ひさしぶりにA・ギターを弾こうと思った。全体暖房をしていないので冬場はA・ギターはキツい。かじかむ。指が痛い。その分、空気が乾いているので音はいい。弾きたくなる。でもキツいから避ける。安易に走る。ならエレキ。

ここのところヘッドフォンでZo-3ばかり弾いていた。Rolandのチューブアンプとマルチエフェクターを通して弾く。リズムマシンと同期すれば、それなりに練習にはなる。ひとりジミヘン。

このZo-3も初代だから古いなあ。1990年製。20年以上前か。パソコン大好きでも、やっていることはまだアナログ感覚。啓蟄が近づくとA・ギターを弾きたくなる。それが私の春まぢか。

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楽器関係の小物入れからYAMAHAのボトルネック用のスライドバーが出てきた。ふたつ。真鍮製だ。すごいな、緑青が出ている。

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ひとつを紙やすりで磨く。きれいになった。もうひとつを磨く前に緑青の出た状態を写真に撮る。磨いてきれいにするのは簡単だ。けど緑青を出すのには何年もかかる。そう、緑青の浮きでた、腐りかけた、このうす汚い状態こそが自慢(笑)。これぞ「真鍮製のスライドバー」を購入して、「30年以上経った誇り」なのである。いや、誇ってませんけどね。むしろ恥じてます。頻繁に使っていた頃はもちろんきれいだったし、その後もけっこう使っていたつもりなんだけど、気づいたら緑青が生じてました。
ここで「緑青」を読めず意味も知らないひとも、もしかしたらこのブログを読んでいるかも知れないけど、そのへんは無視。

YAMAHAの刻印もある。

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調べてみると、YAMAHAの製品はいまステンレス製だけで、この真鍮製は売っていないらしい。また形としても、いまはみな「突きぬけ型」であり、こういう「サック型」は珍しいようだ。
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でも真鍮製は重くて、それなりに価値がある。私がこれを買ったのも程良い重さが魅力的だったからだ。
するとちいさな工房が、やはり出していた。

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ステンレス製が1200円ほどなのに対し、こちらは3500円。色も重さも真鍮製には高級感がある。これはこれでいいんじゃないか。まあ高いのを使えばうまく弾けるというものでもないが、そのことによって練習が熱心になる可能性はある。体験からもそれは言える。

ただしこの製品の価値はA・ギターのミドル以上のゲージで光るものだろう。この重さはE・ギターのライトゲージだったりしたらマイナスなのではないか。その場合はプラスチック製の軽いもののほうがいいように思う。



私はこのYAMAHAのスライドバーを買ったときのことを、とてもとてもよく、覚えている。
場所は渋谷道玄坂のYAMAHAだった。聞くところによると何年前かに閉店したという。なんかせつなくなった。まぎれもなくYAMAHA渋谷店は私の青春の地のひとつだった。あそこでどれほど楽譜を買ったろう。ホーナーやトンボのマウスハープ、その他の楽器小物。想い出は尽きない。ほんとうは御茶の水のほうがいいのだが、遠い。近場の渋谷のここには頻繁に通った。

なぜたかがスライドバーのことを明確に覚えているか。
私は大のYAMAHA嫌いだった。音楽を商売にする姿勢が許せなかった。あのころ、音楽をやっている若者の傾向は大きくふたつに分かれた。YAMAHAのコンテストを利用して世に出ようとする連中と、そういうYAMAHAの姿勢を嫌悪する連中と。私は典型的な後者だった。

よいギターを作るには、マホガニー等の乾いた年代物の素材が必要だ。YAMAHAはそれを確保するために、アメリカの古い教会を買い占めているという噂もあった。教会の古い長椅子の木材が役立つのだ。私はそういう姿勢を嫌った。



私と同様にYAMAHAを嫌いつつも、YAMAHAのA・ギターを使うひとは多かった。それは親しいひとにもいた。あのころYAMAHAのFGシリーズはマーチンを買えない連中にとって名器だった。実際ベストセラーのFG18等、コストパフォーマンスにすぐれていたと思う。私は嫌いだったけれど、認める点は認める。

私のYAMAHA嫌いは徹底していたから、ギターを使わないのはもちろん、絃からピックから、とにかくもうYAMAHA製品は一切使わなかった。といって私もマーチンやギブソンを愛用できる身分ではなかったから(周囲には金持ちの子弟も多く、それらを持っているのは多々いたが)他の日本製品を使った。私はyairiが好きだった。後にはTAKAMINEが救いになる。とにかくYAMAHAは嫌った。一切使わなかった。

そんなピック一枚でも死んでも使わないというほどのYAMAHA嫌いの私が、初めて買ったYAMAHA製品がこのスライドバーなのである。渋谷YAMAHAで、手にしてすぐ魅せられてしまった。すでに市販されているスライドバーはすべてといっていいほど持っていた。ステンレスもあった。透明プラスチックもあった。が、これは別格だった。しっくりくる重さがたまらなかった。「長年貫いてきた絶対にYAMAHA製品は使わないという信念をここで枉げるのか」とさんざん迷ったが、結果として購入していた。以来手放せなくなった。

前記「渋谷YAMAHAは青春の地」と書いたが、もちろんそれはこのスライドバーを買い、YAMAHA嫌悪がなくなってからの話である。それまでの私はYAMAHAの店にすら入らなかった。はるばる御茶の水まで出かけていた。いちばん好きなのは石橋楽器だった。



私はそういう小物に凝る方だから、デルタブルースを弾くようになると、スライドバーもあれこれ買った。市販されている品はほとんど買っている。憂歌団の内田が「ハウスの唐芥子のびんがいい」と言ったら、それを買ってきて、唐芥子を捨てて、ラベルを剥がして使ってみたりした。

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ええ、念のために書いておくと、内田がそう発言したかは定かでありません。そういう発言はありましたが、それがハウスの唐芥子であったかもいいかげんです。要するに、高名なボトルネックギターの巧いひとがその種の発言をすると、すぐにやってみた、という話です。
確かなのは、いま唐芥子が大好きで、唐芥子がないと食事できないほどなのに、当時の私はそれほど好きではなく、迷うことなく新品の中身を捨ててびんだけ利用したという事実です。私の唐芥子好きはタイから来ていて朝鮮料理は関係ありません。

朝鮮で思い出したのでついでにもうひとつ、私は「朝鮮民族は音楽と挌闘技にすぐれている」と何度も書いていますが、憂歌団もまたそれを証明しているひとたちと言えます。日本の芸能界のすぐれた歌唱力のひとたちを羅列していったら、ほとんどが朝鮮人になるのは絶対的事実です。私はそれをすなおに礼讃しています。感情的に否定するひともいますが、それはやめるべきでしょう。好き嫌いと絶対的な事実は別問題です。彼らはそういう面において確実に秀でた民族なのです。



世を席巻しているダイナの馬が嫌いだった。馬名を見るだけで消していた。しかし圧倒的多数で勝ちまくる。消したこちらは負けまくる。ますます嫌いになる。悪循環。
そんなある日、中山のパドック。下級条件のダート戦でギャロップダイナと出会った。丸くてころころした馬だった。目があった。かわいかった。その瞬間にダイナ嫌いが消えた。ダート馬だったギャロップダイナは後に芝実績のないままシンボリルドルフを負かして天皇賞を勝つまでに出世する。このときのギャロップダイナの単勝配当はいまも天皇賞のレコードだ。

成金土建屋のアドマイヤの馬主が嫌いだった。アドマイヤの馬はぜんぶ馬券対象外にしていた。シャダイの高馬を買って走らせる日の出の勢いの新興馬主であり、重賞戦線で大活躍する時期だった。ハズレまくった。それでもまあこれはダイナとは規模がちがうし、それほどでもなかったが、それでも有力馬主を嫌うことは馬券を狭くする。でも嫌いなものは嫌いだ。
そんなある日のパドック、芦毛のアドマイコジーンと目があった。かわいかった。アドマイヤ嫌いが消えた。朝日杯3歳ステークス快勝。だがそこから2年以上もの長いスランプ。6歳になって安田記念を勝つ。後藤浩輝初G1制覇。後藤が干されているときに応援して起用したのがアドマイヤの馬主だった。ふたりが抱きあって泣く。もらい泣き。

それとYAMAHAのこのボトルネック用スライドバー。
順序としてはこれが一番早いけど、ギャロップダイナとアドマイヤコジーンとYAMAHAのスライドバー。私の「三大変節」になる。



デルタブルースという馬がいる。父はダンスインザダーク。鞍上岩田で菊花賞を勝った。2004年。このとき岩田はまだ園田所属。地方競馬所属騎手が中央の馬に乗り中央のG1を勝った最初の例になる。後に内田や戸崎も実現している。

さらには2006年にオーストラリア最大のレース、国民の祝日にもなるメルボルンカップを勝つ。メルボルンカップがいかに親しまれているかはオーストラリアにゆけばよく解る。私は初めてオーストラリアに行ったとき、競馬の仕事をしていてメルボルンカップにそこそこ詳しいことがだいぶ役だった。世間一般のひととの話題になるのである。日本でこれは不可能だろう。メルボルンカップはオーストラリア人にとって、それほどおおきなイベントなのだ。

だがデルタブルースは、晩節を汚し種牡馬になれずじまい。メルボルンカップを勝った時点で引退していれば種牡馬にもなれ、オーストラリアでも讃えられたろうに。なんとも残念である。退き際の重要さを思う。



私はデルタブルースが好きでボトルネックを始めた。サンハウスやロバート・ジョンソンの流れだ。だから、E・ギターでボトルネックをやるギタリスト(たとえばデュアン・オールマン)の音楽とは、ちょっと流れがちがう。
デルタブルースという響きだけで胸が熱くなる。まさかそれを名乗る日本馬が現れるとは。

馬名を知ったときから注目していた。この馬の名は母の父Dixieland Band、母Dixie Splashから来ている。そこに父ダンスインザダークのダンスを加えての、日本馬には珍しい洒落た名になった。馬主はサンデーレーシング。ギャロップダイナに出遭うまでの宿敵「ダイナ」の共同馬主クラブである。冠号ダイナで勝ちまくり、もう宣伝の必要はないと冠号をやめていた。

ダイナ嫌いだった私は、その馬主であるダイナースクラブの会報『SIGNATURE』に書く旅行記で世界中のあちこちに行かせてもらうようになっていた。



伊集院静がエッセイを書き、西原理恵子が絵を添えるシリーズ本がある。週刊誌の連載エッセイをまとめたものだ。競馬通であり大の馬券好きである伊集院が、当時そこのある回で、「デルタブルースという名の馬がいる。変な名前だ」と書いていた。彼にとっては意味不明の馬名だったらしい。「あ、このひと、ぜんぜん音楽を知らない」と思ったものだった。



アコースティックなデルタブルースの奏法だと、むかしむかし「笑っていいとも」に出た景山民夫が、ニューヨークで弾き語りをしていたことを自慢して、あの「ともだちの輪」を生演奏で歌った。あの程度の腕前でニューヨークで弾き語りができるなら私もいますぐできると自信を持った。

なにかの特番で(NHKだったかな)山崎まさよしというのが、そのデルタブルースの故郷を訪ねるという企劃があった。私はその時、山崎まさよしというミュージシャンを知らなかったが、番組表の「ブルースの故郷を訪ねる」に惹かれて見た。
ニューオーリンズまでゆき、存命している黒人の老ミュージシャンと一緒に山崎がA・ギターでデルタブルースを弾いた。リアルにその場で弾く山崎のギターは下手だった。私のほうがはるかに巧い。でもデルタブルースに興味を持っている日本の若いミュージシャンがいるのだということはうれしかった。それから彼の音楽を入手して聞いてみた。CDではとてもギターが上手だった。どういうトリックなのか。



と、あれやこれや思いつくまま。
思うのは、このスライドバーが30年以上前の品であること。いまももちろん現役。息子に伝えて、孫子代代の品にもなる。すばらしい。

そしていつもの結論。それと比すとパソコンてのは、パソコンソフトってのは……。
日進月歩の製品てのはむなしい。

とはいえこのスライドバーは、ただの真鍮の固まりだ。私の息子や後裔がボトルネックギターを弾かなかったらただのゴミである。何の役にも立たない。

それでも30年以上前に買った品が今も現役であり、百年後もその可能性があると思えることは希望的だ。私の曾孫がボトルネックギターを弾き、ステージで喝采を浴び、これは曾爺さんからの代代のものなのだとかざす日が来るのかも、と思うだけで楽しい。