木燃人の巣穴

ここは季節の情報や私の趣味や考え方を発信するとともに、皆さんとの気楽な交流を計る場所にしたいと思います。

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2011.11.04(金)、遅れ気味の紅葉に辛抱を切らし出て来たものの、紅葉の色付きはよくなく、その上、体調不良が重なって、難行苦行のお寺参りとなったが、最低3ヶ所は回らねばとの欲が帰る事を許さず、カメラを助手に持たせてまで上ったのであった。


「金剛輪寺」  天台宗 松峰山
         滋賀県愛知郡愛相町松尾寺
         拝観料¥500  駐車無料 

「黒門」

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琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する金剛輪寺は、奈良時代の僧・行基の開創と伝える。行基は河内国家原(現・大阪府堺市)の出身で、出身地の河内を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる。行基の開創を伝える寺院は現在の大阪府や奈良県を中心に各地に多いが、当寺もその1つである。行基がこの地に一寺を建立したのは、文献によって天平9年(737年)とも言い、あるいは天平13年(741年)とも伝える。

その後、平安時代前期の嘉承年間(848-851年)には天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって再興されたと伝え、寺では円仁を中興の祖としている。行基の創建伝承についてはどこまで史実を伝えるものか定かでないが、当初は観音を祀る小堂であったものが、平安時代に入って近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台寺院として発展したものと思われる。また、金剛輪寺の所在地は、昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏とも何らかの関係があるとみられている。

平安時代から中世にかけての金剛輪寺の歴史は必ずしも明らかでないが、寺内には平安時代後期から鎌倉時代の仏像が多く残り、現存する本堂は、弘安11年(1288年)、近江守護佐々木頼綱の寄進を得て建てられたもので、この頃の金剛輪寺はかなりの規模をもっていたと思われる。天正元年(1573年)、織田信長の兵火で湖東三山の1つである百済寺は全焼し、金剛輪寺も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は寺僧の尽力で焼失をまぬがれたという。当寺の本堂をはじめとする中心堂宇は総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。



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参道などにはセメントで造られた「千体地蔵」が風車とよだれかけで飾られて数多く並べられているので、”水子供養”と思われるが、そのことは寺のパンフレットには記述がないのは何故か不明。

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急な坂道ではないが、えんえんと続く参道は、既に体力の限界に来ている体には厳しい。少し歩く度に一休みしなければならなかったが、途中で何度も妻が引き返そうと言うが聞かなかった。手すり磨きのやせ我慢の参拝となった。

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「三重塔(待龍塔)」

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「明寿院」

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「ツワブキ」
     {参考}
      http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-325.html

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湖東三山としては、「百済寺」、ここ「金剛輪寺」の他に「西明寺」がここから数Kmの所にあるが、
家を朝9時過ぎに出て、まだ3ヶ所見ただけなのに、早くも少し日が傾いてきた。如何にのろのろ歩いているのかが解ると思う。出る時は快調だったが、早くも疲労困憊、「金剛輪寺」の坂道がこんなに長くつらいものだと改めて知らされたようだ。

いつものことではあるが、痛み止めは日に2回服用しており、午後も3時を廻ると効き目が薄くなり痛みが増えるのだ。帰り路の車運転もありこれが限度、「西明寺」は諦めて、帰路に着いた。

2011.11.04(金) 遅れ気味の紅葉を待ち兼ねて、まだ少し早いと思いつつも、紅葉の名所と言われる琵琶湖の東、つまり「湖東」の寺を見に来た。「永源寺」の次は・・・・・


「百済寺」   天台宗 釈迦山
         滋賀県東近江市百済寺町

         拝観料 ¥500   駐車無料

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琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈(えじ)とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。

平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。



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「喜見院の庭園」

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境内参道の両脇などに、多数の「ミツマタ」が植えられており、蕾が早くも出来ていた。花は春のはずであるから、何と気の早いことだろうか!。
道端の解説板によると、異常繁殖とも言える鹿達にも食べられず、常緑の葉は秋になっても美しく、境内緑化にも大いに貢献しているとある。木などにも爪跡さえなく、綺麗な状態でどんどん増やしているようだ。食べても余程不味いのであろう事が伺える、何せ”紙”だからねぇ!。

「ミツマタ」    花などは下記「木燃花図鑑」をご覧ください。  
                 http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-1.html

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「ミツマタ」はまだ木は小さいのが多いが、これが育って一斉に花を付けると、新聞などで紹介されて、見に来る人が増えて、有名になる日が来るのかも?。


「カンツバキ」か「サザンカ」の判別不能。
違いは花の散り方にあるが、それが判明するにはまだ少し時間が・・・

   「サザンカ」は下記を参考にしてください。
   http://hanabana33.blog40.fc2.com/blog-entry-323.html

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今年の紅葉は少し変だ!、単に遅れているのみならず、色が鮮明でなく美しさに欠ける気がする。もしかするとこのまま赤くならずに散ってしまうことを恐れている。
昨夜のTVであのきれいな香嵐渓でさえ、紅葉の色付きが悪いと報じていたことからも伺える。


家を出る時は”体調極めて良好”であったが、先に見た「永源寺」で坂道を少し無理をして昇ったためか、急に疲労は来るし、痛みは出るはで通常ならば、ベッドに寝転ぶ所なのだがそうも行かず、また、今ここで帰っては如何にも情けないので、もう一か所回ることとして、「金剛輪寺」に向った。


今年は秋になっても暖かい日が続き、紅葉はかなりおくれているが、2011.11.04(金)天気も体調も良好、まだ万全な体力には程遠いが、負けては居られないと、かなり”やせ我慢”状態ながら、紅葉へと駆り出す気持ちが勝ち、飛び出したのであった。

我が家の近くから、鈴鹿山系を超えて直接滋賀県に入る道は、昔からあっても、狭く険しくて、通るのを躊躇していた。その道は国道421号、別名「八風街道」といい、「石博(いしぐれ)峠」周辺の難所に今年トンネルが開通したと聞いていたので、この日を待っていた一面もあった。

車の振動が傷口を刺激しないよう、ゆっくりとした速さ、時には止まって紅葉を見たり、写真を撮ったりしながらも約37Kmを70分で紅葉の名所の「永源寺」に到着した。
なお、ここ「永源寺」は昨年も来ており、2010.10.26付けのブログに詳細を載せているので、今回は写真のみとする。

永源寺  臨済宗永源寺派大本山  
      滋賀県東近江市永源寺高野町
      拝観料¥500  駐車無料 
       

「山門」周辺はまだ緑一色だ!。

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「本堂」

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「梵鐘」

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「禅堂」

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「含空院」

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「ツワブキ」

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裏口の駐車場に車を止めたので、長めの坂道を往復したので、かなり体力を消耗したが、まだ最初の訪問に過ぎず、ドリンク剤など注入して先に進んだ。次の訪問先は湖東三山として名高い「百済寺」に向ったが、それは後報としたい。

三重県から直接滋賀県に入る主要なルートは5ヵ所あり。北から、

① 三重県いなべ市から鞍掛峠(h=640m)を経て、滋賀県の多賀神社のある多賀町に入る国道306号を通る道。
② いなべ市大安町石博(いしぐれ)から石博峠(h=690m)を経て、東近江市永源寺町に入る、八風(はっぷう)街道、国道421号線を通る道。
③ 菰野町湯の山温泉から、武平峠(h=520m)を経て、日野市に入る、鈴鹿スカイライン(無料)、国道477号線を通るルート。
④ 東名阪自動車道「亀山JCT」から、土山に入る、新名神高速道路を通るルート。
⑤ 亀山市から鈴鹿峠を経て、土山に入る国道1号線。

・・・・となっているが、②は石博峠を越えて滋賀県に入った所の数Km(?)は、道幅が極めて狭く、2Ton車以上は通行が許されていないし、もし途中で対向車があると、どちらかがかなりの道を戻らなければならなかったので、殆ど実用されていなかった。
紅葉で名の知れた永源寺にはこの道が最も近いが、通ったことは無かった。

また、③のスカイラインは三年前の集中豪雨により道路が崩れ落ち、通行不能が続いていた。
このため、湖東三山など名所が多い湖東方面は地図上では30Kmもない近い所にありながら、随分と迂回させられ長距離を走らねばならなかったのである。

これが先ず、①は、この春最大の難所に「石博トンネル(全長4157m)」が開通し、あちこちで道幅が広げられ、誰でも安心して通れるようになったのである。
また、③の「鈴鹿スカイライン」も漸く修復工事が完成しつい先日全面開通したので、滋賀県が私の家からは随分と近くなったのである。

陽気がなかなか寒くならず、紅葉が遅れ気味の昨日今日であるが、手術痕には寒くなるのは効けるので好ましくないが、この際は仕方がない、寒くなるのを待っているが、残念ながら暖かい日が続いている。
11月4日(金)、好天で暖かく”痛み”も気にならない、少々紅葉には早いが、ブログのネタも欲しい所、エイヤ!とばかりに、急遽飛び出したのである。


ルートはやはり初通過の八風街道とした。
下は街道有一の片側一車線(全幅7.5m)のトンネル「石博トンネル」で、滋賀県側より見る。

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トンネルを出たあたり、滋賀県側を見る。

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標高が600m程度の所故に、すでに紅葉は始まっていた。

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上記茶屋の入り口で、珍しい花を見つけたが、名前が解らない。はなびらがもっと沢山あって抜け落ちたのかもと思い、良く見たが抜け落ちた形跡は見当たらないが、唯一輪のみ咲いているばかりなので、確信は持てない。はなびらが3枚なのは、「エイレンソウ」があるが、状況が全く異なる。額らしきは4枚であった。

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ご存知「ホトトギス」。

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なお、帰路は「鈴鹿スカイライン」を通って来たが、沿線の紅葉は今が旬、「八風街道」よりも格段に色どりが鮮やかで美しく感じた。しかし、残念ながら、疲労のために、とてもカメラに向う気力はなく、ひたすら安全運転を心掛けて走ったのであるが、道路は一部はまだ修復の工事中で一方通行であったが、通行車両も多くなく、スムーズに帰ることができた。



この後、先ずは「永源寺」に向い、その後幾つの寺などを回れるかは、私の体力次第であるが、それは後編としたい。

 

No 2

2010.11.10(水)、京都の紅葉情報を出来るだけ正確につかみたいと思い、近場の比叡山延暦寺などに来て、その帰途近くにある、「総本山園城寺・三井寺」(大津市園城寺町)に立ち寄ったのである。 (拝観料¥500)

紅葉には未だ少し早く、訪れる人も少なく、ゆっくりと見る事が出来た。

「仁王門」

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ウイキペディアによると・・・
園城寺
(おんじょうじ)は、
滋賀県大津市にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。
三井寺は7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀にから帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上たびたびあった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。(中略)
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。


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「釈迦堂」
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「金堂」
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「弁慶引摺りの鐘」
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「一切経蔵」
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「三重塔」
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「観音堂」は修復工事中
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簡単ではあるが、三井寺の紹介は以上である。
                                                                                           完

No 1 日吉大社

2010.11.10(水)秋晴れのすがすがしい今日は、未だ紅葉には少し早いが、比叡山に来た帰り道、滋賀県大津市にある、山王総本宮・日吉大社にやってきた。

先ずは表参道を入る。(拝観料 ¥300)

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ウイキペディアによれば・・・・
日吉大社
(ひよしたいしゃ、元は「ひえたいしゃ」)は、
滋賀県大津市坂本にある神社。俗に山王権現とも呼ばれている。日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。旧社格官幣大社中世には二十二社の下八社のひとつとされた。
西本宮東本宮を中心に、400,000m²の境内を持つ。神の使いとして崇拝することで知られている。
最澄比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。
元亀2年(1571年)、織田信長比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉は当社の復興に尽力した。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。また、本来の形に戻すとして、東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。昭和初年に元の形に復した。

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「西本宮楼門」
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「西本宮本殿」
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ここは比叡山へ上がるための「坂本ケーブル」というケーブルカーへの乗り場のすぐ近くに位置している。また、琵琶湖の岸辺までは200mくらいの所に鎮座している神社である。

                          以上

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