失するが、室町時代に三重塔などが再建される。江戸時代には興福寺の末寺であった。

 

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「本堂」

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「梵鐘」

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山の中のお寺であるから、紅葉はあると思っていたが、殆ど見られなかった。「あじさい」の時期に来るべきだったようだ。
ここから
山間の道を10分足らずで次の訪問地、「浄瑠璃寺」に着くが、それは次回としたい。









2011.11.07(月)、21才になったばかりの、孫娘に載せて貰っての京都、嵯峨野散策も私の体力の消耗にあわせ、渡月橋周辺ぶらぶら歩きで幕を閉じることとなった。

今日は珍しく傷の痛みが少なかったが、いつもの様に日が傾く時刻になるとひどくなり始めた。孫達はまだ街中を歩いてるようだが、早々と車に戻ってしまった。

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今日の食事場所  洋食レストラン”琥珀”
最近はやりのマスコミに乗って人気があるらしく、もう午後2時を過ぎているのに、お客は多い。価格は安くはないが、少量でも見た目がきれいで美味しいものを食べたい私にはぴったりの店であった。


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「渡月橋」周辺のどちらを見てもすばらしい風景

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この写真の内容では、そのタイトルは「嵐山」でなく、嵯峨野もしくは渡月橋とすべきではないか、とのご意見があろうかと思うが、地図を見ると確かに、「嵐山」とは桂川の南側一帯であって、ここらは嵯峨野と呼ばれる地域のようだが、ここには「嵐山駅」や「嵐」の文字を使った店舗が多数あることからも、あたかも「嵐山」の地名のように見えるので、タイトルは考えた末に、私の独断と偏見のイメージで「嵐山」とした。「京都」とか「嵯峨野」とか「嵐山」という言葉には、特別な響きがあって、好むのは私ばかりではないようだ。


かくして、初めての親子女三代の行列が京都を旅した物語は終焉を迎えるのであった。
今日も楽しい一日が無事に終わった、孫達に感謝感謝である。

2011.11.07(月)、嵯峨野歩きのメインイヴェントにやってきた。雨の予報はなかったが、来て見ると空は暗く小雨がぱらついたが、濡れるほどではなかった。
昼食に何を食べようかと、探し続けたが4人の意見がぴったり合う場所に出逢わず、空腹の状態も限界、一旦嵐山に出て遅い食事をしてからの参拝となった。


「天竜寺」   臨済宗 天竜寺派大本山   霊亀(れいき)山
         京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町
         庭園、方丈拝観料各¥500

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天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786年 - 850年)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

足利尊氏後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅(かたびらのつじえき)あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。




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「庫裏」 本堂参拝受付

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「曹源池」のまわり、に見事な庭園が展開するが、今日は広角レンズを持たないので、その迫力を伝えられないのが大変残念だ!。

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「方丈」

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「リンドウ」

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「マメガキ」と書いてあった。「ビワ」程の大きさの柿がびっしり、お掃除中の”おじさん”に尋ねた所、柿は美味しくないと言っていたが・・・・・・。

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ここの庭は大変広く、全部を廻ると90分かかるとの声が聞こえていたが、まだ紅葉が始まっていないし、何よりも私は足が動かなくなったので、途中でギブアップしてしまった、また、本堂(方丈)には是非入りたかったが、庭歩きでも娘達の後を追うのが精いっぱい、残念ながら参拝は諦めざるを得なかった。

嵯峨野散策シリーズはこの後もう一遍あります。

2011.11.07(月)、孫娘の車に載せてもらって、久々に京都に来て、今日は嵯峨野を歩いている。この辺りは見るべき所が多くあり、いつも人通りが絶えない所であるが、今日は予報に反して、ぱらぱらと雨が落ちて来たのが効いたのか、いつものような人出ではなかった。


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嵯峨野観光鉄道「トロッコ列車」

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紅葉にはまだ時間があり、載ってるお客さんもまばらであった。

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嵯峨野ではおなじみの風景

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「二尊院」
参拝しようとやって来たが、葬式のために入ることができなかった。

2008年11月13日の二尊院は下記を参照されたし。
    http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20081118

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中の庭を覗かせていただいた。

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「落柿舎」

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「野宮神社」

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さすが縁結びの神様、多くの若い人達に交じって、孫達もまだ21才というのに、早くも祈っていた。

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最後の訪問予定の「天竜寺」に向けて歩くのであるが、ぼつぼつ体力の限界が見えて来た、カメラを娘に預け、重い足を引きずるように、三代の親子行列のしんがりを務めるのであった。


嵯峨野には2008年11月にバスツアーで来ているが、入った寺は化野念仏寺と二尊寺のみであって、それ以前にも来た様な気もするが、確信は無く、事実上初訪問としておく。


「常寂光寺」  日蓮宗  小倉山
         京都市右京区嵯峨小倉山
         拝観料¥500

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百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。

平安時代藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。

歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。


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紅葉は数多く植えられているが、残念ながら、まだ紅葉はほんの一部のみしか始まっていない。

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「多宝塔」

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この後、「大河内山荘」にとも考えたが、本日のメインとなる「天竜寺」を残して、ややスタミナが欠乏し始めたことと、紅葉が未だ先であること、また、昼食がまだであることなどを踏まえ、「大河内山荘」を省略して、竹林を散策しながら、通りに出ることとした。




[参考]   二尊院
     http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20081118

[参考]  化野念仏寺
     http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20081115


























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