August 18, 2006

24粒目 失われた刻 巴里の専門店とシェルブールの雨傘

「巴里はお洒落の町である。香水の店、手袋だけを売る店、なぞがある。デパートで何でも一緒に売っているのではない。デパートでも売ってはいるが、専門の店には上等なものが置いてある」       「流行と私」

このフレーズを読んだとき、真っ先に思い出したのは、映画『シェルブールの雨傘』である。カトリ−ヌ・ドヌーブ扮する主人公の母親が経営していたのが傘のお店で、通りに面した路面店だった。小さな小さなお店だったが、ウインドウもディスプレイも本当にお洒落だった。自分のお店を持ちたいと夢見る人が憧れるような店構えだった。
もう10年以上も前に観た映画なので細部はうろ覚えなのだが、目を閉じると、雨傘が行き交うシーン、母親が身を包んでいた巴里の香りのクラシックなスーツ、カトリーヌ・ドヌーブが着ていたレインコート、お店のドアやショウウインドウ、部屋の壁紙、パリジェンヌ風だったカトリーヌ・ドヌーブが上流夫人の雰囲気を漂わせていたラストシーンの黒いコートなどが映像として蘇って来る。そしてそして、「恋で死ぬのは映画の中だけよ」というセリフやマドレーヌという名前、カラフルな傘の花が咲くシーンで始まった映画が迎えたモノクロームの景色のエンディング──しんしんと雪が降り積もるガソリンスタンドでかつての恋人との再会と別れ───。
映画の中で傘屋の店構えを見たとき、ああ、フランスには、シェルブールの街にはこんなお洒落なお店が一軒一軒並んでいるのね・・・と憧れに似た思いでスクリーンを眺めたものだ。
実は私は、自分でデパートの雑誌を作っていた位のデパート好きなので、路面店の思い出も、デパートにつながるものが多い。
モノを書いたり、編集の仕事を始めた頃、京都近鉄百貨店(現・プラッツ近鉄)の烏丸通りに面したコーナーにいくつかのショップがあった。ホテルの店、ラベンダーの店・・・・その名の通り、ホテルの店にはホテルグッズ、タオルやキーホルダーなどが並び、ラベンダーの店にはラベンダーのポプリやオイルなどが並んでいた。デパートの中なのに路面店風の洒落たつくりと専門的な品揃えで、暇さえあれば立ち寄っていたのだが、いつのまにか姿を消してしまった。
それから神戸大丸! リブ・ラブ・ウエストとそこから続く路面店は私のお気に入りだった。一瞬だけあったリブ・ラブ・ウエストの地下のワインセラーの素敵だったこと! 店内にももちろん素敵なショップがいくつもあったが、中でも大好きだったのは、ル・ペニュワール 私のお気に入り という名前のショップ。船底で眠っていたかのようなトランクや箱、ロマンティックなネグリジェなど、薔薇のつぼみが咲き香っているような商品が並んでいた。映画『田舎の日曜日』のワンシーンがそのまま移動してきたんじゃないかと思えるような雰囲気だったのだが、このショップもすぐに姿を消してしまった。私はあのショップを引き継ぐような思いで、自分のサイトにショップの名前をいただいた。
私のプチットゥ・マドレエヌ。森茉莉のこのフレーズを舌の上にのせた時、懐かしい恋人との再会のように、路面店の並ぶシェルブールの街並みや、私の大好きだったショップのことがひとつひとつ思い出され、切なくロマンティックな気持ちになったんのだった。

私の贅沢貧乏表紙へ  森茉莉雑記帖へ 
            

mon_peche_mignon_ at 09:36|PerlmalinkComments(2)TrackBack(0)clip!森茉莉 | 森茉莉の言葉

August 17, 2006

23粒目 紅茶に於ける限り、私は英国等である。

「昔友達が神戸のレストランで出す英吉利麺麭と、英国紅茶を呉れた時にはハム・エッグを造り、二三週間の間、英国人の朝食を楽しんだ。昔読んだ英国の探偵小説に、無罪の罪で牢に入れられている貴族の娘に、父親が平常喫んでいる紅茶を差し入れるところがあった。紅茶に於ける限り、私は英国党である」                     「ドッキリチャンネル」

秋は紅茶のおいしい季節である。ストレートティーもおいしいし、濃く淹れたロイヤルミルクティーもおいしい。ちょっぴりスパイスを効かせたチャイもおいしい。
私は普段、朝はストレートティーを飲み、街のカフェではストレートティーもしくはロイヤルミルクティーをオーダーする。そして、夕食後は『レシピエ』で買ったスパイスを使ってチャイをつくる。添えるお菓子は大抵がスコーンである。スコーンにはクロテッドクリームをつける。
スコーンは自分で作ったり、イギリス直輸入のものを買ってみたりといろいろ試したが、十三の『紅茶庵』のスコーンがいちばんという結論に達した。大きくてさくさくしていて、本当においしい。テイクアウトできないのが、何とも残念であるが。
森茉莉がもらったという英吉利麺麭はどこのレストランで出されていたものだろう。神戸にはおいしい麺麭屋さんが一杯あるので、きっとその麺麭もさぞかしの味だっただろうと思う。
私が森茉莉のように「英国人の朝食」を楽しむのは週末である。常備してあるのはリプトンの青缶フォートナム&メイソンの緑缶だが、ウィッタードの季節の紅茶やハロッズの紅茶を飲むこともある。麺麭は英吉利麺麭ではなく、どちらかというとドイツ風。お気に入りは岡本の『フロイン堂』の食パンである。薪で焼かれるここの麺麭は歯ごたえがあり、きちんと粉の味がする。ここの麺麭が手に入らない時は、近所のビストロで乾しいちじくの麺麭を分けてもらい、それを食べる。卵料理は、森茉莉風のオムレツか黄金色の夕日のような色をした目玉焼き。そしてこれを私は「森茉莉の朝食」と呼んでいる。BGMはジェーン・バーキンやフランソワ−ズ・アルディが多いが、実を言うと尾崎豊の日もある。
そして、森茉莉が卵に幸福を見出したように、おいしい紅茶と麺麭と卵料理という朝食に幸福と平和を見出した私は、訳もなく嬉しくなって来て、今日は何かいいことが起こるんじゃないだろうか、そんな思いさえも湧きあがって来るのだ。どうやら「森茉莉が・・・」といういわれがつくだけで、私には魔法の杖のひとふりの効果があるらしいのである。
                             


mon_peche_mignon_ at 09:40|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!森茉莉 | 森茉莉の言葉

August 11, 2006

22粒目 夢 無常の天国 中島らも など

「私は毎日ごろごろして文章を書いては、出来ない相談の大きな夢を見て暮していたが、このアパルトマンの生活は楽しくて気楽で、私にとっては無上の天国であった」               「街の故郷」

私も出来ない相談の大きな夢を見るのが好きだ。お気に入りのカフェの椅子に座り、本を読む手を止めてぼーっと窓外を眺めたり、紅茶をひとくち飲んではぼーっとしたりしながら、出来ない相談の大きな夢を見て過ごす時間は無上の天国である。
この私が最近、ここの住人になりたいと思うほど素敵なビルを見つけた。実際には再会したのだが、どうやったらここに住めるだろう、どうやったらここで本を読んだり、頼まれた原稿を書き散らしたりできるだろうかと、毎日毎日考えている。
そもそもの出会いは、もう10年以上も前のことである。ある日、『アンアン』を見ていた私は、そこに載っていた中島らも事務所のある建物を見て「あれ?」と思った。そのビルは、私がそのそばを歩くたびに気になっていたビルだったのである。家賃は格安、しかも私のお気に入りの界隈、今はなき三越劇場まで歩いて一分のところにあるレトロなビル・・・『アンアン』ではたしか、場所は秘密となっていたが、私はすぐにあのビルだとピンと来たので、スタッフのNさんを誘って出かけた。すると郵便受けには「中島らも事務所」の表札が出ていた。やっぱりね。
ちょうど事務所の引越しを考えていた時だったので、空き部屋があればここに移りたいと思って調べてみたのだが、結果は×。あきらめきれない私は、持っていた『サプライズ』を一冊、中島らも事務所の郵便受けに差し込んで帰った思い出がある。
その後、中島らもと親しかったホテルプラザ広報部のYさんに会う機会があったのでその話をして、ビルのことをいろいろと教えてもらったりもしたのだが、結局、事務所は阪急沿線の小さな街に移した。だが、あのビルのことはずっと気になっていた。震災で三越劇場はなくなり、あのビルももしかして・・・と思うことがあったが、そのうちに忘れてしまっていた。
ところが、である。ある日、友人と「鴨居令展」を見たあと、どこかでランチを、という話になり、これまたレトロなビルをお店に改装したカフェに案内することにした。案内しながらあのビルのある通りを歩いてみたところ、昔の姿のまま、ちゃんとあったのである。懐かしくて中に入ってみた。中島らも事務所はもう引越したようだったが、レトロな階段の手すりやコツコツという靴音も昔のまま。白いペンキを塗ったようなドアも同じ。
「昔、このビルの一室を借りたかっのだけど、空室がなくて・・・」と言う私に、友人が「ねえねえ、見て見て! 空室ありますって出てる!」と声をかけた。本当! 早速ビルの問い合わせ先をメモして、私たちは興奮気味にそのビルをあとにした(友人が後で家主に問い合わせたところ、ホテルの二部屋をぶち抜いて一室にした元ギャラリーだった部屋が空いているらしかったが、今の私たちにはちょっと贅沢な家賃だった)。
このビルは大正時代に建てられたホテルを貸しビルにしたもの。ホテルだった面影は今も残っていて、何とも洒落ている。私も友人も、ここを借りたらどうするか・・・という空想で頭の中が一杯になってしまった。私はここで本を読んだり、原稿を書いたり、何かを売ったりして過ごしたいなあ、と思い、友人は、ここで本を読んだり、翻訳をしながら過ごしたいと思い・・・・・・、その日は二人で出来ない相談の夢をみていた。私など「事務所を移転しました」という葉書の文面まで浮かんで来る始末で、かつてあきらめた夢が再びむくむくと頭をもたげてしまった。多分、このビルの部屋を借りたら、森茉莉のアパルトマンの生活のように、楽しくて気楽手な、無上の天国が待っているような気がした。私はいい原稿が書けそうな気がするし、友人も「何だかいい翻訳が出来そうな気がするわ」としばらくはポーッとしていた。
「私の本が出版されて大きなお金が入るという空想」をした森茉莉ではないが、かかわった仕事で大きなお金が入ったら、私はこのビルの一室を買いたいと本気で思っている。

*その後、中島らもは亡くなり、私も大阪市内とはとんと縁のない生活を送っている。あのビルが今もあの場所にあることを祈るばかりだ。

私の贅沢貧乏表紙へ  森茉莉雑記帖へ 
            

mon_peche_mignon_ at 09:12|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!森茉莉の言葉 | 森茉莉

21粒目 アメダス 天気予報と今出さん

「この頃、テレヴィの天気予報の時に、アメダスと、出ている。これは関西語の「雨です」ではないらしい」   「嘘字と父」

このくだりを読んだときには笑ってしまった。アメダスと関西弁の語尾の「だす」を結びつけて考えたことなんてなかったからだ。そうだす、ゆうたんだす・・・・・・あれ、でも「だす」なんてつける話す人っているのかなあ。
まあ、なんてことのないフレーズだが、森茉莉がこういうことを考え、書いているのが面白くて、そしてこういう彼女が好きなので、『マリアのうぬぼれ鏡』にも迷わず収録した。。関係ないが、所ジョージに遊びに来てもらいたい、という何でもないフレーズも好きで、こちらも収録したことはもちろんである。
私にとっての天気予報は、ヤンボーマーボーだった。関ジャニ∞のヤンボーマーボーもよかったが、ここ数年、私にとっての天気予報は何と言っても「今出さん」である。私が今出さんの天気予報を聞くのは夕方のニュース時だけだが、他のチャンネルをみていても、18時50分位になると毎日放送に切り替える。そして、やっぱり天気予報は今出さんでなくっちゃね、と思うのである。


私の贅沢貧乏表紙へ  森茉莉雑記帖へ 

mon_peche_mignon_ at 08:53|PerlmalinkComments(1)TrackBack(0)clip!

August 10, 2006

20 粒目 優雅なるホテルの記憶

「フランク・ロイド・ライトの設計した帝国ホテルは、多くの欧米の人々にホテル・テイコクと言われて愛されていた。私の心の中にも帝国ホテルはいつも、日比谷公園の前の夕暮れ刻の薄やみの中に橙色の燈火を点じ、親しみのある形を映していた」                   「帝国ホテルの崩壊」より

帝国ホテルについて私はあまりよく知らないのだが、森茉莉のこのフレーズを読むと、明治の薄闇の中、橙色の燈火を点したその風景が脳裏に浮かび上がり、不思議に懐かしい気持ちになる。実際の帝国ホテルは、私には何の親しみもないのに、何度もこのフレーズを読んでいるので、森茉莉の言葉のフィルターを通して親しみを覚えているのである。
唯一、私が経験した帝国ホテルは、故・村上信夫総料理長である。何年か前、私は村上氏の料理の講義を受け、その味を試食したことがあるというだけのはかないつながりなのだが、その人柄が何とも魅力的で、私にとって「村上料理長が帝国ホテル」なのだった。
そして、このフレーズから連想ゲームのように思い出されるのが、旧京都ホテルである。私は京都ホテルの旧館がとても好きで、京都ホテルとつぶやくだけで、赤い絨毯を踏みしめて歩くロビーのクラシックな雰囲気、ロビーにあった古めかしいライティングデスクやバカラのシャンデリア、バルコニーのアールデコっぽい手すり、柱の前に置いてあった古めかしい椅子などが懐かしく思い出される。そして、ロビーの奥に「間のラバンィデエ」と右から左に読む昔風のスペルで書かれたプレートがついた部屋があった。その扉の奥には、優雅なデザインの時計や柱やオーケストラボックス、マホガニーの壁のあるエディンバラの間が広がっていた。
私はここで過ごす時間を作るために、少し背伸びして、週に一度は朝食を食べに出かけたものだ。ホリー・ゴライトリー流に言うなら、それが「自分の見つけたいちばんいい人生勉強の方法」だったのだ。
私を夢の世界へと誘う小さな道具立てもディンバラの間にはあった。そこで使われていたシュガーポットだ。それは物語の中でみた魔法のランプのようなかたちをしていて、蓋を開けると煙が立ち上り、どこか夢の国に連れて行ってくれるんじゃないかとさえ思えるほどだった(私はこの空間がクローズされると聞いてから、何度このシュガーポットをくすねて帰ろうと思ったかしれない)。
あぁ、あの時計や椅子、シュガーポットはどうなったのだろうか。
森茉莉の心の中にある帝国ホテルのように、私の心の中にある京都ホテル旧館は、クラシックレースのような優雅さで今も私を懐かしい時間に誘う。人を愛した記憶はいいものだと言った詩人があるが、愛する場所の記憶もまた人の心を優しく豊かにしてくれる。実にいいものである。                                  
               

mon_peche_mignon_ at 09:32|PerlmalinkComments(2)TrackBack(0)clip!森茉莉 | 森茉莉の言葉

August 09, 2006

19粒目 出来すぎた話

「外国人になめられるようでは政治家としても,単に一人の人間としても,失格である」 「吉田茂と国葬」より

森前総理大臣が総理大臣としてサミットに出席した時の評判は散々だったが、ああ、森茉莉だったらこのことについてどうコメントしただろうと思ったものだった。週刊新潮に『ドッキリチャンネル』が連載中でないのが何とも残念だった。
『明石屋マンション物語』をみていた時に、関根勤の「ショック・・・」に続くコメントで知ったのだが、日米首脳会議の際、クリントン大統領に会った森首相は、「フーアーユー」と挨拶してしまったらしい。しかも、しかもである。クリントン大統領が「アイム・ヒラリーズ・ハズバンド」とジョークで答えたところ、森首相は何と「ミートゥー」と答えたと言うのだ。一瞬笑わせるためのネタかと思ったのだが、どうもそういうやりとりが本当にあったらしい。
情けなくて笑う気にもならない「フーアーユー」事件。これも「アイム・ヒラリーズ・ハズバンド」とクリントン大統領が切り返したときに、気の利いたジョークで返していれば情けなさも半減したかもしれないが、そういうことができる器ではなかったらしい。というより、自分のおかした間違いにも気がついていなかったのかもしれない。こう書きながらも、あまりにトホホなこのエピソード、やっぱり出来すぎたつくり話じゃないかな、と思ったりするのだが、実際のところはどうなのだろう。


私の贅沢貧乏表紙へ  森茉莉雑記帖へ 

mon_peche_mignon_ at 10:24|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

18粒目 すべてのことは芋蔓式に・・・

「蔓の先につながって成っている芋ではないが、妙に犯罪というのは一つ起こると続いて同じ蔓の芋のような犯罪が続々と現われるのは不思議なことである」       「痴呆的な犯罪」より

犯罪に限らず、事故、事件というのが芋蔓式に起きるのが私も不思議である。飛行機の墜落事故がどこかで起きると、その連鎖反応のように新たな飛行機事故が起きるし、通り魔殺人が起きると、またどこかの街で同じような事件が起きる。これは一体どうしたことなのだろうか。不思議だ。
新しいところでは雪印の食中毒事件である。このあと、森永、キリンビバレッジ、山崎パンなど、食品メーカーの事件が次々に起こったが、本当に不思議なことである。
もうひとつ不思議なのは、一つの本や雑誌が爆発的に売れると、二番煎じのような本や雑誌をが次々に出版されることである。内容はともかく、タイトルが恥ずかしいほど似通っている。多分売るためにわざと似せているのだろうが、「恥ずかしいな」という思いと編集者はどう折り合いをつけるのだろうか。不思議である。*(自分がそんな編集をしていませんように)。
そして、二番煎じのものはたいていの場合、オリジナルよりはクオリティーとしては劣る。面白いかもしれないが、微妙に半ランク下世話になるのだ。
ついでにもうひとつ。高視聴率をとったドラマが恥ずかしくなるほど外国映画とそっくりな場合がある。もう少しアレンジしてよ、とお願いしたくなるほど同じストーリーだったりする。こういう場合、第一回目の放映をみたときに、アッ、あの映画だな、とピンとくる。だとしたら、いずれあの女性は病気をおして子どもを産み、死んじゃうのだけど、まさかそこまではね・・・と思っていたら、あらま! 驚くほどその通りの展開。パクリじゃないの、とあきれても、誰もそのことを話題にしないのは不思議だ。もしかして才能というのは、いかに売れそうなものをパクルことができるか、という一点にのみあるのだろうか。確か、近田春夫のエッセイにそんなことが書いてあったな。近田春夫は贔屓の人物なので妙に納得した覚えがある。
それはそうとしても、スタート地点において、「ああなりたい」「こうなりたい」「こんな風にしたい」「こんなイメージに」・・・そういうエッセンスを受け継ぐのはいいと思うのだが、パクリに始まりパクリに終わるドラマが存在し、それが受け入れられている。そのことはやっぱり不思議である。

私の贅沢貧乏表紙へ  森茉莉雑記帖へ                         

mon_peche_mignon_ at 10:16|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!森茉莉 | 森茉莉の言葉

August 08, 2006

17粒目 真珠への憧れ・・・

「ダイヤモンド(それも淡黄がかったのが好きである)の美も、紅玉の美も(その他の宝石は残念なことに手にとってよく見たことがない)判るが、真珠は見た目の美しさの他に、海から生まれたということが好きである」             
          『海から生まれた真珠』より

私も真珠が好きだ。淡い薔薇色の夢を見ているような表情と気品、森茉莉が言う海から生まれたというロマンティックな誕生の経緯は、憧れを誘うには充分。だが、私は、『赤毛のアン』のアンが真珠のエンゲージリングを贈られたというエピソードと、「5月になると私の指にはけむりのような真珠が光ります」(ちょっとあやふやだが)という与謝野晶子の詩の言葉の美しさがさらに重なるので、真珠というだけでより優雅で美しい気分になる。
婚約したときに私が望んだのは、アンと同じ、真珠のエンゲージリングだった。だが、こういう指輪は縁起のものだから傷つきやすい真珠よりもダイヤモンドを、というお店の人のすすめにあっさり従ってしまった。だから、絹のタフタのような色と光沢の真珠は今も憧れの宝石。そのかわり、この森茉莉さんの「言葉の真珠」のひと粒ひと粒をネックレスのようにつなげて、ロマンティックな気分を楽しんでいる。
                      
この記事をクリップ!

mon_peche_mignon_ at 16:49|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!森茉莉 | 森茉莉

16粒目 幸福が降りかかった・・・

「夫の生活はソルボンヌに通う以外は勉強のためにオペラ,芝居と出歩く生活だったから、早速ギャルリ・ラファイエット(百貨店)でぶら下りのソワレ(夜の袖のない洋服)をひと揃え買うという幸福がふりかかった」     「続・洋服」より

1922年(大正11年)3月、医学研究のためドイツに留学する異母兄於菟と共に渡欧することになった森茉莉の旅仕度の中でも、最も重要だったであろう、洋服を拵えるということ。巴里で拵えたいのはやまやまだったが、まさか着物でマルセイユに下りるわけにも行くまいと、日本で拵えることになったが、想像した通り、森茉莉好みのものは出来上がってこなかったようだ。
森茉莉はこの洋服を拵えるいきさつについて、「誰から勧められたのか、布地と見本を持ってやって来たのは、横浜の支那人の洋服屋だった。父親が見本を見て、選んで誂えたが・・・」と書いているが、この時代、洋服いうと支那人の洋服屋さんにオーダーするのが普通だったのだろうか。森茉莉の洋行よりも十年以上前、明治の終わりに女優の東山千栄子さんが洋行したときにも、支那人の洋服屋で拵えたとおっしゃっていたと記憶している。洋服を拵えようと三越に行ったが「日本服はいたしますが、洋服はまだいたしておりませんので」と断られ、帝国ホテルの地下の洋服屋で拵えたと。
それはともかく、黒いスーツの上に黒い外套をはおり、桜田本郷町の靴屋で見つけたお気に入りの靴(足の甲の上に革のバンドが猫の肋骨のようにたてよこキの字に交叉したデザイン)に、巴里ではみんなが肌色の靴下を履いているとは夢にも知らないので、黒い絹の靴下を履いた東洋の修道院の生徒のような16歳の森茉莉は、マルセイユを経由して巴里の北駅に降りたのである。
だが、巴里に着いて二週間もしないうちに、毛虫が蝶になるように、森茉莉は「なんとも面白いパンジェンヌに孵化」する。巴里での生活は上記の引用文のようにスノッブなもので、体ごと、魂ごと、巴里の中につかり込む生活の中で彼女は、髪結いで髪を大人っぽく結い、紫を帯びた薔薇色で襟が広く開いたソワレ、スーツ、白いなめし革の肘上までの手袋と真珠の首飾り、黒のエナメルの靴、肌色の絹の靴下などを買い込む。お洒落な彼女はほくほくで、巴里の雨に濡れ、巴里の風の中を歩いたのである。
ロマン・ロランの小説の中で、セーヌを見入った二人が、持っているひと握りの幸福を大切にしようね、とささやき合う場面があるが、森茉莉もまた、巴里という恋人から注がれた幸福を心の中に大切にしまっていた。そしてその「幸福」の輝きは、生涯を通して森茉莉の心を薔薇色に照らし続けることになるのである。
                                       

mon_peche_mignon_ at 15:31|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!森茉莉 | 森茉莉

15粒目 Sous le ciel de Paris, coule la Seine・・・・

Sous le ciel de Paris, coule la Seine・・・・

「巴里にいた時から六十年経った今、私は巴里を思い出して、懐かしい<巴里>という、素晴しい、情緒にあふれた恋人を見たことが、どれほどの倖だったかを、しみじみ、感じている」          『ドッキリチャンネル』より

手元に1976年発行の『セゾン・ド・ノンノ』がある。この号の特集は「パリ大地図帳」。巴里がびっしり詰まった贅沢な一冊である。初めてこの雑誌を手にした時、私はこの雑誌を開き、「パリの番地は、セーヌ川からはじまって、北に(あるいは南に)1番地、2番地、3番地・・・・というふうにつけられている」、そして、「パリのカフェ・テラスの椅子は、みんなセーヌのほうを向いている」、あるいは「マロニエの白い花びらが、ぼたん雪のように、ゆっくり川面にふりそそいでいた」といったフレーズに深い深いためいきをついたものである。そして今、この雑誌を再び取り出して、森茉莉さんが暮らしていたホテル、ジャンヌ・ダルクはどこだろうとさがしながら、森茉莉さんが夢を見るようにして生きていた巴里に思いをはせている。
巴里での森茉莉については『記憶の絵』に詳しいが、パリジェンヌに孵化した巴里での日々は、プリュニエ、イタリア料理店、菓子店などを巡りながら、カフェのテラスにのんびりと腰をかけて通る人々を眺め、森を歩き、ルウブル美術館でぼんやり休むといったもので、遊び歩く以外では、ねころんで何かを口に入れ、お洒落の雑誌や、詩的な小説や、ユウモアのある小説を読むといった、実に森茉莉好みのものだったようである。
この森茉莉にとっての巴里を思うとき、私はいつもヘミングウェイの『移動祝祭日』を思い出す。
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、パリはきみについてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だから」
という一節を。
森茉莉にとっての巴里―。大切な宝物のように巴里を生涯胸に抱き締めていた彼女にとって、巴里はまさに移動祝祭日そのものだったのだろうと思う。            

mon_peche_mignon_ at 15:27|PerlmalinkComments(0)TrackBack(0)clip!森茉莉 | 森茉莉