2007年11月

平成十九年九州場所覚え書き──砂かぶりのケイタイ男

 砂かぶりのケイタイ男

 二日目だったか、砂かぶりに金髪に染めたスーツ姿のアンチャンがいて、取り組みの最中に何度もケイタイで電話をしていた。正面にいるから見たくなくても見えてしまう。見たくない光景である。こういうマナーはなんとかならんものか。

 砂かぶり(たまり席)は一般人は入手できない。私は生前の父に一度でいいからたまり席をプレゼントしたかったがつてがなく叶わなかった。一般に買える枡席どまりだった。そういう個人的な恨み辛みもあって(笑)、相撲に興味のない金髪だか茶髪だかのアンチャンがあの特等席にいて、しかもケイタイでへらへらと話しているのを見ると不快になる。

 ケイタイで話しているのは花道にたむろする主婦にもいる。よくないことだがまだ許せる。なぜならそれは子供の手を引いた主婦が、「今ね、今ね、魁皇が目の前を通ったの」と亭主にでも伝えていることがわかるからだ。表情もうれしそうだ。これは興業でありお祭りでありショースポーツだから、安い券で入った一般客の、そういうマナーの悪さはまだ見逃せる。

 砂かぶりは特別な場なのだ。他の席と違って飲食が出来ない。相撲を間近で見られる特別な場であると同時に150キロの力士が飛んでくる危険な場でもある。客はみな傷害保険に入らねばならない。砂かぶりの客が途中で退席すると目立つので結びの一番までいるように義務づけられてもいる。そんなこと、あの特別な席に行く人は誰でも知っていよう。その特別な場での茶髪ケイタイ男だったから腹が立つ。

 砂かぶりのケイタイ男も相撲に興奮していたのなら許せたかもしれない。いややっぱり土俵の向こうに勝負の最中もへらへらとケイタイで話している髪を染めた男がいるというのは画として許せないが、それでもまだそいつが「高見盛なんだよ、いま目の前で高見盛が気合い入れてるんだよ!」とでもしゃべっていたなら話は違ってくる。だがそいつは土俵など見ていなかった。退屈していた。「券もらったから来たけどさあ、全然つまんなくって、もう帰りたいよ」と、そんな感じなのだ。

 今後はぜひとも「砂かぶりでの携帯電話の禁止」を規則化してもらいたい。中入り後の相撲を砂かぶりで見るだけの時間に、ケイタイで連絡を取り合わねばならない緊急の用事などそうもあるまいし、あるほど忙しい人なら相撲見物になど来なければいい。

「アベするアサヒるオザワる」──アサヒシンブンのウソコラムを糾弾したネットの正義!

 アベスル・アサヒル・オザワル

 安倍前首相が突然辞任したことについて書かれた9月25日付朝日新聞のなかで、コラムニストの石原壮一郎さんが「『アタシ、もうアベしちゃおうかな』という言葉があちこちで聞こえる。仕事も責任も放り投げてしまいたい心情の吐露だ」などと紹介した。ところが、ネット上で、そのような言葉は流行っておらず、「捏造」ではないかといった指摘や批判の声が相次ぎ、石原さんのブログも「炎上」状態に追い込まれた。

 川北隆雄論説委員が書いた東京新聞のコラム「一筆両談」は、この騒動を紹介した上で、「コラムニストが紹介する以前に公の場で使われていることは明らかなので、捏造ではない。
 つまり、捏造疑惑の方こそ捏造の疑いが濃厚だ」と主張。「私は、これを今年の『流行語大賞』に推薦したい」「同賞を選定している自由国民社の審査委員会は、ぜひ、聞き届けて欲しいものだ」とまで述べている。

 「2ちゃんねる」では、このコラムを批判する書き込みが相次いでいる。
 「『俺らマスコミが流行らせたと思ったら、それが流行だろ?』と本気で思ってるから恐れ入る」
 「捏造語大賞ならあげてもいいよ」「公の場ってどこだよw」

 「コラムニストが紹介する以前に公の場で使われていることは明らか」というくだりの真偽を確かめたくて、川北論説委員への直接の取材を試みた。しかし、勘弁して欲しいとのことで、コメントをもらうことはできなかった。

 「流行語大賞」元審査委員で新語アナリスト、亀井肇さんは「アベする」選出について「まず無理でしょうね」と悲観的だ。
 「『アベする』は石原さんの周りでは多分あったんだと思うが、『捏造だ』という指摘が訴求力の高いネット上で広まってしまって、流行ってない宣伝になってしまった。2ちゃんねるで騒動になりましたから、選んでしまったら大変なことになるでしょう。私も『アベする』はおもしろい言葉だと思ったが、週刊誌にも流行ってないという風に書かれてしまった。東京新聞がいくら擁護しても難しいでしょうね。
 私が審査委員なら『やめとこうよ。他にもっといい言葉がある』と言うと思います」J-castより


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 流行ってもいない「アベする」をアサヒシンブンにコラムニストがいかにも流行っているかのように書いた。ここまではまだいいと思う。それはコラムニストの責任だからだ。炎上したのも当然だろう。嘘なのだから。

 だけどそこに東京新聞の論説委員が関わってくるとなると尋常ではない。そしてまたこの論説委員、ヤバくなったら逃げてしまった。なにが「勘弁して欲しい」だ(笑)。

 ネットのない時代はこういう嘘の押しつけに一般庶民は反論できなかった。今は出来る。明らかに流行っていないものを大流行と押しつけられたら、「そんなの嘘だ」と反発できる。それがどんな「権威」だったとしても。
 いい時代になったものだ。その「誰もがもった力」を危ぶむ声もあるが、かといってまともに流行っているものを否定しようとしても出来ない。同じく「誰かから」反対の声が出てくる。平等だ。
 かたよったブログが「炎上」するのは、それだけの理由がある。

 コラムニストが書いたのはわかる。たぶん彼の周囲で「アベしちゃおうかな」と言ったひとがいたのは事実だろう。いなくても、彼が「アベする、ってどうよ!?」と思いついたなら、それをネタに書くのがコラムニストだ。流行っていなくても「流行っている」と書いてしまったのもまだ許される範囲であろう。それが彼の周囲の出来事でしかないこと、あるいは事実でないのに彼が思いついたことだとしても、「流行っている」と書いた筆禍は、彼の責任として処理できる。
 だけど東京新聞論説委員はお粗末だ。看過できない。ここには「だまれだまれ素人どもめ、だったら特権階級の俺様がおまえらを『一筆両断』してやる!」というマスコミ人のおごりが見える。

 むかしアサヒシンブンの百目鬼を筒井が批判したのもこの視点だった。百目鬼は周囲の一般人が嘆いているのを聞いて、「よしよし、だったらおれが書いてやるから」という手法を採った。その経緯をそのまま週刊誌に書いた。その醜さ、驕り。

 今までならこの論説委員のこれみよがしに一般人は黙るしかなかった。せいぜい新聞の投書欄に投書する程度だ。そんなもの黙殺されたら終りである。あとはそいつを刺すとか、新聞社に放火するとか、そんな直接的な行為しかなかった。

 今はインターネットというメディアを使って正面からことばで反撃できる。マスコミ人の特権が瓦解した。この論説委員はその「特権」は今もそしてこれからも持続するものと思っていた。盤石だと慢心していた。まさか特権階級の自分が素人に追い込まれることになるとは夢にも思わなかったろう。「勘弁して欲しい」は本音だ(笑)。

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 ネットでは、「アベする」より、よほど「アサヒる」のほうが流行った。それを取り上げる紙メディアはないのか(笑)。

 というところにオザワの辞意表明。そしてまた一転。

・代表辞任の意向を表明していた民主党の小沢一郎代表(65)は6日夜、慰留を働きかけた同党の鳩山由紀夫幹事長らに対し「大変ご苦労をかけた。感謝している。本当に恥をさらすようだけど、皆さんの意向を受けてぜひもう一度がんばりたい」と述べ、党執行部の要請を受諾し、代表を続投する考えを表明した。鳩山氏が小沢氏との会談後、民主党本部で記者団に明らかにした。(izaより)

 さて今度は「オザワる」だ。これも大激震だからコラムニストは無視できないだろう。ぜひともアサヒシンブン御用達のコラムニストには「私の周囲ではオザワっちゃおうかなと言う人が多い」と書いて欲しい。同じネタなのだから、きっと彼の周囲にはそれを使う人がいるはずだ。いなきゃ不自然だ。もしもネットがそれを否定したら、「オザワるは流行っていた。流行語大賞に私は推したい」と、東京新聞論説委員に「一筆両断」してもらえばいい。それでこそまともだ。


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 アベスルよりアサヒル(笑)──『現代用語の基礎知識』

「アサヒる」「初音ミク」「ローゼン麻生」、

現代用語の基礎知識に

「『アベする』は流行っていたので流行語大賞に」という声が一部にあった一方、とりあえず「アサヒる」が「現代用語の基礎知識」入り。


「アサヒル」とは

捏造する。でっちあげる。執拗にいじめる。

語句の由来

朝日新聞社が『アベする』なる語句を創出してまで自らの論調に相容れない者を執拗に攻撃することから。

関連:『フルタチる』も参照せよ。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0711/14/news075.html

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 この件に関してアサヒシンブン、コラムニストの石原壮一郎さん、東京新聞の川北隆雄論説委員の意見を聞きたいと思った(笑)。

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★日本のオーラ/「アベする」朝日の「流行語捏造」騒動でネット燃える

・「アタシ、もうアベしちゃおうかな」―。朝日新聞が掲載したコラムニストのこんなコメントが、目下、ネットで 「流行語の捏造だ」などと大騒動に発展している。当のコラムニストのブログには批判コメントが殺到し、大炎上。お馴染み「2ちゃんねる」でも"祭り"の状態なのだ。

 キッカケは、入院中だった安倍前首相がおわび会見をした翌日、その模様を報じた9月25日付朝刊
 (中略)
 <あさひ−る【アサヒる】捏造すること。事実でないことを事実のようにこしらえていうこと。 ないことを あるようにいつわってつくりあげること>
 <私の中で「アサヒる」という言葉はすっかり定着しました>
 <流行語大賞に、なんとか「アサヒる」を・・・・・・>
 など、すでに2万件近い書き込みが殺到し、逆に新たな流行語「アサヒる」まで誕生させる始末。
 その次は今も他のブログ、サイトにどんどん延焼する"祭り"の状態なのだ。
 (中略)
 捏造とまで批判された朝日新聞は、「特にご説明することはございませんが、当該記事に特別な意図などは全くありません」(広報部)と一切無視。
 それでも、「朝日はよく、ネットは検証せずに書いてるだけと主張してますが、じゃあ自分たちは 石原氏のコメントを検証したのかと言いたいですね」(2ちゃんねらー)  
 こんな声を聞けば、ちと耳が痛くはないですかね、アサヒるのが大得意の朝日サン。

※ソース(週刊新潮・10月11日号p54)

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・15日に日本テレビ系列で放送された「おもいッきりイイ!!テレビ」で、ネット発の新語「アサヒる」が紹介された。

 もともとこの「アサヒる」は朝日新聞の記事が発端となった言葉で、主に「捏造する」「でっちあげる」という意味で使われている。
 また「執拗にいじめる」という意味もある。(はてなキーワードより)

 番組内ではこれを「朝日新聞では政治などに厳しい見解を示す記事が多い=執拗に責め立てるという意味」と説明。
 メインとなる「捏造」の意味に言及せず、「いじめる」というマイナスイメージの強い言葉を、「責め立てる」という言葉に変えて紹介した。

 なお、この新語は「現代用語の基礎知識2008」に収録されることになっており、その内容は前述のはてなキーワードが元になっている。

オシム監督の極東島国時代!?

 オシム監督の極東島国時代!?

 TBSの午後のワイドショーが先日脳梗塞で倒れたオシム監督の経歴を紹介していた。生まれたときから現在までが年譜として大きなボードに書かれている。そこに現在の監督のいる場所として「極東島国時代」とあった。なぜこんなことをするのだろう。

 それまでは「ユーゴスラビア(現ボスニアヘルツェゴビア)時代」「フランス時代」と国の名で来ている。だから現在も「日本時代」でなんら問題はない。というかそのほうが自然だ。なのになぜかそこだけ「極東島国時代」なのである(笑)。心の歪んでいる人たちというのは困ったものである。

 極東=Far East、東の外れとは、言うまでもなく西洋から見た呼称である。ヨーロッパが中心の地図で見ると、我が国は右の端になさけない形で描かれている。それもユーラシア大陸から落ちないようしがみついているようで、あれは日本人として悔しくなる一瞬だ。極東の島国もしかたない。

 しかし日本が真ん中に描かれた世界地図では、堂々と世界の中心に位置している。上のユーラシア、下のオーストラリア、極東のアメリカ、左のアジア、極西のヨーロッパを従えて堂々としている。地図とはそういうものだ。どこの国の地図だって自国が中心である。その国の国民は、自国を世界の中心と考えて発想する。だから西洋人が日本を極東と言うのは自然だが、それを真似て日本人が自らそう言うのは極めて不自然である。まして日本のテレビ番組で(軍事問題を論ずるときでもあるならまだしも、こんなバラエティ番組で)使う必要などまったくない。

 東南アジアも日本中心の地図なら西南アジアだが、そこまでは言わない。便宜上、極東も東南アジアも認めよう。しかしそれらを意味なく使用するとなると話は違ってくる。それが上記だ。「ユーゴスラビア時代」「フランス時代」と国の名前で来たなら「日本時代」が正しい。なぜそこだけ国名がなくなり、「極東島国時代」と西洋から見た地域を表す言葉になるのか。この大きなパネルを作った人間はなにを考えているのだろう。いやなにを考えているか解るけれど(笑)。

 これでもしもオシムさんに韓国での監督経験があったら「極東半島時代」と書くか。書くまい。日本を「極東島国」と貶めることは大好きでも、韓国を「半島」と言ったりはしない。それがこのパネルを作った人の精神である。韓国での監督時代があったなら、ごく素直に「韓国時代」と書き、いくらなんでもそのあとに「極東島国時代」とは書けないから、「日本時代」と書いたろう。ということは、この人の精神を覗き見るために、韓国時代がなくてよかったことになる(笑)。

 こういうことをかっこいいと思ってやっているTBSのひとは、かっこわるいと思う。

白川道のタバコ──『天国への階段』感想文──そこいら中、タバコだらけ


 白川道のタバコ

 白川道(しらかわとおる)の全作品を読了した。ついこのあいだまで知らなかった人なのに読み始めてからは一気だった。今年の夏は我ながらよく本を読んだ。猛暑の夏ですらあれぐらい読んだのだから秋の夜長になったらどうなることか。(もっともその分、映画はまったく見ていない。)

 やがて忘れるだろうからきっかけを書いておこう。元々そのために書いている文だ。
 昨年、H子さんとの縁から半年ほどデータ入力のバイトをした。生まれて初めての長距離電車通勤をした。その道すがらだいぶ前にもう卒業していた夕刊紙を読む癖が復活した。この「夕刊」というのがポイントだ。朝刊は電車が混んでいて読めない。
 5円のときから愛読していた『東スポ』はお笑い新聞に堕ちていたし、なにより私がプロレスに興味をなくしていた。サヨクオヤジが酒場でくだまいているような『日刊ゲンダイ』は読みたくなかったから、必然的に『夕刊フジ』になった。ナイガイは問題外。毎日『夕刊フジ』を読むなんて何十年ぶりの習慣だろう。猪木とアリが闘っていたころ以来だ。「オレンジ色に燃える憎いヤツ」というテレビCMが流れていた。

 そこに白川道が随筆を書いていた。週一である。漫然と読んでいた。さして興味のあるものではなかった。無頼派作家として、麻雀や競輪を主にした人生論がメインだった。それでも名前は覚えた。
 今夏、何年かぶりに冒険小説を乱読し、馴染みの作家に読むモノもなくなったので、さてなにかないかというとき、突如彼の名を思い出し、図書館の本棚で手にした。
 全作品読了といっても、デビュウが遅く、寡作なので全部で十冊ほどか。でもみなおもしろかった。そのことはまた書くとして、タバコの話。

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 『夕刊フジ』の随筆の写真も、タバコをふかしている横顔を載せるぐらいだから、よほどのニコチン中毒なのだろう。いやはや全作品煙い煙い。
 やたら煙草呑みが登場する大沢在昌作品にうんざりしていた。その不自然さのない真保裕一作品と出会い、ほっとした。しかしここでまたタバコばかりの白川作品に関わる。煙くていやになる。

ハードボイルドとタバコ

 「天国への階段」感想

 といって煙モクモクの全作品を否定するのではない。たとえば自伝である「病葉流れてシリーズ」は、麻雀競輪小説であるから、煙いのもよくわかる。また舞台が昭和四十年代だ。男はタバコを吸うのがふつうの時代だった。あのころのタバコ嫌いは辛かったことだろう。作品中、いたるところタバコばかりで、男も女もみんな喫うのだが、まったく気にならない。
 同様に、舞台が現代でも「終着駅」はヤクザが主人公だ。これまたキャラとタバコがあっているので気にならない。(盲目の少女との純愛小説だから問題か?)

 しかし彼の作品でいちばんヒットし、売れ、テレビドラマにもなったという、この「天国への階段」になると首をかしげる。
 主人公も、主人公の運転手をしているがじつは主人公の実子である二十五の青年(青年はそれを知っている。主人公は知らない)も、主人公の過去の犯罪を追う刑事も、みんなニコチン中毒である。やたらタバコばかり喫っている。煙くて臭くてたまらない。


 しかも白川は、よせばいいのに、喫ったタバコのその先まで書く。駅前で人を待ちつつ喫っている。待ち人が来たらアスファルトに吸い殻を捨てて靴で踏みにじる。公園での会話の場合もそう。喫いながら話し、最後には投げ捨てて踏みにじる。道路や公園に捨てられ靴先でねじられた吸い殻とフィルターの汚い画が浮かび気分が悪くなる。橋の上での会話では、吸っていたタバコを川に投げ捨てる。
 こういうシーンを平然といくつも書くのだから、現実の白川もかなり煙草呑みとしてマナーが悪いのだろう。というか、マナーが悪いとすら気づいていない人なのだろう。現実の彼のマナーなどどうでもいいが、クールな主人公や、作中の重要脇役である人情刑事が頻繁にこれをやると、そのキャラクターさえ疑わしく思えてくる。事件で関わった男に、職を賭してまで意見を言う硬骨漢のこんな人情刑事の日常所作には興醒めだ。小説中の人情刑事のキャラなら、公園を汚している醜い吸い殻をそっと拾ってゴミ箱に入れるぐらいが似合っている。なのにこの刑事もそこいら中にポイ捨てすてなのだからキャラが毀れる。それは、周囲の人間が迷惑していても気づかず、ニコチンタールを摂取する自分の快感にのみ忠実なタバコ中毒者の無神経さである。

 この作品の主人公は、四十五歳。係累はなく、十八で上京し、犯罪で得た金を膨らませ、二十五歳で会社を興した。すべて独力である。いまでは貸しビル業、ゲームソフト開発会社、人材派遣会社を経営する大金持ちだ。クールな性格、怜悧な営業方針、精悍な顔立ち。二十五歳の若さで起業した、それこそ成り上がりの若造として、常に自分より年上の企業人と接してきた彼が、どこでも誰の前でもまずタバコを取り出して一服する煙草呑みであることに納得できない。彼の経歴からしたら、他人様に失礼のないよう極力そういうことに気を遣って生きてきたはずだ。
 これは二十歳の学生時代から、四十五十の男達と高額の麻雀を打ち、いわゆる「年配者に気を遣う」なんてこととは無縁の人生を歩んできた無頼な白川の作り出したキャラ故の矛盾である。
 主人公は二十代の会社社長として歩む。故郷を追われ、高卒で上京し、働きながら学資を貯めて早稲田の夜間に通った。そこで知り合った天才プログラマーとゲームソフト開発会社を作り、そこから成り上がって行く。その資金の7千万は犯罪で作った金を膨らませたものだ。こういう過去を持つ人がいつでもどこでも誰の前でもまずはタバコを取り出す無神経のはずがない。臆病で用心深いはずだ。

 北海道浦河の絵笛出身。父とサラブレッドの生産牧場をやっていた。それを乗っ取られる。そこから始まる復讐譚。喪失した故郷の自然の美しさを讃え、動物を育てるために必要な愛を語ったりする。なのに二十七年ぶりに訪ねたその故郷の牧場でも、タクシーで乗り付け、その地に降り立つやいなや、早速タバコに火を点ける。さすがにここには書いてないが、ここでもタバコはポイ捨てであり、靴先でねじったろう。まさかこのときだけ携帯灰皿をもっていたとは思えない(笑)。
 牧場を愛し、自然賛歌を謳いつつ、やっていることがそれと剥離している。牧場を愛する人にこんな無礼な人はいない。牧場は寝藁や干し草が多く、構造上火事になりやすいので喫煙には気をつける。牧場育ちで物心つくころから牧夫生活をしていたという設定の彼の性格設定が理解できない。なぜせめてそういう場だけでも禁煙できないのか。主人公がそこでタバコを吸う必然性などまったくないのだ。
 なぜ喫うか? 答は簡単だ。主人公を操っている作家が、喫わないといられない中毒者だからである。そのことによってこれが空気の澄んだ日高の牧場や、禁煙のゲームソフト開発会社のオフィスとは無縁の、煙モクモクのヤニ臭い白川の書斎で書かれた絵空事であることが見えてしまう。自分が10分に1本喫わないといられない中毒者だから架空の創作人物もみな同じように中毒している。
 タクシーを降りて牧場に立つやいなやタバコに火を点けた主人公とは、この小説のロケハンのために浦河の牧場に行った白川のとった行動そのものなのだろう。牧場にいると、そういう馬主ってよくやってくる。下品な成金馬主だ。

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 吉田善哉さんの逸話を思い出す。書いたのは吉川良さん。
 真夏、牧場にクルマで乗りつける馬主。興味のある馬を買おうとやってきた。牧夫に馬を連れてこさせる。解説するのが牧場主の善哉さん。馬主はクルマを降りてもエンジンはかけたままだ。乗ったとき涼しいようにクーラーを効かせている。そこに連れてこられる馬。善哉さんはつかつかとクルマに寄り、エンジンを切ってしまう。けげんな顔の馬主。
 馬は音に敏感だ。エンジン音で不安になる。馬を安心させることが第一。お客様である馬主より馬の気持ちを大事にする。これぞ本物の馬優先主義。そのことに不愉快だと怒って帰った馬主もいる。何千万円になったかもしれない商談の破談。善哉さんは気にしない。あんなのに買われたら馬がかわいそうだと言い切る。真のホースマンである。

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 この小説の主人公が、他の白川の作品に登場するような、株や投資で儲けた成金ならわかる。だけど設定が、牧場育ちで本当に馬が好きなことになっている。やっていることがおかしい。基本設定が破綻している。それだけ競馬の世界、生産者を知らずに書いているのだろう。

 その他にも穴が目立ち、ツッコミどころ満載の問題小説だ。
 競馬、競走馬に関してもそう。その辺に関しても言いたいことはいっぱいある。でもそれはどうでもいいことだ。それは専門家の重箱の隅つっつきになる。そんなことはどうでもいい。問題は専門的なことではなく日常的なことである。キャラクターの設定だ。基本中の基本だ。その代表として、登場人物がいつでもどこでも誰の前でも無神経に喫いまくるタバコは絶対におかしい。

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 白川道という作家の魅力は、自伝的要素の強い波瀾万丈の物語にある。それでデビュウし、一定の評価を得た。しかしそれだけでは不本意だったのだろう。だからこんなものも書けるんだぞと、麻雀も競輪も株も投資も出てこない、いままでとは傾向の違った、競走馬の牧場と幼なじみとの恋愛を基礎にした復讐譚のフィクションを発表した。それがこれになる。

 タイトルの「天国への階段」とはツェッペリンのあれである。文中一度もレッドツェッペリンの名は出てこないが、思い出のレコードという小物として登場する。この辺も演歌派が無理矢理作ったロック風プロットの嘘が見えてすこし苦しい。白川さんが洋楽を知らず、生粋のド演歌派であることは随筆でも書いている。
 自伝の「病葉流れて」に詳しいが、彼は時の流行り歌と一緒に生きてきた人である。作品中に登場する当時のヒット曲が味わいになっている。「黒い花びら」とか。おそらく「病葉流れて」というタイトルも、当時流行した仲宗根美樹の「川は流れる」から来ているのだろう。歌詞は、《病葉を 水に浮かべて 街の谷 川は流れる……》である。

 この小説を読んでもジミー・ペイジのあのギターソロは流れてこない。まったく結びつかない。結びつかないからこそ聞いてみた。ひさしぶりに。「Stairway to Heaven」を。でもやっぱり、それで絵笛から浦河高校に通う高校生恋人の姿は浮かんでこなかった。白川がどれほどツェッペリンが好きなのか、ぜひとも聞いてみたい。この種の嗜好は隠しても見えてしまう。逆にいくら見せびらかしても嘘はなにも訴えない。

 作中の人物たちは辛い過去もあり、作品中でやたら泣く。特に後半は泣きっぱなしだ。なのに涙腺の弱い私がそうなる場面はまったくなかった。それがこの作品の限界だろう。登場人物が自ら泣く必要はない。登場人物は淡々と語り、読者を大泣きさせるのが小説だ。

 この作品が半端なのは、白川が従来の白川臭さを消して築いた新生面のはずなのに、その従来の臭さが消えていないことにある。象徴がタバコだ。いままでの煙モクモクのやくざの事務所や雀荘とは違う、社内全面禁煙のオフィスビルの作品を書いた。そのはずなのに、どの部屋に行ってもたばこ臭く、ついさっきまで喫っていたのがすぐにわかってしまう。そんな矛盾を内包した小説だ。現実の白川がどんなにニコチン中毒でもかまわないが、小説の登場人物ぐらい禁煙させろ。それがブロだろう。
 日に何箱も喫うニコチンタール中毒者が、タバコを吸わない主人公の小説を書くのは不可能なのだろうか。そんなことまで考えた。

 東京新聞に連載された作品だという。1200枚を追加したと後書きがある。それで2000枚強だから連載時には800枚だったことになる。補稿の枚数のほうが多いのだから書きなおしに近い。その連載時の原稿を読んでみたいと思った。たぶん刑事たちの会議、捜査の進展、あのあたりが全面的に補強されたのだろう。まず間違いない。何度も繰り返されすこしくどいほど出てくる。連載時のこのへんは、かなり荒っぽかったように思う。

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 日高本線の絵笛のあたりは土地勘があるので懐かしかった。作中で絶賛されるほど美しくはない(笑)。でもテレビドラマのときはきれいな映像だったことだろう。映像マジックだ。私も三十年近く前、初めて海沿いを走る日高本線に乗ったときは、うっとりした。

 読了したあと、テレビドラマについて検索し、キャスティングなども知った。
 小説を読むと自分なりのキャラクターが動き始める。それは独自の容貌だ。どんな現実の美男美女が演じてくれてもギャップがある。この作品だとヒロイン母娘は誰が演じても私は満足しないだろう。
 だから私にとって、大沢在昌の「砂の狩人」を読んでいて、脇役の原という捨てゴロの達人であるヤクザに、「映画にするなら山本キッドに演じて欲しい」と思ったことはとんでもない例外になる。私ですらそう思うことがあるのだから、世の中にはきっとそういうことばかり考えながら小説を読む人もいるにちがいない。

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 私は白川道作品のファンである。初めて手にしてからあっという間に全作品を読了してしまった。ご本人が構想はあれこれあるのだが、もう三年以上なにも書いてない、と随筆で述べているから、しばらく新作はないようだ。待ち遠しい。

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 浅田作品を見直す

 浅田次郎さんはチェーンスモーカーである。酒が飲めないし、しかたないかもと思う。でも煙草呑み特有の、「喫煙権」を主張したエッセイにはうんざりする。猛烈な喫煙肯定派である。
 登場人物が煙草呑みばかりの大沢作品、白川作品を読んでいて、ふと思った。エッセイの主張とは違って、浅田作品の登場人物は煙草呑みばかりではない。
 短編の設定で、「この主人公はタバコを喫わない方が自然」と判断した場合、喫わせないのだろう。ご本人が重度のニコチン中毒であるわりに、浅田作品の登場人物はそれほど煙くない。
 さして気にしていなかったが、他者と比べて気づいた。登場人物が大沢作品、白川作品のようにニコチン中毒ばかりだったら、浅田作品があそこまであいされることもなかったろう。

 しかしそれは浅田作品がすぐれているというより、ニコチン中毒の他の作家が、やたら喫わせすぎでおかしいのだ。
 二日前から読む物がなくなったのでひさしぶりに北方謙三に手を出している。この人もやたら煙い。こまったもんだ。

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 人それぞれ……

 あるかたの[感想]を読んだら、この作品を読んでいるあいだ、ずっとツェッペリンのあの曲がリフレインしていたとあった。大感動、大絶賛である。う〜む、感想は人それぞれだ。私にはまったく流れてこなかった。
 これを読んで日高の牧場に行きたくなったと書いてある。まあこれはわかる。牧場でタバコのポイ捨てはやらないで欲しい。

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