格闘技

マンガ考──「大相撲」と「将棋」はマンガ原作に向いてない

 その1──漫画原作の王者ボクシング
 
 少年向けスポ根マンガの原作として相撲は向いていない。「スポ根マンガ」とは多少ちがうが、「戦いもの」として括るなら、将棋もこの「向いてない原作」に入る。それは王者であるボクシングと比較すると明らかだ。
 ボクシングが今も昔も王者であるのはなぜか。「戦いもの」の基本である「敵のステップアップ」に最高のジャンルだからである。
 まずはデビュー戦。相手はデビュー前から話題の選手だったりする。アマチュアのエリート。対してこちら、主人公は無名の新人だ。でもやがて世界最強になる逸材なのだが。
 このデビュー戦だけで充分に盛りあがる。引っ張れる。熱戦の末に勝つ。第一関門突破。次は東の新人王戦。ここではデビュー戦の時、無名ながらすさまじい勝ちかたをして話題になったのが相手になる。また盛りあがる。これも突破。東の新人王。次は東西対決の新人王戦。デビュー戦の相手だったアマチュアエリートが、アマチュア時代唯一負けた相手だったりする。「ヤツの××に気をつけろ」と、今は主人公を応援してくれているアマチュアエリートが忠告に来てくれる。このとき「××」に謎を絡ませることも出来る。謎めいた「××」とは何なのか。この「かつての敵が味方となって関わってくる」もボクシングマンガの醍醐味だ。つまり一期一会。ステップアップするたびに過去は懐かしい風景となって行く。こうして日本チャンピオン、東洋チャンピオン、最終目的の世界チャンピオンと、「よりスケールアップしたあたらしい敵」と戦いつつ進行するのだから、まさに原作の王者である。世界チャンピオンという最終目的が明確にあり、減量という地獄も絡められる。子ども心を刺激する必殺技を使えるのも長所だが、私はこの「過去の対戦相手が次の対戦相手の引き立て役になる」というスパイスも大きな魅力と思う。「熱戦を繰り広げ、試合後は互いを認めあい親友となったアイツが、廃人にされた」のような形で過去の登場人物もストーリィに寄与して行く。
 以下のリンクは「好きなボクシング漫画ランキング」。http://ranking.goo.ne.jp/ranking/026/boxing_comic_male/
 「はじめの一歩」が1番人気。上に書いたボクシング漫画の王道を真っ直ぐに歩いている。私がいちばん好きなのは「がんばれ元気」だが、これは「あしたのジョー」のアンチテーゼとして作られたものだから──たとえばジョーに対抗して経済的には恵まれていることにした──「ジョー」の偉大さは否定できない。対して、さすがに「リングにかけろ」は連載時に成人していたので、あの荒唐無稽さは楽しめなかった(笑)。でもああいう必殺技で燃える子ども心はわかる。私がいちばんそれで興奮したのはプロレス漫画の「タイガーマスク」になる。プロレス漫画もボクシングに負けず劣らず少年スポ根分野の王者だが、チャンピオンのランキングがボクシングのようにシビアでないし、減量の苦しみのようなサイドストーリィが使えない。逆にタイガーマスクは躰のちいさいことで悩んだ。これは星飛雄馬の球質の軽さの悩みに通じる。
 高橋留美子やあだち充の作品は、「ジョー」にあった血腥さを否定してラブコメ風にした軽い乗り。まったく異なる作風ながら、ここでもまた「ジョー」は無視できない。
 ちばあきおの「チャンプ」がずいぶんと下のほうだが、知っているひともすくなくなったのか。彼らしい派手なことをしないシリアスなボクシング漫画だった。
 同じような形で「野球」も王者側だろう。ボクシングが横綱なら、プロレスと野球は大関か。野球も、とにかく少年スポ根漫画の盛りあがりは「一期一会」だから、プロ野球よりも「甲子園もの」が向いている。これもボクシングと同じように、地区予選、県大会、甲子園と「ステップアップする世界」が使える。
 「巨人の星」は、けっきょくのところ「子離れ出来ない父親」との関わりを含め、「必殺技とそれを破る新技」の繰り返しだったから、ストーリィの本筋は、野球漫画というよりプロレス漫画にちかい。梶原一騎らしい結末の悲劇も共通している。(続く)

相撲話──大鵬の思い出え;,たくなな天才否定の事情──ウクライナの血脈

●大鵬の思い出え;ヾ茲覆陛刑揚歡螯;.Εライナの血脈

taihou2「大鵬にはロシア人の血が入っている」という噂は、当時からうっすらと流れていた。色白の躰もそうだが、なによりも顔である。
 当時美人女優として売れっ子だった鰐淵晴子(父は日本人、母がオーストリア人)のような日本人離れした彫りの深い顔はどうしてもハーフに見える。

 異国人との結婚によって生まれた子は、最初は「合いの子」と言った。それが差別用語として「混血」という堅苦しい言いかたになる。やがてそれも差別用語とされ、英語の半分の意味である「ハーフ」に言い替えられる。事の本質を意味不明にしてごまかす日本語の差別語転移の代表例である。(さらには今は、「ハーフだと半分という意味で失礼」とかで、ダブルと言うのだとか。アホクサ。)
 
 どんな顔であれ北海道の父親が「わしの息子ですじゃ」と言えば問題ないのだが父はいない。貧しい母子家庭育ち。樺太からの引揚げ者である。父親のことは写真一枚出まわらない。生死さえ公表されない。その噂が流れて当然だった。

 戦争終結後に突如攻めこんできて北方領土を奪い、満洲では残虐な殺戮と強姦を繰返したロシア人は日本の敵だった。国民的英雄である横綱にロシアの血が入っているとは誰も考えたくなかった。よってそれは長いあいだタブーだった。
 
 なにしろ力道山が朝鮮人だということすら伏せられていて、死後になってやっと流れでたような時代だ。それでも信じない人は多かった。かくいうこどもだった私も、それはプロレス嫌いがプロレスを貶めるために流しているウソだと思っていた。力道山の死後、それまではプロレス好きだった連中が一気にアンチになった。力道山時代はプロレスの結果を報道していた毎日新聞なんぞは、一転してプロレス八百長説の先頭を直走った。戦前戦中は戦争讃歌だったアカヒシンブンが戦後は一転して護憲サヨクになったように、マスコミなんて今も昔もそんなものである。

※ 
 
 私が大鵬にロシアの血が流れているというのを容認できるようになったのは、大学生になってからである。そのころになるともうそれは否定できない話になっていた。それでも「クオーター」と言われていた。四分の一ロシアの血が入っていると。この「クオーター説」の時代は長い。
 
 大鵬の父がウクライナ系のロシア人であり、大鵬はハーフだと公になったのはごく近年である。(調べたら、2001年だから、犇畴瓩任呂覆い。でも大鵬の現役時代から長年秘せられてきた時間と比すれば、充分に近年とも言えよう。)


 大鵬は天才だった。しかし彼ほどそう言われるのを嫌ったひとはいない。不世出の大横綱に誰もがその切口で迫ろうとする。彼は拒む。むきになって拒む。自分は天才ではない。努力型なのだと。誰にも負けないほどの稽古をして、そうしてあの結果を残したのだと。いったい今までにどれほどの回数、雑誌の対談やらテレビやらで、大鵬のこの「天才否定」に接したことだろう。

 一面においてそれは真実であろう。当時の激しい二所一門の連合稽古で、大鵬がいかに稽古熱心だったかは誰もが認めている。そして稽古場でも、いかに強かったかも。
 でも大鵬がどんなに否定しようと、私は彼は大天才だったと思っている。稽古であれだけの成績が残せるなら、それこそ伝説的な猛稽古で有名だった富士桜はもっと出世していなければならない。なにしろ、各部屋の親方が、将来を嘱望する力士は、必ず連れていって見せたと言われる「富士桜の猛稽古」である。ふつうは「ふらふらになったら稽古終了」だが、富士桜の稽古は、「ふらふらになってから、始まる」と言われた。すさまじいスタミナだった。
 稽古好きはいくらでもいた。努力型もいくらでもいた。大鵬があれだけの大横綱になったのは、天分があったからである。神に与えられた天分に恵まれていたのだから、紛う事なき天才であろう。 


 ではなぜ大鵬は、そこまでして天才と呼ばれることを拒んだのだろうか。
 私はそれを「血の否定」と考える。
 大鵬の父は、樺太に住むウクライナ系ロシア人だった。
 ウクライナ系ロシア人と聞けば、挌闘技ファンなら誰でも犢陳覘瓮┘潺螢筌┘鵐魁Ε劵隋璽疋襪鮖廚いΔべるだろう。前田日明がリングスに連れてきて日本デビュー、その後『PRIDE』に移籍し(ひき抜かれ)、後に世界最強と呼ばれた男である。アレクサンダー・カレリンの名を出すまでもなく、ロシア人の頑健さは誰もが知っている。まこと、我らが先祖は小男でありながら奴らと白兵戦をやって勝ってきたのだ。偉大である。

 大鵬の強さに「ロシア人の血」があったことは否めない。もしも大鵬の言うように「猛稽古」で強くなったのだとしても、それに耐える頑健な躰は、父からもらったものだったろう。
 大鵬はもちろん母から聞いて、自分の父がロシア人であることを知っていた。時代を考えれば、それは大鵬にとって、口に出せない、心にのし掛る重い枷だったろう。日本人はロシア人が嫌いである。中でも北海道ではロスケと言って嫌っていた。それでなくても北海道の百姓とはちがう顔をしているのだから、自分の父がロスケである事実は、大鵬にとって重かったはずである。

 頑ななまでの天才否定は、それによるものだったのではないか。
「天才」を容認することは、「ロシア人からもらった頑健な躰」を認めることになってしまう。彼は自身の内なるロシアを否定し、「努力して強くなった日本人」でいるために、執拗にそれを訴えたのではないか。私はそう解釈している。

 もっとも彼に限らず、天才は天才と言われることを嫌う。自分は精一杯努力したのだ、簡単に天才などと言わないでくれ、と言う。「おれは天才だ」という天才はたいしたことはない。 しかしまた天才は、心の中で<おれは神に選ばれた天才だ>と自負している。

※ 

 大鵬部屋の力士に露鵬というのがいた。大鵬が鵬の字を与えている。これはもうひどい悪相だった(笑)。犯罪者面である。後に大麻で角界追放となる。その弟に北の湖部屋の白露山なんてハゲたのもいた。こちらはキユーピーみたいだった。彼らを見ても大鵬とロシアを結びつける感覚は芽ばえなかった。

wakanohou 露鵬で出来たロシアとの縁から、大鵬が間垣部屋に紹介して入門させた若ノ鵬というのがいた。これも後に大麻で角界追放となる。

 彼を見たときはびっくりした。若い頃の大鵬とそっくりだったからだ。純粋なロシア人である。左の写真。

「ああ、大鵬の二枚目ぶりってのは、ロシア的ハンサムだったんだな」としみじみ思ったものだ。私はそのころすでにロシアに行ったことがあったが、べつに大鵬的な美男子を見た憶えがなかった。やはり髷を結ってないとイメージが繋がらない。そういう意味で若ノ鵬は忘れられない力士である。これまたロシア人特有の恵まれた体力で抜群に早い出世をした大器だったが、精神面がついてゆかず挫折した。

 そう考えると、私の母と姉の大鵬嫌いも、外人嫌いに通じて、それなり筋は通っていたのかと思う。田舎女として、大鵬の容姿に、本能的に異質のものを感じていたのだろう。(続く)

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【追記】──大鵬と王貞治

 同い年の同時期のスーパースターであり、気が合ったのか、夜明けまで痛飲した仲だったという。訃報を特集するスポーツ紙でも王さんのコメントは筆頭扱いだった。

 王さんは、父台湾、母日本の混血である。父ロシア、母日本の大鵬と同じ組み合わせだ。ちがうのは、王さんの場合、その姓から、出自が明確にされていたのに対し、大鵬は伏せられていたことだ。
 大鵬はきっと、王さんには自分の血脈を語っていたのではないか。そんな気がする。

訃報・竹内宏介さん──Twist of Jobimの朝

twistofjobim

「Twist of Jobim」を聞いている。Bossa Novaの大御所アントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュート。中心はプロデュースしたリー・リトナー。あ、リー・リトナー、書けるかな、Lee Ritenourのはず。確認。当たっていた。よかった。

今日は雨が上がっていい天気になった。ひとあし早いボサノバ。本格的なのはもっと暑くなってからだが、フュージョン系だと今の季節にも似合う。
エリック・マリエンサルのアルトサックスがいい。ハービー・ハンコックのピアノも、と書いて行くと全員書かねばならない。名人達人ばかり。

こういう場合のTwistはなんて訳せばいいのだろう、うまい日本語はない。意味はわかる。意味が、とても良く解るだけに、これに匹敵する日本語を思いつけないのが歯がゆい。



昨夕、東スポで竹内宏介さんの死を知った。
ものごころついた時からプロレスが大好きだったけど、そういう小学生時代から、中学生、高校生時代、東京に出たので大試合の会場に行けるようになった18歳以降、とあれこれ思いは尽きないが、いちばん熱くて楽しかったのは、田舎の高校生として、創刊されたばかりの「月刊ゴング」と「別冊ゴング」を毎月楽しみにしていた時期のような気がする。

東京の大試合とは無縁だったけど、毎月発売日を指折り数えて待ち、下校時に本屋に駆けつけた時の昂揚は、田園コロシアムでハンセンとアンドレの一騎討ちを見た時や、東京体育館でのハンセンと馬場の初対決を見た時や国技館でローラン・ボックを見た時の興奮に負けない。
毎月、丸ごと一冊暗記するぐらい熱心に読んだ。



「まだ見ぬ強豪」として、マスカラスやスパイロス・アリオンが取りざたされていた時期だ。その仕掛け人が「ゴング」であり、若い編輯長の竹内さんだった。まだ22歳ぐらいだったろう。

先発のベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」に負けまいと、後発の「ゴング」はあれこれ工夫をした。それが楽しかった。「プロレス&ボクシング」は古手だけに、いかにも日プロの幹部と親しい(=御用マガジン)の趣があった。それこそ当時の幹部である芳の里(人名に関して強いGoogle日本語入力もさすがに芳の里は出なかった)や遠藤におもねっていたろう。
竹内さんは「プロレス&ボクシング」出身だが、いくら編集長を経験したとはいえ二十歳そこそこの若さだったから、日プロ幹部から接待されていたとは考えにくい。

創刊間もない「ゴング」は連中から鼻も引っ掛けられない立場だったか。たしかなのは、古手の「プロレス&ボクシング」よりは軽視されたことだ。その代わり、国際プロレスの記事が増えた。そのことでますます日プロには嫌われたろう。とにかくやつらは横暴だった。
その分、竹内さんの若さで、高校生の私のようなのがわくわくする企劃を連発してくれた。そのひとつが前記の「まだ見ぬ強豪」であり、話題になったのが当時ロスで活躍していたマスカラスだった。「ゴング」はマスカラス人気で部数を伸ばしていった。

ここを読んで一緒に竹内さんを偲んでくれるひとはみな「日テレの解説者の竹内さん」ではないか。私の竹内さんへの想いはそれよりも前になる。



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この写真は「ゲンキ・ヤ」というサイトからお借りした。こういう古雑誌の通販をやっているらしい。処分してしまったが、私もこれらをすべてもっていた。本誌の「月刊ゴング」は、ベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」と同じくプロレスとボクシング。写真はその本誌である。そこからプロレス専門誌として創刊されたのが「別冊ゴング」で、私の好きなのはこれだった。

馬場をジャイアントスイングで振りまわしているのはジン・キニスキーだ。
2年前の4月、81歳で亡くなっている。ブログにもサイトにも書かなかったけど、日記には「今日、キニスキーがなくなったと知る」と記して偲んでいる。大好きなレスラーだった。顔から「平家蟹」と呼ばれていた(笑)。。

プロレスとボクシングの二本立てなので、表紙もボクサーとレスラーが半々。しかし「ゴング」は、やがてプロレス中心になってゆく。いや、始まりがプロレスだった。だって竹内さんが中心だったのだから。

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本誌の表紙。ボボ・ブラジル、ドリー・ファンク・ジュニア、フリッツ・フォン・エリック。ボクサーよりもレスラーを大きく扱っている。当時の日本のチャンピオンは馬場だったけど、ブラジルやエリックはあきらかに馬場よりも強かった。猪木は話にならない。プロレスは「約束内の出来事」だけど、そこにもはっきり強さが見えるのが楽しい。ルー・テーズなんて地元の英雄の力道山に負けてやっているのがこども心にも見え見えだった。ブラジルもエリックも、最後は馬場に負けてやるのだが、負け方がへたなので(笑)、力の差が見えてしまっておかしかった。

ドリー・ファンク・ジュニアは、私の最も好きだったひと。大卒で、高校の物理の教師免状をもっているなんてのにも好感をもった。一緒に来日したプロンドのジミー夫人もきれいだった。のちに離婚してしまうけど。
そういう雰囲気は、後に日本のレスラーでも猪木が倍賞美津子と結婚してかもしだすが、当時の日本のプロレスにはないものだった。かっこいいなと憧れた。

NWAチャンプとして、来日してすぐ、猪木と60分フルタイム0-0の引き分け。翌日馬場と1対1のフルタイム引き分け。猪木にはフォールを許さず、馬場には許しているところが馬場猪木の格をあらわしている。馬場がフォールを奪ったのが初公開のランニングネックブリーカードロップだった。
周囲のプロレス好きは、「惜しい、もうすこしだった」「馬場猪木のほうが強い。たいしたことない」と言っていたが、私はアメリカから来日してすぐ、2日連続で60分フルタイムを戦い、それぞれドローで、地元の英雄にそれなりに華を持たせ、すぐにまた離日して、次の地元の英雄との戦いに飛び立つNWAチャンプの底知れないスタミナに驚嘆していた。

このときは父親のシニアがセコンドにつき、ピンチになると騒いだりして、「過保護チャンプ」のような演出もしていた(笑)。なつかしい。



当時のNWAチャンプは禅譲性だった。テーズは自分が老いた時、キニスキーに次を託した。タフガイのキニスキーはしっかりと務めを果たした。キニスキーから禅譲されたのがまだ27歳のドリーだった。一気に若返りを図ったから不安も大きかったが、ドリーは見事にその大役を務める。ここからNWAチャンプは、ブリスコ、テリー、レイスと若い世代のものになった。そして、実力は文句なしだが精神的にチャンプに向いてなかったブリスコとは逆に、連日全米を飛び周り、地元のチャンプと戦って悪役を演じつつ、しかししっかりベルトは守るというハードビジネスに最もふさわしい地位を確立したのがレイスだった。

後にNWAが崩壊するのはプロレス嫌いのブリスコがNWAのプロモート権をマクマホンに売ったからだった。獅子身中の虫になる。インディアンでもありいろいろ屈折しているひとだった。日本人初のNWAチャンプに馬場がなる時の相手でもある。しかしああいう金銭で動く一週間天下(帰国するときには負けてベルトを返す)は読めすぎて白けたものだ。全日ファンとはいえなにもかも認めているわけではない。



国際プロレスが、日本プロレスにいじめられながらもがんばっていたころ。吉原さんの苦労を思うと義憤を覚える。その吉原さんがいちばん信じ、そして吉原さんを己の血を流して守ったのがラッシャー木村だった。木村は興行不振の国プロのために、額をギザギザにして金網マッチを連発した。連日流血だった。

もうかなわないことだけれど、私は、「もしも好きな人にロングインタビューしてもいい」と言われたら、木村さんの話を聞いてみたかった。彼の家に押し掛け罵詈雑言を投げつけ、犬までノイローゼになるほどの狼藉を尽くした新日オタクが嫌いだ。木村さんは義理に篤い大好きな朝鮮人になる。

日プロに対抗するために吉原さんが始めたのが「総当り制」だった。当時の日プロは日本人同士、外人同士は戦わないルールだった。吉原さんの決断により、アンドレ(モンスター・ロシモフ)対カール・ゴッチや、ビル・ロビンソン対ジョージ・ゴーディエンコが実現した。

上の写真でドリー・ファンク・ジュニアがダブルアームスープレックスの形を取っているが、これは国プロからバーン・ガニアにひき抜かれてアメリカに渡ったビル・ロビンソンから伝わったものだ。AWAチャンプのニック・ボックウィンクルもそうだった。ロビンソンと闘って盗んでいる。それはロビンソンの価値だが、そのロビンソンをイギリスから呼んだ吉原さんの功績でもある。



際限なく書きそうなのでこのへんにする。これは私なりの「Twist of 竹内宏介」のつもりで書いた。

竹内さん、大好きなプロレスラーに会えて、天国も楽しいでしょう。ほんとにほんとに竹内さんはプロレス大好きの青春でしたものね。享年65歳は早すぎるけど悔いのない人生だったと思います。

将棋話──郷田真隆棋王の語るハーリー・レイス──井田真木子「プロレス少女伝説」──立花隆批判

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 ここ数年の『将棋世界』の充実ぶりは著しく、絶讃せねばと思いつつ書かないまま時が過ぎてしまった。それはまあそのうち自分のサイトにたっぷり書くとして。

 2日に出たばかりの6月号は、なんといっても年に一度の「プレイバック2011」──昨年の全対局から棋士(!)が投票してベストの棋譜を撰ぶ企劃──が最高だが、今まで見たことのない、とんでもないめっけものがあった。

 久保から棋王を奪取した郷田真牢王のロングインタビュウの中で、なんと郷田棋王がハリー・レイスのことを語っているのだ。しかも半端ではない。スキャンしてその部分を掲載したいが、いまスキャナーが壊れている。買わねばと思いつつほとんど使うこともないのでそのうちそのうちと先延ばしにしてきたが、とうとう後悔することになった。急いで注文する。すぐ買おう。

 レイスの活躍していた時期、郷田は小学生である。「ハリー・レイスのことを知っているひとがどれぐらいいることか」と苦笑しつつ熱く語っている。この場合の「知っているひと」は知名度のことではない。年代的に若いひとは知らないだろうが、というような意味だ。
 プロレスを知らないインタビュアーが郷田の熱弁に戸惑っている(笑)。郷田は無関係に熱く語る。

 レイスの価値が解るひとはプロレスセンスがいい。まあ新日オタクとか長州なんてのが好きなのには無理。
 
 表紙の森内名人はプロレスなんてまったく興味がないだろう。その他、羽生も佐藤もぜったい好きじゃないだろうな。
 渡辺竜王が競馬好きで一口馬主にもなっているが、棋士とプロレスは結びつかなかった。だけど私の将棋好きは挌闘技好きから来ている。将棋は最高の挌闘技だ。

 まさか『将棋世界』で、郷田の口からレイスの名を聞くとは。サプライズ。ほれ直したぞ、郷田!

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 ということで検索したら、毎月『将棋世界』の内容を紹介しているサイトを知る。えらいひとがいるなあ。
 休まず毎月レビュウするということはとても大事で、むずかしいことだ。すばらしい。

http://www.shogitown.com/book/sekai/index.html 

 と思ったら将棋の古書を売っているから商売でもあるのね。納得。



harleyrace

 そういや、竹脇無我さんと仕事を始めたころ、出会ってすぐなぜかプロレスの話になり、竹脇さんが「ハーリー・レイスはかっこいいよな」と言って、私が賛同して、距離がぐっと近づいたのだった。

 と書いて思いだした。偶然じゃない。プロレスというのはアンチには手酷くコバカにされるジャンルだから、敵味方の区別に真摯になる。
 熱烈ファンはプロレス好きに敏感だ。私は竹脇さんとその仕事を始める前から、「俳優の竹脇無我はプロレスが大好き。ジャイアント馬場と親しい」という情報を得ていた。だから初対面の時からもう「竹脇さん、プロレス好きですよね」と話を振ったのだった。

 そのとき竹脇さんは、ちょっと身がまえた(笑)。それはわかる。だってそのあとに続くのは「あんなインチキ、どこがおもしろいんですか?」かも知れない。しかしすぐに私が、自分と同じく全日ファンのプロレス者とわかり、一気にうちとけたのだった。

0kanren 竹脇無我さんの訃報──あのころの思い出



 雑誌に連載していた私の競馬小説にメールをくれ、親しくなった年下の友人にSというのがいる。いつしかもう15年ぐらいのつきあいになる。神戸在住。
 彼とメールのやりとりを始めたときにも、プロレスファンかどうかをさりげなく問うた。長続きする友人になれるかどうか、そのへんは大事なのだ。競馬好きなら誰でも仲よくなれるものでもない。彼も大ファンとわかり、今も親しく連絡し合っている。

 その連載は10年以上も続いたので多くのひとから手紙やメールをもらった。親しくなったひとも何人かいたが、今はみな途絶えてしまった。残ったのはSだけだ。
 私の作品を絶讃する熱烈なファンレターをくれたひともいた。まだ電子メール以前だったので出版社気付けの手紙だった。感激して返事を書いた。しかし何度かのやりとりで、そのひとが「護憲派」とわかり(笑)、あちらも私が改憲派とわかり、次第に疎遠になっていった。出会いは競馬でも、そのあとの交友は難しいのである。



prowres

 井田真木子が「プロレス少女伝説」で大宅壮一ノンフィクション賞を取るとき、唯一強硬に反対したのが立花隆だった。理由は「プロレスなんてものに」だ。文章や構成への注文ではなく、テーマがプロレスだから賞を与えるに価しないとの主張だった。私は立花を憎んだ。「競馬主義」という雑誌のエッセイで立花を批判した。

 立花はこう言ってこの本を否定した。

私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである」。

 プロレスは、立花のような品性と知性と感性が同時に低レベルにある人には絶対に理解できないものだ。



 そのときはまだ彼の本を一冊も読んでいない。どんなやつかも知らない。後に、詳しく知り、彼を嫌った自分の直感に満足した。

 村松友視さんの名言「ジャンルに貴賤なし、されどジャンル内に貴賎あり」で言うなら、立花は「ジャンルに貴賎あり」のひとだった。
 味も判らないのに紅茶やワイン蒐集に凝るところに、彼の気の毒な俗物性が出ている。紅茶やワインの味などわからないのだ。でもそれは彼にとって「貴のジャンル」であるから、凝る。蒐集する。それによって「ウンチク」「智識」を得る。紅茶やワインについて何時間でもしゃべれる博識。だが現実は、紅茶は安物のティーバッグを愛用している。だって味などわからないのだから。まさに「空の智識」である。むなしいひとだ。

0kanren 立花隆の「秘書日記」を読む




 ちかごろどんなスポーツ実況でもやたら「心が折れた」「まだ心は折れていない」と連発する。特にひどかったのがPRIDEがブームのころで、やたら実況がそればかりだった。
 このことばを最初に言ったのは神取忍であり、それを紹介したのが、井田真木子のこの本である。

 あのころはプロレス雑誌がいっぱいあった。そんな中、デラックスプロレス(通称デラプロ)は女子プロ専門誌へと特化していった。「特化」と書いたのは、最初はふつうのプロレス雑誌だった。生き残りのために、いつしか女子プロ専門誌になっていたのである。地方で見る女子プロ興行はおもしろかった。まさにどさ回り。私の大好きだった豊田真奈美はまだ十代だった。

 井田さんは慶應の後輩でもあり、そのうちどこかで会ったら一緒に立花の悪口を言おうと思っていたら、44歳の若さで急逝してしまった。

平成二十年夏場所覚え書き

00-sumo  「冷やし中華 はじめました」みたいな感じで、

 厭きずにまた「相撲日記 はじめました」

http://monetimes.web.fc2.com/ez-sumo-0805.htm

内藤、ポンサクレックに勝つ──この世に亀田戦は存在しないかのようなTBS3

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 内藤がなんとかポンサクレックに勝った。最強のチャンプである彼をKOするのは無理か。ともあれ引き分けだがなんとか防衛した。これで当面は安泰である。ポンサクレック以上の敵はいない。ふたりが尊敬しあっていることがわかるボクシングらしい試合だった。

「白鵬と内藤」というコンビは誰が推したのか。「朝青龍と亀田」に対抗して、ここでもベビーフェース対ヒールの構図。
 試合前のそれらの映像を見て、そういえばふたりが一緒に食事したり、相撲部屋に内藤が稽古に行ったりしたことをすでに見ていたのだと思い出す。なのに忘れていたのは、TBSが仕掛けたあまりのわざとらしさを無意識のうちに拒んでいたからだろう。

 過去の映像、周囲の人々を延々と流すが、亀田のカの字も出てこない。思わず「局はどこだっけ」とあらためて確認するが、するまでもなくTBS。

 ボクサー内藤の経歴を編輯するなら、亀田との絡みがまったくないのはあまりに不自然。その不自然を平然とやるのがTBS。
 亀田次男戦のときは、バッティングで流血した内藤にはしゃぎ、このまま続行不可能になれば亀田次男がチャンピオンだと実況していた。すべてしらんふり。しかしおまえらが忘れてもこちらは覚えている。

 こわいよね。ないことをあるように捏造するのも得意だが、あったことをなかったかのように無視することも平気。こわいテレビ局だ。

 三月末にはまたしらんふりして今度は亀田兄の試合を流す。

 戦争中は戦争を礼賛して、敗戦後はそんなことはなかったかのように振る舞う新聞と感覚は同じ。
 それぐらい面の皮が厚くなければ出来ない商売だ。

「心が折れる」の多用──スポーツ紙の文章1

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 挌闘技に於ける「心が折れる」は誰が言い出し、いつから流行ったのだったか。『PRIDE』で三宅アナあたりが連発したのが始まりか。最初のころ、ピンチに陥っても「まだ心は折れていません!」という実況は、それなりに新鮮だった。

 一種の流行り言葉になったらしく、私のところに届いたメールでも、使っている人が散見された。私は使わない。こういうことには自制が働く。私の中で「心が折れる」は「キモい」と同等のレヴェルだ。

 下記は昨日の「戦極」での吉田VSバーネット戦に関するサンスポの文。
 どうかと思う。「折れてない」から「折らない」まで来てしまった。


前へ、前へ。心を折らない吉田が突進する。裏投げで脳天をマットに叩きつけられ、馬乗りになった相手からパンチの連打を浴びても、鬼の形相で立ち上がった。


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 「骨が折れる」はむかしからある。
 一番有名なのは園遊会での柔道山下。昭和天皇の「柔道は骨が折れるでしょう」に、「はい、先日足首を骨折しました」と応えた。カニ挟みで折られたのだった。仕掛けたのは誰だっけ?

 これ、一歩間違うといわゆる「都市伝説」のたぐいになるが厳粛な事実。私は又聞きや週刊誌ネタではなく、テレビ放送のそれをリアルタイムで耳にした。ありえないことが実際に起きると笑えないものである。一瞬なにが起きたかわからなくなった。反射的に笑ったり、「そりゃちがうやろ」とつっこみも入れられず、気まずく黙ってしまったものだ。

「骨が折れる」と「心が折れる」は分類としてどうか?

 前、前へ。骨を折らない吉田が突進する。


 これじゃ吉田が苦労していないみたいだ。
 かといって挌闘技実況で、タップしたとき、「ついに、ついに、ここで骨が折れたぁ!」と叫んだら、これは骨折になる。


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 元来新聞記者に名文家はすくない。それは当然で、限られた字数で事実を正確に客観的に伝える記者の文と感情の入った名文は別種である。両立はありえない。むかしは作家の前身に記者が多かったが、あれは作家を志すものの假りの職業としてそれぐらいしかなかったから。近年、電博等広告系の出身が主となったのは自然である。

 それにしても、下記の「朝青龍問題」等、スポーツ紙記者の文章がひどすぎる。
 スポーツ紙とはいえ新聞なのだから、週刊誌的な娯楽性より報道性を優先すべきだろう。ニッカンのあの記事など私的感情を交えた週刊誌のヨタ記事そのものである。



後日註・「心が折れる」は 、女子プロレスラーの神取忍が言い始め、それを文字にしたのは井田真木子のようだ。広めたのは『PRIDE』中継のフジテレビアナだろう。

吉田が負けた!

sportsoccer
 吉田が負けた!

 

 女子W杯第1日(19日、中国・太原)女王がやられた!
 6カ国が出場して開幕し、6年以上も無敗を続けてきたアテネ五輪55キロ級金メダリスト、吉田沙保里(25)=綜合警備保障=が1次リーグで対戦した米国のマルシー・バンデュセンに0−2の判定で敗れ、連勝記録が「119」で途切れた。国際大会で敗れるのも初めてで、対外国人選手の連勝も「114」で止まり、日本は3位決定戦に回る。(サンスポより)

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いつか負ける日が来るわけだが、今回は予想していなかったのでこのニュースにはおどろいた。思わず「えっ!」と声を出してしまったほど。

連勝のままオリンピックに行くより、ここで負けて悔し泣きしたほうがいいのかもしれない。

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【附記】 ルールの問題

映像を見たが、柔道と同じく、場外に出てからのしつこいからみつきでポイントを取られていた。ひどい話ではあるが、それが世界のルールの主流なら、勝つためにはそれに慣れねばならない。やはりここで負けたのは本番前によかったのだと思うことにしよう。

挌闘技バブルのころ

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 挌闘技バブルのころ

 

長年の挌闘技ファンだから、日テレ、TBS、フジとメジャー三局がみな大晦日に挌闘技特番をやることは、文字通りうれしい姫井だった。あら? 最近悲鳴はあげてないが民主党のアホ議員のことを書くことが多いのでこっちが優先変換らしい。昨年までただのいちども使ったことのない字だった。知らない苗字だった。ともあれあのころ、大晦日に挌闘技三昧はうれしい悲鳴だった。ぶってぶって。(←この辺、のちに読み返して、どんな意味かわからなくなりそうな気がする。)

ヴィデオレコーダを何台も駆使して録画しつつ、その間にもせわしくチャンネルを替えては進行状況をチェックした。
ただそれほど大好きではありながらも、常に心の片隅に、「いくらなんでもこれは……」との思いもあった。私は好きだからいいけれど、嫌いな人には、大晦日にどのチャンネルにしても裸の大男の殴り合いばかりではたまらなかったろう。もっとバラエティに富むべきである。数字が稼げるとなると一気にそれに走るテレビ局の企劃貧困を嗤った。

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昭和天皇が危篤に陥り、全局が昭和特番の映像を流しているとき、唯一演歌番組を流して視聴率を稼いだテレ東の気持ちがわかる。いやテレ東を見た人の気持ちがわかる。モノクロの戦争の映像が多い中、あでやかな演歌の和服が目に焼き付いた。
私は見ていない。前代未聞空前絶後の長い元号である昭和の最後をしっかり目に焼き付けようと、これまた複数のヴィデオレコーダを駆使しつつ、あれこれ想いを馳せていた。「昭和最後の日」は、8時間録画でテープを回しっぱなしにして録画してある。いつの日かあれを見ることもあるのだろう。

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好きであることと過剰であろうという懸念は別物だ。私は挌闘技ブームに酔っていた。全局録画しつつ、生ではどこを見ようと浮かれていた。浮かれ気分にの中にも「これはおかしい」との想いはあった。

今年はTBS一局だった。実質的にはフジの『PRIDE』を飲み込んだ最終勝者になる。もともと日テレはこの二局が当てたのを見て遅れた馬車に駆け込み、猪木の金儲けに振り回された形だった。金銭のもつれから裁判沙汰やら脅迫事件やらの醜聞は当然の帰結だ。プロレス放送の老舗なのにみっともなかった。いや草分けという誇りがあったから詐欺に引っかかったのか。でも今思えば「永田対ヒョードル」を見られたのはよかったのか。あれでプロレス幻想は消えた。前座の藤原最強説から始まる長い長い幻想だった。
昨年の一局のみは自然な形であろう。なくなってしまうのもさびしい。

今回のヒョードルのギャラが200万ドル(2億2千万円)と知ると、やはりバブルが膨らみすぎたのだと感じる。健全な世界ではない。佐山がヒクソンを初めて呼んだときは400万円だった。マイナーな興業故、それでもずいぶん払うなと思ったものだ。そこからここまで膨らんでいる。こうなると趣味の石油王の世界だ。挌闘技は本来そういうものだった。相撲が大名丸抱えの趣味の世界であったように。

パンクラチオンを理想化する人がいるがそんなうつくしいものではない。搾取して成り上がった王侯貴族が闘犬まがいに人を闘わせ、美女を侍らせ、美酒を飲み、己の権力と立場に酔う世界である。グラディエーターがうつくしいものか。あれはせつなくかなしいものだ。

リアルファイトの厳しさは年越しの酒を飲みつつ楽しく見られるものではない。すくなくとも私はそうだ。でもそういう人もいるのかもしれない。とすると、前記のような假想王侯貴族気分を味わっているのか。人の心には、自分は安全地帯にいて、他者の殺し合いを見て楽しむ残酷さがある。

大晦日の挌闘技は笑える「ハッスル」が向いている。そんな気がする。
今はただ、挌闘技バブルの時代を体験できたことを感謝するのみである。

 

中国のプロレス

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 中国のプロレス

 妻は日本にいるとき私の影響でプロレスが好きになった。
  力道山時代のファンのように、ノータッチでフォールをじゃまするレスラーに、「こいつはわるいやつだ」と真面目に怒るのが、なんともほほえましかった。

 その妻から電話が来て、25日にプロレスが放送されたという。日本人が主役だと。河南省で開催と言っていた。
 妻はプロレス好きの私が知らないことを不思議がっていたが、これってそんなにおおきなニュースか。すくなくとも『NOAH』や新日ではない。

 ネット検索したら、ドラゴンゲートがやったようだ。ああいう雑伎団のようなプロレスは中国では受けるだろう。

 

 

大晦日のハッスルにミルコ来日

ハッスル オフィシャル ウェブサイト

大晦日のハッスルにミルコが来日するという。
それはよいことだが、公開メールの中の「尊敬するミスター・タカダ」は違うだろうと条件反射。
アリ戦の猪木のように寝転がった高田を最低だとボロクソに言っていたはずだ。

ということで2ちゃんねるを探すと、


>>尊敬してやまないMr.Takada

確か前に、ヤツはチキンだって言ってたよな…

いつから高田を尊敬しだしたんだろう?

と、誰もが思うことは一緒。そしてまた思うのは、

相手はもちろんブルージャスティス永田さんなんだろうな

これまた一致。

ヒョードルと闘って、恐怖から頭を抱えた永田の罪は大きい。
それは準備不足なのに無理矢理闘わせた猪木の罪でもある。
受けた永田が男なのかアホなのかいまだにわからない。

 

 

 

ゴング 廃刊!?


 ゴング廃刊!?


 

週刊ゴング廃刊決定

先日、代表取締役社長の前田大作容疑者がコンピューター関連機器会社「アドテックス」(東京都港区)の民事再生法違反事件で逮捕された日本スポーツ出版社は、27日までに「週刊ゴング」の廃刊を決定、編集部員全員を解雇すると通告しました。40年の歴史を持つプロレス専門誌「ゴング」は来週発売号をもってピリオドを打つことになりました。

<「週刊ゴング」とは?(WIKIPEDIA」より(敬称略)>
ベースボール・マガジン社でプロレス&ボクシングの編集長をしていた竹内宏介を日本スポーツがヘッドハンティングし、竹内を編集長・総責任者として1968年に月刊誌「月刊ゴング」として創刊。当初はプロレスだけでなくボクシングも扱った格闘技専門誌だった。1982年にボクシング部門を月刊ワールドボクシングとして分割、プロレス専門誌化される。1984年に週刊化され現在の誌名に変更。

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 1968年の創刊号から闕かさず読んで来たひとりとして複雑な思いである。最初はベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」に対抗したものだったので、中身もプロレスとボクシングだった。私はプロレスのみを読みたかったので、このすぐあとに出る「別冊ゴング」に特に思い入れがある。「別冊ゴング」とは月刊のプロレス専門誌だった。本誌のゴングが毎月1日発売、別冊は15日発売だったか。別冊の方を毎月待ちわびては購入したものだった。

 このプロレス専門の別冊ゴングが「週刊ゴング」になる。ベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」が「週刊プロレス」だ。週刊誌になってからは私は『週プロ』の方を読むようになり、そのあたりから「ゴング」との縁は切れてしまった。立ち読みは闕かさずしていたが。

 近年はもう立ち読みさえしなくなっていた。たまにするそれは『NOAH』の大きな大会があったときだけだった。
 思いこみというなら、昨年廃刊になった『週刊ファイト』とは比べ物にならない。ファイトを読んだのは二十代後半の時だった。別冊ゴングは高校生時代である。
 プロレス会場に足繁く通ったのはそのファイトを読んでいた時期だった。一緒に行った金沢のKやM、コニシとか、プロレス仲間も多く、自家製のプロレス誌を作ったり、いろんな意味で最もプロレスに充実?していた時期になる。だが私にとって胸が切なくなるような濃密なプロレスへの思いは、田舎の高校生のときの「別冊ゴング」とともにある。「まだ見ぬ強豪」としてスパイロス・アリオンやミル・マスカラスにあこがれていた時代だ。情報が乏しかった時代の乏しかったからこその充実を感じる。昭和三十年代へのいとしさと同質か。「別冊ゴング」なんて欄外のミニニュースまで暗記してしまうほどだった。

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 プロレスを殺したのは誰なのだろう。まだ死んでいないと怒る人もいるかもしれないから、私がプロレスを卒業してしまったのは何故なのだろう、とした方が無難か。
 それは時代の中で必然だった。私はそれを「先祖返り」と解釈している。
 本来のプロレスは権力者に庇護されて、あるいは権力者の権力の一部として、真剣勝負だった。パーリトゥードだった。
 それが発展し見せ物として成り立つようになる。各地を廻る巡業であるから怪我は大敵だ。マットは柔らかくなり、その分、派手に空を飛んだりするようになった。大技の連発で長時間闘ったりした。それが行き着くところまで行ったとき、先祖返りが起こった。1分も掛からず終っても、真剣勝負ならその方が価値があると思われる時代が来た。ぐるりと一回りして元に戻ったのである。

 ということは、今の真剣勝負であるが故に残酷で地味な短時間の闘いがまた一回りしたら、信頼し合っている者同士が相手に怪我をさせないように闘うプロレスの安心感にまた脚光が当たる日が来る、とも言える。

 しかしそんな日が来て、かつてのように子供達がゴールデンタイムのプロレスを楽しむようになったとしても、私がまた以前のようにプロレスを好きになることはないように思う。
「プロレスは卒業するもの」と言われてきた。私は頑固に留年を続け卒業しなかった。それは校舎の崩壊、あるいは学校の閉鎖のような形で訪れた。いまだ卒業したのか追い出されたのかわからないのだが、もう復学だけはないように思う。
 今も土曜の深夜、PC作業をしていて、ああもうそろそろプロレスだな、と思うことがある。ネットの番組表を見る。棚橋、永田などと書いてある。見る気がしない。見ない。『NOAH』の我慢比べのような試合もつまらない。ブロレスは「あれが出たら終り」でなければならない。
 創刊号から読んできたゴングの廃刊で切れかかっていた糸がきれいに切れた。突然のことではなく緩やかな死だったから、かなしみはない。

小橋のアメリカ遠征

小橋がアメリカ遠征をした。38歳で初めての海外試合である。『週プロ』には「Living Legend」として熱狂的なアメリカのプロレスファンに迎えられたとあった。

 テリー・ファンクがLiving Legendだと聞いたとき、私の好きだったのはNWA世界チャンプのドリーの用心棒としてがんばる二十代半ばの荒々しいテリーだったから、しみじみと時の流れを感じたものだったが、小橋がそうだとなると戸惑いを隠せない。テリーの場合は自分が高校生の時でありそれだけの時が流れているから、誰でもいちばん甘酸っぱい思いを抱いているのは少年期だとでも言い含められるのだが、小橋に関してはハンセン、ブロディのあたりのセコンド(というか身の回りの世話)をしていた短パンの前座時代がついこのあいだのように思えるからだ。二十歳でデビュして三十八だから二十年近く前のことにはなるのだが。

 しかしそのあと『週プロ』の「超満員の観衆」「熱狂的な歓迎」に続く「観客千人」を観て、なんとも複雑な気分になった。写真を見ればわかる。こりゃ田舎の町の体育館である。そういうことかとわびしくなった。

 スターになる日本人プロレスラーは海外武者修行からの凱旋帰国というのが力道山ブロレスから馬場、猪木時代、今にいたるまで一貫した流れであった。東プロから復帰する猪木なんぞもUSヘビー級なんてインチキベルトを急造してチャンプになって箔をつけたりした。佐山、前田から三沢、川田にいたるまで同じ。そんな中、唯一海外武者修行をせずにスターレスラーになったのが小橋だった。馬場がもうアメリカンプロレスに学ぶものはない、行く必要がないと判断したからであり、それは正しい意見だったが、それに納得しつつも小橋の中にアメリカに対するひとつの憧憬が生まれたのも確かだろう。
 馬場自身はWWWFでニューヨークのマジソンスクエアガーデン、NWAのキールオーデトリアム、WWAのロスのオリンピックオーデトリアムと当時の三大団体でメインを張る希有な体験をしている。馬場だけの勲章である。その意味でも馬場と猪木では格が違う。むしろそれに次ぐのはキラー・カーンか。

 このあといくらでも書けるし書かねばならない。本来は長文になるのだが急いで結びとする。
 私の中にも小橋に海外で試合をさせたいという思いがあった。それは外国を知らないかわいい甥っ子に海外旅行をさせてやりたい叔父のような気持ちだった。
 日曜の深夜、そのテレビ中継があったので録画し、のちに楽しみに観たのだが、アメリカの田舎町の体育館で試合をする小橋を観ていたら、ものさびしくなって、なんどもテレビを消したくなった。消してはならないと言い聞かせ一応最後まで観たが気分は複雑である。

 小橋がアメリカのコアなファンのあいだで「Living Legend」であるのは確かである。いつしかプロレスの本場はアメリカから日本に移り、WWEの大味なショープロレスに飽き足らないアメリカの真のプロレスファンは日本のプロレスに憧れるようになった。彼らが年間ベストレスラー、ベスト試合として選ぶのは毎年三沢や小橋だった。ごくごくちいさな世界ではあるが真実である。

 だからノアが箔付けのために名前を借りているハーリー・レイスの地元で行われたこの「町の体育館のプロレス」でも、小橋を観られてうれしくてたまらないというコアなファンもいたと信じたい。だけどかわいい甥っ子に思い切りアメリカを満喫して来いよと送り出した気分のおじさんとしては、なんとなく、すまんなあ、こんなつもりでは……の気分を払拭しがたい試合だった。

 勇んでタイトルだけ書きヴィデオを観た。これらのことを連綿と書きつづるつもりだった。だが観たらもう文章を書きたくなくなった。がんばってこれだけ書いた。いま書いておかねば書く機会がなくなる。救いは、小橋はこの遠征をすなおに喜び、得るものがたくさんあったと目を輝かせているだろうってことだ。

旭天鵬の帰化──日本人、太田勝さん誕生4

 旭天鵬の帰化

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 旭天鵬がモンゴル人力士として初めて日本に帰化した。大相撲中継で知った。スポーツ紙のバックナンバで調べてみる。
 すると、昨年1月に帰化申請を出して、今年6月23日に法務省から許可が出たと知る。帰化には該当する期間日本で暮らしたことに加え、日本語をよどみなく話すこと、文字の読み書き能力が必要だ。旭天鵬の日本語は十両時代に初めて聞いたときから驚異的にうまかった。なぜモンゴル人の日本語はあんなにうまいのだろう。感動的ですらある。在日二十年の白人よりも三年のモンゴル人の方がはるかに自然な日本語を話す。前相撲時代の相撲学校では読み書きと歴史をしっかり教えるからこっちも問題はないだろう。どちらも小錦なんぞよりは格上である。
 問題は引受人だ。小錦は女房の姓にした。そのご離婚したから帰化のための結婚ととられてもしかたない。その他、高見山を始め力士の帰化は「結婚して女房の姓を名乗る」が基本だった。旭天鵬は独身である。どうするのだろう。



 スポーツ紙で「太田勝」となったことを知る。7月10日から始まった名古屋場所では初日から3連敗。4日目に初白星。「日本人として初の1勝」と笑顔で語っていた。会場では「太田、がんばれ!」とのかけ声もとぶという。照れくさいがうれしいとのこと。

 はて「太田」とはなんだろう。そこでひらめく。師匠の大島親方、元大関旭国は、普段は、というか通例として業務上は「大島武雄」を名乗っているが、たしか本名は太田ではなかったか。調べる。やはりそうだった。とすると旭天鵬は親方の姓をもらったことになる。なかなかいい話だ。

 スポーツ紙によると「帰化は相撲界に残り後進の指導をするため」となっている。一部では「部屋を継承するため」とも言われている。それは大島親方の株を引き継いで親方になるってことか。そうなると旭国のこどもが気になる。こういう場合、旭天鵬と娘を結婚させて跡を継がせるのが相撲界の常道である。息子が生まれても親方株を引き継ぐ名力士になれるとは限らない。自分の娘と部屋の最強力士と結婚させるのが最良の継承方法である。だから親方クラスは娘が出来ると喜ぶ。
 どうやら旭天鵬が大島部屋を継ぐのは事実らしいのだが、どうもこの辺がわからない。

 それはまあそのうち追々判るからいいとして、旭天鵬の「日本人に帰化したことでモンゴル人から『金で国籍を売った』と責められた」は興味深かった。在日モンゴル人のサイトで旭天鵬の日本人帰化が否定的に論じられたのは事実らしい。横綱朝青龍はモンゴル人の妻をもらい、帰化しないことを明言している。もっともこれも最近では「日本に残って力士を育てるのもいいな」と発言したりしているらしいから先は判らない。

 ともあれ旭天鵬は人柄もいいしみなに好かれている好人物だ。だからこそ旭国も後継者に選んだのだろう。私も好きな力士であるし彼の帰化を心から喜びたい。今後もモンゴル人力士は一大勢力として相撲界で活躍するだろうから通訳も出来る旭天鵬は貴重な存在になる。

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 旭天鵬初優勝、おめでとう太田勝さん──旗持ちは白鵬──2012/5/20

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【追記】──旭天鵬帰化が【木屑鈔】初めてのテーマ──2014年9月26日

 40歳幕内勝ち越しをなしとげた旭天鵬人気で、私のこの「旭天鵬の帰化──日本人、太田勝さん誕生!」が人気記事として復活していた。調べてみると、書いたのは2005年7月18日。自分でも忘れていたが、なんとこれはこのブログの最初の記事だった。
 サイト(当時はホームページと言った)は2000年のすこし前からやっていた。それで十分だったのだが、なぜか流行り物として、それを凌駕する勢いでブログなるものが話題になっていた。とりあえず自分もやってみようかと手を出してみたのがこの【木屑鈔】になる。早いものだ、もう9年になるのか。すぐに飽きて旧態のサイトにもどると思っていたが、ブログの便利さに慣れてしまい、いまではすっかりサイトのほうがご無沙汰となってしまった。そうかそうか、この【木屑鈔】最初の文はこの「旭天鵬の帰化」だったんだ。当時もいまも旭天鵬大好きだから、なんかうれしい。

 上の文を読むと、朝青龍が現役なのは当然として、「日本に残って」なんて発言もしていたんだ。すっかり忘れている。だってもう9年も前の記事だから。

 上にリンクしたのは【芸スポ萬金譚】の「旭天鵬初優勝」の時の文。これもぜひ読んでください。なんかこの【木屑鈔】の「帰化」は人気になっているのに、【芸スポ萬金譚】のそれはあまり人気がないようだ。なぜだろう。いい文章なんだけど(笑)。

 旭天鵬の40歳現役、しかも幕内で勝ち越しは、長年のファンとして大事なことなので、あらためて文にします。そのときはここにリンクしますのでまた読んでください。
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