旅行

旅話──中国在住白人との不快な体験※;.轡覆離肇ぅ貉情

 オンボロマイクロバスに揺られて山道を走ること4時間。やっと最初のトイレ休憩になった。かつては1時間半から2時間に一度ぐらいは確実に休憩所──路線のあいまにある比較的大きなバス駅──に寄っていた。国営でやっていた定期便バスに、民間人運転手のバス持込み制度導入の際、そういう行政指導があったのだろう。十年以上前は決められた時間、場所での休憩が順守されていた。しかしあの支那人がそんな堅苦しいことをいつまでも守るはずがない。便数はかつての何倍にも増え便利になったが、と同時にそれらルールもいいかげんになった。いつどこに停まるかは運転手次第である。停まらない。初めてノンストップで4時間走られたときは何事が起きたのかと思った。何度も乗ってその路線を知っている。1時間半経ち、そろそろ休憩の場と思うのだが停まらない。勘違いだったか。たしか以前はこのバス停で休憩があったが……と思う間もなく通りすぎる。3時間走る。次ぎも停まらない。おかしいじゃないか、と思う。きちんと定期的に停まっていたときでも、私は、万が一そんなことになったらたいへんだと、出発前は極力水分を取らないようにし、小用をもよおさないように気を使う。お腹を壊す可能性がすこしでもあるものは食べない。出発地で地元のおばちゃんたちが売りにくる果物、ゆで卵、焼きトウモロコシ等だ。中には魅力的なものもあったが、支那のバスでお腹を壊す恐怖を考えたら手は出せない。くだってもいないのに正露丸を飲むほどの用心をしてきたお蔭でさいわいまだその経験はないが、ここのところの運転手のいいかげんさのせいで、それでもつらいことになり始めている。運転手の気分次第で休憩所をとばす。いきなり4時間も停まらないのだ。この地ではまだまだ「載ってやる」ではなく「載せてもらう」感覚なので、そういう運転手のいいかげんさにみな我慢している。それでも4時間でもよおすのは私だけではないらしく、やっと最初の休憩となったときは、携帯電話で喚き散らしていた支那人のおっさんも、無口な少数民族のオババも、みな飛びだすようにしてトイレに駈けこんでいた。やはりこれは権力者である運転手の横暴なのだろう。あちらはいい。自分のバスだ。自分がもよおしたら好きなときに好きな場所に停まれる。載せてもらっているこちらはあちらの顔色をうかがわねばならない。日本でバス運転手をしている知人がいる。ワンマンバスだ。ごく普通に乗車降車案内を話しているだけでも、毎日のように、命令口調だ、高飛車だ、いばっている、態度が悪いと会社にクレームが寄せられ、いままで何度も始末書を書かされていると嘆いていた。それはそれでひどい話だ。しかしまたこの地のめちゃくちゃな部分を見ていると、せめてもうすこし、と思う。定期的な停車と休憩はまもってもらいたい。とにかくいまは「載せてもらう感覚」である。「寄って休憩するはずのバス停」に寄らないと、トイレに行けないこちらも困るが、そこで待っている客も困る。だがみなそれはあきらめる。10時半というバスが来なかったら、それは満員で通過したということだ。次の13時を待てばいい。そんなことには苛立たない。苛立っていたら生きて行けない。それが「大陸的」思考である。
  
 4時間ぶりのトイレ休憩にみなバスを飛びだして行く。支那のトイレは有料だ。一律5角(1元の半分、いまのレートで9円、日本的感覚で言ったら1回50円か)を払って糞尿が溢れていてとんでもなく汚く臭く吐き気のする金をもらっても入りたくない場に金を払って入らねばならない屈辱。しかし出るものがあるのだから行かねばならない。たいして行きたくなくても次の機会がいつかわからないのだからいまこの場でしておかねばならない。大のときだとトイレの前にすわっているオババにあと5角払って質素なザラ紙のようなトイレットペーパーを買う。良質のティッシュペーパーが無料で配られる日本、しかもそれをぷいと無視するような日本との差をしみじみと思う。しかしあえて「どっちが異常か!?」と問うなら日本のほうなのだろう。支那のほうがひとの暮らしの原点なのだ。いまこうして文を書きつつ、あの支那の汚いトイレを思うだけで吐き気がしてくる。あれだけであの国には二度と行きたくないと思う。もっとも「汚いトイレ」というのは支那に限らない。ロシアなどもそこいら中クソだらけで、足の踏み場のないようなトイレに入らねばならない。花の都パリもそこいら中イヌのクソだらけだし。近頃の若者は海外旅行をしないらしい。よくわかる感覚だ。背伸びせず身近な快適な環境で生きるのがいちばん愉しい。なにを好き好んで異国に苦労しに行く必要があろう。私は海外旅行推薦者じゃないけれど、それでも、異国のこういう状況を知るだけで自分の国を考える機会にはなるし、それは若者にとって貴重な瞬間のように思う。そういう体験を若いときにしておくのは、それはそれで意味があるんじゃないか。まあ私が今時の若者だったら間違っても海外に行ってみようとは思わないから、エラそうなことは言えない。温かい布団にくるまっているほど気持ちのいいことはない。気持ちのいい場所があり、そこにいられるなら、あえてそこから出る必要はないという感覚はよくわかる。(続く)

旅話──中国在住白人との不快な体験;;.轡覆離ンボロバス

 支那の片田舎。定員20人ほどのオンボロマイクロバス。定期便。ほぼ満員。車内には禁煙の張り紙があるが、おかまいなしの煙もうもう状態。客はもちろん運転手自ら喫っている。これら定期便の車輌は個人の持込み制。バスのオーナーである運転手が喫っているのだから車内喫煙は野放し状態。タバコ嫌いのこちらは窓を開けて対抗するしかない。しかし山岳地帯なので30分毎に天気が変わる。爽快な青空が拡がったかと思うといきなりの雷鳴と豪雨。ワイパーが利かないほどの激しい降りだから窓から吹きこんでくる雨と風も半端ではない。いくら煙くても閉めねばならない。開けたり閉めたりいそがしい。この地ではまだまだ喫煙者が強い。我慢するしかない。近年窓の開かない大型冷房バスも増えてきた。さすがにそこでは禁煙が徹底されている。しかしまだまだ数が少ない。運賃も五割増しになる。今回の路線だと日に8本ある内の2本だけだった。金は惜しくないが、8時半に駅に着き、12時まで待つのはきつい。早いほうがいいだろうと9時半のこれに乗ったらこんなことになった。煙くていられない。12時まで待つべきだったか。ここのところずっと大型の冷房バスだった。この種のオンボロマイクロバスに乗るのは十年ぶりだ。さすがに禁煙張り紙の下での車内喫煙はなくなっているのだろうと思ったが甘かった。

 おまけに携帯電話だ。支那語で手机。中共の簡体字は「機械の機」も「机の机」もみなキは「机」で統一してしまった。「手機」なら文字的にも意味的にも「携帯電話」よりも簡便でストレートですぐれている。何であるかも想像しやすい。ついでに支那語で「手紙」は尻拭き紙ね。でも「手机」では日本人には「机」のイメージが強すぎる。以前このブログで、「支那では麺も面も面に統一してしまったので、面食いに引っかけた麺好きの猝誘瑤き瓩箸いζ本的漢字遊びが支那では出来ない」と書いたことがあった。日本の当用漢字、常用漢字という漢字制限による弊害も大きいが、支那の漢字統一多くの矛盾を含んでいる。
 支那は広く荒れ地が多く、電線敷設には金がかかる。だからついこのあいだまで電話は金持ちだけのものだった。それが電線いらずの携帯電話が安くなったものだから、その普及度合は日本以上だった。まさに猫も杓子も状態。そしてかつての日本がそうであり、電車の中がうるさくてたまらなかったように、支那はいま田舎者が携帯電話で話せることがうれしくてしょうがない時期だ。地声がでかく、うるさい支那人が携帯電話で喚き散らす。ふつうに話していても怒鳴っているようなあの連中が閉ざされた狭い空間のオンボロマイクロバスの中で、15人の客の内6人もが一斉に携帯電話で喚いているのだから並の騒音ではない。気が狂いそうになる。しかしそれもこれもこの地に来たのだから我慢せねばならない。いやなら来るな、だ。それが道理。こんなところに来ている私がわるい。あと8時間の我慢だ。客のみばかりか運転手が運転しつつ携帯電話で喚き散らし、対抗車を危うく避けているのが、前部の座席なのでよく目に入り、その度に肝を冷やす。そうでなくても羊腸している狭い山岳路なのに、なぜかこの運転手は中央車線を跨ぐようにして走る。ぶんぶん飛ばす。急カーブの向こうから悲鳴のような警笛を鳴らしつつ突如現れる対抗車に、なぜかこちらも喧嘩を買うが如く警笛を鳴らしつつ突進し間一髪で擦れちがう。生きている気がしない。その瞬間だけタバコの煙の煙たさを忘れられる。

 他の乗客はみな平然としている。携帯電話で喚きちらしたり居眠りしたり運転手の雑な運転を気にしていない。しかしこの運転と喚きの中で熟睡できるのもまたすごい。冷や冷やしているのは私だけだ。といって私だけが特別に神経質というわけでもない。実際これらのバスは頻繁に事故を起こし、断崖絶壁を転げ落ちて死傷者多数という事故をよく起こしている。それほどひどい道路なのだ。以前はなかったが、さすがにこのごむろはガードレールが出来てきた。死傷者多数の事故は、この15年、たまに来るだけの私でも20回以上知っている。てことは毎日のように起き、毎日多数が死んでいるのだろう。よって切符を買うときは必ず保険も買わされる。すでに切符に附いてくる。日本円で1200円ほどの切符購入の際に強制的にプラスされる200円ほどの保険は、果たして死亡したときどれぐらいの金額をくれるのだろう。異国からの旅行者である私にもきちんと支払われるのか。それは誰が受けとるのだ。これらのバスで死んだ支那人を何人か知っている。いくらもらったのだろう、今度遺族に尋いてみよう。たしかなのはバス事故で保険太りしたヤツはいないということだ。金持ちのクルマに撥ねられて息子が死に、親がその補償金で家を建てた例はひとつ知っている。輪禍で死ぬならバスではなく金持ちのクルマがいい。

 携帯電話片手の雑な運転に脂汗を浮かべ手摺を握り締めている私は支那の事情を知らないのではない。事情をよく知っているからこその脂汗なのだ。平然としている連中が無智なのである。彼らの情報源はテレビだけだ。山岳路でバスが転落して10人死んだなんて犧該戮覆海鉢瓩六抛瓩離謄譽咼縫紂璽垢任呂笋蕕覆ぁC亙紙の片隅には載るような気がするが見かけたことはない。私はこの地に関わってもう15年になるがまだ新聞を読んでいる人間を見たことがない。まして読書なんてとんでもない。私が待合室で文庫本を読んでいるとなにをしているのだと何人もの支那人が覗きに来るほどだ。
 
 ここで死ぬわけには行かない。事故が起きてバスが転落を始めたら、自分だけでも窓から飛田して生き残る気でいる。乱暴な運転と携帯電話騒音の中、のんびりと寝ている山岳民族のオババは、そうなったとき死ぬだろうが、私は飛行機墜落事故でも唯一生き残ったデューク東のように咄嗟のときにも身を守る姿勢を取りぜったいに生きのびるのだ。ここでだけは、こんな事故でだけは、死にたくない。(続く)

奥多摩の遅い春──ホッピーグラスの山桜──私の花見

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 奥多摩に出かけた。今までもなんどか出かけているが、それは電車で行ける奥多摩駅まで。
 春や秋の行楽シーズンは電車がヤマジジ、ヤマババで満員になる。まだ彼らに会う前、私はそれを老後の趣味として、健康的でいいものと思っていた。好意的だった。でも実際に電車の中で乗りあわせると、仲間同士で山のことを大声で話し、大きなザックが周囲の客に迷惑を掛けても気にしない、一方通行の粗雑な連中だった。ジジもババも。一気に嫌いになった。

 私は山好きではないし装備ももってないから、終着駅の先を歩きまわったことはない。今回はクルマで、今まで行ったことのない奥まで行った。



 杉林が多いから花粉症のひとはつらかろう。
 建築材として役立つことを考慮し、杉の植林が国策とされたころ、「土壌保全のためにも水源のためにも、ブナ等の広葉樹を植えたほうがいいのだが……」と発言された昭和天皇の見識はすばらしい。植物学者であられても、あくまでも狆歡Л瓩領場なので、政治である植林事業に意見を出されることはなかったが。
 
 父母がまだ若く、姉が中三、兄が小五、私が小一という我が家が最も家族的だったころ、教員の父が休みの日曜日、五人揃って数キロ先の山まで歩き、杉や松の植林をした。苗木はトラックが山に運んでおいてくれた。
 昼は持参した弁当だ。わざと箸を持って行かず、小刀で竹を削って即席の箸を作ったりした。魔法瓶のお茶もあった。ピクニック気分で末子の私ははしゃいだ。父母は、先祖からもらった材木が自分達の家計を助けてくれたように、将来の私たちのためにそれをしてくれたのである。毎年の恒例行事だった。私の家は戦後の農地解放による没落地主だから、田んぼは小作人に取られてしまったが解放対象でない山だけはたっぷりあった。一回に二百本だとして年に二回で四百本、十年で四千本ぐらいは植えたろう。こつこつとやったものだ。都会に出た姉が缺け、兄が缺け、最後は父母と私の三人になった。父母はその当時からこども三人に分けあたえる山を選別していた。こども三人も自分達の手で植林した山の将来を夢見たが……。

 しかしそれらが育つころには安価な輸入木材が出まわり、日本の木材は伐採料、運賃のほうが高くなると見向きもされなくなった。父母も間引きや枝払いの山の手入れを放棄した。だってそんなことをしても意味がないのだから。親の落胆は私たちよりもはるかに大きかったろう。父は退職時に家を新築したが、その材料もみな新建材と呼ばれるもので、植林した山の木が役立つことはなかった。
 時が過ぎ、親が残してくれた荒れた山を見るのはつらかった。二親も死に、故郷を捨てる際に二束三文で売ってしまったけれど……。



 頻繁に猿や鹿を目にする。となると条件反射で「山野井さんのクマ」を思い出す。世界的なアルピニストであり、奥多摩に住んでいる山野井泰史さんがジョギング中に月の輪熊に襲われ、腕や顔に百ヵ所ものケガを負ってヘリコプターで病院に運ばれた事件だ。
 詳しくは私のサイトに《「岳」から「ゴルゴ13」、平山ユージと山野井泰史「情熱大陸」》としてまとめてあるので、興味のあるかたは読んでください。

 リンクを貼るのに今読み返して、山野井さんが襲われたのが「倉戸山」と知る。私が行ったのは下の地図、「峰谷川渓流釣り場」近辺で、ここにアップした写真もそれになる。倉戸山はちかい。私は山好きじゃないけれど、山野井さんのことは男としてすごいなとすなおに思っているから、山野井さんのすぐちかくにいたのかとうれしくなる。が同時に熊もちかくにいたんだなと緊張した。
 なにしろカサと物音がしたのでふり向くと2メートル先に猿が5匹でこちらを見ていたりした。しかしここは地理分類上は東京都なのだ。こういうとこでも三代住むと江戸っ子なのか。

 なおこの地域が、あの大雪のあと道が杜絶し、孤立した集落へ自衛隊のヘリコプターで食糧を運ぶことになって話題になった地域です。道路の雪除去が終ったのは3月の末だったとか。

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 奥多摩の春は遅い。2月の大雪がまだ残っている。木々はまだやっと蕾の状態。花は見えない。
 空は青くすがすがしいが、時折身震いするような冷たい風が吹きぬける。



 地元のおばさんが土筆(つくし)を採りに来ていた。こんなに涼しい(笑)のに、つくしなんか出ているのかなと思ったら、枯草の中で見辛かったけど、春はきちんとそこまで来ているのだった。「和えるのですか」と訊いたら「炒める」と言っていた。
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 清流だ。山奥の川といえば、シナの濁った川を見ることが多いので心が洗われるよう。まああちらはみな川の中でクソをするし、犬猫の死骸もみな川に流す。そこいら中、ビニールやプラスチックのゴミばかり。大切な都の水源だからと、パトロールが見回って管理しているこの川と比べることに無理がある。

 でもその比較は、もろに「日本人と支那人のちがい」に通ずる。自分達の清流感覚で、川にクソをして犬猫の死骸も流す民族と接したなら、尖閣諸島も沖縄も取られてしまうだろう。



 釣り人等、訪問するひとたちもマナーがよく、ビニールのゴミひとつ目にしないことは救われる思いだった。もちろん私もせんべいの袋やペットボトルをみな持ち帰った。
 そういう中、タバコの吸い殻がゴミとしてやけに目立った。まだまだこれを携帯灰皿で持ち帰る喫煙者はすくないようだ。なんのかんの言ってもヤニ中毒のマナーなんてこんなものである。

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 山の整理なのかかなりの量の山桜の枝が伐採されていた。
「山桜」というとこれまた反射的に藤沢周平師の傑作短編「山桜」と、その原作を大事にした映画「山桜」を思い出す。大の藤沢周平ファンとして、やっと本物が出来たと胸をなでおろした快作だった。田中麗奈も東山紀之も好演だっった。それはこちらにまとめてあるので読んでください。2008年2月に『山桜』が映画化される」と知った。それまでに藤沢作品は、共産党支持者山田洋次によってボロズタのクソ映画にされていたから、「またオレの大好きな藤沢作品が冒涜されるのか」と不安になり、まずそのことを綴った。1年4カ月後、2009年6月にDVDで観賞し、「よかった、やっと原作に忠実な藤沢作品映画が出来た」と感激するまで、思えばずいぶんと長い話になっている。

 でもほんと、よかったよかったと胸をなでおろした作品だった。なにより藤沢さんの娘さんが「やっと父の原作と納得できる作品と出逢えました」と語っているのが、我が事のようにうれしかった。今日の午後にでもひさしぶりに見直すか。

【追記】──いま確認したら、関係者の発言で最も感動的な、藤沢師の娘さんが、「やっと納得できる作品に出逢えました」と語っているサイトが消えていた。リンクしたが繋がらなくなっている。2009年のものだから消えて当然か。しかしこういうことがよくあるから、こういう重要なものはコピーして自分のサイトに挿れておくしかない。あれを読んでもらえないのが残念である。言外で痛烈な山田洋次批判になっている貴重な発言だった。



 大量に伐採され、道路際に放置されている山桜(太い幹は直径10センチもある)に、いっぱいの蕾がついていて、それがまだ生きている。けなげでうつくしい。幹の切り口から見て、切られて一日二日のようだ。(この写真も撮っておけばよかった。)

 私は切り花が嫌いだ。花は野に、そのままにあるのがうつくしいと思っている。だから野にある山桜の枝を切りとって自室に持って帰るなんてことはしないが(と書くと、藤沢師の『山桜』はそれをする物語だから師の作品の否定になってしまうけれど)、今回は伐採された枝に着いている、このままだと咲くこともなく終る蕾だから、これは人助けならぬ花助けで、やってもいいのではないかと判断した。
 通りかかった町のひとに問うと、明日辺りダンプが来てこの伐採された木は処理場に運ばれるらしい。ならやっぱり「花助け」である。ここから持ち帰り、自室で咲く山桜を想う。カッターで一枝だけ手にした。



 それが先週の金曜日。
 一週間後の今日、やっと咲いてくれた。待ちかねた。咲いたらここにアップしようとたのしみにしていた。
 パソコン机の上に置いて記念写真。

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 活けてあるのはホッピーグラス(笑)。通販で買ったのがふたつあるので、そのひとつを一輪挿しにした。
 水に色があるのは赤ワイン。液肥がないので、せめていい気持ちになってくれと、すこしばかり注いだ。

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 今年の私の「花見」は、机の上の山桜である。
 今日はこれをかたわらに、映画「山桜」を見よう。
 酒はワイン? いややっぱ日本酒だな。山田錦精米50%の大吟醸を奮発するか。 
 あしたは桜花賞。阪神の桜はどうだろう。

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【補記】──プログは時間食い虫

 ひさしぶりに写真を多用した文を書いたら、写真の選別や加工やアップ(これが面倒)、リンクを貼ったり、文章の読み直しで完成まで2時間以上かかってしまった。やっぱりブログなんてのは閑人じゃないとできないね。一日中ツイートしている<きっこさん>がいかに何もしていないひとかがわかる。ありゃ異常だ。まともな生活じゃない。どうして喰っているのだろう。近所の親切なひとたちに世話になっているのか(笑)。

 とはいえ土曜日の早朝、待ちかねた山桜の開花だったから、充実した愉しい2時間だった。 奥多摩の雰囲気を感じてもらえたらさいわいです。

飲食話──タイで石川県のラーメン店「8番ラーメン」100店舗へ!

 ラーメン店「8番らーめん」のハチバン(石川県金沢市)は23日、タイの店舗数が100店に達したと発表した。

「8番ラーメン」のタイの店舗はハチバンとエリアフランチャイズ契約を結んだタイ企業タイハチバンが手がけ、1992年に1号店をバンコクに出店。現在はバンコクなど中部73店、100号店であるチェンライ店など北部7店、ウドンタニなど東北部5店、パタヤなど東部9店、プーケットなど南部で6店を展開している。

 メニューは8ちゃん麺(販売価格58バーツ)、味噌らーめん(73バーツ)、トムヤムクンらーめん(95バーツ)、ざるらーめん(78バーツ)、餃子(58バーツ)、鶏の唐揚げ(70バーツ)、炒飯(70バーツ)など。日本国内のメニューが基本だが、一部、現地の嗜好に合わせた商品を販売している。

 原材料は現地で調達し、セントラルキッチン方式(店舗で使用する主要食材を一括して製造加工、供給する方式)で各店舗に食材を供給している。
店舗数の拡大をにらみ、第2セントラルキッチンの建設を計画中だ。
http://www.newsclip.be/news/2013124_037005.html

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8ban2 すごいなあ、タイの出店100店突破か。
 金沢の友人のところに行ったとき、友人に連れていってもらい、初めて「8番ラーメン」に入った。私は太麺系のタンメン系(野菜系)ラーメンが大好きだから、もろに好みの味だった。たしか2000年だったと思う。

 そのあとチェンマイで出会った。なぜチェンマイに8番ラーメンがあるのか理解できなかった。でもなんとなく本物っぽいのである。うまかった。



 帰国してから、「あれはほんとうに御社のラーメンなのですか」と8番ラーメン広報部にメールを書いた。こんなことをしたのは初めてである。

 うまかったし、ロゴからもそうだろうとは思ったが、安心はできない。あのまったく無関係の○i○iの例もある。
 金沢で喰ったことのある石川県のラーメンチェーン店が、タイに進出するということも不思議だ。物価がちがう。採算は取れるのかと案じた。やはり無関係か。

 すぐに広報の人が、「はい、まちがいなく当社の出店です」と返事をくれた。バンコクの1号店から始まり、今年チェンマイ店を出したのだと説明してくれた。そのときはまだタイ全土で数軒しかなかった。
 あれからもうどれぐらい立つのだろう、十数年か。まだホームページをパスワード制でやっていたころだ。数少ないチェンマイ好きの読者からも、「へえ、本物だったのか」と愕きの同意を得たものだった。


 
 記念の100号店はチェンライか。はああ、いいなあ。行きてえなあ。ウドンタニ(イサーン)にも出店してるのか。
 タイで8番ラーメンを喰いたくなった。 チェンライもいいけどイサーンもいいなあ。

 この思い出の場合、本店のある金沢で先に喰っていることが大きい。単に「タイでうまいラーメン店を見つけた。日本企業がやっている8番ラーメンという店だ」ではイマイチになる。私は金沢で、自分好みの美味いラーメンだと感心した後、チェンマイで出会ったのである。

 そのことから逆算すると、私はもっと早くバンコクの8番ラーメンを食っていたように思う。その名称に思い込みがないから記憶にないだけだ。1992年のバンコク店が第1号店だという。おそらく私は1993年、1994年には、バンコク店で喰っている。あちこち出かけては喰っていた時期だ。だけど「8番ラーメン」というヘンな名前に思い込みがない。覚える気もない。印象にも残らない。だから始まりは、「金沢で喰ったうまいラーメン→8番ラーメン」であり、タイでのそれは、その後から始まった思い出になる。たぶんそうだ。



 私は長崎ちゃんぽんが好きなのだが、ちかくに専門店がない。しかたないので喰いたくなったら冷凍のを買ってくる。そこそこうまい。このごろの冷凍食品の充実ぶりはすごい。でもさすがにたまには本物を喰いたくなる。

 数日前、翌日の録画予約をしようとテレビをいじっていたら、テレ東の村上龍の番組に偶然チャンネルがあった。小池栄子がアシスタントをしている企業モノだ。今までに何度か見たことがある。
 そこに長崎ちゃんぽんのチェーン店リンガーハットの社長が出ていた。本場長崎でも大人気なのだとか。長崎の店の様子を流していた。

 それで猛烈に喰いたくなり、近所にないのかとネット検索した。ダメモトである。すると、なんとちかくに開店したばかりのリンガーハットがあった。翌日、早速出かけた。うまかった。うれしかった。外食の楽しみがひとつ増えた。
 でもそこは家族向けの店で酒はおいてなかった。ちゃんぽんを喰うならビールが飲みたいよねえ。



 東京のこのへんに8番ラーメンはないのか。ないだろうなあ、誰もが考える東京進出じゃなくて、逆転の発想でタイに向かって成功したのだから。調べてみる。やはりなかった。そもそも東京にない。

 近年、東京西部では、埼玉県から始まったらしい「満洲」というラーメン屋チェーンが気に入っている。名前もいいが、なんといってもすばらしいのは「満州」ではなく「満洲」と「しゅう」の字にサンズイがついているところ。これが正しい。これの有無でそのひとの見識が見える。売りは餃子らしい。ここでの「タンメン、餃子、ビール」が定番になっている。



 これは8番ラーメンサイトにあった「店舗一覧」の地図。この地図にある都道府県と外国に出店しているのである。う〜む、なんともユニークな進出先だ(笑)。

 日本と比したらまだまだ物価の低いタイで成功したってのはほんとにりっぱだ。拍手。石川県もなかなかやるな。そのうち支那の大連や香港でも喰ってみたい。

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秋晴れの一日──Terrible Good Day!



いい天気だなあ。秋の澄んだ空。涼しい風。陽射しは暑いほど。年に何度か、思わず感嘆してしまう日が数日あるが、今日はそんな秋の日だ。
先程洗濯をしていたら、あまりの好天に溜め息が出た。こんな気持ちのいい日に洗濯をしていると、高島俊男先生が大好きなものとして「洗濯」をあげていたことがよくわかる。なんか、しみじみと充実感がある(笑)。


oistrakhダビッド・オイストラフのヴァイオリンを聞きつつ気持ちよく仕事をしている。Prokofievはいいなあ。ここのところ仕事がたのしくてしょうがない。すいすい捗る。それもやはり気候による充実感なのだろう。夜は読書がたのしい。
しかしここまで天気がいいとさすがの引き篭もりも外に出たくなる。



東京オリンピック開幕が10月10日であり、後の体育の日になった。いまは毎年日がかわるので実感がない。
むかしの運動会は今ごろが中心だった。今日みたいないい天気に接すると、やはり運動会はこの時期がいちばん、と思う。
むかしの稲刈りも今ごろだった。運動会も稲刈りもいまはずいぶんと早くなった。



Scotlandの田舎で、こんな秋晴れに出会ったことがある。
魔法使いみたいな顔をしたしわくちゃばあさんに、いい天気ですねと挨拶したら、顔をくしゃくしゃにして「Oh Terrible Good Day!」と言った。テリブルは「ジェイソン・ザ・テリブル」しか知らなかったので、こんな使いかたもあるのかと学んだ。日本語で言うと「気味悪いほど美しい」とか、「吐き気がするほど気持ちいい」とか、そんな感じか。あの暗く重い天気の国じゃ、ほんとにもう最高の天気だったろう。



2004年10月26日、茨城の家の庭で、車イスに父を座らせ、病院に向かう日も、こんないい天気だった。
その頃、父は何度か入退院を繰り返していた。腰の痛みから自力歩行がつらくなり、トイレに行けなくなっていた。夜は私が徹夜で面倒を見ていた。父は前立腺から来る頻尿の気があり、一晩に5.6回、用を足した。枕元に私の作ったチャイムのボタンを置いておく。もよおしたらそれを鳴らす。すると私が二階から降りて行き、尿瓶をあてがって処理した。

父はそれを恥じていて、不自由な体で自分でしようとした。しかし精神安定剤という名の睡眠薬を飲んでいるから、意識は半分朦朧としている。手指は思うように動かない。失敗して布団を濡らし、それから私を呼ぶことも多かった。惚けたり、寝た切りになっているならともかく、意識はきわめい明瞭で頭脳も明晰だったから、いくら息子とはいえ、イチモツを指でつままれての尿処理は恥ずかしかったのだろう。いつでも遠慮せず呼んでくれ、おやじと息子の仲じゃないかと何度も言い、やがてすなおに聞くようになった。



父はそのまま家での療養を望んだ。なんの問題もなかった。だが昼の面倒を見ていた母が、躰がもたないと言いだした。母も老齢だったし、小柄だったから、父を支えてトイレに行ったりするのはつらかったろうとは思う。母が「あたしはもういやだ」と言い、また入院することになった。父は不満げだったけれど、私にも24時間は見られない。私も昼夜逆転の生活でふらふらになっていた。

兄夫婦は千葉にいた。兄は東京の会社に通っていた。兄嫁は趣味に生きていた。長男なのに一度も親と同居したことはなかった。こどもふたりはもう独立していた。夫婦だけだ。兄嫁が父母と同居して昼の面倒を見てくれたらすべて解決するのだが、自分の快適さしか考えていない兄嫁が義父の下の世話をするはずがない。兄にそれを命じる甲斐性があるはずもない。

そしてまた父母も、そんな屈辱的な頼み事の出切るひとたちではなかった。ここがへんなところで、田舎のことであるから父母も昔かたぎの長男偏愛主義である。田地田畑ぜんぶただの一度も同居することなく自分達の面倒を見なくても長男に譲り与えた。だったら自分達の面倒を見ろと言えばいいのだが、これまた誇り高くてそんなことは言えない。
いま思えば、昼間、有料の介護士を頼んで世話をしてもらい、私が夜の世話をして、家で死なせてやればよかた。悔いが残る。

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2004年の6月、肝硬変が進行していて、「もっても、あと半年」と医者に宣言された。デッドラインは12月。
10月26日の入院が最後になるのは間違いなかった。父がもう生きてこの家にもどってくることはない。私はその覚悟をしていた。肝硬変から来る腰痛を、ただの腰痛と思っている父は、意気軒昂だった。死をまったく意識していなかった。

奇蹟的な、美しい秋の日だった。ちょうど今ごろの時間だ。父が、「いやあ、すばらしいいい日だなあ」と言った。
私はそれに肯きつつ、泣きそうになるのを気づかれないようにした。父がもうこの家に戻ってくることはない。

やはりそれが最後の入院となり、父は医者の診立て通り、12月10日に逝った。
私は父の遺体を自分のクルマに載せて運んできた。



美しい秋の日にはいくつも思い出があったはずなのに、いま思い出すのは、Scotlandで魔法使いみたいな顔のおばばが言った「Terrible Good Day!」と、車イスの父の背中に手を置いたとき、父の言った「いやあ、すばらしいいい日だなあ」のふたつだけだ。

娘のおしゃれ心──チェンマイのセーター

 タイのチェンマイの冬。冷えこんだ日。日本人の私からすると11月ぐらいの気候。ちっとも寒くない。涼しくて過ごしやすいと思うぐらいの日。でも若い娘達は真新しいセーターを着こんで寒い寒いと大騒ぎ。
 なんのことはない「セーターという冬の衣料品を着たい娘心」なのである。彼女たちも映画やテレビで見て雪や氷を知っている。そんなときにはそういうファッションをするのだと憧れている。買って持っている。でもそれを着る機会はない。常春であり雪も氷も無縁だ。だから、ほんのすこし冷えこんだ日、とっておきの用意しておいたそれを着るのだ。一年で2.3回しかない貴重な冷えこみになる。

 当然のことながら、触らせてもらったそれは、一見モコモコして暖かそうだが、じつにもう暑くないよう気を遣った薄い毛糸(化繊かな)の、涼しそうなセーター?だった。国の気候とよくあっている。イギリスのセーターは目が細かく、隙間がなく、防寒具であることがよくわかった。お国柄だ。もともと油脂を抜いてないセーターなんて極寒の地の上着だし。

 おしゃれしたい娘心は世界共通なのだと感心した。イヌイットの娘にもビキニ水着を着たいと憧れているのはいることだろう。

学生時代に行った外国で衝撃的だった国──大阪

ライブドアブログが「こんなことを書いたら?」と奨めてくるブログテーマに「学生時代に行った外国で衝撃を受けた国」とあったので即座に「大阪」と書き、しばらく考えてから大阪は日本であることを思い出した。でも今まで行った50ぐらいの国と比べても大阪の衝撃度はベストスリーに入る。独立したんだっけ? 大阪ってまだ日本国の中にあるんだっけ? わからなくなってきた。独立戦争をやってるんだったか。いや国内で戦争をやってるのか、内乱? ハシシタ大佐というのの独裁がどうのこうのとニュースで見た記憶がある。
TPPで国がめちゃくちゃになっても日本にはアメリカに対抗できる最終兵器・Osakaがある! そのとき、のぼせあがったアメリカは恐怖に震えるだろう。ニューヨーク、ワシントンDC、ロサンゼルス、シカゴ、大都市にみなOsakaを落としてやる! 本気だからな! そのとき謝っても遅いからな! 今日はこのくらいにしておいてやる。

Jessica Jay{Broken Hearted Woman}--中島みゆき「ルージュ」-王菲「容易受傷的女人 」-吹きぬける感傷4



 1990年代にタイを旅した人なら、Jessica Jayの「Broken Hearted Woman」は忘れられない曲だろう。前代未聞というか、すさまじいヒットだった。大都市から片田舎まで、どこに行っても、どんなところでも流れていた。タイ語のVersionも続々と発売された。

 私はこのころ、一ヵ月契約で借りたレンタカーで、北部のチェンコン、チェンカム方面を走っていた。タイの田舎のドライヴ旅行は楽しい。どこに行ってもこの曲ばかりなので、躰に染み着いたような気がしたものだった。聴く音楽はカーステレオから流す持参したカセットテープだった。厳選して選んだものだ。現地でもだいぶ買い足していた。でも食堂や旅社のテレビ等、どこからでもこの曲が流れて来るものだから、いつしか覚えてしまい、知らず知らずのうちに口ずさんでいる自分に気づいて苦笑したりした。

 いま、なぜか当時のことを思い出し、「Thai Music」と分類されているフォルダを開いて聞いている。タイの音楽を聴くこともほとんどなくなった。ひさしぶりにPCから流していると、一気にあのころにタイムスリップする。なつかしい。音楽の力は偉大だ。



 シンガポールのジェシカ・ジェイが歌い、ダンスナンバーとして東南アジアを席巻した。各国で自国語のカバーが発売された。





 本歌は中島みゆきの「ルージュ」。ちあきなおみ用に提供したものだ。本人はアルバム「おかえりなさい」で歌っている。そういう漠然とした知識も「おかえりなさい」も持っているが、さすがにもう年代はいいかげん。いま調べたら、ちあきに提供したのが1977年、中島のアルバムは1979年とか。





 ちあきの歌はヒットしなかった。この歌を有名にしたのは中国語でカバーしたフェイ・ウォン(王菲)がヒットさせたからだった。タイトルは「容易受傷的女人」。

 中島の唄い方は、いつも通り地味で暗い。まあこのころは女の怨念のような歌を得意にしていた時代だ。ユーミンが明で中島は暗だった。

 フェイ・ウォンは女の情感をしっとりゆっくり歌いあげている。アジアでヒットしたのがよく分かる。
 聞くところによると、意外にちあきは軽く歌っているのだとか。未聴。



 すべての賞讃はこの曲を作った中島に捧げられるべきだが、この一見地味でおとなしい曲の起伏に富んだメロディに着目し、ダンスナンバーに仕上げたジェシカ・ジェイのスタッフも讃えられるだろう。



 ところで、ジェシカ・ジェイって何ものなのだろう。まったく知らない。血統的にどうなのか。父母は何人なのか。国籍はどこなのか。オリジナルの髪は何色なのか。

{Youtube}に動画はいくつかあるのに、その種の情報はない。彼女の作品で感じるのは、スタッフのアレンジのうまさ、商売上手という点であり、歌手としての彼女に魅力を感じないのでどうでもいいが。



 アルバム{Broken Hearted Woman}には、その他、郷ひろみの「哀愁のカサブランカ」、喜納昌吉の「花」もダンスナンバーにアレンジされて収められている。



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 四月のような風が吹いたので、ふとかつて旅した地域に思いを馳せた。またドライヴしたい。そう、「行ってみたい」ではない。また「ドライヴしたい」のだ。常夏のタイの田舎を、窓を全開にして走るのは楽しい。あの熱い風こそがタイだ。

 チェンカムの村外れ、粗末な服を着た少女が、ちいさなラジカセから流れる{Broken Hearted Woman}に合わせて踊っていた。

映画「ザ・ビーチ」のロケ地3

 テレ東の「午後の洋画劇場」で「ザ・ビーチ」をやっていた。2000年制作。ディカプリオの「タイタニック」の後の出演第1作になる。「タイタニック」が世界的ヒットとなりアカデミー賞11部門を受賞し、主題歌も大ヒットといいこと尽くめの中で、賞とは無縁だったディカプリオが撰びに撰びぬいて出演した作品。つまらん映画だ。まさに「選んでカスを掴む」になる。





 というのは今だから言える話。当時はわくわくしつつロードショーに出かけた。ディカプリオは「ギルバート・グレイプ」の時から天才だと思っていたので、彼が多くの出演依頼の中から悩んだ末に選んだという新作は楽しみだった。それ以上に「ロケ地がタイ」が、当時タイが大好きだった私には魅力的だった。


「ギルバート・グレイプ」と言えば主演はジョニー・デップ。兄役。智慧遅れの弟役がディカプリオ。地味だけれどいい映画だった。兄貴も弟もこんなビッグになるとは。





 始まってすぐ、ディカプリオが滞在し、事件の起きる安宿が1992年に泊まったことのある安宿オンオンホテル(安安旅社)であることに気づき、うれしくなったものだった。感想はそれだけ。


 ノートパソコンをいじりながらの斜め見だったが、今回いくつかあらたに知ったことがある。とはいえ以下に書くことはもうこの映画好き、タイ好きにはさんざん書かれたことになる。ネット上にも山とあふれていることだろう。私のための私の記録なので御容赦願いたい。



続き

神戸のロックカフェ.5──ポルナレフのこと

Sさんのブログで《ロック》を読んだあと、すぐにメールを書いた。あれこれ寄り道をしてしまい、もう「5」だけど、読んですぐに書いたので話の筋としてはこれが「2」になる。


 ブログ読みました。相変わらずうまいですね。ロックをしらないことを逆手にとったオチが抜群です。ジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンのギタリスト。ツェッペリンはあの飛行船のツェッペリン。レッドはleadで鉛。「鉛製の飛行船」。「すぐに落ちるでえ」「落ちる以前に飛ぶかいな」というしゃれですね。これを音楽の事などなにも知らないのに、知ったかぶりで「赤い飛行船」と書いて赤っ恥をかいたのがターザンで(と以下しばらくターザン山本批判が続く。つまらないひとのことを書いたつまらない文なので略)。

 しかしそのロックカフェ、ポルナレフがあるとはまた幅が広いですね。彼は当時の分類だと「フレンチ・ポップス」という括りになり、ロックとはまたちがうように思います。「 ノンノン人形」は記憶にありません。どんな曲だっけ。当然ジミー・ペイジが参加しているのも知りませんでした。マスターは物知りですね。私にとってポルナレフは「シェリーに口づけ」からです。調べたら、これが大ヒットしたのが1971年。「ノンノン人形」ってのはデビュウ曲で1966年なのですね。この曲以前にまだジミー・ペイジも知らない時です。

 ポルナレフは奇抜なかっこうで売り出しました。日本では息の長い活躍をしたわけではないし、私の中ではキワモノ的なイメージが強いです。十年ほど前フランスに行ったとき、フランス人の友人に「あのひとは今」的な訊きかたをしたら、今でも人気があり、彼も大ファンだと目を輝かせたので戸惑ったことがありました。まあかっこうはともかく音楽はきわめてまともでしたけど。

 次回行ったときは、マスターに「ポルナレフはフランスでは今でもスター」とお伝えください。ごく近所にこんないい店があるSさんを羨ましく思います。



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 メールを書いたあと、ポルナレフマニアのサイトを発見。熱心なひとはいるものだ。感動した!


http://michelpolnareff.seesaa.net/



 深夜に書いたこのメールに、翌朝Sさんが返事をくれた。それはほのぼのとする「ちょっといい話」だった。それを読んで、私はもうれつにこのロックカフェにゆきたくなったのだった。

懐かしい電話──過ぎた日への想い

 昨日はなぜか旅先で知り合った懐かしいひとからの電話があいついだ。というと偶然のようだがそんなはずもない。正月にひとりで酔ってさびしくなった私が懐かしい彼らに次々と電話をしたのだ。当然みな海外である。いない。帰国して留守電を聞いて電話をくれた。それだけのこと。年末からの一ヶ月を海外で過ごして今が帰国ラッシュ。一般人のそれとはだいぶちがう。

 暗い話題が多かった。交通事故死はまだいいほう。殺されたひとの話もいくつか聞いた。ふと忘れがちだが、原則として海外は危険なのだ。それがどこであれ。
 意外な離婚話も知った。それによる鬱病とか。あんなに仲よかったのに……。

 といってそれはここ一二年のことではない。あちらも酔っているし(今回は私は素面)、以前話し忘れたことを思いつくたびにしゃべるからほぼこの十年の総決算のようになる。さほど親しくはなくても十分に顔なじみで、よく将棋を指したりしたひとが数年前に亡くなっていたと聞くとおどろく。みなまだ若い。旅人は早死にか。

 むろんそれは他人様の話になる。電話をくれるひとはみな順風満帆だ。でなきゃ電話もくれないし、無責任な他人様の噂話も出来ない。次々と懐かしい名前が出てくる。

 楽しい話ばかりでもない。途中で「もういいです」と言って切ってしまったものもあった。あまりに無責任な他者を傷つける話につきあう気はない。簡明な真実だが、根拠のない悪質な噂話を私にしてくるひとは、次はそれをまた他者にする。一歩間違うとその悪質な噂話を流したのが私になってしまう。こういう負の連鎖は切っておかねばならない。

 ここのところ自分の記憶力に自信をなくしていた。むかしは人並みより遥か上の「上の上」と思っていた。だがどうやら、偏った部分においては優れた面もあるものの、缺落も多いと知り上の下くらいに方向修正し、友人に「ほんとにあのことを覚えてないの!?」と恥を掻かされることにより最近では中の下ぐらいまでになっていた。

 しかし彼らと話していると、彼らに関する二十年前の些細な出来事も克明に記憶していて、「よく覚えているねえ(=あの件を当事者の自分以外にもそこまで記憶してくれていたひとがいたのか、という感激)」と感心され、すくなくとも上の下ぐらいはあるなと居直ることが出来た。



 写真は二十年前の『サクラ』。すべては過去になって行く。
 過ぎ去った日がいとしい。
 鬼籍に入ったひとも多い。
 同時に、あのときの幼児がもう二十歳と聞くと、またあらたな感慨に包まれる。




タイでブルートレイン5

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 朝のテレビで「タイで日本のブルートレイン車輛が活躍中」とやっていた。映像も流れている。どの路線だろう。

 ネットで検索するとすでに旅行記が載っていた。北部である。バンコク・チェンマイだ。これは乗りたい。

http://4travel.travel.msn.co.jp/e/msn/traveler/nekomask/album/10109773/

 書かれたのは2006年の暮れ。そんなに前から走っていたのか。まったく知らなかった。時計が止まっている。

 軽度の「てっちゃん」である私は、外国に行っても電車ばかり乗っている。その分、バスが嫌いだ。乗らない。鉄道でいちばん楽しいのは本家のヨーロッパだ。

 バンコク・チェンマイ間の寝台車も、一等二等三等と全部乗っている。三等はイス席。二等の冷房つきがふつうにいちばん楽しいか。数多く乗っているのもそれになる。でも一等は一等で楽しい。シャワー室もあるし。

 急いでいるときは飛行機、時間があるときは寝台車だった。長距離バスには乗ったことがない。乗ろうと思わない。でもバンコクに働きに来ている地方の連中が帰省といったらバスだ。まあ、鉄道駅が郊外にあって不便なのに対し、バスの駅は町中にある。すぐトゥクトゥクやバイクタクシーにも繋がる。便はバスのほうが断然いい。

 長距離深夜バスの中で有り金全部盗まれた話はよく聞いた。
 Hさんは現金200万円を深夜バスの中で盗まれている。睡眠薬入りのジュースを奢られ、熟睡して目覚めたら、網棚のバッグ! に入れていおいた現金がなくなっていた。そんな大金を網棚に置くのも変だし、まずそれ以上に、金があるのになんでバスなのか。
 Oさんは尻ポケットに入れておいた財布を盗まれた。30万円入っていた。
 そんな日本人がいるのだから長距離バス専門、日本人専門の泥棒にも力が入る。知恵を絞る。悪いのは日本人のほうだろう。

 バス嫌いの私には無縁の話だけれど。
 云南ではバスに乗らねばならない。近くまで飛行機で行っても、最短でも8時間のマイクロバスが待っている。それがいやでいやで……。

 タイの車輛もいいが、日本製ブルートレインの車輛ならもっといい。日本のブルートレインはチケット入手がむずかしく、しかも高い。なかなか乗れないブルートレインに、バンコクからチェンマイまで乗れる。これはうれしい話だ。

 次回、かならず乗ろう。

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【附記】──古い話だった

 書いてから、タイで日本のブルートレインが走っていると話題になったときのニュースを見ていることを思いだした。2006年だ。そのとき書こうと思い書かなかった。それはいいとして、なぜか今回これを「初めてのニュース」として受け止めている。ぼけている。赤面。

1966年のチェンマイ──「兼高かおる 世界の旅」

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 1966年(昭和41年)のチェンマイ──「兼高かおる 世界の旅」

Iさんがスカパーで再放送中という「兼高かおる世界の旅」のチェンマイ篇をDVDに焼いて送ってくれた。わくわくしながら見る。

前回そのことを書いたとき二箇所間違いがあった。ひとつは1968年。これはIさんの勘違い。それよりさらに二年前のものだった。これはどうでもいいこと。
もうひとつの私のミスはかなり恥ずかしい。「日テレで」の部分。正しくはTBS。まあそれだけ私がこの番組に興味がなく見たことがなかった証拠でもある。

その理由はDVDを見てすぐにわかった。おそろしく生真面目な番組なのである。まるでNHK教育テレビだ。つまり、まったくおもしろくない。私は当時も見なかったが今見ろと言われてもやはり見ない。なんともつまらない番組である。小学生のころ学校で映画の日があり、最初に流されるニュースがつまらなくて早く終れと願ったものだったが、あれを思い出した。

Wikipediaに、「海外旅行が一般的ではなかった時代、多くの人がこの番組を見て海外旅行に憧れた」とある。そうなのか? そうだとしても、それはお金持ちの上流階級の方々だろう。すくなくともこの番組を見て、日本に不満を抱いている若者が「よし、外国に行って一旗揚げてやる」と思うことはあるまい。いやあったのかもしれない。こういう番組しかなかったのだから。これを見て海外に憧れ、旅だったバックパッカーの元祖のような人がいたのかも。
刺激の強さは後の世からは語れない。マリリン・モンローのスカートが捲れるだけで充分にエロだったように、当時のこの番組はこれでも先鋭的だったのだろう。

私はその後も海外旅行にまったく興味がなかったが、「なるほど・ザ・ワールド」に代表される後発の海外をテーマにしたヴァラエティ番組は楽しみに見ている。クイズ形式で娯楽色が強かったからだ。
こういうおそろしく生真面目な番組があれだけ長く続いていたあのころ。「古き良き時代」である。むかしも今も日曜の朝は堅い番組が多い。政治番組に代表されるように。娯楽番組でも「題名のない音楽界」のようにお上品だ。これもそこに属するのか。若かった私が近寄らなかったことがよくわかる。

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モノクロのニュース番組のような構成だったが感じた部分は多い。なにしろあのチェンマイが舞台だ。

70年代から行っている先輩方がよく口にしていたのが「駅から旧市街までが見渡せた」というもの。高い建物がなかったのだ。まだ今の新市街の発展も始まっていない。
映像は如実だった。駅からの道が映る。たしかに高い建物はなにもない。これがいちばんの感激か。空港もまだなかったから撮影班は鉄道でチェンマイ入りしたのだろう。この「駅から町中までの映像」は貴重だ。

ターペー門の辺りも簡素。まだ催し物広場は出来ていない。木から蔦を使ってターザンのようにお堀に飛び込む子供。これは今もソンクランのときにやっている。

ワットプラシン、ドイステープが変ってないのは当然。

女性の服装が時代を映す。1966年=昭和41年だ。シンプルなデザインのタイトスカートが当時の日本を思い出させる。

おどろいたのは、銀細工を紹介しながら、すでにこの時点で日本人経営の店があるとのナレーション。この時代にチェンマイに進出していたのは玉本さんだけじゃなかったんだ。桃源郷だったろうなあ、うらやましい。

かといって私は若いときからタイに関わりたかったとはまったく思わない。三十代後半からの偶然で正解だった。元々人生のビジョンなどない。刹那主義、快楽主義である。二十代から関わっていたら頭の中にはタイに行くことしかない期間工になっていた。今頃もうのたれ死んでいる。遅くてよかった。なんとか生還している。

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Wikipediaの「兼高かおる」の項では、このスカパーの再放送に触れ、今までの再放送、今後の予定まで載せていた。それだけ好きな人にとっては話題になっているのだろう。
私はスカパーと契約していないから見られないけど、していたとしても、見ないと思う。やはりこれは私とは無縁の番組だ。

42年前のチェンマイを見られてよかった。Iさん、ありがとう。

有山パパのいないチェンマイ

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 有山パパのいないチェンマイ

携帯電話のディスプレイにIさんの名前と電話番号が表示される。Iさんのケイタイからである。話すと、チェンマイに着き、いま『サクラ』にいるという。

私もすでに七年前に、チェンマイで買った海外とも通信できるタイプで日本の編輯者とやりとりしている。チェンマイの町中をバイクで走っているとポケットの中のケイタイが振動し、それが日本から、というのはなかなかの感激ものだった。
それでもディスプレイにいつものようにIさんの名前が出て、チェンマイからだとわかったときは新鮮だった。日本で使っている機器が海外に行き、そこからかかってくるという経験は初めてだった。
そういえばいまどこかのケータイが、世界の著名な都市からいつものようにやりとりする男女のCMを流している。もう海外でも通じるのは特別な機器ではなくなったのだろう。私も今のはワンセグを重視して購入したが次はそれにしよう。といってもう云南以外に出かける予定はないのだが。

すこし気になったのは七年前に日本から受けたときよりも声が遠く、何度もIさんと言葉の確認をせねばならなかったことである。単なる電波事情だろうか。

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シーちゃんと話した。すっかりご無沙汰した。九月以来になる。
「ユキさん、お土産ありがと」と日本語。

『サクラ』は開店以来初めてパパのいない正月を迎える。
元旦に『サクラ』の雑煮を何度食べたろう。
今年も振る舞われるのだろうか。

日本人ももうあまり来なくなってしまった。それは日本食食堂の付加価値は現地に詳しいおやじさんがいて面倒を見てくれることなのだから自然な流れである。今の『サクラ』を支えているのは日本食好きのタイ人だ。

元旦午前中の雑煮は日頃の感謝をこめた無料奉仕である。それだけを目当てのセコい日本人がこの日だけ来たりする。それもまた正月風景だった。

いま、それをする必要もないが、シーちゃんはきっと意地でも雑煮を振る舞うだろう。
Iさんの報告を待ちたい。

旅心疼く

00-tabi 旅心疼く


テレビで「ヘルメット着用が法制化されたヴェトナム」の様子を流していた。警察に捕まるからみなしかたなく順っている。
当初タイもなかなか普及しなかった。罰金制度になってもそれでもみなノーヘルで乗り、一斉検問でよく捕まっていた。私もチェンマイで何度か捕まり200バーツの罰金も払っている。警察の小遣い稼ぎなので、やる時期が連休前とか読みやすく、割合簡単に対策が立てられたが(笑)。
そうして普及してゆく。南国のヘルメットは暑苦しくて不快だが、慣れてしまえば、確実に頭部を守ってくれるありがたいものだ。

そこで流れていたサイゴンの街並みが私の知っているときよりもずっときれいなので愕いた。発展途上国はぐんぐん動いている。

バンコクで建設会社を経営しているOさんから、カンボジアとの共同開発であらたな会社を立ち上げたとメールをいただいた。いま頻繁にバンコクとカンボジアを往復しているとか。

カンボジアももう七年ほど行ってない。変ったろうなあ。
私が行っているころは政情不安定で、街角に小銃をもった警官が立っていた。タイと同じ感覚でバイクで走ったが、まったく違う場所であることを認識させられた。悪徳警官に因縁をつけられ金を巻き上げられるのは同じでも、タイで銃を突きつけられたことはない。ひどい国だった。
いまはどれぐらい安定したのだろう。


ひさしぶりにヴェトナムやカンボジアに出かけたくなった。

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