2013年09月

馬券自慢名人<きっこさん>の買いかたを推理する(笑)──100円単位の総流し──万馬券、的中!

 かの有名人<きっこさん>は、競馬初心者でありながら馬券名人である。難解なレースの馬単を、しかも万馬券を、ほんの2.3点買いで楽々と的中する。私は<きっこさん>以上の馬券名人を知らない。世界中の競馬ファンを見渡しても、<きっこさん>以上の馬券名人は存在しない。
 では世界一とも言える馬券名人<きっこさん>は、どのような買いかたをしているのか。それはレース前の予想とレース後の馬券自慢の落差から簡単に推測できる。



 まずはレース前の予想ツイート。

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 1番人気の芦毛リトルゲルダは16番、同じく芦毛のシゲルスダチは3番(4番人気)。もう1頭の芦毛ブルームーンピサは14番(13番人気)である。

 このツイートから<きっこさん>の勝負馬券は、芦毛馬同士の16→3,16→14になる。もちろん裏の3→16,14→16も、縦目の3→14,14→3も表裏押える。これで8点である。この8点買いは、2点ずつ4枚の購入にするだろう。

 「奇蹟」が起きたときの馬券自慢のために芦毛3頭で決まったときの3連単も買う。これは6点になるが、これも2点ずつ3枚に買う。それが<きっこ>流(笑)。
「奇蹟だな」と書いているが、この時点でもうこの「奇蹟馬券」は購入済みだ。「奇蹟が起きた!」と的中自慢を書きたくてうずうずしている(笑)。そのための前振りである。



 1番人気のリトルゲルダが勝って予想が的中した場合、16→3,16→14の2点買いをアップして「1番人気からだから安いけど芦毛のワンツーで決着」と自慢する。人気薄の14が来た場合は、「念のために買っておいて正解!」のような自慢。

 順位が逆になった場合は、3→16,14→16の裏だけの2点買いをアップして「1番人気からじゃ安いので2着になることを願ったら見事に的中、ヒヒーン」となる。

 もしも人気薄のブルームーンピサが絡んで大荒れになったら、3→14,14→3の2点買いだけをアップし、「芦毛3頭の内、1番人気のリトルゲルダを消して他の芦毛2頭で勝負したら見事に的中、ヒヒーン」と自慢する。
 これは予想と馬券が一致した場合。ほとんどそんなことはないが、的中馬券自慢のためにここまでのことをしている。



 そして今回のように芦毛のワンツーフィニッシュとはならなかった場合、つまり予想大外れの場合、するとこんなツイート。

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 なんと、予想した芦毛のワンツーフィニッシュではないのに、それでも軽々と「ナニゲに馬単万馬券」を的中。さすが世界一の馬券上手である。そして的中馬券のアップ。

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 しかしこの馬券、レース前の予想からするとかなりヘンである。だって芦毛のワンツーフィニッシュや芦毛3頭で3連単が決まる奇蹟まで願ったのに、100円3点、300円勝負の馬券の中に、1番人気の芦毛16番から他2頭の芦毛への馬券、16→3や16→14がないのだ。前予想とは全然違う購入である。

<きっこさん>の一日の、じゃなくて毎週土日の競馬資金は2500円である。<きっこさん>はこの金額をきちんと護る。1レースの購入資金も200円から300円と決まっている。なのになぜ予想で口にしている芦毛同士の馬券がないのだろう。<きっこさん>の猴論瓩覆蕁△海海蓮16→3、16→14」「3→14」という芦毛同士の馬券があり、「残念ながらハズれた。くやしい」となるのが自然である。
 的中した場合でも、芦毛馬券以外に「16→12」があって、「芦毛馬同士の馬券と、もうひとつ高配当をナニゲに1点買っておいたら的中。ヒヒーン」とならないと筋が通らない。なのになぜこんなヘンな馬券なのだろう。相手の番号が10.11.12と続いているのもヘンだ。



 結果はこういうレースです。
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 このヘンテコ馬券の秘密はこういうことだ。<きっこさん>は前記のような自分の予想にしたがった馬券をまず買い、その他にも100円の3点買いずつ16番から総流しをしているのである。馬券的中を自慢したいために。
 1番人気からの総流しで当たるのはかっこわるい。すくない点数で当てるのがかっこいい。そしてもうひとつ、少額で馬券を楽しむ健全な放射脳西日本疎開者(笑)という設定を維持するため、1レースの馬券は3点までにしている。

 つまりこの1番人気16番からの総流し馬単は、3点ずつ分けて購入されている。「あたしの競馬資金は2500円、1レースの購入金は300円」という狎瀋雖瓩里燭瓩法

 まずは「16-1.16-2,16-3」の3点で1枚。次いで「16-4,16-5,16-6」で2枚目、3枚目は「16-7,16-8,16-9」となり、的中自慢でアップされた4枚目のこれは「16-10,16-11,16-12」になるってスンポーだ(笑)。それが不自然な「続き番号馬券」の秘密。もちろんこのあと5枚目の「16-13,16-14,16-15」も購入している。

 これは予想会社が「またも1点で的中!」と謳うために1点馬券を何十種類も買うのと同じ手法になる。インチキ予想会社とインチキオカマは、馬券自慢のインチキぶりが共通している(笑)。

 1番人気のリトルゲルダが2着になったら配当はより大きい。そのときはその自慢もしたいから当然「1-16」「2-16」「3-16」という裏目の総流し馬券も300円ずつ買っている。手間が掛かる。

 さらに、シゲルスダチからの流し馬券も買っているだろう。みな300円ずつだからたいへんお忙しい。でも的中馬券を自慢するためだ。燃えている。おそらくあれやこれや様々なパターンを50点はお買いになっているだろう。私のようなフォーメーションだと一発で買えるが、「300円(=3点以内)勝負」をアピールするため、<きっこさん>はそれが出来ない。たいへんな手間暇を掛けている。それが連続してレースを楽しめない理由でもある。ひとつのレースの馬券購入にものすごく時間が掛かるのだ。それは今までの的中自慢でも明白だ。
 芦毛馬同士のような馬券は早めに買っておく。だからそれの自慢は速い。でもこういうのは予備として買う多種多様な馬券のひとつなので、これが的中したときは説明とアップが遅れる(笑)。

 <きっこさん>は芦毛馬が好きなのではない。芦毛馬が好きだったら上記の馬券自慢は筋をハズしている。芦毛馬と心中しているはずだ。<きっこさん>が好きなのは「的中馬券自慢」なのである。その方策の一つとして、「芦毛好き」「人気薄の芦毛から流して万馬券」を狙っているにすぎない。



 そしていつもの馬券収支自慢。毎度おなじみ(笑)。

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 <きっこさん>は毎週のように馬券収支をプラスにしている。世界一の馬券名人だ。こんなひとはこの世にふたりといない。
 毎週の資金を狎瀋雖瓩2500円から25000円にすれば、ほぼ9割方の確率で毎週15万円程度は儲けていることになる。それだけで月収60万円は固い。それがもうここ数年の統計で確実に証明されている。なにゆえ頑なに「毎週2500円」を厳守するのだろうか。なにゆえ「100字書いて50円」のようなアルバイト(私もこのアルバイトを知っている)をしつつ耐乏生活を続けるのだろうか。馬券だけで人並み以上の生活が出来るのに。「Win5で2億円」など狙わなくても、<きっこさん>の馬券能力があれば、2億円などすぐに貯められる。週に25000円で勝負して月に60万円を稼いだら、次は週に25万円の資金にすればいい。そうすれば毎週150万、月に600万円のプラスは確実なのだ。なぜそれをしないのか。

 <きっこさん>は嫌いな安倍総理を大バカと罵るが、ここまで確実に儲かることが体験と数字実績でハッキリしているのに、頑なに「毎週2500円」を護る<きっこさん>は、安倍総理以上の大バカになる。

 これは毎週のように<きっこさん>からの清浄な寄附を受けとっているらしいシリアの難民の子供達にとっても謎であろう。<きっこさん>さえその気になれば5000円じゃなく、毎週50万円の寄附も可能なのだ。シリアの子供達のためにも、<きっこさん>が面倒を見ている野良猫のためにも、立ち上がるべきだ。でなきゃ男じゃない。いや男じゃなくてオカマだけど(笑)。



 なぜ投資金を2500円から25000円に増やさないのか!? なぜ頑なに2500円を守るのか!?
 
 答は簡単。2500円はウソだからである。毎週3万円ぐらいは買っているのだ。馬券的中を自慢したいがために、勝負レースではあれやこれや100円で50点ぐらい買っている。一日に6つぐらい参加しているようだから、ちょうど3万円になる。その中からの当たりレース自慢。それでもハズレレース多数なのが現実。毎週3万円買って、オケラか、15000円程度の払い戻しというマイナス決算だが、表には「資金は2500円、今週も2万円のプラス」のような大嘘をついている。

 だから、「そんなに的中しているんだもの、資金を10倍にしたら?」と言われても出来ない。すでにもう2500円ではなく25000円は使っているのだ。25000円設定にして勝ちまくる話にするには、毎週25万円買わねばならない。それでオケラか12万円程度の払い戻しだ。「資金は25000円なので今週も10万円のプラス」とウソをつくのはつらい。毎週25万、月に100万円馬券を買う資金は今の<きっこさん>にはない。なにしろ公園の水を盗んだり、ひと袋の入浴剤で三日保たせているのが現状だ。ヘアメークをやっていたころは、本業と夜のバイトで月120万円ぐらい稼ぎ、そのうち100万円以上を母さんの難病治療費に充てていた(という狎瀋雖瓠砲反瓩まくっていたが。

 実際は馬券的中を自慢したいがためにあれもこれも買い漁り、毎週3万円以上買ってマイナス決算だろう。月に十数万円を競馬に使っての赤字だからこれ以上のことは出来ないのだ。
 何万円使ってオケラになっても「今週は2500円のマイナス」と報告する。調子のいい週で1万5千円のバック(=1万5千円のマイナス)というところか。だからいつまで経っても「今週は思いきっていつもの10倍、25000円を資金にして勝負したら30万円儲かった。内25万円をシリアの難民の子供達に寄附して残り5万円は生活費にした」とは書けない。だって毎週3万円使って払戻15000円程度のマイナス決算だから、これ以上のウソは無理なのだ。



 6枠に「グリーン」の名前の馬がいるからというケントク買いで、とうとう母さんまで万馬券を当てての馬券名人設定には笑った。あれはそういう馬券的中自慢もしたいから(同じような買いかたのお友だち、石川喬司さんもいることだし)そっち方面まで買っているということだ。いったい1レースで何点買っているのやら。

 マイナスなのにプラス自慢するってむなしいだろうなあ。でも鉄面皮だからそんなこと感じないか。存在自体がウソなんだものね。「カップヌードルのエビはカナブンの幼虫」という、かつてやっていた企業テロ誹謗中傷と比したら、架空の馬券名人自慢なんてかわいいものだ。

 なお、この文章のタイトルは「馬券名人の<きっこさん>」ではない。「馬券犲慢疚梢佑<きっこさん>」である(笑)。

郵便話──番地のない速達は受けとれないと郵便局に拒まれた──それはまあそうなんだろうけど……

@moneslifemone 2分前
速達を出しに行くと番地が書いてないので受けとれないと言われた。宛先は「北海道新冠郡新冠町明和ビッグレッドファーム岡田繁幸様」である。この「明和」のあとに番地がないと届けられないと言う。今まで何百回もこれで届いていると言ったのだが断られた。50代と思えるおばさん局員だった。(続く)



とツイートして、続きを書こうと思ったが、こんな愚痴を140字限定で何度も書くのはかっこわるいからやめた。ブログに書くことにする。

ムツゴロウさんは「北海道ムツゴロウ様」で届いたそうだが、岡田さんの場合も「北海道新冠町ビッグレッドファーム」で十分届くだろう。おばさん局員は、速達なのに番地がなく、万が一到着が遅れた場合のことを慮ったようだった。
しかしそれは日高の牧場の現状を知らないからだ。日高は牧場の名前さえあれば着く。その代わり、荒木牧場と荒木ファーム、アラキファームは別物だから牧場名は正確に書かねばならない。私は桜花賞馬アラホウトクの取材でアラキファームに行ったとき、牧場主も荒木さんだし、気楽に「荒木ファーム」とメモしつつ取材していたら、荒木さんにノートを覗かれ、「うちはカタカナのアラキね」と注意されてしまった。



おばさん局員が言うには、番地がないと届けられない局員がいるかも知れず、速達としての意味がなくなる、ということのようだった。
ビッグレッドファーム明和は、ハイセイコーの明和牧場を買い取ったものだ。引退したばかりのハイセイコーが種牡馬として繋養されていた時は、観光バスが鈴生りとなった牧場である。ハイセイコーを見るための展望台まで設置された。そしていま岡田さんが率いるあのマイネルマイネの総本山である。日高地方の郵便局員でビッグレッドファーム明和を知らないひとはいまい。ちいさな家やアパートが犇めいている都会なら正確な番地、部屋番号まで必須である。書くのが礼儀だ。常識だ。だが日高の牧場地帯なのだ。1ヵ所1ヵ所がでっかい。1ヵ所何十ヘクタールである。ビッグレッドファーム明和は100ヘクタール以上か。1時間歩いてもまだ牧場内だったりする。そんなところに何丁目何番地は必要ない。



しかしまあこれはこれで私の側の理由。おばさん局員としては、明日着く予定の速達が数日遅れになったりして、「速達なのにどういうことだ」とネジこまれることを怖れたのだろう。現にそういうひとはいるようだし。だから郵便局員の応対としては正しいのかも知れない。が……。



じつはこのおばさんとは前々から確執がある。このひとは郵便物に対して異常に厳しい。支那にEMSで荷物を送るときも、「中国は放射能関連で日本の食物の郵送を禁じています。食物は入っていないですね」のように異常にしつこく聞いてくる。私はそのたびに「禁止されている食物はこれとこれとこれであり、私の入れたのは、それとは関係のないこれとこれだから問題はない」のような説明をしてやらねばならない。

仕事に誠実で厳しいようでいて、雑でもある。
いま航空便でリチウム電池のある製品は送れない。船便なら送れる。私はリチウム電池を内蔵しているNINTENDO DSを送ろうとした。船便で送れることはインターネットで調べて確認してあったが、念を入れて郵便の本部に電話して二重の確認をした。応対してくれた女性職員に「リチウム電池内臓のNINTENDO DSだが、船便なら大丈夫ですね」と商品名まで口にして確認している。そのうえでの船便郵送である。送り状の中身欄にも、「リチウム電池あり」と書いた。もちろん英語でだ。

なのにこのおばさん、「船便でもリチウム電池は送れない」と言いだした。さすがにこのときは私も、インターネットでも日本郵政グループの本部にも電話して確認した、絶対に間違いないと、すこし気色ばんで伝えた。するとおばさん、黙った。黙らないならまだわかる。「あたしは郵便局員何十年のベテランだ、まちがいない、あたしが法律だ!」とでも見得を切って決まり事を確認するなら、それはそれでいい。規約書を出してくれば私が正しいのは証明されるが、そこまで戦うならこちらも認めてやる。でも私が「確認した、まちがいない」と言ったら、急に今度は黙ってしまったのである。うろ覚えの雰囲気だけでしゃべっているのだから、有能な局員というわけでもないようだ。



そういうこともあったから、今日も番地のない封筒を速達でお願いしますと言ってきたのでケチをつけてきたのだろう。要するにイチャンモンおばさんなのだ。こんなのが高い給料をもらってやっているのだからいい商売である。仕事に熱心、だけでは割りきれないものを感じる。

このおばさんのいない郵便局は倍の距離になる。こんな不平不満を言うことのないように、次回からはそっちに行こう。

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<きっこ>という女のふりをしている男性が「今までの郵便局で不満を感じたことがない→民営化に意味はない。だから民営化反対」というようなことを書いていた。ほとんど利用しないひとの意見だ。私のように頻繁に利用するものは不満だらけである。民営化されて確実にサービスは向上した。国営時代の田舎の特定郵便局なんてとんでもなかった。行くたびにストレスがたまった。

その残滓は今もある。私がこのおばさん局員に感じたのはそれになる。郵便局員は郵便を扱う商人だ。一通でも多く郵便を利用して貰い、そのことによってよりよい給料を貰えるようにと意識し努力せねばならない。それが仕事である。あちらは商人、こちらは客である。商人の基本は、キュウリを買おうとしている客がいたら、そのキュウリはおいしいですよと勧め、でもキュウリにも飽きたしと客が言ったら、じゃあナスはどうですかと勧める、その姿勢である。商売熱心の心意気は客にも伝わる。

しかしこのおばさん局員から伝わってくるものは、国営時代と同じくお高くとまった「拒否の姿勢」だった。私の速達350円を受けとろうが拒もうが自分の実績とはならない。給料にも関係ない。ならトラブルの種になりそうなものは拒もうという姿勢だった。役人根性である。そこに「もしかしたら番地がないと速達なのに遅れてしまうかも知れません。それじゃ困りますよね。どうしましょう。普通便になさいますか、それとも番地をお調べになりますか」というこちらへの気配りは微塵もなかった。

前記の「支那へのEMSでの食物」の件も、「あんたがもしも放射能の含まれている食物を中国に送ったら、係のあたしが見逃したと局員のあたしのマイナス点になるんだ。そんな食物は入ってないだろうな!」という自己保身ばかりが感じられるのである。

けっきょく私の言いたかったのは、速達を拒まれたという事実よりも、そのおばさん局員から感じた高飛車な態度への不快だったようである。とここまで書いてきてやっとわかった。



しかしまあこんなくだらないことを書いていたら、「ツイッターやブログの9割9分は卑小な自己アピール」に反論できなくなるな。

ある護憲作家の自伝を読んで──日本人の堕落は平和憲法を愛さなくなったから???

○ある護憲作家の自伝を読んで

 昨年、仕事の下調べである護憲作家の自伝を読んだ。その感想である。
 私は彼が護憲派だと知らなかった。それはよかったと思っている。知っていたら政治思想のちがうそれに身がまえていたろうし、仕事に必要とはいえ、大部のそれを熱心に読む気にはならなかったろう。背景をなにも知らなかったから素直に読め、素直に読んだからこそ、途中から「あれれ?」と思ったことを、素直にここに記せる。


 反骨の硬骨漢である彼は、現代の日本の風潮を、かつては気骨と気品のあった日本人の堕落として厳しく批判していた。男子が親からもらった黒髪を金髪に染め耳ピアスをするような風潮や、援助交際という名の十代の娘の売春行為、食べ放題の店で高そうな食材だけを意地汚く喰いまくる主婦の生態、それらを嘆き、怒っていた。自身の生活に関しては、家を持たない、クルマを持たない、携帯電話もパソコンも使わないことを信条としていた。蛇足ながら、家やクルマを持たないというのは、持てる程度の収入はあるが、そういう物品を保有することによる安定を望まない生きかたをしてきたという主張である。
 
 本題に進む前に細かいことに難癖をつけるようで気が引けるが、この携帯電話やパソコンを使わないことが彼の硬骨漢としての人生に意義があったかどうかは疑問だ。なぜなら彼はファクスは愛用していたからだ。これで、生涯手書き原稿でファクスすら拒んだ、となるとさらにその獸垢夕埒誉賢瓩飽賁榁屬のだが、使いこなせたファクスは重用したらしいから、となると、ケータイやパソコンの否定は、単に最新機器に乗り遅れただけとも言える。実際病床に伏した晩年は携帯電話を欲しがったという話も伝わっている。
 それはともかく。


 新聞社の社会部記者として率先して社会悪に挑み、真っ向から闘い、危険な体験取材を試み、結果そこからの感染により、満身創痍となって散ったこの作家の波瀾の人生は尊敬に値する。前記したような現代の風潮への批判もすべて同意できる。肯きつつ読み進んでいたのだが、自伝も後半に進み、病床から総論を述べる箇所に到って首を傾げることになった。

 彼は前記したように堕落した現在の日本を嘆く。基本としてあるのは「むかしはよかった=むかしはまともだった」だ。そこまでは私も一緒である。

 しかし彼の考えるその原因を読んで愕然とした。それにはとても同意できなかった。彼は「以前の日本は、日本人は、まともだった」とし、「なにゆえこんなに堕落してしまったのか」と嘆き、その堕落の理由を「平和憲法を愛さなくなったから」としていたのである。
 これはいくらなんでも無理がある。


 彼のリクツによると、「1960年(昭和35年)の安保闘争までの日本はまともだった」となるらしい。アメリカとの安全保障条約を廃棄しようという闘争は、現行の憲法(=彼の言う平和憲法)を護る闘いであり、平和憲法を愛していた時代の日本人は、礼節からしてまともだったという主張になる。
 それが60年安保闘争で敗れ(=条約更新)、70年の闘争でも敗れ、そのことによって日本人が平和憲法を愛さなくなり、日本人の大多数が改憲派になってしまったので、日本という国は、日本人は、前記したような茶髪から売春、飽食まで、ひたすら堕落するようになった、というのが彼の意見の骨子である。


 これはちがうだろう。まず、あの戦勝国が敗戦国に押しつけた「二度とあなたには逆らいません。二度とケンカしません。ケンカしないように手足を縛って動けないようにします」という醜悪な憲法もどきを「平和憲法」と呼ぶのには抵抗があるが、とりあえず進行上そう呼ぶことにして話を進める。

 日本が第二次世界大戦以後60有余年、一度も戦争をしていない稀有な国であることに、その平和憲法(割り切ったつもりでもこんな言いかたはしたくないなあ。抵抗がある)が寄与しているのは確かだ。だって憲法で「絶対ケンカしません」と謳っているのだから出来るはずがない。
 
 しかしそれ以上に、現実として、他国に侵掠されず戦争をすることなく今まで来られたのは、安保でアメリカに護られてきた(アメリカが護るだけの地理的価値があった)からであり、実質的軍隊の自衛隊が存在したからである。相反する安保と平和憲法の二本立てで戦争と無縁でいられたのだ。

 比重はもちろん安保である。いくら「わたし達は平和を望みます。戦争はしません」と言ったって攻めてくる国は攻めてくる。それは敗戦後のソ連進攻が証明している。「平和憲法があったから日本は戦争をせずにすんだ」はただの御題目に過ぎない。「わたし達は憲法で戦争を放棄しています。わたし達は戦争はしません」というキレイゴトを、日米安保という自衛隊という現実的な軍事力が支えていたのだ。(続く)

メール話──gooフリーメールの終り──プロバイダメアドの復活

 gooのフリーメールが来年の3月でなくなるという。
 サイトもこのブログも連絡先としてgooを利用させてもらってきた。どれぐらいお世話になったろう。10年以上か、いやそこまではゆかないのか。このブログはいま8年目、最初からそうしたように思う。8年はたしかだ。

 サイトのほうは、最初は正規のメールアドレス、って言いかたもへんだが、契約プロバイダのものを使用していた。ところがYahooみたいな最悪のところもあったし、niftyのように何の不満もなく大好きだったけどホームページ容量が足りなくなって契約解除する(まさかホームページの容量が100MBを越えるなんて想像も出来なかった)ところもあり、そのたびに連絡アドレスが変るのも迷惑を掛けるので、gooのフリーメールを利用させてもらうことにしたのだった。こちらはもう13年を越えたから、やはり使い始めて10年は経っているだろうか。



 ホームページやブログの連絡先にフリーメールを使うのは、友人との大切な連絡にはプロバイダのものを使い、何が来るかわからないその種のものには用心して捨てアド的なものを用意しておくというのが普通らしいが、私のgooはちがう。メアドが頻繁に変っては常連に迷惑を掛けるだろうと安定して使えるものとして選んだ。だから私にとってgooのフリーメール使用は用心ではなくむしろ誠意になる。



 フリーメールをいろいろやってみてgooに落ちつき、いっさいの不満もなく、それどころか心から感謝しつつこんなに長いあいだ利用させてもらったのだから、gooのフリーメールはそれだけ優れていて、私との相性もよかったのだろう。「goo mail checker」は便利だった。常駐してgooメールの到着を知らせてくれるユーティリティだ。これはメールソフトを使わないブラウザ上のフリーメールソフトとしては秀逸だった。
 嫌いなフリーメールにYahooがある。あそこから来たメールには返事を書く気が失せる。ま、Yahoo好きとはつき合いたくない。



 ここ数年、私のメールの中心はGmailになった。こうなったきっかけは、恥ずかしいのでちいさな声で言うが、ホリエモンだった。彼が「これからのメールは世界中どこでも受信できて便利なGmailになる。Gmailがあれば他はいらない」と書いていたのである。私がGmailを導入したのは彼のこのことばがきっかけだった。
「世界中どこでも受信できて便利」の先駈けにMSのhotmailがある。15年ぐらい前はよく利用していた。最初はなんて便利なのだろうと感激したが、それはそういうものが初めてだったからであり、メールに慣れてくるとhotmailってのは使いづらかった。プロバイダからもらうメアドのほうがずっと使いやすかった。それに、なんというか、「ただで使わせてやってんだから文句言うなよ」のような気配も感じて、どうにも好きになれなかった。褒める気にならない。いまもあるらしいが。どうにもMSのあの種のものは嫌いだ。一切使わない。



 ホリエモンのことばに触発されて使ってみるとGmailはすばらしかった。世界中どこでも受信できたし、なにより使い勝手がよかった。hotmailの使いにくさと比すと隔世の感がした。もともと私はGoogleが好きだったし、すぐにはまった。

 ということで、それまでメールソフトとしてMozilla Thunderbirdを使い、プロバイダからもらうメアドと、gooを始めとするフリーメール(infoseekも使っていた)を管理していた私は、ブラウザのホームページをiGoogleに設定し、そこから行くGmailを中心とするようになった。それは今に続く。

 メールソフトもあれこれ使った。サンダーバードに落ちつくまでに有料ソフト、シェアソフト、無料ソフト、どれほど使ったことか。『WZエディター』の「WZメール」が好きだった。Just Systemの「Shuriken」も愛用した。あのころは電子メール花盛りだったから、これでもかというぐらい花形ソフトとしてメールソフトが濫出した。やがていちいちそんなものは使わず、すべてブラウザ上で処理してしまうGmailのような形が主流になる。これまた時代を感じる。



 gooのフリーメールが来年3月で終ると知り、サイトやブログの連絡先がそれになっているから、早めに対応しようと思った。それの代替メアドは、ひさしぶりに「正規のメアド」を使うことにした。2年ほど前からGMOというプロバイダを使っている。とてもいい会社で不満がない。長いおつき合いになりそうだ。
 そのGMOが利用者にくれるメルアドを私は使っていなかった。GMOと契約したときにはもうGmail愛用になっていたので必要がなかったのだ。もったいないことである。むかしなら考えられないことだ。しかしここから考えるに、極端な話、公共Wifiを利用して、Gmailのようなものを使えばプロバイダ契約をしなくてもやっていける時代なのか!? なんともすごい。私はまだ無料Wifiサービスって空港でしか利用したことがないのだが、今じゃファーストフードやら地下鉄やらそこいら中にあるらしい。この辺に関する出遅れにちょっと焦る。芸能スポーツ分野で今浦島になっても平気だが(というかもうとっくになっているが)PC関係だけは最前線にいたい気持ちがある。

 数年ぶりにサンダーバードをDownloadして、GMOのメアド設定をやってみた。すると、初めての頃は苦労したが、やがて日々いじるものだから目を瞑っても出来るようになっていたPOPやSMTPの設定等が、数年間触らなかったものだから、また出来なくなっていた。ほんとにこの種のモノってのは忘れるのが早い。やらなくなったらすぐ忘れる。しかしまたやっていると次々に思い出しても来る。なんとかクリア。



 そんなわけで、すこし早めに連絡メアドを更新した。以前のgooも来年3月までは使える。gooにある多くのメールをGmailやサンダーバードに移動することは出来るのだろうか。その辺、無智だ。すこし心配。今回早めにメアドを替えたのは、来年3月にドタバタするのを避ける意味もある。

 ブラウザのホームページに設定して愛用してきたiGoogleも11月で消えるという。「もう当初の意義を達成し、存在価値をなくした」というのがなくなる理由らしいのだが、これがないといられないというぐらい愛用している身には、ずいぶんとつらい話である。なにか代わりのものを見つけないと。goo以上にこちらのほうが切実だ。

イギリス人女性殺人の市原が映画化──在日朝鮮人犯罪、通名報道の現実

世間を震撼させたイギリス人女性英会話講師殺害事件の犯人・市橋達也自身の手記を基に映画化した『I AM ICHIHASHI 逮捕されるまで』(11月9日公開)のポスタービジュアルが公開され、監督・主演を務めるディーン・フジオカが市橋にふんした姿が初めて明らかになった。

多くの人の目に焼きついているであろう、フードをかぶりながらも素顔をのぞかせた送検時の市橋の姿。公開されたポスターには同時に「僕は、『市橋達也です』と答え、逮捕された?。」というキャッチーコピーと、恐怖を覚える彼の鋭い眼差しが……。

イギリス人女性を殺害後、名前と顔を変え、2年7か月にも及ぶ逃走を繰り広げた残酷な同事件をモチーフにした本作は、空白の逃亡期間の真実が明らかになる実録ドラマ。市橋の逃亡劇を描いたフィクション・ドキュメンタリーに仕上がっている。

台湾を拠点に活躍する日本人俳優のディーン・フジオカを、日本デビュー作にして初監督に抜てきしたのは、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画『おくりびと』や、『闇の子供たち』を手掛けた辣腕(らつわん)・中沢敏明プロデューサー。

フジオカは、「オファーを受けこの事件を知った当初にふと考えた“What if…”それは『どこかで壁から逃げていたら、もしかしたら自分も市橋のようになっていたのかも知れない』という仮説。誰でも犯しかねない過ちを決して犯さない為にも、その恐さを描きたかった」と振り返っている。
 http://news.nicovideo.jp/watch/nw770478

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 こんなものを映画にすることに何の意味があるのだろう。「エレファントマン」の頭巾を取りたがるのと同じ感覚か。気味の悪い話だ。いつもだと画像を貼ったりするのだが、そこまでする気力もわかない。

 主演監督を務めるフジオカというのが言ったという「 もしかしたら自分も市橋のようになっていたのかも知れない、誰でも犯しかねない過ち」って、そうか? よくある言いかただ。「これは自分には関係ない事件ではなく、もしかしたらわたしも、あなたも、そうなっていたかも知れないんです」なんてアピール。そうかね。私は「オレも、一歩間違えたら市橋のようになっていたかも。これは誰でも犯しかねない罪」とは思わない。自分の人生で、ああいう形で外国人女性を殺すことなど想像も出来ないし、万が一そんなことになってしまったら、刑に服すか自殺して責任を取る。

 殺人の罪を犯しながら整形して逃げまわった息子を、テレビに顔出しまでして庇い、なんだろうこのひとは、と思った外科医の父親は在日朝鮮人である。イギリスの新聞では市橋はKoreanと書かれた。これは当時の英字新聞で読んだ。いまはネット上からはすべて削除されているのだとか。というのは今検索して知った話。探せばあると思うが。あのときコピーして載せておけばよかった。

 知りあいの外国人が「あれってJapaneseじゃなくてKoreanだろ。みんな知ってるよ」と言っていたので救われる。と、思わず「救われる」と書いてしまったが、狭量だと批判されるのを承知で、この種の事件の犯人が日本人でないとわかったとき、そう思うのは事実なので正直に書いておく。

 市橋が殺したイギリス人女性は、リンゼイ・アン・ホーカーさん。同じくイギリス人女性ルーシー・ブラックマンさんを殺した通名「織原城二」も在日朝鮮人である。しかし市原も織原もそうであることはマスコミでは一切伏せられ、こういう「通名」しか報道されていない。それが日本のマスコミの現状であり事実である。

 この例からも麻木久仁子の意見が的外れ、というか事実の正反対の主張であることが判る。しかし、なにをどうすればこんな事実と正反対の意見を堂々と主張できるのか。その精神構造が怖い。

kanren6
「大阪生野通り魔事件──在日朝鮮人の通名と本名報道──麻木久仁子ツイート」

  

パソコン話──インターネットのない環境下での自作;;,いつかのトラブル

 インターネットのない環境で自作体験をした。そこで感じたことを記しておきたい。

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×──パーツが高い

 パーツはあちらで揃えた。物価が安いのだからPCパーツも日本より安いと読んだ。電圧がちがうのだから電源はあちらで買うしかない。それは正解だったが、すべてのパーツが日本より高く、CPUやメモリ、ビデオカード、HDD等は日本で揃えて行けばよかったと悔いた。電源以外は共通なのだから。
 現地での購入は電源とケースだけにして、その他のパーツは日本から持参すればよかった。これが最大の悔いになる。

 core i7の予定をcore i5に落とした。core i5でも日本で買うcore i7よりも高かった。
 何が起きるか判らない地だ。頼りになるのは現金だけである。予算オーバーしてまで自作パソコンに金を注ぎこむわけにも行かない。我慢した。
 グラフィックもCPUグラフィックにした。これも予算と言うより、日本よりもだいぶ古いビデオカードが主流で、それが日本で買う最新版より高いのである。PC好きとしてこれは妥協できない。この次ぎ来るとき日本から最新版を持ってきて取りつけようと今回は涙を呑んだ。
 メモリはあちらではまだ1〜2GBが主流だが4GB*2の8GBにした。これでもいま24GBの私には物足りないが、64OSはメモリ4GBを越せば、だいぶ安定する。私はノートも8GBにしている。ここは譲れない線だった。メモリも価格comで買っている値段よりもずっと高かった。

 OSは日本版のWindows7と8を持参した。日本のいまの環境と同じくこれのデュアルブートにする予定だ。もしもを考慮してXPと2000も用意した。インターネットのない環境だと原始的?なもののほうが強いかも知れない。念には念を入れた。


××──SSDが反応しない

 予定では、日本から持参した120GBのSSDに7を挿れ、これをメインOS、あちらで購入した500GBのHDDにOS用とData用のパーティションを切り、そこに8を挿れてサブOSとするつもりだった。「パーティションを切るソフト」を用意してあるのは言うまでもない。
 
 HDDが500GBというのも予算の都合である。あちらではまだこれが主流でteraになると一気に値段が高くなる。これも我慢するしかなかった。ただしこれはたいした問題ではない。私は外附けの東芝製2.5インチ1teraHDDに必要となるソフト、ユーティリティ、動画、音楽、マンガ等を詰めこんで持参した。120GBのSSDに入れたOSと、Data系は外附け1teraが中心になるはずで、このSeagateの500GBHDDにはあまり期待していなかった。
 
 しかし、相性の問題なのか持参したSSDが反応しなかった。最初の挫折である。core i7を5に落とさざるを得なかったことで落胆していたが、その分をSSDの速さで賄おうと思っていただけにこの失望感は大きかった。よって構成は、500GBのHDDに三つのパーティションを切り、OSをふたつ、Data領域をひとつ、ということになった。(続く)

タバコ話──喫煙と食マンガ──『美味しんぼ』『将太の寿司』&『味いちもんめ』『深夜食堂』『孤独のグルメ』

 タバコを喫おうが喫うまいが個々人のかってだが、こちらに食を提供するひとにだけは喫って欲しくない。というか、それはもう基本と思うのだが、世の中必ずしもそうではないようだ。
 タバコを喫うと舌の味蕾がぼろぼろになる。そりゃニコチンタールという毒物をひっきりなしに舌に塗っていたら荒れて当然だ。いかなタバコ擁護の愛煙家でも、あの「非喫煙者の味蕾、喫煙者の味蕾」という写真を見たら、味について大きな事は言えなくなるだろう。味を判別する味蕾がみな潰れている。味蕾があの様になっているひとが味について語っても意味はない。それは××が××を語るようなものだ。しかし今の世の中、とんでもない××が有名人になって言いたい放題しているようだから、それも成りたつのかも知れない。
 


shinya
 先日、インターネットでテレビドラマ「深夜食堂」を見た。好評らしいので、どんなもんかと覗いてみた。マンガは以前から読んでいる。テレビドラマ化されてマンガの売りあげも伸びたらしい。テレビの影響力はまだまだ大きい。東野圭吾の傑作「白夜行」が、小説ではなくテレビドラマとして認知されているのは悔しい。でも力関係はそんなものなのだろう。

 ほんのすこしだけだが、初めて見ての感想は「『深夜食堂』の舞台ってこんなに暗かったのか?」だった。マンガのほうは白い空間を活かした線の細いアッサリ味である。いわば「薄い塩味、透明スープ」。対してテレビドラマは暗い店内に店主の衣裳も暗く、「濃い醤油味、まっ黒け」のようになっていた。まあそれはそれで演出なのだろうが、マンガから想像していた『深夜食堂』とはずいぶんと異なっていた。逆にまた「白夜行」なんかもそうであったように、テレビで知ったひとが原作を読んだら、その相違に戸惑うだろう。



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 私の読んだ食マンガで、食の職人はタバコ厳禁としているのが『美味しんぼ』と『将太の寿司』、料理人が喫煙するのが『味いちもんめ』と『深夜食堂』、料理人ではないが主人公が喫煙者なのが『孤独のグルメ』になる。

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『美味しんぼ』と『将太の寿司』では、職人が内証で喫煙し、料理にヤニの臭いがうつってしまい、海原雄山や親方から厳しく叱責される回がある。煙草呑みは味覚と同じく嗅覚も死んでいるから自分では気づかないが、手にヤニのついた人間の作った料理は一発で判る。臭くて気持ち悪くて喰えたものではない。料理人として失格だろう。

 私が今まででいちばん惘れたのは、池尻大橋にあった寿司屋だった。カウンターの中で店主が銜え煙草で寿司を握っていた。すぐに出た。



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『味いちもんめ』はスマップの中居が主演してテレビドラマとしてもヒットしたらしい。見ていないし興味もないが、ただあの主人公の容姿は中居に似ているので、スポーツ紙で記事を読んだとき、いいキャスティングだとは思った。
 あのマンガは食マンガでありながら原作者が喫煙者だからか登場人物も喫煙する。休憩時間に花板の親方からしてあぐらを搔いてタバコを喫うコマがあり、以降は読まなくなった。どうにも我慢ならなかった。

 『深夜食堂』や『孤独のグルメ』の喫煙に文句を言う気はないので、五つのマンガで絶対的に否定するとしたら、この『味いちもんめ』になる。



shinya 『深夜食堂』も料理を作る店主は喫煙者だが、これはマンガのテーマが食と言うよりも店に出入りする客の人間模様だから、さほど気にならない。喫煙者の溜まり場のほうが自然だ。そういうものがあっても、いい。こういう物語の設定で店内が禁煙だったらかえっておかしい。そのことで料理人の店主の喫煙を許容するわけではないが、味なんてどうでもいい客のあつまりなのだ。そんなことにこだわったらこのマンガは楽しめない。



 同じくインターネットで見た「たかじん」で知ったのだが、アニメ映画「風立ちぬ」に喫煙シーンが多すぎる、こどもに悪影響を与えるとケチをつけた団体があったとか。こうなるともう気狂いの世界である。時代も状況も考慮していない。
 そのケチには「もらい煙草」に対するものもあったそうだ。あれは喫煙率の高かった当時の風習である。喫煙率の高い支那にいると、ちょっとした知りあいにしょっちゅう煙草を勧められる。そこいら中ケムくていやになるが、「一本どうですか」と勧められると、むかしの日本もそうだったなあと思い出す。当時を描いた作品に今の視点でケチをつけるのは意味がない。今の感覚で戦前を裁こうとするように。

 こういうヒステリックな抗議も、テレビだったらまだわかる。よく言われるようにテレビは「誰でも見られるメディア」だからだ。ポルノ解禁している国でもテレビはおとなしい。エロシーンも暴力シーンも制限されている。いちばんいいかげんなのが日本だ。その分、あちらでは有料であり限られた人々の見る映画での表現は自由になる。

 「風立ちぬ」の喫煙シーンにケチをつけた団体があると知ったとき、こんなもの誰だって気違い染みたヒステリックないちゃもんだ否定するはずだから、もしかしたらこの団体って、ウヨクのイメージダウンのために朝鮮人サヨクがニセウヨクになって暴れるように、ニコチンタール中毒者が嫌煙の流れに水を差そうと作った擬似の嫌煙団体ではないかと疑った(笑)。



 マンガ『深夜食堂』の店主が喫煙者であることは気にならなかったのだが……。
 ネットで見たテレビ映像に「タバコ喫っていいんでしょ」と問う老女の客に、店主の小林薫が灰皿を出しながら、「このごろタバコも喫いづらくなって」と応え、大箱のマッチをシュッと擦って自分もタバコに火を点けるシーンがあった。これもマンガでは読んでいる。この老女、じつは伝説のストリッパー、というオチになっている。
 そのシーンを見てイヤになってしまった。据え置き型の大きなマッチ箱からシュッと音を立ててマッチ棒を一本摺り、煙草に火を点けるシーンは小林の軽い見せ場なのかも知れない。テレビ画面からマッチの臭いがしてきた。やはり映像という動画は画像のマンガよりも強烈だ。ハッキリとマッチの硫黄の臭いが伝わってきた。

 これをふつうのドラマで見ても反感は抱かない。このシーンも、その前との繋がりがなければ平気だった。ところがその前のオープニングに、店主が料理を仕込んでいる映像があった。蒟蒻を指でちぎって鍋に入れている。煮ものを作っていた。あのヤニ臭い指でちぎるのかと、マッチの臭いまで重なってきて、それ以上見られなかった。あの煮ものはヤニ臭くて喰えたものではないだろう。10分ほどで視聴を辞めた。

 ここで「蒟蒻を千切る前に手を洗うよ」という喫煙者からの反論があるかも知れない。そりゃ当たり前だけど、そういうもんじゃないのだ。ヤニの臭味は躰に染み込んでいる。ヤニ中毒のあなたにはわからないだろうけど。ドラマとして、こちらにそう思わせてしまってはダメだ。自分のために料理するひとはいい。料理がヤニ臭くてまずかろうと本人は気づかないのだからしあわせだ。だが客に提供するひとは、手で触れた料理を出すような立場のひとは、喫煙してはならない。

 店主がマッチを擦ってタバコを喫うシーンと、指で蒟蒻をちぎって煮ものを作るシーンを、一緒に流すのだから、この番組の演出者は無神経である。たぶん喫煙者だろう。



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 同じくテレビドラマ化されて古いマンガ本が急に売れ始めた作品に『孤独のグルメ』がある。今、モデルとなった食堂には客が押し掛けているのだとか。なんだかね。時代は変るようで変らない。昭和30年代もインターネットの平成もおんなじだ。
 こちらは主人公が町で出会った定食屋の一品(のような食)について語ったりするマンガであり、主人公がうまそうに食後の一服をすることに文句はない。 私のこだわりは「作るひと」である。



 新宿ゴールデン街を舞台にしている『深夜食堂』のような店に私が行くことはないし、舞台設定から禁煙の店だったらかえって不自然だし、その他の作品についても、マンガやドラマという作り物にケチをつける気持ちはないのだが、タバコを喫うひとの作る料理は食いたくないという気持ちに変りはない。まして生物だったら絶対だ。指先のヤニの臭いは当人が思っているよりもキツい。躰の中に染み込んでいるタバコの臭いは決して取れるものではない。
 
 私は電車で隣にすわったひとが喫煙者であることが一瞬でわかる。あまりに臭い。生命力の強い若者だと、生命力がニコチンタールに勝っているのだろう、かすかに臭いだけだが(でもわかる。オーデコロンをつけている女でもわかる)、体力の衰える中年以降のニコチンタール中毒者は、吐き気をもよおすほどの悪臭を全身の毛穴から発散しており、それは腐った内臓からの死臭に思え、我慢出来ず席を立つこともしばしばだ。それがけっこう長距離の電車で、苦労して取った席だったりするとすこし悔しい。それでも立たずにいられないほど臭い。

 生の食材を扱う仕事をしていながらタバコを喫うひとは非常識である。それは嫌煙がどうの愛煙の権利がどうのなんてのとは別次元の話だ。 

ツイッターやブログの動機は9割9分卑小な自己アピール???──反論したいが、やはりそうなのか……

ブログ再開してみて改めて思うのは、ブログにしてもツイッターにしても、「こんなこと思ったオレかっこいいでしょ」「こんなこと考えてるオレってすごいでしょ」「こんなことに気付いたオレさすがでしょ」と卑小な自己アピールをすることが、動機の9割9分まで占めているということ。違うって否定できる人どれだけいるのか。

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 これは競馬予想家水上学さんのブログにあったコトバ。9月10日の項目にある。自分の知らないこの二ヵ月の競馬の様子を教えてもらおうと読みに行き、目にした。私が教えてもらおうと思ったこの二ヵ月の競馬だが、水上さんは体調不良でほとんどブログを書いていなかったらしく、再開に当たってのことばだった。

 このあと《だがそれは一概に悪いことでもないと思う。私の場合は完全にストレス解消になるし。吉田兼好の昔から、言いたいことを言わないのは「腹ふくるるわざ」なのだ》と続いていて、「一概に悪いことではない」「自分もそうだ」としているが、それは主旨である冒頭の解釈の肯定である。ツイッターやブログをやっているひとの動機の9割9分がどうしようもない卑小な自己アピールなのだが、自分もそのひとりだし、それでいいのだ、という論旨であり、これは「おまえらみんなクソだよ」と言った後、「クソでもいいじゃん」「おれもクソだし」と言っているわけで、「おまえらみんなクソだよ」が否定されたわけではない。むしろ強調になっている。



 だけど、う〜ん、そうかなあ。
 私はもう十数年サイトと、8年ほどブログをやっているが、《「こんなこと思ったオレかっこいいでしょ」「こんなこと考えてるオレってすごいでしょ」「こんなことに気付いたオレさすがでしょ」と卑小な自己アピール》のためにやっているのだろうか。9割9分までがそうだと水上さんは言うから、残り1分だと主張するのには勇気が要る。

 私の場合、最も大きな要素は「オレはこのときこんなことを思っていたという記録」の意識である。
 しかしそれは「だったら日記に書いておけばいい」と言われるだろう。その通りだ。もう20年ほど、日々の記録をPC日記に残している。それで完結すべきであり、それを世に問うのは「卑小な自己アピール」である。

 元々私のホームページとは、私の日記を30人ほどの友人に公開し、それに関して掲示板に意見をもらったりする形で始まった。いわばコミューンである。ログインのパスワードを設定し、見知らぬひとに読まれないように気を遣った。「ひとりでも多くのひとに自分の意見を読んでもらいたい」という意識で始めたものではない。
 そのホームページだけだったら「私は残りの1分である」と反論できるのだが、今はこのブログがある。友人30人を対象に始めたホームページは今もそのままであり、本店だが、支店であるこのブログには毎日千人ぐらいのひとが来てくれるようになった。私はその見知らぬ970人のひとが、どの文章を気に入ってくれるかを毎日楽しみにしている。当初のホームページの意図はともかく、今の私は見知らぬひとたちに対して「卑小な自己アピール」をしているのだ。否定できない。 

 でも
「こんなこと思ったオレかっこいいでしょ」
「こんなこと考えてるオレってすごいでしょ」
「こんなことに気付いたオレさすがでしょ」

 と思って書いたことはない。それは言いきれる。自分のことだから。だったら残り1分だと言っていいのか。

「オレはこんなことを思った」
「オレはこんなことを考えている」
 とは思って書いている。記録のつもりで。でもそれを「かっこいいでしょ」「すごいでしょ」「さすがでしょ」と思いつつ書いたことはない。でも公開メディアに書くこと自体がもう「卑小な自己アピール」なのだと言われたら返す言葉はない。

 私にもたまに「あれとあれがこうだってことは、もしかしてそれはこういうことなのか!?」と「気づく」ときがある。これはまだ誰も口にしていないからブログに書きたいと思ったりする。でもすぐに「これを書くと、すごいだろ、さすがだろって自慢してるように思われるな」と思い書かない。書けない。
 水上さんの指摘に合致するひとも、ご本人の水上さんを始めかなりの数いるんだろうけど、9割9分ではないと思うのだが……。



 いや、でも、まてよ、むかしバイクやクルマで北部タイを廻った紀行文をホームページに書いたとき、それが30人の友人相手ではあれ、「オレってこんなことしてるんだぜ!」という卑小な自己アピールはなかったか。いや、あったな。あったあった、確かにあった。一種のヒロイック勘違いがあった。するとやっぱり私は卑小な自己アピールの9割9分のほうか。

 でも今、北部タイなんて問題にならないすさまじいところ(「世界の果てに日本人、なぜこんなところに」に出られる)と関わっているが、そこのことはごく少数の友人しか知らないサイトに書くようにしていて、ひと目には触れないようにしている。ブログには書かない。だから「十数年前にそんなことをやった」「そのときそんな心があった」のは事実だけど、そういう1の卑小な自己アピールで99の慎ましさが否定されるものでもないだろう。いや、1でもあったら99は否定されるのか。う〜む。

 サイト(当時はホームページ)を始めたのは、友人とやりとりする溜まり場が欲しかったのが動機だった。世の中にはひとりでも多くのひとに読んでもらいたいというひと、アクセスランキングで目立ちたく、「応援のクリックを!」なんて、それこそ「卑小な」じゃなくて「公明正大な自己アピール」のひとも多いけど、私はむしろ目立たないように隠れてやっていた。しかし友人30人に対してでも、いや友人30人限定だからこそ、「卑小な自己アピール」と言われれば、それは確かにそうだし……。



 しかしそんな自分分析よりも前に、まずこの水上さんの意見である「ツイッターもブログも9割9分がそうだ」という意見は当を得ているのだろうか。
 たとえばツイッターでは、日常生活、いま身のまわりの不平不満を、垂れながし的に書いているひとが多い。上司の悪口とか、昼飯がまずかったとか、電車が混んでいたとか。それは水上さんの言う「ストレス解消」と「もの言わぬは腹ふくるるわざなり」には該当する。でも「すごいでしょ」「さすがでしょ」「かっこいいでしょ」には当たらない。むしろぶつぶつつぶやく独り言を文字にしないといられなくなっている症候群で、自己アピールというより精神病の類だろう。

 ブログで過激な意見を述べているひとも、同好の士への呼び掛けや敵対するものへの意見であって、「すごいでしょ」「さすがでしょ」「かっこいいでしょ」を感じた事ってあまりない。私は他者のブログを読んだりしないけど、一応長くは関わっていて、そう感じている。それとも私は残り1分の卑小な自己アピールではないブログやツイッターにだけ運よく接しているのだろうか。

 水上さんのブログがご本人が認めているように、本職の競馬、その他、政治から野球まで「卑小な自己アピール」に満ちているのは確かで、水上さんが自分のことについて言っているのは矛盾がない。しかし他者に対しても9割9分と言いきれるものだろうか。いや言いきることは誰でも出来るが、それは正鵠を射ているだろうか。



 反論したい。したいが……。

 たとえば、「インターネットを常時接続して一日中インターネットをやっているようなひとは、9割9分インターネットから足を洗えない」というような意見だったら、私はついこのあいだまで60日間完全に断ったし、その前も40日断っているから、残り1分のほうだと言える。

 たとえば、「一日にタバコ3箱も喫うようなニコチンタール中毒者がいきなり禁煙するのは9割9分不可能だ」なんて意見も、私は、禁断症状にのたうちまわったけど、一気にやりとげているので残り1分と断言できる。

 しかしなあこれは……。私は「卑小な自己アピール」をしたくて始めたのか。悩む。いやそうに決まっているのだ。認めちまえ認めちまえ、そうすれば楽になれる。



 いやいや、水上さんの意見は「最初の動機は9割9分卑小な自己アピール」と言っているのであって、今もずっとそうだとは言っていない。あくまでも「最初の動機」なのだ。とするならやはり9割9分がそうなのか。

 しかしまたコトバ、表現の問題もある。「卑小」とは「卑しくてちいさな取るに足らないこと」だ。9割9分の自己アピールはそういう「卑小」なものなのだろうか。
「東大卒の天才」を堂々とキャッチコピーにしているひとだから、「卑小な自己アピール」というコトバに妙に説得力がある。「オレはちがう」と言いたいけど、やっぱり私もそうなのだろうか。

 むかし自意識過剰の東大卒ライターに見当違いなイチャモンをつけられて往生したことがあった。どうも東大卒のひととは感覚がちがうようだ。これからしばらくブログ文アップのたびに、「こんなこと思ったオレかっこいいでしょ」「こんなこと考えてるオレってすごいでしょ」「こんなことに気付いたオレさすがでしょ」という卑小な自己アピールになっていないか!? と悩みそうである。

 そういう意味では、「アフィリエイト商売のため」と割り切ってブログをやっているひとなんかは悩みがなくていいなあ。目的がはっきりしているから悩みもないしお金も儲かるし万々歳だ。



 こういう詮ない悩みと縁を切るためにはブログをやめて元の地味なサイトだけに絞るのがいちばんとわかっている。そこが原点だ。あそこだけにして、すると読者も元の30人に戻るから、水上さんのような意見にも「オレはちがう」と反論できる。
 でもブログの「人気記事20」みたいな愉しい効能を知ると地味なサイトだけにするのもさびしい気がする。目立ちたくなく、ひっそりとやっているのだから「自己アピール」に関してはすくない。でもまったくそれがないわけでもないのだから、まさに「卑小な自己アピール」とは私のようなもののための形容になる。悩みは続きそうだ。

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近代麻雀「阿佐田哲也」特集号──なぜか「怪しい来客簿」色川武大さんの記事が人気に!?

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 何度も同じ事を書くが、と言いつつこれからもまた何度も何度も書くだろうが、私がブログをやっている楽しみのひとつ、それも大きな楽しみのひとつに、《古い記事が突如「人気記事20」にランクインすること》がある。それはみな、自分は気に入っているが、地味な記事なので、書いた当時べつに好評だったわけでもないものだったりするから、それが何年か過ぎた後、突然読まれるようになったりするのは愕きであり、すなおにうれしい。突如そうなる理由がわからないのがすこし怖くもあるが。

 とはいえそのころは好評だったかどうかなんてわからなかった。ホームページのほうは友人がメールで感想を送ってくれたりするから感覚はつかめたが、ブログにはメールアドレスも掲示してなかったし、そもそも「人気記事20」というパーツがなかった。これを取り入れたのは去年の12月からだが、ずいぶんと楽しみが増えた。とにかくうれしいのは、そういうものはただひとつの例外もなく、私の気に入っているテーマであることだ。

 よいことばかりでもない。不人気の将棋文がひとつランクインしたことがうれしく、将棋ネタに力を入れたら将棋ファンに気に入ってもらえたのか人気記事がほとんどぜんぶ将棋ネタになってしまうという事態が起きた。それはそれで狙ってしたのだからよいとしても、常識のない将棋ファンから無礼なメールが殺到したので、急いで今度は将棋ネタを書かないようにした、なんてこともあった。今も意図的に将棋のことは書かないようにしている。これはそのうち別項でまとめる。ここに将棋ネタを楽しみに来ているかた、そういうことなのです。

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 今回なぜか「怪しい来客簿──色川武大讃歌」という色川武大さん、別名・阿佐田哲也のことを書いた2010年2月の記事がランクインしていた。なぜだろう、わからない。テレビで阿佐田哲也の特集でもあったのか。いやこの文章のタイトルには色川さんの名前しかないからそれは関係ない。「怪しい来客簿」は傑作だけど誰にも好かれる本でもないだろうし、どういうことだろう。色川さんの命日は4月だし、それも関係ない。サブタイトルに「大橋巨泉批判」とあるのだが、彼になにかあったわけでもあるまい。調べてみる。だいじょうぶだ。元気のようだ。

 いま2位だけど、この流れは判る。どなたかが発掘してくれ、なにかがあって20位になったのだ。するとランキングを見て、読んだことのないものだと常連のひとがクリックして読んでくれる。そうなるとあとは面白い内容なら自然に上がって行く。興味のあるのは20位になるまでだ。どなたが何をしたのか。



 理由はわからないけど、なにかのきっかけでこれが発掘され、多くのひとの眼に触れたうれしさに変りはないので、感想を書く。
 この文章には、力を入れて書いた思い出とか、自分の意見を述べた愛着とかは、ない。 あるのはただ「麻雀牌画像を多用した文を初めて書いた──そのたいへんさ、苦労」だけである(笑)。
 いま読み返して、当時の苦労を思い出した。画像はひとつひとつ手作業でアップしなければならない。当時「11PM」で観た麻雀における阿佐田さんと巨泉とのやりとりを再現するために、麻雀の萬子の画像を全部アップし、それを並べて意見を書いた。麻雀ブログでもないのに、我ながらよーやると思いつつ書いた。せっかく時間をかけてアップした萬子なのにこのときしか使っていない。もったいないから今回使うことにした。意味もなく挿れてみる(笑)。

 文末に「近代麻雀が阿佐田哲也特集号を出した。今も持っている。そのうちアップする」と書き、そのままになっている。今回遅ればせながらそれをアップする。


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 昭和52年8月増刊号である。阿佐田さんが亡くなるのは平成元年(昭和64年)の4月だからこの12年後になる。そのとき追悼号が出て、それももっているが、中身はこちらが断然上。牌譜もいい。
 いま検索してみたら、Yahooオークションで1冊出されているようだが、個人のブログで、こんな形の写真の掲載は初のようだ。すこし自慢。

 昭和52年は1977年、あのトウショウボーイとテンポイントの一騎討ち有馬記念の年である。病みあがりのトウショウボーイが逃げきる宝塚記念もすさまじかった。ダービー馬はラッキールーラ。私はカネミノブで勝負した。7番人気のカネミノブは3着。連複しかない時代。3連単があったらカネミノブ軸で取れたな、と今ごろ思ったりする。競馬ファンは年月を競馬で覚えている。この年に産まれた赤ちゃんはもう36になるのか。

 こんな本を未だに持っているひともそうはいないだろう(笑)。ただし私はコレクターではない。逆だ。本の数を誇るのはみっともないと大量の本を捨ててしまい、いまはほんのわずかしか持っていない。恥ずかしいほど。その私が「捨てられなかった大切な一冊」だ。大江健三郎の初版本など全部捨てたが、これは捨てられなかった。捨てようと思ったことすらなかった。宝物である。

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 なぜいま「再読 怪しい来客簿」が人気なのかさっぱりわからないが、まさか悪い意味での注目でもあるまい。よいほうだと解釈してすなおによろこぶことにしよう。

9月17日雑感──颱風一過、一気に秋?──オルフェーヴル、キズナの勝利

颱風が来る時期だからやめたほうがいいのにと言われていた月曜祝日を利用したJRAの三日開催三日目は、颱風来襲で予測通り中止になった。週伸ばしにしている餘裕はないから今日代替開催するらしい。さてセントライト記念、参戦すべきなのか。



15日、フランスではオルフェーヴルとキズナの両馬が勝った。オルフェーヴルは力通りで、鞍上もスミヨンだったので安心して観ていたが(正直な気持ちを書いているだけだが取りようによっては皮肉になってしまうか)、キズナが英ダービー(ダービーは英国のものなので本当はこの牘儉瓩呂弔韻討呂覆蕕覆い海箸砲覆辰討い襦砲鬟魯丙紘蕕したのは見事だった。映像では差されたように見えたが。

なにしろむかしは英国ダービー馬を種牡馬に迎えるなんてのは夢のまた夢で、「英国ダービー出走馬」という惨敗した馬を購入するだけでも自慢だった。それが本場ダービー馬を種牡馬として購入できるようになり、ジャパンカップに英ダービー馬が出走するようになり、とうとうこちらから日本ダービー馬が遠征して行き、同い年のダービー馬を負かす時代になった。感激一入である。(一入=ひとしお)。



異様な残暑で(というか今年の猛暑を知らないのだが)連日扇風機とクーラーをかけっぱなしだった。寝るときも扇風機は廻したままだった。それでも暑くて目覚めたりした。
ところが今朝は肌寒いほど涼しい。扇風機を止めた。いまもティーシャツでは寒い。長袖が欲しいほどだ。室温25度、湿度47パーセント。颱風一過で一気に涼しい秋になるのか。 
とかいって今日も厳しい残暑になったらこんなことを書いてわらいものだけど、いつものよう午前3時起床で窓を開けると、風に秋を感じた。今日から秋になってゆくような気がする。

小物話──電動足湯機──焦って買わなくて正解

footbath 足首、足裏が疲れる。このごろは頻繁に攣る。問題だ。エアによるマッサージャーもいいが、電熱の足湯機を欲しいと思っていた。自己流の足湯は何年か前からやっている。適当な容器にお湯を張り机の下に置いていると、冬場はすぐに冷めてしまう。風呂に20センチほど熱めの湯を入れてやると快適だが、バスタブのへりにすわっての読書では座が定まらない。イスにすわり、デスクトップ機に向かいつつ足もとで使用するには専用機が必要だ。

 支那の老人のあいだでこれがいま大流行している。こどもたちがじいちゃんばあちゃんにプレゼントする品として多くの機種が出ている。値段は日本円で2000円前後。まあ「中国製」だから安かろう悪かろうではあろうが。



 ビックカメラで写真のものを見つけた。値段は7900円。すぐにでも買って、帰宅して、使いたくなった。
 その隣に、同じ会社の製品で下級機種の5300円というのがあった。見た目が安っぽい。機能もそうだが、デザインからも、こちらが欲しい。箱を抱えてそのままレジに直行しようと思った。
 しかしグッと我慢する。価格comで調べてからでもいい。もしかして6000円ぐらいのところがあるかも知れない。
 例によって「中国製」だ。支那の日本円にして2000円ぐらいの品をそのまま輸入して売っているのだろう。いや日本のメーカーのブランドがあるから、それとは一線を画しているのか。

 買いたい、すぐに持って帰って、お湯を入れ、ジェット噴流の中に足を浸したい。想像してうっとりする。2000円ぐらい安く買えるとしてもそれが何だというのだ。それよりも今すぐ使えることを優先したい。迷った。後ろ髪を引かれる思いで帰宅し、すぐに調べた。



 最安値で4970円というのがあった。3000円ちがう。あの下級機種よりも安い。この時点では「焦って買わなくてよかった」と思っただけだったが……。

 Amazonのレビュウを読んでおどろいた。読んでよかった。私はかつてここまで悪評の製品を見たことがない。最低の製品とこきおろしているひとたちのレビュウに共通するのは、「振動で水が溢れる、周囲がびしょびしょになる」「溢れない程度の水量では足が浸らない」「音が大きく、マンションで使うのは不可能」というとんでもない批判だった。
 一方、高評価を与えているひとたちのものは、「母親のプレゼント用に買った。まだ使っていない。きっといい製品だろう」という希望的観測である。「まだ使っていない」ひとがレビュウ書いちゃいけないよなあ。それ、レビュウじゃないし。

「音と震動が大きく、階下のひとから苦情が来る」という意見を読んで、しみじみ買わなくてよかったと思った。買っていたら延々とここに私もまた非難のことばを並べるところだった。



 べつにこの種のレビュウを重用しているわけではない。
 誹謗中傷にちかい悪意の意見もあるだろうし、ヤラセの褒め言葉もあるだろう。判断はこちらに任される。

 つい最近のレビュウに「最高の商品を買いました。ほんとに買ってよかった。次回も××社の製品を買いたいと思います」という満点評価があった。
 対して、前記の「水は溢れるわ、音がうるさくて使えないわ、いやはやひどいのなんのって」という評はずっと前のものである。
 とするとやはりこれは、まともな消費者が腹立って批判したのが正当、最近のいかにもわざとらしい誉め言葉は社員?によるヤラセと取るべきだろう。複数のひとが「音と震動がうるさくて使えない。マンションでは階下のひとに文句を言われる」と書く事態は異常だ。



 安いものだしすぐにでも欲しかったが、「通販ならもっと安いかも」と思ったケチな根性で、ハズレを買わなくて済んだ。私はけっこう買い物上手で、ほとんどのものが「アタリ」なのだが、まずこれはまちがいなくハズレだったように思う。長年の勘がそう囁いている。
 ともあれよかった。即座に購入し、いそいそと帰宅し、わくわくしながらお湯を張ってひどい目に遭ったら、商品に対する不愉快さももちろんだが、軽率な買い物をした自分への嫌悪感を引きずる。
 でもそのうち同様の商品は買う。情報を吟味して、なんとしてもアタリを引かねば。

ことば考──「おあいそ」について──客は使うべきではない

ことば考──「おあいそ」の誤用について──店側が言うことばである。

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「深夜食堂」より。


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「将太の寿司」より。

団鬼六評伝「赦す人」大崎善生著──感想

yurusuhito 元『将棋世界』編集長、現作家の大崎善生さんによる団鬼六評伝である。
 「小説新潮」で2011年4月号から連載が始まった。それはリアルタイムで読んだ。誰よりも団さんが読むのを楽しみにしていたという。第1回目を読んだとき、すでに団さんの具合が悪く、その楽しみを叶えるため、予定をすこし早めて連載を始めたような感を受けた。 
 第1回目、第2回目を読んだ団さんは「やっぱりおもろいなあ、おれの人生は」と笑顔で感想を語ったとか。だが、そのあと亡くなってしまう。 2011年5月6日。

 すばらしい将棋界の狠尭甅瓩世辰拭山口瞳なんてのが旦那の力量もなければ器でもないのに旦那のふりをしたがり、さらにはそれを商売の一ジャンルにもしようとしたのに対し、団さんはSM小説で稼いだ金を、将棋に棋士に湯水のごとく使ってくれた本物の旦那だった。

 楽しみにしていた大崎さんの連載だったが、団さんが亡くなってしまうと気落ちして、その後、読む気が失せてしまった。私は文藝春秋のような綜合誌はあれこれ買うが小説雑誌は買わない。2回読んだのも図書館でだった。それからは図書館に行っても手にすることがなくなった。それほど団さんの死は、病状からも覚悟していたことではあったが、気落ちするものだった。『将棋世界』でも追悼特集をしている。2011年7月号。今後も将棋連盟機関誌にここまで大きな訃報特集をされる作家はもういないだろう。頭抜けた実績である。団鬼六狠尭甅瓩将棋界にしてくださったことを思うと、ただの市井の一将棋ファンなのだが、首を垂れ、「ありがとうございました」と泣くだけである。
 話は飛ぶが、フランスやイタリアの絵画なんてのも、団さんみたいな貴族によって護られ、発展し、いま世界に冠たるものになっている。藝術とはそんなものだ。でも団さんは庶民から酷税で搾取した金を藝術家に払ったヨーロッパの貴族とはちがう。御自分で稼いだ金を棋士に、将棋界のために費やしたのだ。いやこんな言いかたは団さんに失礼だ、団さんには「費やす」なんて感覚はなかった。好きなものを好きなように応援しただけだ。だからこそ団さんは、昭和の、平成の、最後の本物の旦那だった。



 私はSMに興味がないので団さんのそちら方面の作品は読んだことがない。読んでいるのは将棋関係の文だけだ。それでも団さんが断筆宣言をするあたりのエピソードは痛いほどに胸を打つ。団さんのSMの舞台は和服が多いのだとか。サンスポに連載する作品のタイトルを「鴇色の蹴出し」とした。人力車から降りる芸子の裾が乱れ、鴇色の蹴出しがちらりと見えるときの色気という団さんの美学である。だがサンスポの担当者は「これでは読者は何の意味かわからない」と言い、彼の感覚で訳したタイトルが「ピンクの腰巻」だったとか。そりゃ断筆もしたくなる。

 やはり圧巻は「真剣師小池重明」に関する部分。なんともおもしろい。何度も読んでいる本なのに、裏話を聞くとまた読みたくなる。「将棋をこんなにおもしろく語れるのか」と当時感嘆したものだった。小池重明の異常な感覚に魅せられるのだが、それは何度も何度も迷惑を掛けられながらも面倒を見た団さんだから書けることだ。その迷惑を掛けられた相手を赦してしまうことが、タイトル「赦す人」になっている。

 団さんは、アマチュア将棋専門誌「将棋ジャーナル」を引き受け、巨額の赤字を出し、横浜の「鬼六御殿」を手放し、東京の借家に引っ越す。将棋に入れこんだためにすべてを失くしてしまった形だ。だがここからじわじわと「真剣師小池重明」が話題となり、売りあげを伸ばし、団さんに作家としてのあたらしい舞台を提供する。長年将棋のいい旦那だった団さんに、将棋が恩返しをしたのだ。



 先日新橋で編集者のSさんと飲んだ。Sさんは若い頃、数年間だが桃園書房に勤めていた。もしやと思って聞いてみると、横浜の(SM小説の印税で建てた、通称)鬼六御殿まで原稿を取りに行っていたとか。なんてうらやましい話だろう。
 団さんを偲んで話が弾んだ。当時25歳のSさんも、当時30歳の私も、団さんの将棋における貢献なんてわかっていない。いま55と60が、私利私慾とは無縁に、純粋に好きな将棋というものに億の金を注いだ趣味人に感謝する。うまい酒だった。お会いしたことのない団先生に献盃した。



 大崎さんの「団鬼六伝」は、私が読まなくなってからも連載は続き、2012年11月に単行本化されたらしい。忘れていた。早速購入した。
 この本の特徴は、著者大崎さんが、自分のことを語りつつ話を進めていることだ。団さんの「やまとちゃんによろしく」なんてことばも度々出て来る。大崎さんがかつて『将棋世界』編集長であり、奥さんが(女流将棋界には珍しいアイドルタレントもどきにかわいい)高橋和女流棋士であることを知っているひとにはより楽しめる。でも団さんのSM小説が好きであり、将棋を知らないひとが、作家団鬼六の評伝として手にしたら、すべてが将棋絡みであるし、著者が自分のことをやたら語るし、女房のことまで出てきたりして鼻白むかも知れない。私は逆に将棋ファンとして、将棋作家団鬼六の評伝(プラス大崎善生さんの自伝)として2倍楽しめた。



 ただ、正直に言うと、叮嚀な仕事をする大崎さんの本にしては、構成が粗いように感じる。
 毎月の連載をまとめたものだからしょうがないのだろうが、すこし「行きつ戻りつ」するのが目立つ。
 本来の大崎さんなら、それらを一度分解して、もういちど整理し直すように思う。団さんが亡くなった餘韻が残る内に出版したいと急がされたのだろうか。そこがすこし残念だ。しかし将棋ファンと鬼六ファンにはたまらない一冊である。
 時間がないので、ここまでにする。あとでまたあらためて書き足す。
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