2014年01月27日

上村誠一郎の日常 通勤のこと 後編


何時もの様に窓の外を見るとは無しに見ていた誠一郎は、次の駅に着いた所で異様な圧力を感じた。
それはまるでブルトーザーの如き圧力である。
誠一郎はなすすべも無く車外へと押し出されてしまったのだった。

圧力の原因は言わずと知れたベムである。
そのベムの圧力は誠一郎にとっては想定外であった。
正にその力は相撲取りかラガーマンに匹敵する。
誠一郎は怒り驚く、と言うよりは感心をしていた。

(よくぞここまで鍛え上げたものよ。あっぱれである!)

降りる客が終ると同時に乗客の一団が車両に雪崩れ込んでいた。
またしても圧力に屈した誠一郎は、何時ものポジションを確保する事も出来ずに横座りのシート前まで押し込まれてしまったのだった。
ふと左側を見ると本能寺がつり革に掴まっていた。

(そうか。君もここまで…)

誠一郎は感慨深く一つ頷くと目を正面に向けた。


すると。

右側から例の不思議な香水の匂いと共に、異様な程に膨れ上がった殺気が放たれていた。

目の端に写ったのは紛れもなくベムであった。
誠一郎の額に一筋の汗が流れ落ちた。

(恐れているのか!この俺が?)

誠一郎は徐に目を閉じると、その精神を極限まで高めていった。

(ジリッ…ジリッ…)

ベムが赤いハイヒールの側面で誠一郎の靴を押している。
これはより良い自身のポジションを得る為の駆け引きであった。
つまりは陣取りである。
あまりの圧力に誠一郎は数センチだけ足を退いた。

すると当然の結果、ベムはここを基盤に更なる侵略を敢行し出したのだった。

(ジリッ…ジリッ…グイッ…)

更には上半身をも預けて来る始末である。
誠一郎はまたしても数センチの後退を余儀無くされていた。

まるで碁盤の上の戦いの様であった。歩が変わって金と成る。
否、これは大戦下において米軍が南方戦線で用いたステップバイステップと言う戦略的攻略法に似ていた。

とうとう窮屈になった誠一郎は、耐えきれずに左側に僅に重心を移そうとした。
しかし左側に立つ本能寺もまたこちらの圧力に対抗し押し返してくる。

(痩せているとは言え見事な抵抗力だ)

感心している場合では無かった。その間にもベムの侵略は続いているのだ。

(おのれ妖怪!)

ついに誠一郎は心の中で一声叫ぶと行動に出た。右手に持つ鞄を彼女との間に強引に押し込もうとしたのだ。

次の瞬間!
無残にも誠一郎の鞄は呆気ない程簡単に弾き返されてしまった。

ベムの鍛え上げられたその太股には、誠一郎の小手先の技は全くと言ってよい程に通用しなかったのだ。
誠一郎はこの初めての敵に対し、漸くと脅威を感じ始めていた。

(ジリッ…ジリッ…)

そうしている間にもベムの無言の圧力は続いていた。

(ぐぬぬ…)

誠一郎は渾身の力で押し返そうとしていた。
しかし支えを持たない今の彼の体勢では自ずと限界は見えていた。

(目の前に下がっているつり革を掴まるべきか…)

誠一郎はこの時激しく葛藤していた。
このつり革を掴まりさえすれば、この様な妖怪ごときに屈する自分ではない。
しかし長年の習慣、自身の信念を簡単に覆す訳にもいかない。

この時の一瞬の躊躇を直ぐに後悔する事になろうとは、当の誠一郎には気付く筈も無かった。

「キキーッ!」

電車が急ブレーキと共に大きく揺れた。
もうダメである。
誠一郎は素早く左手を伸ばすとつり革を取ろうとした。

しかし目の前のつり革は、誠一郎の左手よりも一瞬早く本能寺の右手が奪っていたのだった。
虚しく誠一郎の左手は空を切り、その体が前のめりに崩れてゆく。

(て、敵は本能寺にあり!)

その時、自身の防衛本能に従い重心を得るために咄嗟に左足を一歩前に出した。
するとその左足が前に座っていた若いOLの股の間に、強引にも深く割って入る形となってしまったのだ。

「し、失敬!」

誠一郎は瞬時に謝罪した。
するとこの若いOLは、頬を染めながら伏し目がちに小さな声で答えたのだった。

「いいえ…」

その瞬間!誠一郎の背筋に電流が走った。

(なんとも可憐な…。女子とはすべからくこうあるべきではないか!)

誠一郎は惜しむようにゆっくりと彼女の股間から左足を抜くと、もう一度頭を下げた。
誠一郎はこの女性に【小百合】と名付けた。

体勢を整えた誠一郎は左側に立つ本能寺を一瞥した。
すると彼はつり革からそっと手を離し、本来彼の掴まるべき目の前のつり革を取ったのだった。

誠一郎はゆっくりと空いたつり革を手にした。
屈辱だった。断腸の思いである。
しかしこのつり革は、今後のベムに対する必須アイテムである事は間違いない。
誠一郎はまだ闘う気でいたのだ。
彼は覚悟を決めると両の脚を肩幅に取り、爪先を少し内側に向けると膝を僅かに曲げ腰を落としていた。
これは《騎馬立》と言う姿勢である。
この姿勢さえ保っていれば、例え嵐のなか畳を抱えていようとも飛ばされる事もないと言う、守りとしては最上位の姿勢である。
特に左右からの攻撃にはうってつけの防御姿勢でもあった。

(フッ…。初めからこうして置けば良かったものを…)

それからの誠一郎には絶対的な余裕があった。
例えて言うなら鉄壁の要塞。
にじり寄るベムの攻撃も虚しく思える程に、彼女は全くと言ってよい程に手も足も出なかった。

「…コーパーッ!…コーパーッ!」

先程からまるで地獄の底から沸き出るような息遣いが隣から聞こえて来る。
ベムの興奮度合いが誠一郎にも十分に伝わっていた。

(これは決して良い状況ではない)

誠一郎の危険に対する警報が鳴り響いていた。
デフコン1である。
ハブ駅に着くと、そんな誠一郎は乗降客に合わせて一旦電車を降りる事にした。
ここで彼女をやり過ごせば、後は目的の駅迄は車内は空いている。
ベムもまたこの駅で降りた様だ。
誠一郎は彼女の姿が見えなくなった事に対し、心の底から安堵していた。

だが…。
それは正に再び電車へと乗り込もうとした時だった。
音もなく誠一郎の背後に擦り寄ったベム。絶妙の間でその体を誠一郎の前に入れると見るや、彼女の赤いピンヒールが誠一郎の左足甲を貫いた。

「はぉ〜っ!」

この時誠一郎は自身の出す声に驚いてしまった。
如何に激痛が走ろうとも、声を出す様な不様な真似など自身の取るべき行為では無かった筈だった。
ショックと激痛のあまり、よろけながら三歩下がると片膝をついてしまったのだ。
そんな誠一郎は茫然と、只茫然と閉まりゆくドアを眺める事しか出来ずにいた。

「ニヤッ!」

ドア越しにベムの白い歯がチラリと見えた。
本能寺はちゃっかりと小百合の横に座っている。
走り去る電車が魔物に見えた。

(む、無念である…)

 辺りにはベムの残した不思議な香水の匂いが漂っていた。

(何故今まで気付かなかったのか…)

誠一郎は不思議な香水の正体に今更の様に気付いたのだった。

それはサロンパスの匂いだった。



 項垂れた誠一郎は大きく溜め息を一つ吐くと、徐に懐中から携帯電話を取り出し一本の電話を入れた。

「本日は無断欠勤をする」

「う、上村さん?どうしたんで……」

誠一郎は一方的に電話を切ると、眩しく射し込む朝日を見上げた。

上村誠一郎人生初の敗北であった。

「これだから、未々この世は面白い」

誠一郎はピンヒールの刺さった左足を引き摺りながら、反対側ホームへと歩みを進めていた。
そう。長い人生こんな事もあって良いのだ。
誠一郎は清々しい表情をその歩む先へと向けていた。

その後ろ姿は、敗れて尚前に進もうとする健気な老兵の哀愁に包まれていた。



     ー完ー






2014年01月04日

上村誠一郎の日常 通勤のこと 前編

※テリトリー (territory)

 縄張り。 領域 (国家)。領土、領海、領空など。 準州。連邦国家の構成要素で、州に準じ るもの。
 地域(「国と地域」の)。独立国でない 領域。植民地など。 受け持ち区域。独占区域。
(Wikipediaさんより)



テリトリー。つまりは自分の持つ絶対領域(空間含む)の事である。

 上村誠一郎は対人関係をあまり得意とはしていなかった。
その事は彼のその穏やかな外見からは何人たりとも推測する事は出来ない。
 誠一郎はこの自分の《領域》を侵される事を極端に嫌っていた。
行列には絶対に並ばない。背後を取られると言うは、生命をも預けると言う事だ。そして並んでまで手に入れたい物などこの世の何処に在ると言うのか。
 当然の様に雑踏にも近付かない。
誠一郎としては、民衆がそこに何を求めるのかがさっぱりと理解できないのであった。

 上村誠一郎は朝が苦手である。
よく言う「低血圧の人間は朝が弱い」とは只の言い訳にすぎない。
そこまで弱いと言うならば、病院に行け!と誠一郎は常々思っている。
そんな軟弱者は、最早誠一郎の敵にもなり得無いのだった。

 だが上村誠一郎は朝が苦手であった。
男と言うものは、常々毎朝死ぬべきだと誠一郎は考える。

毎朝目覚めた布団の中で、様々な死に様を思い描く。
そうしてたっぷりと死ぬ事によって、覚悟を持ちつつ戦いの場(世間)へと赴くべきではないか。
そうすれば、たとえそこでどんな状況に陥ろうとも毎朝たっぷりと死んでいるのだ。
これはもう今更何も恐い物など存在しようがない。
これが彼の覚悟だった。

 誠一郎は本来なら午前中をこの様な行為に使いたかった。
しかし現代社会に生きる上でこの様な我儘は許されない。
十分な覚悟の無いままの誠一郎は、あえて言うならば隙だらけだ。
認めたくは無いが、これが現実と言う物であった。




 上村誠一郎は早朝の満員電車に揺られていた。
そこでの彼はその他大勢の一部として見事にその中に溶け込んでいた。
そう。一切表情の無い仮面集団の中にである。
しかし誠一郎と言う男は、社畜の安寧などとは決して相成る者では無いとだけ断言しておこう。

 ここで先ず言っておくが、彼は吊革に掴まるなどと言う脆弱、貧弱な行為は絶対に行わない。
ましてや座ろうなどと呆けた考えは一切持ち合わせていなかった。
座ったが最後、全てが受け身に回ってしまうではないか。
これ程危険な行為も無いと常々言ってきた。
男なら自分の両の脚で大地を踏み締める。(取り敢えずは床だが)
何と言っても他人に身体を預けるなどと言う卑劣極まりない行為は、死んでも出来るものでは無かった。

(男なら、他に頼らず、一人で立ってこそ、男と言うものではないか)

ドアの横左端。誠一郎の何時ものポジションである。
常に体の左側面をドアにもたれさせている。
寝る時にも左側を下にして寝る。
これは武士としてのたしなみでもあるのだ。

 しかし、しつこい様だが上村誠一郎は朝が苦手である。
夜行性の猫科生物の様な誠一郎にとって、この朝の時間帯程危険なものも無い。
何時もの周囲に張り巡らせる思念が十分に機能しないのだ。

 幸いな事にこの通勤時間帯では何時もの狼達との闘いは先ず無いと言っても過言ではない。
何故ならば、夜行性の狼達にとって本来行動すべき時間帯では無いのだから。
 ならば、ここには一体何が生息していると言うのか。
そこは誠一郎にとって最も苦手な、また闘う事も憚れる理解し難い妖怪の巣窟なのであった。





(なんと面妖な…)

《それ》は途中駅から乗り込んで来た。
《それ》は多くの仮面の集団に紛れて居ても異彩を放っていた。
そんな大勢の乗客の中に漂う一際怪しげな妖気を、誠一郎は敏感に察知していたのだった。
他の者からは《それ》はどう写っているのかは分からない。
しかし誠一郎には明らかな違和感と共に、その醜く肥大した妖気を感じずには居られなかった。

(関わらぬ方が良かろう)

誠一郎は即座にその女性に【ベム】と名付けた。
女性ならばベラでは無いのか?
勿論そんな意見は聞かない。
そんな中途半端な形容が出来る程《それ》は甘くはなかったのだ。彼女は正しくベムであった。


 ベムを含む一団が満員の車両にこれでもかと押し込まれて来ると、辺りに独特の香りが漂っていた。

(はて?これは以前何処かで嗅いだ様な…)

誠一郎は気になったこの匂いの断定を急ごうとはしなかった。
興味を示す事によって彼女のアンテナに掛かる事を無意識に恐れたからだった。

 ふと見上げると誠一郎の目の前にはヒョロリと背の高いサラリーマンが立っていた。
二十代だろうか。今時の言葉を借りればイケメン、に分類されるのであろうと思われる。

誠一郎はこのイケメンに【本能寺】と名付けた。
何故だかその横顔から明智光秀を連想したからだった。



(くっ…!)(ぐはっ!)

怪しの妖気の中心地。
先程からベムの居る方角から声にはならない悲鳴にも似た波動が、誠一郎の元にまで届いていた。

(一体どの様な闘いが行われているのか…)

興味が無い、と言っては嘘になる。
しかしこの時間帯の誠一郎は未々準備万端とはいかない。
何も死を怖れている訳では無い。
誠一郎は敗れて尚生き恥を晒す事の方を大きく怖れていた。
結果、誠一郎は関わる事を避ける事でこの場を納める事と相成ったのだった。





2013年11月22日

上村誠一郎の日常 夜泣きそば後編

注文の品を運び席に戻った誠一郎は、目の前にあるカツカレーと温かい蕎麦セットを眺めると深い溜息をひとつ吐いていた。

(またこれを頼んでしまった・・・)

揚げ置きの冷えたカツの上に、黄色く色付けられた味の無いカレーが掛けられている。
誠一郎にはどうしたらこんなにも不味いカレーを作る事が出来るのかが、この歳になっても不思議でならなかった。

嫌なら頼まなければ良いだけの話だ。
しかし呪縛の様にこの600円のボタンを押してしまう自分の指を、今夜も誠一郎は抑える事が出来なかった。

黄色いだけのカレー。それはまさに青春の味だった。
高校時代の学食。
誠一郎はそこで常にカレーライスときつねうどんを一緒に頼んでいた。

この高校時代の誠一郎にはこれ以外の選択肢が無かった。
食堂にあるその他のメニューは、とてもではないが食べ物と呼べる品物では無かったからだ。
この店のカレーは、そこで出されていたあのクソ不味いカレーと良く似た味がした。

誠一郎は無意識にこれを頼む事で、あの苦しくも甘酸っぱい青春をも同時に噛み締めていたのである。

ここで何時もの問題が生じていた。

先にカレーを食べるのか、又は蕎麦を先に食べるのか。
誠一郎はここで重大な決断を強いられる事になるのだった。

このカレーは冷めたら二度と食べられない厄介な品物である。
しかし温かい蕎麦の方も直ぐに伸びてしまう非常に危険な一品であった。

世間一般的には交互に食べるのが王道とされていた。
しかし、それは互いの微少に残された良さを消し合い、その劣化から眼を背けた最も間抜けな行為である。
これはかなりの信念を持ちつつ、慎重に決断を下さなければならない。

しかし時間は待ってくれないのだ。
この悩んでいる瞬間にも破滅的な速度で劣化は進んでいるのだった。

誠一郎は迷わず蕎麦を一口すすった。これはこの後に運び込むカレーの通りを良くする為だ。
これを正確に六対四の割合で進めて行く。
七対三、ましてや五対五などでは全くお話にならない。
当然蕎麦の方が先に終わってしまうのは仕方の無い事ではあったが、残った汁を飲む事でその愚行は解消される事であろう。

そんな誠一郎が二口目の蕎麦をすすった所で、白狼を呼ぶおっちゃんの声が高らかに店内に響いた。

『特盛り蕎麦のお客さん~っ!』

店内にまた、声にはならないどよめきが起こった。

(あの初老男性が、特盛り蕎麦を・・・)

この店の特盛り蕎麦は元気が盛りの若者向け商品である。
初老で、しかもかかる深夜にこれを頼む白狼に、誰もが驚きを隠せずにいた。
すっと音も無く立ち上がった白狼が、これもまた隙の無い歩みで品物を取りに行く。

(むむっ!これは・・・!)

誠一郎は先程この白狼が感じたものと同じ恐慌を、口から垂れ下がったままの蕎麦と共に味わっていた。

何事も無かったかの様に席に戻った白狼は、徐にネリ箸を取ると軽く頭を下げ一口分の蕎麦を取った。
適量に取られた蕎麦の下から三分の一を蕎麦つゆに浸け、濃い琥珀色の液体に濡れて輝く至福の帯をその口へと勢い良く流し込んでいった。

(さ・・流石だ・・・)

誠一郎はこの無駄の無い、美しく流れる様な白狼の一連の動作に目を奪われていた。

(しまったー!)

時間にして五秒くらいだろうか。
誠一郎は白狼の華麗な動作に見惚れてしまった為、自身の作業がおろそかになってしまった失態を悟った。

誠一郎は気を取り直すと、失われてしまった絶望的な五秒を取り戻すかの如く無心で箸を進めた。

夢中で誠一郎がカツカレーと温かい蕎麦セットと格闘している間にも、狼たちは次々と厨房の主の声に従い自分の品を取りに行った。
そして漸くと最後に残ったバンビを呼ぶおっちゃんの声が響き渡った。

『かき揚げ蕎麦とゆで卵のお客さん~っ!』

「やっちまったかーー!」

その瞬間、店内のあらゆる方向から同じ思念が飛んできた。

実を言うとこの店のかき揚げは、油ギッシュでとてもでは無いが中年の胃には耐え難い代物だ。

そしてゆで卵・・・。

多分バンビはかき揚げ蕎麦をすする前にこの卵の殻を剥く作業に入る筈だ。
そんな事をすれば当然蕎麦は伸びてしまう。
この店の時間を置いた蕎麦は明らかにジュネーブ条約に違反する。
これを口にすると言うのは拷問以外の何物でもないからだ。

先程の「やっちまったかーー!」はまさにこの状況を先読みした狼たちの侮蔑の念であった。

そんな警戒心の欠片もないバンビが、いそいそと注文の品を手に席に戻ってきた。
彼はここでも愚行を侵すことになる。
平和ボケをしたバンビが入口の前を通過すると、当然の様に自動ドアが開いた。

「いい加減にしろ!何をやっているんだド素人が!」

あの場所はセンサーが感知するギリギリを通らなくてはならない。
この時間帯の狼ならば誰もが熟知している筈である。
それをこのバンビは不用意にも無意味な扉の開閉をしてしまったのだ。

ここでの問題は、彼がその行為の愚かさに気付く事無く、これを平然と行なっている点にあった。
バンビがその場の全員から侮蔑の念を、そしてその痛すぎる視線と共に浴びてしまったのは最早仕方の無い事であった。

そのバンビが、次は入口横に設置してある水を取ろうとしていた。

(まったく・・。お前のような素人はこの時間帯には来るな)

本来ならば席に着く前に終えなくてはならない作業を、この物臭は片手間にやろうとしていた。

左手一本で支えられた不安定なお盆。
その傾いたお盆の端から彼の唯一の楽しみであろうゆで卵が、嬉しそうに転がり落ちて行くのは当然の結果だった。

扉を開けてしまった為に注目を浴びてしまったバンビ。
その彼の唯一の楽しみが、スローモーションの様に転がり落ちて行く様をその場の全員が固唾を呑んで見つめていた。

『あっ・・・!』

バンビのか細い悲鳴が見詰める全員の耳に届いた。
するとこの直後、そこにいる狼たち全員がひとつの奇跡を目撃する事となる。

なんと先程のカップルの女性が、床から僅かの所でこれをキャッチしたのだ。

帰り支度をしていた彼女の目の端に、転がり落ちて行くお楽しみが映っていた。
彼女はその瞬間、動いたとも見せぬ間に素早く手を伸ばすとバンビの楽しみを救い上げていたのだ。

(おおぉぉぉぉっ!!)

誠一郎は思わずその場で大声を挙げそうになった。
それはそこに居る全員が同じ気持ちであっただろう。

しかし誠一郎は次の瞬間、このカップルを警戒人物から真っ先に外していた己の断定を恥じていた。

そう。彼女こそが真の狼であったのだ。
誠一郎はこの女性に尊敬の念を込めて【サン】と名付けた。

(いつかまた逢おう。山犬に育てられし勇者サンよ!)

自動ドアを出て行く彼女の後ろ姿を見詰め、誠一郎の心の内は新たなる狼に出逢えた事への感動に満ち溢れていた。


完璧に自分の作業を終えた誠一郎が席を立った。
当然テーブルには水滴ひとつ残されてはいない。
これは狼として最低限のルールでもあった。

バンビは未だ蕎麦に箸も付けず、夢中になって卵の殻を剥いている。
誠一郎はそこにチラリと目をやると、おっちゃんの待つ返却口へとお盆を返しに行った。

『ごちそうさま・・・』

『ありあた~した~!』

この返事は昔からどれだけ経っても変わらない。
そんな厨房の主に向けて含み笑いを浮かべた誠一郎が、踵を返し玄関に向かおうとした。
するとその先に下膳を待つ白狼が立ち塞がった。

(うっ・・・!)

気配を感じる事すら出来ず、容易に背後を取られた誠一郎の失態である。
一瞬、向き合った二人の間に火花が散った。

互いが互いの間合いの中。決して退く事の出来ない絶対の距離の中に居た。

(先に動いた方がやられる!)

誠一郎は一瞬で緊張した。

しかし次の瞬間、誠一郎の剛の気を白狼の柔が流していた。
白狼はすっと一歩後ろに退く事で、綺麗に誠一郎の間を外していたのだ。

感心した誠一郎は、相撲取りがする様に体の前で手刀を切ると軽く会釈をした。
すると白狼もまた軽い会釈でそんな誠一郎に応えていた。

なんとも気分の良い狼たちではないか。
そう。誠一郎が下膳を終えた時点で既に戦いは終わっていた。
我々はよく闘ったのだ。

入口の自動ドアを抜けると、緊張から開放された誠一郎が冷たく気持ちの良い空気をその胸一杯に吸い込んでいた。
今夜も素晴らしい戦いだった。そして何より無事に帰る事ができたのだ。
誠一郎は真夜中の一丁目交差点を渡ると、漸くと緊張が解けてゆく自身を感じていた。

その後ろ姿には闘った者だけが持つ、何とも言えない清々しい哀愁が漂っていた。



                          ━ 了 ━

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