2007年03月

冬の蠅

冬の蠅

 暖冬のまま春になるのかと思った。冬がまた戻ってきたようだ。暖房が欲しくなる。今夜などキイボードを叩く指が冷え、両手をすりあわせたりする。
 深夜、机に向かって仕事をしていたら、なんだからふらふらと黒いものが横切って行く。卓上蛍光灯の縁にとまった。
 目をこらすとちいさな蠅だった。
 蠅を見たのは何年ぶりだろう。田舎を離れて二年近くなる。でも今時田舎でも滅多に蠅はいなかった。記憶にない。猫が元気だったとき、猫用トイレの掃除を怠ると飛んできたか。いや私は猫を溺愛していたのでトイレはいつもきれいだった。人様のトイレは汚くても猫のトイレはいつも清潔だった。蠅を見たのはいつ以来だろう。

 田舎時代、滅多に見かけないからこそたまに登場する蠅の煩わしさは格別だった。天井にとまり、思いついたように飛び回られると羽音が気になっていられない。父母のいる階下から蠅叩きを持ってきて奮闘する。ジェット噴射が売りのフマキラーの殺虫剤を噴きまくる。たかが蠅一匹にたいそうな騒ぎだった。
 こういうのは慣れである。インドのように黒いテーブルだと思って近づいたら一斉に蠅が飛び立ち実は白いテーブルだったという暮らしをしていれば、顔に何匹か蠅がとまっても平気でいられる。そういう生活を本筋と思っているのだが、現実にはたった一匹の蠅がいるだけで仕事が手につかなくなり追いかけっこをしているのだった。

 先日まで一年半ほど住んでいた国立も快適な場所だった。八階ということもあったろうが、田舎から持ってきたそのジェット噴射も電気蚊取りもまったく使うことはなかった。
 室内で蠅を見たのは何年ぶりだろう。この寒さの中、このちいさな蠅はどこからやってきたのだ。こんな真夜中に。

 ふらふらと浮遊するちいさな、ほんの五ミリほどの蠅なのに、久々に見かけたものだから私は反射的にジェット噴射の殺虫剤を探し始めていた。まだ引っ越し荷物のいくつかは荷ほどきをしていないが、そのうちのひとつにそれが有ったことを覚えていた。取り出して台所のしたに収納したような、いや使うこともあるまいとそのまま段ボール箱に入れたままだったような。ひとしきり探し回った。

 こういう熱狂はすぐに冷める。ほんの一二分探していたろうか。見つからないまますぐにつまらないことをしている自分に気づいた。たかが蠅一匹、それもうるさく飛び回るのならともかく、まるで死にかけた蚊のようにふらふらと飛んでいただけではないか。なにをむきになっているのだと恥ずかしくなった。

 机に戻り、椅子にすわって、まだ卓上蛍光灯の端にとまっている黒い点に指を振ると、力無く飛び立って行った。
 蠅のとまっていたしたに猫の写真があった。平成十二年の一月十日に死んだからもう七年になる。でもどこに行っても離すことなく持ち歩いてる写真だ。元気なときのかわいい溌剌とした写真がいくらでもあるのに、なぜか私は死ぬ十日ほど前に、医者からもう点滴も無理だと宣言されたときポラロイドカメラで撮ったこの最後の一枚が愛しく、原板は大事に仕舞い、スキャンしてコピーしたものをいつも卓上に飾っていた。栄養が体に廻らなくなり、毛がパサパサになったなんとも痛ましい姿である。だがこれから飲まず食わずで、いや厳密には私が死の直前までスポイトで無理矢理口を湿したから飲まずではないのだが、一週間生き抜いて骨と皮になり死んでいった彼の姿はこんなものではなかった。本当に骨と皮だけになり私の腕の中で息絶えた。絶対に姿を消して死なないでくれ、俺の腕の中で死んでくれと言い続けてきた約束を守った即身仏のような姿だった。かなしみが体の中で渦巻き迸った。今までの人生でたった一度だけした号泣である。これからもすることはないだろうししたくもない。死の旅に出る直前のこの一枚が私には最も愛しいものになる。


 旧友と話したあと猫の写真に目がとまり、呼びかけたら涙が出た。感傷的になったときよくあることなのだが今回は数ヶ月ぶりだったように思う。あまりに慌ただしい変化が続いたので話しかけている餘裕さえなかった。彼と暮らした十五年は私の中で今も色あせることなく輝いている。友人であり恋人であり息子であり何でも懺悔できる私だけの物言わぬ牧師様だった。
 外国から深夜に帰ると、庭に三つ指突いて待っていてくれた時を思い出す。私が帰るときは必ず庭に出迎えてくれた。ヘッドライトに彼の姿が浮かび上がる。ドアを開けるとにゃーと泣いた。抱き上げてほおずりする。喉をごろごろと鳴らす。私が数ヶ月ぶりに外国から帰る日、その日に限っていくら家の中に入れても出ると言って聞かないのだと母が驚いていた。彼の体を抱き上げてほおずりするとき、それが私にとって日本に戻ってきた証だった。
 そんなことを思い出し涙を滲ませたのが数時間前だった。そのあとパソコンに向かって集中して文を書いていたからすっかり忘れていた。
 猫の名をつぶやく。彼だったのかと思う。
 七年も経つのにまだ写真を見て泣いている私を思って彼がやってきたのだ。もう泣くなと言いに蠅の姿でやってきたのだ。
  
 蠅の消えた方向を見たがいなかった。どこからやってきたかわからない蠅はどういう方法でかまた姿を消していた。
 たぶんそれはどこかのゴミ箱から発生した蠅が通風口でもくぐって迷い込んできたのだろう。それだけのことにちがいない。
 でも食物など置いてないこの閉め切った部屋に、どこからどうやって入ってきたのだ。こんな冷え込む夜に。そしていまどこに消えたのだろう。
 冬の蠅。

新『お言葉ですが…』始まる!

待望の「新・『お言葉ですが…』」の連載が「Web草思」で始まった。第一回は2月7日、第二回が2月15日である。月に二度ほどまた高島さんの『お言葉ですが…』がネットで読めることになった。実現してくださった関係者各位に深く感謝する次第である。なんてえりっぱなことを言える立場ではないが、とにかくもううれしくてありがたい。草思社にはもう足を向けて寝られない。高島先生のご健康とご健筆を心から祈願する。

新『お言葉ですが…』
草思社URL
http://web.soshisha.com/archives/word/2007_0215.php

ここ二回は「雑話二則」と題されている。インターネットで始まった新『お言葉ですが…』のためのウォーミングアップというところか。
  2月15日の第二回目では皇后陛下の歌を取り上げていた。

かの時に我がとらざりし分去れの
           片への道はいづこ行きけむ

高島さんのことばを借りるまでもなく、民間から嫁いだ皇后陛下という立場を鑑みると、なんとも大胆な歌である。高島さんは感想として、《あんなに美しかった人が、泣きそうな顔の、猫背の??これは身長の点でも天皇につきしたがう形をつくれ、と役人に要求されてのことだろう??老女になった。その悔いが、おそらく半世紀にわたって心身を苦しめてきたのであろうことがうかがわれる。》と書いている。(詳しくは新『お言葉ですが…』をお読みください。)

 皇后陛下の強さは自らの老いを隠さないことにある。真っ正面にそれを出す。輝くように美しかった分だけその変容に胸が痛む。その辺が各国の整形手術をしてまで若さを保とうとする大統領夫人、国王夫人との決定的な違いだ。
 私は皇后陛下のその強さを賛美するものだが、視点を変ると、皇后陛下はあれほどお美しかったかたが、あの世界でご苦労なさることにより、こんなにもなってしまったと厳しい現実を敢えて晒しているとも言える。日清製粉のお嬢様が皇室ではなく民間に嫁いでいたなら、今ももっと若々しく輝いていられたろう。それこそまだ五十前に見える若々しさを保っていたと想像するのは難くない。そう考えるなら、むしろ整形手術をしてまで若さを保ってくれた方が皇室関係者はありがたいとも言える。皇后陛下のご容貌の変化こそが、かの世界がいかに民間出身のプリンセスをいじめ抜いたかの証である。とするならそれは皇后陛下の緩やかで残酷な皇室世界への復讐とも言えよう。

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高島さんは皇后陛下の歌が心に残った理由として我が身のことを語り始める。
 私はこのめったにない私的なことを語る高島さんの文が好きである。
 と書くと、高島さんは体のあちこちが痛いとか教え子と麻雀をしたとか私的なことばかり書いているではないかと指摘する人がいるかもしれない。って、そんな見当違いなことを指摘する人がここを読んでいるはずもないのだけれど、それはまあ文章の展開上こんなふうになる(笑)。
 私の言う「私的なこと」とは、高島さんのもっと内側の世界である。

『お言葉ですが…』全作品中、私にとって最も印象的な一篇として、「字が下手だと言うヤツにろくなのはいない」がある。文字通り「私は字が下手でして」と言うようなヤツはダメだ、とお怒りになっている。それこそ救いようがないほどキツく否定している。若い頃から一貫して怒ってきたらしい。私は字が下手なことに劣等感を持っている典型的な男だったので、この文を読んで恥じた。いわゆる「思わず俯いてしまいました」である。だがそのあとの高島さんがそう思うようになる理由を読んで、なんともくすぐったいようなものを感じた。

《高島さんのお父さんは字が上手なことが自慢でいつもそれを口にしていた。母親をいつもおまえは字が下手だと貶していた。いつもそう言われているものだから、母親はわたしは字が下手で、と字を書かないようになってしまった。お父さんはそれに対して、お母さんが書くべき手紙やハガキに関しても、よおし字の上手なおれが書いてやろうと益々居丈高になった。母親はわたしは字が下手だからといつも悩んでいた。息子(高島さん)がそんなことは気にするなといくら言っても治らなかった。字の上手下手など人間の価値に関係はない。字がうまいと自慢するヤツはくだらない。下手だと卑下するヤツは間違っている!》というような内容だった。これってトラウマであろう。
 長男でありお母さん子だった高島さんは、このことから字がうまいとか下手だとか自慢したり嘆いたりする人を嫌うようになって行く。特に字が下手だと卑下する人を嫌うようだ。

 わずか50のレスにも満たず消えた2ちゃんねるの『お言葉ですが…』スレにあった、「あの人はマザコンなのを隠さないよね」を読んだときは目から鱗だった。私が感じた「くすぐったいようなもの」の正体はそれだったのだ。私はトラウマとまでは思ってもマザコンまで思い至らなかった。それは私が母親を嫌いでマザコンの対極にいるからだろう。

 私の持っている高島さんの本には載ってないので未確認情報だが(とはいえ信用度は高い。単なる流言蜚語ではない)、高島さんが大学から去ったこと(=学者の道を断念した理由)理由として、岡山大学時代、母親の看病で休暇を取ることが多く、それを許してくれない大学側と決裂したからだ、との文を読んだ。
 長男であり唯一の男の子であり、そしてもちろん学業優秀であり、妹が出来てからはいつも「にいちゃん」と呼ばれて育った高島さんが、大のお母さん子であったことは著書のあちこちから伝わってくる。本が大好きで、でも読みたい本を全部買うことなど出来なかった時代、お母さんが本好きの息子のために近所の本屋さんに掛け合って格安でレンタルしてもらえるようにしてくれる話等に顕著だ。母親として敬愛するのはもちろん、高島さんは今の自分を作ってくれた恩人としてお母さんに深く感謝していたのだろう。そのお母さんの世話を心ゆくまで看たい。でもそれを許してくれない職場。ケツをまくった気持ちがよくわかる。私の場合は、母ではなく父であり、もともとフリーランスだったので満足行く介護が出来たが。

 文章の性格上この種の話は『お言葉ですが…』にはほとんど出てこない。それ以前の大和書房の本には何度か出てくる。そういう意味で、高島さんの私的な部分も読んでみたい読者としては『お言葉ですが…』は物足りない面も持っていた。メジャな週刊誌であるから読者からの反応反発も多い。次第に自重されていったのだろう。
 そこから解放され、Web草思で書く高島さんは、『お言葉ですが…』以前のように肩の力を抜いているように思える。

 今回も皇后陛下の歌を引きながら、ご自分のことを語っている。
「もしもあの分岐点で、違う道に行ったらどういう人生になったろう」と皇后陛下は歌った。
 独身の高島さんは、自分もあのとき違う道を選んだなら、今頃家族と家庭が……と、人生の岐路を語る。それは「相生ライフ」に書かれた「私の人生は失敗だった」を読んで以来の衝撃だった。この「相生ライフ」の文章もインターネットがなければ生涯触れることのない文章だった。まさかあれが単行本再録なんてことはあるはずもない。ネット世界の便利さを思う出来事である。

「Web草思」で、今までめったに読めなかった高島さんの私的な文が読めるなら、あのノナカ機関誌と堕落した『週刊文春』の連載が終ったのもわるくはない。高島先生のご健勝と、草思社と連合出版の発展を心から願う。(07/2/26)

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関連
『お言葉ですが…』論考
「人生の結論」
「字の上手下手」





冬の競馬場

◎冬の競馬場


暖かい毎日である。もう春爛漫といっていいのだろう。なにしろ部屋の中でちょっと片づけものをするだけで汗を掻き、ティーシャツ一枚になったりするほどだ。どう考えても二月末、三月上旬の陽気ではない。

東京の桜開花予想は3月19日。ずいぶんと早い。
凍えるほどの冬をさして経験しないまま春になってしまうと冬の厳しさを恋しく想ったりする。
そう想えば真冬の競馬場に通い、身も懐も(笑)凍えたことはいい経験だった。

今年の中央競馬初日は1月6日。激しい雨である。ひどい日だった。せっせと片道二時間かけて出かけた。寒くて震え上がった。館内にいれば暖かい。だが馬は間近で見たい。そうすると雨と風に触れて寒い。震え上がる。だけど馬も騎手もそこにいる。その寒さの中にいる。私は暑さ寒さを馬や騎手と一緒に感じることが競馬の基本だと思っているからここで逃げるわけには行かない。

だから寒いのは当然でありそれでいい。冬なのだから。困ったのは内外の温度差だった。
北京で買ったダウンパーカーを着ている。値段の点から本物かどうか疑わしいがとりあえず日本の寒さはしのげる。そりゃ北京のあれと比べたら東京なんて生ぬるい。

4階席から吹きつける雨の中、パドックを見る。そこまではいい。館内にはいると今度はこれでもかというぐらい暖房が効いている。寒い日だから最強にしているのだろう。暑くていられない。何もしなくてもダウンパーカーの前を開けているだけでは額に汗が滲み出てくる。ダウンパーカーを脱ぎ、それでも暑くていられないのでセーターも脱いだ。薄着である。返し馬を見て、オッズペーパーを印刷し、と慌ただしく時間が流れて行く。なにより脱いだ服が荷物になって煩わしい。

レースが終り、すぐにまたパドックに馬が出てくる。身に行く。今度は寒い。セーターをバッグに入れたままダウンパーカーを羽織って出たがそれでも寒い。しかしこれで館内に戻りセーターを着ていたりしたらそれに時間を取られ、ろくにパドックが見られないので我慢する。なんとも半端でつらい時間だった。

パドックで馬を見ることで最も大事なことは、一定の場所から一定の角度で見ることである。雨風に晒されようといつもの場所に行き、いつもの角度で見ねばならない。暖かい館内からガラス越しに見たりモニターで見たりしたのでは意味がない。なんのために競馬場まで来たのかわからない。
室内外の温度が同じ季節が恋しかった。室外で寒さに震えるから室内の暖かさはありがたかったけれど、あまりの温度差が恨めしくもあった。

というようなことを1月6日の金杯の日にやっていた。しかしこの日は雨の日だった。そこそこ風もあり厳しい状況だったがまだよかった。金杯の3連単12万を当てたことも関係あったろう。

真に厳しかったのは次の日だった。1月7日。この日は厳しかった。雨は上がったがとんでもない強風の日だった。この寒さは半端ではなく4階の外にしばらくいると体の芯まで冷えた。寒さとは風なのだとあらためて知った。北海道などで感じる深々と冷え込む寒さも風がないとそれほどでもないのである。問題は風なのだ。騎手の栄光と苦労を思った。たいへんな仕事である。

これはその後の東京開催でも思い知る。今度は新スタンドの5階である。いつもいつも強風で耳などちぎれそうになった。どれほどの強風だったかは自動ドアのスイッチを切っていたことでも解る。出入りは手動ドアだけだった。それが解らず自動ドアの前で押したり引いたりしている人がいるのが笑えた。私も最初やってしまったが。メインレースで間近に馬を見ようと一階の報道人席まで降りて行くとそうでもないから、やはり高いところは風が強いのだろう。一階まで降りて行くのが面倒で手抜きをした罰とも言える。競馬場に行くと本当に歩き回る。万歩計でどれぐらいか測りたいぐらいだ。健康のためにはいいだろう。

住居ではまったく寒さを感じない冬だった。ガスファンヒーターを点けたのは数回程度である。それも私の場合、一日中で最も冷え込む明け方に起きて仕事をしているのだ。それで17度ぐらいだった。晩秋ぐらいである。すごしやすい。その時間でめったにヒーターがいらなかったということは、もしもまともな時間に寝起きする生活をしていたなら今冬は一度も使用せずに済んだかもしれない。

競馬場に通って高い場所で寒風に震え上がったこと、今の部屋に越してきてからも、深夜に自転車で買い物に行き、手がかじかんだことなどは、異常な暖冬だったからこそいい体験だったと思う。
日当たりのいい今の部屋で室内作業ばかりしていたら、暖冬だ暖冬だと言うだけで一度も寒いと感じないまま冬を越してしまったろう。悪天候の日に競馬場に通ったことは、私なりに季節感を掴むためによかったと思っている。

 

ゴング 廃刊!?


 ゴング廃刊!?


 

週刊ゴング廃刊決定

先日、代表取締役社長の前田大作容疑者がコンピューター関連機器会社「アドテックス」(東京都港区)の民事再生法違反事件で逮捕された日本スポーツ出版社は、27日までに「週刊ゴング」の廃刊を決定、編集部員全員を解雇すると通告しました。40年の歴史を持つプロレス専門誌「ゴング」は来週発売号をもってピリオドを打つことになりました。

<「週刊ゴング」とは?(WIKIPEDIA」より(敬称略)>
ベースボール・マガジン社でプロレス&ボクシングの編集長をしていた竹内宏介を日本スポーツがヘッドハンティングし、竹内を編集長・総責任者として1968年に月刊誌「月刊ゴング」として創刊。当初はプロレスだけでなくボクシングも扱った格闘技専門誌だった。1982年にボクシング部門を月刊ワールドボクシングとして分割、プロレス専門誌化される。1984年に週刊化され現在の誌名に変更。

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 1968年の創刊号から闕かさず読んで来たひとりとして複雑な思いである。最初はベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」に対抗したものだったので、中身もプロレスとボクシングだった。私はプロレスのみを読みたかったので、このすぐあとに出る「別冊ゴング」に特に思い入れがある。「別冊ゴング」とは月刊のプロレス専門誌だった。本誌のゴングが毎月1日発売、別冊は15日発売だったか。別冊の方を毎月待ちわびては購入したものだった。

 このプロレス専門の別冊ゴングが「週刊ゴング」になる。ベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」が「週刊プロレス」だ。週刊誌になってからは私は『週プロ』の方を読むようになり、そのあたりから「ゴング」との縁は切れてしまった。立ち読みは闕かさずしていたが。

 近年はもう立ち読みさえしなくなっていた。たまにするそれは『NOAH』の大きな大会があったときだけだった。
 思いこみというなら、昨年廃刊になった『週刊ファイト』とは比べ物にならない。ファイトを読んだのは二十代後半の時だった。別冊ゴングは高校生時代である。
 プロレス会場に足繁く通ったのはそのファイトを読んでいた時期だった。一緒に行った金沢のKやM、コニシとか、プロレス仲間も多く、自家製のプロレス誌を作ったり、いろんな意味で最もプロレスに充実?していた時期になる。だが私にとって胸が切なくなるような濃密なプロレスへの思いは、田舎の高校生のときの「別冊ゴング」とともにある。「まだ見ぬ強豪」としてスパイロス・アリオンやミル・マスカラスにあこがれていた時代だ。情報が乏しかった時代の乏しかったからこその充実を感じる。昭和三十年代へのいとしさと同質か。「別冊ゴング」なんて欄外のミニニュースまで暗記してしまうほどだった。

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 プロレスを殺したのは誰なのだろう。まだ死んでいないと怒る人もいるかもしれないから、私がプロレスを卒業してしまったのは何故なのだろう、とした方が無難か。
 それは時代の中で必然だった。私はそれを「先祖返り」と解釈している。
 本来のプロレスは権力者に庇護されて、あるいは権力者の権力の一部として、真剣勝負だった。パーリトゥードだった。
 それが発展し見せ物として成り立つようになる。各地を廻る巡業であるから怪我は大敵だ。マットは柔らかくなり、その分、派手に空を飛んだりするようになった。大技の連発で長時間闘ったりした。それが行き着くところまで行ったとき、先祖返りが起こった。1分も掛からず終っても、真剣勝負ならその方が価値があると思われる時代が来た。ぐるりと一回りして元に戻ったのである。

 ということは、今の真剣勝負であるが故に残酷で地味な短時間の闘いがまた一回りしたら、信頼し合っている者同士が相手に怪我をさせないように闘うプロレスの安心感にまた脚光が当たる日が来る、とも言える。

 しかしそんな日が来て、かつてのように子供達がゴールデンタイムのプロレスを楽しむようになったとしても、私がまた以前のようにプロレスを好きになることはないように思う。
「プロレスは卒業するもの」と言われてきた。私は頑固に留年を続け卒業しなかった。それは校舎の崩壊、あるいは学校の閉鎖のような形で訪れた。いまだ卒業したのか追い出されたのかわからないのだが、もう復学だけはないように思う。
 今も土曜の深夜、PC作業をしていて、ああもうそろそろプロレスだな、と思うことがある。ネットの番組表を見る。棚橋、永田などと書いてある。見る気がしない。見ない。『NOAH』の我慢比べのような試合もつまらない。ブロレスは「あれが出たら終り」でなければならない。
 創刊号から読んできたゴングの廃刊で切れかかっていた糸がきれいに切れた。突然のことではなく緩やかな死だったから、かなしみはない。
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