2013年02月

子は親を選べない──野田聖子議員の子作りに思う──【追記】─「たかじん」で知った高田夫妻と代理母のこと

「子は親を選べない──野田聖子議員の子作りに思う」への【追記】文である。

 正しくは、【追記】というか、あとから知ったことを書き足す「修正文」のようなものになる。当然「子は親を選べない」の項目に書きたいのだが、それが出来ない。

 このライブドアブログのひとつの記事の字数制限は15000字である。これを1文字でも越すとアップできなくなる。さすがにそれは原稿用紙換算40枚だから、今までにそこまでの長文を書いたことは数回しかない。その数少ないそれがこの文章になる。
 字数オーバーでアップできなくなり、100字程度ずつ削っては様子を見つつ、なんとかアップできたのがあの文になる。つまりあの項目には、追加出来るのはもう100字ぐらいしかない。甚だ不本意ながら、こちらに別項とする次第である。



 先日、「たかじんのそこまで言って委員会 2013年1月21日放送 まじめに命について考える」をネットで見て、知った事実についてだ。

 そこでは野田聖子や高田延彦夫妻のような「他人の躰を借りて命を作ること」を論じていた。
なぜかより悪質な野田聖子のことには触れず、やたら高田夫妻が取りあげられ、名前が連発されていた。

 高田夫妻のそこに到る流れや、出産後のことも取材したひとが出ていて、私の知らない生々しいことを教えてくれたので、追記しておかねばと思った。



 私は上記の「子を選べない」で、野田聖子を批判した。その野田との比較から、精子も卵子も自分達のものである高田夫妻のことは割合好意的に書いている。そのような子作りに賛成なわけではない。いやはっきり反対だ。でも野田聖子の自己満足鬼畜の所業と比べたら、まだまし、という視点である。

 しかしこの「たかじん」に出演したかたの取材によれば、高田夫妻の場合もそんなきれいごとではなかったようだ。この問題に関して自分の意見を書き、高田夫妻の名も出しているのだから、私もそのことはぜひ追記せねばならない。



 そのかたによると、高田夫妻のこどもを産むことを引き受けた代理母のアメリカ人女性はとても小柄だったとのこと。そしてまもなく胎児が双子であることが確認される。その小柄な女性はあまりに負担が大きいから、片方を中絶してくれと高田夫妻に願ったそうだ。それを高田夫妻は拒んだとか。

 小柄な女性が双子を産む苦痛に耐えかねてそう願ったのもわかるし、やっと授かった生涯一度のこどもが双子であり、いちどにふたりも子宝に恵まれるとわかった高田夫妻が片方の中絶を拒んだ気持ちもわかる。

 そのかたは高田側から女性に渡った「代理母料金」が20万ドルとも明言した。アメリカ人女性は50万ドルの借金があり、それの返済に充てたというようなことも語っていた。言うまでもないことだが、代理母は善意とかではなく金のために引きうけた犹纏瓩任△襦



 どろどろとした現実であり、とてもきれいごとで語れる世界ではない。
 2003年11月に生まれた高田夫妻の双子が帝王切開であることは知っていたが、代理母が片方にして欲しいと願ったこと、高田側がそれを拒んだこと、そのことによって帝王切開にならざるを得なかった流れは知らなかった。
 また、この代理母が出産するまでがドキュメンタリーとして日本でテレビ放映されたことも知らなかった。まあ、高田夫妻が記者会見したりして、それが話題になっていたころ、私はそれから目を逸らしていたから当然か。考えたくない話題だった。



 高田夫妻の話題は、ひととして許されることなのかどうか、考えたくない、「触れたくない出来事」だったが、野田聖子の場合は怒り心頭で、「触れずにはいられない事件」だった。それを喧伝する野田の行為も含めて。

 日本の法律は、「分娩した女が母親」としている。だから自分の卵子とは関係なくても野田聖子は母親と息子と認められ戸籍に記入される。自分達の精子と卵子でありながら、高田夫妻は認められず、最高裁まで争ったが敗れた。

 そういうことが不可能だった時代の法律にいまだに縛られているのは愚かである。
 といって、ここは誤解しないで欲しい。私は高田夫妻の味方をしているのではない。これは、法改正をすることなく、旧態依然の法律でかつて存在しなかった事例を処理しようとする裁判所への批判である。



 高田夫妻の子も今年10歳になる。むずかしい時期に差し掛かって行く。これからどんな結論になるのだろう。裁判所は、戸籍的に代理母の子となっている男児二人を、養子にしたらどうかと薦めた。どうなったのか。

 ともあれ、父として母として、ふたりはこどものために強い精神と教育方針を貫かねばならない。それはこのような方法で子を得ると決めたときからの宿命だ。がんばってほしい。

「子は親を選べない」という拙文は野田のことを論じたものだが、高田夫妻の名も出している。あらたに知った智識を追記する次第である。



「たかじん」を見た素直な感想として、芸能人として世に出ているからか、精子も卵子も自分達のものということがわかっている(ひととして、比較的罪が軽い?)からか、眦追弸覆鯀箒未傍鵑押∈任睫簑蠅魎泙鵑任い襪呂困慮人の野田に触れない姿勢を不自然に感じた。政権与党の役職にある政治家だからだろうか。すくなくともそう感じさせる番組作りであり、ひさびさに不満を感じた内容だった。

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【追記】──特番があったらしい──2013/4/28

 ここ数日、このブログで一番アクセスが多いのは「野田聖子」に関する記事だ。
 何事があったのかと検索したら、すこし前にフジテレビで特番が流れたかららしい。いかにもウジテレビらしい追っ掛けだ。死ぬまで追い掛けるのだろう。
 もちろん私は見ていないから知らないし、今から動画倉庫で見られるとしても、見る気もない。
「金を払うから取材として見てくれ」と言われても断る。近寄りたくない。

 その検索の中で、あのかわいそうなこどもは「気管切開で声を失った」と知る。一生もう声は出ないのだ。なんともたまらん気持ちになる。
「最近は元気になってきて、母親を蹴ったりもする」とか。
「なんでこんなにおれを苦しめるんだ」と憎しみで蹴っているのではないのか。

 野田聖子のやったこともたまらんが、こんなもので視聴率を稼ごうと特番にしているテレビ局の姿勢もたまらない。たしか野田の「持ち込み企画」のはずだ。どこまで腐っているのか。

将棋話──昭和最後の記録──羽生の最多勝、伝説のNHK杯戦優勝

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『将棋世界』平成元年(1989年)4月号より。

この年のNHK杯戦で、 18歳の羽生が、あの伝説の「名人全員抜き」をやってNHK杯を制する。
 ここまでに破っているのが、谷川(現役名人)、大山、加藤。
 この文章ではまだ決勝が中原か内藤か決まっていないが、運よく中原が勝ちあがり、「名人全員抜き」の舞台が整う。

 このときはまだ羽生五段。ここで「羽生NHK杯」になり、秋には最初のタイトルである竜王位を島から奪う。 

 勝ち星はこの時点では54勝。記録は谷川が1985年に作った56勝。最終的に羽生は64勝をあげて記録を8勝上まわる。さらには2000年に68勝の記録を作る。これがいまの記録になる。



 このころは日刊ゲンダイに「勝抜戦」というのがあり、あれは伸び盛りの若手が勝ち星を稼ぐにはいい舞台だった。ああいうものがなくなってしまったところに不況を感じる。

 羽生がいなければ、谷川はもっと大きく長い「谷川時代」を築けたろう。だが谷川の将棋を観て強くなった羽生世代がひたひたと迫ってくる。
 私にとって、最高の天才は谷川だった。まさかそれを凌ぐ天才が現れるとは……。

習近平に最敬礼した公明党山口への怒り──ロンサム・ジョージとゴルゴ13

1月27日に書いた「習近平に最敬礼する公明党山口の無惨──世界に報じる朝貢外交」に書いた山口への怒りはいまも治まらない。あれがナンミョー党のひとりとしての行動ならどうでもいい。やつらの神様である犬作からして、朝鮮とシナには土下座しているのだから。

だが山口は「日本国の首相の親書をたずさえた使者」でもあるのだ。その親書を渡すときにあの腰を折ってのお辞儀である。相手も同じことを返したなら問題はないが、習近平はふんぞり帰っている。いまも腹立ちが治まらない。
世界の人間がこれを見たなら、どう考えても「謝罪」になる。

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ということで古い『ゴルゴ13』を思い出した。舞台はガラパゴス。

ゴルゴはロンサム・ジョージを護る側。そりゃそうだ、ゴルゴが狙う側なら簡単に殺せちゃう。

ロンサム・ジョージを殺そうとする刺客は誰かわからない。島には多くの観光客がやってくる。その中に紛れこんでいるのか。



その刺客をゴルゴが射殺する。死ぬ間際、刺客は問う。「なぜおれだとわかった?」
ゴルゴが応える。「日本人は日本人であることをわざとらしくアピールはしない」

刺客は「日本人観光客を装ったシナ人」だった。出っ歯でメガネで、首からカメラをぶら下げて、という典型的日本人的容姿の彼は、異国人に握手を求められたとき、日本人だからとそれを拒み、ぺこぺこと頭を下げる日本的挨拶をしていた。そのわざとらしさから、ゴルゴはこいつは日本人でないと見抜いたのだ。



というお話。何十年前の作品だったか。感謝するのは、私はこの作品でロンサム・ジョージのことを知ったのだった。なぜかはまってしまい、ガラパゴス諸島に関する本をずいぶんと読んだ。まだ行ったことはないし、行くつもりもないけれど。
そういう点では、まことに世界のそれらにアンテナを張っている作品ではある。私は近年のゴルゴを読んでいないけれど、麻生さんも今も熱心に読んで勉強していることだろう(笑)。



100年以上生きたロンサム・ジョージも、昨年6月に死んでしまった。新聞記事にもなった。そのときにもこのゴルゴの作品を思い出し、書こうと思いつつ、時が過ぎてしまった。まさかナンミョー党のお辞儀に腹立って書くことになるとは……。

日本独自の進化をした、まるでガラパゴス諸島のような携帯電話、略してガラケーなどと使われるが、そう口にするひとでガラパゴス諸島のことを知っているひとはどれぐらいいるのだろう。世界地図でガラパゴス諸島の位置を正しく指せるひとは。
いや、誤解されそうなのできちんと書こう。私は、ガラパゴス諸島のことを勉強しろと言っているのではない。そんな必要もない。言いたいのは、位置さえ知らないのに「ガラケー」などという言葉が定着してしまう不思議さについてである。



それにしても習近平に対する山口の低姿勢。いまだに腹が立つ。国辱だ。

ブログ話──デザイン変更による読み辛さの修正に追われる日々

2012年8月にやったデザイン変更による弊害の修正に日々追われている。
「白地に黒文字」を「色地に白抜き文字」にしたので、色文字にしていた部分が読み辛くなってしまった。
読み辛いならまだいいが(よくないけど)、ひどいのになると読めない。

さいわいここは「黒背景」なので、読み辛いだけだが(さいわいじゃないけど)、【芸スポ萬金譚】なんて青背景にしたので、青文字がまったく読めず、べろんと青い背景だけが続いているようなページがあった。
ここでの青字や赤字の読み辛さも気づくたびに直してはいるけれど……。



高見盛引退報道によって、【芸スポ萬金譚】のほうで、2010年に書いた高見盛のタレントとのスキャンダル記事?がアクセスを集めて浮かんできた。「おお、そんなこともあったな」と懐かしい気分で行ってみたら、これの引用文が青地に青文字でまったく読めない。冷や汗を搔きつつ急いで修正した。

検索で見つけてきてくれた高見盛ファンのひとは、肝腎の部分が読めず不快だったろう。本当に申し訳ない。
なにしろ私の「高見盛に関してこのような報道があった」とあり(この部分は読める)、そこから引用が始まるのだが、それが青地に青文字で溶けこんでしまっていて読めない。それでそのあとに再び読める文字で、「これを読んで安心したのだが」と私の文になる。しかしその「安心した文」が読めないのだから苛つく。さらにそこに「ここでまた衝撃のニュース」とあり、引用文が紹介されるのだが、これがまた読めない。これはストレスが溜まる。アクセスしたら「File not found」で読めないほうがまだいい。すんなり諦められる。こんな蛇の生殺しみたいなことはしてはならない。



過日ここに「ブログを読んでくださるかたへの感謝──引っ張りだしてくれてありがとう」というのを書いた。自分でも忘れていたような何年も前のものを、どなたかが引っ張りだしてくれて「人気記事」にしてくれることへの感謝だ。

いまこれが私のブログをやることの最大の楽しみになっている。
そういう「引っ張りだしてくれたもの」だから最後のほうである。「人気記事」の最下位あたりにある。それを見つけると喜色満面で、「おっ、こんなものが」とクリックする。すると古い記事だから覿面読み辛い状態になっている。赤文字や青文字の色がきつすぎて読み辛いのだ。それでそれらを淡い色に修正する。
どなたかがほじくりだしてくれた古い記事に行き、懐かしく読み返し、それを修正して読みやすくするのだから一石二鳥である。

だいたいにおいて私のブログの「人気記事」というのはタイムリーなものだ。政治関係のような。これらはあたらしいのでそんなことにはなっていない。
それらとはちがった、発掘された音楽や文学の記事を読みかえし、修正することは愉しい作業になる。



なぜかここのところ2012年1月に書いた「大相撲理事選挙──貴乃花再選! 八百長千代の富士の落日」というのにアクセスがある。初場所があり、大鵬が亡くなり、高見盛が引退したけど、この文自体はタイムリーな話題ではない。それらの出来事との関係もない。なぜアクセスがあるのかちっとも理解できない。でももしかしたら将棋記事に突然人気が出たように、誰かの手によって「なかなかおもしろい相撲記事のあるブログだ」と相撲ファンに発掘されたのかも知れない(笑)。なら、それはそれでうれしい。

しかしこの色文字修正、いつになったら「修理完了」となるのだろう。「引用文は色分けして読みやすくする」というサービス精神が裏目に出てしまった。

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【追記】 ──なぜか白川道が!

というところで、なぜか今度は「最も遠い銀河──白川道──クライス・レリアーナ」が最下位のあたりにランクインしているのを発見。

2010年2月に書いたものだ。読書感想というよりは、文中に登場する「クライス・レリアーナ」から、マルタ・アルゲリッチの演奏等に触れた音楽話の趣。私がこのブログに書いたものとしてはかなりの力作(笑)ではある。だから発掘されてうれしい。

誰がどんなきっかけでこんなのを掘りおこしてくれるのだろう。ほんとにありがたい。

将棋話──藤井六段、竜王に挑戦!──1998年

1998年、独創の藤井システムを引っさげて、藤井六段が竜王位挑戦者になる。
挑戦者決定戦三番勝負で破ったのは羽生四冠。この勝利で七段に昇進。

そして藤井は、四連勝で谷川竜王から竜王位を奪取する!

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自分の書いたブログ文に感心するという惚け現象──キリンビール「ラ党の人々」&つかこうへいの「鯖街道」

隣の「人気記事」の下の方に「キリンビールCM──ラ党の人々」というのがあった。懐かしいので出かけてみた。
これを書くきっかけは明瞭に覚えている。神戸の友人Sが教えてくれて、YouTubeに見に出かけたのだ。 
記事を書いたのは2011年12月13日である。



1990年、キリンビールは、他社の生ビール(正しくは熱処理をしていないだけで生ビールではないが)ブームに押されて売りあげの落ちているかつての主力商品キリンラガービールを大々的に売りだすことにした。復活キャンペーンである。生ビールが出るまでは、ビールイコールキリンラガーだった。ビール商品全体の六割りぐらいを占めるガリバー型寡占企業キリンビールの屋台骨だった。

勝新太郎始め豪華な役者陣で、しかも演出はつかこうへいで、しかもしかもそれは「物語性のある連作CM」という凄いモノを、大金をかけて作ったのである。

それが全作出来上がり、いよいよ第1回の放映を始め、これから話題沸騰と思った矢先、勝が麻薬で逮捕され放映中止となる。キリンの被害額はたいへんなものだったろう。ふつうこういう不祥事が起きると広告会社との契約から芸能事務所に損害賠償が請求される。キリンもそれをしたのだろうか。当然したよな。とんでもない問題なのだから。億単位であろう。勝の死後、中村玉緒がしゃかりきになって働き、必死に返した勝の借金の中にそれは含まれていたのだろうか。



このCMの存在を大のつかこうへいファンであるSが教えてくれたことも、CMの中身も覚えていたが、いま驚いているのはそこにある《『文學界』9月号──つかこうへいの遺作「鯖街道」》というリンクである。これが書かれたのは2011年8月18日。なぜ自分の文なのに「これを書いたのは」ではなく、「これが書かれたのは」と他人事風なのかはこのあとのオチにある。

流れとしては、まず私がこの『文學界』のつか特集を読み、友人のSにそれを教えてやった。つか大好きの彼はすぐに購入して読んだ。そのあと彼が、このCMのことを私に教えてくれ、「CMのストーリィが『鯖街道』に似てますね」とメールをくれたのだった。

そのリンクをクリックして行ってみる。つかの遺作となった「鯖街道」を掲載した『文學界』を読み、その感想や、学生時代にすでに日吉キャンパスで伝説的演劇をやっていたつかの思い出や、彼の小説のこと、映画「蒲田行進曲」を見た思い出とか、あれこれ書いているのだが、その中身が知らないことばかりなのである。「へえ、そうなんだ」と感心しつつ読んでしまった。書いたのは私なのに(笑)。



なんだろう、これ。
一度読んだ本(映画)の中身を忘れていて、最後の最後あたりになってやっと、「これってむかし読んだ(観た)ことがあるな」と気づいたりするのは毎度のことなのだが、 いくらなんでも自分で書いたブログの文にそう思うか!? 惚けたのか!?

と真剣に悩み、考えれば、たしかに私はむかし「銀ちゃん」に関して熱心に読んでいたことを思い出す。それらの本はすべて処理してしまって、ない。いまの私の周囲には辞書類ばかりで小説はほとんどない。捨てられなかった筒井康隆とか藤沢周平とかで300冊ぐらいか。壁の四方が本棚で、本の数が自分のraison d'etreのように思い込んで生きてきたが、ある日、そんなことに何の意味があるのだと思い、一転して、親の仇のようにむきになって本を処理してしまった。 だから読書家だというピース又吉なんかのズラリと本を揃えた部屋が紹介されたりするのを見ると、いろんな意味で胸が痛くなる。

確実にひとつ悔やんでいるのは将棋雑誌だ。1970年代の「近代将棋」や『将棋世界』を取っておいたら、ここにもおもしろい古い将棋話をいっぱい書けたのに……。大江健三郎あたりの本を捨てたことには一片の悔いもないが。



そういう昔とった杵柄が『文學界』を読むことによって一気に噴きだしたのだろう。そこにあるのはたしかに本好きだった私の記憶であり思い出であり、私の考える「つかこうへい論」だった。読みかえし、感心し、しばらくしたら、やっと記憶が戻ってきた。思うままに書き、そこを離れた私はもう、それを忘れてしまうらしい。記憶にないのである。
真剣に悩み考えてもどうしても思い出せず、「なんなのだろう、これ!?」となったら、ほんとに惚けたのだが、考えるうちに、あれこれ思い出してきたから、まだだいじょうぶのようだ。それにしても、ほんの二年半前に書いた自分の文章を他人事風に感心しつつ読むというのは、なんとも奇妙な出来事だった。



しかしまあ前向きに考えればいいのだ。
テレビの映画を観て感激し、いい映画だなあと感想を書こうと思い、そのあたりでやっと「むかし見たことがなかったか。感想を書いてなかったか」とファイルを探したら、熱烈な感想を長々と書いていた、なんてことだってあった。そういうときは自分の記憶のいいかげんさを責めるのではなく、「二度感激出来てよかったではないか。儲けたではないか」と言いきかせることにしている。それと同じく、「自分の書いた文で感激できるなら一石二鳥だ(?)」と思うことにしよう。

ことば──「南朝鮮」という言いかたの始まりについて

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 以下に書くことは、知っているかたには常識であり何を今更だろうが、知らないひとにはけっこう意外と思う。かくいう私がそれを知ったのはほんの十年ほど前であり(お恥ずかしい)、それまで私は完全に誤解していた。無智だった自分を愧じつつ、どなたかの勉強になればと書く次第である。「南朝鮮」という言いかたの始まりについてだ。


 このことばを聞いて誰もが思うのは、「なぜ大韓民国の略称である韓国が根づいているのに、そんな言いかたをするのか」だろう。「朝鮮漬け」が「キムチ」に、「朝鮮語」が「ハングル」にされてしまったように、日本から「朝鮮」ということばは消されようとしている。それは併合時代から戦後の悪いイメージに繋がるから、なるべく使わず、消してしまおうと言うことなのだろう。むかしはラーメンを「支那蕎麦」と言ったように、普通に使われていたChinaから来ている正当な「シナ」ということばを消してしまうのと同じ流れだ。
 そしてまたあの奇妙な国とも呼べないへんてこな、俗に言う「北朝鮮」というものがあり、「朝鮮」ということばのイメージは悪くなる一方だった。

 その感覚は日教組に自虐史観を擦りこまれた私の中にもあり、日本は朝鮮に悪いことをしたのだから、朝鮮人に会ったら土下座して謝らねばならないと思って生きていた私にとって、「朝鮮」ということばは気軽に口に出来ないものだった。

 しかしまた地名は「朝鮮半島」であり、民族名は「朝鮮民族」であり、南朝鮮がどんなに「韓」の字を前面に出しても、Koreanは朝鮮なのである。


 「朝鮮」というコトバを気軽に口に出来ない(私個人の)時代に、「南朝鮮」という言いかたを耳にした。私はそれに悪意を感じた。国交のない「北朝鮮」という悪の国がある(1960年代には教育費医療費無料で万民平等の夢の国とアサヒシンブンを始めとするマスコミによって喧伝されていた。)
 その「北」と並べて「南朝鮮」というのは、大韓民国を貶める言いかたなのだろうと、そのときの私は思った。
 
 それから幾星霜、私は「南朝鮮」という言いかたをする何人かと出会ったが、それがみな右翼系のひとだったから、やはりそれは「朝鮮民族を差別するひとの用語」なのだと思っていた。
 そしてある日偶然に知った真実は、まったく逆だった。言われてみればその通りで、なぜ気づかなかったのだろうと愧じるのだが、気づかなかったものはしょうがない。


「南朝鮮」という言いかたは、サヨクが始めたものだったのである。
 理由は明確だ。彼らのあいする「朝鮮民主主義人民共和国」を「北朝鮮」と略して呼ばれるのは彼らにとって屈辱なのである。朝鮮民主主義人民共和国が北朝鮮なら、自由主義陣営の「大韓民国」は「南朝鮮」ではないか。そうだそうだ、これからは韓国などと呼ばず「南朝鮮」と呼んでやる。どうだ、くやしいだろう、おれたちが朝鮮民主主義人民共和国を北朝鮮と呼ばれて感じる口惜しさを、おまえらも感じろ、が「南朝鮮」という言いかたの始まりだった。のである。

 当時はNHKを始めどこでも、「北朝鮮」と言ったあと、「朝鮮民主主義人民共和国」と言っていた。二度手間である。プロレスで「キム・イルこと大木金太郎」と言っていたのと同じだ(笑)。
 ニュースでも必ず「この件に関しまして政府は、北朝鮮(すこし間を置き)朝鮮民主主義人民共和国の対応を待って」のように、必ず、まず「北朝鮮」と言い、一拍おいて、そのあと「朝鮮民主主義人民共和国」と続けていた。

 理由は明解だ。「北朝鮮」で通じているのだが、それだけですませてしまうと、必ずサヨクから「なぜ正式な国名を言わないのか!」と抗議が来るからである。それで誰もが知っている「北朝鮮」とまず言った後、「朝鮮民主主義人民共和国」と続けていた。いまは「北朝鮮」としか言わない。やっとまともになった。North Koreaであるから、それでいいのである。


 「南朝鮮」という表現の始まりは私には意外だった。ウヨクが朝鮮民族を貶めて言いだしたのではなく、サヨクが「北朝鮮」と並べて大韓民国を貶めるために使い始めたコトバだったのである。
 意外な始まりを考えているとき、どっちが言いだしたとか、貶めるとかなんとか以前に、これがごくまともな表現であることに気づいた。冷戦以後に分断された朝鮮半島の、悲劇の「南北朝鮮」なのである。「北朝鮮」と「南朝鮮」は正しい言いかたなのだ。早くひとつになって欲しい。そのとき、どのような国名になるかはともかく。

 いまのところ、もしも北朝鮮が崩壊し、南北朝鮮が統一されることになったら、南朝鮮にそれをぜんぶ引き受けるだけの国力はなく、破綻すると言われている。当然そのしわよせは日本に来る。国民が日々の糧にも餓える北朝鮮という悪は一日も早く消滅して欲しいが、今すぐだとたいへんな混乱が待っているようだ。
 
「南朝鮮」というコトバを正当に理解してから私はこれを気楽に使えるようになった。
 それを使えなかったのは、「朝鮮」という言葉をすなおに口に出来ないという、日教組に染められた自虐史観の残滓だった。



【餘談】──いま「ざんし」を変換したら、「ざんさい」ともあり、それを「慣用読み」としていた。なるほど「宰相」の「さい」だから、これを「ざんさい」と読むひともいるのか。さいわいにして周囲にはいない。よかった。ざんしはざんしである。ざんさいではない。ツクリから詳細をようさいと読んだ麻生さんはきっと「ざんさい」だろう。)


 英語ではSouth Koreaだ。略してふつうにSkoreaと言うことも多い。あちらはNkoreaだ。いちいちサウスだノースだと言うよりこのほうが便利だからだろう。分断されている南北朝鮮を正確に表している。あくまでもあそこはKoreaであり朝鮮なのだ。このSとNは、日本の「北朝鮮」「南朝鮮」に通ずる。
 
 漢字表記では「大韓民國」だが、彼らは漢字を実質的に廃してしまった。自分の名前すら漢字で書けないひとがいっぱいいる。というかもう書けないことが標準だ。現実生活で漢字を書く必要がないのだから。
 その略称である「韓国」とは日本でだけ通じる表現である。ワタナベサダオを略して「ナベサダ」と言うようなもので、なんの意味もない。だったらもう「韓国」なんていう漢字の名前は廃して「南朝鮮=South Korea=Skorea」と言ったほうがいい。もちろん漢字名称で正式に呼びたいひとは大韓民国と言えばいい。韓国と呼ぶひとから南朝鮮と言うことに抗議をされる謂われはない。それはワタナベサダオとフルネームで呼んでいることに対して「ナベサダ」と呼べと言われるようなものにすぎない。


 と言いつつ、よけいな波風を立てたくない場では「韓国」と書きますけどね(笑)。なぜなら、そのことが目立つと、いちばん言いたいことが伝わらなくなるから。
 
 選挙特番で池上彰がやった失敗もそれになる。慎太郎さんが「北朝鮮やパプアニューギニア、フィリピン」と言ったことに対し、テーマの「単式簿記の国」を無視して、「北朝鮮やその他の国を同列に並べるから猖汁老人瓩噺世錣譴襪里任蓮廚隼造蠅海鵑巴僂鯀澆い拭
 
 これは池上の赤っ恥だが、慎太郎さんが「いまだに単式簿記の国は、日本とパプアニューギニア、フィリピンぐらいですよ」と「北朝鮮」の名を入れてなかったら起きない問題だった。もっとも、それだったら池上のはしゃぎすぎ赤っ恥も生じなかったわけで、それが気分が良かった私には、それはそれでおもしろかったのだが。
 しかしそれを見ても、中には「池上が石原をやっつけた」と思い込んでいるひともいる。

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池上彰選挙特番考──池上が石原をやっつけたと解釈している競馬評論家



 ま、そんなわけで、好き勝手な文では「南朝鮮」と書きますが、何かテーマがあって、それを伝えたいときには「韓国」にします。そうしないと「南朝鮮」というコトバばかりが目立って本意が伝わらなくなりますので。

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 ついでに。
 共産党独裁政権の中華人民共和国のことを「この世の中心地」という尊称である「中国」とは呼びたくない。Chinaから来ているシナでいい。世界中どこでも「チャイナ」「シーノ」とChina系の呼び方だ。アラビア語には「シネ」という発音もある(笑)。
 よって私はふだんは「シナ」。問題のある場面では「China」にする。これなら誰も文句は言わない。「支那」と漢字で書くと、やつらは「支店の支を使って、日本よりも下のようにする」とイチャモンをつけてくるので、カタカナが無難らしい(笑)。ここでの「やつら」とはシナ人のことではない。日本のアサヒシンブン的サヨクである。
 
 そもそも「シナと呼ぶのは悪いいいかただ」もまた「従軍慰安婦」的な捏造イチャモンなのである。やつらは自分達を有利に運ぶためなら、どんなことにもイチャモンをつけて騒動のネタにする。日本から「支那蕎麦」をなくしたのもやつらである。
 世界中どこにでも嫌いな国や民族を蔑視して呼ぶ言いかたはあるが、朝鮮もシナもそれではない。これは正しく理解すべき常識になる。歴史ある由緒正しい呼び方だ。
 いま公人として「シナ」と使うのは慎太郎さんだけか。

相撲話──大鵬の思い出──大鵬夫人スキャンダル考

 大鵬は敗戦後、樺太から北海道へ引きあげるとき、九死に一生を得ている。本来降船予定ではない港で降りた。そのあと船はソ連の潜水艦の魚雷で沈没させられている。多数の犠牲者が出た。途中降船しなかったら死んでいた。ここでの強運。

 そして史上最年少での横綱。双葉山の連勝記録以外あらゆる記録を塗りかえた華々しい横綱時代。努力も天分もあったろうが、ここでもまた運が味方したのも事実だろう。

 後援会からの紹介で美人娘と結婚し子宝にも恵まれた。
 引退後も、主流の出羽一門ではなかったのに、早くも35歳で役員になっている。その手腕も認められた。



 すべてにおいて順風満帆だった人生がいきなり暗転する。37歳での脳梗塞である。あの大鵬が半身麻痺となり、車イスのひとになってしまった。表に出ることなく、リハビリの日々が続く。

 ひとの運の総量は、ひとによってちがう。
 神様にあいされた大鵬の運の総量は、ふつうのひとの何倍もあったろう。
 だがそれを、幼いときの命を救うことと、力士時代の華やかな活躍にぜんぶ使ってしまったから、37歳の時にそれが尽きてしまったのではないか。

 私にはそんなふうに思える。



 部屋を継がせた娘婿の大嶽親方(貴闘力)が野球賭博で角界追放になったり、スキャンダルはいくつかあったが、最もせつなくなったのが「奥さんの弟子喰い」だった。

 大鵬が脳梗塞で倒れ不能になったとき、7歳年下の奥さんはまだ29歳。それから長年空閨を保つのは苦しかったのだろう。それから20年後、「弟子喰い」が週刊誌記事になった。これはそれを探って記事にしたというより、あまりに有名な噂として相撲界に長年流れていたのを取りあげた記事だった。極秘のことをすっぱぬいた感覚ではない。

 奥さんが弟子をラブホテルに呼びだすラブレターまがいの手紙まで流出した。弟子はそれを苦痛と思っていた。セクハラである。実際に関係を持っていた弟子から流出したし、筆蹟からなにから逃げようがない。奥さんもそれが自分の書いたものであることまでは認めた。そのあとは「冗談で書いたのであり、その後の行為はない」と否定したが、それで通じるはずもない。ひとりやふたりではなかったし……。



 半身不随で動けない大鵬は、奥さんにテニスボールを転がしてもらい、それを拾うリハビリをした。それはかつてのあの大鵬を知っているひとには信じがたい光景だったろう。奥さんはそんな大鵬のリハビリにしんぼう強くつき合った。

 体調不良で入院し、ほんの数日で大鵬は急逝してしまう。死の二日前には白鵬が見舞いに訪れ、会話したというから、ほんとに急逝だったのだろう。

 奥さんがこの数日の入院のことを語っていた。毎晩何度も電話を掛けてきて、「だいすきだよ」と言うのだとか。
それはきっとほんとだ。大鵬が奥さんをあいしていたことも、奥さんが大鵬をあいしていたことも、本当だ。そしてまた奥さんが弟子喰いをしたのも……。なんともそこのところがせつなくてたまらない。

 すでに離婚し、亭主は鬼籍に入っている、かつては猴想の一家瓩両歡Г世辰親E跳子がピース綾部と何をしようとどうでもいいが……。

 前記したように、全盛時の独身大鵬の宿舎には順番を待つ女の列が出来た。やり放題だった。その時点で大鵬は同い年の男より、遥かに多くの女を知り、多くの回数をこなしていたろう。
 だが37歳で不能になったことを考えれば、狡婿鮫瓩任蓮△燭い靴真字ではない。こんなことにも神の配分を思う。20代の大鵬が好き放題にやりまくれたのは、37歳で不能になることが前提だったような……。



 最後に、毎度触れる「立ち合い」のこと。
 むかしの相撲を見るとうんざりする。この時期の立ち合いは、みな手を突かない。ひどいものである。

 特にひどいのが北の湖時代だ。みな中腰で立っている。あれでは稽古場のぶつかり稽古の延長である。これでは下位力士の変化が通じない。
 はたき込みや八艘跳びのような変化技は使いようがない。あれは仕切り線に両手をついて立つから出来ることであって、中腰で立つ相手に通じるはずもない。

 大鵬の時代も、北の湖時代よりはいくからましだが、いまの正しい立ち合いと比べたら、とんでもなくひどい。
 その意味でも、「むかしはよかった」ではなく、やはり今がいちばん正しいと思う。

 連勝に関しては、大鵬よりも千代の富士よりも、「いまの立ち合い」である白鵬のほうが価値がある。



 そういう「むかし礼讃=あのころはよかった」感覚が一切ない私だけど、だからこそ、「あなたが見た力士で、いちばん強いと思うのは誰ですか」と問われたら、迷うことなく大鵬の名を挙げる。

 こどものころからずっと私は、強い力士が登場すると、常に大鵬を基準に考えていた。「大鵬と比べてどうか」と。栃若時代から知っているが、柏鵬時代の味わいはまたちがっていた。あれはたしかな「あたらしい時代」だった。
 大鵬ほど強い力士はいない。時を時代を超えている。

 やすらかにお眠りください。合掌。(「大鵬の思い出」完)

相撲話──大鵬の思い出┬;‖臻欧32回、千代の富士の31回──千代の富士に32回目の優勝をさせなかった角界の誠意

●大鵬の思い出┬;\藺紊良抻里32回を許さなかった力

onokuni その世界に君臨し、すべてを談合で仕切り、金の流通する経済効果から支持され、怖いもののない千代の富士は、次々と記録を作って行く。大鵬の45連勝を凌ぐ53連勝を記録する。これを止めたのはガチンコ横綱大乃国だった。53連勝の内、ガチンコは20ぐらいと言われている。

 しかしここでまた、ガチンコでの勝利数が20なら、あとは33敗なのかとはならないことは前記したとおりである。ぜんぶガチンコでも、千代の富士は50勝3敗ぐらいだったかもしれない。強いのである。

 だがそれでは連勝記録にはならない。千代の富士は「連勝記録を作る」と決めた。そのためにはひとつも負けるわけには行かない。ガチンコで来る奴も何人かいるから、全力でそいつを負かすために、買える星はあらかじめぜんぶ買っておく。それが千代の富士の生きかたである。

 もしもガチンコ横綱大乃国がいなかったら、千代の富士は双葉山の69連勝を凌ぐつもりだった。凌げたろう。ガチンコ力士がいてくれて、本当によかった。
 いたとしても、弱くて勝てないのでは意味がない。談合連勝をストップした大乃国の存在は貴重である。千代の富士は強い。しかし談合横綱でもあった。
 そういう千代の富士がなぜ支持されたかは、高度経済成長によって支持されていた自民党を思いうかべるとわかりやすい。 景気さえ良ければ、ひとは時の政府を支持する。相撲界もまた同じく。


 双葉山の69連勝を越える目的は大乃国によって止められてしまった。でも前人未到の1000勝の記録を作った。優勝は31回になった。
 
  じゃ次は大鵬の32回を越える優勝回数である。やったるでえ、というところで、やっと──ほんとにやっと、である──談合横綱の遣りたい放題に対する憤懣が噴出した。それは大鵬を信奉する親方連中から出た。

 未来の理事長は確実だった大鵬は三十代で脳梗塞に倒れ、麻痺の残る躰で不自由な生活を送っていた。華々しいしい現役時代と比べ、引退後の不運は目を覆うばかりだった。
 二所一門連合稽古の先頭に立ち、ちぎっては投げちぎっては投げという鬼神のごとき強さであった大鵬の強さを躰で感じてきた連中は、千代の富士の好き放題の権力を苦々しく思っていた。しかしそれによって金が流通し、相撲景気がいいのだから文句は言えない。

 しかしやっとここに来て、真に強かったあの大鵬の32回をも談合横綱の千代の富士が越えるのは許せんと立ち上がった連中がいた。ずいぶんと遅いが、千代の富士首相の経済政策で相撲国の景気が良かったのは確かだったから、誰も文句は言えなかった。

※ 

kaiketsu その先頭となったのは、ガチンコ横綱大乃国の師匠であり、自身もガチンコ大関だった放駒親方(元大関魁傑)だった。大鵬がいかに強かったかは、二所一門の連合稽古で、赤子のように扱われ、問題にされなかった自分の躰が知っている。真に強い大鵬の記録を、連勝までは目を瞑ってきたが、優勝回数まで談合横綱に抜かれることには我慢がならなかった。
 
 目指す記録はそれだけになっていた談合横綱は、それだけは許さんという周囲の圧力から、さすがにそれは断念する。目的がなくなり急速に気力が減衰する。まもなく引退した。
 逆にこれで男を上げた放駒は後に理事長になるほど出世する。


 大鵬の最後の優勝、32回目は仕組まれたものだったと知ったとき、私はそれに落胆するのではなく、むしろ感激をあらたにした。それでこそ相撲界だと思った。
 同じように、私は、魁傑が先頭に立って千代の富士のインチキ優勝32回、33回を阻止したとき、相撲界の正義を感じて安堵した。聖域は必要だ。

 世の中には「やってはならないこと」がある。私にとってそれは、大鵬が八百長で32回目の優勝をすることではなく、談合横綱の千代の富士が、その記録を超えることだった。

 本来「八百長」とは、囲碁の強い八百屋の長さんが、摂待として自分より弱い相手に負けてやることである。だから「八百長」ということばを使うなら、日の出の勢いの玉の海が落日の大鵬に負けてやったのが八百長であり、かなりの確率で勝てるのだが、万が一を思って金を渡し、負けるように言いふくめておく手法の千代の富士のやったことは、「八百長」ということばとはちがってくることになる。ことばを当てるなら、やはり「談合」だろう。


taihoushi 大鵬が亡くなった翌日、スポーツ紙は一斉に一面で特集した。多くの有名人、好角家がコメントを寄せていたが、感動的だったのは、素人のそれではなく、北の富士や放駒ら元力士の大鵬絶讃だった。

 誰もが「あんなすごいひとはいない」とベタボメだった。力士は自分に自信を持っているから他者を絶讃はしない。褒めるにしてもそこには儀礼が見える。まして北の富士は、それなりに時代を築いた横綱であり、さらには横綱ふたりを育てた名伯楽でもある。だが大鵬絶讃のことばに、そんなてらいはなかった。誰がもいかに強いひとであったかと、驚異の強さを讃えていた。別格なのである。

※ 

 唯一、テレビラジオ等で、「すべてを更新した親方でも、優勝回数だけは1回届きませんでしたね」と話し掛けられるたび、「32回と31回の差、これが大きいんですよ」と一見謙虚な言いかたをしつつも、言外に「そんなこと簡単に出来たのに、みんなでじゃましやがって」と口惜しさを滲ませて語る千代の富士だけが異質だった。

 このひと、理事長になるような器ではない。ただ人望はないが、順序的にしかたないか、という流れはある。弟横綱の北勝海のほうが遥かに人望はあるが、彼は兄弟子を堕とすようなことはしないだろう。
 北の湖の次は貴乃花に飛ばした方がいい。そのほうが相撲界のためだ。天国の大鵬もそう思っていることだろう。(続く)

相撲話──大鵬の思い出Ж;‖臻欧32回、千代の富士の31回※;|鵡膕9棒藺紊良抻里亮詑

●大鵬の思い出

 大鵬の最後の優勝、32回目は仕組まれたものだった。後にそれを知ったとき、私はそれに落胆するのではなく、むしろ感激をあらたにした。
 千代の富士に関しても同じような思いをしたことがある。中身は微妙に違うが。

 
 千代の富士は、談合横綱として、遣りたい放題のことをしてきた。連勝から優勝回数まで、好き放題に数字を重ねてきた。

 この狠鵡膈瓩鮓躄鬚垢襪劼箸發い襪里如∨菘戮離螢ツをあらかじめ言っておくと。
 千代の富士は強いのである。確実に強いのだ。しかし相撲には何があるかわからない。変化を始めとして飛び道具はいくらでもある。稽古場で100回やって100回勝つ相手でも、本場所では奇襲攻撃をしてきて敗れるかも知れない。稽古で変化技はやらない。何があるか判らない。その恐怖を強者は常にもっている。

 そういう曲者に、前もってそういうことはしないと勝負前に一筆取る。いや一筆は取らないが、そういう約束をさせる。その代わり何十万かの金を渡す。安心料である。白星を確定させる。そのことにより、すべてガチンコだと10勝5敗かも知れない本割を15戦全勝にする。大乃国のように星を売らないのも何人かいるが、それに負けても13勝ぐらいは確保出来るから優勝は堅い。これが談合横綱千代の富士の実態である。


 
 そのことにより多額の懸賞金等、横綱のところに集まった金が下位の力士にもまわり、下位の力士から周囲の付き人にもわたる。また板井が有名だが、中盆という星の売り買いをする仲介屋も懐を潤すことになる。公共事業のようなものである。

 談合相撲は「真剣勝負」の見地からは言語道断だが、狭い世界の経済として見た場合、これは「富の一極集中」を防ぐことでもあり、バランスの取れた方法となる。それで相撲界は保っているし、誰もがその世界で生きてきたから、決してなくなることのない習慣である。相撲という世界の経済を活性化させるベストの方法なのだ。
 もともと相撲界とはそういう芸能世界である。千代の富士のやったことは、今で言うならアベノミクスならぬチヨノミクスであり、経済効果は抜群だった。だからそれだけの支持を得、あれだけの数字を築けたのである。

※ 

 そしてまたこれも大事なことだが、横綱を負かそうと下位の非力な力士が跳んだりはねたりすると、たまには横綱に勝つことはあろうが、そのことで土俵は決して盛りあがらないのである。
 基本として土俵上は勧善懲悪?であり、非力な下位力士が真正面からぶつかってゆき、強い横綱に投げとばされて拍手喝采の世界なのだ。それが好角家の快感である。

 非力な下位力士としても、強い横綱に正面からぶつかっていって投げとばされて、裏で何十万ももらえるのだから、こんなありがたいことはない。何十回に一回成功するかも知れない変化技で挑んで負けるより、正面から行って負けたことが誉められるは金はもらえるわで、遥かに効率がいい。
 千代の富士時代とは、そういう談合横綱という安定の時代だった。(続く)

相撲話──大鵬の思い出Θ;‖臻欧32回、千代の富士の31回;;‖臻穏埜紊陵ゾ,糧誅


 大鵬に関する思い出はたくさんあるが、文章として読んだものとして、以下のエピソードがいちばん記憶に残っている。大鵬最後の優勝32回目のときの裏話である。1971年、昭和46年の初場所。


 13勝1敗だった大鵬は、千秋楽の本割で、14連勝の後輩横綱玉の海を破り、14勝1敗で並んだ。優勝決定戦になる。
 このとき玉の海のところに使者が飛んだ。
 
 双葉山の連勝以外、相撲界のあらゆる記録を塗りかえた大鵬にも落日の影が差していた。通算の対戦成績は圧倒的であれ、ここのところ後輩の玉の海、北の富士に負けることが増えていた。ここまで四場所優勝から遠ざかっている。番付もずっと西横綱である。
 
 一方、27歳の玉の海はこのときが絶頂期。横綱になって三場所目。ここ二場所連続優勝している。本割では負けたが決定戦では確実に勝てる自信があった。大鵬のスタミナは切れている。
 使者の申しこみは、これが大鵬の最後の優勝のチャンスだから、今回は譲ってやってくれ、というものだった。

※ 

tamanoumi 玉の海は最初それを拒んだ。大鵬は二所ノ関一門の兄弟子であり、新人時代から稽古をつけてもらった。大鵬に稽古をつけてもらって強くなった。横綱に昇進したときは土俵入りの型もつけてもらっている。最高の恩人である。なんど挑んでも適わない大きな壁だった。それがやっと勝てるようになり、自分がいま東の正横綱として君臨している。
 
 負けてくれという申しこみは受け入れがたかった。決定戦で勝ち、三場所連続優勝を成し遂げたかった。それは確実に出来るはずだった。
 だが「おまえはこれから何度でも優勝できる。大鵬関はこれが最後なのだ」と説得されれば、受けいれざるを得ない。それが相撲界である。
 決定戦は大鵬が勝ち、32回目の優勝を成し遂げる。敗れた玉の海は勝負のあとの風呂場で号泣した。泣き声は風呂の外まで聞こえてきたという。

 その二場所後、大鵬は体力の限界を理由に引退した。やはりあれが最後の優勝となった。
 引導を渡したのは新鋭の小結貴ノ花だった。その貴ノ花が引退を覚悟したのが新鋭千代の富士との一番であり、大横綱千代の富士に引導を渡したのが息子の貴乃花だった。横綱の引退にはそんな次代のヒーローとの引継ぎがある。
 引退相撲の土俵入りでは、玉の海と北の富士という両横綱が太刀持ちと露払いを務めた。
 翌場所、玉の海は当然のごとく優勝し、北の富士との北玉時代到来と謳われたが、半年後に急逝してしまう。



 なお、この玉の海は朝鮮人である。先日引退した理事長を務めた武蔵川親方こと元横綱三重ノ海も朝鮮人である。その前の理事長佐田の山も朝鮮人である。半分ロシア人の大鵬と純粋朝鮮人の玉の海の優勝決定戦だから、べつに小錦だのモンゴル人だのと今更騒がなくても、もうずっと前から相撲界は国際的だったことになる。 


 私は、大鵬のあの最後の優勝の瞬間、玉の海を寄り切ったときの「ほっとしたような顔」を今も覚えている。憎らしいほど強かったあの人が、あんな顔をするとは思わなかった。大鵬はあのとき、これが自分の最後の優勝になるとわかっていたのだろう。だからこの話を読んだときは、みょうにそのことに納得したものだった。
 
 さてこの話、ソースはどこだったろう。たぶん『週刊ポスト』がしつこく「大相撲八百長問題告発」というのをやっていた時代に読んだのだと思う。舞台になったのは1971年。私が読んだのは1990年ぐらいか。でもこの場合、ソースにはこだわらない。書きたいのは私の気持ちである。

 こどものときからの相撲ファンであった私は、この「かつて感動したあの大一番」が、じつは仕組まれたものだと知ってどう思ったか。夢を汚されたと怒ったか。大相撲に失望したか。それとも「こんなのウソに決まってる!」と怒ったか。
 
 私は「いい話だなあ」と感激をあらたにしたのである。「相撲を好きでよかった」「さすがはおれの好きな大相撲だ」とすら思った。
 
 所詮週刊誌記事である。信憑性はどうなのだろう。一笑に付すひともいるかも知れない。私は素直にすべて真実だと思った。いまもそう思っている。
 これは、大鵬自身が星を譲れと使者を使わした両者納得のものなのか、あるいは大鵬は知らず周囲がおぜん立てした、玉の海だけが知っている、いわゆる片八百長なのか、そのへんのこともある。

 でもそんなことはどうでもいい。自分がリアルタイムで見た、優勝した瞬間の、大鵬のあのほっとした顔に、見知らぬ「風呂場での玉の海の号泣」が重なり、私の思い出はより鮮明になり厚味を増したのだった。(続く)

Windows8体験記──もうこんなヤツとは別れたい──なのに未練たらしく

7のUltimateが絶好調なのだから、やる必要はないのだが、気分転換だとばかりに8に切り替え、いやな思いをして、また7に戻るという愚かなことを毎度やっている。しかしさすがにその割合は、当初は毎日だったのが二三日に1回になり、ここのところ三日も四日も7で作業していた。

それでいいのに、「せっかく買ったのだから」というセコい気持ちが芽生え、ひさしぶりにまた8に切り替えてみた。
ブラウジングでも文章記入でも遅くて使いものにならない。でもそれは私のほうの問題なのだろう。文字の変換に砂時計が回りはじめ数秒待たされるというのは、いくらなんでも8の責任ではなく、私のSSDのプチフリーズのような気がする。どうにもこのSilicon PowerのSSDは最初からハズレだった。


しかし真の問題は、そのあとの「使い勝手」にある。こういう状態も再起動すると直ることもあるから、私は辛抱強くそれをする。なにしろ満点の7があるのに、「せっかく買ったのだから、なんとか使いこなしたい」というケチな了見で挑んでいるのだから、缺点はもともと覚悟の上だ。
ところがその「再起動」が面倒なのである。どうにもこのUIは使いにくい。そしてまた、再起動に移るまでの「シャットダウン」に5分もかかるのだ。この原因も私は4GBのRamDiskを使っているから、それのイメージ保存なのだと思う。しかし同じく4GBのRamDiskを使っている7が1分もかからず保存して再起動するのだから、これはかかりすぎである。果たしてこれも私のSSDの問題なのか。

ここまでくると「相性」も考えねばならない。世の中には8がさくさくと動き、うまく使いこなし「8、大好き!」のひともいるにちがいない。こんなイヤな思いをするのは、98のフリーズと、その改良型のme以来である。2000が出て満足し、その後のMS-OSにさしたる不満はなかった。なんなのだろう、この8ってのは。

なんの意味もないのにOSを切り替えて使うようなのは私の本質的なものだから変えようがない。そういう気分転換で生きてきた。猫型の基本だ。だからデュアルブートはこれからも続けたい。
かといって今更XPやVistaとのデァアルブートにする気にはならない。それらをはるかに凌駕した7という完成型があるのだから。Ubuntsuも、ソフトが対応していないものが多すぎるし……。
もうさっさと9(Windows Blue)を出してくれ。それにして8は消したい。つまらんOSである。


と言いつつも、7が絶好調であるのはIntelのSSD335-240GBが優れているからであり、同じこれにすれば8もいいのではないか、Intelのそれをもう一個買って試してみるべきなのではないか、と思ったりしている未練。8という悪婦に振りまわされる日々。

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【追記】──Win8、大幅値上げ──誰が買うんだ、こんなもの?

日本マイクロソフトは2013年1月21日、2月1日以降のWindows 8の販売形態と参考価格を発表した。主にビジネス向けのエディションである「Windows 8 Pro」のアップグレード版が2万7090円で、ダウンロード提供は2万5800円。主に家庭向けのエディションである「Windows 8」のアップグレード版が1万4490円、Windows 8をWindows 8 Proにアップグレードするための「Windows 8 Pro Pack」が1万3440円になる。

 Windows 8は2012年10月26日の発売以降、2013年1月31日までの期間限定で、発売記念の優待版が安価
に提供されている。具体的には、Windows 8 Proのアップグレード版パッケージが実勢価格で約5500円、Windows.comを通じたWindows 8 Proアップグレード版のダウンロード提供は3300円と、従来の優待販売に比
べて破格の安さだ。Windows 8 Pro Packのパッケージも約6000円となっている。

 同社が今回発表したは、優待販売が終了した後の、2月1日以降の販売形態と参考価格。Windows 8 Proの
アップグレード版パッケージは、同社による参考価格が2万7090円と、優待価格の約5倍。Windows.comを通
じたダウンロード提供についても、2月1日以降は2万5800円になるので、約8倍の価格になる。Windows 8の
アップグレードを予定している人は、1月31日までに購入した方が得策だ。

相撲話──大鵬の思い出エ;‖臻欧慮龍拭δ鏤匐に行ったころ──琴櫻の思い出話

●大鵬の思い出エ;…鏤匐に行ったころ──

taihou-teshikaga 大鵬の故郷である弟子屈町に初めて行ったのは23歳の時だった。札幌に住んでいた先輩に誘われて、道東のほうを歌い歩いたころだ。
 慶應高校出身の先輩によると、そのころの慶應高校の修学旅行は北海道と決っていて、先輩は高校時代に弟子屈に来ていたらしい。
 
 ここが大鵬の故郷なのかと感激した。町の温泉に入った。なんの変哲もない北海道の田舎町なのだが、大鵬の故郷というだけで興奮したものだ。

 写真は弟子屈町の大鵬像。 


 大鵬に関する話で覚えていることに故・琴櫻の談話がある。元横綱琴櫻。先代の佐渡ケ嶽親方だ。大鵬と同い年であり、同じ横綱だが、出世の速さがちがいすぎる。同い年なのに、遅咲きの琴櫻が横綱になったのは、大記録を作った大鵬が引退した後だった。

 大鵬はあれだけ美男で強くて人気があったから、手にした女の数はとんでもなかったらしい。元々力士フェチの女というのは根強くいて、力士はもてる。女に不自由しない。相撲部屋の稽古には、どの部屋でも力士フェチの女が見学に押し掛けている。

 それが美男で最強の大鵬であるから、それはもうたいへんだったそうだ。授業先のホテルなどドアの外にずらりと列が出来ていたという。順番にやるのである。一発済むと「次のかた、どうぞ」の世界。ビートルズ並だ。

 琴櫻の談話とは、醜男であり大鵬のようにもてない琴櫻は、そのおこぼれにあずかっておいしい思いをしたというもの。そりゃまあ順番待ちしているうちに待ちくたびれて、手ごろな近くの力士でもいいか、と思うのも出て来るだろう。
 のどかな時代だった。いま力士はソープに行くのすら気を遣う時代になった。


 のどかと言えば、拳銃の話がある。大鵬、柏戸、北の富士がアメリカからの拳銃密輸で書類送検されたのだ。看板力士である。今だったらどんな大事件になったろう。まあ「密輸」というような大事件ではない。軽い気持ちでお土産で買ってきたのだ。公人としての自覚が足りない。しかもその後は、「川に捨てた」というしょうもない弁明。でもそれで一件落着してしまう。いい時代だった。(続く)

相撲話──大鵬の思い出え;,たくなな天才否定の事情──ウクライナの血脈

●大鵬の思い出え;ヾ茲覆陛刑揚歡螯;.Εライナの血脈

taihou2「大鵬にはロシア人の血が入っている」という噂は、当時からうっすらと流れていた。色白の躰もそうだが、なによりも顔である。
 当時美人女優として売れっ子だった鰐淵晴子(父は日本人、母がオーストリア人)のような日本人離れした彫りの深い顔はどうしてもハーフに見える。

 異国人との結婚によって生まれた子は、最初は「合いの子」と言った。それが差別用語として「混血」という堅苦しい言いかたになる。やがてそれも差別用語とされ、英語の半分の意味である「ハーフ」に言い替えられる。事の本質を意味不明にしてごまかす日本語の差別語転移の代表例である。(さらには今は、「ハーフだと半分という意味で失礼」とかで、ダブルと言うのだとか。アホクサ。)
 
 どんな顔であれ北海道の父親が「わしの息子ですじゃ」と言えば問題ないのだが父はいない。貧しい母子家庭育ち。樺太からの引揚げ者である。父親のことは写真一枚出まわらない。生死さえ公表されない。その噂が流れて当然だった。

 戦争終結後に突如攻めこんできて北方領土を奪い、満洲では残虐な殺戮と強姦を繰返したロシア人は日本の敵だった。国民的英雄である横綱にロシアの血が入っているとは誰も考えたくなかった。よってそれは長いあいだタブーだった。
 
 なにしろ力道山が朝鮮人だということすら伏せられていて、死後になってやっと流れでたような時代だ。それでも信じない人は多かった。かくいうこどもだった私も、それはプロレス嫌いがプロレスを貶めるために流しているウソだと思っていた。力道山の死後、それまではプロレス好きだった連中が一気にアンチになった。力道山時代はプロレスの結果を報道していた毎日新聞なんぞは、一転してプロレス八百長説の先頭を直走った。戦前戦中は戦争讃歌だったアカヒシンブンが戦後は一転して護憲サヨクになったように、マスコミなんて今も昔もそんなものである。

※ 
 
 私が大鵬にロシアの血が流れているというのを容認できるようになったのは、大学生になってからである。そのころになるともうそれは否定できない話になっていた。それでも「クオーター」と言われていた。四分の一ロシアの血が入っていると。この「クオーター説」の時代は長い。
 
 大鵬の父がウクライナ系のロシア人であり、大鵬はハーフだと公になったのはごく近年である。(調べたら、2001年だから、犇畴瓩任呂覆い。でも大鵬の現役時代から長年秘せられてきた時間と比すれば、充分に近年とも言えよう。)


 大鵬は天才だった。しかし彼ほどそう言われるのを嫌ったひとはいない。不世出の大横綱に誰もがその切口で迫ろうとする。彼は拒む。むきになって拒む。自分は天才ではない。努力型なのだと。誰にも負けないほどの稽古をして、そうしてあの結果を残したのだと。いったい今までにどれほどの回数、雑誌の対談やらテレビやらで、大鵬のこの「天才否定」に接したことだろう。

 一面においてそれは真実であろう。当時の激しい二所一門の連合稽古で、大鵬がいかに稽古熱心だったかは誰もが認めている。そして稽古場でも、いかに強かったかも。
 でも大鵬がどんなに否定しようと、私は彼は大天才だったと思っている。稽古であれだけの成績が残せるなら、それこそ伝説的な猛稽古で有名だった富士桜はもっと出世していなければならない。なにしろ、各部屋の親方が、将来を嘱望する力士は、必ず連れていって見せたと言われる「富士桜の猛稽古」である。ふつうは「ふらふらになったら稽古終了」だが、富士桜の稽古は、「ふらふらになってから、始まる」と言われた。すさまじいスタミナだった。
 稽古好きはいくらでもいた。努力型もいくらでもいた。大鵬があれだけの大横綱になったのは、天分があったからである。神に与えられた天分に恵まれていたのだから、紛う事なき天才であろう。 


 ではなぜ大鵬は、そこまでして天才と呼ばれることを拒んだのだろうか。
 私はそれを「血の否定」と考える。
 大鵬の父は、樺太に住むウクライナ系ロシア人だった。
 ウクライナ系ロシア人と聞けば、挌闘技ファンなら誰でも犢陳覘瓮┘潺螢筌┘鵐魁Ε劵隋璽疋襪鮖廚いΔべるだろう。前田日明がリングスに連れてきて日本デビュー、その後『PRIDE』に移籍し(ひき抜かれ)、後に世界最強と呼ばれた男である。アレクサンダー・カレリンの名を出すまでもなく、ロシア人の頑健さは誰もが知っている。まこと、我らが先祖は小男でありながら奴らと白兵戦をやって勝ってきたのだ。偉大である。

 大鵬の強さに「ロシア人の血」があったことは否めない。もしも大鵬の言うように「猛稽古」で強くなったのだとしても、それに耐える頑健な躰は、父からもらったものだったろう。
 大鵬はもちろん母から聞いて、自分の父がロシア人であることを知っていた。時代を考えれば、それは大鵬にとって、口に出せない、心にのし掛る重い枷だったろう。日本人はロシア人が嫌いである。中でも北海道ではロスケと言って嫌っていた。それでなくても北海道の百姓とはちがう顔をしているのだから、自分の父がロスケである事実は、大鵬にとって重かったはずである。

 頑ななまでの天才否定は、それによるものだったのではないか。
「天才」を容認することは、「ロシア人からもらった頑健な躰」を認めることになってしまう。彼は自身の内なるロシアを否定し、「努力して強くなった日本人」でいるために、執拗にそれを訴えたのではないか。私はそう解釈している。

 もっとも彼に限らず、天才は天才と言われることを嫌う。自分は精一杯努力したのだ、簡単に天才などと言わないでくれ、と言う。「おれは天才だ」という天才はたいしたことはない。 しかしまた天才は、心の中で<おれは神に選ばれた天才だ>と自負している。

※ 

 大鵬部屋の力士に露鵬というのがいた。大鵬が鵬の字を与えている。これはもうひどい悪相だった(笑)。犯罪者面である。後に大麻で角界追放となる。その弟に北の湖部屋の白露山なんてハゲたのもいた。こちらはキユーピーみたいだった。彼らを見ても大鵬とロシアを結びつける感覚は芽ばえなかった。

wakanohou 露鵬で出来たロシアとの縁から、大鵬が間垣部屋に紹介して入門させた若ノ鵬というのがいた。これも後に大麻で角界追放となる。

 彼を見たときはびっくりした。若い頃の大鵬とそっくりだったからだ。純粋なロシア人である。左の写真。

「ああ、大鵬の二枚目ぶりってのは、ロシア的ハンサムだったんだな」としみじみ思ったものだ。私はそのころすでにロシアに行ったことがあったが、べつに大鵬的な美男子を見た憶えがなかった。やはり髷を結ってないとイメージが繋がらない。そういう意味で若ノ鵬は忘れられない力士である。これまたロシア人特有の恵まれた体力で抜群に早い出世をした大器だったが、精神面がついてゆかず挫折した。

 そう考えると、私の母と姉の大鵬嫌いも、外人嫌いに通じて、それなり筋は通っていたのかと思う。田舎女として、大鵬の容姿に、本能的に異質のものを感じていたのだろう。(続く)

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【追記】──大鵬と王貞治

 同い年の同時期のスーパースターであり、気が合ったのか、夜明けまで痛飲した仲だったという。訃報を特集するスポーツ紙でも王さんのコメントは筆頭扱いだった。

 王さんは、父台湾、母日本の混血である。父ロシア、母日本の大鵬と同じ組み合わせだ。ちがうのは、王さんの場合、その姓から、出自が明確にされていたのに対し、大鵬は伏せられていたことだ。
 大鵬はきっと、王さんには自分の血脈を語っていたのではないか。そんな気がする。

相撲話──大鵬の思い出──すっぱい葡萄の家系──女嫌いのルーツ

●大鵬の思い出

 私は母と姉の「弱気を装っての自己防衛」に接している内、次第にそれに反感を抱くようになっていた。好きなものは、勝って欲しいものは、「勝て!」と言って応援するのが正しいのではないか。そして勝ったら喜ぶ。負けたら悔しがる。それでいいのではないか。
 ほんとは勝って欲しいのに、負けたとき傷つくからと、「勝てないよ、負けるよ負けるよ」と言い、負けたら悔しがることもなく(内心では悔しがっているのだろうが)、「負けるのはわかってたんだ」なんて自分を慰める言いかたはへんだ。ひねくれている。いつしかそう思うようになっていった。


 と、このまま書いてゆくと私の一代記になってしまうので(笑)この辺にするが、でもほんと、ここに書いたことは、私にとってとても大きな出来事だった。
 私は母と姉を反面教師にして小学生の時にそこから脱出したが、高校生の時、この「弱気を装う自己防衛」を言うクラスメイトに出会った。なんともくだらんヤツだった。こういうのは、私と同じような女環境で育ち、それに染まり、そこから脱出することなく、女々しい感覚で出来上ってしまったのだろうと憐れんだ。もっとも、この自己防衛方法を採るヤツは男にもいよう。そいつはそういう父親になったにちがいない。こどもがかわいそうだ。

 もしも私が、自分の勝って欲しい力士が負けたとき傷つくのを怖れ、「負けるよ、きっと負けるよ」と最初から「負ける負ける」と言って応援しているようなこどもであり、母が、そういう私の横っ面を張り、「男なら、そんなめめしいことはするな。勝って欲しいものには、正面から勝てと言って応援しろ!」と怒るようなひとだったら、私の人生はちがったものになっていた。私はきっと自分の母を尊敬し、そのことから女を尊敬する男になれたろう。
 
 だが現実は、何事に関してもそういう方法を採る母と姉を軽蔑することによって、そういう発想法から私は自力で脱出せねばならなかった。私の女嫌いの根本にはこれがある。環境とは大きいものだ。いまだに引きずっている。女嫌いでいまだに童貞なのはそれが原因である。こういうのもトラウマと言うのだろうか。私は宮沢賢治と同じく生涯童貞でいようと思っている。ウソ。


 相撲からは相撲そのものとはべつに、それに関わる形で、こんな多くのことを学んだ。
 それは相撲が現実に「国技」と呼べるほどのステータスを持っていた時代だからである。テレビで見るのはもちろん、毎日学校でみんなで相撲を取っていた。新聞も大きく報じていた。だってここに書いたように、母や高校生の姉も相撲好きの時代だったのである。
 今はもうごく一部の太ったひとが携る伝統芸能になってしまった。むかしと今の相撲を同列には語れない。(続く)

相撲話──大鵬の思い出※;’雜洛殳の母と姉の影響──佐田の山と豊山

 長じるに従い、男である私は、自然に母や姉の感覚とは離れて行く。「長じる」と言っても小学生の時の話だ。物心ついたときに母親と姉の感化を受け、小学生低学年の時代に、そこからは卒業した。

 決定的だったのはふたりの「弱気を装う自己防衛論」だった。「すっぱい葡萄」路線である。
 ふたりは柏鵬の対決の時、「柏戸は負ける」と言うのである。「負けるよ、適わないよ、しかたないよ、しょうがないよ」と言う。仕切のあいだそれを繰り返す。しつこいほどに。

 これをやっておけば負けたとき傷つかない。「ほうら負けた。わかってたんだよ、やっぱりね」となる。そうして自分を護るのだ。「わたしたちは負けることを知っていた。予想通りの結果だ。だから落胆していない。傷ついていない」と。
 そうしておけば負けても傷つかず、勝ったときは喜びが倍になる。それは柏鵬に限らず贔屓力士に対して常用する彼女たちなりの応援姿勢だった。そういう母親であり、姉は母のクローンだった。そこで育っているから、私もそうなるはずだった。
 
 しかしまあ時が過ぎた今、同情して言うなら、アンチ大鵬はそんな方法でも執らないと正常ではいられないほど、そのころの大鵬は強かった。自分を護る方法として、そんなことを考えだしたのもむべなるかなとも思う。
 そんな家庭で育ったから、私は「巨人、大鵬、卵焼」の感覚を知らない。熱狂しなかったから。でもそれは振返ってみれば、今に続く相撲ファンの姿勢として、とてもいいことだった。単純に熱狂するよりもずっと。だって「強さ」を感情的ではなく冷静に判断できるから。


yutakayama 母や姉のインチキ判官贔屓と比して、父は本物の判官贔屓だった。といって、もちろん強い力士が好きなのだけど。
 
 この時代、東京農業大学を出た学生横綱である豊山が「初の学士力士」として幕下付出しでデビューした。十両で全勝優勝を遂げる。話題沸騰だった。
 ちなみに十両で全勝優勝した力士は、今に至るも栃光、豊山、北の富士、把瑠都の4人しかいない。

 豊山は色白の美男子だった。母と姉は大ファンになった。ハンサムで大学卒というのが理由らしい(笑)。
 母も姉も基本的に女でありミーハーなのだから、本来美男で強い大鵬が好きでなければおかしいのである。しかし大鵬は、すごすぎて、気弱な私の母と姉は、ファンになりそこねてしまった、というのが真相であろう。美男だったけど、それはハーフのような彫りの深い日本人離れした美男であり、近寄りがたかった。この時点で大鵬の血筋は判っていない。
 その点豊山は、すんなりファンになれる日本人的美男の力士だった。


 父は学士力士を嫌った。大学なんぞを出てるのより中卒の叩上げを好んだ。父は師範学校を出ていたから、当時の高卒の代用教員が多い田舎ではエリートであり、三十代で小学校長になっている。でも叩上げが好きだった。これは生涯変らなかった。学士力士を嫌った。

 父の好んだのは佐田の山だった。まあこちらも後々横綱になる出羽の海部屋の秀才力士ではあるのだけど、豊山と比べれば中卒の叩上げになる。
 佐田の山は話題の豊山について聞かれると、「大学を出てきたような相撲とりに負けたくない」とハッキリ言った。ふたりは同時期のライバルだった。柏鵬のすこし後になる。後に理事長と理事として協力し合ったりする。

 自分達の応援している大卒で美男の豊山のことを、中卒で不細工な佐田の山がそう言ったものだから、母と姉は佐田の山が大嫌いになる。佐田の山の名前は「晋松」である。その名前も品がなく貧乏くさく百姓っぽい名前だと貶した(笑)。父はいい名前だと言った。

 よって我家には母と姉の応援する豊山派と父の応援する佐田の山派の対立が勃発したのである。佐田の山派は父一人だろうって? いえいえ、そのころにはもう母と姉の「弱気を装っての自己防衛論」に愛想を尽かしていた私は、迷うことなく父の感覚を支持するようになっていた。大卒よりも中学を出てすぐ相撲界に飛びこむ少年のほうがかっこいい。「晋松」も男くさくていい名前だ。のっぺりした豊山的美男子より、佐田の山の根性のあるふてぶてしい顔のほうがかっこよく思えた。
 
 まだ小学生だったが、この時点で私は、母と姉という女世界から飛びだし、父との男世界に参入したのである。母と姉からすると自分達の連合軍から裏切者が出た感じだったろう(笑)。その後も私は母と姉とは悉く感覚が対立するようになってゆく。反面教師だった。(続く)
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