ことば

『将棋世界』1992年10月号──大山康晴十五世名人追悼号──米長の「去年今年貫く棒のようなもの」

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 この『将棋世界』1992年10月号「大山康晴十五世名人追悼号」は隅から隅まですばらしい出来の一冊だ。私の宝物である。古本で買うと高いだろうな。

 その中身の濃さは今まで何度か小出しで書いてきた。一冊丸ごとの感想を、いつかきちんとまとめたいと思いつつ、いまだに仕上がっていない。

 なにしろ全頁充実しているのだ。それはいかに大山名人の業績が偉大であるかを示している。そのすべてに感想を書きたいので、そうなると、雑誌一冊の感想とはいえ、とんでもなく大部の長文になってしまうのである。
 
 例えば、米長追悼号で米長のことを褒めなかった変人の加藤一二三が、すなおに大山を誉めたたえていて気持ちがいい。すると、やはり加藤は米長が大嫌いだったのだろうとわかる。

『将棋世界 米長永世棋聖追悼号』に関してはここに書いている。米長が亡くなったのは2012年、もう6年か、時の過ぎるのは早い。

 例えば、林葉直子の追悼文は、胸を打つ。目頭が熱くなる。心から大山名人が大好きだったことが伝わってくる。そしてまた、大山名人も、自分を慕ってくるこの女流棋士をかわいがっていたことが解る。米長追悼号で、林葉は、異例の2ページの追悼文を書いている。他の方々がみな1ページなのにだ。これは編輯部の発註だろうが、その理由は、林葉が米長の内弟子だったというような事情よりも、この大山追悼号での林葉の名文が、みなの胸に印象的に刻まれていたからではないだろうか。
 例えば、大山が木村名人から名人位を奪取したときの新聞コピーがある。現在のJISが滅茶苦茶にした簡体字ではなく、正字で書かれたその文字が美しい。
 例えば、原田泰夫九段の追悼文は、かなり辛辣な部分があり、理事としていろいろあったのであろうことが偲ばれる。
 例えば、と書きたいことがてんこ盛りの充実したムック(月刊誌だけど)なのだ。


 大山名人の命日は平成4年(1992年)7月26日。もう26年も経つのか……。

 この時点での棋界勢力は、谷川が竜王、棋聖、王位、王将の四冠を保持する全盛期。
 前王者の中原は名人のみ。翌年米長に奪われ、その米長から羽生が奪い、と激動の夜明け前。
 王座は福崎。翌年羽生に奪われ、その羽生が19連覇する。福崎の秀逸な冗談「前王座19連覇」はここから生まれる。
 後に、偉大な大山名人の記録を次々と塗りかえる羽生は、このとき22歳、タイトルは棋王のみ。まだタイトル歴は、竜王一期、棋王三期に過ぎない。森下七段、先崎五段と「大山将棋を大いに語ろう」という座談会で参加している。

 このあとタイトルを取りまくって三年後には史上初空前絶後の七冠王になる羽生は、この時点ではまださほどの大物扱いは受けていない。それは重要なことは青字で記入されている巻頭の大山年譜に、「昭和15年四段。加藤一二三生まれる」「昭和22年七段。中原誠生まれる」「昭和37年通算500勝達成。谷川浩司生まれる」とあるのに、昭和45年の項目に「羽生善治生まれる」がないことからも解る。このころはまだいくら若手の羽生が強いといっても、大山の大記録を次々と更新して行くとまでは誰も思っていなかったのだろう。すくなくともこの年譜を作成した人は思っていない。
 

 偉大な棋士の追悼号であるから多くの棋士、関係者が追悼文を書いている。 
 その中のひとり、米長九段は、「思い出の初手合い」という昭和44年の七段時代、時の三冠である大山名人と初対局した棋譜を、連載自戦記で取りあげて追悼している。

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●「去年今年貫く棒の如きもの」について
 と、ここからもう将棋とは離れてしまうのだが。 
 米長は、その自戦記の冒頭に、大山名人を讃える表現として、次のように書いている。

《去年今年 貫く棒の ようなもの
 これは飯田蛇笏の俳句だったと思うが、大山先生ご自身を遠くから拝見しているといつもこの句が自然に浮かんできた。
 この句は大山先生のためにあるような気がしてならない。》

 いかにも米長らしい、いい切り口である。 
 だがすぐに、「飯田蛇笏? 高浜虚子だよな」と思う。「ようなもの、じゃなくて、如きもの、じゃなかったか?」と。調べた。インターネットのない時代、この程度の調べものでもけっこう面倒。でもそのころはそれしかない。高浜虚子の句であり「如きもの」だった。


 誤解のないように強調しておくが、私は米長の勘違いを批判しているのではない。こんな勘違いは誰にでもある。私も同じようなミスをして、編輯者に指摘されて訂正し、救われたことがある。だから、米長の批判はしないが、「『将棋世界』編集部で、このことに気づく人はいなかったのか!?」とは言いたい。有名な句だ、誰かひとりぐらい「米長先生、これは飯田蛇笏ではなく高浜虚子です」がいてもいいだろう。
 発刊後すぐに読者からの指摘があったにちがいない。それを知った米長は、「誰か気づいてくれよ、恥を掻いたじゃないか……」と嘆いたろう。


 私事を書くと、私の競馬文章は中央競馬界の機関誌『優駿』から始まった。ここは本家本元であるから、競馬に関する誤記は許されない。学生バイト(大学の競馬研究会メンバーが多い)による数字等の基本チェックから始まり、三段階ぐらいの厳しいチェックがある。
 そういうところで育ったから、編輯部に対する絶対的な信頼感があった。後の競馬ブームで多種多様の民間競馬雑誌が創刊され、そこから声を掛けられたとき、ほとんどは断ったが、知りあいから頼まれたいくつかは受けた。そこで私は前記の米長のようなミスをしている。疎覚えの知識で書いても、まちがっていたら編輯部が直してくれるという甘えがあった。
 競馬ブームで続々創刊された競馬雑誌の版元はほとんどがアダルト雑誌の出版社であり、制作はみな下請の編プロ任せだった。競馬編輯のプロなどいない。こちらの原稿はチェックされることなくそのまま通った。自分の勘違いに気づき、だがすでにそのまま活字になってしまったことに身悶えし赤面し、その後、その種の仕事はしないようにした。
 慎重な私でもそうだったのだから雑なひとはもっとひどい。「来た仕事はぜんぶ受ける。絶対に断らない」と標榜して稼ぎまくっていた団塊の世代の同業者など、毎月あちこちで間違い文章を連発していた。すぐに消えて行く雑誌である。世の中そんなもの、といえばそんなものなのだろうが……。
 誇り高い米長は、読者からのそういう指摘を知ったとき、「しまった、確認してから書けばよかった」と反省すると同時に、「なんで編輯者が気づかないんだ。それをするのがプロだろ!」と怒ったのではないか。編輯長は田丸昇八段である。当時の『将棋世界』編輯部に「去年今年--高浜虚子」と気づく人がいなかったのは残念だ。
 しかしまあ時が過ぎれば、米長のそういう勘違い文章があるというのも、この『将棋世界』の魅力でもあるのだが。


 この件でもうひとつ思ったのは、「そういうふうにして覚えている誤った知識がいっぱいあるのではないか」という恐怖である。
 川端康成の随筆で有名になったこの句には力がある。すぐれた句には知らないひとを引きずりこむ魅力がある。
 かくいう私も初めて知ったとき、なんとも、言いようのない感動でしびれたものだった。去年今年貫く棒の如きもの。私の人生には、去年と今年を貫くだけの棒の如きものはあるだろうか、あっただろうか、もっているだろうか、心懸けているだろうか。

 この句を米長の自戦記で初めて知った読者は、確実にいただろう。理解しうる感性があるなら、しびれたはずである。そして記憶する。「飯田蛇笏作」と。「棒のようなもの」と。去年は「こぞ」と読むのだと。
 私は、たまたま知っていたのでそうならなかったが、もしもここで初めてこの句を知ったなら、確実に感動し、そして作者の名前、句を、まちがって記憶したはずである。


 私には、そういう「二十代の時にまちがって覚えて、そのまま生きてきて、それがまちがいだと四十過ぎてから知った」のような知識が今までにいくつかあった。
 例えば、「鶏口となるも牛後となるなかれ」を、なぜか「鶏頭となるも」と覚えていた。これはサイトを始めた2000年ごろ、読者に指摘されて気づいた。
 例えば、南関東の厩舎「矢作」を「やさく」だと思っていた。二十代の時から大井競馬には行っている。専門紙、スポーツ紙を読む。しかしそこにある「矢作」に音は附いていない。私がその読みは「やさく」ではなく「やはぎ」なのだと知るのは、お笑いの「おぎやはぎ」がでてきて、矢作が「やさくとまちがわれるの、いやなんだよね」と言うのを聞いてからだった。同じく、将棋の神吉を、四段になったころから将棋雑誌で知っていたのに「かみよし」だと思っていた。「かんき」であると知るのはテレビで見た十数年後だった。
 活字は音を教えてくれない。いまも、まだ気づかずまちがって覚えていることが一杯あることだろう。米長のこのまちがいを読んで、さいわいにもこのことに関しては、私は知っていたが、「まちがって覚えてしまう恐怖」を感じた。

 時の麻生総理大臣の漢字読み間違いについて、このブログに私見を書いたことがある。マニアックな麻生支持者から攻撃されて難儀したものだった。私は麻生さんを肯定し、漢字の読みかたなどどうでもいいじゃないかと言っているのだが、そのひとには通じなかった。

 麻生さんも国会で恥を掻くまで「順風満帆-じゅんぷうまんぽ」「詳細-ようさい」と思いこんで来て、なんの疑問を持つこともなかったのだ。意味は正しく理解しても、音がまちがっているとは他人に指摘されない限り気づかない。


 これで原稿用紙14枚。米長の自戦記のこの部分だけでこんなに思うことがあるのだから、一冊まるごとの感想が仕上がるのはまだずっと先になるにちがいない。

安保法案、四国付近に上陸?

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niftyのサイトを開いたら「注目ニュース」と、話題の記事が10コほど並び、その1番目と2番目がこれだった。これ、後半を逆にしても成立するなとわらった。

「安保法案、夜にも四国付近に上陸」
「台風、午後にも衆院通過」

ま、それだけの話。

続・イニシャルの話──日本人のイニシャルは姓名の順──My nama isからI amの時代へ

 今や外国語教育は小学校でも必修となった。家庭でも授業を終えた子供が、覚えたばかりの英語で話しかけてくるかも知れない。しかし、不用意に自分の常識で対応するとあいさつの段階で恥をかく。

Hello, my name is Ken Tanaka.〉は教科書に載っていた一番はじめに教わる英語のあいさつだ。

 このようにMy name isのあとに「名―姓」の順で習ったはずだ。しかしMy name is〜のあいさつは「古い言い回し」として今の教科書では使われなくなった。
 
 現在中学一年生の教科書ではI am Tanaka Ken.と、 I amと「姓―名」の順で名乗るのが標準なのだ。

 姓名の順は2000年に国語審議会が「国際社会に対応する日本語の在り方」で、日本人の姓名についてローマ字表記を「姓―名」の順にすることが望ましいと答申したことが大きく反映されている。
SAPIO2014年12月号

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 時代は正しいほうに動いている。西洋人コンプレックスで、日本人が姓名を逆さに言う時代は終った。

kanren7 日本人のイニシャルは姓名の順が正しい──2013/08/07

ことば──「残滓─ざんし」の読みかた──室谷克実さんの講演から

「呆韓論」「悪韓論」とヒットを連発している室谷克実さんの講演をネットで見た。「ざんさい」と口にされていた。前後の話から推測するに「残滓」でまちがいないと思われる。「残滓─ざんし」の百姓読みだ。旁(つくり)が「宰相」の「宰」なので、ここからの推測で「ざんさい」という読みが発声する。

 室谷さんは慶應の法学部を卒業後、数年前の定年まで時事通信で記者をしていたかたである。編集長も勤めている。「残滓」を百姓読みで「ざんさい」と読むひとがいるとは知っていたが、今まで出会ったことがなかった。まさか室谷さんのようなかたが口にするとは思わなかった。あの麻生首相の誤読以来のショックである。いやそれよりもおおきいかも知れない。あの場合は単に麻生さん個人が漢字が苦手だったにすぎない。その個人が日本国の総理だったので大きな話題となったわけだが、室谷さんの場合は、いわばことばの専門家である。これは「時事通信社では残滓を爐兇鵑気き瓩汎匹爐海箸ふつうになっている」ということだ。つまり室谷さんの周囲にいるひとたち、同僚、部下も、みな現場で「ざんさい」と言っているのである。報道の現場で「ざんさい」と使われているのだ。「そういう読みをするひとがいる」とは知っていても、私の周囲にはひとりもいないし、かつて耳にしたこともなかったから、私にはとんでもなく大きな事件だった。
 普及している百姓読みには、「些細─ささい」を「しさい」、「洗滌─せんでき」を「せんじょう」なんてのがある。これもみな旁の読みからの発声だ。それらは日常的に耳にするが、私はいまだかって「残滓」を「ざんさい」と読むのを耳にしたことがなかった。私の知らないところでどんどん時代は変っているらしい。
 

 
 それはとてもショックではあったが、私の持論からするとさほどのものでもない。なにしろ私は「脆弱─ぜいじゃく」を「きじゃく」と読んだひとが笑い者になるたび、「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と反感を抱き、「もう読みは爐じゃく瓩播一してしまえ」と思うほうだったからだ。
 偏(へん)と旁(つくり)から成る漢字を旁で音読みするのは日本人の習性だ。よって「脆」の旁の「危」から「きじゃく」という読みが生まれる。それは間違いとされる。まあ国語の試験的にはまちがいであるけれど。

 「ぜいじゃく」が正しく「きじゃく」は間違いという根拠は、「脆」の字を「ぜい」と発音することが、シナの原音にちかい(漢音でゼイ、呉音でセイ)という理由にすぎない。これはそれほど重要だろうか。日本人の漢字使用とは、そもそもが「和語に漢字を当てはめた」という「当てはめゲーム」にすぎない。なら「RADIO」から「ラジオ」という日本語を作ったように、「脆弱」を「きじゃく」と読む日本語があってもいいのである。「脆弱をきじゃくと読んだ。正しくはぜいじゃくだ」という批難は、「RADIOをラジオと言った。正しくはレイディオだ」と言うのに等しい。たいしたことじゃない。
 

 
 このブログでぜひ読んで欲しいテーマに「三年遅れの麻生首相漢字誤読論」がある。ここでの私の意見も同じく「漢字の読みなんかどうでもいいじゃないか。つまらんことで大騒ぎするな。政治家にはもっと大切なことがある」になる。だがそれを理解できない麻生信者から、「おれたちの麻生先生を否定するヤツが現れた」とばかりに、「むかしは順風満帆をジュンプウマンポと読んでいたのだ。ジュンプウマンポで正しいのだ」とか、「留学の長かった麻生先生は、ことばをまず英語で頭に入れ、それを日本語に訳して口に出すので時間が掛かるのだ」などと寝惚けた反論がとどいた。こちらの言っている要旨が理解できていない。自民党後援会員にはバカが多い。私の言いたいのは、「漢字の読みなんてどうでもいいじゃないか」に尽きる。麻生さんの味方なのだ。

 数日前に書いた、「弁える─わきまえる─ベンの字について」も、肝要なのは「弁えるという表記が醜い」である。「わきまえるは爐錣まえる瓩班修垢襪里いいが、どうしても漢字を当てたいなら、以前使われていた猾える瓩任△蹐Αこれには意味的に通じる部分がある。しかしなんの意味もない猜曚┐覘瓩鷲塒佑澄廚箸いΥ岨大好き者を嗤った意見だ。
 

 
 私のこの脳内理論はだいぶ前からなのだが、まだまだ「きじゃく」と聞いたらピクンと反応するし、もう時事通信社では常識らしい「ざんさい」にも脊髄反射してこんなことを書いているのだから、なかなか現実の感覚とは一致しないようだ。誤解しないでいただきたいが、私は「読みなんてのは時代とともに変って行くだろうし、めくじら立てなくてもいいじゃないか」とは思っているが、かといって自分が率先してそれをしているわけではない。私はこれからも「ざんし」であり「ぜいじゃく」である。今風の「憮然」や「閑話休題」の使いかたにも逆らって行く。

 願うのは、自分の好きなひとにはそれをしてほしくないということだけだ。過日「チャリンコ嫌い──朝鮮語から来たコトバ」を書いた。親しいひとに「チャリンコ」「ママチャリ」「ゲンチャリ」等と使うひとがいないことには救われる。大阪の朝鮮人部落から始まったことばだから、ダウンタウン一派の大阪芸人はみなこのことばを連発する。気分が悪くなる。対してビートたけしを始めとする関東芸人に使うひとはすくない。まことに「ささい」なことであるが癒しになっている。

ことば──役不足の誤用──2ちゃんねるの「及川眠子氏が百田氏批判」から──「殉愛」に思うこと

 2ちゃんねるの芸スポ板「作詩家及川眠子氏が百田氏を批判」スレは、及川氏のツイッター文にあった「役不足」をめぐって、いつしか「役不足論争」になっていた。以下、「役不足」で抽出したスレの一部。最後に私の意見も書きました。

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1+8 :Egg  :2014/11/17(月) 19:46:20.13 ID:???0 [PC]

作詞家の及川眠子氏(54)がツイッターを更新し、歌手やしきたかじんさん(享年64)の闘病生活をベストセラー作家・百田尚樹氏(58)が著した「殉愛」(幻冬舎)に対し私見をつづった。

「殉愛」はアマゾンの全レビュー中6割以上が最低評価となる一方で、約3割は最高評価と賛否両論となっているが、百田氏はこれを受けツイッターで「実態も真実も何も知らない第三者が、何の根拠もなく、匿名で人を傷つける。本当に人間のクズみたいな人間だと思う!」で不満をあらわに。

たかじんさん最大のヒット作「東京」など、たかじんさんへ数十曲詞を送った及川氏は「ちゃんと金を払って本を購入した読者の批判に対し、人間のクズ呼ばわりをする。世間に出したものがあれこれ言われるのは当然。私たち物書きはそれでゴハンを食べさせてもらっているのだ。世の中すべてが味方ではない。その覚悟なしに物書きなんてやれねえよ」と百田氏の発言を批判した。

さらに「殉愛」ではたかじんさんの元マネジャーK氏を犯罪者扱いする部分があるが、百田氏がこの人物に取材していないことに触れ「なぜウラも取らずに、1人の人間を犯罪者だと決めつける? ノンフィクション作家を名乗るのであれば、きちんと本人に取材すべき」と指摘。

「ヨメとマネージャー双方に会った、たぶん数少ない人間の一人」である及川氏は「百田さんに犯罪者扱いされても、きっと彼は訴えることをしないだろう。なぜなら彼が公の場に出ることで、今以上にたかじんの名を汚してしまうことを知っているから。必死で看護するのが愛なら、ただ黙して耐え続けることも愛なのだ。
それを理解できない人もいるけどね」とK氏を擁護した。

また、百田氏の「実態も真実も何も知らない第三者が、何の根拠もなく、匿名で人を傷つける」というツイートに対し「実態と真実をちょぴっとだけ知ってる人間が、ちゃんと実名を出して問うている。でも答えてもらえない。私じゃ役不足ですかぁ?」と皮肉も。

その上で「百田さんのことを貶めるつもりもない。百田作品が面白いのは事実。ただ、あの物語が『小説』だったらよかったのにと思うだけだ」と思いを述べた。


11月17日(月)18時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141117-00000118-spnannex-ent

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 まずは最初に疑問を呈したひと。


7+2 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 19:51:11.00 ID:c7A2WBe30 [PC]
役不足?
本当にプロの作詞家なの?


 誤用であろうという指摘。

9 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 19:52:33.00 ID:iSjKHg3B0 [PC]
>私じゃ役不足ですかぁ

力不足の間違い?誤用では?

その役割が軽い意味になってしまうと思う。


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 これでいいんじゃないかという意見。

14+5 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 19:55:27.37 ID:lbFG2/WL0 [PC]
>>7
あってるじゃん
百田が反論するにもあたらないくらい、私は役不足ですか?ってとでしょ

54+2 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:28:01.75 ID:yoT4woNS0 (1/2) [PC]
「昨日納車した」って言えば、「おまえディーラーかよ」って突っ込むのがお約束だけど、
「昨日納車だった」なら、「昨日納車した」でも「昨日納車された」でも意味は通じるだろ。
こういう省略形の文は、文脈で判断するんだよ。

「私じゃ役不足ですかぁ?」も「私を相手にするのは、あなたにとって役不足ですか?」って読めるじゃん。
ほんと読解力のない馬鹿ばっかだな。


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それへの反論。さらなる反論の応酬。

62+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:32:52.74 ID:TaXFZS/D0 (2/31) [PC]
>>54
ばーか。それなら「私じゃ不足ですかあ?」と書けばいいんだよ
それならよっぽどすっきりするわ
「役不足」などと書いたのは言葉の意味を知らないから



65+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:34:00.17 ID:nD8jz7lo0 [PC]
>>58
「あなたにとって私は相手にする価値もない人間ですか?」
という意味で使ってるからこの「役不足」の使い方は正しいよ


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 そんな論争はよそでやれという意見(笑)。

79 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:40:08.89 ID:vHl5bAmF0 [PC]
役不足とかどうでもいい。
よそでやれや、アホども

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 しかしまだまだ熱く続く。

81 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [↓] :2014/11/17(月) 20:41:03.41 ID:RGB3Tjqp0 [PC]
役不足は役<役者ってことだよな。
この人が言いたいのは、今回の件で
私が出てくると百田さんは困るでしょう?ってことじゃね?
この人は干されても構わないと言ってるし。
流石に作詞家は単語の意味には敏感にならないと仕事にならないんだから、
誤用はないだろ。この人はカルメンとかの訳詞の仕事もしてるし。



91+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:45:06.02 ID:R80fPGpJ0 (1/21) [PC]
>>75
「私は役不足ですか」、だったら誤用って言うのもも分かるけど
「私じゃ役不足ですか」や「私では役不足ですか」ってのは誤用じゃないよ
その場合は「私が相手ではあなたにとって役不足ですか」って意味だから

あなたがてにをはの使い方を理解してないだけw


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「役不足」じゃなくて「不足」が正しいという意見。これは「誤用派」。


94+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:45:43.34 ID:TaXFZS/D0 (7/31) [PC]
「私じゃ不足ですか?」と書けばよかったんだよ

バカだから「役不足ですか」と書いて、作詞家のくせに日本語知らないのを晒した

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「主語が省略されている派」が登場。これは肯定張。

121+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:56:04.05 ID:R80fPGpJ0 (3/21) [PC]
>>103
厳密には逆に意味になるわけじゃないよ
「私じゃ役不足ですか」ってのは主語を省略している
主語を入れれば「あなたは私じゃ役不足ですか」って文になる
つまり役不足なのは、及川じゃなくて百田。

普通、主語を省略した文で使うことが多いから勘違いしてるだけ


130+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:58:11.70 ID:R80fPGpJ0 (4/21) [PC]
>>112
だから、「役不足」の主語は、及川じゃなくて百田なの
日本語では主語を省略するってこと知ってるでしょ
「私じゃ何々ですか?」って言う文の主語は、私じゃないからw


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 定番の「辞書引用派」も登場。

132 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 20:59:21.24 ID:KVPGzhQT0 (1/2) [PC]
デジタル大辞泉の解説
やく‐ぶそく 【役不足】
[名・形動]
1 俳優などが割り当てられた役に不満を抱くこと。
2 力量に比べて、役目が不相応に軽いこと。また、そのさま。「そのポストでは―な(の)感がある」
◆文化庁が発表した平成24年度「国語に関する世論調査」では、「彼には役不足の仕事だ」を、
本来の意味である「本人の力量に対して役目が軽すぎること」で使う人が41.6パーセント、
間違った意味「本人の力量に対して役目が重すぎること」で使う人が51.0パーセントと、
逆転した結果が出ている。→力不足


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145 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:03:41.78 ID:6UA2L9M40 [PC]
この役不足の使い方に違和感持つのはアスペ
もしくは正しい俺!に賢い俺!に酔ってる馬鹿だろ
正しい意味として文は成立する



146 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:03:43.80 ID:TaXFZS/D0 (20/31) [PC]
この文章で「役不足」は明らかな誤用。

皆さん気をつけてくださいね
馬鹿と言われないためにね


160 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:10:27.06 ID:TaXFZS/D0 (23/31) [PC]
「役不足」とは〜〜彼の高い能力に比して役職が見当たったものではない、というのが本義。

「私じゃ役不足ですかあ?」では意味を成さない。完全な誤用。
この場合「私じゃ『不足』ですか?」で十分意味が通るものであった
「役不足」という意味を知らなかったのであろう
 
日本語を知らない愚かな作詞家が愚かな作家に噛み付いているだけの、益体もない話ではある。

 
190+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:23:27.36 ID:R80fPGpJ0 (8/21) [PC]
>>181
だからあんたは「役不足」の主語を勘違いしてるだけ
及川の文の主語は百田なんだよ。百田にとって及川じゃ役不足ですかって問いかけてるので
使い方として全然違和感ないし間違ってもいない

誤用や変な文だと、一読してなんかおかしいぞって感じるものなんだよ
あなたはそういう感覚が備わってないんだと思う



198+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:28:05.01 ID:TaXFZS/D0 (29/31) [PC]
>>190
主語の勘違いなんて話じゃねえよバーカ
ただただ「役不足」という語を知らない誤用なのは明白



212 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:32:19.99 ID:R80fPGpJ0 (9/21) [PC]
>>198
例えば、失恋した女の子が「私じゃ駄目なんです」って言ったら
駄目の主語は女の子じゃなくて失恋相手の彼ってことになる
「彼は私じゃ駄目なんです」の主語を省略しているだけ

あんまり使わない用例だけど、失恋した女の子が「私じゃ役不足なんです」って言っても同じこと
その場合も役不足の主語は「私」では無くて省略された「彼」
「彼は私じゃ役不足なんです」の主語省略形になる
恋愛に役不足って言葉は普通使わないけどね。文法的には同じ使い方


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「時代によってことばは変る派」が登場。

251+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:46:16.95 ID:28tyrNqm0 (1/3) [PC]
役不足の誤用に突っ込む奴多いけど、日本語は刻々変化してるんだよ
誤用も時代が変われば正解なんてことはよくある話
今はどっちの意味で使っても正解なんだよ
前後を読めば言いたいことはわかる

419 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/18(火) 00:14:02.04 ID:7v6OUxnW0 (1/5) [PC]
もう、役不足は、どっちの意味でもつかわれているというのが定説。
国語学に詳しければ、当たり前のことだろ。

言葉の意味なんてのは時代とともに変わっていく。これ理w
今や、役不足はどっちの意味で使っても間違いではない。

もう終了

489+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [↓] :2014/11/18(火) 01:40:30.87 ID:QlA1OcSP0 [PC]
>>484
まあこのレス見る限り間違いなく
役者不足の意味だよねw
私じゃ小物過ぎるが言い換えでしょ。
でも現代語としては役不足でいいと思うね。
言葉は生き物だから。


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257+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:48:37.89 ID:R80fPGpJ0 (12/21) [PC]
>>251
いや、そもそも誤用じゃない
「百田さんは、私(が相手)じゃ役不足ですか?」の主語が省略されているだけ
普通に使う言い回しなので、誤用って騒ぐ奴が日本語を知らないだけ


260 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 21:51:16.71 ID:R80fPGpJ0 (13/21) [PC]
>>253
「百田さんは及川が相手では不足ですか?」
「百田さんは及川が相手では役不足ですか?」

どっちも同じ意味だし使い方も間違っていないけど
個人的には役不足の方がしっくりくる


279 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 22:01:25.16 ID:R80fPGpJ0 (14/21) [PC]
>>264
「私には脇役じゃ役不足」、「百田さんには及川じゃ役不足」
こういう風に使うんだよ。
「及川じゃ役不足ですか?」って聞いたら、主語は省略されている百田になる

「私じゃ力不足ですか」っていうのは文法的には間違ってないけど
その場合の主語は「私は(百田の相手役に)不足ですか」って意味で
目的語が省略された文になっているんだな


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「機械翻訳派」が登場。

306 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 22:24:57.10 ID:R80fPGpJ0 (15/21) [PC]
英語が苦手だから機械翻訳にかけてみた
「私は役不足ですか?」→「Am I insufficient? 」
「私じゃ役不足ですか?」→「Is it insufficient in me? 」

機械翻訳すげーって思ったw

329 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 22:39:51.79 ID:R80fPGpJ0 (16/21) [PC]
申し訳ないが、たかじんや百田の話より「役不足」の方が面白くなってしまったw

「私じゃ役不足ですか?」→「Is it insufficient in me? 」
この文の主語は誰でしょうという、そういう問題だな

いや、文法を真面目に考えるなんて何十年ぶりだろうw


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「役不足論争」は、百田の本質をぼやけさせる工作活動だというひとも登場(笑)。


341 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [↓] :2014/11/17(月) 22:46:24.77 ID:cgYGZixO0 [PC]
>>274
役不足論争に持ち込んで、百田の言動の本質的な
部分をぼやけさせる為にやってるんだよ
まあ分かり安い工作活動だね


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378+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 23:21:06.97 ID:R80fPGpJ0 (17/21) [PC]
>>373
「私じゃ役不足ですか?」の場合、主語は省略された百田なので
百田に対して及川では力不足ですかって意味

私では百田さんの相手にはなれないんですかって意味だね
勘違いを続けてるバカがいるけど、及川の使い方は正しい使い方だよ



387+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 23:31:16.33 ID:1tR4lWTc0 (3/4) [PC]
>>378
それなら私は役不足ではなくて百田さんは役不足ですか?
としなければ本来の意味にはなりません。

いいですか役不足は自分を下に見る言葉で無いのです。

あれほど説明してもまだ分りませんか?


390+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/17(月) 23:36:36.96 ID:R80fPGpJ0 (18/21) [PC]
>>387
そうだよ。
だけど及川の文は「私は役不足ですか」じゃなくて「私じゃ役不足ですか」だから
「私は」の場合主語は私になるけど、「私じゃ」の場合主語は私にはならない
君はその使い分けが理解できていないんだよ

及川の文は「百田さんは私じゃ役不足ですか」の主語を省略した文
日本語では普通に使われる言い回しだよ

最初に書いたけど「私は役不足ですか」なら誤用と言うこともできるけど
「私じゃ役不足ですか」はどこもおかしくない。まだ分かりませんか?


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「役不足論争」を知ってか知らずか(ツイッターが炎上したようだから知ってるんでしょうね)ご本人がわかりやすい内容で再ツィート。

484+1 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止 [] :2014/11/18(火) 01:37:44.28 ID:3beS9jYw0 (3/5) [PC]
@oikawaneko: まるで一人で相撲をとっている気分だ。百田さん、そろそろ声を上げませんか? 
私への罵倒でも非難でも構わない。あなたの相手には小者過ぎるかもしれないが。皆がそれを望んでいる。物書きの意地とプライドを見せてください。さすが百田さんだと思わせてください。

役不足論争ご本人から説明してくれててワロタw


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 私の意見は「ほぼ肯定派」。イベントや結婚式の司会等で「わたしでは役不足でありますが」とやるのは明らかな誤用だが、この場合は、多くのひとが指摘しているように、「百田さんの論客として、私では百田さんには役不足でしょうか?」の意味あいだから、これでいいのではないかと思う。ただ「適切」とは思わない。役不足は本人が口にするものではないからだ。こういう表現は必ず問題を起こすので私は使わない。この場合も別表現にしたほうがよかったろう。一読して「あ、もめるな」と思ったら、想像以上に盛りあがっていた(笑)。

 「ことばは時代とともに変るからどっちでもいいのだ」という意見には反対。時代とともに変ってしまうものだけれど、抵抗はすべきだろう。もう「憮然」を本来の意味の「しょんぼり」に使うひとはほとんどいない。高名な小説家もみな「むっとする」の意味あいで使っている。「閑話休題」も誤用がアサヒシンブンやNHKで大手を振って歩いている時代だ。「時代とともに変ってしまう」のはしかたないが、挟間に生きている世代は、精一杯本来の正しい使用を主張するのがあるべき姿だろう。そして「役不足」は「誤用が定着したことば」だとは、まだ思わない。

「あらたしい」が、ふざけて使った「あたらしい」に押され、いつしか定着してしまった。「あらためる」「あらたに」と同じく「あらたしい」が正しいのだ。よって「あたらしい」だけ独特の存在になって浮いている。こんなのもこれからみんなで「あらたしい」を流行らせれば、正しい意味の、仲間もいっぱいいる「あらたしい」になる。そういう流れを作りたいものだ。

 ご本人がツイート。

oikawa-yakubusoku




 これを知ってからYouTubeで「金スマ」の特集を見てみた。あの番組内容には納得出来ない。百田さんの政治信条を支持するものとして心配になった。今回のこれは勇み足ではないのか、というのが現在の私の気持ち。イタリア男との結婚式写真も見た。時期が重なっていて不自然と、だれもが感じるだろう。打越の怒りのラジオ放送も聞いた。私はたかじん夫人&百田さんよりも、打越を信じる。だが打越の言うように、百田さんを「金と名声だけを求める最低な人間」とは思わない。毒婦にだまされたポカだと思うのだ。

 ただし、あれがひどい悪女だったとしても、たかじんが彼女を最愛の女として死んでいったのは事実だろうから、それは他人が口出しすることではない。遺産がどうのこうのなんてのも大きなお世話だ。男と女の話である。天国のたかじんが口を利いたら、百田さんが言っているように「おれが好きになった女や、おまえらよけいな口出すな、おれの金や」だと私も思う。

 朝鮮民族の話でもある。たかじんは、天童よしみの紅白出場を応援し、思想的には対立するはずの遥洋子をかわいがった。あれを見るたび、民族の血の結びつきを思った。そして最後にたどり着いた女も、この姜善子(通名・森田さくら)と、同じ民族だった。それが民族の血なんだ。私も最後は「やはり日本の女がいい」となるのだろうか。しみじみと猝餌沖瓩砲弔い胴佑┐拭

 私の心配は百田さんにある。「殉愛」は、百田さんの凡ミスではないのか。いや凡ミスどころか地雷を踏んでしまったのではないか。そのことが百田さんの政治的活動、思想信条にもマイナス作用するのではないか。Amazonのブックレビューを熟読した。異様だ。たかじんの死にかこつけ、思想的な「百田嫌い」が、ここぞとばかりに跋扈しているのはまちがいない。なんともそこが心配である。

kanren7『殉愛』騒動──及川眠子さんの百田さんへの挑発ツイート

ことば──「わきまえる」「辨える」「弁える」──ベンという漢字のこと

●ことば──「弁える」という表記の愚

《Wikipediaではやたらに不要な漢字を使うひとが多い。「弁える」がよく出てくる。くだらん漢字使用だ。いきなり「弁える」と出てくると思考が停止する。「猜曚┐覘瓠,覆鵑世海譴蓮 ああ、わきまえるか」と、ほんの一瞬ではあるが、そうなる瞬間がわずらわしい。しかも、そもそもその文中に「わきまえる」という日本語が必要とは思われない。唐突に登場する。このひとは「弁える」と書きたくて無理矢理使用しているのではないかとすら思える。》

 というようなWikipediaの文章批判をブログに書いたままほうりだしていたのでその続き。



 高島俊男先生の『お言葉ですが…』の初期のテーマに「全部ベンの話」というのがあった。何巻のどこかはあとで記入するとして、以下はそのとき覚えた話。ノートに手書きして「ベンの字」の区別を覚えたものだった。以下は引用。とはいえ手元にいま本はない。でも覚えているので書ける。教えて頂いた恩に感謝しつつ、先生の御健勝を祈りつつ、思い出し引用。

 敗戦後、当用漢字制定により多くの漢字が使用停止となり同じ音の字で代用されるようになった。「ベン」の字はその代表例。

──しゃべるという意味──雄辯、辯護士、
──区別するという意味──辨別
──編むという意味──辮髪
──花びらの意味──花瓣
──とりしきる──辧公室
──冠、帽子の意味

 これらの意味のちがう漢字をみな最後の「」で統一した。なんとも乱暴な話である。よって、辯護士が弁護士、辮髪が弁髪、花瓣が花弁と、本来は別々だった「ベン」の字がみな「弁」になってしまった。

「わきまえる」に当てられていた漢字は「区別する意味の」である。もともと和語の「わきまえる」に「辨」を使うことが当て字であり意味のないことなのに、その字を使用禁止にして、まったく意味の異なる「弁」を使ってまで「弁える」なんて使うのは滑稽でしかない。「わきまえる」でいいが、どうしても漢字を使いたいなら「辨える」にすべきだろう。いまはこうしてパソコンでも表示できるのだから。

 高島先生が漢字に関して一貫して主張しているのは、「やたら漢字を使いたがるひとは無教養である。過剰に横文字(カタカナ英語)を会話に入れるひとと同じだ」になる。渡来語という虎の威を借りて自分を大きく見せようとするつまらんひとの虚仮威しだ。ところが日本人の漢字崇拝というのはまだまだ根強い。英語を多用するひとを嫌いつつ自分は漢字信者だったりする。同じなのだ。文章に「わきまえる」と書いたら「弁える」を知らないと思われるのだろう。しかし「弁える」に「わきまえる」の意味はない。弁は冠とか帽子のことなのだから。わきまえるを「弁える」と書くことこそが無教養なのである。



 と、ここまで書いてきて、「これ、同じ事をむかし書いたな」とやっと思い出した(笑)。サイトを調べてみると、《『お言葉ですが…』論考──智弁なのに日鐵》と題して書いていた。2001年11月20日の文だからちょうど13年前になる。中身は前半がここと同じ「ベンの字のちがい」について、そこから「テレ東が智辯学園を智弁にしていたのに、新日鐵という会社名はではなくしっかり正字ので表示していた。なぜ? その理由は?」と続く。

 シナで見かけた「麻花辮」の画像を置いている。中共もずいぶんと漢字を統一して文化を壊している。このブログで書いたのでは「ラーメン等の麺が面」「機械の機が机」があった。
 私が最もひどいなと思うのに「穀物」の「」の字が同じ発音の「」に統一されたことだ。「谷物」で「穀物」を想像するのは日本人には無理だ。「谷」には「コク」よりも「たに」のイメージが強すぎる。
 そういう中共でも、この「様々なベンの字」はまだ生きているようだ。日本の「弁に統一」も「谷物」に匹敵するほど悪質である。

 2001年にはまだ「」の字が表記できなかったが、やっと出来るようになったという2009年の追記が懐かしかった。私のサイトのこの種のテーマには、切り貼りの画像が多い。2000年前後はまだまだ表記できない漢字が多く、それを牴菫瓩箸靴禿修蠅弔韻討い襪里任△襦
 たとえばこんなヤツだ。ji-gyoこれ、中共簡体字の「」である。当時はこれが表示できなかった。だから漢字の「業」を拡大し、上の部分をカットして画像として説明している。簡体字だろうが繁体字だろうが楽々と表示できる今ではウソのような話だが、当時はこんな苦労をしていた。
 タイ文字もまだ表示できずこれも画像でやっていた。出来るようになってからはうれしくてタイ文字キイボードを購入して使ったりもした。いまじゃもうすっかり忘れてしまった。なんとかまだ初歩的な読み書きは出来るがタイ語キイボードは使いこなせない。まだ所有しているが。



 私は「ベンの字は弁」という教育で育った世代だから、「雄弁」にも「花弁」にも違和感はないが、正しくベンを使い分けてきた世代は、「弁護士」なんて書くことには抵抗があったろう。違和感のない世代である私ですら「弁える」なんて表示には、なんかちょっとおかしいのではないかと本能で反撥するのだから。

 私のPCに入っている辞書で、「わきまえる」の漢字表記を「弁える」のみではなく「これは猾える瓩梁緲儡岨だよ」と「辨える」も表示して教えてくれた良い辞書は、大辞泉、学研国語辞典、明鏡国語辞典。

 対して「わきまえる」の漢字表記を「弁える」だけしか表示しなかったダメ辞典は、広辞苑、大辞林、新明解国語辞典。

 どれを使うかでこちらの智識にも関わってくる。よい辞書を使えば「弁えるは辨えるの代用なんだな」と学べる。辨えるなんて書く必要はないが、弁えるを得意気に連発することはなくなるだろう。

 私が自分の文章で「わきまえる」と使うことはまずないと思うが、そのときはしっかり「わきまえる」とカナで書き絶対に「弁える」とは書かないことをわきまえておこう。

0kanren 

 ・「残滓」の読みかた──室谷克実さんの講演から

 ・三年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」


ことば──怪訝──爐韻欧鶚瓩鉢爐いが

携帯電話の辞書機能」に以下の文を追記。


【追記】──「怪訝」について──明鏡モバイル国語辞典の限界──2014/11/08

「怪訝」をどう読むかと問われたら、試験に出たなら、多くのひとが「けげん」とするだろう。いぶかしむときの「けげんに思う」だ。一方でこれはそ のまま音読みする「かいが」でもある。「かいがにたえない」は「怪訝に堪えない」と書き、「どうにも不可解だ、なんとも不思議だ」ぐらいの意味あいで使 う。というか「かいが」のほうが正しい。無理矢理「けげん」と読ませているだけだ。

 辞書のない環境にいるとき心に浮かび、調べたいと焦るのはこの種のことになる。「怪訝(けげん)は怪訝(かいが)でも使うよな、怪訝にたえない、とか」と思い、「たえないは耐えないか、いやちがうな、どのたえないだ? 堪えないか? 絶えないではないな、耐えないでいいのか?」

  ケータイに入っている明鏡モバイル国語辞典は「耐える、絶える、堪える」とみっつを表示してくれる。ありがたい。漢字なんてのは所詮和語の当て字だからどうで もいい。「怪訝にたえない」でいい。しかしまた漢語から来ている「確定している組合せ」もあり、それを外すと無智丸だしの赤っ恥にもなる。「怪訝に堪えない」のような組合せで初めて「ここは爐韻欧鶚瓩任呂覆爐いが瓩伐仔匹澆砲垢襦廚箸亮臘イ砲覆襦正解が欲しい。が残念ながらケータイの明鏡モバイルに「けげん」はあっても「かいが」はない。「絵画」のみだ。そりゃしょうがない、モバイル 用のちいさな辞書なんだもの。これに文句を言う気はない。



 こんなのは帰宅してから調べればいいことだ。手帳にメモす る。
 帰宅して、PCに挿れてある大辞林、明鏡、広辞苑、新明解、学研、大辞泉で調べたら、なんと正規の辞書なのに「明鏡」には「絵画」しかなかっ た。これは新鮮な発見。モバイルだから削ってあったのではなかった。明鏡はこういうふるくさい表現はもう放棄しているのだ。もちろん他の辞書にはぜんぶあった。たえないの漢字は「堪えない」であることも確認でき た。
 まあ「怪訝に堪えない」なんて表現を使うこともめったにあるまいが、でも辞書には「けげん」ではない読みと使いかたも載せておいて欲しいとも感じた。 「たえる」をみっつ確認できるだけで「ケータイの辞書」としては合格なのだけれど。

携帯電話の辞書機能──今ごろになってやっと気づいた──怪訝について──ことば

 過日奥多摩にいたとき、ふと「あの字はどう書くんだっけ」と疑問が浮かんだ。調べたい。調べられない。タブレットを持参しているがWifiは通じない。ケータイすら圏外になることが多い。東京都なのだが。

 奥多摩に住む予定は断念した。プラスマイナスを考えると、美景と幽谷というプラスと比してマイナスが大きすぎる。光ケーブルが通じていることからその気になっていたのだが、日常生活で、故郷の茨城の田舎よりもはるかに不便だ。住民のかたは、食糧は主に生協の宅配を利用しているらしい。今年二月の大雪では、降雪後一週間十日と過ぎてもまだ道路が通れず、孤立してしまった集落に自衛隊のヘリコプターで食糧を運ぶという事態となった。5分でスーパーやコンビニに行ける今の環境からは離れがたい。なにより「刺身で晩酌」が出来なくなる。



 知りたいと思ったことを調べられないのはつらい。ましていまはインターネットという万能百科事典をいつも持参しているようなものだ。何でもすぐに調べられることが当たり前になっている。調べられないとストレスがたまる。だからそれが出来ない環境にいるときは、なるべく「疑問を抱かないようにして過ごす」ことにしているのだが、それでも浮かんでくるものはある。

 たとえば「奇形」は「畸型」と書くのが正しい。「畸」は当用漢字というくだらない制度で使用不能となり「奇」が代用されている。では「奇妙」も「畸妙」とすべきなのか。確認したい。できない。なんどかテーマにしたことだが、附属学校、附属病院の附属は「附」が正しい。「付属」なんて使ってはならない。そういえば四月にもどってくる税金の「還付金」は「還付」と書くが、あれも「還附」が正しいのではないか。寄付は寄附が正しい。ならやはり「還附」だろう。いや、「ひとに対してのもの」だから「還付」とニンベンでいいのか。調べたい。調べられない。大きな搬送用の木箱を見かけた。ああいう「木箱」って英語でなんていうんだっけ。喉元まで出かかるが出ない。港にある大きな荷物によく印刷されている。なんだっけ、たしかカ行、クラフト、そんな感じ。そのへんだ。確認したい。出来ない。イライラする。



 ガラケーに「辞書」というボタンがあるのに偶然気づいた。国語辞典と英和和英がついている。ありがたいことに圏外でも使える。タブレットのそれはネット辞書なのでWifiが通じないと使えない。所有しているモバイルギアではPOMERAに辞書機能があり、通信とは関係なくいつでも使えるが、あのキイボードは使いづらくここのところ携帯していない。なんかあたらしいものをと探していたが、「青い鳥」よろしく、しあわせはいつもポケットにいれている身近なケータイにあった。和英辞書を引く。木箱はCrateか。よかった。ほっとする。咽のつかえが取れた。

 ちいさな辞書なので簡便なことしか調べられない。「畸」の字の情報はなかった。でもそれは家でやればいい。書けないようなむずかしい漢字が調べられなくても不満はすくない。ストレスは度忘れにある。知っているのに思い出せないもの。背中の痒いところに手が届かない感覚だ。それをこの辞書は救ってくれる。

 「携帯電話に辞書」は、いつから始まったのだろう。20年ほど使っているが今まで気づかなかった。ここ10年は電話機能しか使ってないし、さらにいえば受信専用みたいなもので、それも1日に2件ぐらいしかないから、ほとんど使わないのと同じ。連絡はみなPCメールでしている。今のガラケーなんて機種交換して2年近くなるが未だに新品同様だ。あ、もうひとつ、外国に行ったとき「目覚まし機能=アラーム」に助けてもらっている。目覚まし時計は必ず持参するのだが、ケータイとダブルでセットしておくと安心感が違う。ローミングすることなく外国から発信受信できるようになってケータイはほんとに便利になった。目覚ましに加えて辞書でも助けてもらうようになったから、これからはもう「おれはケータイは電話にしか使わない」とは言わないほうがいいのか。それにしても便利だ。いままで気づかなかったのが悔やまれる。

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【追記】──「怪訝」について──明鏡モバイル国語辞典の限界──2014/11/08

「怪訝」をどう読むかと問われたら、試験に出たなら、多くのひとが「けげん」とするだろう。いぶかしむときの「けげんに思う」だ。一方でこれはそ のまま音読みする「かいが」でもある。「かいがにたえない」は「怪訝に堪えない」と書き、「どうにも不可解だ、なんとも不思議だ」ぐらいの意味あいで使 う。というか正解は「かいが」だよね。「けげん」なんてただの当て字だ。過日「おこがましい」を「痴がましい」と書いているひとがいた。くだらんことだ。

 辞書のない環境にいるとき心に浮かび、調べたいと焦るのはこの種のことになる。「怪訝(けげん)は怪訝(かいが)でも使うよな、怪 訝にたえない、とか」と思い、「たえないは耐えないか、いやちがうな、どのたえないだ? 堪えないか? 絶えないではないな、耐えないでいいのか?」

  私のガラケーに入っている明鏡モバイル国語辞典は「耐える、絶える、堪える」とみっつを表示してくれた。ありがたい。漢字なんてのは和語の当て字だからどうで もいい。「怪訝にたえない」でいい。しかしまた漢語から来ている「確定している組合せ」もあり、それを外すと無智丸だしの赤っ恥にもなる。「怪訝に堪えな い」のような組合せで初めて「ここは爐韻欧鶚瓩任呂覆爐いが瓩伐仔匹澆砲垢襦廚箸亮臘イ砲覆襦正解が欲しい。が残念ながらケータイの明鏡モバイルに 「けげん」はあっても「かいが」はない。「絵画」のみだ。そりゃしょうがない、モバイル 用のちいさな辞書なんだもの。これに文句を言う気はない。



 こんなのは帰宅してから調べればいいことだ。手帳にメモす る。
 帰宅して、PCに挿れてある大辞林、明鏡、広辞苑、新明解、学研、大辞泉で調べたら、なんと正規の辞書なのに「明鏡」には「絵画」しかなかっ た。「けげん」はモバイルにもある。これは新鮮な発見。モバイルだから削ってあったのではなかった。明鏡はこういうふるくさい表現はもう放棄しているのだ。もちろん他の辞書にはぜんぶあった。たえないの漢字は「堪えない」が常用であることも確認でき た。

 まあ「怪訝に堪えない」なんて表現を使うこともめったにあるまいが、でも辞書には「けげん」ではない読みの使いかたも載せておいて欲しいとも感じた。 「たえる」をみっつ確認できるだけで「ケータイの辞書」としては合格なのだけれど。

ことばにきびしい<きっこさん>をジャマイカで丸投げ(笑)──フレンチキスとコンドームと従軍慰安婦

marunage

 そうだよねえ、フレンチキッスの意味を勘違いしているひとっていっぱいいる。ことばを勘違いして覚えているひとのことを「言語イメージ先行のB層」というのか。そういうひとが自民党のターゲットになりやすいのか。勉強になるなあ。


marunage2

 でもこれを読むと、<きっこさん>も「丸投げ」ということばを完全に勘違いしているようだから、「言語イメージ先行のB層」なのかな。だとしたら自民党のターゲットになりやすいから気をつけてね(笑)。まあこれに限らず、<きっこさん>て日本語をよく間違えている。とても廃人俳人とは思えないんだけど。

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jamaica

《ジャマイカまでレイプされに行く日本のバカ女は「従軍慰安婦」みたいな扱いだった》ってどういう意味だろう。「従軍慰安婦」ってのは存在していないものをアサヒシンブンやフクシマミズホが捏造したものだから、「ジャマイカまでレイプされに行く日本のバカ女は存在しないモノだった」ということか。

 20年前、<きっこさん>みたいにジャマイカまでレイプされに行く「日本のバカ女」ってどれぐらいいたんだろう。20万人ぐらい? 30万人? Sex Slaveって言うの? じゃあジャマイカに日本のバカ女従軍慰安婦像を建てないとね。

jamaica2

 「3人のうち1人くらいしか」という言いかたから推測するに、最低でも30人ぐらいのジャマイカ男と寝たんだろうな。
 <きっこさん>はかつてレイプされたことがあり、心に深い傷を受け、そのことをプロのミュージシャンに歌詞として提供し、CDにもしたレスボス島在住のかたと思っていたので、ジャマイカで黒人青年にフェラでコンドームをつけつつ、やりまくっていたと知り、たいへんおどろいています。
 親孝行な娘さんだと思って親しくなった競馬の師匠・石川喬司先生も、この乱行の過去をかなしんでいることでしょう。



 しかしこういうのって、本物の41歳の女が二十歳のころを思い出して、「ジャマイカでコンドーム逆さにくわえて、フェラしつつかぶせて現地の男とやりまくった」と実話を書いたとしても醜態なのに、実際は65歳のオカマが行ったこともないジャマイカ、弾けもしないギターを想像して、妄想で書いているのだから、滑稽を通りこしてもう無惨である。

 東京にいるのに西日本に疎開したことにして三年。前日までにせねばならない不在者投票を当日の朝にしたり、西日本では売っていない雑誌を立ち読みしたり、さんざん笑わせてくれたが、さてこのあと「これこれこういう理由で東京にもどりました」という狎瀋雖瓩呂匹海らひねりだすのだろう。おそらく<母さん>か自分の病気だろうね。「困ったときの病気とケガ」は<きっこさん>の十八番だ。ここまで設定ぐだぐだだと突っこむ気にもなれん。このひと、最後はどうなるのだろう。それはそれで楽しみだ。

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 こんなこと気楽に書いていたら、白夜書房にいる<きっこさん>専属弁護士に訴えられて「三桁」取られるかも知れない。でも最大で999円だから私にも払えるな。 これからまた女のふりをするために、「深夜の5分間だけ顔写真披露」が頻繁になるのかな。そんなもんロバの照美ですら信じていないのに。

日本人のイニシャルは姓・名の順が正しい──に【追記】

日本人のイニシャルは「姓・名」の順が正しい》に、《「姓・名」と「名・姓」によるトラプル》を【追記】しました。

ことば話──「腹腔」の読みかた──ふくこう、ふくくう

2014年08月02日16時13分58秒

市村正親 胃がん手術終了「順調に回復」

 胃がんで休養中の市村正親(65)が2日までに、都内病院で腹腔(ふくくう)鏡手術を終えたことが同日、分かった。http://www.nikkansports.com/

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 腹腔をずっと「ふくこう」、発音的には「ふっこう」と読んできたので、尊敬するアサヒシンブン系ニッカンスポーツ様に、カッコつきで「ふくくう」とされると、こりゃ今まで何十年も誤読してきたのかと焦る。 
 いま辞書は「ふくこう、ふくくう」と両方載せているようだ。



「腹腔」を「ふくくう」と読むのは、ツクリの「空─クウ」から読む、いわゆる百姓読み。
 毎度書くが、この場合の百姓は「世の中のふつうの人々全般」の意味。元々「百姓」ということばは、漢字からも感じとれるように、農民、漁民、猟師、職人、すべてを含むひろい意味のことばだった。それがなぜか農民限定になり、さらには差別語にまでなってテレビ・ラジオ・新聞から追放されてしまった。いまもシナには、日本の「大衆酒場」の意味の「百姓酒場」というのがどこにでもある。



「脆弱(ぜいじゃく)」を「きじゃく」と読んで嗤われた女子アナのこれもツクリからの百姓読み。
 麻生太郎が誤読した「破綻(はたん)」を「はじょう」、「詳細(しょうさい)」を「ようさい」もこのパターンになる。

「ふくくう」も早い時期に言いだしたひとは麻生さんのように嗤われたはずである。しかし世の中、多数が強い。みんなが誤読すれば、それが一般的になり、やがて辞書にも載る。スポーツ紙にもカッコつきで読みが載るようになる。たぶん今が端境期で、あと10年もすれば「ふくくう」のほうが多くなるのだろう。

 医療現場のあわただしさもあるように思う。医者にとっては「ふくこう」でも「ふくくう」でもどうでもいい、手伝うスタッフや看護師がわかればいい。「絶対にこれはふくこうだ」と思っている漢字好きの医師がいたとしても、手術がすんなり行くために「ふくくう」のほうが便利ならそれを使うだろう。漢字の読みなんてのは、そんなものでもある。



 こういうことを書くと漢字好きのオヤジが最近の世相を嘆いていると勘違いされそうなので、書きたくないが書いておく。
 私は高島俊男先生の「日本語が漢字と出会ったのは不幸だった」説を熱烈に支持するものである。できるだけ日本語に当て字の漢字は使わないように心懸けている。

 たとえば高島さんは、「坐」「座」「挫」は「ザ」でしかないと言う。それを日本語の「すわる」に使うのは強引な当て字なのだ。だから私は「座る」「坐る」のような表記はせず、「すわる」にしている。この種の話に興味のあるかたはぜひ「漢字と日本人」(文春新書)を読んでください。

kanjito



 私は漢字なんかどうでもいい、という考えだ。ATOKが自慢する「記者が汽車で帰社する」なんてのを、バッカじゃねえの、と思っている。そんなことに力を注ぐなら、政治家、落語家、力士、そんな名前の変換をもっと充実させろ。
 「腹腔」を「ふくこう」と読もうが「ふくくう」と読もうが、意味が通じればそれでいい。むしろどうでもいい混乱をなくすために、「ふくくう」に統一したらいい。同じく、「脆弱」は「きじゃく」で、「詳細」は「ようさい」にしたらいいのではないかとすら思う。いや「すら思う」ではなく、何十年後かには自然にそちらになっているだろう。

 だからじつにもうどうでもいい話。でも私はまだ当分、「腹腔」という字を見かけたら、「ふくこう」と読んで生きて行く。 

ことば考──自転車をチャリンコと言うひとの無神経──朝鮮語「チャジョンゴ」が起原


 自転車のことをチャリンコと呼ぶひとが多い。私の周囲にはひとりもいないが、街中では頻繁に耳にする。うすらバカ顔をしたアンチャンネーチャンには標準語のようだ。

 30年ほど前、それが普及してきたとき、どうにも抵抗があり、私は使わなかった。東京っ子の友人は「チャリンコは、東京弁で爐海匹發離好雖瓩里海箸澄廚噺世辰董△海凌係譴魴っていた。有名人では、銀座生まれ葛飾育ちのなぎらけんいちさんがエッセイで同じ事を言い、「絶対に使わない」と書いている。

 当時の小説や随筆には「いきなり飛びだしてきたチャリンコにカバンをひったくられた」のような表現がある。これは自転車強盗ではなくこどものスリのことである。 

※ 

 時が流れ、チャリンコなる珍妙な言語は伝播し、ふつうの自転車をチャリ、主婦が買い物等に使うものをママチャリ、50ccのバイクやスクーター、正式名原動機附き自転車をゲンチャリと言うまでになった。私はこれらの響きが嫌いで一度たりとも使ったことはない。自転車という日本語があるのになぜそんな幼稚で下品な響きのコトバを使わねばならないのか。(幼稚で下品な響きだから流行ったとも言える。)
 

nihongokankokugo
 大野敏明著「日本語と韓国語」は「チャリンコは、韓国語の自転車(チャジョンゴ)から来ている」としている。
 呉智英さんも「言葉の煎じ薬」の中で「朝鮮語のチャジョンゴから来ているチャリンコは、数少ない朝鮮語起原の現代日本語である」と書いている。

kotobanosenji
 どうでもいいことであるが私にとっては極めて重要なので書いておくと、私はこれらの本を読んで、起原を知ったから嫌ったのではない。本能的に嫌っていたことばが、後にこういう起原だと知ったのである。この順番は大事だ。それはもうこういうことばを抵抗なく受入れ、いつのまにか使っているひととは本質的なちがいだと思っている。

 朝鮮語起原の古語では「虎」がある。日本に虎はいない。朝鮮にはいる。だから朝鮮語の「ホーラ」が「虎-とら」になったとされている。でもこれはいい。だって日本に虎はいなかったのだ。朝鮮には虎がいたのだ。
 虎とちがい、日本に自転車はあった。朝鮮よりも前からあった。自転車という日本語もあった。なぜそれをチャリンコなどという下品な響きの朝鮮語で呼ぶのか。「漬け物」を「キムチ」、濁り酒を「マッコリ」、鍋物を「チゲ」と呼ぶようなものである。

※ 

 キリストも孔子も朝鮮人とし、サッカーから剣道まですべて朝鮮から始まったとする、オリジナルならぬウリジナルで世界中から嗤われている朝鮮民族は、日本人が自転車をチャリンコと言うことを喜んでいるだろう。
 自分達より劣等なチョッパリ(豚の足の意味。足袋を履いた日本人の足の形から来た日本人蔑視の朝鮮語)は、自転車を表現することばすらなく、自分達のことばであるチャリンコを使用していると。

 そういやバラエティ番組を見ていると、吉本系の朝鮮人お笑いタレントが、みなテレビで「チャリンコ」を連発している。耳障りだ。そりゃ母国のことばだから言いたかろう。 もっとも彼らは母国では「半チョッパリ」として最低の扱いとなるが。


 私は「チャリンコ」「ママチャリ」「ゲンチャリ」等を使うひとを信じない。嫌う。会話したくない。
 さいわい、いや当然であるが、私の親しい友人にそんなことばを使うひとはひとりもいない。
 もしもいまここを読んでいるあなたが、そんなことばを使っていたなら恥じて欲しい。そしてこの朝鮮語をあなたの辞書から削除して欲しい。下のような垂れ幕を出すやつらのことばなのだ。

korea-oiwai

 いや、ま、ことばはひとそれぞれだから押しつけは出来ない。よけいな御世話だと言われたら返すことばもない。使いたいひとはこれからも使ったらいい。

 ただし、あなたが真っ当な日本人であり、慰安婦問題や竹島問題、クネクネの外交姿勢、その他、特亜問題で朝鮮にいらだっているひとだったなら、「チャリンコ」なんて朝鮮語を使うのはかなり滑稽なことだ。本質的な矛盾になる。それは自覚して欲しい。それでも使いたいと言うのならなにも言わない。そんなひとはいないと信ずるが……。

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okutama-zenkai
 2週間ぶりに訪ねたら、奥多摩の山桜も満開になっていた。でも日蔭には2月の大雪が根雪になって残っていたりする。


 
 というところでネット界の有名人<きっこさん>のTwitterを覗いたらこんなものが。

kikko-genchari

 父母の家系が東京に4代目だか5代目だかで生粋の東京っ子だと自慢し、句を嗜む俳人であり、ことばにこだわると自負するひとにしては、ずいぶんとガサツな表現と感じた。なぎらけんいちさんはこのひとを東京っ子とは認めないだろう。
 
 東京っ子ではなく朝鮮人で、俳人ではなく廃人だとするとすんなり理解できる。

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【追記】──ママチャリをタイトルにするテレ東の番組──2014/4/22

 ネットのテレビ番組表を見ていたら、テレ東に「旅に出よう ママチャリで」というのを見かけた。自転車で旅をする番組らしい。この場合「自転車」とすると本格的なものから安物までぜんぶを含んでしまう。その点「ママチャリ」とすれば、いちばん一般的な安物自転車を指すことになる。それが狙いなのだろう。

 やだなあ、こういう形で自転車という日本語が駆逐され、チャリンコ、チャリと言う民間人(笑)が増えて行くのか。韓流ドラマとかK Popなんてのにコロっとだまされるひとの多い国だ。こんなことにこだわっていてもしょうがないのだろう。とにかく「オレは使わない」「オレの好きなひとには使って欲しくない」を貫くしかない。 

ことば考──かな交じり熟語の無意味──改ざん、ねつ造、だ捕、ら致──小保方さんの表記とテレビ局の表記

 小保方さんの抗議文書のアップに「改ざん」「ねつ造」等のかな交じり熟語が見えた。なんとも見にくい。
 今時の入力装置は「改竄」「捏造」と出せる。なのにそういう「かな交じり」を使って書いているのは、思うに、小保方さんが会社に提出するような書類では、いまだに「常用漢字の枠組」というのを順守せねばならない決まりがあるのだろう。 アサヒシンブン(笑)のように。



 これを報じるNHKでは、そのまま「改ざん」「ねつ造」と表示して報道していた。
 と書きつつ、いま苦労している。ATOKは「改竄」も「改ざん」も出せる。私は醜いかな交じり熟語は嫌いだからATOKの辞書からすべて削除してしまっている。ATOKを使い始めたころだからもう20年も前にやり、その辞書を引き継いできていることになる。だから出せない。よっていま「改竄」と売った後、「竄」の字を消し「ざん」とやって「改ざん」なる醜いものを作っている。手間が掛かる。しかも大嫌いなものを作るのだから精神に悪い。

 NHKはふだんのニュースでも、そんな「かな交じり」にしているのだろうか。むかしはそうだった。いまもそうなのか。それともこれは小保方さんの原文がそうだったから尊重して同じような表記にしているのか。NHK嫌いで見ないので知らない。 



 月曜夜、日曜の「たかじん」をYouTubeで見た。このテーマを取りあげていた。 読売テレビは、小保方さんの原稿のアップで、そこにあるのが「改ざん」「ねつ造」であることを示しながらも、自分達の番組の表示では「改竄」「捏造」としていた。ほっとした。



 醜い「かな交じり熟語」は、昭和20年から27年まで日本を占領していたGHQの指示により、内閣が漢字数を制限したことから始まる。当用漢字(現在の常用漢字)の意味は「面しばらくはいるが、そのうち全面廃止する漢字というもの」の意である。全面廃止が基本だ。いわば1日20本走っていた漢字という電車を、もうすぐ廃線とすると決定し、それでも朝夕の2本だけは走らせたようなものである。20本走って生活に役立っていたのが、たった2本にされたら問題が生じるのは見えていた。命令は占領軍だが、西洋コンプレックスから、お先棒をかついで漢字撤廃運動をした連中もいた。いつだって真の敵は内部にいる。いくらだって逆らえた。でも阿った。

 だけどその感覚はわかる気もする。こざかしい連中はいつもそれだ。日本が朝鮮を併合したとき、「ありがとうございます、これからもよろしくお願いします」と日本に阿った朝鮮人に限って、日本が負けたら、「力付くの植民地支配、許すまじ!」と愛国の戦士のようなふるまいに出る。
 戦中は「皇軍、またも大勝利、撃ちてしやまん!」と煽っておいて、敗戦したら「私たちはもともと戦争には反対でした」と言いだすアサヒシンブンなんてのも同じ。 



 敗戦した日本が再度独立するのは昭和27年である。いわゆる狠腸瑤寮ぢ絖瓩蓮日本が独立国ではない時代に生まれた鬼っ子になる。狂ったのがいるのもむべなるかな。
 敗戦国を支配するGHQの指示により、敗戦国のインチキ内閣が使用漢字制限を厳命する。敗戦国の役所がそれに従うのは当然としても、まともなマスコミなら、そういう政策には抗うと思うのだが、アサヒシンブン、マイニチシンブンを始め、みなそれにすなおに従った。それどころか気味悪い「かな交じり熟語」を率先して作りだした。

 漢字制限には従ったが表現は捨てなかった。その歪んだプライド?によって同じ音による置きかえという奇妙なものが生まれた。「交叉点」が「交差点」、「頽廃」が「退廃」のような意味不明のことばである。「義捐金」が「義援金」なんてのもそれになる。適当な同音の字がなく置きかえられないのはひらかなにした。そこから「改ざん」「ねつ造」「だ捕」「ら致」のような醜い、まったく意味のない「かな交じり熟語」が溢れることになる。これらのことばは文字が意味を持つのであり、「音」で表しても無意味である。こういうことをするひとの感覚ってどうなっているのだろう。
 小学生低学年のころは難しい漢字はかなで書いて書ける字だけ漢字にした。綿矢りさの「にな川」はそれを遊んだものになる。しかし新聞社のそれはあるまい。



 かといって私はむずかしい漢字を使うべしという考えではない。逆である。そこまでして漢字にこだわるなという考えだ。
 識者がしばしば指摘しているが、こんな意味不明の表現をするなら、他のことばに置きかえればいいのである。簡単に出来ることだ。でもなぜかかたくなに、こんな意味不明の表記にしてもそういうことばを使いたがるのが役所や新聞社なのだ。彼らにはこういう「表記」を醜いと感じる感覚がないのだろうか。役所は役所だからしょうがないと苦笑して諦めるにしても、新聞社はなあ……。新聞社になんかなにも期待していないけど。



 過日奥多摩を走ったとき、「土砂しゅんせつ作業」という看板を見かけた。「しゅんせつ」は「浚渫」か。
 この看板を見たこどもは「しゅんせつって何だろう?」と考えるだろう。「しゅんせつ」とありルビが振ってあったら辞書で調べる。サンズイの2文字からそれなり推測もするだろう。
 といって、こんなめったに使わない漢字をルビを振ってまで使えと言っているのではない。ぜんぶをかなにしてまで、そんなにまでして、このことばを使いたいのか、使わねばならないのか、そこが理解できないのである。河川の流路を拡げたり土砂を掬ったりする工事だ。いくらでももっとわかりやすく具体的に表現できるだろう。そのほうが地域住民だってどんな工事かわかっていいだろう。なぜこだわるのか。わからん感覚である。



 小保方さんの場合は彼女の好みの表記ではなく、立場上たぶんそう制限されているのだろうと感じた。
 NHKは、テレビ局以前に役所だから、ああいう表記をするのだろう。
 小保方さんの「改ざん」「ねつ造」を確認しつつ、「改竄」「捏造」と表記した読売テレビに拍手を送りたい。

 しかしまた原点に戻れば、小保方さんがそういう用語を使わねば、私もこんなことを書かずに済んだ、という話になってしまう。でも30歳の小保方さんでも「改竄」「捏造」ということばを使わねばならないという思い込みはあるのだろう。私だったら「改ざんしたつもりはありません」とかな交じりの表記を使うぐらいなら(規定により使わねばならないのなら)、「自分の意に添うような書きかえをしたつもりはありません」「悪意をもった書き直しはしていません」のように別の表現にするけれど。 それじゃダメなのか!?

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【追記】──曖昧さの価値?──4/10

 昨日は小保方さんの涙と笑顔の会見があり、夕方からテレビはそれ一色だったようだ。夜のニュースで5分ほど見た。すぐに消した。ま、その程度でいい。

 さて、上記の例で、「なぜこんなわかりにくい表現をするのか!?」と疑問を抱いたのだが、もしかして「わかりにくいことに価値があるのか!?」と思うようになった。

「しゅんせつ作業」で言うと、この看板を作ったのは工事を担当する土木業者である。しかし文面は役所の許可を取って作るものだ。土木業者の担当が新米の、私のような感覚の者だったとする。「しゅんせつ作業」なんて表現が気味悪く、また「しゅんせつ」ではわからない住民が多かろうと、「河川流域拡張作業」とか「河川の土砂取り出し作業」のように具体的に銘打ち、役所に届けたとする。するときっと役所は「毎年どの業者も爐靴紊鵑擦頂邏鉢瓩箸靴討い襪里如△修μ召鼎韻蹇廚噺世Δ里世蹐Αいわゆる慣例だ。いや役所以前に、会社の上司から「しゅんせつ作業にしろ」と言われるか。いやいやそれ以前に、業者による落札のとき、すでに「××川しゅんせつ作業」で競っているのか。また、もしも役所側に私のような感覚のものがいたとしても(いないだろうけど)、長年の慣例で表記をあらためることは否定されるのだろう。

 世の中にはいろんなクレーマーがいる。「河川流域拡張作業」と銘打ったら、「どこをどう拡張するのか」「拡張作業と言いつつ一部はむしろ狭くしているのではないか」などとケチをつけてくるのがいる。なら「しゅんせつ作業」と、むずかしい漢字をひらかなで書いた、含みをもった曖昧表現にしておいたほうが多くの場面に対応できるのだ。



「改竄」と「捏造」も、「悪意を持って文章を直してはいません」のように口語的な直截表現をするよりも、「改ざんの事実はありません」のように堅苦しい玉虫色にしておいたほうが後々の弁明のためにもいいのだろう。



 これらは「わかりやすい表現を、むずかしい漢字を使ってわかりにくい表現にしている例」だが、放送禁止用語のようなものは逆の流れにある。
「盲」「びっこ」を、「目の不自由なかた」「足の不自由なかた」のようにする。「盲」「びっこ」という定着している日本語を、差別的であると簡易なわかりやすい表現で置きかえている。しかし簡易な表現ではあるが、「不自由なかた」は、これまた曖昧で意味不明になっている。これを最初に思いついたひとは相当にことばに不自由なかただ。だからこれもまた「わかりやすい表現のようでいて、わかりにくい表現への置きかえ」になる。

 このやりかたが、本音と建て前を使い分ける日本人らしさ、と言えばそうなのもかしれないが……。



 私のきらいな競馬ライターに、簡単に書けることをやたらむずかしく書くのがいる。自分に自信のない臆病さを、むずかしそうなことばという甲冑で隠しているみっともないひとだ。しかし野っ原を裸で走ればすり傷だらけになる。「改ざん」や「しゅんせつ」のような何とでも逃げの聞くような便利用語をいくつか用意しているほうが生きるのには楽なのかも知れない。

ことば考──インクとインキ──心境の変化でインキ派に

 インクはInkという英語だ。インキは日本語。
 口許が不器用な日本人は、母音で終らない単語の発音ができない。語末がS、K、Pで終る単語=入声(にっしょう)を苦手とする。それらにはみな母音をつけて発音しやすい日本語にしてしまう。苦手をごまかす民族の智慧だ。


 そういや朝鮮民族は語頭の濁音が苦手で「カヤロー」が「カヤロー」のように破裂音になってしまうのは有名だ(BaもPaも両方とも破裂音だが)。そういうコトバがないのだろう。何十年も前、極真空手の大山倍達を初めてテレビで見たとき、「クはね、そんなカな話はないと言ったんだ」という典型的なそれなのでおどろいた。あれじゃ「じつはね」と言われなくても誰でもわかる。
 
 もっとも「むかしの日本」にも濁音で始まる単語はなかったそうだ。濁音で始まるコトバというのは、インパクトはあるけど雅ではない。きたない発音と否定されていたのだろう。当時は日本人も発音出来ず、その種のコトバが生まれてくるに従い、次第に出来るようになった。朝鮮人でも、半島で生まれ育ったひとは日本に何十年住もうとそれが苦手だけど、日本生まれはふつうにこなす。
 
 日本人の発音ではRとLの混同が有名だ。それだって英語圏で育てばなんてことない話。私の関わった語学ではヴェトナム語の声調が複雑でむずかしいが、それは「この単語はこの声調だから」と外国人のこちらがリクツで学ぶからむずかしいのであって、あちらに住んでるひとは文盲でも幼児でもみなふつうにそれをこなす。コトバなんてそんなものである。


 閑話休題、書帰正伝。
 インクが輸入され使われるようになったとき、Ink、イン(ク)という入声の発音が苦手な日本人は語末のkに母音のiをくっつけてInki、インキという日本語を作った。
 Cake─ケー(ク)─の発音がむずかしいのでiをくっつけて作った日本語「ケーキ」もそれになる。ここで「Cakeの語末は母音のeではないか!?」というのは愚問。発音の問題。綴りにeがあろうともkで終る入声である。

 インキの話だとペンキも気になる。こちらはオランダ語のPekの日本語訛りだ。ペッ(ク)の発音がし辛いので、母音のiをくっつけてペッキ、ペンキになったのだろう。
 旧い語だと、支那語の銭(Dzen)にiをくっつけて出来た日本語の「ゼニ」がある。この「語末のnにiをくっつけて」も日本語には多い。


 私が子供の頃、周囲のおとなはみなインキと言っていた。そりゃ「インクという英語は発音し辛いのでインキという日本語を作った」のだから、日本人がインキというのは当然である。
 いまはもうほとんどのひとはインクであろう。それだけ日本人も入声音をこなせるようになってきたのだ。時代と共に民族の発音能力も変化する。もしかしてお年寄りには今もインクの発音が苦手でインキと言っているかたもいるかもしれない。

 中学生の時に初めて萬年筆を手にした。当初は「インキ」と言っていたが高校生ぐらいからインク派になった。そのころは上記の「日本語インキの成立理由」を知らない。でも色気づく時期だから、本能でインキよりインクのほうがかっこいいと感じていた。あのころ、ここに書いたように「なぜ英語のインクを日本人はインキと言うか。それは入声であり、それが苦手な日本人はウンヌン」と教えてくれる恩師に出会っていたら、私の人生ももうすこし智的になっていた。無学な歩みが悔しい。タイムマシンでもあったなら、不遇な田舎少年のもとに駆けつけて、智識という燈明に火を灯してやりたい。


 インキは日本語なのだから、ドイツのモンブランやペリカン、アメリカのシェファー、パーカー等の外国の萬年筆メーカーの日本語サイトではカタカナ表記はインクである。
 日本のプラチナ、セーラーのホームページ表記もインクだった。でも昭和40年代ぐらいまでは「インキ」だったのではないか。もっとかな。いつ商品名の「インキ」を「インク」に替えたのだろう。こういうのは社史でも読まないとわからない。ああ、広報室に電話して訊くという手があるが、そんなことはしたことがない。する気もない。
 
 ところが頑固にいまも「インキ」という日本語を正規に使っているところがあると知る。パイロットだ。

※ 

 下の写真はAmazonのパイロットのインク通販。Amazonは商品紹介に自分達の用語である「インク」を使っている。
inki2
 

 
 しかしパイロットのホームページでは、正規の商品名はいまも頑なに「インキ」なのである。パイロットの商品名が「インキ」なのだから、厳密には上のAmazonの商品紹介はまちがいということになる。下はパイロットのホームページから。「インキ」である。あくまでも(笑)。
inki

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 時が流れると感覚も変る。長年「インキ」をかっこわるいと思って避けて来た私は、この頑固なパイロットを見て、なんだかかっこいいように思えてきた。どこかの女性博士が研究室で割烹着を着た感覚に通じる。あれはヤラセだったようだけど。
 ここのところ友人と文房具話をするとき、意識的に「パイロットインの松露がね」と言ったりしている。
shouro
 

「ノロウイルス」の名前変更?──朝鮮の創氏改名、ハンセン氏病、バルトリン腺、カウパー腺、丸山ワクチン

「ノロ」ウイルスに「野呂」さん苦しむ 国や学会に「名称変えて」

 食中毒の「ノロウイルス」。この冬も各地で集団発症が相次いだが、「その名前は使わないで」と全国の野呂さんが改称を訴えている。野呂姓の子どもが学校などでからかいやいじめの対象になったり、その心配があるためだ。一般化してしまったウイルス名を改める妙案はあるのか。

 「野呂という姓は、ただでさえ、のろまとかノロノロとからかわれやすい。さらにノロウイルスとは…。これ以上、野呂姓の人間に重圧を加えないでというのが正直な気持ち」。「ノロウイルス」改称を訴える会の会長を務める杉井(旧姓・野呂)ゆうきさん(40)=横浜市=はこう訴える。

オハイオ州ノーウォーク
 ノロウイルスの由来は何か。厚生労働省の資料などによれば、1968年、米国中西部のオハイオ州ノーウォーク市の小学校で集団発生した嘔吐(おうと)や下痢の症状が出る急性胃腸炎の病原体として検出。72年、小型球形ウイルスが特定され、地名から「ノーウォーク(Norwalk)ウイルス」「ノーウォーク様(よう)ウイルス」と呼ばれるようになり、国際ウイルス学会は2002年、ウイルスの属名としてノロウイルスを正式に採用した。

 「ノロ」とは「ノーウォーク」の一部に発音しやすく「O(オー)」を補ったもの。この結果、全国で約2万人とされる「野呂さん」は嫌な思いをするハメになった。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1777277.html

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 よくわかる感覚である。前々からこの種の話を聞くと同感し、そしてまたエゴイズムであるが、自分に関係あるものがそういう名称に採用されないようにと願ってきた。全国の野呂さんには気の毒だが、しかし現実問題として世界的な名称になってしまっているので改名はむずかしいように思う。



 この種のことで真っ先に思いつくのが「ハンセン病」だ。癩病から、「あの家は爐蕕き瓩世ら」のような差別的な「らい」という言葉が生まれ、それを廃するために癩菌を発見したノルウェーの「アルマウェル・ハンセン博士」の名を取って「ハンセン氏病」となった。

 この辺の基本は、「混血」「あいのこ」が差別的だから「ハーフ」にするという横文字に置きかえればいいという日本的軽薄さとたがわない。そしてまた「ハーフでは半分だ、差別だ。ふたつの民族の血が入っているのだからダブルだ」なんてリクツで、今は「ダブル」というらしい。なんともなあ。混血は混血でいいだろう。「他人のことだからそう言える?」、いやいや私の一人息子は混血だ。自分に関することだから発言してもいいだろう。私はダブルなんて気持ち悪い呼び方をする気はない。
 片輪や不具をシンショーシャに置きかえ、さらにはHandycappedにするのも同じ。「身障者」の「障」の字に問題ありと「身しょう者」にするとか。島国根性のくだらなさである。 

 私はこの時点で「ハンセン博士が発見したからハンセン氏病」と理解していたが、ここからまた日本的なくだらなさが始まる。「ハンセン氏病」の「氏病」が「死病」に通じて縁起が悪いと「氏」を取ってしまったのだ。「ハンセン病」である。これは世界中の「ハンセン氏」に失礼だろう。「氏」がついていれば、「医者のハンセン氏が発見した病気」と思える。しかしそれがなくなると「最初に感染したのがハンセンというひと」「ハンセンのようになってしまう病気」となってくる。らい病の悲惨な部分がぜんぶ「ハンセン」に繋がってくる。ぜんぜんイメージがちがう。そしてその「氏」を省く理由が「死病に通じる」という日本的ゴロ合わせ、オヤジダジャレの感覚なのである。「らい」という日本語を廃することには熱心でも、異国人の姓名である「ハンセン」に対する気遣いはない。いかにも日本人らしい。



 朝鮮併合時代の「創氏改名」を、「民族の誇りである名前まで奪った!」と極悪非道の政策のように主張するアサヒシンブン的な連中もいるが、私はそれを否定する。強要はなかったし、朝鮮名のままのひとも多くいた。そもそもあちらに望まれ「併合」という形になったが力関係は明白だ。なら下のものが上の名を名乗れることは悦ばしいことである。それは敗戦後、アメリカ的な名前を名乗る芸能人が数多くいた事からも判る。今でもいるが(笑)。下は上に憧れる。朝鮮人は日本的な名前を名乗ることに熱心だった。金が金田、金村になったり、李が木村、木下になったりした。

 オランダが植民地支配したインドネシアでは、現地人がオランダ的な姓名を名乗ることを許さなかった。オランダ人はインドネシア人が結婚等によりオランダ的な姓名になることを禁止したのである。これが支配者のまともな感覚だ。格下の土人に自分達と同じ名前を名乗られたのではたまらない。名乗らせない。朝鮮名を持つ朝鮮人に日本的な名前に改名させるということが、いかに異様な政策であったことか。させなければ区別がつきやすいのに。ここからも西洋の「殖民地支配」と「日韓併合」が根本的に異なるものであることがわかる。



 と、私は「創氏改名」を無理矢理強要のあった極悪非道の政策「民族の誇りであった姓名まで奪った」という主張を全面否定するのだが、これが島国根性から生まれた「愚策」であることはまちがないなく、しみじみ愚かであるとは思っている。上記のようにオランダの方針が正しいのだ。そうしていればよけいなイチャモンをつけられることもなかった。しみじみ愚策だったと思う。

 朝鮮における創氏改名に、島国根性日本人の「自分達のわかりやすいものにする」という御都合主義があったことは否めない。それは昭和末期、平成の世になっても現出している。群馬だったか、ブラジルから出稼ぎに来た青年達の名が呼びにくいと、兄を「タロー」、次男を「ジロー」と呼び、それにブラジル人青年が反撥した問題があった。

 ロシア人ボクサーに「海老原」という日本名を名乗らせたなんてのもあった。彼は素朴に「なぜ誇りある自分の名を捨て、そんな名前を名乗らねばならないのか」と主張して後に本名を名乗った。これを強要したのは「金」から「金平」に改名した朝鮮人だった。自分が改名しているから他人の改名にも鈍感だったのだろう。

 この辺の感覚が日本人の「悪い意味での島国根性」であることは認めねばならない。ほぼ単一民族なので懐が狭いのである。国境を数多く抱える欧州人であったなら、「呼びにくいから呼びやすい自分達の名前に変える」なんて失礼なことはしまい。されるほうも受けつけまい。なんとも狭量な島国根性である。なお、あえて「悪い意味」としたのは、私は「島国根性」をとてもよい意味でも使うからだ。日本人の几帳面さ、礼儀正しさ、自動車から携帯電話まで痒いところに手の届くように改良してしまうあの感覚が「良い意味での島国根性」になる。対して支那の「大陸的」はどうしようもない。



 関係ないことを語っているようだが主旨は一貫している。ブラジル人青年の名を呼びにくいとタロー、ジローにしてしまう感覚、ロシア人ボクサーの名を海老原にしてしまう感覚、この流れに、「らい病」を「ハンセン氏病」と呼ぶようにし、さらに「氏病は死病に通ずる」と「氏」を取ってしまい、「ハンセン病」と呼ぶ感覚がある。



 女性器からの愛液「バルトリン腺分泌液」、男の先走り液「カウパー腺分泌液」。このバルトリンもカウパーも発見した博士の名前だ。私がこれらを覚えた頃はまだ「バルトリン氏腺」と「氏」がついていた。
 これって誇り高いことなのだろうか。医学の世界では自分の名が冠せられることは後々まで自慢になるのか。私の名字がバルトリンだったら、なんだかいつも女性器の愛液にまみれているようで、あまりいい気はしない。というか、例えばバーバラ・バルトリンという美しい女性と知りあったとしたら、私は反射的に「彼女は濡れやすいのだろうか」と不謹慎なことを想像する。男のジョージ・カウパーさんと知りあっても同じく。

 ハンセンさんはスタン・ハンセンしか知らないが、ハンセン氏一族は、らい病が世界的に「ハンセン氏病」と呼ばれることをどう受けとめているのだろう。一族の博士が発見し、世界中でそう呼ばれることを誇っているのだろうか。英語の「癩病」である「leprosy」は禁止用語ではないから今も使われている。「Hansen's disease」はむしろ補助的だ。やはり「癩病」というコトバを「ハンセン病」にして封じてしまう日本の異常さが際立つ。



 とするなら「野呂一族」も、ノロウイルスに関して、気にするな、となるのだが。
 しかしこの場合、「日本の野呂博士が初めてそのウイルスの存在を発見し」ではない。問題は「ウイルス」にある。たとえば「丸山ワクチン」なら、ワクチンであるから丸山さんが辛い目に遭うことはない。誇れる。将棋でもゴキゲン中飛車対策に丸山九段が使いはじめた戦法を「丸山ワクチン」と呼んだ。

 この場合はウイルスなのだ。野呂さんが遅刻したら、いろんなヤツが遅刻するようになった。そういう場合「ノロウイルス」と使われたりするだろう。野呂さんが営業成績を上げたら、みんながそれに習って成績を上げた。だがこの場合「ノロウイルス」と使われることはない。「ノロワクチン」なら使われる。切実な問題である。
 といって改名はやはりむずかしいだろうなあ……。

ことば考──「おあいそ」について──客は使うべきではない

ことば考──「おあいそ」の誤用について──店側が言うことばである。

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「深夜食堂」より。


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「将太の寿司」より。

ことば考──「なんたら」の使いかた──「アベノ何たら」

 自民党嫌いのサヨクのブログを読んでいたら以下のような表記があった。
「円安・株高の表面的な数字を誇るアベノ何たらという机上経済論の影響か、少しだけボーナスも増えたらしい」。
 アベノミクスを敢えて「アペノ何たら」としている。
 そのアベノ何たらを否定し、「庶民には、多少なりとも良くなった生活実感は何もないのだ」と続く。

 当たり前じゃないか、バカ(笑)。経済政策が発動されてほんの数ヵ月で一般庶民が「いやあ、生活が良くなったなあ」なんて実感出来たらそのほうが異常だ。GDPが鳥取県ぐらいの北朝鮮のような国だったら指導者が代わって数ヵ月で劇的な変化もあろうが、日本が民主党から自民党に戻っただけで庶民の暮らしが急によくなったという生活実感があるはずもない。これから緩やかにインフレになり、物価が上がり、それが給料に反映されてくるまでにはまだまだ時間が掛かる。それこそしばらくは物価が上がったというマイナスばかりが目立つだろう。100円のものが120円になり、500円のものが600円になる。物価上昇が先だ。生活にそれが戻ってくるまでは時間が掛かる。しかし犁な瓩ちがう。悪夢のような政権が終り、やっとまともな国にもどったという希望がある。そして、最低時給が850円から900円に、やがて千円になるだろう。

 こういう体制の悪口を言うことで粋がっているバカはなにを考えているのだろう。自分の愚かさに気づかないのだろうか。安倍政権を批判する以前に、民主党を支持し、票を投じて政権を具現化した己の政治音痴を反省しろ。



 テーマは「アベノ何たら」という表現のこと。
 私は「何たら」なんて表記は嫌いなので以下「なんたら」で行く。もしかしたらこのひとの読みは「なにたら」かも知れない。だったらなおさらこんな無神経な漢字使用はやめたほうがいい。

 これは、やたら長いものを「そんな面倒なモノしらねーよ」で使う。
 横文字なら、 コーポレート・アイデンティティとか、インフォメーション・ディベロプメントなんてのに「コーポなんとか」「インフォなんとか」と使ったりする。
 ここには「わたしはバカなので、そんな難しいコトバは知りません」と一歩引きつつも、そういう「小難しそうな長ったらしいモノを、これみよがしに使う相手に対する、「なにそれ?」的な揶揄も含まれる。

 このバカサヨクの使用法もそれに則っているのだが、ただ「アベノミクス」は6文字であり、「アベノなんたら」は7文字である。省略になっていない。いや「何たら」と漢字にしたのは見た目だけでも6文字にしようとしたのか(笑)。
 意図はわかる。大嫌いな自民党の、いま話題になっているアベノミクスなんて流行り言葉は使いたくないのだ。その6文字を書くことを否定するのだ。それがバカサヨクなりの意地なのだろう。

 ただしこれは流行り言葉とはいえ一部の若者が粋がって使うようなものではない。欧米の新聞にも登場し、テレビの経済番組でも使われたりする一般的なものである。欧米の新聞雑誌でもAbenomicsと表記されている。ロシアでも使われている。
 純粋にこの政治音痴が「アベノミクス」というコトバを知らないという可能性もあるが(笑)、なんとも珍妙な「なんたら使用法」だった。



 この「不自然な省略」に関して今も記憶に残るのは「小沢一郎の前田なにがし」である。
 元プロレスラーの前田日明が民主党から出馬かとなった。そもそも前田が民主党からというのがへんなのだが、あの当時はそれほど民主党に勢いと夢(笑)があった。前田も勘違いしていた。民主党の応援演説に燃えていた。そこが底が浅くかなしいのだが。
 しかし時の幹事長、剛腕ならぬ傲慢な小沢と意見があわず公認は却下となる。そのとき小沢が言ったのが、「ええ、前田なにがしに関してましては、うんぬん」である。アキラという単純な名前なのに、あえて「前田なにがし」と言ういやがらせ。極悪人小沢の毒素が全身から噴きだしているかのようだった。同じ朝鮮人同士の争いではあるが。

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民主党、前田日明を公認せず──小沢「前田なにがし」発言 2010/03/04

民主党、前田日明を公認せず──外国人参政権問題 2010/03/05



 最近ブログを始めたこのサヨクライターは、ごくごく一部ではあるが、それなりのファンもいる。ブログはやめたほうがいい。「アベノミクス」を「アベノ何たら」と書いてサヨクを気どるバカを晒すとその数少ない支持者も離れて行く。諸刃の剣の怖さにまだ気づいていない。おとなしく山の中で水槽のメダカでも見詰めているほうが似合っている。

イニシャルのこと──日本人のイニシャルは「姓・名」の順が正しい──「名・姓」にしていた時代の愚

 あるひとがブログで私のことを「知人のKY氏」と書いていたので、「私のイニシャルはYKですので直してください」と抗議した。ささいなことだが看過できなかった。そのひとは自分の持っている有限会社にも「JT」と自分のイニシャルである「名・姓」をつけているぐらいだから、よほどこの「名・姓というイニシャル」が好きなのだろう。

 日本人の名前は「姓・名」の順であるから、それを略したイニシャルも「姓・名」の順が正しい。しかし長らく欧米人を真似て、それをひっくり返し、「名・姓」で表記する習慣があった。
 これは明治維新のころの日本人が、「あちらではそうする。それがかっこいい」とミーハー感覚で真似たことから始まった。西洋人コンプレックスの最たるものになる。日本というすばらしい国は、明治からの「西洋人へのあこがれ」で国をおかしくした。



 明治維新で始まる明治をやたら礼讃するひとがいるが、夏目漱石すらも「すくなくとも明治中ごろまではどうしようもない軽薄な時代」と語っているように、あれはもう初めて触れた西洋文化に浮かれた、なんともどうしようもない、軽薄な、恥ずかしい時代である。姓・名の順である日本人の名を、名・姓の順で記して西洋人のようにふるまうという悪習もこのころに始まった。

 もっとも、そういうヤカラばかりではなく、榎本武揚はこの時期、外国での批准書類に「Enomotto Takeaki」と「姓・名」で署名している。(ttはミスではなく、ママ)



 日本人は劇的なことを経験するとすぐにそちらに染まる。むかしなら、仏教、儒教や漢字を知ったら、いきなりそれ崇拝になる。近代で言うなら明治維新と敗戦だろう。180度方向転換してあちら一色になる。
「姓・名」の順である日本人が、自分のイニシャルを「名・姓」と逆さにしたのは、開国を迫ったペリーや進駐軍のマッカーサーが強要したわけではない。先進を気どる日本人が、「外国ってかっこいい。おれもそうしよう」と猿真似しただけである。いわば黒髪を金髪に染めるバカと同じレベル。

 そうして時は流れ、やっと「日本人は日本人の黒髪がいい」と金髪から黒髪に戻るように、耳に空けた穴を恥じるように、イニシャルも「姓・名」の順に戻った。パスポートや外交書類でもそれが徹底された。



 それは21世紀の常識なのだが、私を「名・姓」で表した知人のように、まだ知らないひともいるらしい。条件反射で、アルファベットで自分の名を書くときは、「名・姓」にしてしまうのだ。

 過日、共産国へのヴィザ申請を専門会社に代行してもらった。以前は自分で麻布や六本木の大使館まで行ってやっていたが、西東京の外れに都落ちしてからは、電車賃と消費する時間を考えると、こちらのほうがむしろ安くあがる。また共産国の中には個人での申請を受けつけなくなった国もある。
 そのとき印象的なことがあった。代行会社のサイトから申請フォームをDownloadして記入するのだが、そのアルファベット名前記入欄の注意が異様にくどいのだ。

「姓名は姓・名の順で記入してください。パスポートと異なっていると申請が却下されます」までは解るが、その後に例まであげてある。
「山田太郎さんの姓は山田、名前が太郎です。姓がYAMADA 名前がTAROです。姓名の欄に正しく記入されていますか。逆にするとパスポートと異なるため、申請が却下されます」と、まるでこどもに教えるかのようである。この会社は、ビザ申請を代行して金を得ている。申しこんできた客の書類が記入ミスでは金にならない。真剣にもなる。これほどくどいというのは、それだけいまだに逆に書いてくるひとが多いのだ。



 いまの日本のパスポートのアルファベット表記は、「山田 太郎」は「YAMADA TARO」である。「アルファベット表記」というかアルファベットだけで漢字表記はない。だからこれがすべてになる。
 もしも姓名の表記順序を昔風に間違え、「TARO YAMADA」と書いても、、日本人なら、「山田太郎さんが太郎山田と順序を逆に書いた」と理解できる。山田が姓、太郎が名前という常識があるからだ。だが外国人から見たら「YAMADA TARO」と「TARO YAMADA」はまったくの別人である。この場合の注意書は外国への考慮以上に、コンピュータ処理の問題もあるだろう。コンピュータも外国人と同じく「山田太郎」と「太郎山田」は別人と判断してしまう。や行とた行はまったく異なる。

 ビザ申請フォームのくどい注意書きは、未だに自分の名をアルファベットで書けと言われると、「名・姓」にしてしまう日本人が多いからなのだろう。そしてきっと、これだけしつこく注意しても、間違えるひとはいるのだ。確実に。

 こういう慣習の変化は早い。若者は「姓・名」の順で書く。それがふつうになっている。これからのこどももそう覚えて行く。自分の名をアルファベット綴りで「名・姓」とひっくり返して書き、「おじいちゃんはどうしてそんなヘンなことをするの?」「おまえはそういうが、むかしはこうしたんじゃよ」となる時代は遠くない。

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【追記】──まともな時代がやってきた──2014/12/01

 今や外国語教育は小学校でも必修となった。家庭でも授業を終えた子供が、覚えたばかりの英語で話しかけてくるかも知れない。しかし、不用意に自分の常識で対応するとあいさつの段階で恥をかく。

Hello, my name is Ken Tanaka.〉は教科書に載っていた一番はじめに教わる英語のあいさつだ。

 このようにMy name isのあとに「名―姓」の順で習ったはずだ。しかしMy name is〜のあいさつは「古い言い回し」として今の教科書では使われなくなった。
 
 現在中学一年生の教科書ではI am Tanaka Ken.と、 I amと「姓―名」の順で名乗るのが標準なのだ。

 姓名の順は2000年に国語審議会が「国際社会に対応する日本語の在り方」で、日本人の姓名についてローマ字表記を「姓―名」の順にすることが望ましいと答申したことが大きく反映されている。
SAPIO2014年12月号

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 時代は正しいほうに動いている。西洋人コンプレックスで、日本人が姓名を逆さに言う時代は終った。

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【追記】──「姓・名」と「名・姓」によるたびたびのトラブル──2014年7月3日

 ちょうど1年前に書いた上記の「日本人のイニシャルは姓・名の順が正しい」が息長く読んでもらっているらしい。ありがたい。感謝を込めて、その後の私の体験談を書く。


 ここに「日本人のイニシャルは姓名の順が正しい」を書いてから、私は何度か空港で「チケットの再発行」というのを経験した。理由はいつも同じ、「チケットとパスポートの名がちがっているから」である。それらはみなネットで購入したチケットだった。

 ネットでチケットを買う。クレジットカードで払う。ひき換えナンバーをメールでもらう。空港の航空会社カウンターに行き、パスポートとナンバーを提出し、チケットをもらい、チェックインしようとする。
 
 そこで問題が生じる。「すこしお待ちください」となる。スタッフが話しあっている。「チケットのお名前とパスポートのお名前がちがっておりますのでチケットを再発行いたします。あちらのサーヴィスカウンターでお待ちください」と言われる。そのことに費やされる時間は結果的に30分程度だが、私の前のひと、後ろのひとたちが続々とチェックインして行くのを尻目に、別口のサーヴィスカウンターとやらで待たされるのはあまり気分のいいものではない。旅慣れていないひとがミスしたようである。それはない。落ち度はあちらにある。旅慣れてもいる。そんなこともあろうかと早めに行っているので、なんとかそれ以上のトラブルには巻きこまれずに済んでいるが……。


 つまりこういうことだ。ネットでチケットを申しこみ、航空会社のサイトで申込用紙にあれこれ記入する。まずは最初にあるFirst Nameのスペースに名前を、その下段にあるFamily Nameのところに苗字を記入する。それはもう何度も何度も確認してやっているから決して逆に書いてはいない。それから生年月日、住所、電話番号を記入して行く。

 空港の航空会社カウンターに行く。そこにはすでに私のチケットが用意されている。そのチケットの名前は、ネットの用紙に記入した順序と同じく「名・姓」になっている。欧米人の場合はこれですんなり行く。パスポートも同じ「名・姓」だから。
 
 しかし私の提出した日本人パスポートの名前は、今の時代、「姓・名」の順である。なのにチケットにプリントアウトされた名はむかし風に「名・姓」の逆さ順である。異なっていては搭乗できない。急いでパスポートと同じく「姓・名」の順のチケットを再発行するからちょっと待っててくれ、となる。航空会社の怠慢である。自分のミスならともかくあちらの杜撰な体制のために30分待たされるのは愉快ではない。

 それだけまだ21世紀になってから徹底された「日本人の姓名は、姓・名の順」というのが諸外国の航空会社には浸透していないのだ。逆に言うと、「姓・名」の順の日本人なのに、欧米人の牘鄂浸瓩鬚靴董◆嵬勝姓」にしていた時代の弊害がいまも残っている、ということになる。


「藤圭子&沢木耕太郎『流星ひとつ』考」に書いたが、1979年、後の『深夜特急』の旅を終えた沢木さんがパリから日本までもどってくるのに購入した格安チケットは、他人名義である。あのころはそれほどいいかげんだったのだ。

 これは、假りに正規品で10万円のチケットだとすると、払い戻し不可の品なので、乗れなくなったひとがその辺のアヤシイ業者に売ったものである。たぶん3万円ぐらいに根切られる。新品の10万がたったの3万だが、返品不可の品なので搭乗期日までに売らないとただの紙切れになってしまう。しかたなく売る。そこにとにかく安いチケットはないかと捜しまわっている沢木さんのようなひとが来る。6万円で売る。沢木さんのようなひとは、10万円のものが6万円で買えたとよろこび、こちらは3万円のものが6万円で売れたのだから大儲けである。金儲けのうまいひとは、こんなことをする。どこの国でも、いつの時代でもいる。

 搭乗するのは26歳の日本人男性の沢木さんなのに、チケットの名前は50歳の白人女性だったりする。それでも乗れてしまうのである。さすがに一年間の放浪をしてきて旅慣れている沢木さんも、「ほんとに他人名義の航空券で搭乗できるのだろうか」と心配しているから、当時としてもめちゃくちゃな話だったのだろう。航空会社は当時も今も悪名高いソ連のアエロフロートである(笑)。


 あれから幾星霜。ハイジャックやらテロやらいろいろあり、今ではパスポートとチケットの姓名が一致しているかどうか、じっくり見られる。1文字でもちがっていたらアウトである。爆発物で死にたくないから、厳しいことは歓迎する。いくらでもしつこくチェックしてくれと願う。時折「なんだよ、めんどくせえなあ」と怒っている日本人を見かけるが、飛行機なのだ。なんかあったら即、死なのである。船のように、沈みそうだから泳いで逃げるべえも出来ない。アヤシイものはしつこくチェックしてもらわないと困る。この辺も日本人は平和ボケだと感じる。

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 不便なのは、今はそういう警備の厳しさから機内への水ものが持ち込み不可になったことだ。飲料水もぜんぶ取りあげられる。ウイスキーの小瓶を持ちこんだりできない。私はウイスキー党じゃないが、深夜の飛行機でキュッとやって眠る寝酒にはやはりウイスキーがいちばんだ。パスポート審査を通った後、免税店で大瓶を買って持ちこむことは出来るが、次のトランジットで乗りかえるときに残りは取りあげられてしまう。ワンフライトでウイスキーの大瓶を空けるほどの大酒飲みではない。いやヨーロッパまでなら12時間かかるから空けられるが、私の場合は、うまいツマミがあってこそ、である。真っ暗な機内でツマミも氷もないウイスキーをストレートで一本空けたらアル中だ。
 免税店の連中も、私みたいなヤツのために(けっこういると思うよ)、そこそこのウイスキー小瓶とツマミと氷のセットでも用意したら、けっこう売れると思うのだが。


 長年けっこういい航空会社に乗ってきたので、ここのところ安いところに乗って(しか乗れない)、しみじみと惨めな思いをしている。いいところだと酒は飲み放題だ。「酒とおつまみのセットを売ってないか」などとバカなことを考えたこともなかった。といって繰り返すが、わたしゃ酒飲みだけど意地汚い酒依存症じゃない。体質的にすこし強いだけだ。でも今まで乗ってきた航空会社は、ビジネスクラスはもちろんエコノミー席でも、そんな私に充分満足するだけの、ビール、ワイン等を飲ませてくれた。
 
 先日乗った航空会社は、飯が有料、ビールを頼んだら有料、寒いから毛布をくれと言ったら有料、なんでもカネカネカネなので、怖くなって不細工なCAに話し掛けることすら出来なくなってしまった。話し掛けただけで金を取られるのではないかと。


 と、後半、ぜんぜん関係ない話になってしまったが(すまん)、これらのトラブルから鑑みるに、日本人の「姓・名」の順で書くアルファベット表記は、まだ世界的には浸透していないようである。
 でもきっとフラッグ・キャリアだとそんなことはない。格安航空券であることによる問題点と思われる。ここのところフラッグキャリアなんて南朝鮮とシナぐらいしか乗ってない。上記「航空券の再発行」となった航空会社はみな新進のマイナー航空会社である。そういうことなのだ。みんなビンボがわるいんや。ビンボだけど上の「カネカネカネ」の航空会社だけはもうやめようと思う。みじめを噛み締めつつ街で生きているのに、飛行機の中でまでそうはなりたくない。数万円安かったとしても、あの惨め感はそれ以上だ。私の経験を他山の石にしていただきたい。格安飛行機会社はやめたほうがいい。

ことば考──「劣化」について──たしかにそれは失礼な表現ではあるが

 Twitterで「女性の容姿に猯化瓩隼箸Δ里麓採蕕澄Cだって齢を取れば老化する」というフツーのおばさんのツイートがあり、その意見に賛同したのか、フツーのおばさんたちがRTしていた。



 容姿に対して劣化などと言うのはまことに失礼であり、慎むべきだろう。
 だが数回使ったことのある者として、こちら側の意見も言いたい。

 私が今までにこの言葉を使ったのは、【芸スポ萬金譚】に書いた 山口美江と、ナスターシャ・キンスキーの2回だ。ともに大好きなきれいなひとだった。それがこれでは、いくらなんでもあまりに、というような意味あいで使った。 

 そちらの記事、というか画像を見て頂きたい。私は若者言葉や流行り言葉が嫌いだから、まずめったに使わない。しかしこれらを見たとき、真っ先にそれが浮かんだのだからしょうがない。

 同じようなテーマで、松嶋菜々子の目尻の皺のことを書いたことがあるが、ここではそんな言いかたはしていない。39歳にしては目尻の皺が目立つけれど、充分にきれいであり、それは劣化とはちがうからだ。



 言いたいのは、女性の容姿に関して猯化瓩隼箸Δ里蓮△修譴覆蠅離皀里鯒Г瓩蕕譴燭劼箸妨造辰道箸錣譴襦△い筺峪箸錣譴襪戮モノではないか」ということである。
 それは2ちゃんねる等で連発されている場合にも共通している。十代のときの輝くばかりのアイドルが四十代になり、かつての面影がなく、ひどいことになっているような場合に使われている。その猴邵広瓩紡个靴董ただし、いうまでもないが、その猴邵広瓩脇馼造箸ではない。そんなことには誰も言わない。生きかたから来る容貌の衰えだ。
 三十代でも四十代でも、いやもっともっと齢を取ろうとも、年相応の魅力で輝いている人に、そんな言いかたはしない。



 と書いて私はいま、八千草薫さんを思い出した。有名人は呼びすてが基本だが、思わず爐気鶚瓩鬚弔韻討靴泙辰拭こども心に「きれいなひとだなあ」と憧れた今年御年82歳の大女優だから見逃してくれ。むかしもいまも魅力的な八千草さんに、老化も劣化もないのは当然として。
 私は八千草さんの私生活を知らなかった。いまWikipediaで調べたら、宝塚をやめた後、26歳の時に19歳年上の45歳の監督と結婚して、50年添いとげたんだな。76歳の時に95歳の旦那を送っているわけだが、3度目の結婚だったというこの旦那も、八千草さんにはぞっこんだったようだから、しあわせな結婚生活だったのだろう。なんだか自分に照らしあわせて胸が熱くなった。

 では八千草さんと同じく「ウィークエンダー」の頃から、というか、もっと前のギター漫談(ウクレレ漫談の牧伸二の弟子)の頃から見ている泉ピン子に関して、劣化とか老化とか言うかというと、そういうこともない。なにひとつ興味がない。すると、それすら出て来ない。泉ピン子が実年令より若く見えても老けて見えても、なんの興味もない。ということは、老化であれ劣化であれ、口にするのは、それなりに興味があるからだ、ともなる。



 つまり、フツーのおねーさんが、フツーのおばさんになっても、誰もそれを猯化瓩箸聾世錣覆ぁただ年とったなと思うだけである。「娘十八、番茶も出花」という酷い言いかたがあるが、並の容姿でもそれぐらいの年齢の時は輝いて見える。それが四十になっておばさんになったからといって、「劣化したなあ」とは言わない。もし言うひとがいたら、それはこのコトバの使いかたを間違っている。

 私はTwitterでそれをつぶやいたひとを「自意識過剰」だと思う。「そうだそうだ」と賛同してRTしたおばさんも同じく。
 誰もあんたら並の女が年とったって、「年とったなあ。老けたなあ」と言うだけで、「劣化した」とは言わない。それは、よくもわるくも、ある種の選ばれた女に使われる言葉なのだから。



 と書いて、私は間違っているかも、と気づく。
 ツイートしたひともRTしたひとも、「フツーのおばさん」としたが、私は会っていない。彼女等の容姿を知らない。単なる推測だ。
 彼女等は、劣化というコトバに反応しているのだから、そう言われたことがあるのだろう。ということは、若い頃は山口美江やナスターシャ・キンスキーに勝るとも劣らない絶世の美女だったのかも知れない。
 当時の美貌の信奉者に「劣化した」と言われて傷ついたのだろうか。それに同意してRTしたひとも、それだけの美女だったのだろう。
 とするなら私は自分の不明を詫びる。恥じる。すまん。私は、あなたたちが美女であることを知らない。

 しかし、猯化瓩隼箸Δ曚匹糧女が、それほど世の中にあふれているとも思えない。

 田嶋陽子が、「夫婦茶碗は女のほうがちいさい。男女差別だ」と喚いていた。あきれた。それと同じテイストをこのツイートしたひとにも感じる。まずまちがいない(笑)。本能でそう感じる。この感覚が見当違いだったら私に生きている意味はない。

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【追記】──男の場合、自分の場合──6/24

 つい女性の場合に限って書いてしまったが、もちろん男も同じである。猯化瓩隼箸Δ覆蕁⊃紊眦る美男子が、ひどいことになった場合だろう。ただしこの場合、ハゲなんてのは関係ない。年相応に禿げるのは、むしろ年月を感じさせて男の魅力を増している。
 劣化は、髪の毛の量なんかには使わない。内面である。目許涼しい美青年だったのに、ろくでもない人生を送ったのか、目つきの悪い悪相のおやじになったりしたときに使う。



 髪の毛といえば、私がオヅラのようなカツラ使用者を嫌う理由もその辺にある。爐いっ豊瓩両魴錣鉾韻量咾領未牢愀犬覆ぁいい男であるためには髪の毛が必須、とカツラ擬装しているヤツが、本物のいい男になれるはずがない。むしろオヅラのような立場のひとは、薄毛を晒して、それでもカッコいいことで存在価値をアピールすべきなのだ。なのにカツラ。それも、白髪を交えた、いかにも年齢相応に工夫したカツラであることが、ますますものがなしい。
 ビートルズ世代のオヅラはギターコレクターでもあり、一度それをテレビで見たが、かなりのものだった。自身でもそれなりの演奏をする。でもそういうプラス面もカツラであることで、みなマイナスに作用する。政治の汚職、業界の擬装、何を語ってもそこに通じる。自分の存在価値を、カツラで壊していることに気づかないひとは、それだけでもうダメだ。ハゲは自分の生きてきた道筋であり、その人生の過程を隠しているひとが、いくらジャーナリスト然として、しかつめらしい発言をしても重みはない。



 と以上は世間話。次は自分のこと。
 先日、引きだしの奧にあった期限切れパスポートを手にした。何冊だったか、7冊かな。
 私はモノに執着しないのでいらないものはみな捨ててしまう。特に電子系のものは、パソコン類のハードもソフトも楽器のシンセサイザーやエフェクター等も捨てまくってきた。ぜんぶ持っていたらさぞ壮観だったろう。
 さすがに本を捨てるときは最初は戸惑ったが、一度割りきれると、高名な作家の高額の(これは後に知った)初版本から文庫本まで、捨てに捨てまくり、いまや「蔵書」と呼べるものは皆無の状態だ。筒井康隆、藤沢周平、高島俊男があるぐらい。厖大なマンガ蔵書もほとんど犲炊瓩靴禿纏匆修靴拭いまHDDに150GBある。それでも初期のいがらしみきお(「ぼのぼの」より前ね)なんかは捨てられないのだから、まだすこしこだわりはあるらしい。それだけ狹刑有瓩いらしに衝撃を受けたのだろう。
 パスポートは捨てられなかった。そこにあるスタンプだけで当時を思い出す手懸かりになるからだ。いわば良質の日記でありアルバムだ。捨てられなかったけど手にすることもなかった。引き出しの奥に眠っていたものを、たまにする整理で、たまたま手にした。



 外国で作ったのも2冊ある。日本製との完成度のちがいが目立つ。先端技術の日本製パスポートは精緻だ。最新のは顔写真等を収めたICチップが入っている。偽造は不可能だ。これ、当然ながら発展途上国で再発行してもらったら入ってないだろう。
 以前有効期間がすくなくなり、そういう国で作ったそれは、当時もう日本製は偽造されないように、顔写真がパスポートに溶けこむようになっていたのだが、外国で作ったそれは、ごくふつうにペタンと糊で写真が貼りつけられていて、いかにも偽造されたインチキのようである。これはこれでいとしい。
 そういやあやしい国で、よくパスポートを売ってくれと言われたものだ。日本人のパスポートは世界一の価値がある。



 貼られてある歴代のパスポート写真を見ていたら、かなしくなった。そこには何十年もの時の流れ、たしかな老化があった。問題はその老化の質だ。

 いまの自分を鏡で見て生きているから、私にとって顔はいつでも今の顔である。過去の写真を見て懐かしむ趣味もない。十代二十代の時のギターを抱えたコンサートの写真なんてのは他人を見るようで現実感とはまた別。
 歳月による老化は必然だが、趣向によってごまかされるものもある。たとえば今の私でも、大好きな猫に頬擦りした写真なんかだと、猫好きのいい表情をしているような気がする。しかしパスポートにあるのは「正面からのただの顔写真」である。これはごまかせない。そこにはむごい現実があった。

 私は、内面的輝きをもった男になりたいと願い、それなりの努力もして生きてきた。当時から今まで、それは結実するものと信じていた。疑いを持ったことはない。だが歴代のパスポート写真を見ると、そこにあったのは、成熟も充実もない、ほぼ5年毎の、「並の男の並の老化の記録」だった。若さが失われる分、それに代わるものが滲み出てくるのが成熟だが、それがない。むしろ智性が加齢と共に顔から消えている。どういうことだろう。精一杯努力してきたのだが……。ここにあるのはただの「老化」だ。いや、そこそこあった智性が消えているのだから、これは並の男の並の老化だが、紛うことなく劣化である。

 三十代のころの写真はなかなかだ。それなりの智性とやる気が顔に出ている。眼にも光がある。この男がこのまま年を重ね教養を身に着けて行けば渋くて智性的ないい男になるのではないかと期待できる顔をしている。
 ところが現実に齢を取った今、パスポート写真は「万引で捕まったおっさん」のような貧相な顔になっている。智性のかけらもない。交番の前に貼ってあってもおかしくない。泣きたくなった。
 そういや最新のパスポートは急いで作らねばならなくなり、深酒をした翌日、浮腫んだ顔で出かけたのだった。シャツもよれよれだ。ひどすぎる。いやこれが現実なのだ。認めねばならない。

 亡父の三十代と五十代の写真を比べると、劣化はない。七十代の父は枯れたいい顔をしている。
 私はなぜ劣化したのだろう。髪が薄くなったり、顎の線が弛んだり、目蓋が垂れてきたり、老化はしかたないが、脳と心磨きにはそれなりの努力をしてきたつもりなのに、なぜ顔から智性と品が消えているのだ。

 廃棄処分としてパンチで穴を開けられた古いパスポートと近年のパスポートとの差がひどすぎる。それを確認したときのかなしい気持ちは今も覚えている。美しく年を取るのは、男も女もむずかしい。

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【追記.2】──消えた智性の理由発見!──6/27

 三十代のパスポート写真からはそこそこ感じられる私の目の輝きと智性は、どこに消えてしまったのだろう、消えた原因は何だろうと考えていたら、この自分の文を読み返して、その原因に気づいた。

 上に「あやしい国でパスポートを売ってくれと言われた」とある。日本人のパスポートは世界中どこにでも行けるから世界一価値がある。偽造パスポート、闇の世界ではダントツの人気であり、高額で流通している。言わずもがなだが、アメリカのパスポートは人気がない。経済的にも軍事力でも世界一だが、同時に世界一敵の多い国でもあるから、通行証としてはあまり価値がないのだ。いかに日本というのが特殊な国であることか。

 日本大使館があり、再発行が可能な国でなら、闇業者に自分のパスポートを売り、紛失したとして再発行してもらえば、その差額が儲けになるわけである。いくらだったかもう忘れてしまったけど(当時の旅日記を探せばわかるが)、再発行費用が2万円だとして、闇業者の言ってきた値段が5万円なら、3万円の儲けになるわけだ。闇業者はそれを何十万かで売るだろう。

 闇業者は、小金欲しさにパスポートを売る心の弱い旅行者を探している。蛇の道は蛇で、顔を見ればすぐにわかるのだろう、しつこく言い寄られているのがいた。私も、貧乏旅行者が巣くっているホテルに滞在したから、そのたびに声を掛けられた。だがすぐに「あ、こいつはちがう」と寄ってこなくなった。私は貧乏旅行者ではないのに、そういうところも見ておくべきだろうと取材感覚で泊まっていたから、彼らの嗅覚で見抜かれたのだろう。

 当時の私は、假りにそれをすれば百万円儲かるとしても一顧だにしなかったし、そういうことをしようとする日本人旅行者がいたら激しく怒っていたろう。日本人としての誇りを持てと。



 時は流れて、いま「5万円ぐらい儲かるのだろうか」と薄ぼんやりと考えているクソバカがいる。こいつは5万円欲しさにそんなことをやりそうだ。なるほど「万引で捕まったおっさんのような顔」にもなるはずである。私の顔から智性と品が消えたのは、紛れもなく私の責任だった。人間、貧すれば鈍するのである。かなしい確認をしたかなしい朝。怖くて鏡が見られない。

数字の表記──<きっこさん>の3〜40人に【追記】

yaguchi数字の表記について──<きっこさん>の3〜40人──に【追記】

 巨人と小人の結婚で話題になった芸能人が小人の浮気で別居だそうです。
 それはどうでもいいのですが、そこに「2〜3,000人」という<きっこさん>のような表記を見つけたので追記しました。


 

武井咲の「咲」に関する<きっこさん>の笑い話──無学が隠せない

 武井咲というタレントの「咲」という名について【芸スポ萬金譚】に2題書いた。

・タカトシの時間ですよSP──誤って伝わった漢字「笑う」と「咲く」について

・再び「笑う」と「咲く」について──武井咲を「えみ」と命名したひとのセンスのよさ

 ここでの千原ジュニアと塚地の勘違いは、私にとって大きなテーマになる。漢字というのは日本語の当て字にすぎない。日本語と漢字は同列ではない。もともとあった日本語に、借り物の漢字を無理矢理当てはめたのが現状なのだ。その基本を勘違いしている。

 ただし、そこから産まれた日本製漢語は優秀であり、現在の支那は日本製漢字抜きではなにもできない。正規の国名「中華人民共和国」の内、元々の漢語は「中華」だけ。「人民」も「共和国」も日本製漢語である。本家ではあるが、それがないと国名すら名乗れない。



 今回、元有名ブロガー、現アフィリエイト商人として有名な<きっこさん>が、こんなことをツイートしていると知った。

kikko-takei





 まあ、それはそれでいい。おっちゃん、いちゃもんのプロフェッショナルとして、あらゆるものにいちゃもんをつけ、政事から競馬までしったかぶり全開だが、なんとも基本がお粗末である。

パソコン話──かってに入ってくるDelta Search(Babylon)のしつこさ──に「ジャストシステム話」を【附記】

ichitarou《パソコン話──かってに入ってくるDelta Search(Babylon)のしつこさ》に「ますますジャストシステムがわからん」を【附記】しました。

 徳島のベンチャー企業ジャストシステムに関して勉強していなかったので、2009年にもう創業者夫妻は経営から手を引き、以降はまったく別会社となっていたことを知りませんでした。

 そういえば、IBMのホームページ・ビルダーの販売を始めたりしたのも、この経営権が代わったころだったことを思い出します。「なぜジャストシステムがホームページ・ビルダーを?」と思ったのですが、経営陣が一新され、あらたな路線を踏みだしたのですね。

 IMEが「差別語を打てなくする」というのは越権行為だと思います。
ことばをどのように使うかはユーザーに委ねるべきであり、ソフト制作者が規制すべき事ではないでしょう。
 ATOKに対するこの不満が消えることはありません。 

パソコン話──かってに入ってくるDelta Search(Babylon)のしつこさ──イスラエルと中共の象徴──ATOKの差別語規制

 Firefoxの検索エンジンがDelta Searchになっていた。いつ浸入したのだろう(笑)。まったく、油断も隙もあったもんじゃない。インストールしたフリーソフトに附いてきたのだろうが、私は確実に「挿れません」とチェックを外し、拒んでいるから、どうやらもうこの種のものと契約したフリーソフトは、「挿れたら附いてくる、かってに入ってしまう」と覚悟せねばならないようだ。チェックを外しても入ってしまう。これは経験から確認している。外せば拒めるという、もうそんな柔な時代ではないようだ。
 一応企業イメージを考慮して、「チェックを外してインストール不要を選ぶことも出来ます。強要はしません」としているが、その実、「いらない」と言っても、しっかり入ってくる。悪質だ。



 こうなると、その種のフリーソフトの便利さを取るか、あとからBrowserの設定や拡張機能を操作したり、ファイルを開いて不要項目を削除する面倒さを嫌い、それを拒むかの問題になる。

 私はいまのところ、「フリーソフトの便利さ」を取っているが、それはまだこれらを削除できるからで、さらにしつこく巧妙になってきたら、もうフリーソフトを捨てるしかない。レジストリをいじれば駆除できるが、そこまでして使い続ける気はない。

 しかしそこそこの知識があり削除出来るからいいようなものの、出来ないひとにとっては不快だろうなあ。気違いに勝手に部屋の中に居すわられるようなものだ。



 それにしてもこのイスラエルのBabylonという会社のしつこさは異常だ。世界中で話題になっている。悪評ふんぷんだ。でもいっこうに改めない。
 もうひとつのしつこさで話題なのがBaidu(百度)で、こちらは中共製。イスラエルと中共という問題のある国を象徴しているかのようだ。

 そんなに嫌われてもまで進出しても、けっして好印象は与えないと思うのだが。
 もっとも削除することが出来ないひとは侵掠されたまま、これを使って行くことになるのか。
 竹島も尖閣諸島も対馬も沖縄も取られてしまうように。
 そう考えると泣き寝入りは出来ない。



 Firefoxに浸入して「標準検索エンジン」として居すわったBabylonは、検索窓にある▼をクリックして「検索エンジンの管理」を開き、いつのまにか入っていたBabylonを削除しても、起動のたびにまた復活してくる。臭い匂いは元から断たなきゃダメだ。

 Firefoxのフォルダを開くと、「searchplugins」の中にしっかり鎮座している(笑)。ほんとになあ、よくやるよ。
これを削除すれば消える。次回起動時からも出なくなる。



 あれこれ入ってくるToolbar削除にToolbar Cleanerを挿れておくと便利だ。これが悪質だったらミイラ取りがミイラになるが、ここ4カ月使っていて、それを感じたことはない。いまのところ「とても便利」が結論になる。
 なんだかBabylonとBaiduのせいでフリーソフト恐怖症になりそうだ。

toolbar












 Jane StyleやJanetterのYahooとの連繋もいやだ。でもそれは使わなければすむ。2ちゃんねる閲覧ソフトやツイッターソフトはたくさんある。私はV2Cにして、だいぶまえにJaneとは縁を切った。
 初代Open Janeのころからの長いつきあいだったけど、検索エンジンをYahooに限定されるのがたまらない。もちろんそれを切り替える情報はネットに溢れている。さほど難しくはない。しかしそれをしてまでJaneを使う気になれなかった。Jane開発者が孫正義にひざまづくのは自由だが、それとは関わりたくない。つまり、Yahooと結託したことがイヤなのだ。裏テクで検索エンジンをYahooでないようにすれば解決するという問題ではない。

 この意見は前にも書いたけど、もういちど書いておこう。

「JaneやJanetterはフリーソフトだからYahooからもらう金は貴重だろうし、使用者にそれを強要してくるのはしかたないと思う。こちらも無料で使わせてもらっているのだから割り切るしかない。でも、有料ソフト、それも決して安くないJust System製品が、Yahooと結託してYahoo Toolbarをインストールしてくる姿勢は容認しがたい」

 Just Systemってのは、ATOKの差別語規制も異常だし、トップの考えがよく見えない。ヒダリなの?
 フリーのGoogle日本語入力がますます充実してきて不自由しない。縁切り時なのだろうか。でも長年ATOKを使ってきたからなあ。慣れ親しんでいる。

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ichitarou【追記】──ますますジャストシステムがわからん──5/16

 『一太郎』について書こうと思い、調べていて、ジャストシステム創業者は2009年にもう退社していることを知った。『一太郎』やATOKの開発者である。2009年以降の製品には「創業者の精神」は関係ないことになる。いまのジャストシステムは経営権からなにからなにまで当初のジャストシステムではないのだ。IBMのホームページ・ビルダーを販売するようになったのもこのころか。

 創業者は身を引いたけど、ATOKの異様な差別語規制に反感を持ったのはそのずっと前だから、私の反感は「創業者の制作姿勢」と関連している。
 そもそもATOKなんて最初は辞書などほとんどないちいさなソフトだった。当時、私の最愛FEP(もちろん有料)はWXGだった。

 ATOKはますます充実し、大きな容量のソフトとなってゆく。やがて『一太郎』から離れ、単体で販売されるようになる。そんなある日、「差別語(と言われるもの)が一切打てない」と気づいた。だからそれはまちがいなく開発者・創業者の社長の方針のはずである。



 今回Wikipediaを読んで、ATOKのシンボルカラーである「赤地に白」は「日の丸をイメージ」と知る。20年以上使ってきて、そんなことも知らなかった。言われてみればたしかにそうだ。だから好きだったのか。
 とすると上記の「サヨクなの?」は当たらない。サヨクは日の丸大嫌いだからぜったいに使わない。この件から推測すると愛国者となる。
 しかしまた、そのプログラマーである社長が開発したATOKであるから、異様な差別用語規制等には社長の姿勢が反映されている。創業社長の方針と考えるのが自然だろう。創業者でありソフト開発者でありワンマンなのだから無関係のはずがない。



 と書くと、「差別語を規制したらサヨクなのか!?」と問われそうだ。
 いちがいにそう言えるものではないが、かなりの部分、それが現実の一面でもある。
 たとえばサヨク区長の品川区では、「五体満足という言いかたは差別用語です。使うのはやめましょう」のようなことを区のページでやっている。こういうことをやっている連中を追い掛けて行くと、見事にサヨクと護憲にたどりつくのも事実だ。
 そのことは私のサイトのここにまとめたので、興味のあるかたは読んでください。2006年の文章です。



 今の時代、こういうこともネット検索を駆使すれば、そこそこわかるのだろうか。検索下手なので知りようもない。
 ともあれ、この件に関しては、長年ATOKに不満をいだいている。
「差別用語」と呼ばれるものを、ひとつひとつ辞書登録するのも惨めだ。べつにそんなことばを好んで使いたいわけではない。だけど「盲」「気違い」ぐらいはふつうに使う。それが何十万語だかしらんけど、巨大な辞書をもっているはずなのに、そこから打てないのだ。出て来ない。日本語ではないと削除されてしまっている。そのようなことばを使うか否かはユーザーに委されるべきであってソフトが規制することではない。こどもに対しては、エロや残虐シーンは規制してやらねばならない。しかしATOKユーザーはこどもじゃない。ATOK辞書にある差別語を使って問題を起こしたのがいたとしても、誰もそんなことばを辞書に含んでいるATOKの責任とは言うまい。

 今はジャストシステムを去ったという創業者御夫妻は、この件に関してどう考えているのだろう。知りたいものだ。

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kanren6 Baiduとは何なのか!?

ブログ話──モザイク今昔、隠されると覗きたくなる心理──エロじゃないよ(笑)

表から「ブログパーツ人気記事」は削除したが、記事を書くときに私は見ることが出来る。
すると「モザイク今昔──むかしNHK、いま民放──隠されると覗きたくなるこちらの心理」という2012年3月に書いたものに根強い人気がある。不思議だ。 

内容は、「むかしのテレビでは、ナショナルの電池ハイトップ等の商品名をNHKがフェルトペンで塗りつぶし見えないようにしていた。時代が変り、最近ではNHKは消さず、民放がモザイクをかけてスポンサーではない商品名を隠すようになった。時代は変ったな」という話。

私は時代の差を書くこの手の話が大好きだが、しかしこれ、どう考えても人気記事になるようなものではない。まして1年以上前のものだ。
どんなものが人気記事になっても、その理由はわかる。一見意外なものがなったようでも、わたし的には「これをわかってくれるひとがいるのか。世の中、捨てたもんじゃないな」と当然だったりする。

しかしこれはわからない。
懸命に考える。行きづまり、初めて「リンク元」というのも調べてみた。そういうツールがライブドアブログには用意されているのだが使ったことはなかった。もしかしてそこに理由があるような気がした。



それでわかった。「モザイク」という言葉、「隠されると覗きたくなる」というタイトルから勘違いされたらしく、エロ系のまとめサイトにリンクされていたのである(笑)。そこから多くのひとがやってきて、そのことによるランクインだった。
そこに行ってみると、「おっぱい丸だし」とか、「スカート内盗撮特集」とかいうのと並んで、私のこの「モザイク今昔──隠されると覗きたくなる」がリンクされていた。

そこで知ったひとは、けっこうわくわくしてここに来たんだろうなあ。AVのモザイクの処理について書いてあると思って。エロ画像まで期待しただろうか。
でもモザイクはモザイクでも、書いてあるのは昨今の民放ではビールのラベルが見えないようにモザイク処理しているとか、ごくまじめなもので、エロのエの字もない。

この場合私は「どうもすみませんでした」と謝るべきなのだろうか。期待を裏切ったのはたしかだ。
でもなあ、意図したわけじゃないし。
いろんなことがあるもんだ。 

しかしこれ、くせになりそうだ。しばらく「まぎらわしいタイトルシリーズ」でもやってみるか(笑)。 

ことば考──「笑う」と「咲く」のこと

【芸スポ萬金譚】のほうに「笑う」と「咲く」について二題書いたのでリンクしておきます。

タカトシの時間ですよSP──誤って伝わった漢字「笑う」と「咲く」について

再び「笑う」と「咲く」について──武井咲を「えみ」と命名したひとのセンスのよさ

数字の表記について──<きっこさん>の3〜40人

○数字の表記について──<きっこさん>の3〜40人──

 ひさしぶりに2ちゃんねるの「きっこスレ」を覗いたら、興味深いものを見つけた。以下のようなものである。

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579 :朝まで名無しさん [↓] :2013/01/10(木) 17:41:57.89 ID:pR6S5gGK
@kikko_no_blog
高校のバスケ部の生徒が自殺した事件で、顧問の教諭は「気合いを入れるために
叩いた」と言い訳してるけど、それなら普通は1〜2回だろう。3〜40回も叩
くのは「憎しみによる暴力」だよ。根底に憎しみがなければ相手の顔を3〜40
回も叩くことはできない。
2013.01.10 14:19


この記事を引用するのは気が引けるが、きっこって「30〜40回」を「3〜40回」
と書く癖があるんだよね。
>>564も然り。
声に出して伝えるときは「さんよんじゅっかい」でいいんだが、こういうところからも
数字を文字にして伝えることが苦手だと分かるんだよなぁ。
原発の話題でも、何度単位を間違えたことか。


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 これは私にはとても興味深いテーマだった。根底にあるのは漢数字とアラビア数字の表記の問題である。
「30回から40回」という意味の「さんしじゅっかい」の表記についてだ。細かいことで恐縮だが「さんよんじゅっかい」ではなく「さんしじゅっかい」が正規である。とはいえ私も支障なく伝えるために「さんよんじゅっかい」と言ったりするから威張れたものではない。でも「三十させごろ、四十しごろ」なんて聞いたことあるでしょ。基本として「四十」は正しい日本語では「しじゅう」である。

 この「さんしじゅっかい」の漢数字表記は「三四十回」である。しかし毎日新聞が率先して数字表記をアラビア数字に統一したように、いまはそちらの表現のほうが主体だ。これをそのままアラビア数字にすると「340回」になる。これでは「30回から40回」ではなく、文字通り「さんびゃくよんじゅっかい」になってしまう。よってここにコンマを入れ、「3,40回」という表記が成立した。

 これを流用したのが<きっこさん>の「3〜40回」という表記になる。
 投稿したかたは、「これでは30回から40回ではなく、3回から40回の意味になってしまう」と言いたいのだろう。
 たしかにその前に「1〜2回」という表記があり、そのあとに「3〜40回」とあるから、最初のが「1回から2回」という意味なら、その次の「3〜40回」は「3回から40回」と解釈するのが自然になる。しかし教え子を殴打したこの事件の数字は「30回から40回」であり、「3回から40回」ではない。とすると、<きっこさん>の表現はおかしいとなる。

 推測するに、<きっこさん>は「さんしじゅっかい」を「三四十回」と書くことは知っていて、それをアラビア数字で表記すると「340回」になってしまうから、「3〜40回」という独自の方法を考えだしたのだろう。



 同じく、「1回から2回という意味のいちにかい」も、漢数字では「一二回」と書くのが正しい。しかしこれもアラビア数字にすると「12回」で「じゅうにかい」になってしまう。よって「1,2回」と「12回」ではないことを示すコンマを使用しての「いちにかい」となる。コンマではなくピリオドだと「いってんにかい」になる。

 漢数字で「じゅうにかい」はどう書くかと言えば、もちろん「十二回」である。この漢数字とアラビア数字でいつも問題になるのは、この「十」の表記の問題に著しい。
 私がいちばん嫌いなのは漢数字表現に「○」を入れる表記だ。「四○回」のようなやりかた。こういう表記のものは一切読まないようにしている。あんなくだらんことを始めたのは誰なのだろう。和洋折衷のようで和も洋もぶちこわしている。

 縦書き小説ではアラビア数字は、あまり用いられない。それでもこの「一二回(いちにかい)」をアラビア数字で「1,2回」と書くことからの逆影響(「じゅうにかい」とまちがわれない対策)は顕著で、たとえば船戸与一さん(昭和19年生)なんかも、縦書き小説の中で、「いちにかい」を、「一、二回」と読点を入れて書いている。これは若い読者に「一二回(いちにかい)をじゅうにかいと読まれないための対策」なのだろう。



 さて、現実に私がどうしているかだが。
 私が私の意見を縦書きで表明するような場なら、私は「30回から40回」を「三四十回」と書く。それに迷いはない。
 しかし現実に私のようなのの仕事は、「事実を伝える横書き文章」が多かったりする。そこではなるべく読者に迷いを与えたくない。アラビア数字を使った横書きの文章で、「30回から40回」ということを伝える「さんしじゅっかい」の表記は、私は「3,40回」と書きたい。でもそれで読者に「3回から40回の意味か?」という誤解が生じる可能性があるなら、もう原点にもどって「30回から40回」とそのまま書く。自分の表記に対するこだわりよりも、「誤解がなく正確に伝わること」を優先する。

 中共ではいま、すべての文が横書き、数字はアラビア数字、暦はキリスト歴に統一されている。共産党一党独裁の国はシンプルだ。その意味ではあちらには悩みがない。
 日本には縦書き、横書きがあり、漢数字、アラビア数字があり、西暦と年号が両立している。中共のシンプルな姿勢を見ると、我が国の複雑さに誇りを持つ。複雑だから愉しい。

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yaguchi【追記】──<きっこさん>は正しいの!?──2013/5/22

 女芸能人の浮気相手に関する「メンズサイゾー」とかいうところの記事。


不倫相手の梅田はTwitterを2月22日から更新しておらず、現在はアカウントを削除しているほか、契約事務所も今回の件で話をしたいと思っているものの、連絡が取れない状態が続いているという。梅田については騒動の最中に雲隠れした格好となっているが、一部ネットメディアでは「打った数は2〜3,000人という伝説もある」「すごいのは“腰”で、腰だけが独自のビートを刻むような動きをする」「カマキリっぽくて笑える」など、その性豪ぶりが明かされているようだ。
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20130522/Menscyzo_201305_post_5901.html

 <きっこさん>と同じ表現である。つまり、2ちゃんねるのスレでどなたかが指摘したように、<きっこさん>の感覚がおかしいのではなく、ネットのこの種の文ではふつうに使われている表現らしい。
 「2〜3,000人」とは、浮気相手の男の体験女数だが、「ふたりから3000人」ではあるまい。「2000人から3000人」の意味だろう。それを「打った数」と表する感覚もすごいな。でも「打った数=発射数」と考えるなら、べつに童貞でも何千発も「打った数」は可能だが(笑)。

 しかしこれ嗤える。「2〜3,000人」である。「2」のあとの「〜」も嗤えるが、そのあとの3000に「3,000」とコンマが入っているのだ。三桁の区切りにはコンマを入れずにいられなかったらしい。一度に言いたいことをぜんぶ言おうとする下手くそな文章なのに、ここのところだけ几帳面だ。商業高校出身のライターか(笑)。元銀行員とか。サラ金勤務からライターに転身とか(←意外にけっこういる)。
 メンズサイゾーには、<きっこさん>レベルのライターが揃っているらしい。

ことば──「南朝鮮」という言いかたの始まりについて

kotoba.gif
 以下に書くことは、知っているかたには常識であり何を今更だろうが、知らないひとにはけっこう意外と思う。かくいう私がそれを知ったのはほんの十年ほど前であり(お恥ずかしい)、それまで私は完全に誤解していた。無智だった自分を愧じつつ、どなたかの勉強になればと書く次第である。「南朝鮮」という言いかたの始まりについてだ。


 このことばを聞いて誰もが思うのは、「なぜ大韓民国の略称である韓国が根づいているのに、そんな言いかたをするのか」だろう。「朝鮮漬け」が「キムチ」に、「朝鮮語」が「ハングル」にされてしまったように、日本から「朝鮮」ということばは消されようとしている。それは併合時代から戦後の悪いイメージに繋がるから、なるべく使わず、消してしまおうと言うことなのだろう。むかしはラーメンを「支那蕎麦」と言ったように、普通に使われていたChinaから来ている正当な「シナ」ということばを消してしまうのと同じ流れだ。
 そしてまたあの奇妙な国とも呼べないへんてこな、俗に言う「北朝鮮」というものがあり、「朝鮮」ということばのイメージは悪くなる一方だった。

 その感覚は日教組に自虐史観を擦りこまれた私の中にもあり、日本は朝鮮に悪いことをしたのだから、朝鮮人に会ったら土下座して謝らねばならないと思って生きていた私にとって、「朝鮮」ということばは気軽に口に出来ないものだった。

 しかしまた地名は「朝鮮半島」であり、民族名は「朝鮮民族」であり、南朝鮮がどんなに「韓」の字を前面に出しても、Koreanは朝鮮なのである。


 「朝鮮」というコトバを気軽に口に出来ない(私個人の)時代に、「南朝鮮」という言いかたを耳にした。私はそれに悪意を感じた。国交のない「北朝鮮」という悪の国がある(1960年代には教育費医療費無料で万民平等の夢の国とアサヒシンブンを始めとするマスコミによって喧伝されていた。)
 その「北」と並べて「南朝鮮」というのは、大韓民国を貶める言いかたなのだろうと、そのときの私は思った。
 
 それから幾星霜、私は「南朝鮮」という言いかたをする何人かと出会ったが、それがみな右翼系のひとだったから、やはりそれは「朝鮮民族を差別するひとの用語」なのだと思っていた。
 そしてある日偶然に知った真実は、まったく逆だった。言われてみればその通りで、なぜ気づかなかったのだろうと愧じるのだが、気づかなかったものはしょうがない。


「南朝鮮」という言いかたは、サヨクが始めたものだったのである。
 理由は明確だ。彼らのあいする「朝鮮民主主義人民共和国」を「北朝鮮」と略して呼ばれるのは彼らにとって屈辱なのである。朝鮮民主主義人民共和国が北朝鮮なら、自由主義陣営の「大韓民国」は「南朝鮮」ではないか。そうだそうだ、これからは韓国などと呼ばず「南朝鮮」と呼んでやる。どうだ、くやしいだろう、おれたちが朝鮮民主主義人民共和国を北朝鮮と呼ばれて感じる口惜しさを、おまえらも感じろ、が「南朝鮮」という言いかたの始まりだった。のである。

 当時はNHKを始めどこでも、「北朝鮮」と言ったあと、「朝鮮民主主義人民共和国」と言っていた。二度手間である。プロレスで「キム・イルこと大木金太郎」と言っていたのと同じだ(笑)。
 ニュースでも必ず「この件に関しまして政府は、北朝鮮(すこし間を置き)朝鮮民主主義人民共和国の対応を待って」のように、必ず、まず「北朝鮮」と言い、一拍おいて、そのあと「朝鮮民主主義人民共和国」と続けていた。

 理由は明解だ。「北朝鮮」で通じているのだが、それだけですませてしまうと、必ずサヨクから「なぜ正式な国名を言わないのか!」と抗議が来るからである。それで誰もが知っている「北朝鮮」とまず言った後、「朝鮮民主主義人民共和国」と続けていた。いまは「北朝鮮」としか言わない。やっとまともになった。North Koreaであるから、それでいいのである。


 「南朝鮮」という表現の始まりは私には意外だった。ウヨクが朝鮮民族を貶めて言いだしたのではなく、サヨクが「北朝鮮」と並べて大韓民国を貶めるために使い始めたコトバだったのである。
 意外な始まりを考えているとき、どっちが言いだしたとか、貶めるとかなんとか以前に、これがごくまともな表現であることに気づいた。冷戦以後に分断された朝鮮半島の、悲劇の「南北朝鮮」なのである。「北朝鮮」と「南朝鮮」は正しい言いかたなのだ。早くひとつになって欲しい。そのとき、どのような国名になるかはともかく。

 いまのところ、もしも北朝鮮が崩壊し、南北朝鮮が統一されることになったら、南朝鮮にそれをぜんぶ引き受けるだけの国力はなく、破綻すると言われている。当然そのしわよせは日本に来る。国民が日々の糧にも餓える北朝鮮という悪は一日も早く消滅して欲しいが、今すぐだとたいへんな混乱が待っているようだ。
 
「南朝鮮」というコトバを正当に理解してから私はこれを気楽に使えるようになった。
 それを使えなかったのは、「朝鮮」という言葉をすなおに口に出来ないという、日教組に染められた自虐史観の残滓だった。



【餘談】──いま「ざんし」を変換したら、「ざんさい」ともあり、それを「慣用読み」としていた。なるほど「宰相」の「さい」だから、これを「ざんさい」と読むひともいるのか。さいわいにして周囲にはいない。よかった。ざんしはざんしである。ざんさいではない。ツクリから詳細をようさいと読んだ麻生さんはきっと「ざんさい」だろう。)


 英語ではSouth Koreaだ。略してふつうにSkoreaと言うことも多い。あちらはNkoreaだ。いちいちサウスだノースだと言うよりこのほうが便利だからだろう。分断されている南北朝鮮を正確に表している。あくまでもあそこはKoreaであり朝鮮なのだ。このSとNは、日本の「北朝鮮」「南朝鮮」に通ずる。
 
 漢字表記では「大韓民國」だが、彼らは漢字を実質的に廃してしまった。自分の名前すら漢字で書けないひとがいっぱいいる。というかもう書けないことが標準だ。現実生活で漢字を書く必要がないのだから。
 その略称である「韓国」とは日本でだけ通じる表現である。ワタナベサダオを略して「ナベサダ」と言うようなもので、なんの意味もない。だったらもう「韓国」なんていう漢字の名前は廃して「南朝鮮=South Korea=Skorea」と言ったほうがいい。もちろん漢字名称で正式に呼びたいひとは大韓民国と言えばいい。韓国と呼ぶひとから南朝鮮と言うことに抗議をされる謂われはない。それはワタナベサダオとフルネームで呼んでいることに対して「ナベサダ」と呼べと言われるようなものにすぎない。


 と言いつつ、よけいな波風を立てたくない場では「韓国」と書きますけどね(笑)。なぜなら、そのことが目立つと、いちばん言いたいことが伝わらなくなるから。
 
 選挙特番で池上彰がやった失敗もそれになる。慎太郎さんが「北朝鮮やパプアニューギニア、フィリピン」と言ったことに対し、テーマの「単式簿記の国」を無視して、「北朝鮮やその他の国を同列に並べるから猖汁老人瓩噺世錣譴襪里任蓮廚隼造蠅海鵑巴僂鯀澆い拭
 
 これは池上の赤っ恥だが、慎太郎さんが「いまだに単式簿記の国は、日本とパプアニューギニア、フィリピンぐらいですよ」と「北朝鮮」の名を入れてなかったら起きない問題だった。もっとも、それだったら池上のはしゃぎすぎ赤っ恥も生じなかったわけで、それが気分が良かった私には、それはそれでおもしろかったのだが。
 しかしそれを見ても、中には「池上が石原をやっつけた」と思い込んでいるひともいる。

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池上彰選挙特番考──池上が石原をやっつけたと解釈している競馬評論家



 ま、そんなわけで、好き勝手な文では「南朝鮮」と書きますが、何かテーマがあって、それを伝えたいときには「韓国」にします。そうしないと「南朝鮮」というコトバばかりが目立って本意が伝わらなくなりますので。

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 ついでに。
 共産党独裁政権の中華人民共和国のことを「この世の中心地」という尊称である「中国」とは呼びたくない。Chinaから来ているシナでいい。世界中どこでも「チャイナ」「シーノ」とChina系の呼び方だ。アラビア語には「シネ」という発音もある(笑)。
 よって私はふだんは「シナ」。問題のある場面では「China」にする。これなら誰も文句は言わない。「支那」と漢字で書くと、やつらは「支店の支を使って、日本よりも下のようにする」とイチャモンをつけてくるので、カタカナが無難らしい(笑)。ここでの「やつら」とはシナ人のことではない。日本のアサヒシンブン的サヨクである。
 
 そもそも「シナと呼ぶのは悪いいいかただ」もまた「従軍慰安婦」的な捏造イチャモンなのである。やつらは自分達を有利に運ぶためなら、どんなことにもイチャモンをつけて騒動のネタにする。日本から「支那蕎麦」をなくしたのもやつらである。
 世界中どこにでも嫌いな国や民族を蔑視して呼ぶ言いかたはあるが、朝鮮もシナもそれではない。これは正しく理解すべき常識になる。歴史ある由緒正しい呼び方だ。
 いま公人として「シナ」と使うのは慎太郎さんだけか。

今日の修正記事──「アベする」「アサヒる」「オザワる」

隣の「人気記事」欄に、自分も忘れているような以前の文が浮かんできたら、すぐに飛び、見にくい色文字や誤字等を直すように心懸けています。さすがにひとつひとつすべてを点検している時間はないので、この方法にしています。読みたいのに色文字が読みづらくて読めないというものを見つけたらご一報ください。すぐ直します。



いま「アベする、アサヒる、オザワる」が下の方にランクインしているのを見つけたので、チェックし、直しました。青文字が読み辛くてすみませんでした。
2007年11月24日に書いたものです。どなたが見つけて発掘してくれたのか。感謝します。

この石原とかいうコラムニスト、川北とかいう論説委員は、五年後に安倍総理がひとまわり大きくなって復活するとは夢にも思わなかったろうな(笑)。いまごろ、どこでなにを書いているのやら。

アサヒシンブンのいやらしさ、それに乗っかるトウキョウシンブンの論説委員、それを打ち破ったネットの正義が心地いいです。ぜひ読んでください。

ことば──唐沢俊一の「ねんぼう」──「タカトシの時間ですよ」1/23

明け方、ネットで昨日放送されたらしい「タカトシの時間ですよ」を見ていたら、盗作で有名な唐沢俊一が、「世界のアスリートの収入ベスト5」で、やたら「nenbou」と言う。「年俸nenpou」のつもりらしい。耳障りだ。不快なので消した。

こんなやつの知ったかぶり雑学になんの価値があろう。トンデモしったかを語る前に常識を学習しろ。

こういうやつこそATOKを使った方がいい。「ねんぼう」と入力すれば変換前に「年俸《「ねんぽう」の誤読》」と教えてくれる。

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ブラマヨ吉田のネンボウ

「土建は差別用語」と二階俊博──自民党を出ていってくれ!

<自民党>二階氏「土建は差別用語ではないか」
 
毎日新聞 1月17日(木)18時32分配信
 
 「土建は差別用語ではないか」−−。自民党国土強靱(きょうじん)化総合調査会の二階俊博会長が17日の会合で、自公政権が掲げる「国土強靱化」へのバラマキ批判に反発する一幕があった。

 新人議員が負のイメージ払拭(ふっしょく)に向けた広報活用の必要性を指摘すると、二階氏は「土建国家や土建屋と本人たちが言うのはいいが、別の社会の人が言うのは差別用語ではないか。看過していては政治にならない」と指摘。

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 土建の利権で喰ってるおまえが土建屋が差別用語だとかどうでもいいからさ、シナに媚びへつらい、朝鮮に靖国否定で阿り、パチンコ屋から金をもらい、外国人参政権賛成のおまえは、オザワのところに行けよ。自民党のガン! 

 てなことを書いたら、またJNSC会員から「エセ保守」「失せろ、外道!」と言われてしまうのかな(笑)。
 自民党盲愛で二階のようなのを支持しているJNSC会員のほうがまともじゃないと思うけどね。

●二階俊博の正体

●Wikipediaの二階俊博

有名人の呼びすてについて──日本語は呼びすてが基本

【芸スポ萬金譚】に「有名人の呼びすてについて」というのを書いたので読んでください。
「総理大臣からスポーツマン、芸能人は、呼びすてが基本。呼びすてされてこそ本物」が日本語なのですが、いつしか好きなひとには敬称をつけるようになりました。 呼びすては嫌いなヤツに対してすることになりました。
私自身、「小泉さん」「カンナオト」と明らかにその傾向があります。まあ小泉さんは現役を引退しているのでつけるのは自然ですが。

ここでも本来は「安倍」「麻生」と呼びすてで書くべきなのですが、なんかそれがし辛く(笑)、「安倍総理」「麻生大臣」と役職を附けてごまかしています。

世の中全般がそうなので、私にもそういう傾向が芽ばえつつあります。それでもなんとか痩せ我慢して、呼びすて路線を貫こうと思います。
これからはここでも「安倍はこう言ったが」「麻生の発言によれば」のように書くことを心懸けます。

3年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」──「触れない腫れ物」では破綻する──「傷」を晒して居直るのが最善



 私は自分のサイトで十数年「ことば」について書いている。自分なりに気になる日本語をテーマにしたものだ。 高島俊男先生の『お言葉ですが…』について書く《『お言葉ですが…』論考》も同趣旨のコーナーになる。このブログでも「ことば」をテーマにして書いたものが50篇ほどある。とは、いま調べて知った。いつしかそんなに溜まっていた。サイトの支店として始めたここも2005年からだからもう7年になる。それぐらいは溜まるか。
 日本語の使いかたについてがテーマだから、政治家の発言を取りあげることもある。

 いまこの10年分を見てみた。

・中曽根大勲位の「ひさかたの」(2003/01/21)
 中曽根さんが「ひさかたの」で始まる短歌を詠んだ。しかしその「ひさかたの」は「ひさしぶりに」という意味に使われていて、「天」や「雨」等ににかかる枕詞の使いかたを間違えていた。たぶん「久方振り」との混用なのだろう。(これは新聞も取りあげた。)

・菅直人の「役不足」
 民主党の代表選に出馬するのかと問われた菅直人が、「私では役不足ですが」と述べた。「役不足」の誤用である。2007/07/29

・安倍首相の「慙愧に堪えない」(2007/05/28)
 松岡農水省の自殺に、当時の安倍総理が「慚愧に堪えない」と言った。「残念」という意味で使ったのだろうが、「慚愧」は「恥ずかしい」という意味であり、これでは「自殺するようなのを登用して恥ずかしい」になってしまう。誤用である。(これも新聞が取りあげて話題になった。)

・「田中眞紀子と麻生太郎」というのがあるので、どんなものだったかと読んでみたら、2007年の安倍政権時、当時の麻生外務大臣が「そんなこと、アルツハイマーでもわかる」と差別発言をして問題になったことに対し、眞紀子が「自分がアルツハイマーだから、そんなことを言うんでしょ」と言ったというしょうもない話だった(笑)。

・「ジュンプウマンポ」という項目があるので、今回のテーマでもあるから(笑)読んでみる。書いたのは2004年の4月2日。かの有名な松本清張原作、野村芳太郎監督の映画「砂の器」の中に、役者が「じゅんぷうまんぽ」と言うシーンがあるのだそうだ。映画は見ているが覚えていない。そういうセリフの読み間違いに、何故誰も気づかなかったのだろうという映画評論家の文章の話だった。



 麻生太郎教信者のJNSC会員は、「むかしはジュンプウマンポと教えていた」と書いていたが、それはたぶんちがう。正解は「むかしから、そういう誤読をするひとが多かった」であろう。私も、そう口にするひとを何人か知っている。

 検索したら、あるひとが「私はこどものころ読みのテストでジュンプウマンポと書いて丸をもらった。だから強烈に覚えている。あれの読みはジュンプウマンポだと今も思っている。だがいくら辞書を調べても載っていない。どういうことだろう」と相談していた。誰も応えていないようだから私が答える。それは「先生がじゅんぷうまんぽと誤読で覚えていたから」である。

 とまあ、目につくコトバがあるとメモのようにあれこれ書いているのだが、あれほど話題になり、しかも数が多かった麻生さんの誤読に、私は本店のサイトでも支店のこのブログでも、ひとことも触れていない。



 理由は、「あまりにかなしかったから」である。

 政治家は若い頃から聴衆を酔わせる効果的な演説を考える。言葉が勝負だ。言葉づかいは上手であり、語彙も豊富だ。わるい言いかたをするなら、「言葉で平民をだまくらかす詐欺師」である。やたら支那の故事を引用したがる。田舎者にはそういう難しい言いまわしが効くらしい。田中眞紀子ですら「隗より始めよ」なんて使っていた(笑)。
 この頃は英語が流行っている。日本語で言えば簡単なところを敢えてあちらの言葉を使う。これまた無学なものには、意味不明の外来語は効くらしい。マニフェストとかアジェンダなんてのもそれになる。麻生さんも得意の英語はよく使った。田中康夫も得意だ。

 私はサイトで自分の無学の恥を晒している。「極寒」を「きょっかん」だと思っていたり、「十手」が「じゅってと打っても変換されない、なぜだ!」と怒ったりしている。正解は「じって」。
 自分自身がそういうレベルなので、私が取りあげる政治家の発言は、「言葉のプロである政治家が、こんな間違いをしていた」のような場合が主だった。



 それらと比すと、麻生さんのは中学生レベルの漢字誤読だった。指摘し、テーマにするには、あまりにレベルが低かった。

 私は漢字が苦手だ。あまり好きではない。苦手なものは努力して克服するようにしてきたが、漢字に関しては投げている。DSで漢検の準一級、一級あたりをやっていると、読めない書けないコトバが頻出する。そのとき「こういう文字が読めるようになりたい」というよりも、「こんなもの、読めなくていい」と感じてしまう。渡来の漢字に和語を当てはめる不自然さが、そのクラスになると判じ物のようになっていて、ああいうものを得意とするひとを、尊敬ではなく軽蔑したくなる。
 そういう私から見ても、麻生さんの誤読はひどすぎた。ぜんぶ私ですら正しく知っている字、熟語だった。

 この文のタイトルは「触れない腫れ物では破綻する」だが、麻生さんはこの「破綻」も「はじょう」と誤読した。これほど漢字の読めない総理大臣は憲政史上初だ。ひどいを通りこしていて、文章にしてそれを笑う気にさえならなかった。だから書かなかった。

 麻生さんの初歩的な誤読がいかに話題になったかは、2010年の正月に届いた年賀状に添えられた一筆で、複数の友人が「日本は今みぞゆうの危機にありますが頑張りましょう」と書いてきたことでも解る。必ず「みぞゆう」のあとには「(笑)」とあった。日本中のお茶の間で、酒席で、どれほど多くのひとが笑い話にしたことだろう。
 念のために書いておけば、私の友人であるから思想はみな保守系である。そういうひとたちですら書くほど大きな話題だったことになる。

 だがそれは自国の総理大臣なのだ。私は、ただの一度も麻生さんの誤読を笑い話にしたことはない。なんとも物悲しくて、その気になれなかった。
 自分の支持している総理大臣のそういう姿は見たくなかった。笑い話には出来ない。

 長らく政権与党の座にあり続けた自民党が腐敗し、長年続く不景気の中、あらたな期待を託された民主党に政権を奪われるのは時代の必然だった。止められない流れだった。同時に、堕ちた自民党のイメージに、「常識的な漢字も読めない総理大臣」があったのも事実である。いかな麻生支持者であれ、それはすなおに認めねばならない。



 期待大の民主党政権になったが、ほんの半年も経てば誰もが気づく。ありゃ口先だけだと。
 一年ほど経ち、民主党がどうしようもないカスだと決定的になると、政治を扱うテレビ番組に、「元首相」の麻生さんが、ぽつぽつと出るようになった。
 すべて見ているが、このとき異様なことに気づいた。「誰も誤読には触れない」のである。
 MCがいて、辛口の政治評論家なんてのもいて、麻生さんのやった経済政策を誉めたり、批判したり、自由な意見が飛びかうのだが、不自然に、どの番組でも、「漢字のことは絶対に出なかった」のである。
 麻生政権末期に、どれほどそれを流したことか。国会での誤読する映像を流し、誤読例をスーパーで出し、これでもかというぐらい笑い物にしたのに、まるでそんな事実は一切なかったかのように触れないのである。

 これも前項の私を「失せろ、外道!」と言った盲目的に自民党を崇拝するJNSC会員なら、「誰もが麻生さんの価値に気づき、あれが誤読ではないことを理解したからだ」となるのだろうが、そんなことがあるはずもない。それはこのJNSC会員の脳内お花畑だけの出来事だ。真実は、「触れないことを前提にしての出演」だったのだろう。



 粗の見えてきた与党民主党を論ずるのに、前政権の元首相は、野党代表として価値が大きい。出演オファーが行く。しかしマスコミにはあれほどひどい目に遭ったから、麻生サイドは慎重になる。断る。
 そういう中、つきあいのあるプロデューサーやらタレントやらとの関係から、出演を受ける番組も出て来る。
 そのとき麻生サイドは、「絶対にあの漢字誤読には触れないこと」を条件に出演したのだろう。それこそ一筆取ったと思われる。

「TVタックル」に出演したときも、そういうツッコミが大好きなたけしも大竹も、かつてはさんざんやっていたのに、まるで「そんなことはなかった」かのように、一切触れなかった。完璧に触れないことが不自然だった。
 この出演は麻生さんと酒席を共にしたたけしが直接出演を口説いて叶ったという。そのとき条件として麻生さんはそれを出したのだろう。たけしも諒承したのだ。

 それでも大竹がそのことにつっこんだら私も彼を認めるのだが、番組の約束を護って大竹は漢字のかの字も口にしなかった。そこに彼の「サヨクタレント路線」という演技が見える。その程度の男だ。どうせなら「漢字誤読の話はしない」という約束ごとを破って、激怒した麻生さんが退席するぐらいの事件を起こしてみろ。

 政策として麻生さんの路線は正しかったと今も思う。だがそれを見直す場でも、誤読の話が出たらすべてぶち壊しになる。それほど破壊力のある醜態だった。なにしろ総理大臣が中学生レベルの漢字を読めないのだから。それが連続したのだから。
 それに触れないというのは出演の絶対条件だったろう。

 つまりそれは、それだけ麻生さんにとっても傷ついた、未だ傷の癒えていない、今も触れられたくない事件だったことになる。すべてに恵まれた最高級の人生を歩んできた麻生さんは、自分がまともに漢字を読めないバカだと初めて知った。漢字が読めないことでいちばん傷ついたのは、自分を漢字の読めないひとだと認識していなかった麻生さん自身なのだ。



 テレビがその約束を護り、鄭重に扱ってくれたのは、なかなかテレビに出てくれない「野党の大物の元総理」だったからだ。だから腫れ物に触るよう特別な扱いをしてくれた。だから成立した。

 これからは政権与党の経済方面を担う重鎮である。国会の質疑において、野党がそこまで気を遣ってくれるだろうか。野党時代の民主党のあのいやらしさを思い出せば、またネチネチと無意味な攻撃を始めるのは目に見えている。

 その対策として、前記JNSC会員のような、「むかしはじゅんぷうまんぽと教えていた時代があった。麻生さんは誤読していない」とか、「麻生さんは他人の作った原稿を読むのが苦手で」「英語で考えて、それを一旦日本語に変換してから口に出すので」などという幼稚な身贔屓擁護は役に立たない。



 戦略として、「あまり勉強してこなかったので漢字の読みは苦手です。でも今論じているのは経済の問題ですから、私が漢字を読めないことは関係ないでしょう。経済の政策なら自信がありますよ」と居直るのが最善だろう。
 実際漢字の誤読を取りあげるのは、本題とは関係ない揚足取りにすぎない。それへの対応は、「隠す」のではなく、露出して居直ることだ。童話「北風と太陽」の太陽になる方針だ。
「漢字が読めない」という傷を、隠す「北風路線」ではなく、大っぴらにしてしまえばいいのである。たいして醜い疵痕じゃない。すぐに厭きて誰も見なくなる。つっつかなくなる。それが最良の方法だ。

 第二次安倍政権の国会でのやりとりはどうなるだろう。このことを突っこまれたとき、麻生さんがどう居直るか、期待してみつめたい。今度は大丈夫だろう。
 そう思った矢先の、祝勝会における「じゅんぷうまんぽ」だった。この調子ではまた同じミスを確実にする。どう対処するのか。世の中は、麻生さんのあらゆることをすべて好意的に受けいれてくれる前記JNSC会員のようなひとばかりではない。



 一応これで終る。続篇を書く機会がないことを祈る。

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【追記】──イヤな予感が当たりませんように!──1/2

 私のブログ文章は後々からアクセスが増えることが多い。「予測が当たった」ような場合である。古い文章が脚光を浴びて異様なアクセスになったりする。
 なんだかイヤな予感がする。大事な閣僚答弁の場で、またも麻生さんが「やっちまう」ような気がするのだ。

 麻生さんの大失態のあと、それを怖れた民主党政権時代、官僚が作った原稿には中学生なら読める漢字にもみなフリカナがついていた。一度、菅直人の原稿が映ったことがあった。フリカナだらけだった。いかに麻生さんの失態が政治家にとって恐怖だったかになる。

 自民党政権になってもそれは踏襲されるだろう。特に麻生さんの読む原稿はフリカナだらけになると思われる。その点では安心だ。麻生さんがヒラカナを読み間違えない限り。
 でもこのひとは、またなにかやらかしそうな気がする。答弁において。

 つまり「未曽有」を「みぞゆう」と誤読したようなのは、今後は避けられる。フリカナがあるからだ。
 だが「じゅんぷうまんぽ」のように、「誤って覚えている日本語」を、このひとはいっぱい持っている。ただ原稿を読んでいるだけならいいが、安倍首相の「慚愧」のように、「自分のことばの誤用誤読」をしそうなのだ。



 安倍政権を倒すことを社是としているアサヒシンブンのようなのは、閣僚の失態を狙っている。なんとかして安倍政権を倒そうと鵜の目鷹の目で探っている、待ち構えている。
 安倍内閣のメンバーの内、麻生さんが、またも「やっちまったなあ」になりそうなイヤな予感がする。

 というのは、先日の為政会での発言を聞いて、麻生さんがこの3年間、その辺のことを反省して勉強してきたとは思えなかったからだ。私に対して麻生信者のJNSC会員が「このバカは3年間なにをしてきたのだ」と書いていたが、それはすんなり麻生さんに当て嵌まる。また同じ轍を踏み、アサヒあたりに揶揄されるのではないか。心配である。
 そうなると、古い記事であるこのブログ文章に異様なアクセスが殺到する。 そうならならないことを願う。3年前とは一味ちがう麻生さんを見せて欲しい。

3年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」※;′殳の引き倒しに気づかないJNSC会員の幼稚な麻生擁護



 福島のJNSC会員は、「麻生先生」と読んで尊敬している麻生太郎が、漢字を読めないと書かれたことがよほど不快だったようで、即興で一句詠んでいます(笑)。俳句の素養もあるようで、さすがJNSC会員。「マジギレ」のあたりに、このひとの教養が見えますね。

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 そして、麻生さんが漢字を読めないことを否定します。

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 麻生さんは「他人の作った原稿を読むのは苦手」なのかもしれません。
 でもそのことと熟語誤読は関係ないですよね。他人の書いた原稿であれ、知っている字は読めます。こんな屁理窟で誤読の言い訳は成立しません。誤読というか、要は「ことばを知らなかった」のでしょう。
「知らない熟語なので読めなかった」という事実の前に、「他人の作った原稿を読むのは苦手」は無意味です。自分の好きな政治家を庇いたい気持ちは解りますが、恥ずかしいこじつけです。

 麻生さんは「自分のことばで喋るのは得意」なのは知ってます。秋葉原での演説も聴いてますからね。
 でもそのことと漢字誤読は関係ないですね(笑)。為政会の挨拶で未だに「じゅんぷうまんぽ」と言っているように、自分の言葉そのものが誤読なのですから(笑)。



 このひとの言うように、麻生さんに「 主要な語句は英語で覚えていて一旦変換してから口に出す」(という特徴)があるかどうかは知りません。この発想をするひとは、日本に来て何十年も経つが、いまだにその癖が抜けないという英米のひとにいます。もしもその通りなら麻生さんは心の芯まで英語人ということになります。それは日本の閣僚として問題ですね。

 どうにも麻生さんの英語がそれほどのものとは思えないし、日本に生きているのになぜそんなことをするのだろうと思いますが、これを事実としても、漢字誤読の弁明にはなりません。「英語でことばを考えて、それから一旦変換して日本語でしゃべる」のだとしても、誤読は誤読です。

 このひとの前項のツイートに「麻生先生が漢字の読みに詰まる理由を深く考えたこともないんだろ?」とありますが、これがその理由のようです。つまり麻生さんは「ことば、熟語、用語を英語で覚えていて、それから日本語に変換して口にするので、時間がかかる」ということのようです。

 でも時間がかかることと誤読は関係ないですよね(笑)。時間がかかっても知っている熟語は正しく読めますから。自分の好きなひとを、まさにこじつけで庇おうとしていますが支離滅裂です。麻生さんならこれは「しりめつさけ」と最後のひと文字だけ訓読みにするのかな(笑)。むかしはそう教えていたらしいから(笑)。

 この論法だと、「麻生さんはケガという日本語を英語のInjuryで覚えていて、ケガとしゃべる時には、Injuryから一旦日本語のケガに変換して口に出す」ということになりますが、そのことと「怪我」を「カイガ」と読むことはつながりません。単に「怪我「」を「けが」と読むことを知らなかっただけです。

 麻生さんがそんなことをするとは思っていませんが、もしもこのひとの言うように本当に「主要な語句は英語で覚えていて、それから日本語に変換してしゃべる」が事実なら、それは日本の大臣として問題ですね。日本人の日本語は日本語で考えねばなりません。まあそんなことはあり得ないと思います。こういう信者の捏造でしょう。



 このひとは「贔屓の引き倒し」ということばを知らないのでしょうか。無理矢理牽強附会で麻生さんを庇えば庇うほど、言えば言うほど自分の無学と、麻生さんへの「盲目愛」を吐きだし、結果として麻生さんの立場を悪くするだけです。それは決して麻生さんのためにはなりません。サヨクに「麻生がバカだと信者もバカだな」と言われるだけです。
 私も今日、思いました。「麻生さんの熱烈支持者ってこんなバカばかりなのか!?」と。

あれから三年も経つのに、いまだにこんなことを言っているバカは何を見てきたのだ」をそのままお返しします。
 なんという幼稚な擁護なのでしょう。呆れます。事実を正面から見詰められない、受けいれられない、錯乱した思い込みだけのゆとり教育の弊害そのものです。

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 熱烈なジャイアント馬場ファンが、「馬場は腕が細い」と言われることに反撥して、「馬場さんの腕は細くない。躰が大きいから、腕が細く見えるだけだ」と強弁していたことを思い出す(笑)。馬場の腕は細いのだ。すなおに認めなさい。と言う私が猪木ファンかというと、私は馬場ファンであり全日ファンだった。好きなものでも認めるべきは認める。
 プロレスは好きだったがプロレスファンには嫌いなのが多かった。とくに新日信者はどうしようもなかった。みな、こいつみたいな性格だった(笑)。こういう屁理窟を振り翳していた。バカの共通。

 自分の好きなものを、わるいところは見ないようにして、いいところだけを過度に讃美して、実際以上に大きく見せようとするのは過ちだ。
 瑕疵はそれとして認めねばならない。そのことで価値が落ちることはない。
 完璧などありえない。

 なんだかこいつの「麻生讃歌」を聞いていたら、創価学会の「池田讃歌」を思い出した。まあ信者であることは共通している。

※ 

 麻生さんは吉田茂の孫であり、麻生財閥の主という超エリートであることを問われて、自ら「血筋はいいが育ちは悪い」と苦笑しつつ言っているように、家庭環境にあれこれあって、遊んでばかりの学生時代だった。
 でもその代わり、アメリカに留学して学んでいる。英語が話せる。会社を経営し、経営者感覚を持っている。趣味の射撃でオリンピックに出るほどの腕前だ。いまもビッグコミックから少年ジャンプまでマンガを読んでいる。そういう幅広い智識と趣味人間である分、詰めこみ受験勉強で覚えるような漢字の読みは苦手だった。それだけのことである。なぜそれをすなおに認めないのか。それでいいではないか。それ以上にいいところがいっぱいあるのだから。

 2.3、劣るところがあっても、よいところが10も20もあるのだからそれでいい。それがひとに対する評価の基本だ。なのになぜその2.3を認めようとせず強弁し、否定しようとするのか。
 通知表で言うなら、麻生さんは漢字が苦手で国語が2だ。でも5の教科がいくつもある。それでいい。なぜ無理矢理麻生さんは本当は国語も5なのだと言いはる必要があろう。

 漢字が読めない程度で「政治家麻生太郎」が全否定されるわけではない。漢字の誤読などささいなことだ。
 麻生太郎ファンなら、「麻生さんは漢字が苦手」とすなおに言えなければ本物ではない。政治家の支持に100%はありえない。妥協して最善を求めるしかないのだ。

 私はこの「好きなのよぉ、麻生さんが好きなのよぉ、麻生さんのことをわるく言うヤツは許さないのよぉ!」と髪を振り乱して叫んでいるヒステリック女みたいなJNSC会員より、よほど正当に麻生さんを評価しているまともな麻生支持者と自負している。 



 このJNSC会員は、私に対して、「おまえのような勘違いエセ保守右翼が政権を後ろから撃つような愚か者と化すのだ」と書いているが、勘違いと思い込みをしているのはこいつのほうである。

 こういう自分の好きな物に対して「ぼくの好きな女の子はウンコをしない」みたいな幼稚な思い込み偶像化バカが、好きな女の子も自分と同じようにウンコをすると知ると、「失望した、絶望した、裏切られた」と、いきなりスカトロジストになったりして(笑)、「政権を後ろから撃つような愚か者と化す」のである。

 結婚離婚を繰り返す男女にもこのタイプが多い。いきなり相手を「理想のひと」「このひとに出会うために生まれてきた」と思い込んでしまうから「あばたもエクボ」になる。結婚する。すぐに「あばたはあばた」と知り、さらには「エクボもあばた」になり、憎しみあって別れる。しかしまたすぐに「運命のひと」と出会い、結婚する。そしてまた別れる。それを繰り返して行く。「あばたはあばた、エクボはエクボ」と正当に見ることが肝腎なのだ。だがこの種の連中はその学習が出来ない。このJNSC会員も典型的なこれである。

 私のように、好きなものの美点も缺点も受けいれている大きな心(笑)のひとは、そんなことにはならない。ほんと、こいつの10年後、いや3年後か、を見てみたい。自民党に絶望したと共産党に入ってるんじゃないか。それとも政治そのものに絶望して新興宗教にでも走っているか(笑)。ナンミョーやってたりして。最も倦きっぽい染まりやすい粗末な人格を感じる。
 いまのこいつは「自民党教麻生太郎教」の信者だ。すでに愚か者と化している。麻生さんは魅力的な政治家だが信仰の対象じゃない(笑)。3に続く

「真に恐ろしいのは有能な敵ではなく無能な味方である」by.ナポレオン

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 このヒステリックな自民党支持者を見て、むかし書いた「呉智英さんとゴルゴ13ファンのケンカ」を思い出した。13年前に書いたものだ。舞台となったのは、さらにその15年前である。自分の好きなものを狂的に擁護して錯乱するバカというのは、いつの時代でも、どの分野でも、共通のようだ。

 リンクしたので読んでください。

参考・「呉智英さんのゴルゴ13論争」

3年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」;;,い泙澄屬犬紊鵑廚Δ泙鵑檗廚噺世辰討い襪里如△修譴鮖愿Δ靴燭蕁崋困擦蹇外道!」とJNSC会員に言われました(笑)

 12月29日、ツイッターで、ニコ生に麻生派(為政会)の当選を祝う映像があると教えてもらったので出かけてみた。大勝に沸く目出度い席だ。

 司会に続き麻生代表の挨拶になった。すると相変わらず「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と言っていたので白けて、途中で見るのをやめた。当選した議員達に自信満々で、「皆さんの中にはかつての私たちのようにじゅんぷうまんぽで当選したひとたちばかりでないかたもいる」のように言っていたから、これは新聞等で誤読を指摘されても、意地でも直さないのか、いまだに誤読と知らないかであろう。
 
 それで、そのニコ生を教えてくれたひとに以下のようなツイートをした。

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 すると今日、以下のような返信が来た。

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 「麻生先生は漢字を読み間違えるという脳内バイアスをいいかげん捨てられたら如何かと思いますがね」というあたりに、このひとのレベルが垣間見える。

 好きな政治家を庇いたい気持ちはわかるが、これはちょっと牽強附会に過ぎる。
 私は学校で「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と教えていた時代を知らない。いったいいつごろなのだろう。

 まず思うのは、順風満帆という四字熟語の内「じゅんぷうまん」と3文字が音読みだから、「帆」だけ「ハン」ではなく「ほ」と訓読みにするというのは、熟語の読み方としてかなり変則的になる。そんな例があるだろうか? 「まん」という撥音の後だから「はん」は「ぱん」とパ行になる。日本語の法則である。「じゅん」の次の「ぷう」もそうですね。

「よりかぜみちほ」とかのすべて訓読みならまだわかるが。漢字4文字の内、最後の1文字だけ訓読みにする変則的な読みかたをする四字熟語ってあったろうか。
 でもこのJNSC会員が言うように、学校でそう教えていた時代があり、麻生さんがそう習って覚えたというのなら、それはそれで正しいことになる。


 
 しかしそれを論拠とするなら、かの有名な「踏襲」を「ふしゅう」、「未曽有」を「みぞゆう」等も、みな「麻生さんの時代には学校でそう教えていた。麻生さんは誤読していない」になる。ならねばならない。
 もしもそうなら、麻生さんの誤読が問題になったとき、同じ教育を受けた世代が「あの読みかたでいいのだ。私たちはそう教わった」と麻生さんを庇ってたちあがったはずだ。 漢字学者も「むかしは踏襲はふしゅうと読んでいた」と発言しただろう。

 もともと漢字なんてのは渡来したものであり、読みかたなんてどうでもいいのである。漢字の正しい読みかたというものがあるとしたら、それは支那人(漢民族)の発音のみである。外国人が東京をトキオと発音するように、日本人の漢字の読み方なんてそんな訛のひとつにすぎない。一念発起の「発起」を「はっき」と読んだら笑われるが、明治の中ごろまでは「はっき」だったという説もある。「発足」も同じく。そんなことはどうでもいいのである。たいした問題じゃない。

 このひとの言うように、かつては「じゅんぷうまんぽ」と読んでいて、麻生さんはその時代の教育を受けてきただけで誤読はしていないのかも知れない。「踏襲」は「ふしゅう」であり、「ふむ」という訓読みと「しゅう」という音読みの、いわゆる「湯桶読み」の熟語だったのかも知れない。それはあり得る。

 しかし残念ながら擁護者はいなかった。明らかな誤読なのである。それを認めず大声で庇うのはこういう一部の信者だけだ。
 「踏襲」の誤読で言うなら、「踏」の字の音読みの「とう」を知らなかったのだろう。というか「踏襲」という熟語を知らなかったのだ。これは世界第2位(当時)の経済大国の総理大臣としてかなり恥ずかしいことになる。 


 
 「麻生総理 誤読」で検索したら、まとめてあるところがたくさんあった。こんなに誤読していたとは知らなかった。それをまとめて、以下のような返信ををした。

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 ここまでオソマツだと庇いようがない。とくに「詳細──ようさい」「破綻──はじょう」のようなのは、テレビで「脆弱」を「きじゃく」と読んで恥を搔いた女アナがいたように、ツクリから誤読する「百姓読み」というヤツである。
 不勉強なひとが知らない単語を無理矢理読もうとすると必ずこうなる。知らないものをツクリから推測して読もうとするからだ。これらの「誤読の傾向」からも、麻生さんが漢字を知らないことが見てとれる。

 しかし、漢字の読みなんてのはどうでもいいのである。「些細」を「しさい」、「消耗」を「しょうもう」と読む百姓読みが普遍化しているように、「詳細」も、そのうち「ようさい」が主になるも知れない。だってツクリは羊のヨウだものね。円周率の3.14が「だいたい3」になったように、漢字のこういう読みも、そのうちすべてツクリに準じた読みやすいものになるかも知れない。
 その他のことばでも、現実に、「憮然」「忸怩」「姑息」「私淑」「なしくずし」なんてのは誤用が定着している。
 だから誤読なんてちいさなこと、どうでもいいのである。これが私の意見になる。



 私の立場と意見は最初のツイートから読み取れる。

・国の舵取りをする人にとって漢字の読み間違いなどたいしたことではない。(=もっと大事なことがある)
・しかし揚げ足を取って攻撃してくるサヨクマスコミがいる。
・だから麻生さんにはもうすこし気をつけてもらいたい。(=直ってなくて、すこし落胆した)

 麻生ファンである私が「もうすこし慎重に」と衷心からの意見を述べたのだ。まともな読解力を持つひとなら、私が麻生支持者であると即座に理解するだろう。私は「揚足取りの連中がいますから気をつけてください」と言っているのだ。

 もしも字数が許すなら私はこう書きたかった。
「周囲の秘書連中はなにをしているのだ。人前で大将が恥を搔かないよう、非礼を承知で進言するのが務めではないか」と。

 上記百姓読みでわかるように、学生時代趣味ばかりやっていた麻生さんは不勉強で漢字が読めない。それは事実だ。おそらくそれは日常でも数多いだろう。これは一部であり、実態はこの何十倍、何百倍であろう。しかし、そのたびに周囲の連中が注意してやれば直る。
 これは本人の努力だけで直すのは難しい。「思い込み」だからだ。「これはこう読む」と長年思い込んでおり、まちがいを認識していない。本人の学習だけで矯正するのは無理がある。だからこそ周囲なのだ。ブレーンなのだ。

 私の知人にも、「境内」を「けいない」、麻生さんと同じく「思惑」を「しわく」と口にするひとがいる。「身をコナにして働く」と言うひともいた。誤読を指摘するのは友人でもためらう。
 まして麻生さんのような立場のひとに下の者が進言するのは勇気が要ろう。しかし、それはまさに「一時の恥」なのだ。大臣として発言してマスコミに叩かれるよりはちいさな痛みである。なぜ周囲の連中はそれをしてやらないのか。それこそが本物の愛情だろう。真心を込めての箴言なら、格下の者からのことばでも麻生さんには通じるはずだ。



 そんなことを思っているところに、次のようなのが返信されてきた。

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 残念ながら私の本意は伝わらず、「失せろ、外道!」と言われてしまった。
 しかし私はおとななので(笑)、動じることなく、次のような返信をしようとした。
 
「最初の文をよく読んでください。私は麻生支持者です。アサヒシンブンを始めとするサヨクマスコミにまた突っこまれないよう、気をつけて欲しいと願っただけです」
 
 でももうブロックされていて投稿できなかった。カッとなっての即行ブロックらしい。いやはやなんとも。
 これがネトウヨと呼ばれる底の浅いひとたちの実態なのか。なんとも情けない。
 気に入らない相手に罵詈雑言を浴びせて、すぐにブロックか。

麻生先生が漢字の読みに詰まる理由を深く考えたこともないんだろう?」とのことだが、たしかに考えたこともない。だって考える必要もない。漢字の勉強をしてこなかったから常識的な漢字熟語が読めない。それだけのことだからだ。なにかそれ以上の理由があるのだろうか。
「バカの壁」の養老孟司(ヤニ中毒)が、麻生さんを「読字障害」と精神的な障碍者にしたのは知っている。養老のような難しい解釈をして、麻生さんが漢字を読めないことを擁護しろというのか。
 そんなものは必要ない。ただ単に学生時代まじめに勉強してこなかったから漢字が読めないだけだ。

 このひと、福島在住の福島復興にかけるJNSC会員らしい。福島復興と自民党の明日が心配になってきた。(2に続く)

「真に恐ろしいのは有能な敵ではなく無能な味方である」by.ナポレオン

「イタい名前が世に出て来る時代」に「たとえば琢の字を使うこと」を追記しました

「イタい名前が世に出て来る時代」に、

【餘談】──たとえば「琢」の字を使うこと
を追記しました。

ことば──骨肉の争い──「未来の党の亀井静香」と佐藤公治は血縁なのか!?──高橋清隆という作家のレベル?

00kotoba.gif 日本未来の党の亀井静香元金融相を、かつてライバルだった佐藤公治参院議員が応援している。13日夜、広島県尾道市内で開かれた決起集会に登場し、「同志として戦えることを光栄、誇りに思う」と約2000人の参加者に支持を呼びかけた。

 亀井氏は佐藤氏の父、故守良(もりよし)農水相の時代から、親子2代にわたって旧広島3区と現在の同6区で骨肉の争いを演じてきた。

 公治氏は4度敗れながらも2度比例区で復活当選。05年にホリエモンと三つどもえの戦いで埋没した後、参院にくら替えしている。http://www.janjanblog.com/archives/87034

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 書いたのは高橋清隆というひと。調べたら亀井の本を何冊か書いているプロのライターらしい。
 亀井と佐藤父子が長年政敵として闘ってきたことを「骨肉の争い」としているが、これは親族の争いに使う比喩である。亀井と佐藤は他人なのだから完全な誤用になる。佐藤公治が父親の守良と争ったなら骨肉の争いだが、そういうことでもないようだ。意味不明の駄文。「骨肉の争い」の使いかたなんて中学生でも知っている。なんなのだろう、このひとは。

 こういうお粗末なひとの書いた亀井の本がまともとは思えない。亀井の応援団らしいがレベルの低さで足を引っぱっている。誰か注意してやるひとはいないのか。気の毒になる。



こつにく‐の‐あらそい【骨肉の争い】‥アラソヒ
血のつながる肉親同士が憎みあい、激しく対立すること。骨肉相食あいはむ。『広辞苑』 

朝鮮語嫌い──ビックカメラ店内の北京語、朝鮮語、タイ語──シナ語一色の秋葉原の憂鬱

朝鮮語が嫌いだ。言語には好き嫌いなく興味を持ち、勉強してきたが、どうにも好きになれない。
朝鮮語のドラマは見ないし歌も聴かないから普段は無縁でいられるが、街に出るとそうも行かない。朝鮮語を聞くとピクンと反応してしまう。愉快な気分ではなく。

それはあちらも同じらしく、韓国で日本語を話していると、毎度きつい目で睨みつけられた。初めて行った友人がそれに気づかず、大声の日本語で話していて、電車の中で心底憎そうに睨みつけてくる多くの目を見て、いやな思いをしたものだった。8割の国民が「世界で最も嫌いな国」として日本を挙げているのだからしょうがない。

逆に台湾では日本語を話していると年輩のかたに日本語で話し掛けられたり、学生がたどたどしい日本語で話し掛けてきたりする。ありがたい国である。日本はもっともっと台湾と親しくせねばならない。

しかし私の朝鮮語嫌いは、そういう国民感情とは関係ない。本稿のテーマはそれ。

※ 

過日、立川のビックカメラにいたら、店内の日本語放送(ビックカメラではこんな品をこんなに安い値段で提供していますという宣伝) のあとにシナ語(標準北京語)のそれが始まった。うんざりしていたら次ぎに朝鮮語で始まった。我慢できないので外に出ようとしたら、今度はタイ語になった。タイ語のやさしい響きがよくてすくわれた。
 
タイ語は語尾を上げ気味に伸ばすのでのんびりしていていい。たとえばコンピュータは英語だとカンピュー とピュにアクセントがある硬いことばだが、タイ語だと平板にコンピューと発音し、最後のターにアクセントを置いて伸ばす。まぬけで可愛い(笑)。

立川あたりだとタイ語圏の客が多いのだろうか。なんとも新鮮だった。


朝鮮語がきらいだというのは左寄りの学生だったころから変らない。私は日教組教師に洗脳され「日本は朝鮮に悪いことをしました。すみませんすみません」「いつの日か朝鮮に行き、朝鮮人民に土下座せねば」と思い、北朝鮮を夢の国と謳うアサヒシンブンを読んでいたころから、この「言語」は嫌いだった。

深夜放送を聞きながら受験勉強をしていてチューニングすると、あの朝鮮放送に合ってしまったりする。朝鮮に対してそういう罪悪感をもっていた時代から、なんとも気味の悪い言語だと思っていた。この言語の好き嫌いには朝鮮の好き嫌いは関係していない。響きである。

タモリの「四ヵ国語麻雀」でわかるが、朝鮮語は硬い。タモリもインチキことばに真実味を持たせるためにより強くその硬さを強調している。 

何年か前の「徹子の部屋」で披露したのは「南北朝鮮語のちがい」だった。これは大傑作なので未視聴のかたはぜひ見て欲しい。YouTubeにあるはずだ。タモリが市内観光のガイドを南北朝戦語で使い分ける。南朝鮮をまともにやり、北朝鮮はあの朝鮮放送のように硬くやるから抱腹絶倒となる。 同じ言葉で笑わせるのだからすごい藝である。


私は第二語学にフランス語を撰んだ。 高校教師の義兄などはドイツ語をやったほうがいいと奨めたが、あの響きが嫌いだった。ドイツ語も硬いのだ。
フランス語を撰んだのは正解だった。後々私が好きになって通う国はドイツ語圏よりフランス語圏のほうが多かったからだ。同じラテン語だからスペイン語やポルトガル語を覚えるときにも役だった。

「ドイツ語が話せないからドイツ語圏に行かなかったんじゃないの」と言われそうだが、ドイツは英語がどこでも通じるし、それとはまた違う気もする。文化的にはクラシック音楽の本場だから私はもっとドイツ語圏が好きでないとおかしいのだが、なぜかスペインやポルトガルのほうに惹かれた。

何にでも手を出す私がまったく話せないのは朝鮮語とドイツ語になる。そこでは英語を話す。その国に行ったらその国のことばを話すべきと思っているので恥ずかしい。朝鮮に行くのだから朝鮮語を話さねばと勉強し、しごく単純な(論理的なと誉めねばまずいかな)ハングル文字はすぐに理解できたが、どうにも朝鮮語は学習意欲がわかず途中で放棄した。


シナ語の中では広東語がいい。香港映画のあれだ。タイ語に通じるやわらかさがある。それと比すと標準語である北京語は硬い。

むかしジュデイ・オングが「五ヵ国語しゃべれる」と自慢し、その中に「北京語と広東語」が入っていたので、同じシナ語じゃないかと反撥したが、いまはすなおにわかる。そう言えるぐらいそれは異なっている。


このごろ大好きな秋葉原に行きたいと思わないのは、今の秋葉原はシナ語ばかりだからだ。いくらシナからの旅行客が目当てとはいえ、店内はシナ語放送ばかり、店員もシナ人ばかりはやりすぎだ。日本人が秋葉原で買い物をしようとしたら、日本語のへたなシナ人店員と接せねばならないのだ。それは大型店舗であり、ちいさなパーツショップに行く私には無関係のようだが、街全体がシナ語になっているのだから逃げられない。そういう店に入らなくても、そこいら中からその放送が流れてくるから耳にせねばならない。あれはかなり滅入る。それで足が遠のいた。
商売として、私のようなせいぜい数万円のパーツ買いよりも、30万も50万も使ってくれるシナの金持ちを優先するのは当然であるが。

過日の「たかじん」で勝谷が「中国からの客が居ないと潰れてしまうというような旅館はもう潰れてるんですよ」と言っていた。至言であろう。
これで言うと、シナ人客に頼っている秋葉原の店舗はもう終っているとなる……。

むかし「アメリカがくしゃみすると日本は風邪を引く」という言いかたがあった。秋葉原の現状を見ていると、シナのバブルが崩壊したら日本は潰れてしまうのではないかと不安になる。私がいま秋葉原に行きたくないのは、シナ人観光客に頼りきっているその現状を見たくないからだろう。自己分析してそこに行きついた。どうにも「シナ語を聞きたくない」だけにしてはへんなのである。もっと憂鬱なのである。その理由を追及してみたら、そこに行きついた。私は、シナに頼っている日本を見たくないのだ。 


電通の朝鮮人社長が仕掛けた韓流ブームで朝鮮語を習い、身に着けた日本人がけっこういるらしい。それはそういう「世界のことばの響き」のようなことを意識することなく、ヨン様(笑)と話せるかもと朝鮮語一直線だったからだろう。日本語の次の言葉として朝鮮語を勉強したのだ。

私はいま、南北朝鮮ともに嫌いだし、もう長年韓国にも行っていない。それとは関係なく、朝鮮語は響きとして魅力のないことばだと思っている。
しかしそれは音楽の好き嫌いと同じでもある。私にはノイズと聞こえる音楽が大好きなひともいれば、逆もあり得るし、単なる「好み」であり、ひとそれぞれではあるが。

「柿落葉」のうつくしさ──日本の晩秋



 友人のブログを読んでいたら、「落ち葉の季節だが、いまいちばん美しいのは柿落葉ではないか」との文言があった。
 柿落葉のうつくしさには感動して、写真を撮ったことがあったな、と思い出す。探してみた。あった。

Clip-It 家の庭。ファイル情報を見ると2001年とある。11年前か。このときのデジカメは富士フイルムのClip itか。私が初めてデジカメを買ったのは1997年の、このClip it DS20だった。いや、2001年にはもうオリンパスのCamediaに買い替えている。しかし写真の質はClip itのものだ。すると、スマートカードの容量を惜しんで低画質で撮っていたのか? そんなはずもないのだが。

 ともあれ大きさは640×480。保存には8MBのスマートカードを使っていた。いっぱい撮れたものだ。一枚が70kbとか、そんなものだった。

 いま使っているFine Pixは1枚が4MB以上になる。ポケットタイプのちいさなものだが1600万画素とか。保存には16GBのSDカードを使っている。
 16GBは16000MBか。8MBの2000倍。それが8MBスマートカードの10分の1以下の値段。いやはやなんとも。

 写真の価値は「その時間」だ。1600万画素の美麗なものより、その時を記録したClip itの画像がいとしい。だいじにしないと。



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 秋の青空と柿落葉の赤の対比が絶妙。

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 落ち葉も見事だが、柿は青葉もうつくしい。生命力に満ちている。
 思えば、庭中に果樹のある環境で育ててもらったんだなと親に感謝する。
 12月は父母の命日だ。一緒に暮らしたころを思い出して偲ぼう。

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「私淑」の誤用──「居眠り磐音」篇

kotoba.gif 「私淑」ということばが誤用されていることに関してはサイトの「私淑と実家」にまとめてある。2006年の文だ。
 浅田次郎さんがすごい使いかたをしたので、それも附記した。

 先日、「居眠り磐音」( 佐伯康光)を読んでいたら、またすごいのが出てきた。
 武士が上司に隣にいる友人(それが浪人中の主人公磐音なのだが)を紹介するのに、彼がまちがいのない人物だと思ってもらえるよう言うのだ。「私は彼に私淑しております」と。

 サイトの「浅田次郎さんの私淑」に書いたが、浅田さんが「私淑」を同い年の仲間に使ったのでおどろいたわけだが、佐伯さんのもすごい、「私淑」を目の前にいるひとに対して使っている。まして時代は江戸だ。江戸時代にこんな「私淑」の使い方をするひとはいなかったと思うが……。



 ことばは世に連れて変ってゆくものであり、 元来の意味にこだわってもしょうがない。
「憮然はしょんぼりすることだ」と主張しても、くだらん強弁と思われるのが落ちだ。それこそ相手に(今どきの意味の)「憮然とされる」だろう。「なしくずしは少しずつ片づけて行くことだ。いいかげんの意味はない」「姑息は一時凌ぎのこと。卑怯という意味はない」なんてのも同じ。

 私淑している高島俊男先生も「ま、しかたないんじゃないの」と諦めているのだから、私もそれに従おうと思っているのだが、それでも三人の武士の会話で「私は彼に私淑しております」と出てきたときにはおどろいた。
 今時の「私淑」は本来の意味を離れ、浅田さんが使ったように「口には出さないが心の中では一目置いている」のような意味なのだろう。それは「私」の字から、「こっそり、ひっそり」という解釈と思われる。佐伯さんのは隣にいるひとに対して口にしているのだから、この解釈すらも越えている。

 こういうことにこだわるのは精神衛生上よくないので、なるべく考えないようにしよう。それしかない。



「『居眠り磐音』は『渡る世間は鬼ばかり』だ」という論文?を書こうと思っているのだが未だに書いてない。まあ書いても磐音ファンと渡鬼ファンに憎まれるだけで何の益もないが(笑)
 佐伯さんは時代劇作家として大成功したのだが、あれでいいのだろうか。なんだかかつての赤川次郎を見ているような気がする。

オスプレイ配備問題──こどもを前面に出す論法の卑怯──新憲法制定がすべての基本

 「オスプレイは帰れ」「強行配備を許さないぞ」。1日午前、海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが到着した米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)のゲート前では、配備に反対して抗議活動を行っていた市民団体などが怒りの声を上げた。
 午前11時すぎ、岩国基地(山口県岩国市)を出たオスプレイが同飛行場に到着したとの情報が入ると、野嵩ゲート前に座り込んでいた市民らは騒然となり、すぐに抗議のシュプレヒコールを繰り返した。
 
 同飛行場に隣接する宜野湾市立普天間第二小に通う孫2人の登校を見守った無職新城道子さん(69)は「8歳の孫娘が『オスプレイが怖い』と脅えて学校に行った。子どもが危険にさらされるのは許せない」と語気を強め、「基地さえなければこんな問題は起きないのに」と話した。
 
2012/10/01-12:58)http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012100100113

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(オスプレイの安全性と配備に関しては後で触れるとして)

 私はこういう「8歳の孫娘が怖がっている」のような、こどもを前面に出すリクツを見るたびに、くだらんなと思う。卑怯な論法と感じる。

 8歳のこどもには政治的な思惑を理解し、軍用機の安全性を論じる知識も頭脳もない。こどもはただ「おとなの顔色をうかがい、それに影響されるだけ」だ。それが基本である。

 アサヒシンブンの「声」に、「日本はなぜもっと中国や韓国に謝罪しないのでしょうか。過去にどんなに迷惑をかけたかを考えれば、もっともっと謝罪しなければならないと思います」なんて感じの投書をしている女子中学生は、確乎たる歴史観をもってそんな投書をしているのではない。そういう意見を言えば周囲のおとながよろこぶ(=そういう考えのおとなに周囲を囲まれている)だけの話だ。



 近ごろやたら「こどもの人権」のようなことが取りあげられる。しかしこどもとは無智で幼稚な愚かな存在である。それを正しく導くのがおとなだ。
 ろくでもない男と女がこどもを作り、我が子に暴力を振るう。その子を助けねばという問題が取り沙汰されるが、この問題の根本は、「おとなからまともな教育をうけなかったろくでもないこどもが、そのままろくでもないおとなになってこどもを作ってしまった」ことにある。

 親から苛められるこどもを守るというのは後からの追っ掛け解決策でしかない。それ以前に、根本的解決策として、そういう「こどもおとな」(前田日明はそれをコトナと言っていたが)を作らないようにすることである。
 智慧のないバカほど躰だけは早く一人前になり、学問教養に興味を持てない分、いきおい興味の中心は性的なものに集約されて行く。そういうの同士がまぐわってこどもを作る。こどもはあくまでもセックス快楽の副産物であり望んでいないものだから、生まれてきた手の掛かるそれをジャマだと苛めるのは当然だ。ほとんど畜生である。いや畜生は身を挺してこどもを守るから畜生以下だ。

 こういうろくでもない親から生まれ、それに苛められるこどもを社会や法律が救っても、そのこどもがまたろくでもないおとなになり、ろくでもないこどもを作る確率は高い。なにしろ両親がろくでもないのだから。血は正直だ。
 ろくでもない親から生まれて苛められるこどもを救うより、そういうろくでもない親をなくす解決策を講じねばならない。



 しかしまあ良い子を作る可能性のある男女が独身だったり、こどもを作らない夫婦だったりして、一方では畜生のようなのが性慾に任せてこどもを作りまくっているのは、いまの日本という国の歪みの象徴である。

 でも「人間という動物の流れ」としてはそうなるだろう。江戸から明治という変換があり、花開く大正モダニズムから昭和があり、敗戦があり、高度経済成長があり、世界が驚嘆した「樽型共産社会」を達成し、それが破綻して格差社会となり、その結果……。

 私はいまの日本がそうなったのは自然な帰結と考えている。とんがり型であれ平べったい型であれ、人間社会はピラミッド型が正しい。樽型は偶然の奇蹟の一瞬であり誤りだったのだ。これはまた別の機会にして。



 この新城道子(69歳)というひとの孫8歳は、オスプレイを怖がり、脅えつつ学校に行った、という。
 その理由を、この新城道子(69歳)は、天性の動物的勘を有する天使のような存在のこどもが、オスプレイの危険さを肌で感じとっているかのように発言する。

 そうじゃない。ばあちゃんの新城道子(69歳)や、そのこどもである息子や嫁(8歳の孫の親)が、「オスプレイは怖い怖い。落ちるかも知れない。あれが落ちてきたら死んでしまう。配備反対だ。あたしは絶対許さない。明日も反対運動に出かけるぞ」と騒いでいるから不安になっているのである。

 もしも新城道子(69歳)が、「オスプレイが来てくれたから安心だ。これで日本の安全は守られる。安心して眠れる。よかったよかった」と孫に話す祖母だったら、孫は安心して学校に通い、空を飛ぶオスプレイを見たら「ありがとう」と手を振るだろう。それだけの話である。

 なのにこういう論法を取り、記事になると、まるで「こどもは天性の勘でオスプレイの脆弱性、危険性を感じとっている」かのようである。こどもを不安にしているのはおとなだ。こどもはおとなの顔色を見ているに過ぎない。

 これでもうこの8歳の孫が長じてから、反日反米になり、「平和憲法を守れ」と叫ぶようなおとなになることは決まったも同然だ。すべてはおとなが決める。「怖ろしい」という言葉を使うなら、オスプレイなんかよりそのことのほうがよほど怖ろしい。なんとも気の毒な8歳である。



 こういう「こどもの健康や未来」を前面に出して自分の論を正当化しようとする連中は多い。

 たとえば<きっこ>と名乗る東京在住の女は、福島原発の事故の後、「こわいよお、放射能が来るよおと布団をかぶってブルブル顫えている母親」とともに西日本に疎開した(という設定)。<きっこ>が40歳という設定だから、20代で生んだなら母親は60代半ば(団塊の世代)であり、30を過ぎてから生んだ爐劼箸衞辞瓩箸い設定なら70代になる。

 いずれにせよこの母親は、とんでもなく精神の弱い、日本人の恥じとでも言うべき存在だ。なんともなさけない。「私達の寿命は限られている。なら私達が被曝する危険な作業をして日本を救えばいい」と立ち上がるのが正しい日本の年寄りだ。曽野綾子さんなんかはすぐにそう名乗り出た。

 でも布団を被って「こわいよお」とブルブル顫え、娘ともども全財産8千円で西日本に逃げだす精薄みたいなのもいる。これぞまさしく「敗戦後民主主義の生命至上主義」の典型だろう。
 その<きっこ>とやらは、いくら自分が煽ってもみんなが東京から逃げださないことに苛つき、「敗戦後民主主義の最もわるい点は無意味な我慢をするようになったことだ」と事実とは正反対のとんでもないことを言って笑い物になっている。



 逃げだすのはいい。この世で最も大事なのは自分の命であり、それを守るためなら、仕事もひととのしがらみも、餌づけしていた野良猫も、水槽で飼っていた魚も、みんな投げすてて身一つで逃げだすというのも、それはそれでひとつの識見?であろう。
 だが、ならそこに「他人のことなどどうでもいい。かわいいのは自分だけだ。大切なのは自分の命だ。他人のことなどしったこっちゃない」という意見を全面に出さねばならない。
 実際最初のころの<きっこ>はそう言っていた。「大切なのは母さんとあたしの命だ。それ以上に大切なものはない。だからすべてを投げすてて逃げだした。文句あっか!?」と。これは正しい。

 ところがやはり自分だけ逃げだしたことに後ろめたさがあるのか、こういうのにかぎって後出しで、「わたし達はどうなってもいい。でも明日の日本を創るこどもたちの命だけは守りたい」なんてキレイゴト言いだすから笑ってしまう。さらには「いまも東日本にいて被曝しているこどもたちのことを思うと涙が止まらない」となる。

 同時にまたテレビ(いやテレビはない設定だったからPCか)で見るアニメに感動して、母親と抱きあっては毎晩犢羌祗瓩靴討い襪箸いΔ里世ら正気の沙汰ではない。ずいぶんと安っぽい涙だ。

 真に東日本に残るこどもたちのことを涙が止まらなくなるほど心配しているなら、母親とふたりで東京に残り、被曝しつつも、東京のこどもたちの西日本疎開を誘導し、そのために命を捧げることが本筋だ。母親も、「あたしの命なんて限られている。あたしの命が捨て石になって東京のこどもたちの命を何十人も救えるなら生まれてきたかいがあったよ。矢でも鉄炮でも放射能でも、ドンとこい!ってなもんだ(笑)」なんて言ってこそ年相応の本物である。江戸っ子なんでしょ?

 しかしそんなことはない。自分さえ助かればよいと身一つで真っ先に逃げだした。親切な西日本のひとたちに衣食住の面倒を見てもらっての甘え放題(という設定)、一日中ネットにしがみつき、PCで見るアニメ感想、週末は競馬三昧という人間の屑生活。それでいてやたら「こどもたちのことを思うと涙が止まらなくなる」と来るからたまらない。



 沖縄の新城道子(69歳)も、8歳の孫がなぜオスプレイを怖がっているかをもうすこし真剣に考えろ。
 孫が不安がっているのは、オスプレイの能力故ではなく、ばあちゃんの顔色が原因だ。

 孫に、「オスプレイなんか怖くない。あんなのが落ちてきても、ばあちゃんがポイとはね除けてやるよ。あんなもん、ばあちゃんが本気になれば片手で十分だ。ばあちゃんがいる限り、おまえらはなんにも心配ない。元気に学校に行って来い」と言ってやれ。孫は自信満々で登校して行く。それがばあちゃんのレーゾンデートルだ。オスプレイを配備させない戦いは、それからでもいい。孫を安心させるという祖母としての最低限のことすらクリアしていないばばあが政治活動なんかするな。69にもなってそんなことすらわからんのか!



 以上、

・こどもは難しいことなどわからない。賢いこどもほどおとなの表情を読み、おとなに受けいれられそうな意見を言う。アサヒシンブンの「声」を読むとよくわかる(笑)。

・こどもを不安にしているのは周囲のおとなである。

 を終る。

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 次のテーマ。

 オスプレイを假りに不完全で問題山積の軍用機だとする。もともと完全なものなどあるはずもなく、こういう假定そのものが意味をなさないが、そういう前提で話を進める。

 なぜそのようなものを相手の言い値で買わされ、配備されなければならないのか。

 日米安保条約があるからだ。アメリカの軍隊が日本を守るという条約を締結しており、日本を守るためにそれが必要となる。

 なぜ安保条約なんてものがあるのか。

 日本に軍隊がないからだ。軍隊がないから、他国が侵略してきたときに、アメリカの軍隊に守ってもらう約束を交わした。それが日米安保条約だ。

 なぜ世界に冠たる経済大国の日本なのに自国の軍隊がないのか。

 敗戦時に押しつけられた憲法でそれが禁じられているからだ。



 現憲法もどきを廃棄し、新憲法を制定する。「改憲」じゃない。あのひどいのは「廃棄」だ。

 新憲法のもと、日本国軍を持つ。当然日米安保条約なんてものは破棄だ。いやシナや北朝鮮対策があるから「なかよし条約」は締結を続けたとしても、日本を守る中心は日本国軍になる。

 現に「日本国軍」は「自衛隊」という名で「らしきもの」が存在している。だがこれは現憲法により、「爪を抜かれた鷹」「刃を落とされた日本刀」状態だ。新憲法が発布されれば、すぐに爪を着け、刃を磨くことが出切る。そうなればシナや北朝鮮に脅えることもなくなる。ただそれだけですべてが解決する。

 沖縄にも、日本国軍が駐留する。
「(アメリカ軍の)基地さえなければこんな問題は起きないのに」と嘆く新城道子(69歳)の悩みも解決される。アメリカは沖縄を始め日本全土から撤退する。日本は日本国軍が守る。日の丸をつけた日本国軍のジェット戦闘機に沖縄のこどもは手を振るようになるだろう。
 そうすればオスプレイなんてのを押しつけられることはなくなる。

 それどころか、日本は「より安全で有能なオスプレイのようなもの」を開発し、アメリカに売ってやることすら出来るだろう。これは識者がみな口にしている。より安全で有能なオスプレイのようなものを開発し製作するだけの能力を有しながら、言い値であれを押しつけられ、買わされる屈辱。安保があるからだ。あの憲法もどきをいまだに大切にしているからだ。

 あの押しつけられた醜悪な憲法もどきを破棄し、新憲法を制定し、日本国軍を持てば、すべては解決する。



 その明解な理窟があるのに、オスプレイ反対なんてやっている連中は、「平和憲法の九条を守れ」とか言っているのだから話は進まない。

 憲法改正!
 安保条約、破棄!
 オスプレイ配備反対!
 
 で筋が通る。 

Twitter話──自分を「JAP」と名乗る自称愛国者に呆れる──チョンやチャンコロを使わない基本姿勢

Twitterでのハンドルを「JAPJAPJAP」と名乗る人からの「フォロー通知」が届いた。
みなさんがどうしているのかは知らないが、私の場合、Gmailが「××さんがあなたをフォローしました」と知らせてくれる。最初にそういう設定をしたのだったか。2年前なのでもう忘れてしまった。
ほとんどTwitterはやっていないが、そういう連絡が来ると、フォローしてくれたひとのツイートを確認に行く。いくつかのツイートを読み、せっかくフォローしてくれたのだから、相手の意見に納得が行けばフォローを返す。



愛国者を名乗っているひとだった。政治的な意見は私にちかいのかも知れない。だがその前に、私にはどうにもその「JAPJAPJAP」というハンドル名が容認しがたかった。
日本人は比較的こういうことに鈍い。もうずっと前だが、フランスで「JAP」というファッションブランドを立ちあげようとした日本人デザイナーがいた。在仏日本人の猛烈な反対にあって諦めた。本人は、なぜそんなに反対されるのか、最後まで不本意なようだった。発想そのものが狂っている。朝鮮人が日本で「チョン」というブランドを、シナ人が日本で「チャンコロ」というブランドを立ちあげようとはしないだろう。それと同じだ。

この「JAPJAPJAP」というハンドル名は、それこそ在日朝鮮人が自分のことを「チョンチョンチョン」と名乗るのに等しい。そんなバカなことをする朝鮮人はいない。

同じく、こんな名を名乗る日本人の愛国者がいるはずもない。このひとのツイッターの中身は読んでいない。確認以前の問題だった。



1970年代後半、つのだひろは「Japs Gaps」というというバンドを組みアメリカ進出を企てていた。来日した、当時クロスオーバーのギタリストとして人気絶頂のラリー・カールトンに相談した。どのような戦略でアメリカ進出をすべきかと。

ラリーが開口一番言ったのは「バンド名を替えろ」だった。「Japs Gaps」なんてバンド名は絶対にアメリカでは受けいれられないと。Japs Gapsをかっこいいバンド名と思っていたつのだの無智が見える。

「Japs Gaps」を、いま日本で人気があるらしいKpopの日本語バンド名とするなら、「チョンの缺陥」である。そんな名前の朝鮮人バンドが日本で人気を博することはあるまい。そもそも朝鮮人がそんな屈辱的なバンド名を名乗るはずがない。しかしつのだのやったことはそういうことである。いかにつのだの感覚がズレていることか。ラリーの指摘は至極もっともだった。

アメリカ人は、自分達のことを「Japs Gaps」と名乗る日本人のバンドを、まずその名前からして受けいれないだろう。それがラリーの意見だった。在米日本人からも一斉に反撥されたろう。つのだが井の中の蛙であることをよく表しているエピソードだ。
しかしまたそれが日本人の島国根性でもある。そんな諧謔が異国人に通じると勘違いしている。冗談になっていないのに洒落ていると思い込んでいる。つのだは「Jap」と「Gap」と韻を踏んだそのバンド名が気に入っていたのだろう。

念のために書くが、今のつのださんは国士であり立派な考えの持ち主だ。ユーモアもあり親切で、とてもすばらしい人である。でもそのつのださんでも当時は「Jap」に関しては、こんなに認識が甘かった。



かくいう私も欧米に行き、やつらに時に眉を顰め、時に薄ら笑いを浮かべて「Jap!」と呼ばれるまで、このコトバの屈辱度合には鈍かった。日本にいるときは単にJapneseの省略形ぐらいにしか感じていなかった。
「JAPJAPJAP」なんてハンドル名にして悦に入っている人も一度経験するといい。ヤツラにそう言われたとき、言いようのない屈辱と、殺したいほどの憎しみを感じる。それほど差別語というのは強烈だ。



私は、シナ人をチャンコロと呼んだり、朝鮮人をチョンと呼んだりはしない。書いたりもしない。
Twitterと距離を置いたのにはいくつかの理由があるが、あまりにこの種のコトバが溢れていたことも一因になる。

シナにも朝鮮にもきっちりと意見を言わねばならない。まあ言っても通じる相手ではないが、それでも諦めたら負けだから、言い続ける必要がある。そのとき安易に蔑称を用いてはならない。そういう場だからこそ冷静に、マナーを護る。私はTwitterに溢れる安易なチョンとチャンコロに辟易して距離を置いた。そこには人間性が出る。

ネトウヨというコトバの定義はわからないが、Twitterに、基本的な智識ももたず、ただひたすらチョンだチャンコロだと汚いコトバを喚いて自己満足に浸っている連中が多いのは事実だ。

私は彼らの「竹島は日本の領土だ」という意見よりも、その前にある「チョンなど叩き殺せ」にうんざりしてTwitterをやらなくなった。



シナ人に「小日本人」と言われたくない。朝鮮人に「 チョッパリ(豚の足)」と言われたくない。ならばこちらも礼儀としてそれは護る。チョンやチャンコロとは口にしない。あちらにも護らない人が多いが(笑)、情けは人のためならずと同じく、「マナーは人のためならず」だ。彼らに対する礼儀としてそんな汚いコトバは使わないが、同時にそれはそんなコトバを使わない自分の確認でもある。

國旗を燃やさないのも同じ。やられたらやりかえすではなく、モラルのちがいとして、彼らはやっても私達はやらない。それこそがプライドだ。シナ人、朝鮮人は、日本国旗を燃やす自分達の醜さに気づかないのだろうか。かわいそうなひとたちである。

そもそも「倭人」は「チビ」という蔑称だし、「卑弥呼」なんて当て字も不愉快だ。日本人はこの種のことに関して鈍すぎる。

それはシナのことをボロクソに言うネトウヨとかが、「中国」と言っているのにも顕れている。「てめー、ふざけんじゃねーよ! このあなた様が!」と言っているようなものだ。嫌いで否定する相手を、あちらがそう呼べと言っている尊称で呼んでいる愚かさ。



それにしても「愛国者」を名乗る人が、Twitterアカウント「JAPJAPJAP」は酷すぎる。日本を貶める売国奴が名乗るならともかく。

礼儀としてフォローを返すどころか、私はこんなハンドル名は二度と見たくないと「ブロック」というものをやった。今までに3.4回しかしたことはない。へんな商品の宣伝をしてくるヤツとか。



無智は恥ではない。一歩ずつ学んで前進して行けばいい。誰だってみなバカだった。私なんか日教組に毒された「シナ様、朝鮮様、ご迷惑をかけてもうしわけありません。日本は最低の国です。すみませんすみません」と考える若者だった。

しかし無智と無神経はまた別だ。センスの問題になる。直しようがない。そういうひとは何度も同じ失敗を繰り返す。愛国者と名乗りつつ「JAPJAPJAP」とハンドル名にするひとは、どこか壊れている。



いつものよう21時就寝、3時起床で活動を始めた。午前4時から10時ぐらいまでがいちばん楽しい。乗っている。一気呵成、一心不乱の充実した時間。なのに今回はGmailの「{JAPJAPJAP}さんがあなたをフォローしました」によって予定が狂ってしまった。いちばん仕事が捗る時間に、こんなことを書いているのも惨めだ。しかし看過できなかった。

またTwitterが嫌いになった。
Gmailの「フォロー通知」を切ろう。どうやるんだったか。こんなくだらないことで不愉快になりたくない。一日がぶち壊しだ。

ThinkPadのキィがひとつ壊れてかな入力ができなくなった──かな入力、ローマ字入力──日本語音引き考

愛用しているノートパソコンThinkPad R60のキィがひとつ反応しなくなった。最上段の右端。
ふつうキィが壊れる場合はカクカクしたり動かなくなったりする。それなら自分で部品を取りよせて交換したり、無理なら修理に出すのだが、いつもと同じなのでこまる。壊れた実感がない。内部でなにが起きたのか。

刻印されている記号は、半角のアルファベット入力だと「\」と「 | 」、ローマ字入力だと「¥」と「|」になる。かな入力だと「ー」。



日本語の文章を書くのに、ローマ字入力だとほとんど使わないキィだが、かな入力だと音引きの「ー」は多用するから必須のキィだ。右手小指でタッチする。手の小さなひとはブラインドタッチはきついだろう。ローマ字入力が普及したのは、使用するのが三段のキィだけで、手の小さいひとにもブラインドタッチがしやすい、というのが大きな理由だった。学校でこどもに教えやすい。

かな入力のブラインドタッチに習熟したらローマ字入力なんてやる気がなくなる。速さが違う。むろんそれに負けない早打ちのローマ字入力打ちもいるだろうが、基本としてキイタッチの数がちがうから、假りに同じ速さのふたりを並べて見ているとすると、かな入力がクラプトンのスローハンドみたいに派手な動きがなく、それでも速いのに対し、ローマ字入力は下手な素人早弾きみたいに、これでもかとばかりに手と指が乱舞するだろう。その辺の美学のちがい。

過日、電車の隣席でそんなひとを見た。30代のサラリーマン。膝の上にVaioを出して操作を始めた。ものすごい速さでキイボードを打ち、しばらく考える。それからまたすさまじく速い打鍵をする。打鍵音も高い。まるで派手派手にピアノでも弾いているよう。しかしそっと画面を覗くと、たいしたことは書いてない。なのになんで感動するほど速いのだろうと考えたらローマ字入力だからだった。必要以上に指のアクションも大きい。いわゆる典型的ヘタクソギタリストと同じ。
同じ事を私がしたら、打鍵音はなく、キィボードの上を指が静かに指が流れるように走るだけで、彼以上の文字数を打つだろう。この、これみよがしのサラリーマンは優秀なのだろうか。しばし考えた。



デスクトップ機では複数のキイボードを気分次第で使い分けている。これはあれやこれや多数。メンブレンが主だが時には敢えてメカニカルでカチャカチャやったりする。

膝に載せて使っている(いまもそれで書いている)文字通りのラップトップのモバイルThinkPadは、あたらしい型なのでアイランドキィボードである。浮き石型と呼ばれるMac風のひとつひとつ独立したキィ。ThinkPadは今年の新型から評判のよかった独自のキィボードを廃してこれにモデルチェンジした。使い勝手はまあまあ。

現有のそれらと、かつて使ってきたすべてと比しても、旧型ThinkPadのキイボードは最高だった。

それが使えなくなった。たったひとつのキィではあるが、すべてに影響して台なしになる。精密機械のむずかしいところ。



現在の日本語の音引き規定というのは醜い。やりすぎだ。なんでもかんでも伸ばせばいいってもんじゃない。私は極力使わないようにしている。この文章でも一般には「キーボード」だが「キィボード」と書いている。「Key」を「キー」とは書きたくない。英語の末尾の「R」は音引きにする決まりのようだが、「Computer」は「コンピュータ」にしている。どう考えても「コンピューター」は間抜けな表記だ。「アプリケーション」なんてのも「アプリケイション」だろうなあ。

そういうこだわりをしたひとは昔の文豪にもいたし、現在だと石原慎太郎さんが「イメージ」を「イメイジ」、「バラエティー」を「ヴァライティ」のように表記している。



とまあそんなこだわりはともかく、音引きを完全に排した表記は読みづらくなるだろう。「コンピュウタ」「キィボオド」ぐらいまでは許してもらえても。
ということは、たったひとつ、右上端のキィが反応しなくなっただけで旧型ThinkPadはコンピュータとしての能力を失ってしまったことになる。まあマウスを使ってのネット閲覧なんかには問題ないが、その最高のキィポードを利用しての日本語文章書きのために存在していたノートパソコンだった。



最愛のキィボードが使えなくなり、ここ数日かなりへこんでいたのだが、冒頭に書いたように「ローマ字入力なら使えるのか!」と気づいた。

私はかな入力がメインだが(ここもふつうはメーンか、でもmainをメーンてへんだよね)ローマ字入力もブラインドタッチできる。日本語をローマ字入力するのはおかしいというのが持論なのだが、世間のパソコンがみなローマ字入力なのも知っている。特に外国のインターネットカフェではそれをせねばならない。ならこの際、旧型ThinkPadをローマ字入力専用にして、そちらの練習を積むかと考えた。

アルファベットはブラインドタッチできる。だから英文はすらすら打てる。
だが1998年にチェンマイのインターネットカフェから友人へのメールを書いた際、ローマ字入力でチェンマイの「チェ」が打てず、Chiangmaiと英語綴りでごまかしたように、複雑な日本語になるとわからなくなる。「かな入力」の「にゅうりょく」なんてのもたいへんだな。nyuuryokuと打つのか?
「プギャアァァ、どぅおうしたのぉぉぉぉ!」なんて擬音入りの打鍵はどうするんだ。想像もつかない。それの勉強でもするか。やりたくねえなあ。

上記、「メール」も「mail」だもの、「メイル」だよなあ。いまのところ「郵便」は「メール」、「鎧」は「メイル」と使い分けるらしい。ジャガーメイル(豹の鎧)という馬がいる。もっとも香港じゃ「網絡電郵」と郵便にされてしまって「鎧」の意味は伝わっていなかった(笑)。



ネット検索したら、ThinkPad R60の中古は15000円ぐらいで買えるらしい。もちろんデフォルトのちいさなHDDにOSはXPだ。そんなものは使う気はないからどうでもいい。それを買って、メモリ増設して、SSDに換装して、7を挿れれば解決だ。しかしキィひとつだけだしなあ、Lenovoに相談してみるか。

ほんの一部が壊れただけですべてがぶち壊しになるのはコンピュータだけじゃない。人間という精密機械も口内炎がひとつ出来ただけで楽しい一日が憂鬱になったりする。まあまともに動くのがまだ二台あるのだ。落ちこまないようにしよう。

「眉をひそめる」の使いかた──日経の記事から

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 愛読している日経ニュースメールに以下のような記事があった。シャープの液晶を作っていることで名高い三重県亀山市で、就職率100%だった高校の就職率が低下してきているという話だ。

卒業生の4割が就職する地元の県立亀山高校。鈴鹿山脈を目前に臨む、のどかな公立校に異変が起きている。希望者の就職率は毎年ほぼ100%。11年には文部科学省から県内で唯一「キャリア教育優良学校」として表彰されるなど、先生の熱心さで知られる。そんな就職強豪校をもってしても「近年は非常に厳しくなってきている」と進路指導部主任の前川明男は眉をひそめる。



 卒業生の就職率がわるくなってきているという事実に対して、進路担当の教諭は「眉を曇らせる」だろう。「眉を顰める」は一読しておかしいと感じた。

 いくつかの辞書を引いてみた。
 学研の国語辞典は「眉を顰める」を以下のようにしている。

まゆをひそめる【_眉を_顰める】《慣用句・ことわざなど》心配事や他人の不快な行為のために、顔をしかめる。口に出しては言わないが、心の中でいやだなあと思う。

 私が「眉を顰める」で真っ先に思うのは下線部分になる。
 就職担当の先生の気持ちは、就職率の低下を、「口に出しては言わないが、心の中でいやだなあと思う」だったかも知れないから、「眉をひそめる」もあながちまちがいではないだろうが、

まゆをくもらす【眉を曇らす】──心配や不快の思いで、暗い顔つきになる。 

 のほうが適切だろう。



 ただし広辞苑は、 ○眉を曇らす──心配や不快の思いで、暗い顔つきになる。眉を顰める。
 と、末尾に「眉を顰める」を足して、ふたつの表現を同義としている。

 これは「従軍慰安婦」なんて気味の悪いアサヒシンブンの造語を収録している最新の第六版でも、そういう造語がないので長年愛用している第四版でも同じだった。広辞苑の見解ではふたつの表現に差はないらしい。

 まあむきになるほどのことでもないが、わたし的には「眉を顰める」は、「マナーのわるいものを見て、しかめっ面をする」という感覚なので、卒業生の就職率がわるくなっていることにたいして教師が「眉を顰める」とは使う気になれない。デヴィ夫人のブログだと、「皆さんの御意見をお聞かせ下さい」と結ぶところだ(笑)。 

NHKの「富山大学付属病院」、「やまとなでしこ」の「慶明大学付属病院」──付属と附属──テレビ新聞と現実の表記──なんと、明治は付属!──臓器移植法

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昨年、10年遅れで松嶋菜々子の「やまとなでしこ」を見たとき、劇中の舞台として「慶明付属病院」というのが出てきて奇妙に感じた。

大学のふぞく学校やふぞく病院に関わったひとならわかるだろうが、表記は「附属」である。附属と付属は意味からして異なる。附属を付属と書くのは明らかな誤記である。

理由は簡単。敗戦後の漢字制限で「附」が使えなくなったから当て字で似たような「付」にしたのだ。「頽廃」を「退廃」に、「交叉点」を「交差点」にしたのと同じ、くだらないこと。無意味。いや、有害なこと。



私は「やまとなでしこ」でそれを見たとき、「これはシナリオの文字なのだろうか!?」と考えた。
場所はその辺のロケ地である。使用させてもらった建物の入口に、小道具係が作った「慶明大学付属病院」というプレートを貼っている。

まともな大学病院だったらぜったいに「附属病院」である。
シナリオライターが、どこかの附属学校を出ていたら必ず「附属」と書くだろう。シナリオライターはどう書いたのだろう。附属か付属か。

また演出家が附属学校出身だったら、シナリオにそう書いてあったとしても、「附属」に直すだろう。「付属病院」なんて意味不明のことばは字面からしても我慢できるものではない。

さらにまた、シナリオライターも演出家も「附属」に縁がなかったとしても、実際にそれを作る小道具係が漢字にこだわりがあったら、「これは猊軋悪瓩犬磴覆い鵑任垢」と言ったろう。
さらにさらにまた、スポンサーがそれに誇りがあったら、「あの看板の猊嫗悪瓩魯悒鵑覆鵑犬磴覆い痢廚噺を出したろう。

シナリオライター、演出家、小道具係、スポンサー、いくつもの目を通りぬけて不自然な「付属病院」であることが不思議だった。ある意味、「やまとなでしこ」を見て、いちばん心に残った一件になる(笑)。

好意的に解釈するなら、「架空のドラマの存在しない病院なのだから」と、あえて「付属」にした、ともとれる。



今日、「小沢一郎離婚──放射能から逃げだす」をやらないかなとテレビを点けたら、「臓器移植法の変更により6歳のこどもの臓器移植が行われた」とNHKが報じていた。舞台は「富山大学付属病院」とテロップが出る。テレビではもうこんな表記をするのか。知らなかった。

本物の富山大学ふぞく病院も、時勢にまかせて「付属病院」にしているのか? まさかね。

調べてみると、インターネットの検索項目では「付属病院」となったりしているが、本体はしっかり、「附属」としていた。そうだよなあ、付属病院なんて、するはずがない。そもそもそんなものは存在しない。安心した。

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この富山大学附属病院で脳死したこどもの臓器を移植手術したのが大阪大学附属病院。

おどろいたことに読売新聞の記事では「付属病院」になっていた。

改正臓器移植法に基づき、6歳未満で初めて脳死と判定された男児から提供される臓器の摘出手術が15日、男児の入院する富山大学付属病院(富山市)で始まった。
 
心臓は大阪大学付属病院(大阪府吹田市)に運ばれ、10歳未満の女児に移植する。(読売新聞)

テレビも新聞もここまでひどい。最大発行部数の読売が、すでにもうこんな表記をしている。おどろいた。NHKや読売新聞がこうなのだから、フジテレビの架空のドラマで「付属病院」なのは当然となる。

しかし信じていたとおり、本物はしっかり、
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だった。



ということで、テレビや新聞がそんな誤表記をしようと、本家本物はしっかり「附属」と正しく書いているのだと安心しつつ、同種のことをいくつか見ていたらショックなことがあった。

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こういうとこを出たひとは、自分の出身校を「付属」と書くだろう。だって正規の表記が「付属」なのだから。明治大学に関しては、「明治大学附属中学校」と書いたら誤記になる。いやはや。これを決断したひとは、ものすごくかっこわるいことをしたんだけど、自覚はないんだろうなあ。

「やまとなでしこ」のシナリオライターや演出家は明治出身だったのかな。
しみじみがっかりした。



【附記】──兵庫県立大付属高校──10/3

修学旅行が韓国である高校は多い。そのことに生徒達が反撥し、旅行先を替えて欲しいという運動をしている高校があると知る。よいことだ。

高校の名前は「兵庫県立大付属高校」。
兵庫県というと国立大学は神戸大学か。大きな県だから、それとはべつに県立大学をもっているらしい。初めて聞いた。まああっちのほうに興味がないからそんなものだ。

しかしこの「付属高校」にはがっかりした。明治大学に続きふたつめになる。
神戸大学のほうは「附属病院」とかぜんぶしっかりしている。いい高校なのに、名前はすこし残念。


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臓器移植法

死んだひとの躰を切り刻み、新鮮なハツやレバーを取りだし、他人の躰に移植する。
ひとは、そこまでして生きるべきなのだろうか。

富山の亡くなった6歳のこどもの躰からは、「使えそうなモノ」が切りとられ、全国のいくつかの病院に運ばれた。冷凍で活きの良さを保ったのだろう。そこで移植手術が行われる。遺族は「誰かの躰で役だって生きて行くのなら……」と語ったとか。



種の基本として、優勢劣勢の問題は看過できない。

野田聖子のこどもは、生まれる前から障碍が見えていた。むかしなら生まれてすぐに死んでいた。
しかし国会議員先生の大冒険だ。現代医学の精鋭が秘術を尽くす。よって、生まれてきてから身体中、パイプだらけ。手術に次ぐ手術。全身切り傷だらけ。これからしなければならない手術も複数待っている。そうしてなんとか生きている。しかしこのまま生き長らえても、脳を始め数数の障害が残ることは確定している。それは「貴い命」なのか。単なる虐待ではないのか。

以前も書いたことだけど、1歳未満の重度の障碍をもった赤ん坊を、寄附を募って1億円集め、アメリカに渡って手術する。それって「人道的」なのか。そりゃ天使の笑顔だ、それがもうすぐ消えてしまう。かなしいに決まっている。「なんとしても」と思う。
だけど、死なせてやれよ。赤ん坊はそう思っている。大金持ちが自分の金ならまだしも、他人様から寄附を募ってまでその命にこだわるなよ。天命として死なせてやり、あらたにまた作ればいい。あらたにはもう作れない夫婦だったなら、それはそれでまた己の運命として受けいれるべきだ。どうにもこういう話題には納得できない。
それが「種」というもの、「命」というものの基本だと思う。



ひとは、そんなにまでして生きるべきなのか。

息子から肝臓をもらったのに、コウノヨウヘイ、タロウ親子がいた。先日亡くなった安岡力也も息子がそうしたのだったか。
親が子に臓器をあげるならともかく、子の臓器を親がもらうとは、なんたることか、鬼畜の所業という批判もあった。しかしこれは成人した親子の問題である。子が親のために差し出したのだから、これはこれでいいだろう。おとなの話だ。私も父が私の腎臓や肝臓で長らえることができるのなら差しだす覚悟はあった。

覚悟はあったし、もし必要ならほんとにそうしていたけど、それが「ひとの道」として、正しいかどうかはまた別の話になる。やはり命は「順序」だから、親が子にすることはあっても、逆はよくないように思う。

そこまでして、生きるべきなのか。
1歳でも100歳でも、天寿は天寿だろう。



ほんとうはこちらのことを書こうと思ったのだが、「やまとなでしこ」の時から気になっていたので、そっち中心になってしまった。

ことば──「もう1回反すう」という表記──野田首相の談話から

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野田首相と小沢一郎議員の会談があった。増税に関して意見が合わず物別れだったとか。

http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE84T04V20120530?sp=true



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 会談のあとの首相インタビュウ。
 以下の文は、野田首相のことばに対するURLの「文章表記」に関するものであり、首相批判ではありません。



「きょうはかなり率直な天下国家の議論ができた。そのことをもう1回反すうしながらどうするか考えたい」と述べるにとどめた。

 この「もう1回反すうしながら」という数字とカナ交じり文は醜い。ネット時代になってもあいかわらず新聞系はこんなことをやっている。数字関係はアラビア数字に撤している。
 「反芻」を「反すう」では意味がわからない。



 これでもう条件反射で思い出すのが「ら致」だ。
 高島俊男先生も初期の『お言葉ですが…』で取りあげていた。

「学生ら致される」という新聞の見出し。
「学生ら、致される」とは何だろうという話。「学生、拉致される」。

 同じく北方領土近辺の漁船事件では「だ捕」が乱発された。「拿捕」。

 高島先生の意見のように、そんなにまでして使わなければいい。「ら致」「だ捕」と意味不明のことばを使うなら、別の日本語に置きかえるべし。

 新聞記者の感覚ってへんだ。率先して漢字制限に協力しながら、というかもうそれすら通りこして、自分達の感覚であらたな漢字制限までしつつ、一方ではこんなカナ交じり語を平気で使う。
 このへんにも新聞記者という特権階級の歪んだ感覚が垣間見える。



 牛のあれで有名な「反芻」の、こういう場合の意味あいは、「あらためて、もういちど、解釈を試みる」という意味であり、こういうときの「もういっかい」は、決して回数の「もう1回」ではあるまい。

 私だったら「もういっかい反芻しながら」と書く。

「反芻」を「反すう」と書くぐらいなら別のことばに置きかえた方がいいが、首相のことばをそのまま伝えるとしても、だったらそのまま漢字で表現し、読めない人のためにカナを振ったり、欄外で説明すべきだ。まずなによりも「反すう」をかっこわるいと感じないひとには記事を書く資格がない。この記事は、全体的にもへたな文だった。

 ネットで読む新聞記事には、へたなもの、お粗末なまちがいが多い。30歳で知りあい60歳の今も親しいふたりの親しさを強調するのに、「まさに竹馬の友である」と書いているのには惘れた。ふたりがいまどんなに親友でも、それは「竹馬の友」ではあるまい。

 一方、素人の書くWikipediaでは、これでもかと難読漢字が使われている(笑)。
「弁える」「購う」「窘める」「綰ねる」「嘯く」とか、やりすぎだ。あれはあれでビョーキと感じる。「おまえはテレ朝の安直なクイズ番組か」と突っこみを入れたくなる。くだらん漢検にでも凝っているのか(笑)。
 
 むずかしい漢字を連発すれば上質な文章になるというものでもない。すぐれた文章の基本は、わかりやすいことである。Wikipediaなんてものに書くのに、なんであんなに肩に力が入るのか不思議でならない。あそこはそういう素人の晴れ舞台なのか。

Amazonや楽天メールのしつこさ──追いかけシステムを切る──「悩ましい」初体験

Amazonや楽天のお知らせメールが頻繁に届く。

「以前あなたがお買いになったこういう製品に、こんな新製品が出ました。どうでしょう?」

「以前あなたがお買いになった商品の関連商品でこんなものがありますが、どうですか?」 

「以前あなたがお買いになった商品が、今回特別に3割引です。いかがですか?」

 こちらの情報をプールしているから痒いところに手の届く親切さだ。 
 その親切がわずらわしい。
 まあ親切も何も自動で機械的処理なのだろうけど。
 3番目はひどい。2万円で買った品が14000円で買えると知らされても、もうひとつ必要なはずもなく。
 



 金のないときだと、「うるせえ、買いたくても買えないんだよ!」とすぐに削除して問題ないのだが、すこしだけ金のあるときはけっこう問題だ。つい見てしまう。
 もともと興味のある製品群なのだから気になるに決まっている。
 
 ほとんどはPC関係だが、先日電気ポットを買ったものだから、ここのところそんなのも頻繁に来ている。そんなにポットはいらない。 炊飯器もいいって。たこ焼き器なんて興味ないよ! ほんとしつこい。

 私はPCパーツを多くのショップで買い、そこのメルマガを申しこんでいる。そういうところから届くものも多い。でもそれはふつうに「お知らせメール」として常識的なものだ。

 そういう中、Amazonと楽天は、格別に図々しい。なんともいやらしい。いきなりフルネームで呼び掛けてくる。「××××様、今回だけです。あなた様にだけです。特別情報です」のように。

 私は「情報メール」が迷惑だと言っているのではない。むしろ楽しみにしているのもある。アキバオーのメルマガなんて、店と同じように雑然としていて、秋葉原の店に行ったような気になれて楽しい。

 Amazonと楽天のやりかたが不快なのだ。でもAmazonと楽天は二大王者だから、そのやりかたは正しい、となるのか?
 多くのひとは、上記のようなフルネームで呼び掛けられることを快適と思っているのだろうか。



 私は以前楽天で「あぐら座椅子」というものを買った。ノートパソコンは平机で使っている。正座がきつくなってきたので、これは重宝した。棋士は5時間でも10時間でも正座が出来る。すごいなと思う。

agura
 するともう楽天が、私がどのサイトを覗きに行っても、しつこく「あぐら座椅子関連商品」を勧めてくる。
 今だからこそ笑えるが、そのころ私はあまりのそのしつこさにノイローゼになりそうになった。だって、買い物サイトで、何を調べようとも、常にあぐら座椅子が顔を見せているのである。これは気味悪い。

 あぐら座椅子はいい買い物だった。感謝して使用していた。かといって、これからもみっつもよっつもあらたにあぐら座椅子を買う予定はないし、関連商品にも興味はない。心底うんざりした。

 そのときの私は楽天のその追い掛けてくるシステムが切れるとは知らなかった。あまりに不快なので、なんとかならんのかと調べ、その解決法を知った。やっと解決できた。
 楽天は、あの「追っ掛けシステムを切る方法」をもっと表に出すべきだ。それを知らず不快な思いをしているひとは多いだろう。なかなかわからないようになっている。心底腹立ったものが懸命に探してやっとわかるようになっている。ひどい。切ったら一気に快適になった。

 親切を通りこして気味の悪いシステムである。まるで監視されているようだ。ストーカー被害に苦しむ人の気持ちがわかる。



roland




 RolandのUA1010。6万円弱。いいんだろうなあ、これ。
 Midiキイボードを繋いでの打ちこみ関連の品だ。私は打ちこみキイボードはYAMAHAを使っている。それには満足なのだが、安物のTascamのインターフェースが物足りない。そろそろ買い替えたい。
 
 でも私にこれを買う資格はあるのか。ない。
 Cubaseもろくに使いこなせていない。所詮SSW程度のヤツがなにを偉そうに。
 初音ミクを上手に使いこなしている若者は、どの程度の機材を使っているのだろう。まあ機材よりセンスなんだけど。ストリングス系のいい音源も欲しいなあ。

 録画しておいた「銭形金太郎」を見たら、貧しい青年が天然ボケで、その貧乏度合とボケぐあいに、スタジオも爆笑だったのだが、うまいボサノバギターを披露したら、一転して歓声と拍手に変った。音楽の力。
 と思いついたので私もボサノバギターを弾いてみる。歓声が聞こえる(笑)。YAMAHAサイレントギターのClassic用も欲しいなあ。

 買えるけど今は買ってはならない状態。 なのに物慾は消えない。悩ましい。

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どうでもいい【附記】──悩ましい

「悩ましい」の意味は、 広辞苑第6版によると、

なやまし・い【悩ましい】
〓形〓〓なやま・し(シク)
〓なやみを感ずる。難儀である。くるしい。顕宗紀「吾が父の先王は、是れ天皇の子たりと雖も、〓〓なやましきに遭遇あひて、天位に登りたまはず」。「―・い問題を突きつけられる」
〓病気などのために気分がわるい。源氏物語帚木「いと―・しきにとて大殿ごもれり」
〓官能が刺激されて心が乱れる。「―・い視線」
 
となる。

大辞泉だと、

なやまし・い【悩ましい】[形]
_なやま・し[シク]《動詞「なや(悩)む」の形容詞化》_悩むことがあって苦しい。難儀である。「焦りと苛立ちの―・い日々を送る」
_官能が刺激されて、心が平静でいられない。「―・い姿態」「―・い調ベに誘われる」
_病気などで気分が悪い。「―・しく侍りて、内へも参らず」〈宇津保・忠こそ〉[派生]なやましがる[動五]なやましげ[形動]なやましさ[名]

いずれも「悩む、苦しむ」を最初にあげている。
ブログ等を読むと、誰しも今ではそういう意味で使っているようだ。

しかし私にとっては、というか昭和において常識的に、「悩ましい」とは、広辞苑の3番目、大辞泉だと2番目にある「官能が刺激されて心が乱れる。「―・い視線」 ──だった。チャーの「気絶するほど悩ましい」である。私もそういう形でしか使用したことがない。

だから今回、私が「悩み、苦しむ」の意味で「悩ましい」を使うのは初体験になる。ちょっとドキドキした(笑)。

日米をジョンとポールに喩える野田総理のセンス──批判する方も「やっちまったなあ」──常田富士男「私のビートルズ」

野田総理が講演で「日本がポール・マッカートニーなら米国はジョン・レノンだ。ポールのいないビートルズはありえない。この2人がきちんとハーモニーしなければいけない」なんて言ったらしい。

ご本人は「ビシっと決めたぜ!」とご満悦かもしれないが、これはもうクールポコで言うと「やっちまったなあ」状態(笑)。国民は、泣きそうな顔で「そんな総理がいたんですよぉ」と言わねばならない。



ジョンとポールと言えば真っ先にこの歌を思い出す。

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常田富士男「私のビートルズ」

♪禿山の、禿鷹が、私を少し噛ったからハッシッシ、ハッシッシ、ハッシッシをあげたのさ〜。おぅ、夢見るふたり〜。
バラの花をベッドに敷きつめて、ジョンとポールがあいしあっているぅ〜。


mp3はこちらにアップ。この歌を知ってるひとがどれぐらいいるのか。
ちょっと検索したら、この歌を知っているのだが、背景を知らず、それを問うているひとがいた。詳しく教えてあげたいけど、私は見知らぬひとのブログにコメントなんて怖くて書き込めない。でも間違ったことを事実のように書き込んでいるひともいて、それにブログ主が「ありがとうございます。そうだったんですか」なんて返事をしているのを見ると気の毒になる。常田富士男を「まんが日本昔ばなし」でしか知らないんじゃ無理。演劇。

ひとつだけ言っておくと、当時を知らない若者?が、この歌のことを「誰にも知られることなく時の中に埋もれた」とかいかにもで書いていたが、そんなことはない。あのころの深夜放送じゃ毎晩かかっていた。私が歌詞もメロディもふつうのヒット曲として覚えているのが証拠だ。すんなり歌える。ゴールデンタイムの歌番組で歌われた歌じゃないけど。

Fuzzをかけたギターとベースのユニゾンフレーズ。このころはまだDistortionもOverdriveもない。ファズが正しい。きちんとホーンも入れて本家を意識している。いいアレンジだ。サイケデリックだぜぇ!(スギちゃん風)。




「野田政権の存在意義」、「ジョンとポール」??〜耐えられない野田総理の言葉の軽さ

いくつかの記事を読んでみた。上記のブログがことば巧みにそれを批判している。上手だ。
といって感心するほどでもない。

というのは、ここで指摘されている、

・ビートルズのデビュー前の1957年から、解散する1970年までの長期間よきパートナーであったジョンとポール

・なのに昨年8月に首相に就任してから野田総理は、オバマ大統領と殆ど信頼関係を築けていない

・野田総理とオバマ大統領の関係は、ビートルズ解散直前のジョンとポールの関係のよう

・ビートルズ解散の原因の一つは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの不仲


これらは誰でも書けることだからだ。
逆に言うと、この比喩には誰でも突っこみたくなる。

日米関係に限らず、「社長と専務は」「委員長と副委員長は」「隊長と部下は」でもなんでも、ジョンとポールに喩えて繁栄や安定を願う言いかたをしたなら、彼らを知っている世代はもう脊髄反射で「でもその不仲が解散の原因なんだけどね」と口にするだろう。そのあとは、ジョージはリンゴは、となる。あまりに定番。

そういう意味で、上記の上手なブログは、言葉巧みに野田総理の発言を手玉に取ったようでいて、じつは野田総理に踊らされているとも言える。「アホが見る」とふられて思わず「ブタのケツ」と反応してしまったようなものだ。こういう批判文章を書いたこと自体がまた「やっちまったなあ」でもある(笑)。
(私は関東人なので「アホが見る」と振られても、「え?」と、すぐには反応できないのだけど。)



困るのは、野田総理はこれを「かっこいい」と思ってやっていることだ。
政治の比喩にビートルズを持ちだした自分を「やるじゃん」と思っている。「おれって新しい。今までの総理とは一味ちがう」

残念ながらそれはとてもかっこわるい。
政治的な微妙なことを音楽バンドになんぞ喩えてはならない。ましてあちらは麻薬やらなんやらある。ポールなんてマリファナ所持で日本に入国できず成田から追い返されている。そんなひとを日本国に喩えてどうするんだ(笑)。しみじみ譬喩のセンスが悪い。
まだしも人種問題を黒鍵と白鍵に喩えたポールとスティーヴィの「Ebony & Ivory」のほうがましだ。まあこれもあまりにベタだけど。

私も、「じゃあジョンとポールの不仲を決定的にしたおじゃま虫のヨーコはどの国?」と定番の突っこみを入れておこう。「ポール側から見たら不愉快だったかもしれないけど、ジョンがほんとうにあいしたのはヨーコなんだよ」と。
まさかヨーコはシナだったりして。

野田総理が、見かけはどっしりしているが、中身が軽いことがよく解る発言だった。

(以上、本文終り。以下餘談。)

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ま、私の場合、タバコをやめられないというだけでこのひとはダメだ。
18の時から吸い続けている(国会で質問され20歳じゃなくつい事実を言ってしまった)それほど中毒しているものだからこそ、総理になったことをきっかけにキッパリやめたとか、それぐらい見せてくれないと。
いまストレスでますます本数が増えているらしい。あの肌の汚さは喫煙が関係あろう。顔からしてヤニ臭い。

周囲にもたらすタバコの害毒とかは関係ない。彼の健康のこともどうでもいい。
指導者として、中毒している薬物をやめられるかどうかという意思の強さである。
その気になれば、これほど中毒しているタバコだってキッパリやめられる。その心意気を見せて欲しかった。

いまのところ見せている意志の強さは、なんとしても消費税をあげるという決意だけだ。
竹下と同じくそれで歴史に名を残したいのか。

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 そうかのその字も書いてないのに広告が消えない。呪いか。すぐビートルズが出たのはさすがだな。

<きっこさん>の八百万の神──複数だから神々に──単称複称へのこだわり

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 ひさしぶりに、高名なブロガーの<きっこさん>の文を拝読した。
<きっこさん>のことで知りあったネット知人が、 「ぜひ読んでください」とメールをくれたからだ。

八百万(やおよろず)の神について書かれていた。3月16日の絶品の名文。
森羅万象に通じた<きっこさん>らしいすばらしい内容だった。感動で涙が止まらない。号泣した。
<きっこさん>は智と美を兼ね備えたネット界の女神である。



結びはこうなっている。

‥‥そんなワケで、ここまで書いてきて今さらだけど、「八百万の神」って言い方はおかしいと思う。複数なんだから「八百万の神々」って言うのが正しいと思う‥‥ 

その姿勢に感嘆する。
<きっこさん>は日本語の表現にこだわる。
言の葉を追及してきた俳人としての誇りもあろう。

「八百万の神」の「神」は、英語で言うならGod。
でも八百万もいるのだから、それではおかしい。
ここは「Godsにすべし」という主張。
言葉に厳しい<きっこさん>の姿勢に、あらためて感服する。
日本語の人称の問題。<きっこさん>の追及はシビアだ。

単称、複称にはこだわらねばならない。
単勝の130円を100円当てれば30円儲かる。複勝は元返し。
今年の目標は百円均一! いや一攫千金!

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00kanren.gif  松田聖子の「思い出たち」



単称複称の問題。
「きっこさんたち」?

松田聖子「あなたに逢いたくて」の中の「思い出たち」──複数形の「たち」──FE「蒼炎の軌跡」

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以前ホームページに「爐燭銑瓩多すぎる──英語劣等感の歪み!?」というのを書いた。「鳥たち」「虫たち」という、そんなものにも「たち」をつける近年の傾向にうんざりしていたら、ちかくのスーパーで「野菜たち」と流していて行く気がしなくなった、という話。
それと、ファイアーエムブレム「蒼炎の軌跡」のなかの「たち」について。



毎度のIME話。こういう固有名詞のゲームタイトルはATOKは苦手。出せない。出そうとしたらたいへんな手間暇。そもそも「蒼炎」がない。結局は辞書登録になる。そしてGoogle日本語入力は抜群に強い。もう「そうえん」の時点で予想変換で「蒼炎の軌跡」を出している。
迷った末、私は最新版ATOK2012を購入したが、それは心情的な応援感覚で、このへんの差はもうどうしようもない。しかしまた固有名詞以外ではGoogle日本語入力がオバカサンなのも確かで……。
両方を切り替えて使っているのでなんとかなっているが、無料のGoogle日本語入力にATOKのようになれとは言えない。だから、がんばってくれATOK。もっと固有名詞に強くなってくれ。



今日、松田聖子の「あなたに逢いたくて」の「思い出たち」を知ったので、以下のような文をそのファイルに附記した。1996年のヒット曲だというから16年前。もうその頃からこんな言いかたはあったのか。

「日本語は単数と複数があやふやだ。その点英語は」という誤った考えにもう歯止めは利かないのだろう。
1pon,2hon,3bon,4honと、こんな変化に富んだおもしろいことばはないのにな。


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【附記.2】 松田聖子の「あなたに逢いたくて」の中の「思い出たち」 2012/3/14

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 私は松田聖子の「あなたに逢いたくて」をサビの部分のメロディしか知らない。何年のヒット曲かも知らない。たぶんその時期、私は日本にいなかった。
 YouTubeをうろついていたら何故かそれに出会った。なんで松田聖子になったのか今以て判らないのだが、これはこれで縁だと思って聞いてみた。すると「思い出たち」という歌詞が出てきた。おどろいた。新鮮だった。でも不快でもあった。こんな日本語は認めない。



 それから調べて、この歌詞を書いたのが松田聖子であり、これが彼女の最大のヒット曲(CD売りあげ)なのだと初めて知った。アイドル絶頂期の曲のほうが売りあげが大きいと思っていたので意外だった。

 YouTubeにあったのはPVなのか、もろにマドンナへの憧れとアメリカコンプレックスが出ている醜い映像だった。1996年だから彼女は34歳。離婚したのはいつだ? 調べる。翌年の97年。外人男とのセックスに狂って話題になっていた時期か。アメリカ進出を企ててがんばっていたころ。まあ藝名も自動車のmazudaと時計のSEIKOから来ているのだからアメリカでは受けると自信満々だったのだろう。しかしまあ飽くなき上昇志向である。このひとの異常なまでのエナジーはどこから来ているのだろう。

 私は彼女のデビュー曲を一聴したときから、この娘は大スターになるとあちこちで吹聴したほどの支持者だった。思った通り大スターになったけれど、それとはまたべつに、なんだかとんでもないひとになってしまった。マドンナって(笑)。



 1996年は1年の半分が外国巡りだった頃だから知らなくて当然だ。いや、そういう私がサビの部分だけでも知っているということから、いかに大ヒット曲だったかがわかる。自慢じゃないが私は「えっ!? ほんとにこの曲知らないんですか!」と驚かれるぐらい日本のヒット曲を知らない。同じくテレビドラマも。
 何度か書いているけど、だから「あのNHK朝ドラのヒロインが脱いだ!」なんて話題も、「脱いだ!」には興味があるのだが、NHK朝ドラを知らないから、せっかく拝見(笑)しても、ただの見知らぬネーチャンの裸でしかない。

 松田聖子はアメリカコンプレックスが強いから、このへんの作詩も、自分のヒット曲「Sweet Memories」から、Memories→思い出たち、なんて思いついたのか。当時、多くのファンが「思い出たちのたちってとこがいいよね」と話しあったことだろう。くだらん。

 ともあれ100万枚を超す大ヒット曲であり、映画「めぐり逢う時間たち」より6年も早いのだから、いまの日本語の異常な「たち」について語るなら、これは無視できない例題になると思って附記した。

「震災がれき受け入れ反対」はエゴか!?──“大政翼賛”的な横並びの社会傾向←これまたバカの一つ覚え(笑)

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 ▽「震災がれき受け入れ反対」はエゴか? 

──「受け入れに反対するのは非国民」とでもいうような雰囲気ができつつある。それこそが、反対派が最も反発し、私も危惧する“大政翼賛”的な横並びの社会傾向だ。

http://www.47news.jp/47topics/himekuri/2012/03/post_20120313144821.html

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 でました、またもバカのひとつ覚え「大政翼賛会」。
 ヒトラーとこれさえ使えばいいと思っていることばの貧しい連中。あとは犒碍い龍舛瓩。
 こんなクソ文を読んで、「そうだ、これじゃまるで戦前の大政翼賛会のようだ!」と憤慨するサヨクがまだ生存しているのか!?



 十数年前、ホームページの掲示板にどこがどう捩れたのかこういうのが間違ってやってきて、トンチンカンなことを書きこみ、無視され、無視されたことに腹を立て、私に対し「姑息だ、卑怯だ、大政翼賛会だ!」と喚いて去って行ったことがあった。たかが私のタイの思い出話が気に入らないことが、なぜ大政翼賛会になるのか(笑)。
 正体はトモダチがひとりもいない大阪のサヨク教師。早期退職して今はタイのチェンマイで現地妻と暮らしている。私が人生でただいちど「まるで大政翼賛会だ!」と叫ばれた貴重な経験になる(笑)。



 そういう狂人はべつとして、あらためて、政治家を始め談話や文章を発表したりするひとは、もっとこの種のことばに慎重になるべきと感ずる。安易にヒトラーや大政翼賛会を連発することは、そのひとのレベルの低さ、言語センスの貧困を露すだけだ。

 いくら中身のあることを言ったとしても、こういう安易な比喩をしたら薄っぺらになってしまう。というような心配はいらないか。こんなのを連発するようなのは元々中身のあることは言ってないから(笑)。
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