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藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.結──「もっているひと」はちがう──全体を振り返って

shinyatokkyu

 沢木は26歳から27歳の時期、丸一年かけてのユーラシア大陸横断の旅をした。そして、ここがこのひとの一番賢く凄い点であるが、それを10年間寝かせておいた。すぐに本にしなかった。
 業界が注目する、言葉を換えれば「咽から手が出るほど欲しい」新進気鋭のライターである。物書き業界は芸能界以上のスター主義だ。スターをひとり造りだせば、それだけで業界全体が潤う。沢木は最高のスター候補だった。それが突如仕事を一年間も休むという。何をするかと言ったらアジアからヨーロッパへの陸路放浪の旅だ。それだけでも行天だが、それをやりのけて帰国した。そりゃもう旅行ネタは山ほどあるだろう。おいしい。出版社はすぐにでもこの「旅行記」を出したかったろう。早く書けと突っついたはずだ。

 だがこのひとは書かない。出さない。自分の旅を十年間寝かせた。熟成させた。二十代半ばの旅を三十代後半になってから文にしたのである。なんとも、賢い。そのことにより、より完成度の高い、すぐれた作品となった。若者の貧乏旅という安焼酎は、十年寝かせることによって味わい深い古酒(クースー)になったのである。


 
 あの絶妙の味わいの「深夜特急」を否定するひとたちもいる。それらは総じて「きれいすぎる」と言う。たしかに。
 旅をしたのは二十代半ばのまだ青臭い沢木のはずだ。もっと生臭くなくてはいけない。なのに……。それをきれいにまとめているのは三十代後半でずっと智識も智慧も増えたおとなの沢木なのだ。

 もしも帰国してすぐに二十代の沢木が発刊したなら、きっともっと生臭いものになったろう。それは生々しく未熟で完成度は低かったかもしれないが、後々のものよりも生命力に満ちたそれはそれでよい作品になったと思われる。沢木はそうはしなかった。それは沢木の美学に反する。十年間寝かせた。
 十年間寝かせたものだから、みょうに乾いてさわやかな作品に仕上がっている。よく言われることだが、これはノンフィクションではなくフィクションとして捉えるべき作品だろう。それがこのひとの賢人である所以だ。



 そうしてあの旅の終りに、パリの空港で、キャンセル待ちをするお忍び旅行の藤圭子とめぐり逢っていたのである。それが5年後に「インタビュー」という作品に繋がる。インタビューするひと、されるひと、ふたりの距離はこのエピソードでぐっとちぢまったろう。そうして藤の自死の二ヵ月後、34年後に『流星ひとつ』の名で発刊されるのだ。なんとも「もっているひと」はすごいなと思わざるを得ない。

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ryusei

 『流星ひとつ』の中で、藤は沢木の一年間の旅を「なぜそんなことをしたのか」と問う。仕事が順調なのに、敢えてそれと距離を置き、自分の居場所がなくなってしまうかも知れないのに、一年間あてのない外国を彷徨うという感覚は、藤にとって不思議であり、同時に実は理解できていることでもある。自分がやりたいけどやれないことを、平然とやりながら生きているひと、前記した関根恵子が河村季里に惚れたように、藤の中で沢木の存在が大きくなって行くのが見える。

 晩年の藤は娘の稼いだ金で世界中を贅沢旅行で歩きまわっていた。あれも若いときに出来なかった沢木的な生きかたの実践だったのではないか。そう思われてならない。

 藤の死後、34年前の原稿を元に沢木が新刊を出し、それが藤の元夫を不快にした流れは、じつに興味深いものである。



 『流星ひとつ』の感想はひとそれぞれだ。否定するひとがいるのもわかる。たしかに、藤が死んでからの発刊には狡いと思うような面もある。
 私の感想は「出してくれてありがとう」だ。 読んでよかった、読めてよかった、になる。藤圭子の背負っていたものとは比ぶべくもないので書くのも恥ずかしいが、私もまた藤と同じく権力に頭を下げることなく「別に」の姿勢で生きてきた。どこにも阿ったことはない。藤は自分と一緒に「別に」と言ってくれるスタッフがいなかったことを悔しがっていたが、私が藤のスタッフだったら、彼女と同じく「別に」である。NHKが藤を紅白から落とした、いいね、じゃもうNHKとは縁を切ろう、である。もしもそういうことがあったら、藤も私も破滅したと思うが、それはまた別問題だ。
 そういう彼女の精神を『流星ひとつ』で知りえたのは、おおきな収穫だ。「Harvest」である。いろいろと評価は分かれたようだが、私の感想の結論は「沢木さん、出してくれてありがとう」になる。これが結び。以下、附録。


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 長々と書いてきた《藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考》だが、そろそろこの辺で筆を擱きたい。
 一応最初はまとまっていたのだが、途中から分列気味になった。すこしまとめてみる。



 書きたかったこと、まず藤圭子に関しては、

・1970年の社会的現象であったこと

 だ。ひとりの新人演歌歌手の話題ではなかった。それは五木寛之さんの造語である牘絏劉瓩箸、それが逆の意味で伝わっていった流れとか、北山修と毎日新聞の深夜放送に関するウソとか、自分なりに記録できたと思う。

 【芸スポ萬金譚】に《なぜか突然藤圭子の「新宿の女」が聞きたくなった》というのを書いたのは2013年の1月14日だった。この7カ月後に彼女は自死する。ふと聞きたくなる彼女の歌は、私の場合これがいちばんだ。これからもきっと「新宿の女」は思い出すたびに聞くだろう。いま旅先だが、YouTubeのそれはしっかりDownloadして持参している。

 70年は安保の年だ。義塾も一年半のストに入った。創立以来いちばん長いだろう。授業に出ていないヤツも(というか授業がないわけだが)リポートで単位がもらえたのに、そこで留年している私はえらいな(笑)。だって学校に行かなかったからそうなったことすら知らなかった。

 藤圭子が「新宿の女」でデビューする1969年に武豊が産まれている。70年は羽生善治&羽生世代だ。あの年に産まれたひとに傑物が多いのは単なる偶然なのか。



 そしてもうひとつが、

・もうひとつの流星、石坂まさを

 である。藤圭子抜きに石坂まさをは語れず、石坂まさを抜きに藤圭子は語れない。ふたりは双子の巨大な流星だった。
 当然ながら石坂さんは、藤圭子以外にも、その後も五木ひろしを始めとする大物に曲を提供し、そこそこのヒットを出しているらしい。だから演歌に詳しいひとからは、「石坂の絶頂期は藤圭子の初期の4曲、あれで燃えつきた」には手厳しい異論をもらいそうだ。でも私のイメージがそうなのだからしょうがない。假りに数字を突き付けられたとしても、あの時代を生きた私のイメージだから、それは変られるものではない。
 たとえばポール・マッカトニーを「ビートルズ時代がすべて」と言うひとがいたら、熱心なポールファンは怒るにちがいない。でもあれだけの長年の活躍と創作活動を続けながらも、ポールがビートルズ時代以上にインパクトのあるヒット曲を送り出していないのもたしかなのだ。それと同じ感覚である。

 先日これを書きつつ検索して、YouTubeで藤圭子の「新宿の女」を聞いた。どこかのテレビ番組。和服を着て歌っていた。思いっ切りメロディをくずして歌っていた。いくつぐらいだろう、三十代半ばか。もっと上か。そこには五木さんの言った牘絏劉瓩覆鵑謄ケラもなかった。ただの「歌の巧いおばさん」だった。やはり石坂まさをにしても藤圭子にしても、世に出る直前の光が独自の輝きとなったのであって、リッチになったふたりが失ったものも確実にあったように思う。



『流星ひとつ』に関しては、

・沢木と藤のパリでの出会いの衝撃

 に尽きる。これって言わばふたりのサイドストーリィであり、読者の私にはまったく関係ないのだが、私はこれに衝撃を受けて『流星ひとつ』購入にいたった。しかしまあ沢木さんは「もってる」。それを明かされたとき、もう藤圭子の目はうるるんだったのではないか。待ちつづけた「白馬に乗った王子さま」はこのひとではと思ったのではないか。いやはやノックアウトされたエピソードだった。



・書き足したいくつかの音楽話


 この「藤圭子&『流星ひとつ』考」は、日本を留守にするあいだに自動アップするように設定して書いた。去年1月の「大鵬話」と同じになる。「1話を1000字にして20回連載」の体裁で書きあげた。私が日本にいないあいだ、自動でアップされる予定だった。原稿用紙換算で60枚ほどの量。それを仕上げて異国に行った。

 ところが今回の異国生活前半は幸か不幸か私には珍しくWifiが通じるオシャレな地域だった。ま、オシャレもなにも今じゃそのほうがフツーなのだろうけど、恥ずかしながら私は初体験。ThinkPadもAsus MeMO Padも快適に繋がった。それで、よせばいいのにその「20回連載」を読み返してしまった。粗だらけである。己の醜さを見て汗を掻く蝦蟇状態。あちこち言葉が足りない。力がないからが基本だが、出発前に1ヵ月以上ブログ更新が途絶えるのも数少ない固定読者に申し訳ないと急いで書いたことにも因はある。それの直しを始めた。直せば書き足したくもなる。書き足せば削りたいところも出て来る。こうなるともう泥沼の堂々巡りである。「1回1000字」なんて約束ごとはすぐに破られ、あれやこれや書き足しての混迷状態となった。結果、26回の連載で合計140枚を越している。書き足した部分のほうが多い。

「いくつかの音楽話」とは、たとえばビートルズの「Abbey Road」、ニール・ヤングの「Harvest」、由紀さおりの「生きがい」、テレサの「つぐない」のあたりである。「別れの旅」「面影平野」もそれになる。
 これからインターネットのない山奥の世界に往く。せっかくオシャレな街に来ているのに、Wifiがあったがために「ひたすら日々『藤圭子論』の修正のみの生活」を送った。斎戒沐浴して日々精進の時間だった。もっと俗事に染まるはずだったのだが。それでも私なりの「藤圭子論」と「『流星ひとつ』の感想」を書けた。これはこれで貴重な思い出になるだろう。「大鵬」の時も思ったが、「書こう」と思った波が来たときに一気に書かないとあとではもう書けないのである。書けてよかった。長長のおつき合い、感謝。(完)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.25──私のロカ岬と「深夜特急」、テレビ版「深夜特急」

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 ポルトガルの西の外れにロカ岬がある。ユーラシア大陸最西端の岬だ。「ここに地終り、海始まる」の碑が建っている。私が初めてここを訪れたのは1991年の秋だった。島国育ちの日本人らしく、あちこち異国の端っこに行くのは好きだが(笑)、べつに大航海時代を偲んでやってきたわけでもない。沢木耕太郎の「深夜特急」に感激し、悩んだ末に彼がゴールと決めたロカ岬に、自分も行きたいと思ったのだ。「深夜特急」を読んでいなければ来るはずのない地だった。

 それでも見渡す限りの海を見れば、「地球は丸い」が定説ではなかった時代、ここから航海に旅立つのは度胸が要ったろうと感激する。丸いと知っているから丸く見えるが、あのころは海の果ては轟々と瀧になって落ちていると思われていたのだ。

 新大陸なんていいかたは、侵掠者のキリスト教信者白人から見た解釈であり、元々の住人はそこにいるのだから「新」であるはずもない。白人の征服主義、キリスト教の侵掠が世界をおかしくしたと考える私だから、「深夜特急」のゴールの地に行きたいと思わなければ、その出発点であるこの地は縁のない場所だった。


 
 沢木が藤とパリの空港で会ったのは、このユーラシア大陸横断の旅が終り、そろそろ日本に帰ろうとしていたときだったのである。なんとまあいろんな運をもっているひとであろう。しっかりそれが後に繋がっている。この旅を十年後に沢木は「深夜特急」として世に出し、高い評価を受けるのだが、それより五年前、旅の終った五年後に、しっかりとそのときの出会いであるこれをこの(未発刊ではあったが)『流星ひとつ』で役立てていたのだ。

 私が背筋をゾクッとさせたエピソードとは、この『流星ひとつ』が、あの「深夜特急」と兄弟だったことにある。「あの、ユーラシア大陸横断旅行から帰国するときに、パリで藤圭子にあっていたのか……」
 ほんとに、沢木さんてひとは「もっている」のだ。

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 脱線するが、「深夜特急」と言えば、名古屋テレビが制作しテレ朝系で放送された大沢たかお主演のものを思い出すひとも多かろう。中には原作は読んでなく、「深夜特急」とはイコールこれだというひともいるかもしれない。

 私はこの作品に興味がない。一応我慢して最後まで見たが、なんともはやつまらなかった。理由は明白、これは制作された1996年から1998年の映像だからである。それはもう私の充分に知っている狎こΝ瓩澄

 私にとって沢木の「深夜特急」が魅力的だったのは、彼がそれを実行した1974年ごろの世界にあり、それは自分の知らない時代の他国だった。だから興奮した。つまりテレビ版「深夜特急」の映像は、すでに世界を巡った私の知っている時代なのである。だから興味が湧かない。さらには「90年代になってからはもうアジアもつまらなくなった」と言われるようになっていた。事実その通りなのだ。その90年代も末期なのだから興味が湧くはずもない。スタッフは当時の雰囲気を出そうと、よく努力していたようだが、現実を知っているこちらからすると、なにをどうしようともそれは私の知っている90年代末期のアジアであり、沢木の旅した時代とはちがいすぎていた。
 
 しかしまた何も知らなければあれはとても良質な番組で、愉しんだひとも多かったろう。だから決して否定ではない。そこは誤解しないで欲しい。あれはああいう世界に憧れる、まだああいう世界を知らない若者には、充分刺戟的なすぐれた映像であったろう。あれをきっかけに世界に飛びだした若者も多いにちがいない。でもあれではもう興奮できない私、もまた個人的真実なのだ。 (続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.24──もっている沢木耕太郎

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 パリの空港で初めて会った5年後のホテルのバー。1979年。『流星ひとつ』のインタビュー。今回が初めてではなく、前回のパーティも初めてではなく、じつはあのパリの空港のキャンセル待ちのとき世話を焼いた日本人が自分なのだと沢木は名乗り出る。
「あなたは、オレンジ色のコートを着ていました」

 次第に藤の中にも、5年前のパリの空港、おそらくお忍びのプライベート旅行だったのだろう、言葉が通じず困っていたとき、助けてくれたあの長身の日本人青年の面影が浮かんでくる。「ああ、ああ、あのとき、たしかに……」と。
 それがいま自分にロングインタビューをしている新進気鋭のノンフィクションライター沢木耕太郎なのだと知ったときの藤の昂揚感。私もまた「まったく沢木耕太郎ってひとはすごいなあ」と背筋をぞくぞくさせながら読み進んでいた。こんなことを知ったら誰でも運命を感じてしまうだろう。ふたりが恋に落ちる伏線は5 年前に張られていたのだ。


 
 しかしこのことだけを取りあげるなら、それはさほどのことではないように思う。いや充分に「さほどのこと」ではある。だって藤圭子なら、後の奇行で有名になるが、このときだってファーストクラスは可能だったろう。それがなぜあのロシアの、評判最悪のアエロフロートなのだ(笑)。極貧旅行の沢木はともかくも。そういう意味では、ふたりを出会わせるように神様がセッティングしていた、とも言える。だからまあこれだけで充分に劇的な出会いではあるのだが、私が「まったく沢木さんてのはもってるひとだよなあ」と感激したのにはもうひとつの理由がある。



 横浜国大を卒業してノンフィクションライターを志した沢木は、26歳ですでに「若き実力者たち」「敗れざる者たち」と高評価の二冊のノンフィクションを出していた。私は「若き」には将棋の中原さんが、「敗れざる」には競馬のイシノヒカルが登場するのでともに読んでいた。順風満帆な沢木はあまりに順風過ぎる故に、敢えて一度休憩を取る。ここが沢木耕太郎の沢木耕太郎たるゆえんだ。なんともかっこいい。賢い。そしてユーラシア大陸横断の旅に出る。26歳から27歳にかけての一年間だ。その旅もまた大きな自分の功績とする。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.23──沢木耕太郎、藤圭子、パリでの初めての出会い

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 『流星ひとつ』を立ち読みしていた私が思わず背筋をゾクっとさせたのはふたりの出会いの箇所だった。
 インタビュー開始の時、「はじめまして」と藤が言い、沢木が「はじめてじゃないんですよ」と応じる。すぐに藤が「あ、先日のパーティで会ってるもの、初めてじゃないよね」と返すが、沢木は「いや、その前に会っているんです」と言う。


 
 インタビューする1979年から5年前のパリ。一年間の放浪の旅を終え、帰国しようとする沢木はアエロフロートのキャンセル待ちでパリの空港にいる。いくら安売りチケットとはいえ「他人名義」というとんでもないシロモノである。当時はそれが出来たらしい。パスポートチェックが無事に済めば、他人の名前の航空券でもチェックインできたらしいのだ。信じがたい(笑)。さすがの沢木も、「これでほんとに搭乗できるのか」と半信半疑でキャンセルを待っている。

 そこに三人の日本人がやってくる。中年の男性と娘ふたり。ひとりは日本人形のように整った容姿、肌がきれいだ。もうひとりのむすめもとてもかわいい。ひさしく外国を流離っていた沢木は、久々に見る日本人娘のきれいさに感激する。
 
 沢木も三人組もキャンセル待ちの状態である。だがその三人組は、ことばが通じず、待たねばならない現状が理解できないようだ。沢木はでしゃばりと思いつつも、同じ日本人として、日本語でそれを三人に説明してやる。三人もやっと納得する。



 その後のアエロフロートのキャンセル待ち搭乗は、沢木までで打ちきりとなる。沢木は乗れない三人を気にしながらも機上のひととなる。そうなってから、さっきの人形のようにきれいだった娘は歌手の藤圭子じゃないかと気づく。一年間日本を離れていたが、なぜあの大スターの藤圭子に気づかなかったのだろうと不思議に思う。
 パリの空港。藤圭子23歳、沢木耕太郎26歳、これがふたりの初の出会いである。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.22──沢木の『流星ひとつ』を買うひと、とは

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 多摩センターの啓文堂で『流星ひとつ』を立ち読みしているとき、私に購入の意欲はなかった。沢木の新刊だし、そのうち図書館にはいるだろう。そうしたら借りて読んでみよう。それぐらいの気持ちだった。買うなら文庫本になってからでもいい。それだけ私の中でも藤圭子は過去のひとだったことになる。沢木耕太郎もまた全作品を読んでいるけれど、かといって新刊が出たらすぐに買う、というほどのファンでもない。ただ、どんな作品も、絶対に無視できないすばらしい作家ではあるけれど。
 
 ところが立ち読みで爐箸鵑任發覆ぅ┘團宗璽畢瓩鮹里蝓∋廚錣最惷擇ゾクっとするほどの興奮を覚えた。私は迷わず本を手にしてレジへと進んでいた。


 
 電車の中でも読み進め、インタビュー構成という読みやすいものだから、その日のうちに読了したのだが、ブログに感想を書く気はなかった。話題の芸能ネタであるし、作者は人気の沢木耕太郎である。ベストセラーとなり、そこいら中に感想があふれると思っていた。
 
 ところがそうでもなかった。さほど売れなかった。それほど藤圭子は過去の人なのだろう。テレビのワイドショーではどうだったのだろう。藤が死んだときには日本にいなかったでテレビは見られなかった。ワイドショーでは、この本を取りあげて、ふたりの恋愛関係にも触れ、テーマとしたりしたのだろうか。いまその種のテレビをまったく見ないのでわからない。



 過去のひとである藤圭子の1979年、34年前のインタビューを読みたいと、この本を購入するのはどんなひとだろう。
 まず「誰がなんと言おうと藤圭子こそ最高の演歌歌手。大好きだ、最高だ」という演歌ファンは、沢木のこんな本は読まない。こんなものを買う習慣がない。彼らは日夜自殺してしまった彼女の歌を聴き、一緒に歌って鎮魂する。

 演歌歌手・藤圭子のファンが買わないとしたら、誰が買うのか。購入者として考えられるのは、一般読者からマスコミ人にまでコアなファンを多数持つ沢木耕太郎だから、「沢木さんの本は全部好き。全部買う」というひとたちだろう。この本を支えたのは「藤圭子ファン」よりも、こういう「沢木耕太郎ファン」だろう。いわば「本好き」のひとたちである。



 ではそれらとはまた別の、フツーのひとで、この本を買うのはどんなひとだろう。と考えて、自分が典型的なそれであることに気づく。

 すなわち、1970年の「藤圭子現象」を知っている世代、ヒット曲だけではなく、社会現象としてのそれを体験していて、そこに思い入れをもっている人々、である。「五木寛之の造語の牘絏劉瓠廚覆鵑討里鮹里辰討い襪里皸貍魴錣箸覆襦
 それがどれくらいいるのかわからないが、ベストセラーにならなかったことを思うと、さほどの数でもないのだろう。いや、購入者の数よりももっともっといると私は思っている。でも私が彼女の死を知ったとき、感想というか当時の思い出を書こうと思いつつも、「ま、それぞれが心の中にもっていればいいことか」と諦めたように、本屋でこの本を目にしつつも、あるいは一度は手にしながらも、「あの当時の藤圭子の思い出はオレの心にあればいい」と購入しなかったひとも多いように思う。

 私も前記の爐箸鵑任發覆ぅ┘團宗璽畢瓩なければ、すこし立ち読みして、懐かしいような物悲しい想いにとらわれた後、、「自分の心の中にあれば、それでいい」と、購入もしなければ、こうしてブログに書くこともなかった。



 世間ではどんな評判なのかとAmazonのブックレビューを読んでみた。みなとてもよく書けていて、上手な文も多いのだが、なんとも悲しいことに、それはみな「宇多田ヒカルのファン」なのだ。藤圭子は彼女の母親でしかない。もちろん当時の輝きなど知りはしない。これはいくらなんでも悲しい。藤圭子の死は藤圭子の死、なのだ。「宇多田ヒカルの母親の死」よりも前に「藤圭子の死」でなくてはならない。そのとき、遅ればせながら私なりに藤圭子を偲ぼうと思った。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.21──いま発刊する理由、元夫と実娘の想い、もうひとつのif

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 34年間伏せてきた作品を、なぜ今ごろ、藤圭子の自殺のあとに緊急出版することにしたのか。「葬式商売」「ひとの不幸で儲ける」との批難は避けられまい。それは完全主義でありデビュー以来爽やか路線を貫いている沢木耕太郎には似合わない。そう言われることを承知でなぜ出版に踏みきったのか。
 沢木はその理由に「後記」の中で触れている。とてもよくわかる理由だったが、同時にある種の確執も生むのではないかと気になった。結果、その通りになる。



 沢木は封印していたインタビュー構成の本──1979年にしたインタビューを2013年に発刊だから34年ぶり──をいま発刊する理由として、藤の自殺後の元夫・宇多田と実娘ヒカルの発言をあげていた。元亭主と娘は藤圭子の死を「長年精神を病んだ末に死んだ」としていた。今までの苦労もいくつか披露していた。それは事実だろう。一緒に暮らしていたふたりの話である。夫と娘の話なのだ。藤のいくつもの奇行からも彼女が精神を病んでいたことは推し量れる。その病の果ての自死だった。
 
 それに対して沢木は、「元夫と娘により、そう片づけられてしまっては気の毒だ。そうではない時代の藤圭子を伝えたいと発刊の決意をした」と言う。これはこれで意義がある。だが他人からそう言われたら、元夫と実娘が愉快のはずはない。なにしろ「6回の結婚離婚を繰り返した仲」なのだ。



 なぜこの時期に『流星ひとつ』を出したかの理由について、沢木は
インターネット上の動画では、藤圭子のかつての美しい容姿や歌声を見たり聴いたりすることができるかもしれない
 とした上で、「だが」と続ける。

彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、1枚のスナップ写真になっているように思える
 とし、娘宇多田ヒカルが、この本を読むことによって初めての藤圭子に出逢えるのではないかと結んでいる。(太字は沢木のことば、そのまま。)
 
 私もそう思う。宇多田ヒカルは、精神を病む前の母親の、権力に媚びない、実にかっこいい精神を見て、我が母に惚れなおすことだろう。ここにある藤の姿はヒカルが生まれる前の、知らない時代の輝きだ。
 
 だがこれは元夫・宇多田に元恋人・沢木がケンカを売ったことにもなる。「アンタは藤圭子は精神を病んで自死したと言っているが、おれはアンタが出会う前の、最高に輝いていた藤圭子を知っている」と言っているのだ。それを本にしているのだ。しかも「元恋人」が。

 藤は、デビューした頃が40キロ、その後は沢木とのインタビューのころの28歳時でもずっと36キロというか細い躯である。私は、藤の肉体にデビューのころから興味はなく、よからぬ妄想を抱いたことすらないが、すくなくともそれを沢木は宇多田よりも前に知っている。その男の、いまになってのこの発言は、元亭主にとって気分のいいものであるはずがない。
 沢木はこの本を宇多田に贈ったらしい。宇多田がそのことにツイッターで触れ、批難しているのも当然の流れだった。



 藤圭子の自殺、親族だけによる葬儀、そして毎度あの一家では定番なのだが、波風を立てる藤の実兄の発言、それに反撥する宇多田父娘の発言、藤の死後、あいかわらずのニュースが続いたようだ。(私はそれらに興味を持って追ったわけではないが、海外から帰国後ネットで調べてそれなりに知った。)
 精神が不安定で、奇行が続き、結果的に年下の男性と同棲していた新宿のマンションから飛降り自殺、という藤圭子の結末は、なんともかなしいけれど、彼女の最後らしいとも思っていた。
 
 しかしそれだけで片づけられ、忘れ去られて行くとしたら、あまりに気の毒だ、自分の知っている藤圭子の透明な精神を伝えたい、という沢木の気持ちもわかる。私はこの本を読んで良かった、よくぞ出してくれた、と思っている。あの衝撃のデビューのころを思い出し懐かしんだ。いい本だと思う。しかしまた家族の「おまえなんぞになにがわかるんだ!」「今更でしゃばるな!」の気持ちも解る。



 そしてまたifとして、あのとき約束通り沢木がアメリカに行き、ふたりが一緒になったなら、藤にはまったく別の人生が展開した、精神を病むことにもならなかったかもしれない。いや、関根と河村が破綻したように、藤と沢木も長続きしなかったかも知れない。どんな道をたどっても、けっきょくは藤は宇多田と出会いヒカルを産んだのかも知れない。

 元夫が藤と沢木のことをどこまで知っているか(=藤がどこまでしゃべったか)知らないが、心の奥底には「おまえだけには言われたくない」のような気持ちもあったのではないか。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考.20──l『流星ひとつ』と出会った多摩センター

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 私が『流星ひとつ』という沢木耕太郎の本を目にしたのは、初めて行った京王多摩センターという駅の本屋だった。啓文堂。2013年10月10日午後1時。藤圭子の自殺から二ヵ月ちかく経っている。
 
 多摩センターというのは奇妙な街で、駅前のあたりを歩いていると、まるでゲーム「SimCity」の一員になったかのような錯角を覚えた。もともとそういう理想の街を夢見て、なにもない地に未来的に開発されたものなのだろう。定木で引いた直線で作ったような人工物。あのときの奇妙な感覚はいまも覚えている。開発されたのはもうだいぶ前のようだし、長年あそこに住んでいるひとは、こんなことを言われても困るだろうが、私が初めて訪れたこの駅前で、SimCityの一員になったような錯覚で目眩がしたのは事実である。私にはとても住めない町だ。



 翌日、今度は板橋の大山というところを訪ねた。こちらも初めての町である。こちらは対象的に、細い路地がうねり、ごみごみした感じの、江戸時代の宿場町、女郎町として栄えた板橋宿の雰囲気がいまも残るようなところだった。ほっとする。ここなら住んでみたい。すこし住んだらすぐに馴染みの居酒屋が二、三軒出来るような親しみやすい感じを受けた。

 『流星ひとつ』を、その奇妙な感じを受けた多摩センターで買ったというのは私の中でワンパックになっている。藤圭子を、『流星ひとつ』を思い出すたび、「あの奇妙な街、多摩センターで買った」と思い出すことだろう。

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「おっ、沢木の新作だ。藤圭子の本か」と立ち読みを始めた。まずはあとがきを読み、それが三十年以上前のインタビューであることを知る。今まで刊行されてない沢木の数少ない作品である。何年か前「沢木耕太郎全集」発刊時に初収録をしようかと思い、許可を得るために世界のどこかにいるはずの藤圭子の連絡先を探しまくったが見つからず、断念したと書いてあった。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考絵; 峅和宍里と関根恵子の逃亡劇」の影響??

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 『流星ひとつ』を読んでいると、育ちも、今まで歩んできた経歴も、すべてが異なる沢木と藤が、たがいにあまりにちがうからこそ、ことばを交しつつ、次第に惹かれあって行く様子がびんびんと伝わってくる。それを読みつつ「河村季里と関根恵子」を思い出した。

 あのころ雑誌「GORO」で作家・河村が女優との対談をやっていた。河村が人気女優に真正面から露骨なほどに性体験と、その現場を問う。女優もそういうものと承諾しての出演だから、腹をくくってペッドでの自分を赤裸々に語る。なかなかに刺戟的な人気企画だった。
 そのうちのひとりの関根と河村は恋仲になり、ふたりは岐阜の山奥で隠遁生活を始める。その暮らしは二年間ほどで破綻する。いや文明と縁を切ったかのような二年は充分に長かったと思う。
 だが芸能界に復帰した関根は、またしても主演の舞台を、開幕前夜に抛りだして行方不明となる。後に海外に逃亡したとわかる。同行した男は別れたはずの河村だった。当時、大きな話題となった。



 あのときの対談の雰囲気が『流星ひとつ』の沢木と藤に似ている。

 関根は北海道の田舎育ちで美貌の無学な娘である。15歳のとき映画「高校生ブルース」で主演デビュー。いきなりヌードになったことも話題になった。河村と対談したときは21歳ぐらいか。その前に「初体験は小学校6年」と発言していたが、この時の対談でそれが強姦であったことを告白している。立て続けにヌードになり奔放な女優と言われていた。いろいろと自分のありかたに悩んでいたらしい。
 河村は知的な作家(作品を読んだことがないので知らないけど)であり、博識な年上の男性である。32歳。

 互いに自分にはないものに惹かれあう。あのとき関根は河村に自分を導いてくれる光を見たであろうし、河村は光り輝く珠を掌中にした気分だったろう。そして突如芸能界を引退しての山中での隠遁生活。
 二年間のそれは、「関根の河村からの卒業」という形で幕を下ろす。

 河村と別れた関根は芸能界復帰する。まずは舞台に起用された。なのに主演舞台初日前日に失踪する。ひさしぶりの芸能界復帰、初の主演舞台の重圧にパニックになったのは解るとしても、こんなことをされたらたまらない。関係者、競演者は途方に暮れたろう。後にふたりはタイのバンコクに潜伏しているのをマスコミに発見される。まともなら芸能生命は終りだろう。
 しかし芸能界というのはそれを許してくれる。やがて関根はまた復帰し、出演作で知りあった高橋伴明監督と結婚する。ふたりのあいだに出来た娘は子供を産み、関根(現高橋)にはもう孫がいるというから、私はいまずいぶんと旧い話を書いていることになる。


 
 同じような形で、関根に似た環境に育ち、同じく好き放題のことをマスコミに伝えられながらもじっと耐えてきた藤28歳が、今まで出会ったことのない知的な男性として、沢木31歳に惹かれてゆく感覚が、『流星ひとつ』から、染みこむように伝わってくる。



 私は、関根の舞台放棄、河村とのタイ逃亡劇を伝えるマスコミ情報をリアルタイムで見聞した。当時、週刊誌やテレビの芸能ニュースも大騒ぎしていた。かといって今、詳細な時期まで覚えているわけでもない。今回確認して驚いた。この沢木の藤圭子インタビューがなされたのと同じ*1979年なのである。

 取材者と取材対象者の枠を越え恋愛関係に陥った藤と沢木は、先に藤がアメリカに行き、あとから沢木が追って、アメリカで落ちあうはずだった。しかし心変わりした沢木が渡米をやめ、アメリカにいる藤は梯子を外された状態になった、というのがふたりの「恋愛の顚末」として今も伝わる話だ。そして傷心の藤が知りあうのが宇多田だと……。

 沢木が翻意する理由に、「関根恵子の逃亡劇」は関係あっただろうか。
 当時の沢木は最高の伸びしろを期待され刮目されるノンフィクションライターとはいえ、まだまだ若手である。一方の藤は、何のかんの言おうと芸能的にはスターだ。衝撃のデビュー、社会的話題となったあのころから十年が経っている。しかも突然の引退で注目されている。もしもふたりのそれが実行されたなら、「引退した藤圭子は、アメリカで新進気鋭のノンフィクションライターと同棲中」と週刊誌やテレビの恰好の話題となったろう。この時点でテレビを見る多くの視聴者は沢木耕太郎なんて知らない。扱いは「関根恵子と河村季里」と同じである。そんなことをあの誇り高い沢木が受けいれるはずがない。

 河村季里・関根恵子の「愛の逃亡劇」と、スキャンダラスにそれを伝える芸能マスコミを見て、沢木が冷静になり、藤との恋愛をあきらめた、という解釈はなりたつだろうか。(続く)

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【追記】──*1979年について

  この文は最初「GOROで対談した関根と河村が恋仲になり、舞台を抛りだした関根がタイに逃亡したのが1979年」と書いた。しかしどうも心の奥の記憶がすこしちがうぞと囁いてくる。私の記憶では、《GOROで知りあった関根恵子と河村季里は、長野だか岐阜だかの山奥で文明とは懸け離れた生活を、2年か3年した後、それが破綻してふたりは別れる。関根は芸能界に復帰する。しかしそれがうまく行かず、またも仕事を抛りだして行方不明になる。関根と一緒に逃避行した男は誰かと思ったら完全に切れたはずの河村だった。しばらく後、タイのバンコクに隠れているところを芸能マスコミに見つかる。》となる。

 いろいろ調べてみたが、盒況短劼「河村季里」という名を自分史から消してしまっているので判りづらい。数年前、東スポに連載した自伝(語りを記者が構成したもの)でも、岐阜の山奥での生活は、自分ひとりでしたかのようになっていた。ここまで完全に存在を消されてしまうと河村が気の毒になる。でもそんなものか、世の中。
 とりあえず「1977年から79年まで岐阜県の山奥で晴耕雨読の日々を送っていた」とわかる。私にとってスキャンダラスなのはこっちだった。「関根恵子事件」というものがあるとすると、私には、「舞台放棄事件」よりも、突如引退して山奥隠遁生活を始めた1977年になる。

 79年に芸能界に復帰したが、またも舞台をすっぽかしていなくなる。後に発見されたのはタイだった。どうやら私の記憶にまちがいはないようだ。最初に書いたように「愛の逃避行」を1979 年にすると、山奥での隠遁生活はその後になってしまうのだが、そうではない。77年からふたりは岐阜県でそれをしていた。79年のそれはその後の話である。

 いずれにせよ沢木は、1979年の芸能スキャンダルであった「関根と河村のバンコク逃避行」も、その前の1977年の「対談をきっかけにして親しくなり、突如引退、山奥での隠遁生活」も知っていただろう。スキャンダラスに報じられたそれが藤と沢木の恋愛に多少は影響したであろうか、という話だから、年代はこれでいいことにする。 以上、すこし気になったので追記した。

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【補記】──つい先日、この当時の「GORO」で沢木も仕事をしていたと知る。となると、齢の近い同業者の河村と親しかった可能性もあるし、上の文を書いたとき私は、《沢木は「関根・河村事件」を芸能事件として、それなりに知っていたのではないか?》と推測したのだが、当時の「GORO」の執筆者だったのだから、もっと身近な事件だったことになる。それがふたりの破綻の原因かどうかはともかく、「関根・河村事件」を沢木が意識したのはまちがいないだろう。(2015/1/6)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考襖;‖尻エリカのふてくされた「別に」と、藤圭子の肝の据わった「別に」

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 このインタビューは、沢木が若かったのか、それとも意図的なのか、かなり彼の青い部分が出ている。たとえば「お金なんかいらない。お金なんかなくても暮らして行ける。あったらじゃまだ」のような乱暴な意見を沢木がいい、金銭で苦労してきた藤が生真面目に、「そんなことないよ、お金は大事だよ、お金はあったほうがいいよ」と応えたりしている。

 藤はこどものころ生活保護を受けていたことを言い、まったくお金がなかったから、祭りの後の寺社に出かけ、5円玉10円玉を拾えたよろこびを語っている。藤は28歳のこのころ、ろくでもない男に貢いでしまう自分、なんでもひとにあげてしまうことを語っている。「新宿の女」でデビューした頃はまだ処女であり、その歌の中身とは無縁だったが、21で前川と離婚してからは、もろに「新宿の女」の歌詞そのものの恋愛をしていることを吐露している。

※ 

 仕事に関しても、沢木のほうが保守的な意見を言う。藤は「紅白歌合戦に落選した。おおいにけっこう。NHKは自分を必要ないと拒んだ」と解釈する。だから藤は「もうNHKには一切出るのをやめよう」と思うのである。ところがプロダクションの社長やマネージャーは「とんでもない」となる。なんとかまたNHKに出させてもらおうと頭を下げるのだ。そんな連中を藤はくだらないと思う。もしもそのとき賛同して、一緒に行動してくれるスタッフだったなら、自分の芸能人生もちがう展開になったはずと。

 藤の一本気な意見に、沢木が「NHKに出られなくなってもいいの?」と問う。その種の問いに藤が連発するのが「別に」なのだ。ここで沢木から「まったく、女にしておくのは惜しいほど男っぽい」という讃歌が出る。


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 「別に」と言えば近年では沢尻エリカである。しかしその30年以上前に「別に」の元祖がいたことになる。
 沢尻の「別に」は、映画「クローズドノート」の公開の場で出たものだった。司会者から感想を問われる。立場上そつなく受け答えすべき場なのに、そっけなく「別に」と応えたことから紛糾したのだった。

 沢尻はあの噴飯物の朝鮮映画『パッチギ』の、「かわいい朝鮮娘役」で名を成した。しかしまあよくもあの役に沢尻を起用する。きれいすぎる。あれは若作りした柳美里に制服を着せればいい(笑)。容姿的にもそのほうが適役だ。

 沢尻は、美貌のヒロインとしてすでにいくつもの作品に出ていたが、それなりの大作?の本格的主演はこれが初めてだったのだろう。今回調べて、私がレンタルヴィデオで見た「間宮兄弟」にも出ていたと知る。そうだったか。うん、出ていたな、そういえば。
 これは「パッチギ」で名を売った沢尻の勝負作だった。いかにもな芸能人なら、試写会の場で、涙を流して感激せねばならない。なのに「別に」だったから問題となった(笑)。
 その後一転して涙を流して謝ったりしている。だったら最初からやるな。いずれにせよガキのふて腐れの領域を出ていない。でも彼女もまた藤圭子に通じる「芸能界の体質と合わないひと」ではあるのだろう。



 藤圭子話とは関係ないが、この「クローズドノート」ってのはひどい映画だった。当時、あまりに腹立ったので怒りの感想文を書き始めたのだが、くだらんことにエネルギーを使うのはよそうとやめた。これがろくでもない映画だという持論を引っこめるつもりはないが、といってそれは沢尻の責任ではない。沢尻も竹内もきれいだった。満点だ。京都の町並みも美しい。その辺に問題はない。根本的な疑問は、そもそもこの物語が成立しているのか、ということにある。なんともアホらしい映画だった。原作はどうなのだろう。まともなのか。読んでいない。
 沢尻の作品ならこのあとの「ヘルタースケルター」のほうがずっといい。マンガのイメージをよく出している。


 
ryusei

 沢尻のそれと比すと藤の「別に」は肝が据わっている。
 藤が「別に」と応えるのはすべて前記のような他者との関わりの場面だ。藤は一歌手として素朴に歌って行ければいいと思っている。人気を得るために高視聴率のテレビ番組に出たいとは思っていない。大権威のNHKに阿る気もない。芸能雑誌に媚びを売る気もない。ドサ周りの演歌歌手として、そこそこ食える程度のものがもらえて、好きな歌が歌えればそれでいいのだ。マスコミの寵児でいたいと思っていない。マスコミなど信じていない。関わりたくない。ウソばかり書かれてきた。これからもウソばかり書いていろと突き放している。沢木が「そこまで言ってしまっていいのか」と心配するほどだ。

 このインタビューでは、沢木のほうが俗物に成り切り、上手にその藤の侠気を引き出している。
「芸能界を引退してだいじょうぶなの、お金入らなくなっちゃうよ?」
「NHKとケンカしてだいじょうぶなの、NHKに出るってすごく価値があるんじゃないの?」
「週刊誌を冷たく突き放してだいじょうぶなの、機嫌をとっておいたほうがいいんじゃないの?」
 俗的な心配をする沢木に、藤が連発するのが「別に」なのだ。「また出たね、得意の『別に』が」と沢木が苦笑する感覚でインタビューは進展して行く。

 それら、会話のあいまから、沢木が「女にしておくのはもったいない」と感嘆するほど筋の通った考えの一本気な藤に、次第に惹かれて行く様子もまたくっきりと見えてくる。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考烏;^退後、勉強したいと願う藤圭子

ryusei

 『流星ひとつ』の構成は、「沢木耕太郎が藤圭子にインタビュー」というよりも、ホテルのバーで酒を飲みつつ、ふたりの自然な会話のような形で進行する。そんな中、藤圭子が連発する「別に」が新鮮だ。

 沢木がこのインタビューを思いついたのは「なぜいま藤圭子が芸能界を完全引退する必要があるのか!?」という素朴な疑問からだった。藤はしばらくかつてのような大ヒット曲は出していないが、演歌歌手としては安定期であり、いわばいちばんオイシイ時期である。『流星ひとつ』でも28歳のいま、年収が5千万であることを明かしている。その環境を捨て、なぜそれほどに引退を急ぐのか!?



 そのしばらく前に沢木は藤と狃藺侈稔瓩靴討い襦Fと面識のある友人に頼み、パーティ会場でことばを交わしているのだ。そのとき藤は「引退しようと思っている」とつぶやいた。

 しばらく後に、テレビでの引退会見となる。それを見て沢木はインタビューを申しこむ。インタビュー嫌いの藤だったが、受けいれられて実現した。



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 この時点で藤は、今までさんざん経験してきた、毎回同じ事を聞いてくるインタビューというもののつまらなさ、あらかじめ結論を出していて、そこに誘導しようとする芸能マスコミのくだらない構成に呆れはてている。なのに沢木の申しこみを受け、沢木の著書「敗れざる者たち」を読んでその場に臨むのだから、互いに惹かれあうものが初対面の時からあったのだろう。読んできたことを藤が言うと、読んでくれたんだと沢木もうれしそうに反応している。最初から気が合ったのである。

 引退して、これからやりたいことを問うと、藤は「笑わない?」と確認してから、「勉強したいんだ」と語っている。アメリカに渡って英語を学びたいと。「遅いかな?」に、「そんなことはない」と沢木は励ます。

 藤は学校の勉強が出来たという。父母の手伝いでどさ回りをし、出席もままならなかったが、成績は4と5ばかり、3を取ったことはないと語っている。勉強が出来たのに進学できなかった彼女にとって、あらためて勉強したいというのはあたらしい世界への希望だったのだろう。そしてまた心底うんざりしていた日本の芸能界、マスコミと縁を切るために、アメリカを選んだのも自然だった。 (続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考姶‖木耕太郎と藤圭子の恋愛

ryusei

 単行本「流星ひとつ」の構成は、ホテルのバーでの一夜インタビューのようになっている。ウオトカのソーダ割を飲みつつ、章タイトルを「火酒」とし、「1杯目(第1章)」「2杯目(第2章)」と進んで行く。インタビューは一夜限りのようになっている。むろん叮嚀な仕事をする沢木がそんな雑なことをするはずがない。そういう体裁、構成を取っただけで、実際には場所を変えつつ、長い時間を掛けて、何度もインタビューされて仕上げられたものだ。

 その何度かのインタビューというふたりだけの時間に、沢木と藤は恋愛関係に陥る。引退した藤がアメリカに渡ったのは、あとから沢木が来ることになっており、それを待っていたからだ。だが土壇場で沢木は心変わりし、渡米しなかった。
 傷心の藤は、後に宇多田と出会い結婚、娘ヒカルが生まれて、というのは長いあいだ囁かれている話である。



 今回この「流星ひとつ」を出したことにより、その話題は再燃した。沢木に確かめようとしたマスコミ人もいた。沢木は「当時お互いに惹かれあったのは事実」とまでは認めつつ、「でも恋愛関係(=肉体関係)にはなかった」のようなコメントを出している。
 
 その真偽を探る必要はない。それはこの「流星ひとつ」を読めばわかる。今回の出版に当たり、なにしろあの完全主義者の沢木耕太郎であるからして、原稿には相当に手を入れ、それらの痕跡は隠したろう。
「たった一冊の本」をアメリカの藤に送ったとき、それを読んだ藤が「あのあとがき、大好きです」と返事を寄こしたと、そのことには触れながらも、肝腎の当時のあとがきは、紛失したとして出していない。巧みとも言えるし、狡猾とも言える。

 この本が出た頃、それは卑怯だ、狡いと批難したブログ文を読んだ。たしかに肝腎のそこから逃げてしまっているのはずるい。といって正面切って出すことも出来まい。
 しかしそれでもここには「互いに出会ったことのないタイプ」として、もろに惹かれあう男女の息吹が色濃く漂っている。それで十分ではないか。新進気鋭のノンフィクションライターのインタビュアーとインタビューされる引退間近の芸能人、ではなく、互いに人生を語る恋人同士であることが、びんびんと伝わってくる。マスコミというものを信じず、芸能週刊誌にさんざんウソばかり書かれてきた藤が、「こんなひともいるんだ!」と沢木に惹かれてゆく様子が、沢木がまた、芸能界という特殊な世界なのに「こんな透明な感性をもったひともいるんだ!」と惹かれて行く様子が、痛いほどに伝わってくる。思わず、「おいおい、熱々だねご両人」と、グラス片手に見つめあっているふたりに嫉妬して茶々を入れたくなるほどだ。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考──出来上がった『インタビュー=流星ひとつ』が発刊されなかった理由

ryusei

 藤圭子の突然の引退表明を知った沢木耕太郎はロングインタビューを申しこみ、受けいれられる。
 沢木が常に考えていたことはノンフィクションにおける「独自の方法」である。藤に対するこれは「インタビューだけ」で構成し、タイトルもそのまま「インタビュー」とする予定だったとか。つまりこの時点で──それはプロとして当然であるが──沢木は引退表明した藤に興味を持ちつつも、同時に自分のあたらしい手法への実験も強く意識していたことになる。しかし時と場を変えつつ、彼女に何度もインタビューしている内に、引退の決意の変らない藤の決意、「女にしておくのはもったいない」とまで感嘆する藤の侠気と潔癖さに、『流星ひとつ』というタイトルを思いつく。


 
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 このとき沢木は31歳、藤28歳。それまで沢木はもうすぐ新聞連載が始まる「一瞬の夏」(私小説+ノンフィクション=私ノンフィクションと呼ばれた、あのボクサー・カシアス内藤との話ですね)を、連載開始前に完全に完成させてしまおうと全力投球していた。しかしすでに体験済みの話である「一瞬の夏」よりも、これからの話である藤との対談をまとめることに夢中になり、それを抛りだして、この「インタビュー」を仕上げようとする。

 500枚を超えるそれは完成した。発刊準備OKである。が、「ここまで芸能界及び芸能マスコミを批判しているこの本を出したら、彼女が復帰するときの障害になるのではないか」と沢木は、「藤のもしかしたらの芸能界復帰」を懸念して出版を断念する。それほどここで藤は、芸能界の体質、芸能マスコミのどうしようもない下衆な部分を厳しく批判している。



 一冊だけ作ってアメリカに渡った藤に送った。そしてこのインタビュー構成の作品は、2013年10月という藤の死の二ヵ月後まで34年間眠ることになる。沢木の唯一の未刊行作品である。実際に藤は、二年後に芸能界に復帰したから、藤が芸能界や芸能マスコミに対して厳しい意見を言っているこの本が出なかったことは、復帰のためには役だったろう。

 いま読んでも、じつに手厳しく芸能界、芸能マスコミを批判している。そしてまた藤の発言を支持する気持ちになる。それほどこの世界はいいかげんだ。私は週刊誌の記事のつくりかたにうんざりした。
 しかしそこまで批判しながら、藤はこのわずか二年後には芸能界に復帰するのだ。もしも『流星ひとつ』が発刊されていたら、藤の復帰は難しかったろうし、よりひどいバッシングを受けたろう。しかしまた、発刊されていたら、沢木との恋愛が成就していたなら、藤は芸能界になど復帰しなかったかも知れない。



 さて、沢木がこれを発刊しなかったのは、もしかして復帰するときのために、という「藤圭子のため」だけだろうか!?
 ふたりの恋愛は成就しなかった。沢木が藤を追ってアメリカに行かなかったからだ。約束を反故にした。
 沢木がこの本を出さなかったのは、「藤圭子のため」以上に、「沢木耕太郎のため」ではないのか。

 数年前、沢木は初めて出される自身の「全集」にこれを収録しようと思った。藤から了解をもらおうと探したが外国を放浪している藤が捕まらず断念した、という。これも「もう今ならこれを活字にしても、沢木耕太郎ブランドが傷つくことはない」という判断からだったのではないか。藤と沢木の恋愛はもう遠い過去の話だ。藤は母として宇多田ヒカルという傑物を送り出し、沢木も家庭を築きノンフィクションの雄として聳え立っている。今ならこれを世に出しても、藤も沢木も傷つかない、そういう判断での「全集収録」ではなかったか。



「なぜ今!?」と問われる34年後の出版を、沢木は、「流星ひとつ」の後記で、精神を病んで自死した藤の、病んでいない時代、透明な精神の時期を、藤のファンに、とりわけ娘の宇多田ヒカルに知らせたかった、と主張している。

 しかしそれはあまりに都合のいいキレイゴトではないかと、死後タイミングよく発売されたこの本に対する批判も生じる。ノンフィクション界の雄である沢木と、自死してしまった、かつて格別の光を放った演歌界のスターのインタビュー構成の本だけであるなら、そんな批判は生じなかった。だがふたりは、このインタビューをきっかけに恋人同士になっていた。それは誰もが知っていたことである。そのことに一切触れず、「透明な精神の時期を知らせたい」では、いくらなんでも、となる。ずるいという批判は当然のごとく起きた。 (続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考──あらためて、もうひとつの「流星」、石坂まさを

 『流星ひとつ』の中で藤は、「女のブルース」の歌詞にしびれるほど感動し、曲も最高で大ヒット中なのに、なぜそのさなかに「圭子の夢は夜開く」を急いで出さねばならなかったのについて触れている。沢木も「女のブルース」を絶讃し、なぜあんなに次の曲を急いだのかと問う。あの時期、不自然なほど立て続けに新曲を出している。それもまた結果的には「流星伝説」に彩りを添えているのだが……。

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 どうやらこれは作詩家・石坂まさをの個人的トラウマ?が優先された結果らしい。当時私も、藤のオリジナルが好きだったから、世間的にはあの「十五、十六十七と、あたしの人生暗かった」が話題になったけど、「あんなにいいオリジナルがあるのに、今さらなぜむかしの歌の焼き直しをするのだろう」と疑問だった。「夢は夜開く」は園まりでヒットした手垢の着いた過去の曲だ。なぜそれの焼き直しを新星の藤圭子がせねばならないのか、しかも、ヒット中のオリジナル「女のブルース」があるのに、なぜそんなに急いで出さねばならないのか。



 石坂のトラウマとは。
 「夢は夜開く」は競作だった。それは覚えている。当時いろんなひとが歌っていた。バーブ佐竹を覚えている。だいぶ後になるがフォークの三上寛も自分の詞で歌う。最終的な勝者──というかスタートからゴールまでぶっちぎりだったらしいが──は園まりだった。だがあれはもっともっと多くの歌手が作詩家が挑んだ、たいへんな競作合戦だったらしい。曾根公明がネリカンで採譜した歌い継がれてきたこなれたメロディに、多くの作詩家が挑んだ。その中のひとつに売れない作詩家である石坂も関わっていた。結果は大敗だった。石坂はそれが不本意であり、納得できるだけの詞を書けば自分のものが認められる自信があった。

 藤圭子という絶妙の素材を得て、石坂はもういちど挑んだ。それが「女のブルース」が大ヒットし、高い評価を得ているのに間を置かず「圭子の夢は夜開く」をシングルで出した裏事情である。その他、一番が、ギターだけの弾き語り風に始まるのが藤のアイディアであること、「昨日マー坊、今日トミー」の歌詞が藤の実話からインスパイアされて石坂が書いたことなどが『流星ひとつ』で語られている。

 結果として、あの大ヒットにより、「夢は夜開くは園まり」だった世間常識を、自分の作詞した詞の「夢は夜開くは藤圭子」に変えたのだから、石坂としては仇討ち成就の心境だったろう。


 
 藤圭子の師匠としての大成功により、石坂は演歌のヒットメーカーとして息の長い活躍をするものと思った。まだ二十代の若さであり、曲も書けるのである。なかにし礼や阿久悠のような存在になるのではないか。彼らのようなオールマイティの作詩家ではないが、なら星野哲朗のような、独自の分野の大家として名を成すのではないか。そう期待した。いや期待じゃなくて、もうそんなの決まり切っていることと思った。

 いま、石坂は一応歌謡曲史的には大物であり、Wikipedia的には「ヒットを連発」となっているが、前記の大物作詩家と比したら、短い頂点の流星であり、その頂点がが藤のこの4曲であったのはたしかだろう。



 売れない作詩家だった三十歳前の石坂が、藤という素材と出会い、それまでにつもりつもった情熱を爆発させ、すぐれた作品を連発し、一瞬にして燃えつきた、という感じが、私にはする。これまた牘絏劉瓩世辰拭「十五、十六十七と、あたしの人生暗かった」は、藤よりもむしろ中卒で作詩家を志し、ここまで耐えてきた石坂の心境だったろう。
 演歌の作詩家であるから、本来なら四十代五十代にもっと熟した作品を出すはずなのだが、それもない。藤と一緒に燃えつきたひとのように思える。そしてそれもまた「藤圭子伝説」の一端を担っている。石坂が、ポップスの作詞までこなす器用な息の長いヒットメーカーとなり、いまも健在だったなら、藤の伝説もまた色を変えてくる。しかしそんなことはない。藤と石坂は双子の流れ星だったのだから。



 藤の自死を知ったとき、私は自分なりの藤圭子の思い出、あの衝撃の登場の時代を書いておきたいと思った。仲間うちでの読み物として、ホームページのほうにひっそりと書くつもりだった。数日が過ぎ、そんなことに意味はないかと書く気が失せた。しかし二ヵ月後、緊急発刊された沢木の『流星ひとつ』を読んで、やはり書いてみたいと思うようになる。そうしてさらに半年餘の時をおき今こうして書いているのだが、最初に書きたいと思ったときから、常に心を占めていたのは爐發Δ劼箸弔領星畧从笋泙気鬚里海箸世辰拭それをここに書いたので当初の目的の半分は達成されたことになる。



 当時、藤圭子の師匠として二十代の石坂さんの写真を初めて雑誌で見たとき、「漫画家の赤猊堝麌廚忙ているな」と思ったことを覚えている。ネットで探したが若い頃の写真は見つからなかった。でもこの写真からも雰囲気は感じてもらえると思う。

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 2013年3月、藤と同じ年に亡くなっている。訃報に接し、藤はコメントを出したのかと探したが見つけられなかった。それは私が検索下手だからでもあるが、たぶん出していないと思う。そのほうがいい。燃えつきた流星同士、お決まりの形式的なコメントなどないほうがいい。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考──石坂まさをの輝き「女のブルース」

 私の思う巨大な流星・藤圭子と並ぶ爐發Δ劼箸弔領星瓩任△訐从笋泙気鬚里海箸鮟颪海Δ箸靴討い燭蕁藤圭子の最初の夫である前川清との結婚話にズレてしまった。ともあれ、今も藤圭子が、いや今はもういないから、「離婚後も後々まで」とするか、元亭主の前川の人間性のすばらしさ、歌手としての秀でた能力を絶讃していたことは気持ちのいい話である。

『流星ひとつ』では、28歳で引退を決めた藤がそれを前川に伝えに行き、前川がよろこぶ様子が語られている。前川は藤が芸能界にあわない体質であることを前々から指摘しており、結婚の時も引退を勧めたのだとか。
 ふたりの結婚生活は、藤の年齢だと19歳から21歳までの2年間。離婚して7年経っている元亭主に引退を伝えに行く元女房。離婚後もずっと良好な関係だ。ほんとにふたりは男と女ではなく「ともだち夫婦」だったのだろう。
 
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 藤圭子のヒット曲「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜開く」「命預けます」は、作詞家・石坂まさをの最高傑作である。「新宿の女」と「命預けます」は曲も石坂が作っている。ソングライターである。
「女のブルース」の曲は猪俣公章。(ATOKが爐い里泙燭海Δ靴腓Ν瓩鮟个擦覆い里Google日本語入力に切り替える。一発で出た。さすがである。何度も何度も書いているが、ATOKさんよ、モーニング娘やAKBのメンバー名を出せると自慢する前に反省すべき事があるだろう)。
「女のブルース」はK鷓酩覆涼罎任盞羣遒陵世譴高い。もちろん石坂作品としても最高だ。



 私は演歌の、BLuesでもないのにブルースと名乗る一連の曲が好きではない。でもこの「女のブルース」はすごいと思う。これはこれでBlues形式になっているからだ。

 本家の12小節Bluesの詞は三行が基本である。簡単な例だと、
・「ああ、こんなところはイヤだ」
・「ああこんなところはイヤだ」と、4小節を2回繰り返し、そのあとの4小節で
・「おれは明日、ここを出て行くんだ」と落とす。

 次いで2番は、
・「だけどどこへ行こう」
・「だけどどこへ行こう」と繰り返し、
・「どこにも行くところなんかない」のように落とし、さらにまた続いて行く。基本、内容は暗い。黒人の牘絏劉瓩世ら。

 石坂のこの「女のブルース」の歌詞は、4行詞である。本家Bluesと同じく落ちがある。
 2回繰り返し、3行目で変化があり、4行目で落とす。Bluesの展開よりも起承転結と言ったほうがあっているか。

 たとえば3番の歌詞。

・ここは東京 ネオン町
・ここは東京 なみだ町

ここまでは繰り返し。ここからメロディはサビとなり、

・ここは東京 なにもかも

上昇し、昂揚し、爐屬襦爾広瓩箸靴董

・ここは東京 嘘の町

と、かなしい、見事な落ちがつく。

 字面ではなにも伝わらないが、これと猪俣の絶妙の曲が融合して、あの藤の凄みのある歌唱が加わると絶品となる。猪俣の3行目で盛りあげ、4行目で落とす曲もまたすごい。これを越える日本語の「なんとかブルース」は今後も出ることはないだろう。

石坂まさを作品──「女のブルース」の歌詞



「夢は夜開く」の作曲は曽根幸明(お、Google日本語入力も爐修佑海Δ瓩き瓩鮟个擦覆ぁそんな過去の人になったのか)。作曲というよりも、「練馬鑑別所で採譜した曲」という逸話が有名。多くの歌手が共作で歌ったが園まりのがダントツでヒットした。

「流星ひとつ」で知ったが、若い石坂は、これらのヒットしなかった共作のひとつに不本意な形で関わっており、「いつの日か満足できるオレの『夢は夜開く』を作ってやる」と意識していたとか。

「女のブルース」が大ヒットし、藤もこの詞も曲も最高と乗っていたから、間をおかず新曲のこの「圭子の夢は夜開く」を出すことは不本意だったらしい。 (続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考──前川清との結婚

 周囲の芸能人と肌が合わず、浮いてしまっていた前川と藤は、いつしか親しくなり、心を寄せあうようになる。ふたりのデートは、大ヒット曲が出てもまだ石坂のボロ家に住んでいた藤が、階下の石坂にバレないよう、二階からロープを伝って道路におり、前川の家に通う形だったという。では若い二人が寸暇を惜しんで燃えあがったかとなると、そうでもないらしい。前川はじっと鯉を見ているのが好きなひとだったとか(笑)。熱愛というより、互いに心を許せる存在を見つけたふたりは、ただ一緒にいるだけでよかったのだろう。

 前川との突然すぎる、早すぎる結婚発表は、ふたりの関係に気づいた石坂がネタとしてマスコミに売ったので、藤が意地になってのものだったらしい。この辺にも石坂と藤が決して「麗しい師弟愛」ではないことが見てとれる。


 
 藤は前川の人間性を今も絶讃している。しかし異性としては兄弟的な感覚が強かったと語っている。ときめくひとではなかったと。当時熱狂的な藤圭子ファンだった私の周囲の何人もが、自分のアイドルを奪われてしまう嫉妬より、「前川ならいい」と我が事のように祝福したのは、そこに男と女のどろどろした関係より、苦労続きの藤が、やさしく包んで守ってくれる兄ちゃんを得たかのように感じたからだったろう。もっとも「流星ひとつ」によれば、藤のほうは熱烈な前川ファンから脅されたりしてたいへんだったようだ。
 
 離婚後も藤は前川清の歌が大好きで、彼が紅白を落選したときは、「あんな日本一の歌手をなぜ落選させるのだ」と大泣きしたことを告白している。藤が前川の公演を見に行ったり、大絶賛するのを、沢木があまりおもしろくないような雰囲気が活字からも伝わってくる。後のふたりの関係を思うと興味深い。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考┬;,發Δ劼箸弔痢嵶星」、石坂まさを

 藤圭子を、芸能界を一瞬にして席巻し、巨大な光を放ちつつ、あっと言う間に流れ去った「流星」としたのは沢木の秀でた感覚だが、藤を流星とするなら、私は同時に「石坂まさをというひとも一瞬の輝きの流星だった」と思わずにはいられない。「藤圭子」を語るなら、私は彼女の初期の大ヒット曲を作詞し、一部は作曲も担った「石坂まさを」を語らずにはいられない。



 藤圭子を語るとき石坂まさをを語るのは常法だ。「一緒に世に打ってでた戦友」「最高の楽曲を提供した師」として、石坂抜きに藤圭子は語れないほどである。
 この文を書くのにネット検索したら、晩年の石坂は糖尿病から失明し満身創痍の状態だったとか。そんな中でも口述筆記で自伝を書いていて、その内容には「藤圭子母子に送る壮絶な檄文」とか、そんな形容がされていた。途中で亡くなってしまったので、いまのところ発刊の予定はないようだ。

 大ヒット曲を連発した藤と石坂は、やがて藤人気が鎮静化し(とはいえ演歌歌手はこれからが営業でまだまだオイシイ)、藤が専属のRCAを離れるときに縁を切っている。このとき石坂は「藤の移籍料」として数千万円を受けとったことが『流星ひとつ』で暴露されている。弟子の巨額の移籍料を師匠が懐に入れるのだから、この辺もキレイゴトの世界でないことがよくわかる。もっとも、その後にまた交友は復活したらしい。藤圭子というひとは、同じ男と結婚離婚を繰り返したり、常人にはわからない不思議な感覚をもっている。



 私が石坂に関して触れたいのは、そういう藤圭子の「師匠」や「戦友」としてではなく、ごく純粋に「シンガーソングライター石坂まさをの短い絶頂期」についてである。気分としては「藤圭子とは無関係に、シンガーソングライター石坂まさをの……」としたいが、さすがにそれは無理な気がする。藤圭子という素材を得ることによって石坂の才気が世に出たことは否定できない。なにしろペンネーム「石坂まさを」を使い始めるのも藤の作品からなのだ。悪声でありレコード会社に受けの良くなかった藤に注目したのも石坂の慧眼だ。やはり別々には語れない。しかしまた藤圭子の歌唱を抜きには語れないが、あの時期の石坂作品が最高の輝きを放つすぐれた演歌作品であることもまた絶対的事実だろう。前述した「女のブルース」は、藤の歌唱、猪俣の曲の良さもあるが、歌詞その物としても高い完成度を誇っている。

 あの時期、藤圭子という歌手を発掘し、コンビを組むことにより、作詞作曲家石坂まさをも、巨大な光を放った。それ以前の無名の時期、その後の凡庸さを考えると、石坂もまた流星だったと思える。



 藤と石坂を「デビュー前から同居」と書いたが、もちろんふたりは男と女の仲ではない。当時の石坂は27歳の売れない作詩家だった。まだ27歳ではあるが中学を出てからずっと作詩家を志して活動してきたから、それなりに年数を積んでいる。一応レコード会社の専属作詩家の地位は得ていた。ヒット曲はまだない。それが流しをしていた藤と出会い、惚れこみ、自分のボロ家に同居させ、自分の作品でのデビューの日を夢見るのである。同居は藤の母親も一緒だった。



 この「藤と石坂の初めての出会い」に関しても、クールな藤は『流星ひとつ』で伝説の定番を否定している。石坂がたびたび口にしていた、「流しをしている藤と劇的な出会いをし、衝撃を受けた。この娘にかけようと思った」のような発言を、「石坂さん、よくそう言うけど、その前に会っているんだよね」と暴いているのだ。といってそれは、絶縁した石坂のウソを暴くというような趣ではない。嘘をつくことなく、正直に、ありのままに生きたい藤圭子として、「石坂さん、あんなつまらないウソついてんだよね」と笑いとばす感覚だ。


 
 石坂のボロ家に同居してデビューを目指す、石坂・藤師弟だが、麗しい師弟愛ともまたちがうことが『流星ひとつ』で披露されている。石坂は女癖が悪く、女と見ると誰でも口説き、口説いた娘の隣に母親が居たら、それも口説き、それでいて口説いたことすら忘れるというとんでもないひとだったらしい。藤にも「ちょっと疲れたからあそこのホテルで休んでいこうか」と誘ったりしたとか。藤は「よくあの家にいて無事だった」と笑って回想している。それはなにもなかったからこその回顧だったろう。藤の初めての男は後に結婚する前川清だと言われている。後にごたごたしたとき、藤の父親もテレビでそう喚いていた。
 私はこどものころ貧しかったとかいうことよりも、マスコミに載せられ、あることないこと記者会見で喚いているこの父親を見たとき、しみじみと彼女の不幸な育ちを思った。金銭ではない。家族愛として。

 二人の結婚は、23歳と19歳の演歌界のスター同士の結婚である。これはすごいことだった。この時期にスターのふたりが一緒になるというのは聞いたことがない。
 いまも思い出すのは、私の周囲の藤圭子の大ファンがこの結婚を心から祝福していたことだ。「前川ならいい」と。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考Ж;‘7住劼離劵奪閥福嵜圭匹僚」から「京都から博多まで」

 藤圭子は47枚のシングルを出している。それはWikipediaのこちらで確認してもらうとして、私にとって彼女の歌は「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜開く」「命預けます」の4曲であることは書いた。

 それはWikipediaの項目からも推測できる。ここに登場する歌手や役者、監督等は、作品名の羅列があり、それなりの成果を上げた作品は、さらにそこから作品毎の項目にリンクされている。藤の曲も上記4曲はすべて青文字となってリンクされているが、その後はしばらく途絶える。だから異様なほどのブームがこの4曲で一息吐いたというのは私個人の感覚のみではなく数字的にも裏づけがあるのだろう。


 
 その後の彼女は、デビュー前から同居し共に歩んできた石坂まさを作品ではなく、あらたな作品提供者を探すことになる。そして当代一のヒットメーカー阿久悠の詞を経て、ひさびさに「京都から博多まで」がヒットする。
 なかにし礼の作品を歌ったり、「面影平野」では、阿木燿子・宇崎竜童コンビの作品を歌ったりしている。でもやはり上記4曲がすべて、と私には思える。

 なお上記の「リンクされているヒット曲」は、4曲目の「命預けます」のあと、1年後に石坂作詞の「みちのく小唄」というのがあり(私はこの曲を思い出せない)、その7カ月後、1972年1月に新路線で阿久悠に詞を頼んだ「京都から博多まで」がある。自分が「みちのく」を知らないからというのは強弁だが、藤圭子という歌手は、シングル4枚目、1970年1月の「命預けます」のあと、1972年1月の11枚目のシングル「京都から」までヒットが途絶え、これが最後のヒットになったと言えるだろう。「京都から」の後、1979年に一度引退し、1981年に復帰し、1997年10月の「男と女」まで47枚のシングルを出しているが目立ったヒット曲はない。

 私にとって藤圭子は、1969年9月の「新宿の女」から1970年7月の「命預けます」まで、一年弱の4曲がすべてなのだが、世間的にも彼女は、ヒットを出したのは1972年の「京都から」が最後の「活躍時期の短い歌手」と言えるだろう。



 『流星ひとつ』の中で、藤が「女のブルース」が大好きであり、それがまだヒットしているのに、なぜ「夢は夜開く」の発売を急いだのかわからないと語っているのが興味深い。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考Θ;.泪好灰澆離Ε宗∪吉紳个里海箸鮟颪という怖さ

 当時最高のベストセラー作家である五木が、これまた社会現象とまでなっていた藤圭子について語ったから、この発言は話題になった。週刊誌がそれを取りあげた。

 ところがそれは「怨みの歌で怨歌」と、五木の造語「怨歌」を前面に出し、藤圭子特集を盛りあげたまではよかったが、五木のことばをまったく逆に、「彼女の怨みは、これからますます増して行くだろう」と紹介していたのである。実際にラジオで五木の語りを聞いたものとして、「それはちがうよ!」と思った。「逆だよ」と。
 よくぞこんな逆のことを書けるものだとおどろいた。マスコミって信用できないんだと学んだ最初である。それまでの私は「マスコミは真実を伝えるもの」と思っていた。

 ところがタイムリーな五木造語の「怨歌」がひとり歩きを始め、誤りである「怨みはますます増して行く」のほうが定番として取りあげられてしまった。そりゃあ飛ぶ鳥を落とす勢いの藤圭子の「怨歌」の「怨」が、「もうすぐ消えて明るくなります」よりは、「益々怨念を深めて行く」としたほうが世間的にはおもしろいのだろう。五木は後々も自分はそうは言っていないとそのことを主張したが、転がり始めた雪達磨をとめることはできなかった。おそろしいと思った。


 
 深夜放送がブームになり、あたらしい若者の流行と話題になっていた。深夜番組をもっていた元フォークルの北山修が、そのブームに関し、「深夜放送が若者の傷口の舐めあいになってはいけない」と語っていた。これもしっかり自分の耳でリアルタイムで聞いた。
 ところが深夜放送を特集した(当時我が家で取っていた)毎日新聞には、北山の発言が「深夜放送は若者の傷口の舐めあいなんです」と語ったことになっていた。もちろん北山も次週の放送でそれを弁明し反論していた。しかし世間には毎日新聞の記事のほうが伝播力は遙かに強い。

 田舎の高校生が、マスコミはこんなことをするんだと学んだ二題である。



 そのころの時代、当時のスターへの想い、そこにいた自分への郷愁は、ひとそれぞれであろう。私の場合は、この「藤圭子」と「五木寛之の発言」と「まったく逆のことを報じたマスコミ」が三位一体となっている。「マスコミは信じられない」と教えてくれたのが「藤圭子」であり「五木寛之」だった。だからこそ藤圭子は私にとって他の演歌歌手とは異なる存在になる。

 ここで芽ばえたマスコミ不信が、日教組にすりこまれた自虐史観からの脱却に繋がって行くのだが、それはまだまだ先のことになる。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考エ;仝淕擺嫁靴瞭7住厦凄;´牘絏劉瓩箸いβじ

 当時「オールナイトニッポン」が皮切りとなり深夜放送ブームが始まっていた。私もニッポン放送の「オールナイトニッポン」の機関誌「ビバヤング」を送ってもらい毎晩それを聞きつつ受験勉強していた。

 そのころ、たしかTBSだったと思うが、五木寛之が藤圭子について語っているのをリアルタイムで聞いた。五木は「これは演歌というより、彼女の生きてきた道から生じる怨みの歌、牘絏劉瓩任呂覆い」と彼の造語である「怨歌」を披露し、「彼女の中にある怨みは、歌手としての成功とともに薄まり、やがて歌の中からも消えて行くだろう」と推測し、彼なりの「藤圭子論」を語っていた。藤圭子の経歴は、浪曲師の父と盲目の母に着いて、幼い頃から地方を流れあるいて唄っており、極貧の中、中学校も出ていない、ということになっていた。



「流星ひとつ」の中で、藤は中学をきちんと卒業していること、勉強が得意で成績はみな4と5ばかり、3を取ったことがないことを語っている。運動は苦手だが、それも筆記試験で稼いでしまうので4以上だったとか。
 またそれはどさ回りのあいまにも勉強したりする努力の結果ではなく、教室で教えてくれることはすぐに頭の中に入り、それが試験に出るのだから出来て当然のようなことを語っていることから、藤の明晰な頭脳、記憶力のよさがわかる。こういうきちんとしたひとには、理窟ではないアバウトな芸能界は辛かったろうなと感じた。



 私は五木の意見をなるほどと感心して聞いた。藤圭子は、森進一と青江三奈という、それまでは悪声と呼ばれていた先輩ふたりの成功がなければ世に出なかったと言われている。彼女はまず歌手としてすぐれているのだから成功は当然なのだが、爆発的な人気を得、社会現象にまでなったのは、その美貌としゃがれ声のアンバランス、不幸な育ちという背景も強く関係していたろう。成功とともに「怨歌」の「怨」は薄れて行くという五木の論は、田舎の高校生にも納得出来る意見だった。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考え;“慣欧糧少女ではあったが

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 高校の同級生に藤圭子ファンが何人もいた。『明星』や『平凡』に附いてくる藤圭子のポスターを部屋に貼っているヤツもいた。私にはわからない感覚だった。

 まず演歌というジャンルに興味がなかった。ビートルズとストーンズを聞いていた時代である。いや演歌というのかなんかジャンルの区切りがわからないが、たとえば三橋美智也の作品なら、わかるものもある。「達者でナ」は仔馬から育てた馬との別れを歌ったものだ。「古城」は、古い城のたたずまいを歌ったものだ(笑)。この発想は凄いな。「古城よ ひとり 何偲ぶ」と城を擬人化し、その胸中を忖度している。それが歌謡曲として存在し、ヒットするすばらしさ。今時のJpopなどより遙かに幅が広い。後にヒカワキヨシというゲイの創価学会員がその路線を真似ている。その他村田英雄でも北島三郎でも興味を持てる切り口はある。

 しかし彼女の歌はもろに夜のネオン街を唄うものである。いわゆる「ネオン演歌」だ。「新宿の女」の「わたしが男になれたなら わたしは女を捨てないわ」に田舎の高校生が共感できるはずがない。わかったらおかしい。もっとも唄っていた藤もまた処女であり、それでいてあの情感だから、五木寛之を始め多くの有名人が刮目することになる。


 
 そして容姿だ。「美少女」と話題になった。細身の美少女が淡々と凄味のある声で夜の世界を唄うからこそ話題になった。たしかに美人だったが、それは「江戸時代の美少女剣士」みたいな美しさであり、高校生が恋人にしたいと夢見るかわいらしさではなかった。とてもとてもひと目見たときから同い年とは思えなかった。私はいまも彼女の容姿に夢中だった周囲の連中の感覚がわからない。むしろこわくて近寄りがたかった。藤もこどものころからおとなびていた、「老けていた」と言われたことを『流星ひとつ』で述べている。

 だが彼女の歌声は、ネオンの世界のことなどなにもわからないビートルズを聴いている田舎少年にもたしかに響いてきたのである。 しみじみそれは凄いと思う。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考──一瞬の輝き、「藤圭子」という名の流星

 世間的には数数のヒット曲を誇る藤圭子、となるのだろうが、私には「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜開く」「命預けます」の4曲になる。この輝きの時期が私にとっての藤圭子だ。

「新宿の女」の発売が1969年の9月、「命預けます」が1970年の7月だからその間は1年もない。さらにはデビュー曲「新宿の女」は最初からはヒットせず、年明け発売の2曲目「女のブルース」、3曲目「圭子の夢は夜開く」のヒットと、それによる「藤圭子というまだ十代の新人歌手の独特の凄味」みたいなものが社会的事件となり見直されて売れだした曲だから1969年はカウントされない。となると、私にとっての藤圭子は、1970年の2月から8月という半年間だけになってしまう。巨大な輝きの流星だった。

 Wikipediaより。

ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は17週連続1位を記録。計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。


 まだ十代の新人歌手、それも演歌歌手のアルバムが、こんなとんでもない記録を残している。まさにそれは社会現象だった。巨大な流星だった。



shinjukunoonna
 私は4曲の中では「新宿の女」が一番好きだ。他の曲がネオン演歌らしいいかにもなマイナーメロディであるのに対し唯一のメジャーである。じつは原詩は石坂まさをではなく他のひとであり、石坂は「補作詞」であることを今回「流星ひとつ」を読んで知った。と書いていて、そういうことをあの当時芸能雑誌で読んだことを思い出す。忘れていたことが次々と浮かんでくる。
 
 藤圭子は演歌歌手でありレコードの売りあげ以上に営業(地方公演等)が大事だから、関係者にとっての頂点の時期はこのあとになる。注目される新人の時期は給料も安い。演歌歌手はヒット曲が日本国中に染みわたってからがおいしい。何十年か前のヒット曲をたずさえて地方興行をしている、忘れ去られたかのようなひとが、いまも年収何千万であるのはよくある話だ。山本譲二、細川たかし、瀬川瑛子、枚挙に遑ない。

 「流星ひとつ」の対談時期は、藤が引退を表明した28歳の時であり、当時の藤にヒット曲はなく、前記したようなヒット曲を歌っての地方興行が中心である。藤は現在の年収が5千万前後であることを明かしている。沢木は、それほどの恵まれた状況にいながら何故いま引退なのか、をテーマに迫る。

 しかしあの時期を一緒に生きたものとして、藤圭子の輝きは、私にはあの4曲が出た半年間になる。その感覚は彼女自身にもあり、咽を手術した24歳以降は「もうあたしの声じゃない」と語っていて、惰性のようなものであったから、ここでスッパリ辞めたいというのは、私にはわかる感覚になる。しかし芸能界と演歌の特性を考えたら、ヒット曲で地盤を築いた「これからがオイシイ時期」なのだ。なのになぜ引退なのか。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考※; 17歳」の価値

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 私が17歳のとき、藤圭子も17歳でデビューした。デビュー曲「新宿の女」が出たのが1969年の9月。一般的にはそれほど話題にならず、年明けから売れ始めたようだが、当時深夜ラジオを友にして受験勉強に励んでいた私は、発売の頃からよく耳にしていたし、妙に心に残る曲だった。
 
 同じ17歳だと思った。テレビもラジオもそう言っていた。雑誌にもそう載っていた。後に1歳年上と知る。事務所の都合で18歳なのに17歳にされたとか。潔癖症の彼女はそれがいやでいやでたまらなかったという。19歳で前川清と結婚するとき公称年齢を訂正している。この結婚もすごかった。今ならありえない。

 売りだす事務所やレコード会社の感覚からすると18歳よりは断然17歳のほうがいいのだそうな。「流星ひとつ」の対談で沢木耕太郎も「ぼくも(関係者だったら)17歳にしたかも」と語っている。


 
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 この2年後にデビューする南沙織のデビュー曲は「17歳」。筒美京平がリン・アンダーソンが唄った「ローズガーデン」をパクった曲だ。このとき南沙織はまだ16歳。ラジオからキャッチコピー?であるらしい「16歳の南沙織ちゃんは『17歳』でデビュー」と頻繁に流れてきて、ローズガーデンの「I beg your pardon」と同じメロディの「だーれもいない海」が続いた。

 筒美京平はパクりの天才だが、カトウカズヒコやオータキエイイチのように、アレンジから何から何まで一緒で「そのままじゃん」というパクリはしない。上手に彼流にアレンジする。しかしその中ではこれは出来の悪いものだ。「ローズガーデン」のヒットが新しかっただけに、このパクリは誰でも気づいた。

 格別の南沙織ファンでもなかった私は、この辺の事情を知らなかったが、今回Wikipediaを読んだら、「デビュー前の南沙織に、得意な歌はなにかと問うたら、ローズガーデンなら歌えるというので、それを基本にして筒美が曲を書いた」のだそう。偶然似た曲を提供したのではなく、始まりからして計算尽くなのだった。



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「17歳」と言えば、南沙織よりもずっと前にヒットした高田美和の「十七歳は一度だけ」がある。当然のごとく誰もが「17だけじゃなくて18だって19だって、60だって70だって一度だけだよなあ」と言っていた。かように「17歳」は特別なものらしい。(続く)

藤圭子&沢木耕太郎「流星ひとつ」考;;/寮邏港で知った藤圭子の死

歌手の藤圭子さん自殺か マンションから転落死

2013.8.22 12:17 

 歌手の藤圭子(本名・阿部純子)さん(62)が22日朝、東京都新宿区西新宿のマンション敷地内で倒れているのが見つかり、病院に搬送されたが死亡したことが警視庁への取材で分かった。自殺とみられる。

 藤さんは歌手の宇多田ヒカルさん(30)の母親で、「圭子の夢は夜ひらく」などのヒット曲で知られる。(msn産經ニュース)

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 2013年9月10日午前10時。韓国仁川空港。無料サービスWifiにThinkPadを繋ぐ。60日ぶりのインターネット。こういう時の常でまずは「訃報」と入れて検索する。この60日のあいだに何事も起きていないことを願いつつ日附順に一覧の名を追う。好きなひとの死も目にするが、高齢の大往生には納得する。
 
 8月22日の欄に藤圭子の名を見つける。瞬時に自殺かなと思う。関連ニュースを検索する。飛降り自殺のようだ。同世代の彼女が死んでしまったことを淋しく思ったが、ここのところの流れから「やっぱり」でもあった。精神が不安定とされる彼女の状態が伝えられてひさしい。すっかり過去の人となった彼女のたまに流れる話題はその奇行だけだったと言ってもいい。



 私が高校生の時、彼女はまさに一世を風靡した大スターだった。あのときのブームはすごかった。それから十年、28歳で引退してアメリカに渡る。芸能界の体質にうんざりし、もう絶対に復帰はしないと言っていたが、やはりというか2年後には芸能界に復帰した。しかしもう以前の輝きはもどらなかった。そのままずるずると居て、消えいるように過去の人となった。

 このひとの輝きの時期は極めて短い。私には「新宿の女」で始まり、「女のブルース」「圭子の夢は夜開く」「命預けます」の4曲、一年足らずの活躍がすべてだ。しかしその時期の輝きと光輪の大きさはいまだ誰も越えていないと言える。その後は海外での奇行や同一人物との結婚離婚が目立つ程度の典型的な「あの人は今」的存在だった。

 ところがここでまた藤は甦る。母親と同じく突如彗星のごとく登場した「宇多田ヒカルの母」として。しかしそれもまた一瞬のことだった。やがて今度は海外旅行で大金を浪費する奇行が話題となる。現金4千万を押収されたとか、その現金に麻薬が附着していたとかのスキャンダラスな話である。
 宇多田のコンサートに飛び入り出演して「夢は夜開く」を歌ったといういいニュースもあったが、多くの宇多田ファンにとっても、彼女はあまり好ましい母親ではなかったろう。



 彼女の死を知ったとき、私はすぐに彼女へのレクイエムを書きたいと思った。「藤圭子」は、あの時代を語るとき素通りできない重要人物である。
 世に溢れる多くのひとの語るそれは「宇多田ヒカルの母」としてのものであり、だからこそ私のような世代が「宇多田ヒカル以前の藤圭子」を綴るべきであろうと思った。だが多くのひとにとって「宇多田ヒカルの母」であり、でしかなく、ここまで過去の人なら、それはその時代を知っているひとが、それぞれの胸の中にしまい、あえて綴る必要もないかと思うようになる。



ryusei

 藤圭子が自殺して二ヵ月後、沢木耕太郎が『流星ひとつ』を出版した。1979年、引退を決めた28歳の藤圭子へのロングインタビューだ。インタビューだけで構成された異色作である。
 これを読んで、やはり私なりの「藤圭子」を書こうと思った。(続く)

ASKA容疑者と<きっこさん>と心優しい暴力団(笑)

ASKA容疑者とシャブと暴力団に関する<きっこさん>の意見。

きっこ@kikko_no_blog

@gomarin39 10代、20代を真面目に生きてきた人なら、50代になってから覚醒剤に手を出して中毒になって暴力団の資金源になって社会的に問題を起しても許されると言うのですか?


きっこ@kikko_no_blog

ASKA容疑者が10年以上も前からシャブを食ってたことに対して「誰にも迷惑をかけてない」とか抜かしてるバカがいるけど、暴力団からシャブを買い続けて暴力団の資金源になってたことが「誰にも迷惑をかけてない」って、お前は真性のアホか!


と、「シャブは暴力団の資金源」と批難。
しかし一方ではこんな発言も。

@kikko_no_blog: 「あと数日で殺処分」という子猫が5匹、里親が見つからずに困ってた。それで「何か困ったことがあったら、いつでも電話して来い」と言ってくれた、あたしの先輩の暴力団の組長に、ワラにもすがる思いで電話してみたら、二つ返事で5匹まとめて引き取ってくれた。ホッとして電話口で号泣しちゃった。

子猫を引き取ってくれた心優しい先輩の暴力団の組長はシャブを扱っていないのだろうか。子猫がシャブ中になっていないことを祈る。
どこかの国でなにか問題が起きると必ずそこにともだちがいる世界的に顔の広い<きっこさん>だが、まさか暴力団の組長の先輩までいるとは思わなかった。今までどれほど有名人と暴力団の絡みを批判してきたことだろう。

常に自分が中心にいて、周囲のものはその場次第で正になったり負になったりするこのひとの思いつき論法のいい加減さがよく出ている。あまりの身勝手に感激して鼻血を出しつつ号泣したら涙が止まらなくなった。北半球はもう終りか。もちろん「子猫を引き取ってくれた先輩の暴力団の組長」なんてのは「キヨシローのマンションに泊まった」と同じレベルのウソだ。犬猫の殺処分に本当に関わったことがあるなら、殺される寸前のそれに待ったを掛けて、里親を見つけたら中止してくれたなんてのがウソであることは誰でも知っている。「息を吐くように嘘を吐く」というのはこのひとのためにある。しかもそのウソがあまりに杜撰なので話にならない。なんともお粗末な団塊の世代のサヨクジーサンだ。

ことば考──「劣化」について──たしかにそれは失礼な表現ではあるが

 Twitterで「女性の容姿に猯化瓩隼箸Δ里麓採蕕澄Cだって齢を取れば老化する」というフツーのおばさんのツイートがあり、その意見に賛同したのか、フツーのおばさんたちがRTしていた。



 容姿に対して劣化などと言うのはまことに失礼であり、慎むべきだろう。
 だが数回使ったことのある者として、こちら側の意見も言いたい。

 私が今までにこの言葉を使ったのは、【芸スポ萬金譚】に書いた 山口美江と、ナスターシャ・キンスキーの2回だ。ともに大好きなきれいなひとだった。それがこれでは、いくらなんでもあまりに、というような意味あいで使った。 

 そちらの記事、というか画像を見て頂きたい。私は若者言葉や流行り言葉が嫌いだから、まずめったに使わない。しかしこれらを見たとき、真っ先にそれが浮かんだのだからしょうがない。

 同じようなテーマで、松嶋菜々子の目尻の皺のことを書いたことがあるが、ここではそんな言いかたはしていない。39歳にしては目尻の皺が目立つけれど、充分にきれいであり、それは劣化とはちがうからだ。



 言いたいのは、女性の容姿に関して猯化瓩隼箸Δ里蓮△修譴覆蠅離皀里鯒Г瓩蕕譴燭劼箸妨造辰道箸錣譴襦△い筺峪箸錣譴襪戮モノではないか」ということである。
 それは2ちゃんねる等で連発されている場合にも共通している。十代のときの輝くばかりのアイドルが四十代になり、かつての面影がなく、ひどいことになっているような場合に使われている。その猴邵広瓩紡个靴董ただし、いうまでもないが、その猴邵広瓩脇馼造箸ではない。そんなことには誰も言わない。生きかたから来る容貌の衰えだ。
 三十代でも四十代でも、いやもっともっと齢を取ろうとも、年相応の魅力で輝いている人に、そんな言いかたはしない。



 と書いて私はいま、八千草薫さんを思い出した。有名人は呼びすてが基本だが、思わず爐気鶚瓩鬚弔韻討靴泙辰拭こども心に「きれいなひとだなあ」と憧れた今年御年82歳の大女優だから見逃してくれ。むかしもいまも魅力的な八千草さんに、老化も劣化もないのは当然として。
 私は八千草さんの私生活を知らなかった。いまWikipediaで調べたら、宝塚をやめた後、26歳の時に19歳年上の45歳の監督と結婚して、50年添いとげたんだな。76歳の時に95歳の旦那を送っているわけだが、3度目の結婚だったというこの旦那も、八千草さんにはぞっこんだったようだから、しあわせな結婚生活だったのだろう。なんだか自分に照らしあわせて胸が熱くなった。

 では八千草さんと同じく「ウィークエンダー」の頃から、というか、もっと前のギター漫談(ウクレレ漫談の牧伸二の弟子)の頃から見ている泉ピン子に関して、劣化とか老化とか言うかというと、そういうこともない。なにひとつ興味がない。すると、それすら出て来ない。泉ピン子が実年令より若く見えても老けて見えても、なんの興味もない。ということは、老化であれ劣化であれ、口にするのは、それなりに興味があるからだ、ともなる。



 つまり、フツーのおねーさんが、フツーのおばさんになっても、誰もそれを猯化瓩箸聾世錣覆ぁただ年とったなと思うだけである。「娘十八、番茶も出花」という酷い言いかたがあるが、並の容姿でもそれぐらいの年齢の時は輝いて見える。それが四十になっておばさんになったからといって、「劣化したなあ」とは言わない。もし言うひとがいたら、それはこのコトバの使いかたを間違っている。

 私はTwitterでそれをつぶやいたひとを「自意識過剰」だと思う。「そうだそうだ」と賛同してRTしたおばさんも同じく。
 誰もあんたら並の女が年とったって、「年とったなあ。老けたなあ」と言うだけで、「劣化した」とは言わない。それは、よくもわるくも、ある種の選ばれた女に使われる言葉なのだから。



 と書いて、私は間違っているかも、と気づく。
 ツイートしたひともRTしたひとも、「フツーのおばさん」としたが、私は会っていない。彼女等の容姿を知らない。単なる推測だ。
 彼女等は、劣化というコトバに反応しているのだから、そう言われたことがあるのだろう。ということは、若い頃は山口美江やナスターシャ・キンスキーに勝るとも劣らない絶世の美女だったのかも知れない。
 当時の美貌の信奉者に「劣化した」と言われて傷ついたのだろうか。それに同意してRTしたひとも、それだけの美女だったのだろう。
 とするなら私は自分の不明を詫びる。恥じる。すまん。私は、あなたたちが美女であることを知らない。

 しかし、猯化瓩隼箸Δ曚匹糧女が、それほど世の中にあふれているとも思えない。

 田嶋陽子が、「夫婦茶碗は女のほうがちいさい。男女差別だ」と喚いていた。あきれた。それと同じテイストをこのツイートしたひとにも感じる。まずまちがいない(笑)。本能でそう感じる。この感覚が見当違いだったら私に生きている意味はない。

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【追記】──男の場合、自分の場合──6/24

 つい女性の場合に限って書いてしまったが、もちろん男も同じである。猯化瓩隼箸Δ覆蕁⊃紊眦る美男子が、ひどいことになった場合だろう。ただしこの場合、ハゲなんてのは関係ない。年相応に禿げるのは、むしろ年月を感じさせて男の魅力を増している。
 劣化は、髪の毛の量なんかには使わない。内面である。目許涼しい美青年だったのに、ろくでもない人生を送ったのか、目つきの悪い悪相のおやじになったりしたときに使う。



 髪の毛といえば、私がオヅラのようなカツラ使用者を嫌う理由もその辺にある。爐いっ豊瓩両魴錣鉾韻量咾領未牢愀犬覆ぁいい男であるためには髪の毛が必須、とカツラ擬装しているヤツが、本物のいい男になれるはずがない。むしろオヅラのような立場のひとは、薄毛を晒して、それでもカッコいいことで存在価値をアピールすべきなのだ。なのにカツラ。それも、白髪を交えた、いかにも年齢相応に工夫したカツラであることが、ますますものがなしい。
 ビートルズ世代のオヅラはギターコレクターでもあり、一度それをテレビで見たが、かなりのものだった。自身でもそれなりの演奏をする。でもそういうプラス面もカツラであることで、みなマイナスに作用する。政治の汚職、業界の擬装、何を語ってもそこに通じる。自分の存在価値を、カツラで壊していることに気づかないひとは、それだけでもうダメだ。ハゲは自分の生きてきた道筋であり、その人生の過程を隠しているひとが、いくらジャーナリスト然として、しかつめらしい発言をしても重みはない。



 と以上は世間話。次は自分のこと。
 先日、引きだしの奧にあった期限切れパスポートを手にした。何冊だったか、7冊かな。
 私はモノに執着しないのでいらないものはみな捨ててしまう。特に電子系のものは、パソコン類のハードもソフトも楽器のシンセサイザーやエフェクター等も捨てまくってきた。ぜんぶ持っていたらさぞ壮観だったろう。
 さすがに本を捨てるときは最初は戸惑ったが、一度割りきれると、高名な作家の高額の(これは後に知った)初版本から文庫本まで、捨てに捨てまくり、いまや「蔵書」と呼べるものは皆無の状態だ。筒井康隆、藤沢周平、高島俊男があるぐらい。厖大なマンガ蔵書もほとんど犲炊瓩靴禿纏匆修靴拭いまHDDに150GBある。それでも初期のいがらしみきお(「ぼのぼの」より前ね)なんかは捨てられないのだから、まだすこしこだわりはあるらしい。それだけ狹刑有瓩いらしに衝撃を受けたのだろう。
 パスポートは捨てられなかった。そこにあるスタンプだけで当時を思い出す手懸かりになるからだ。いわば良質の日記でありアルバムだ。捨てられなかったけど手にすることもなかった。引き出しの奥に眠っていたものを、たまにする整理で、たまたま手にした。



 外国で作ったのも2冊ある。日本製との完成度のちがいが目立つ。先端技術の日本製パスポートは精緻だ。最新のは顔写真等を収めたICチップが入っている。偽造は不可能だ。これ、当然ながら発展途上国で再発行してもらったら入ってないだろう。
 以前有効期間がすくなくなり、そういう国で作ったそれは、当時もう日本製は偽造されないように、顔写真がパスポートに溶けこむようになっていたのだが、外国で作ったそれは、ごくふつうにペタンと糊で写真が貼りつけられていて、いかにも偽造されたインチキのようである。これはこれでいとしい。
 そういやあやしい国で、よくパスポートを売ってくれと言われたものだ。日本人のパスポートは世界一の価値がある。



 貼られてある歴代のパスポート写真を見ていたら、かなしくなった。そこには何十年もの時の流れ、たしかな老化があった。問題はその老化の質だ。

 いまの自分を鏡で見て生きているから、私にとって顔はいつでも今の顔である。過去の写真を見て懐かしむ趣味もない。十代二十代の時のギターを抱えたコンサートの写真なんてのは他人を見るようで現実感とはまた別。
 歳月による老化は必然だが、趣向によってごまかされるものもある。たとえば今の私でも、大好きな猫に頬擦りした写真なんかだと、猫好きのいい表情をしているような気がする。しかしパスポートにあるのは「正面からのただの顔写真」である。これはごまかせない。そこにはむごい現実があった。

 私は、内面的輝きをもった男になりたいと願い、それなりの努力もして生きてきた。当時から今まで、それは結実するものと信じていた。疑いを持ったことはない。だが歴代のパスポート写真を見ると、そこにあったのは、成熟も充実もない、ほぼ5年毎の、「並の男の並の老化の記録」だった。若さが失われる分、それに代わるものが滲み出てくるのが成熟だが、それがない。むしろ智性が加齢と共に顔から消えている。どういうことだろう。精一杯努力してきたのだが……。ここにあるのはただの「老化」だ。いや、そこそこあった智性が消えているのだから、これは並の男の並の老化だが、紛うことなく劣化である。

 三十代のころの写真はなかなかだ。それなりの智性とやる気が顔に出ている。眼にも光がある。この男がこのまま年を重ね教養を身に着けて行けば渋くて智性的ないい男になるのではないかと期待できる顔をしている。
 ところが現実に齢を取った今、パスポート写真は「万引で捕まったおっさん」のような貧相な顔になっている。智性のかけらもない。交番の前に貼ってあってもおかしくない。泣きたくなった。
 そういや最新のパスポートは急いで作らねばならなくなり、深酒をした翌日、浮腫んだ顔で出かけたのだった。シャツもよれよれだ。ひどすぎる。いやこれが現実なのだ。認めねばならない。

 亡父の三十代と五十代の写真を比べると、劣化はない。七十代の父は枯れたいい顔をしている。
 私はなぜ劣化したのだろう。髪が薄くなったり、顎の線が弛んだり、目蓋が垂れてきたり、老化はしかたないが、脳と心磨きにはそれなりの努力をしてきたつもりなのに、なぜ顔から智性と品が消えているのだ。

 廃棄処分としてパンチで穴を開けられた古いパスポートと近年のパスポートとの差がひどすぎる。それを確認したときのかなしい気持ちは今も覚えている。美しく年を取るのは、男も女もむずかしい。

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【追記.2】──消えた智性の理由発見!──6/27

 三十代のパスポート写真からはそこそこ感じられる私の目の輝きと智性は、どこに消えてしまったのだろう、消えた原因は何だろうと考えていたら、この自分の文を読み返して、その原因に気づいた。

 上に「あやしい国でパスポートを売ってくれと言われた」とある。日本人のパスポートは世界中どこにでも行けるから世界一価値がある。偽造パスポート、闇の世界ではダントツの人気であり、高額で流通している。言わずもがなだが、アメリカのパスポートは人気がない。経済的にも軍事力でも世界一だが、同時に世界一敵の多い国でもあるから、通行証としてはあまり価値がないのだ。いかに日本というのが特殊な国であることか。

 日本大使館があり、再発行が可能な国でなら、闇業者に自分のパスポートを売り、紛失したとして再発行してもらえば、その差額が儲けになるわけである。いくらだったかもう忘れてしまったけど(当時の旅日記を探せばわかるが)、再発行費用が2万円だとして、闇業者の言ってきた値段が5万円なら、3万円の儲けになるわけだ。闇業者はそれを何十万かで売るだろう。

 闇業者は、小金欲しさにパスポートを売る心の弱い旅行者を探している。蛇の道は蛇で、顔を見ればすぐにわかるのだろう、しつこく言い寄られているのがいた。私も、貧乏旅行者が巣くっているホテルに滞在したから、そのたびに声を掛けられた。だがすぐに「あ、こいつはちがう」と寄ってこなくなった。私は貧乏旅行者ではないのに、そういうところも見ておくべきだろうと取材感覚で泊まっていたから、彼らの嗅覚で見抜かれたのだろう。

 当時の私は、假りにそれをすれば百万円儲かるとしても一顧だにしなかったし、そういうことをしようとする日本人旅行者がいたら激しく怒っていたろう。日本人としての誇りを持てと。



 時は流れて、いま「5万円ぐらい儲かるのだろうか」と薄ぼんやりと考えているクソバカがいる。こいつは5万円欲しさにそんなことをやりそうだ。なるほど「万引で捕まったおっさんのような顔」にもなるはずである。私の顔から智性と品が消えたのは、紛れもなく私の責任だった。人間、貧すれば鈍するのである。かなしい確認をしたかなしい朝。怖くて鏡が見られない。

週刊誌話──「たけしFriday襲撃事件」のころ──部数衰頽原因は不景気!?

takeshi2「週刊誌話──男性週刊誌部数激減」の続き。



 1986年、ビートたけしの「Friday襲撃事件」というのはまことに時事的な事件だった。
 あのころも行き過ぎたマスコミの取材姿勢を批判し、たけしを支持する意見と、彼を犯罪者とする意見に輿論は二分した。私はもちろん当時「たけし、よくやった!」と思ったひとりであり、いまも彼を支持している。覗き趣味としか思えない写真週刊誌なんてのがバカ売れしていた時代である。私は週刊誌大好きだったけど写真週刊誌だけは受付なかった。逆に、週刊誌は一切読まないけど写真週刊誌は大好きというひとも知っている。好みはひとそれぞれだ。



  たけしに同情する輿論に対して、林真理子が「ビートたけしは英雄か!?」と『週刊文春』に書いたっけ。たけしと不仲の林はたけし批判の視点。その前、 たけしのやっていた対談番組「気分はパラダイス」に、林がゲストとして登場したが、ひどく盛りあがらない白けた回だった。東京っ子のたけしからすると、林は大嫌いな「成り上り田舎者ブス」だったのだろう。林真理子が13回目(?)の見合いで結婚した話を、「じゃあそのまえの12人はどんなヤツ だったんだ」と笑いのネタにしていたのだからしっくりはこない。だったらゲストに呼ばなきゃいいのになと思った。



 Wikipedia的なまとめものの表記もたけしにやさしくなっ ている。「知りあいの女性への取材姿勢に怒り」のような書きかたをしている。「知りあいの女性」じゃないよね。たけしのファンだった女子高生の時から長年つきあって こどもまで作った20歳年下の愛人だ。あのこどもはいまいくつになるのだろう。1986年に事件てことは、もう成人している。
 たけしは今奥さんと一緒に、離婚した長女の子を育てて、じいちゃん役を楽しんでいるらしいけど、あの愛人の子とは会っていないのだろうか。私生活も含め、なんでもあけすけに語っているようでいて、このことには決して触れない。それだけデリケートな問題なのだろう。

 沢田研二がザピーナッツとのあいだに作った男の子に「ひとり」と名づけた週刊誌記事を読んだ記憶がある。たしか漢字で「一人」だった。あの男の子ももう30代だ。
 それと吉田拓郎の一人娘の彩さん。女性週刊誌的な興味があるのはこの三人になる。どんな人生なのだろう。いままでもこれからも表には出ないからこそ興味が湧く。


 
  そういや、たけしの浮気に対抗するかのように幹子夫人も浮気して、家を出て浮気相手と同棲を始めたことがあった。そこにたけしが乗りこんで、自分の浮気を謝罪し、奥さ んに土下座して家に戻ってもらった。土下座してうんぬんは、それこそ「週刊誌で読んだんだけどさ(「時間ですよ」樹木希林)」になる。 女性週刊誌の記事だった。
 浮気相手は関西の無名の落語家。週刊誌には顔写真が出ていたが私は知らない芸人だった。数年後にその落語家がぽっくり死んだときは、たけしが裏の力で消したのかと本気で思った。

 たけしはいま自分のことを、あのころ浮気ばっかりしてたから、いま奥さんと食事に行ってもそのころのことを責められて、奥さんがいきなり泣きだしたりしてたいへんなんだ、と笑いにしているが、それは自分を悪役にすることによって事実を隠す演出であり、たけしのやさしさなのだろう。



 週刊誌の衰頽は「インターネットのせい」と、どこでも解釈は一致している。時代的な流れだ。それはまちがいない。週刊誌の価値が「情報を得る」にあるなら、それはすべて今ネットで得られる。
 もうひとつ、正面からの意見として、「読むに価する雑誌がすくなくなった」というのもある。これもまた正鵠を射ていて、「わざわざ金を出してまで読む記事でもない」になる。

 しかし私はもうひとつ「不景気」も大きいと思う。
 当時の私は一年の半分近くを外国を放浪しているいい御身分だった。ジャーナリストじゃない。旅行記のような仕事はごく一部。ほとんどはただの享楽だった。結果、見事にいまキリギリスになった。
 残りの半分は茨城で老父母と猫と暮らしていた。正しくは外国に行くあいだ猫を預かってもらうために疎遠だった父母を頼ったわけで、そのことにより日本にいる間は田舎で足のなかった老父母の面倒を最後まで見ることになったから、これはこれでいい帰郷だった。

 そのころ私は、複数の週刊誌やスポーツ紙を毎日買っていた。ポスト、現代、文春、新潮、宝石、漫画誌はビッグ、オリジナル、スピリッツ、モーニング、プロレスの『週プロ』と『ゴング』、パソコンの『週刊アスキー』。スポーツ紙は朝はサンスポとニッカン、夕方は東スポとゲンダイ。毎日買うので週刊誌の発売日がない日は物足りなかった。完全に生活のリズムの中に週刊誌がくみこまれていた。あとは月刊誌がある。文藝春秋、『新潮45』、『正論』、『諸君!』、パソコン雑誌はぜんぶ買っていた。月にそういう雑誌代だけで5万円ぐらい使っていた。
 なぜか「SPA!」はあまり読まなかった。「週刊サンケイ」がSPAになったのは1988年。当時「SPA!」に「ゴーマニズム宣言」が連載されていたのだが、私は単行本で買っていた。後に、小林と宅八郎の確執から『SAPIO』に移籍することになる。『SAPIO』も創刊号から缺かさず買っていた。
 サンデー毎日とか週刊朝日なんてのは興味対象外。「週刊ナントカ」という新聞社名のついた週刊誌とは無縁だった。



amidana  週に一、二回、茨城から東京に出る日は、電車での読物として、ちょっとかための週刊誌(文春、新潮)とやわらかめのもの(宝石、ポスト、現代)、あるいはビッグやモーニング等の漫画誌、ス ポーツ紙、缶コーヒ−を買った。私に限らず、そんな時代だった。網棚には読みすてられた週刊誌や漫画誌がいっぱい放置されていた。ケチなひとは網棚を漁る だけで何でも読めたろう。ちかごろは見かけることもない。



 紙メディアの衰頽は事実だが、同時に、そういう「電車に乗るとき、週刊誌を読み捨ててもいいだけのおこづかいがサラリーマンにあった時代」とも言えよう。あるいは「週刊誌に読まれるだけの価値があった時代」と言うべきか。
  いま電車の中で週刊誌的な情報を得たいと思うひとはみな携帯の画面を見詰めている。それはモバイルギアによるインターネット世界が充実したからでもある が、キオスクで350円の週刊誌を買い、20分ほど乗る電車の中でそのいくつかを読み、網棚に捨てて行く「贅沢」が出来ない時代ということでもあろう。



  私は電車の中で携帯画面を見ない。そもそもが通話専用のガラケーだし、そういう契約もしていないから見たくても見られないがあんなちっこいものを見つめる気も ない。3DSやiPod、モバイルノートは常に携帯しているが万が一の退屈凌ぎ用であり、まず開かない。文庫本や将棋本を読んでいることが多い。
 私がいま週刊誌を買わない読ま ないのは「あんなものに350円を捨てる気にはなれない」からなのだが、むかしからあんなものではあった。なのに買いまくっていた。それだけ餘裕があったのだろう。よって私にとって週 刊誌を読まなくなった理由は「350円の価値」になる。いま350円だと麦芽100%のエビスビールが買える。百円ショップならみっつも買える。週刊誌よりそっちを選ぶ。



onna 週刊誌に中身がないなんてのは今に始まったことではない。不景気になったとき、理髪店のような「我慢できる習慣」が一気に影響を受けたように、週刊誌を読むこともそれにちかかった、ということだろう。

 生き残るために週刊誌も中身を変えて必死だ。上記「かための文春とやわらかめの宝石を買って」と書いたが、今は文春が「女が嫌いな女芸能人ワースト10」なんて、かつてなら宝石がやったような軟弱企劃を目玉にしている時代だ。立ち読みする気にすらならない。実際しない。でもネットで「1位は和田アキ子」と情報だけは得てしまうが(笑)。
 この順位を知りたいという気持ちはすこしある。しかし週刊誌を買って、その記事を読みたいとまでは思わない。つまりそこが週刊誌衰頽の理由なのだろう。



  コンビニの雑誌の本棚がさびしい。豊満が魅力的だった女が痩せこけたのを見るようでつらい。とはいえ、毎日週刊誌を買っていた私がいま、まったく 買わないのだから痩せこけて当然だ。
 全種類と言ってもいいぐらい買っていたパソコン雑誌も次々と廃刊になった。これまた私のようなのがまったく買わなくなったのだか ら当然である。紙メディアの衰頽は著しい。「おれはこんなに買いまくっているのに何故こんなに廃れるのだろう」という矛盾はない。

 経済が復興すれば、生きのこっ ている雑誌は、そこそこ部数は復活するとしても、紙メディアのもうかつてのような栄華は無理なのだろう。これが世の流れなのか。
 小説もモバイルギアで読む 時代だ。これはもう10数年前から旅先のパソコンで読むために「新潮社の100冊」なんてCDを持参していたぐらいだから抵抗はない。今回モバイルパソコンで読む自炊マンガにも目覚めたし、今後私もそっち方面に走るのだろうか。
 しかし夏場、水風呂の中で読む紙メディアには独特の魅力がある。みなふやけてしまうのが難点だけど。
 これも読書用モバイルギアが防水になればいいことなのか。



shogisekai20135 昨日発売されたばかりの『将棋世界』を読みつつ、私もそのうちこれをiPadで読むようになるのだろうかと考える。(『将棋世界』はすでにiPad用として配信されている。)

 そしてまた最近の充実している『将棋世界』を買うことに逡巡したことはないのだから、週刊誌が売れないのは週刊誌の中身の問題なのだろうと、結論的に思う。どんなに高かったとしても、いいものはみな買うのだ。売れないのは、インターネットや不景気も原因だろうが、魅力が失せたことがいちばんだろう。
 『将棋世界』も、かつて編集方針が気に入らず買わない時期があった。でもよくなったのでまた買うようになった。週刊誌にそれが出来るだろうか。すくなくとも近年の『週刊文春』の芸能路線などは私の好みと正反対になる。それが人気企劃だというのだから縁遠くもなる。

 私の経済状況がむかしのようによくなったとしても、あのころのように週刊誌を買うことはもうないだろう。縁切りは、懐事情とは関係なくあの種のマスコミからの卒業でもあったから。

週刊誌話──男性週刊誌部数激減──週刊朝日廃刊間近!?──ハシシタ問題

かつて全盛を誇った男性週刊誌の衰亡ぶりは凄まじい。2000年下期(6月〜12月)と2012年下期を比較してみると、主要週刊誌6誌(ポスト、現代、文春、新潮、朝日、毎日)だけで、実売が総計285万部から177万部まで実に「108万部」も減らしている(37・8%減)。

具体的に見てみると、
週刊ポストが65万7000部から31万8000部へ、
週刊現代が64万3000部から42万4000部へ、
週刊文春が63万部から48万部へ、
週刊新潮が50万6000部から36万5000部へ、
週刊朝日が30万9000部から13万部へ、
サンデー毎日が10万8000部から6万部へ、という具合だ。

週刊誌の時代は終わったのか──門田隆将」

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 なるほどなあ、こんなに落ちているんだ。
 一時100万部を越えていた光文社の「週刊宝石」は、まだ50万部ぐらい売れているのに先は暗いとばかりに当時のトップの判断で休刊になった。先見の明と言えるのだろうか。いま実売で50万部売れている男性週刊誌はないし、中身のないあの週刊誌は間違いなく先細りだったろうから、あそこでの決断はやはり先見の明か。

 「週刊宝石の休刊ていつだっけ」と調べて、2001年1月と知る。同じ光文社の写真週刊誌「Flash」も一緒だった。休刊になった日をよく覚えている。最後の一冊だからと買ったっけ。あれから12年も経つのか。
 ということは、ああいうものを読むのは二十歳過ぎだろうから、「週刊宝石というものがあったことを知らない三十代男性」がいっぱいいることになる。私にはなんとも不思議な感覚だ。

 週刊宝石について、Wikipediaには「一貫して反権力の姿勢を貫いた」とかっこよく書いてあるが、その他検索して行くと、当時記者として関わっていたひとたちが、取材費を好きなだけ使わせてくれた時代に感謝しつつも、「内容のないくだらん週刊誌だった」と書いているのが嗤えた。たしかにまあ記憶に残る企劃は「処女捜し」と「あなたのおっぱい見せてくれませんか」だったからなあ。
「反権力」ってのはポーズだ。売るための。いま『日刊ゲンダイ』がさかんにやっている。
 1981年創刊2001年休刊は、真ん中にバブルを挟んで、いい時代に存在したってことか。なんだか私の「愉しかった時代」と合致してる(笑)。



asahihatoyama「サンデー毎日」の6万部ってのは週刊誌としてはもうとうのむかしにデッドラインを越えている。未だに出しているのは老舗新聞社の意地(笑)なのだろうか。受験偏重を批判しつつ「有名大学合格高校一覧」を唯一の売りにしているあのくだらん週刊誌が休刊になるのももうすぐだ。

 そのあとはアサヒ。こちらももう出版に意味はないが、「朝日ジャーナル」が廃刊になり、いまはこれしかないから(隔週刊の『AERA』があるが)これまた意地でも廃刊には出来ないのか。



asahikan 民主党勝利の際は鳩山や菅の凛々しい表情を取りあげた美麗な表紙にして、自民党に関しては安倍や麻生の顔に文字を被せた無礼で下品な表紙にする偏向週刊誌である。
 なにをどう考えたら、安倍や麻生の顔に文字を被せる失礼が思いつくのだろう。理解不可能だ。いかに下種で心の腐った連中が作っているかがよく見える。まともな人間性があったら、こんなことは出来ない。

 佐野眞一という盗作作家を起用した、あの下劣な内容の「ハシシタ問題」も記憶にあたらしい。赤っ恥を掻いただけの醜態だった。
 左の表紙写真を見て欲しい。民主党に対する2枚、自民党に対する2枚、いかにちがうことか。こんなことをしている新聞社が狷本のクオリティペーパー瓩覆鵑召任△襪呂困ない。一日も早く廃刊になることを願う。

asahiabe 雁屋哲というサヨクが、あの「ハシシタ問題」に関して、橋下市長は立腹することなく、あれをきっかけに部落差別問題に取り組むことによって、のようなイカれたことを書いていた。

 差別問題以前に、あの記事で問われるのは、「はしもと」と名乗っているひとを、あえて「ハシシタ」とカタカナのタイトルにまでして書いたあまりに下種な文章にまず問題がある。そのことに触れず自分に都合のいい部分だけを取りあげて正論のようなことを言うのもこの種のサヨクの特徴だ。雁屋のこのブログ文も、橋下の心の痛みなどまったく理解せず自己流の正論だけを主張するサヨクの狡さがよく出ている。

asahiasou もっともあの「ハシシタ問題」は、盗作作家の佐野眞一というゴミを抹殺する効果があったから、それはそれで認めてやるべきか。

 それにしても下劣だった。惘れた。どれほど惘れたかと言えば、あれほど興味ある事件だったのに、私はここに書いていない。ツイッターで、この記事を全文写真でアップしてくれたひとを紹介し、こんな週刊誌は買う必要はないが、この文だけは読んでおいて欲しいと流しただけだった。惘れすぎて書く気にすらならなかった。アサヒが下衆であることは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。それほど愕きかつ惘れた。

asahihashishita アサヒは、大嫌いな橋下を潰しに掛かるのなら、だからこそ冷静に品良く迫るべきだろうに、元々の下劣な品性が丸だしだった。ふだんは上品を装っているが、興奮して本性が出たのだ。その意味では、橋下市長は不愉快だったろうが、アサヒの品性を世に知らしめた点で、価値あるものだったとは言える。あれで廃刊にならなきゃウソだよな。

 そういやこの表紙、いちばん上に「一生ボケない脳はこう作る!」とある。こんな特集をやる週刊誌の脳がもうボケていたのだから嗤える。

 下の見出しで「ハシシタは衆愚の王か」と謳っているが、「衆愚の王」は衆愚にクオリティペーパー、オピニオンリーダーと思われ購読されているアサヒシンブンだろう(笑)。

 ま、もうすぐ採算割れになるだろう。一日も早くこのクソ週刊誌が廃刊になることを願う。



 「週刊金曜日」(正しく隔週刊だけど)は実数どれぐらい出ているのだろう。採算は取れているのか。でもああいうサヨク週刊誌は図書館がしっかり応援しているから案外固定部数と郵送で買う固定読者で安泰なのか。共産党が新聞赤旗の売りあげで資金があるように。
 役所の図書係ってのはどうしてあんなにサヨクばかりなのだろう。安易に安定した公務員の道を選んだ心情サヨクってことではわかりやすいが。



 週刊現代の発行部数は、
1959年創刊号は35万部、
1967年には100万部を突破、
1973年に130万部を発行、
1995年に150万部を発行して、
 いま上記のように42万部らしい。100万部突破のいい夢を見て、いま原点に戻ったってことか。

 週刊誌の衰頽というより、下品な覗き趣味の写真週刊誌「Focus」なんてのが週に200万部も売れていた時代のほうが狂っている。毎日のように週刊誌を買っていたが写真週刊誌というのは買ったことがない。思えば、私の「週刊誌卒業」は写真週刊誌の覗き趣味、写真の暴力にうんざりしたのがきっかけだったかもしれない。

「たけしのFriday襲撃事件のころ」に続く。

ことば考──「笑う」と「咲く」のこと

【芸スポ萬金譚】のほうに「笑う」と「咲く」について二題書いたのでリンクしておきます。

タカトシの時間ですよSP──誤って伝わった漢字「笑う」と「咲く」について

再び「笑う」と「咲く」について──武井咲を「えみ」と命名したひとのセンスのよさ

今日の修正──《高岡蒼甫の反日時代──「パッチギ」のころ》を修正しました


高岡蒼甫の反日時代?──「パッチギ」のころ

の【追記】部分(とはいえ元の本文よりも長い)が黒文字になり、なんとも読み辛いことを知り、修正しました。 

今日の修正──「立川談志の死」の「新日」──訃報に接する態度

いつものよう午前3時起床。
「人気記事」を見ると、「立川談志の死」が入っている。今度は誰かが落語話を引っ張りだしてくれたのか(笑)。というかこれは分類的には「訃報」か。
ということでチェックしていたら、プロレスの「新日」を「親日」と書いているのを見つけて修正。
これは逆も良くやる。気をつけよう。 



心優しい日本人は、なんでも水に流す。
村八分でも、火事と葬式の二分は例外である。
知らないひとでも、とりあえず死んだと聞いたら哀悼する。
それはきっといいことなのだろうが、ひねくれ者の私には不可解でもある。



16年間暮らした最愛の猫を失い、埋葬した家の隣の畑で泣き濡れていたら、実家に帰ってきた姉(実家に帰るの正しい使いかた)とその娘が、線香をあげようと畑にやって来た。事勿れ主義者でなんでも適当な私だけど、そのとき反射的に激しく拒んでしまった。一瞬で反応した自分におどろいた。

おとなげないと言われるだろうし、他者の好意を無にしていると嗤われるかも知れない。
東京で一緒に暮らしていた猫は、私が外国旅行に行く間に両親に預かってもらうようになった。老父母は猫をかわいがってくれた。いまも感謝している。そして猫の存在は、私とあまり仲の良くない母とのあいだもとりもってくれた。これは猫に感謝することだ。

猫嫌い、というか動物嫌いの姉は、自分の実家に猫がいることを嫌った。臭いとか気味が悪いとか、あれこれ言っていた。その娘(姪)も同じ。姉(母)が動物嫌いで飼わないから娘ふたりも動物嫌いになっている。まこと、親の影響とは大きい。そんなふたりに、死んだからと言って神妙な顔で線香をあげに来られたらたまらない。

ほんとにもう事勿れ主義であらゆる摩擦を嫌い、誰とも揉めたくないと思って生きてきた私だが、線香を手に神妙な顔で現れた姉と姪を「やめてくれ!」と激しい口調で拒んだ。よろこんで受けいれられると思ってやってきた姉と姪は予想外の事態に驚いた顔をした。ふつう線香をあげに行けば、それこそ故人の殺人者でもない限り受けいれるのが日本の常識だ。姉は常識にそって行動した。それが拒まれた。

しかしいちばん驚いていたのは私自身だった。そういう激しいことが自分に出来るとは思っていなかった。でもそれだけあいした猫だった。自分が汚されてもかまわないが、彼を護るためならなんでも出来た。自分を臭いとか気味が悪いと嫌っていた人間に線香を上げられても彼は喜ばない。恥だらけの人生だが、あのときのあれは、私には珍しくよくやったと思っている。



日本人は死んだらなんでも許してしまう。
朝鮮人の長州力は、自分の嫌いなヤツ(安生だったか)に対し、「あいつが死んだら、墓に行ってクソぶっかけてやる」と言った。「あんなヤツ、死ねばいい」ではない。死んだ後にも墓に行ってクソぶっかけるのである。まさに朝鮮人の恨の思想をよく顕わしている。時勢とはいえ、こんな民族を併合してしまったのだから、あと何百年経とうと憎まれ続けるだけである。日本人はそこを理解せねばならない。死んだら水に流す自分達とはちがうのだ。



しかしまた日本人の何でも許してしまう感覚にも問題はある。
原爆を落とされ、大量無差別殺戮をやられたのに、その相手を責めることなく、「二度と過ちはおかしません」と碑に刻む自省はヘンなのではないか。



談志が死んだとき、談志の落語など一度も聞いたことのない連中が、いかにも神妙に、かなしげに語っているのは、私には不快だった。しみじみ心の狭い人間だと恥じいるが、この感覚を当の談志は支持してくれるだろう。この「立川談志の死」という文は、熱烈な談志信奉者には嫌われるだろうが、談志本人には気に入ってもらえると思っている。

長州力のように、死んだ後に墓にクソをぶっかけに行くほど嫌いなヤツはいないが、興味のないひとが死んだとき、死んだというそのことだけで哀悼するようなことはやめようと思っている。興味のないひとには、その死にも興味を持たないのが礼儀であろう。

「未来の党」幹事長を阿部知子代表が兼務──代表と幹事長、あまりに巨大な権力集中を危惧する!

mirai-abe 政治団体「日本未来の党」は20日、都内で総会を開き、代表に阿部知子氏(衆院比例南関東)を選出した。

 阿部代表は幹事長も兼務する。前代表の嘉田由紀子・滋賀県知事は政策アドバイザーに就任した。

 総会には、昨年の衆院選に分党前の旧未来公認で立候補し、落選した候補者らが出席。県内関係では河野敏久氏、露木順一氏が出席した。

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1301200020/ 

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  今年二度目の降雪かと予報され冷えこんだ首都圏の21日、またも衝撃のニュースが飛びこんできた。
 なんと「日本未来の党」の代表である阿部知子氏が党の幹事長も兼務するという。
 これは権力の集中ではないのか。政局を左右するCasting Voteを握る要の政党において、代表が、役職として最もおいしいと言われる幹事長ポストまで奪うのはやりすぎだろう。 



 かつて犢簣哭瓩噺討个譴疹沢一郎氏は、総理になるよりも幹事長の道を撰んだ。総理になって短命に散るよりも、その総理を産みだす権力である幹事長の座に固執した。ここなら長く君臨できる。賢い選択であったろう。幹事長ポストにいすわり、総理候補を猝明椨瓩泙任靴拭自分の意のままになる男を総理にし、「担ぐ神輿は軽くてバカがいいと」と豪語した。民主党に合流してからもそのポストにこだわった。幹事長とは、それほど要であり、おいしい立場なのだ。



 政権を担う未来の党の代表に阿部氏が就任したことは、結党以来一途に未来の党を支持し、阿部氏の政治手腕に心酔している私としてはこのうえない喜びである。前代表の嘉田由紀子氏はアドバイザーに就任した。理想の布陣と言えよう。互いに手を取りあったクソババア美しいふたりを見ると、日本の未来を未来の党に託してよかったと、自分の選択に満足する。未来の党が大勝したあの日、美酒を味わったあの夜を思い出す。涙がとまらなかった。笑いすぎて。

 だが、未来の党支持者であり、政治家阿部知子を崇拝しているからこそ、あえて言わせてもらう。私は未来の党支持者として、あえて嫌われ者になる。だから言わせてもらう。

「未来の党代表の座と幹事長兼務は、あまりに権力の集中である」と。
 これでは阿部氏は田中角栄、小沢一郎に続く「キングメーカー」なってしまう。日本の政治を意のままに操れる。それはあまりに危険な権力集中である。

 阿部氏は代表の座のみとし、幹事長の座は他の国会議員に任せるべきだろう。権力はひとりに集中すべきではない。バランスを重視すべきだ。阿部氏の勇気ある決断を望む。どうか幹事長の座を他の国会議員に譲っていただきたい。いねーよ(笑)。

週刊新潮のAKB48批判──マスコミはゴミにたかるハエだとしても、たかるゴミをもうすこし撰んで欲しい

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 週刊新潮が 誰も批判しないAKB48「前田敦子」卒業バカ騒ぎ

 という特集をやっていた。

 中吊りの見出しも最大級だ。
 新潮ファンとして、やって欲しくなかった。どんなコンセプトで、いかなるアングルで記事を作ろうと、こういう特集はAKB48人気におんぶしたものだ。

 もしも新潮がほんとうにこのバカ騒ぎに、「なぜ誰も批判しないのだ!」と、腹を立てていたなら、腹を立てているからこそ無視すべきだったと思う。それがおとなの週刊誌の正しい姿勢だ。

 バカ騒ぎとその評価は、「ワシはあっちゃんに甘えていたのかもしれん」と、すっかりAKB評論家に堕している小林よしのりにでも任せておけばいい。



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 今週号の「売り」は、「安倍総理誕生に加勢する橋下市長」と並んで、このAKBの話が二大テーマである。そんなにまでしてやるほどのことか。

 週刊新潮の読者で、このテーマに興味のある人はどれぐらいいるのだろう。なんの興味もないわたしゃこんなもの読む気にすらなれない。文春は買った。新潮は立ち読みにした。トップの「安倍と橋本」だけ読み、この記事は開くことすらしなかった。



 将棋の名人戦挑戦者升田八段が「名人なんてゴミだ」と言い、受けてたつ木村名人に「名人がゴミなら君はなんだ!?」と問われて、「ゴミにたかるハエだ」と応えた有名な逸話があるが、AKB卒業のバカ騒ぎをゴミだと特集することは、自らがゴミにたかるハエだと言っているようなものだ。

 新潮の読者として、ゴミにたかるハエマスコミでも、もうすこしちがうものにたかって欲しいと願う。
 そういや週刊文春から離れたのは、「女に嫌われている芸能人ワースト10」とか、そんな芸能ネタをやるようになったことも理由のひとつだった。私にとって最悪のそういう特集は、読者にとても評判がよかったらしく、定番ネタとして定着していった。おじさん読者にとって部下との酒席の話題になって便利だったのか。週刊誌の第一義は売れることだ。どんなに意義ある記事を書いても売れなければ廃刊になるしかない。

 新潮の試みもそういうことなのだろう。この記事で、AKB48なんてろくに知らないけど、とりあえず最新情報を得て、よろこんだ読者もいるのか。
 私はこばむ。買わなきゃいいだけの話。でもこの特集のおかげで今週号の売れ行きがすごく良かったりして。どっちだ。



 と書いて思った。世の中はいまみなボーダーレスというのか、そういう方向に向かっている。
 私の考えは、「そういうテーマは芸能週刊誌に任せておけ。文春新潮は他にやることがあるだろう!」なのだが、一方で私は、政治を扱うようになったスポーツ紙を好ましく思っている。いまじゃあの東スポにだって政治欄がある時代だ。

 なら文春新潮が芸能ネタを扱うのも容認せねばならない。のか?
 私が東スポが政治を扱うようになってよろこんでいるのとは逆に、「なんで東スポが政治のことなど載せるのだ。そういうのが載っていないからおれは東スポが好きなのだ。そんな紙数があるなら、その分エロ記事を増やせ」と憤慨している読者もいることだろう。

 文春新潮が芸能ネタを載せることに憤慨する私と、東スポが政治記事を載せることに憤慨する読者は、表裏一体なのである。 

 東スポに政治記事が載るようになったことをよろこんだ私は、文春新潮が芸能記事を扱うようになったことを受け入れねばならない。リクツとしてはそうなる。



 まあ週刊誌だからね。売りあげのためならなんでもする。タッグを組んでの「橋下出自叩き」がその例だ。
 オピニオン誌がそれをやったら立腹する、を一線として、ここは妥協しよう。文春新潮を毎週買っていた時期なら怒るけど、今じゃめったに買わないし。今週は「反原発デモのメンバー」を特集してくれたからご褒美として買った。特例だ。

 むしろAKB48のメンバーも歌も一切知らない時代とズレている自分を反省すべきなのか。そういう自分を気に入っているので反省などしないけど(笑)。
 年相応の世界観として、小林よしのりより自分を支持する。

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【追記】──AKB48を批判した文春新潮を批判する小林よしりん

週刊文春も週刊新潮もアンチの記事を掲載している。
週刊文春の記事は、今回はつまらんかったね。
週刊新潮の方はもはやクソじいいの戯言だね。
 
一昔前のオタクの石破茂が出てきて、「キャンディーズは良かったが、AKBは一人で何枚もCDを買うからダメだ」って、なんじゃそら?
 
馬鹿丸出しのノスタル爺だよ。

わしは『ギンガムチェック』3枚買って、1枚は秘書にプレゼントしたが、濱野智史なんか投票券入ってなくても100枚も買ってるんだぞ!
だが、わしには石破茂が軍事プラモに、お金や、貴重な時間を注ぎ込む方が理解できない。
趣味の世界に、お金をどれだけ注ぎ込もうと、そんなのは勝手なんだ!
来年の総選挙はわしも今年よりはもっといっぱいCD買ってやる!
投票したいメンバーがいっぱい増えてしまったから仕方がない。
 
だがな、しょせんアンチ記事でも、掲載すれば商売になるから作るのだ。
左翼も保守も論壇誌は「アンチ小林よしのり」で記事を作ったのと同じだ。

クソじじい雑誌なんか無視して結構!
感性ゼロでお迎えを待つクソじじいは、さっさと三途の川を渡れ!
 
しかし、週刊文春は今回、何が書いてあったか忘れるくらいつまらんかったな。
『AKB48白熱論争』 (幻冬舎新書)が売れている。もうなくなってる書店もあって、日曜に増刷分が並ぶらしいが。
 
クソじじいだって孫に嫌われないように、この新書を読んで勉強しろ!

https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=jo9q0ortt-13 

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 だいじょうぶなのか、このひと?
 下線部分には同意するが。

 私は、石破茂のように「キャンディーズはよかったがAKB48はダメ」なんて思わない。このリクツはヘン。
 それぞれの世代にそれぞれの音楽がある。AKB48に夢中になる若者はまとも。私も中学生だったらきっと夢中になっていたろう。自分の時代のものをもちあげて今を否定するのは無意味。

 AKB48に夢中になる若者はまともだが、若者と同じくここまでいれこむ小林よしのり59歳は異常。
 AKB48を好きじゃないおとなを、「感性0のクソじじい、三途の川を渡れ!」とする感覚はお寒い。音楽に関する感性0は小林のほうだと思うが。



 いずれにせよ、新潮も、コメントする石波も、反論する小林も、みなAKB48という宇宙のなかのお話。好きと嫌いはプラスマイナスの符合を取れば絶対値は同じ。

 私はまったくの0で、好きでも嫌いでもなく、なんの興味もない。AKB宇宙の外にいる。もうこんなことを書くのはよそう。どんな形であれ触れることは、好きと同じになってしまうから。

山田五十鈴の死、パンダの赤ちゃんの死、かなしい時間──国民の生活が第一だよん!

山田五十鈴が死んだ。
いくつになっても同い年の死は悲しい。
ご冥福を祈る。30年もすればあたしもそっちに行く。125までは生きる。



パンダの赤ちゃんが死んだ。95歳。偉大な芸能人だった。
いくつになっても同い年の死は悲しい。

動物園の園長が泣いていた。大笑い。
ライオンやトラに喰わせるために多くの動物が殺されている。
そっちのためにも泣いてやれ。
なんでパンダの赤ん坊が死んだら泣くんだ。最低だね。

原発推進者が生きていてパンダの赤ちゃんが死なねばならないのか!?
あまりにこの世は理不尽だ。なんてことはぜんぜん思わない(笑)。
とりあえず形だけ5年前に死んだ母さんと抱きあって号泣した。涙がとまらない。 
ごめんね日本中のこどもたち、なにもしてあげられなくて。
なにかしてやる気がそもそもないんだけど。



いまからレバ刺しを食いつつ、死んだパンダの赤ちゃんの映像を見ながら号泣しよう。
パンダの赤ちゃんの姿煮ってうまいのかな(ゴクっ)。
誰が喰うんだろう、当然園長にその権利が……。

あ、大好きな小沢さんの会見が始まった。
新党の名前は何になるのかな?

隠し子と愛人の名前も言うの? どきどき。
放射能から逃げたことも言うの? わくわく。

と思ったら「国民の生活が第一」だって(笑)(笑)(笑)。



バカも窮まれり(笑)。 

がんがれよー、2年保つかな。楽しみ楽しみ。

次の選挙が第一!!!

でもみんな落ちるけど(笑)。

小沢を落とせないなら、それは岩手が呪われているってことだ!

岩手県民、気を引き締めろ。真剣に考えろ。
まともな日本人になれるか、小沢の奴隷のままか、重要な岐路だぞ!!!
地元利益誘導が政治家の意義なら、所詮あんたらはそこまでのニンゲンてことだ!

これは大震災以上に、あんたらの日本人としての覚悟が問われているんだ!

「仙台にパンダを」というくだらなさ──ジャニーズが5年間だけ費用負担

”パンダ”に反対で市民団体がデモ

仙台市による中国からのパンダ借り受けに反対する市民団体がデモ行進を行い「被災者の生活再建が最優先」などと計画の撤回を訴えました。 
パンダの借り受けに反対する市民団体が開いた集会にはおよそ60人が参加しました。 
 
仙台市では被災した子どもたちを元気づけようと中国からパンダを借り受けることになっています。 
 
集会で市民団体では「被災者の生活再建が最優先でパンダを復興のシンボルとする考えは間違っている」などと主張し、計画の撤回を求めています。 
 
集会の後、デモ行進した市民団体では今後もインターネットなどで賛同者を募り、仙台市議会に請願書を提出したいとしています。 宮城テレビ

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 中共に、一年の「借り賃」を何億も払って、本来はチベットの山奥でのんびりしている動物をむりやり日本に連れてきて見世物にし、冷暖房完備の部屋で直輸入の笹を喰わせて一日の餌代何万円で待遇するってのは、仮設住宅に住み、仕事がなくて困っている被災者の復興と、まったく逆路線だろう。くだらねえなあ。なにをどうすればこんなことが思いつくのだろう。

 総額30億円の大プロジェクト。空腹でやつれている人間に宝石や毛皮を与えて自己満足するような見当違い。やるべきは、腹いっぱいの飯を食わせて健康な体にすることだ。

 経済効果が60億円あるとか試算しているのもいるが、それだけ金を掛けてパンダを見世物にしての経済効果より、被災者に働ける場を提供しての経済効果でなければならない。



 近藤真彦が先頭に立ってのジャニーズのプロジェクトで、最初の5年間だけ、全面的に募金からまかなうと言うけど、そんなにしたいならパンダが死ぬまでぜんぶ金を払って面倒見ろ。ジャニーズの金で。見世物料金もぜんぶジャニーズが負担して、仙台にもそんなものが好きな連中はいるのだろうから、おまえらの金でただで見せてやれ。

 ジャニーズなんてのがどの程度のものか、嬉々としてこんなことをやっていることからも解る。
 自分達の醜さに気づかず英雄感覚だ。

 パンダという動物はほんとうに不幸だ。
「パンダ外交」を応援する黒柳徹子が浮世離れしていることがよく解る。
 いや、あのひとも、自分は世間をよく解っているつもりでいるからたちがわるい。アグネス・チャンとか。
 なんとも醜悪な連中だ。 

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【追記】──動物を見世物にするというニンゲンの驕り

 八幡平クマ牧場の犠牲者は、複数の熊に食いちぎられていて、息子が母親と判別できなかったらしい。顔もなにもかもぐしゃぐしゃだったのだろう。
 クマは十分な餌が与えられておらず、痩せていたと、ここに行ったことのあるひとの意見を見かけた。

 猟師が、クマのパンチで一瞬で首が折れて絶命するから、苦しんで死ぬことはないと言っていた。意識があってクマに喰われたら地獄だ。クマは、一斗缶を紙屑みたいに丸めて固まりにする。あれで殴られたら即死だ。

 北海道の馬産人や酪農家は、厩舎の牛や馬を襲うクマは逆に殺さないと言っていた。半死半生にすると。背中に牛や馬を背負って、自分の巣に連れかえってから喰うのである。そこまで運ぶのに死体にすると重い。だから半殺しにして運ぶのだとか。
 
 劣悪な環境を動物虐待という視点から語る人がいるが、そもそも「動物園のようなものすべて」が動物虐待なのであり、動物好きを自認する人が声を上げるべきは、「よりよい環境を」ではなく、「そんなものをこの世からなくせ」だろう。 

 こういう事故がある一方、30億円かけて「シナからパンダを借用」しようと運動する連中もいる。くるっている。 

就職した山本太郎と就職先の関係──原点はグリーンピース

山本太郎は知らなかった グループ会社と東電の取引
 
 反原発活動で知られる山本太郎(37)がサラリーマンに……。
 18日、就職先である太陽光発電施工事業「ソーラーリフォーム」の入社式に出席し、囲み取材に応じた。会社のPRも兼ねているのか、ドーランを塗ったばっちりメークで登場。
「僕の場合、とりあえず3カ月の期間限定」と契約社員であることを明かした。
 
 親会社はオール電化を推奨する「グリーンイノベーションズホールディングス」で、子会社の中には東電が100%出資する「東電ホームサービス」を主要取引先とする企業もあった。

 改めて事実を確認すると、「(取引は)震災前の大昔の話。現在はないはずです。東電さんはオール電化を推進していたものの世論を受けて販売をやめてしまった」(「ソーラーリフォーム」代表取締役・清水勇介氏)という。
 
 とはいえ、山本としては東電のことは気にならなかったのか。
え、取引があったんですか!? 知りませんでした。でも、優良企業と思われてきた東電がスポンサーのテレビ番組は多数あった。僕自身も出演してきましたから、東電と仕事してきたことになります。気になりませんし、反原発の姿勢も変わりません!」
 
 初任給は社会人としての経験を考慮し、同期の新入社員より優遇。

 同社の屋台骨の営業部に所属し、勤務地や出勤日は流動的。
 初出社の日取りも未定で当面は芸能活動を優先させるという。
 奇妙な就職に映るのも仕方がない。

(日刊ゲンダイ2012年4月19日掲載)http://news.livedoor.com/article/detail/6488310/

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 日刊ゲンダイはにはめずらしくまともな記事(笑)。

 山本太郎になど触れたくもないが、とにかく覚えておくべき事は、大震災以前から「母親と一緒にグリーンピース支援活動をしていた」ということだ。これだけで笑止である。

 本人は大震災をきっかけにノンポリから目覚めたようなことを言っているが、そうではない。バカサヨクが大震災をきっかけに具体的な行動に出ただけである。

 次は社民党から出て国会議員か。こんなのにも支持が集まる。頭がいたい。 

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【追記】

山本太郎とグリーンピースのまとめサイト

日韓合作映画に朝鮮人役で出ていたり、「たかじん」で「竹島は韓国にあげたほうがいい」と発言したり(これは私もリアルタイムで見た)、グリーンピースの鯨肉問題にかけつけたり、山本太郎は前々からの母子そろって反日バカサヨクである。
今回の大震災で目覚めたかのような発言が不快だ。

【追記.2】──逮捕された姉

山本太郎の姉が逮捕されたという記事を見たので読みに行くと、逮捕された理由が「大麻吸飲」。

 

10年遅れのテレビ三昧──キムタクドラマ「HERO」「MR.BRAIN」感想

キムタクドラマ「HERO」「MR.BRAIN」感想。

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中身──

「HERO」「MR.BRAIN」感想。「CHANGE」との比較。
マンガ「島根の弁護士」。
父親市川染五郎「野バラ咲く路」。娘松たか子のタイでの人気。
大地真央、無惨。綾瀬はるかとの対比。

「トニイホロヘハ・ヘロホイニトハ」は一般的か!?
ヴァン・ヘイレン「JUMP」。知らん。

THE MANZAI 2011──不快なカットイン──無意味なゲスト顔の挿入

THE MANZAI 2011──不快なカットイン──無意味なゲスト顔の挿入

いやはやひどかった。初期のK1中継を思い出した。おもしろいものを、よくぞここまで不愉快に演出できるものだ。さすがフジテレビである。

ツイッター考──談志訃報に便乗する安易なブログ文章

日本人は死んだらみな神様にする。死んだらみな許す。

だから在日朝鮮人のプロレスラー長州力が、敵対した相手に「あいつらが死んだら俺が墓に糞ぶっかけてやる!」と言ったのは新鮮だった。日本人だったら「ぶっころしてやる!」までだ。墓に入ったらもう許す。墓に入っているのにさらに糞をぶっかけはしない。朝鮮人の感覚がよくわかる名言、いや迷言だ。いまだに豊臣秀吉を恨んでいる民族だから墓に糞もぶっかけるだろう。



しかしまた日本人は、死んだらみな知らない人まで追悼せねばと勘違いしている。仲間外れにする村八分も「火事と葬式」だけは別物だ。だから八分。死んでしまうと生前のことはすべて水に流す。すべて別扱いになる。

談志が死んだからと、あちこちで追悼が始まった。それはそれでいいのだけど、こういう場合、必ず話題に便乗してくるヤカラが出現する。それもまたそれで日本の風習みたいなものだからしかたないとは思うのだが、自分のTwitterにも関わってくるとカチンとくる。思わずつぶやいた。

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RTされてきたので出かけてみた。「師匠の言葉は深い」とか、いかにも物知り気なので、ほんまかいなと確認だ。すると、どう考えても談志の落語など聞いたことのない無名女タレントが、「死」という話題に便乗してネタにしていただけだった。引用されている「師匠の言葉」は、その辺の追悼記事から探してきたのだろう。

これはこれでかまわない。文才もなくブログネタにも困る無名タレントにとって立川談志を追悼することでアクセスが増えれば御の字なのだろう。勝手にやってくれ。だけどこんなのを何も考えず機械的にRTしてくるフォロワーにはうんざりする。なんと安易なのだろう。なんとセンスが悪いのだろう。
私がフォローを外すのはみなこのパターンだ。RTには人柄とセンスが出る。

立川談志の死──立川談志カール・ゴッチ論──北朝鮮拉致被害者に対する暴言の記録

立川談志が亡くなったらしい。大相撲を見ているとき、中断の5時のニュースで知った。これからしばらくマスコミは追悼と絶賛が続くだろう。明日のワイドショーなどは一色か。
私の談志(と亡くなった日だからこそ呼び捨てが優れた芸人に対する敬意ですよね)に関する想いは、ホームページに今までたっぷりと書いてきたので、ここでは省く。興味のあるかたはここに書いてあるので読んでください。

ひとことで言うと、私は立川談志という落語家を礼讃はしていない。志ん生はもちろん志ん朝とも比ぶべくもない。でも「落語評論家」としては日本一だと思っている。談志ほど落語を真剣に考え理論化したひとはいない。彼の落語CDはぜんぶもっているが「五大落語家論」がいちばん好きだ。

落語よりも百倍詳しいプロレスで例えると、私の感覚では、立川談志はカール・ゴッチになる。この比喩に新日ファンの落語好きは大喜びするのか。プロレスの神様カール・ゴッチの狄斥有瓩世函まああれはゴッチぐらいしか招聘できない猪木が無理矢理作った大嘘だが。

ミスター・プロレスはルー・テーズである。最高に強くてかっこよく、適度に弱い奴にもブックなら負けてやり、逆らってくる生意気な奴はバックドロップで泡を吹かせる。何でもできる真の最強レスラーでありチャンピオンだ。すなわち志ん生である。談志は志ん生のようなチャンピオンになれず、不器用な「ほんとなら俺が一番強い」とふて腐れているゴッチである。

志ん生に対する憧れ、志ん朝に対するコンプレックスにも、それがよく現れている。王様と王子さまに対する平民の悔しさだ。

高座で寝てしまい、客が「そのままにしといてやろうよ」と寝てるのを見守ってもらえた志ん生。
自分の落語の時に寝た客を寄席からつまみだし、裁判ざたになった談志。

談志というひとの落語、生きざま、主張、すべてカール・ゴッチのように思える。上記、「自分の落語の時に寝た客と裁判沙汰」なんてのは、WWWFのチャンプだった“ネイチュアボーイ”バディ・ロジャースを控え室で殴ったゴッチに通じる。ゴッチを神様にしている日本人は「実力のない人気だけの奴に焼きを入れた」という「ちょっといい話」にしているが、こんなのは売れない芸人が人気者に嫉妬しただけの暴力事件だ。当時ニューヨークで活躍していた馬場は、ロジャースがいかに華やかでスターとしてのオーラをもっていたかを証言している。ゴッチを慕う弟子も前田日明とか、そのへんの流れも談志とよく似ている。談志も前田も「生涯欲求不満」ということで共通する。

談志が死んで、その感覚を最もよく引き継いでいる芸人は太田光か。ふたりは仲がよかった。顔も所作もよく似ている。太田は談志を尊敬し、談志は大田をかわいがっていた。談志は「爆笑問題の片方は俺の隠し子」という冗談を好んだ。私はふたりとも大嫌いだ(笑)。大田の憲法9条に関する発言を読んだりすると吐き気がする。



落語家・立川談志が生前、「北朝鮮拉致被害者」に対してどのような意見を吐いていたか。以下にまとめて書いた。2002年11月のものだ。

これからしばらくはマスコミでは「立川談志さん哀悼と絶讃」が続く。
それとは別に、こういう発言をしていた、この程度の人間であることも、よく確認して欲しい。

北朝鮮被害者に関する立川談志のとんでも発言──2002年11月

これが載ったのは談志のサイトだった。今はもう削除されてしまい目にすることは出来ないが、これが立川談志というひとの基本である。落語以外ではこの程度の男である。
これも抗議されたから削除しただけで、もちろん謝罪なんてしていない。あまりにお粗末だ。どんなに落語が巧かろうとまともな人間とは思えない。こども時代から50年ぐらい見ているが、むかしから粋がって発言するたび、こんな的外れなのばかりだった。しみじみたいしたもんじゃないと思う。談志を崇拝している人間でまともなのにあったことがない。ついでにカール・ゴッチ崇拝者のプロレスファンもろくなもんじゃない。

明日からスポーツ紙、芸能記事、テレビのワイドショー、みな「立川談志師匠追悼一色」になるだろう。私は「立川談志的ひねくれ者」として、彼のこの「とんでも発言」を強く主張してゆきたい。

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附記 11/24──ワイドショーふたつ──みのもんたとミヤネ屋

私の生活は午後9時就寝、午前3時起床。3時からPCに向かっていて、時計を見たらちょうど5時半だった。みのもんたの番組が始まるなと点けてみた。11月6日にテレビのある生活に復帰してから初めてだ。ちょうど5時半に時計に目がいったのもなにかの縁だろう。以前はよくこんな形で5時半から30分ぐらいこの番組を見ていた。ひといきつきたくなる時間なのだ。3時間のロングワイドショーだが、1時間を3回繰り返すだけなので、すこし見れば全体が見える。「8時またぎ」と銘打って7時40分ぐらいから8時20分ぐらいまでやる大ネタ(これはうまい手法だ。8時から始まる他局のモーニングショーへチャンネルを替えさせない作戦)は、ゲストに興味があったらその時間にまた点ければいい。

案の定オープニングはみのの談志との想い出話だった。昼間から酒を勧められ、「イヤ、時間が」と言ったら、「あんたは時間で酒を飲む飲まないを決めるの? 時間と酒は関係ないだろ」と絡まれた話。私も24時間飲みたいときに飲むので談志の意見はよくわかる。ひとさまが起きだして朝飯食って出勤するような時間に風呂に入って酒を飲むのは楽しい。もちろん生番組が控えていて飲めなかったみのの気持ちもわかるけど。

みのの想い出話自体はおもしろいのでまだ見たい気もあったが、この種の番組ではよくあるように、談志のだの字も知らないような(いや、ようなじゃなくてほんとに知らないな)若い女子アナが、いかにも悲しくてならないという感じの殊勝な顔で打つ「ほんとに」「ええ」「すごいかたでしたよね」なんて相槌が煩わしくて消した。なにが「すごいかたでした」だ。演目ひとつ聞いたことがないくせに。
見たのは5分ぐらいだったか。私は談志崇拝者ではないけれど、長年見てきた落語家として彼の死を悼んでいる。そんな私にはこういう女子アナは不愉快で見ていられなかった。こういう浅い演技が視聴者を不快にすることに気づかないのだろうか。というか、視聴者のほとんども同じようなものか。



午後、こたつをセットした。そろそろやらないとと懸案だった。まだ火はいれないけど、とりあえずの冬支度。いい天気で、秋の陽光が差し込む私の部屋は温室のよう。ホットカーペットを敷くのに掃除機を掛けたりしたら汗ビッショリになった。ティーシャツ一枚になる。ほんとにこの部屋は暖かい。夏は地獄だが。

そのとき、ちょうどまた偶然に午後2時ぴったりだったのでミヤネ屋をつけると、木久蔵が談志を語っていた。ミヤネ屋を見るのも7月24日以降初めて。
これは1分ぐらい見て、すぐに消した。談志や木久蔵の好き嫌いとは関係なく、この種の訃報に関するワンパターンはつまらない。「××にいるときに、△△さんから電話があって、それで知りました。おどろいて、ウンヌン」。

きついことを書いたので、ここに来て気分を害した談志ファンもいるだろうが、私は彼のCD全集もぜんぶもっているし、著書も、弟子たちの書いたものも含めて99%読んでいる。談志が企画立案し、自身で司会をしていた『笑点』も初回から見ている。後に不仲になり縁を切るので談志は『笑点』をボロクソに言うようになる。スタンダップコメディアンとして語っていた談志も見ている。距離をおいた50年だが、ここ何年かで談志のファンになり、弟子でもないのに談志を「家元」なんて呼んでいる半端な談志ファンよりはよほど談志を見てきた自信はある。

ただし肝腎の寄席は、彼が「立川流で独立してから」は見ていないので、そこのところは弱い。立川流で独立してからは、生の高座には接していない。寄席で見ていたのはその前になる。
彼の弟子筋もCDでは聞いているし著書も呼んでいるが高座は見ていない。そもそも私はプラチナペーパーとか呼ばれるものには一切近寄らないから当然だ。落語なんて予約までして見にゆくものではない。気が向いた時ふらっと寄るのが寄席だ。上野鈴本や新宿末廣にもそんな気分ででかける。

今日はこれから晩酌の時、私なりに談志の噺を聞いて追悼しよう。DVDも6枚ほどもっているから、それを見るのが筋なのだろうが、私は彼のしゃがれ声の音曲は好きではないし、「演芸評論家としては日本一」と書いたことからも、CDの「立川談志のゆめの寄席」を聞こうと思う。

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これはいわゆる「わたしの選んだおもしろい落語 立川談志編」で、談志が自分の好きな先輩落語家の噺を紹介するものだ。談志は解説と進行を兼ねてしゃべっている。登場はほんのすこしだが、落語への愛情が感じられてすばらしい。本来なら談志の「芝浜」「文七元結」「らくだ」のような大ネタで偲ぶべきなのだろうが、わたしなりにこれにした。
それと一番好きな「五大落語家論」はやはり聞こう。志ん生や文楽への愛情があふれていて、何度聞いても楽しい。

談志が選挙に出た時、選挙カーで文楽の家の前を通りかかり、「黒門町の師匠、談志です。よろしくお願いします」と選挙カーからやったら、二階の窓を開けて文楽が顔を出し、「ようがす」と言ったって話はいつ聞いてもいい(笑)。

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【附記.2】 11/25──東スポの「談志に隠し子騒動」

金曜土曜だけ東スポを買う。競馬の馬柱を見るために。
11月25日の夕方。金曜版の一面に「談志に隠し子騒動!」。
あれだけのひとだからいて当然だ。
と興味津々で読んだら、なんと上に書いた爆笑問題の太田光のこと。
あいかわらずの東スポだ。他にネタはなかったのか。

叶姉妹の芸歴26年(笑)──触れられたくない真実──デヴィ夫人

【芸スポ萬金譚】叶姉妹の芸歴26年(笑)──触れられたくない真実──デヴィ夫人

朝っぱらからこんなこと書いて、なにやってんだ、おれ……。

竹脇無我さんの訃報に附記──竹脇さんからもらった服

【附記】10/10──竹脇さんからもらった服

私は竹脇さんから服を二着もらっている。外国で買ったという防寒着とバーバリのコートだ。もう20年もまえのものだけどいまも大切にしている。新品ではない。竹脇さんのおさがり。ともに高級品である。

防寒着はボタンが取れてしまったのと、私がすこし太ったのできつい。竹脇さんが私にくれたのも、竹脇さんが太ってきつくなったからだろう。
でもボタン以前にこれは外が皮、内がボアのすごいやつで、寒冷地で着るものだ。日本でこれを着て電車に乗ったりしたら大汗をかいてしまう。それでいまは上掛けにしている。冬場、こたつでTVを見ていて、ちょっと寒いようなときに上半身に掛けたりする。そのまま眠ってしまっても問題ないほど温かい。

バーバリのコートも高級品。私はめったにスーツを着ないので(もう何年も着ていない)、それに合わせるコートも着る機会がすくなく、いまも新品同様だ。これからも大切にしよう。私にとっては竹脇さんの遺品になる。

あ、思い出した。外国からのお土産でFilaのポロシャツをもらったこともあった。でもこれは私はポロシャツを着ないし、水色のあまり好きなものではなかったし(すみません)、竹脇さんが着たものでもないから大事にせず、いつしか処分してしまった。免税店で多くの関係者へのおみやげとしてどんとまとめて買ったのだろうけど、それでもよくまあ私なんかもメンツにいれてくれたものだ。ぶっきらぼうだけどやさしいひとだった。当時を思い出すと涙が出た。元気になられてから会いにゆき、もらった服をいまでも大切にしていると伝えたかった。

野田首相としずちゃんの顔──南海キャンディーズのしずちゃんを野田首相と勘違い

テレビのない生活をしている。新首相誕生関係のニュースはKey Hole TVの世話になった。
夕方、音を出さずに流しつつ、文章を書いていたら、新首相のボクシングシーンが映った。ヘッドギアをつけている。
早稲田時代柔道をやっていて有段者なのは知っていたがボクシングもやっているのかと思った。
新首相の柔道エピソードでは「山下に秒殺された選手に秒殺された」というのが好きだ(笑)。

このボクシング姿はむかしの秘蔵映像なのだろうか。
いやカラーだから、フィットネスのために今やっているのだろうか。すこし太目を気にしているようだったし。

と思ったら、「しずちゃん、韓国選手と対戦」と字幕が出た。音を出して見る。
それでそれが新首相ではなく南海キャンディーズのしずちゃんだと知った。



こういう話というのはだいたいにおいて「やらせ」「つくり」である。つまり、前々からふたりが似ていると思っていた私が、偶然テレビを見て気づいたという後付けでの作り話だ。
でもそうじゃなく、ほんとに野田がボクシングをしていると思ってしまった。そもそも私は野田としずちゃんが似ているなんて考えたこともない。

しずちゃんがロンドンオリンピックを目ざしてボクシングをやっているのは知っていた。トレーナーとの練習風景や試合の映像も何度も見ていた。大柄なだけにパンチが遅い。打たれすぎだ。日本代表になれたとしても世界には通じまい。本来ならしずちゃんだとすぐに気づかねばならない。なのに、ほんとに「新首相のボクシング映像」だと思ってしまった。ここ数日ずっと政治のことばかり考えていて、この時も「野田は日教組の輿石を幹事長にすえたのか」と、憤慨し呆れ返っていたとはいえ、ひどいかんちがいだった。

ふたりの画像を探して、並べてみた。似ていると思う。特に昨夕はヘッドギアをつけて髪の毛が見えなかったからよけいにそう思った。目鼻立ち全体が似ているが、唇のまくれ具合など、相似している。

私はこういうことににぶいので、世間ではもう大評判なのだろうと検索したら、まだどこにも書かれていないようだ。ひさしぶりのヒットかな(笑)。

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韓国選手にボコボコにされるしずちゃん。なんとか引き分けにもちこんだが「15点の出来」と反省。
新首相がこうならないよう願う。



しずちゃんの写真はMSN Sankeiより拝借。感謝。
http://sankei.jp.msn.com/sports/photos/110830/mrt11083021140003-p2.htm

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追記──山下と対戦あり(9/1)
 新首相は高校時代にすでに黒帯二段の腕前であり、山下と対戦があったとか。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20110830-OHT1T00289.htm

竹脇無我さんの訃報に後日記

「竹脇無我さんの訃報」に後日記を足しました。最後尾です。
週刊誌に近年の竹脇さんの「講演の様子」が載っていました。その内容に感じたものがあったので記しました。
鬱病を患うまでの竹脇さんと、それを克服しての竹脇さんでは、見えていた人生がまったくちがったのだと感じました。
竹脇さんの人生は、「15歳でお父さんを失うまで」「それを引きずりつつ、48歳で鬱病を発症するまで」「闘病期間を経て、それを克服した50代後半から亡くなるまで」のみっつに分かれると思います。
栄誉栄華は20代半ばから48歳までの役者生活にあるわけですが、週刊誌に収録された講演を読んで、晩年に、もうひとつの満ち足りた時間があったのだと感じました。それは15歳までの愉しい子供時代に匹敵するものだったでしょう。人生の悲喜を経験しているだけに、子供時代よりもっと充実したしあわせな時間だったろうとも思います。精神的な充実感は、美男俳優として売れっ子だった時代よりもむしろ晩年のこののんびりした時間の方が大きかったのではないでしょうか。なにしろ心に一点の曇りもなかったのですから。

親の自殺は子に影を落とします。子のために、親は自殺してはならないと、あらためて思いました。

竹脇さんの訃報に附記

「竹脇無我さんの訃報」に「過去の竹脇さんに関する文章」を追記しました。根強いアクセスがあるのは知っていましたが、自分でもどこに書いたかわからなくなっていたので整理できてよかったです。あらためて、竹脇さんのご冥福を心からお祈りします。

竹脇無我さんの訃報──あのころの思い出

15時半、読売新聞の速報で竹脇さんが亡くなったのを知る。
今朝、倒れて運び込まれたと知った時から不安になり、何度もニュースを確かめていた。

《21日午後2時5分、小脳出血のため死去した》とあるから、私が倒れたのを知り、なんとか持ちなおして欲しいと願っていたときにはもう亡くなっていたことになる。もう昨日、亡くなっていたのだ。

FM東京で7年半ほどお仕事をご一緒した。
私が竹脇さんの名前と顔を覚えたのはTBSの朝の番組「ヤング720」だった。関口宏の名前と顔もこのときに覚えた。私は田舎の高校生だった。
関口宏は俳優佐野周二の息子と知っていたが竹脇さんは、さすがに名アナウンサー竹脇昌作は知らないので、なじみがなかった。

中学高校の頃、田舎で「だいこんの花」を見ていたので、初めてスタジオでお会いしたとき、目の前に本物の竹脇さんがいるのが不思議だった。ほんとに美男子だった。声もよかった。でも親しくなってあれこれお話すると、お父さんのことを引きずっていて、どこか淋しげなひとだった。それがまた魅力になっていた。

竹脇さんがナレーターで、私が原稿を書いた。二週間分を一度に録るので月に二回の録音だった。
そのあとはいつも飲みに連れていってもらった。六本木が多かった。おおきなベンツに載せてもらえるのが嬉しかった。
サウナにもよく行った。
カラオケのおはこは「思い出のグリーングラス」だった。声がいいし、うまかった。
当時はカラオケでなく生ピアノの伴奏だったが。



中国で「姿三四郎」が放映されて、大人気だとかで、竹脇さん一行が中国から招待されて出かけたことがあった。私は当時まだ中国に行ったことがなかった。帰国してからの竹脇さんと付き人との中国思い出話がうらやましかった。あのころの私は中国四千年の歴史に憧れていた。何十回も行ったいまはもう大嫌いで、可能な限り行きたくない国だが、当時はそう思っていた。

テレビドラマの「姿三四郎」と言えば、私には小学生の時に見た倉丘伸太郎のものが竹脇さんのよりも印象深い。だいたいこういうものは最初の時が印象に残る。そもそも「姿三四郎」なんてのは必殺技が炸裂する荒唐無稽なこども向けのドラマだ。
いま調べると倉丘版は1964年、竹脇さんのは1970年になる。竹脇さんの姿三四郎の時、私はもう高三から大学だから、いまさら荒唐無稽な柔道ドラマでもなかったのだろう。あまり印象にない。

そのこと(「ぼくは姿三四郎というと倉丘伸太郎ですね」)を言ったとき、竹脇さんにイヤな顔をされた(笑)。そんなことはそれまでもそれ以後もなかったので印象深い。つまり竹脇さんにも「姿三四郎はおれだ」という無我ならぬ強烈な自我があったことになる。



ご自宅におじゃましたこともある。奥様にもお会いした。まだ離婚前だった。
明治座にもゆかせてもらった。楽屋へ入れてもらった。
このとき共演した十朱幸代と不倫して家庭がぎくしゃくする。
京都の太秦撮影所にもおじゃました。それまでにも競馬の取材で京都はたびたび訪れていたが太秦は初めてだった。あれこれ物珍しく楽しい体験だった。京都ホテルに泊まって夜は飲みに出かけた。

でもいちばんの思い出は何度も行ったプロレス観戦か。
竹脇さんは全日派だった。これは人柄とも合っている。大口をたたく猪木ではなく慎重派の馬場ファンだった。
全日の百田義浩さん(力道山の長男)と一緒にアイスホッケーチームをやっていた。録音の後、品川スケートセンターでの練習があり、それを見に行ったことも何度かあった。

(追記・いまターザン山本のブログを読んだら、「竹脇さんだが私の友人によると、全日本プロレスの東京都体育館の控室で今はもう亡くなった力道山の長男、百田義浩さんと親しくしゃべっているシーンを見たというのだ。ええ、竹脇さんもプロレスファンだったのかあ」とあった。あいかわらず雑でいいかげんな書きかただ。私はこういう伝聞ではなく実体験のみ書いている。)

プロレスの思い出で強烈だったのは「デビュウ戦を控えた輪島の控室におじゃましたこと」だ。報道陣もシャットアウトの控室に竹脇さんの顔で入れた。
タイガー・ジェット・シンとのデビュウ戦を控えた輪島を、酒も煙草も女も断って練習に励んでいると東スポは伝えていたが、目の前の輪島は指が焼け焦げるのではないかと思うぐらい短くなった煙草をスッパスッパ喫っていた。緊張していた。横綱にまで登りつめたひとでも、プロレスのデビュウ戦はあんなに緊張するのかと知った。国技館で見る輪島はいつも遙か離れた土俵の上だったから、あれが最も輪島を身近に見た体験になる。同じく控室に入っていた金田正一がなんやら声高にしゃべっていた。

竹脇さんが私の事を馬場さんに紹介してくれて、「このひとはねぇ、ほんとにもうプロレスが大好きなんですよ」と言ったら、ニコっと笑った馬場さんの顔が思い出深い。あれはほんとうにプロレスが好きなファンに向けられたものだ。



竹脇さんが鬱病を患うのはお父さんが自殺したのと同じ49歳のときだったらしい。私がお仕事をご一緒したのは竹脇さんが三十代末から四十代半ばにかけてだから病気の時期は知らない。
お父さんの自殺はいつも引きずっていた。お父さんの自殺を知らされたのは青山学院の高校生のとき。授業中、先生から呼び出されて告げられたとか。
そのときのことをポツンと話してくれたことがある。経験したものにしかわからないと、さびしげな、厳しい横顔だった。

鬱病で苦しみ、それを克服した後は、鬱病のことやお父さんのことも含めて、全国で講演していたとか。六十歳近くになってからか。ふっきれたあとは、欝病に苦しむひとの力になりたいと思ったのだろう。
今回どこかで読んだ記事(スポーツ紙)に「本当は毒舌家なのに二枚目を演じねばならないことからストレスがたまり、欝病を患った」とあったが、それはちがう。穿ちすぎだ。ふだんでも二枚目だった。

欝病の原因はそのまますなおに「自殺した父の年齢にちかづいてゆく恐怖」だろう。肉親を自殺で亡くしたひとはみなこの思いに囚われる。年々「後三年で、後二年で」と意識し、「いよいよ来年はおやじが自殺した年だ。おれはだいじょうぶだろうか。自殺しないだろうか」と強迫観念に囚われる。竹脇さんもいつもそのことを引きずっていた。親が自殺することがいかに後々までこどもの心を傷つけるかと、その残酷さをしみじみ思ったものだ。私の知っている三十代後半の時からそれを意識していたのだから、いよいよ迫ってきたときの苦しみはたいへんなものだったろう。



竹脇さんに講演の依頼が来た。女子大からだ。その初めての講演の原稿は私が書いた。竹脇さんが四十代になってすぐだった。
初めての講演だったので、私の書いたものを手に、いわば読み上げるようなもので、講演にはなっていなかった。女子大は学生に講演の感想レポートを提出させた。竹脇さんがそれのコピーをくれた。元原稿と女子大生達の感想文は今も保管している。
何度かそれをやってから、原稿などなくても出来ると素手で登壇したら、なにもしゃべれず絶句してしまったことがあった。
これは京都のホテルでの講演だった。私も京都まで出かけていた。会場でヒヤヒヤしながら見ていた。それでもう懲り懲りと竹脇さんは講演の依頼は受けなくなった。

そんな人前でしゃべることなど苦手なひとだったのに、鬱病を克服してからは、明るいキャラとなって、父の自殺や、そのことを引きずって鬱になり、死のうと思ったことも冗談交じりにして、たくさんの講演をこなしていたらしい。自分と同じ悩みをもつひとを救いたいという使命感だったのだろう。
「笑っていいとも」のテレフォショッキングに出たのを見たのが最後になった。あれはもう何年前だろう。明るいキャラになっていておどろいた。



実際にお会いした最後は、竹脇さんの付き人の結婚パーティだった。これは竹脇さんと同じく森繁ファミリーだった松山英太郎さんがサプライズで仕掛けたもので、新郎がそれに感動し大泣きしてたいへんだった。松山さんはこのあと急逝する。
森繁さんは、奥さんや息子さん、そして松山さんのようにかわいがっていた後輩にも先立たれている。竹脇さんが森繁さんを見送ったのは救いだ。

森繁さんをじつの父のように慕っていた。でも欝病で苦しんでいたときは、その森繁さんさえ忘れていたと記している。テレビで見て「あれ、このひと、誰だっけ、たしか知っているひとだけど」と思ったのだとか。病の深さが感じとれる。
自殺でないことが救いになる。

今夜は竹脇さんに献杯しよう。

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【附記】 16.23──もう葬儀は済んでいた

いまニッカンスポーツの記事を読み、亡くなったのが昨日21日の午後2時とは知っていたが、すでに今日22日に、密葬の形で葬儀も済んでいたと知る。

【附記.2】16.47──向田さんと同じ命日

今日は向田邦子さんの命日だ。あの台湾の旅客機での死。「だいこんの花」のころはまだ放送作家だった。後に作家に転身してすぐに直木賞を取る。
私は向田さんのファンだったので、竹脇さんによくその話をねだった。
「森繁のおやじのことだから、一回ぐらい手を出したかもしれないな」なんて言って笑ってた。
同じ日に亡くなるなんて……。



【附記.3】──過去の竹脇さんに関する文章──8/23/am:8.30

昨日、午後3時に竹脇さんの死を知り、急いで書いてブログをUPしたのが午後4時だった。
今朝、昨日のアクセス数が私にしては記録的であることを知る。それはアップしたのが早かったからだろうと解釈した。読売新聞の速報で報じられたのが午後3時前だから個人ブログの文章としてはかなり早かった。Googleのライブドアブログへの反応は即座だ。アップしてすぐに検索にあらわれる。だからこの文章「訃報」にアクセスがあったのだと思った。

でも今調べるとそうじゃなく、以前書いたものへのアクセスだった。そして今までにもその文章に長く確実にアクセスがあったことを知る。多くの竹脇さんのファンがお名前から検索して私のブログに来てくれていたのだろう。竹脇さんの根強い人気がうかがえる。「自殺考」のような楽しいテーマでなかったことを申し訳なく思うけれど。
でも上にも書いたけれど、「本当は毒舌家なのに、それとは反する二枚目を演じることがストレスとなり」という解釈は嘘だともういちど強調したい。ふつうに二枚目だった。竹脇さんを苦しめたのはお父さんの影だ。

せっかく多くのかたがアクセスしてくれるのに、竹脇さんのことを書いた文章がどこにあるのか自分でもわからなくなっていた。日附も。
それで「木屑鈔 竹脇」でGoogle検索し、以下にまとめた。やっていることが逆になっている。でもそれが出来るのだから便利な時代だ。
2年前、「自殺考」の最初で取りあげた前原さんがいま、総理大臣になろうとしている。

自殺考・前原さんの表情──2009/11/2

自殺考2・竹脇無我さんのこと──2009/11/19

竹脇さんとプロレス──2011/6/17


これらの文章を読み返してみたら、私が竹脇さんと番組をご一緒した期間が、7年、7年半、8年とバラバラなのに気づいた。なにしろ昭和末期から平成始めのころだからもう古い。たぶん7年と10カ月ぐらいが正解だと思う。8年目を前にして突然の打ちきりとなり、竹脇さんも私も憤然としたのを覚えている。もっともっと長寿番組にする気でいたから。

私はいまテレビがない。見られないし見る気もないのだが、今日は特別と先程携帯電話のワンセグでテレ朝のワイドショーを見た。同居していた女性が声だけで登場し、もうお酒も飲まず、定期検診も受けていて、とても健康体だったと語っていた。脳梗塞による突然死だったようだ。せっかく長年の欝病との闘いから復活したのに、67歳は早すぎた。でも苦しまなかったのはよかった。脳梗塞で眠るようにスッと行くのはわるい逝きかたではない。むしろ不随になってリハビリで苦しむ方がたいへんだ。

若いときの映像を見ると惚れ惚れするような美男子だ。今時のジャニーズ系とかがいかに貧相であるかがよくわかる。
昨夜は独酌で献盃をしたので今日は頭が重い。ご冥福をお祈りします。森繁先生とおいしいお酒を飲んでください。

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【後日記】──同居していた女性は恋人なのだろうと解釈し、最初に書いたとき、「同居している女性」のあとに(恋人)と入れた。が、テレビで「親戚の女性」と報じていたので、勘違いを恥じて急いで削除した。しかし後に近所のひとに「女房です」と紹介していたこと、「(自分には)娘がいるので入籍はしないけど」と言っていたことを知る。四十代のひとらしい。テレ朝の伝えた「親戚の女性」って誤報は何だったのだろう。「娘のことを思って」は、竹脇さんの長女は40になるから、娘と年の近いひととは再婚しないということなのだろう。

竹脇さんが倒れたのは、この女性と同居していた大田区の家だった。私がおじゃましたことがあるのは世田谷の豪邸だ。そこは離婚した奥さんに渡し、大田区にちいさな一軒家を購入して、そこでしずかに暮らしていたとか。
すっかり健康体になった竹脇さんが脳梗塞で倒れて、ふつうなら復帰できる程度のものなのに、そのままあっけなく逝ってしまったのは、糖尿病による血管の脆さが原因らしい。糖尿病は怖い病気だ。全身をおかす。これからますます怖い病気として注目されるだろう。



【後日記.2】──週刊誌に竹脇さんの講演の録再が載っていた。父の自殺や自分の欝病体験とともに、離婚にいたる女関係も赤裸々に語って笑いを取っていた。テーマはただひとつ「死んではいけない、生きていればなんとでもなる」である。

そこに「一時は女房以外の女と三人もつきあっていた。周囲にはもっと多くの女とつきあって、うまくやっているひともいる。だから自分もやれると思っていた。でもそうじゃなかった。それが苦痛になっていった。自分は女房ひとりでよかったんだ」というようなことを語っている部分がある。

その通りだと思う。でもこれは以前なら絶対に出てこないことばだった。欝病を乗りこえてからの竹脇さんは、あたらしい人生を掴んでいたんだなと感じた。
金も力もある色男だから女はいくらでも寄ってくる。簡単にそうなることが出来る。しかも相手はひとも羨む美女揃いだ。それは男の本懐である。

だが竹脇さんの本質はそうではなかったように思う。女好きでもないひとが漁色家ぶるように、酒に弱いひとが酒豪ぶるように、そういう「破滅」を願って無理をしていたのだと私は解釈している。女の話をしたことはない。そういう店にも行かなかった。男同士でわいわいやることが好きなひとだった。私もそうだったから楽しかった。ただ十朱幸代とだけは明治座の楽屋に行った時、デキてるのがすぐにわかったけど。

週刊誌では根本りつ子とのことを語っていた(正しくは、語っている講演が収録されていた)が、浮気相手はみなドラマや舞台で共演した連中だ。手ごろに見繕っていただけだ。竹脇さんはちっともスケベじゃなかった。ただ、役者として、そういうことをせねばならない、そういうことをするのが役者だと、自分に無理強いしていた感じがする。
じゃあなぜそんな無理をしたのかと言えば、それもまたお父さんの自殺からだろう。自分は落ち着いた家庭の子煩悩な父親であってはならない、あるはずがない、そんなことをしていても、いつか必ずそんなものは壊れる、壊れのだから護らない、という堂々巡り。どうせ俺もその内、おやじと同じく……。という恐怖がいつもまとわりついていたのだ。

講演で、「複数の女と不倫していたけど、自分はそんなタイプではなかった。女房ひとりで十分だった」と語っていたと知り、あらためてそう思った。
それは父の自殺したのと同じ49歳から鬱病になって苦しみ、それを吹っ切ったあとに初めて見えた青空である。15歳の時からずっとまとわりついていた黒雲が、やっとすっきり消えたのだ。美男俳優として売れっ子になり、高収入を得て、美女と浮名を流しても、いつもその黒雲がつきまとっていた。平穏な日々はなかった。一年一年、父の自殺した49歳に近づいてゆく恐怖。そこから病み、それを吹っ切ったあとの時間は、それまでとは景色が違っていたろう。

晩年は事務所の後輩連中から「無我爺(ムガジー)」と呼ばれて慕われていたと聞いた。
娘さんが最後を看取り喪主を務めているから、離婚したけど父娘関係は良好だったのだろう。
住まいの近所の人とも気さくに話して評判も良かったと報じられている。

せっかく見えた青空との時間がすくなかったのが惜しまれるが、最後の何年間は心から一切の黒雲の消えたいい時間だったろう。
講演を収録してくれた週刊誌に感謝したい。そこには私の知っている影を背負った竹脇さんとはちがう明るい竹脇さんがいた。(8/30)

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【附記】10/10──竹脇さんからもらった服

私は竹脇さんから服を二着もらっている。外国で買ったという防寒着とバーバリのコートだ。もう20年もまえのものだけどいまも大切にしている。新品ではない。竹脇さんのおさがり。だから大事にしている。ともに高級品だ。

防寒着はボタンが取れてしまったのと、私がすこし太ったのできつい。竹脇さんが私にくれたのも、竹脇さんが太ってきつくなったからだろう。
でもボタン以前にこれは外が皮、内がボアのすごいやつで、寒冷地で着るものだ。日本でこれを着て電車に乗ったりしたら大汗をかいてしまう。それでいまは上掛けにしている。冬場、TVを見ていて、ちょっと寒いようなときにお腹に乗せたりする。そのまま眠ってしまっても寒くないほどだ。

バーバリのコートも高級品。私はめったにスーツを着ないので(もう何年も着ていない)、それに合わせるコートも着る機会がすくなく、いまも新品同様だ。これからも大切にしよう。私にとっては竹脇さんの遺品になる。

あ、思い出した。外国からのお土産でFilaのポロシャツをもらったこともあった。でもこれは私はポロシャツを着ないし、水色のあまり好きなものではなかったし(すみません)、竹脇さんが着たものでもないから大事にせず、いつしか処分してしまった。免税店で関係者用のお土産にどんとまとめて買ったのだろうけど、それでもよくまあ私なんかもそのメンバーにいれてくれたものだ。ぶっきらぼうだけどやさしいひとだった。当時を思い出すと涙が出た。鬱病を克服してからの竹脇さんに会いにゆき、もらった服をいまでも大切にしていると伝えたかった。

「小林よしのりのAKB48讚歌」に追記

「小林よしのりのAKB48讚歌──裸の王様は誰?」に、「もしも設定が逆だったら?」を追記しました。


http://blog.livedoor.jp/moneslife/archives/51644031.html

ワイドショーコメンテータという仕事──田中雅美と柳田稔

ワイドショーコメンテータという仕事──田中雅美と柳田稔

テレビのない生活一週間目──2005年のヘキサゴン

テレビのない生活一週間目──2005年のヘキサゴン。登場するのは橋下弁護士。麒麟。眞鍋かをり。

高岡蒼甫の反日時代?──「パッチギ」のころ

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 フジテレビのあまりに異様な韓国執心を批判して話題になっている役者・高岡蒼甫は、2005年に、あの反吐の出る売国奴、名前も書きたくないのだが、井筒和幸の反日映画「パッチギ」に出演している。しかも朝鮮人役だ。

 私は前項に置いて、こんなものに出ていながら、よくぞ井筒に洗脳されなかったと彼を讃えたのだが、ほんとにそうなのかと思い、その後も調べてみた。そこでそうではないという話を見つけた。



 今日のニッカンスポーツ芸能欄では、高岡の話題を取り上げたあと、末尾に《高岡は、2005年に「パッチギ」に出演した当時、「日本は卑怯な国」「個人的に日本という国を好きになれない」と発言してブログが炎上し、4度も閉鎖に追い込まれた》と、いわば前々からの問題児であり、以前は反日だったと指摘している。

 アサヒシンブン系のニッカンスポーツであるから、元は自分たちと同じ親朝鮮であった高岡が変節し、今のアンチ朝鮮発言で持ち上げられることに我慢がならなかったのだろう。いかにもアサヒ的な攻撃である。

 ともあれこのことは、検索下手の私には不足していた話なのでたすかった。
 他者を語るには冷静で客観的な視点が必要だ。情報は量よりも取捨選択が大事だが、とりあえずそれなりの量も必要である。
 さてこの話は真実か否か。



 私はそれが事実であるかどうかに関わらず、このことで高岡を批判するつもりはない。高岡を嫌いになることもない。高校中退の無学な青年(後に定時制高校を卒業しているらしい)があんなのに関わったら洗脳されて当然である。かくいう私も日教組の教育により二十代末まで自虐史観(当時はそんなコトバはなかったが)に染まっていた。自力でそこから脱出するのには長い時間と膨大な勉強が必要だった。高岡は染まって当然だったと思う。ましてあの朝鮮人役で新人賞をもらったりもしているのだ。



 いまWikipediaの高岡の項目を読んだら、あの映画の完成後、韓国に「パッチギ」のプロモーションに行った際の発言が、「日本は卑怯な国だと思う」となって日本に逆上陸し、ブログ炎上から閉鎖に追い込まれたらしいのだが、2011年7月(つまり、今)に、高岡は、「そんな発言はしていない。あれは作られたものだ」とブログに書いたとある。

 そこの真実は判らない。朝鮮人は自分たちに都合のよい、そういう話を作るのが得意であり、ましてあの井筒のプロモーションに出演者して韓国まで同行させられたのだから、あいつらの捏造話の被害者だという可能性は高い。

 が、同時に私は、別項で「役者とは憑依するもの」と書いているように、映画が公開された当時で22歳(あの映画の制作開始からだと21歳ぐらいから関わっていたか)の高岡が、あの筋書きの映画に出演したのだから、当時はほんとうに洗脳されていたのではないか、とも思っている。そうならないと本気で演技できないのが役者という人種である。
 いま現在の高岡の発言を信じ、すべて朝鮮側の捏造だと思いたいが、この場合、「あれは捏造でした」との発言が「いま2011年7月」であるのが弱い。ブログが炎上して閉鎖に追い込まれた2006年時点でそう言ってくれていたら全面的に信用するのだが。



 しかしその真実はどうでもいいことだ。なぜなら今の高岡が正しい日本人であることは絶対的事実だからだ。
「あのころは洗脳されていた。そこから疑問を持ち、勉強し、努力して脱出した」で大いにけっこう。日教組が教育を支配し、あのような教科書で歴史を教えられるのだから、いまの日本では、こどもは反日に育つほうがふつうなのである。よくぞ覚醒してくれた。

 高岡蒼甫支持に変りはない。


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【追記】──やはり始まった高岡批判──7/31/04am

 思っていたとおり高岡批判が始まった。
 といって福岡や愛知の地方局ワイドショーが高岡非難を始めたとか、脳科学者の茂木とか言うのが高岡批判をツイートしたとか、そういうことではない。
 私の言いたいのは「こっち側」の話。本来なら支持しているひと、あるいは今まで支持していたひとが、あまりの高岡賛辞に嫉妬したのか(笑)、揶揄的な批判を始めたことだ。
 日の丸入りアイコンで愛国的発言をするひとのツイートにも散見できる。

「パッチギに出てた役者だからなあ、もちあげるほどのものじゃないだろ」
との発言があると、
「日本は卑怯な国だって発言してたのを以前聞いたような」
と同調するのが現れ、
「いや、本人がはっきりそう発言しているのをテレビで見たよ」
と、いかにも嘘っぽいフォローもあり、
「なんで転向したんでしょうねえ(笑)」
と皮肉り、
「まあ、生暖かく見守りましょうや(笑)」
と、うすら笑いで結ばれている。



 じつにくだらん流れだ。しかしまたこの種の問題では必ず出る流れでもある。高岡のような一部のひとから英雄視されるひと(=一部のひとからは偏向した悪人と見られるひと)が出ると、必ずこういうタバコの副流煙みたいなのが現れる(笑)。見事なほどセオリー通りだ。

 これらは、あの反日映画「パッチギ」に出演していたことや、以前の反日的な発言(本人はインタビュウを受けた朝鮮日報の捏造であり、自分はそういう発言はしていないと否定している)を取りあげ、今の彼の発言に疑問を呈しているわけだ。関東連合という暴走族出身だということから彼の発言を否定するひともいる。

 これに関する私の考えはすでに上に記した。まず暴走族うんぬんなんてのはどうでもいい。嘘か真か知らないが、そうだったとしても、なんでそんな若い時のつっぱりまで責められねばならない。くだらん。まったく無関係。

 彼の今回の発言を、私は「パッチギに出ていたからこそ」と、している。あれに出演し朝鮮人役を演じていたころの高岡は、それなりに朝鮮シンパだったと私は思っている。それが自然だ。でなきゃ監督からスタッフまで親朝鮮反日本の現場でやっていられない。なにしろ監督と脚本はあの井筒なのだ。さらには内容は親韓国ではなくて親北朝鮮だ。朝鮮総連のプロバガンダ映画である。正気で関われるものではない。

 その井筒や他の役者と日々交わり、在日朝鮮人青年に成り切り、日本を批判する感覚に染まったからこそ、評価される演技が出来たのだろう。
 劇中には、朝鮮人の衣装を着た笹野高史らが、強制連行(そんなものない!)された朝鮮人に扮して、いかに日本人に虐げられ苦労したかを演じる涙なくしても見られない哀号ミニコントもある。まともな日本人がこんなものに正気で参加できるはずがない。
 もしもいやいや演じていたなら、試写会や映画館で見た在日朝鮮人から、「あの役者は心がこもっていない」と批判が出たはずだ。なのに高い評価を受けているのだから、私は、洗脳され成り切っていたのだと解釈する。



 ここでこの意見を確乎たるものにするために私は「パッチギ」を見直して高岡の演技を確認すべきだ。でも私はあの映画を二作とも持っていたけど、あまりに不愉快な内容なのでもう廃棄してしまった。

 DVDとか、さかのぼってCDなんて、出たばかりのころは宝物のように大切にし、落としたりしたら傷でもついたのではないかと冷や冷やするほど大切にしていたものだったが、やがて鈍麻する。今の私はDVDをまとめて何十枚か捨てるなんて毎度のことだ。引っ越しの時は500枚以上捨てた。このビデオDVDも2枚ともためらいなく捨ててしまった。

「イムジン河」は若い頃の懐かしの歌だから、それを楽しみにパッチギDVDを入手した。もちろん本来の歌詞が北朝鮮讃歌のくだらんものであり、日本語歌詞は松山猛の創作であることも知っている。松山はフォーククルセイダーズの加藤和彦(パッチギでは音楽担当)が朝鮮人であることを知った上で、高校生時代からつき合っているし、原作者であり主人公のモデルである日本人松山の感覚は理解も支持もできる。

 監督が井筒だから、どんな偏向した内容になるかは想像できたが、松山の原作も読んだし、原作のよさから何とかなるかもと期待した。でもクソだった。歴史解釈の臭さがひどくて見るに耐えられなかった。というかまあより正確に書けば、原作は短文だから、それにアイディアを得て井筒が完全創作したというほうが正しい。
 もしも捨てずに今手元にあったとしても、いくら高岡を擁護するためだとしても、ちょっとあれは見直す気にはなれない。だからDVDのあるなしは関係ないか。二作目なんて途中で見るのをやめたし。

 あんな偏向したものが映画賞を取るのだからいかに日本の映画界が腐っていることか。もっともあの種の民族的なことを描いた映画が映画賞に強いことは世界的傾向だ。優れた戦争映画より二流の反戦映画のほうが強い。映画賞とはそんなものなのだろう。

 日本アカデミー賞とは恥ずかしい名前だ。「日本映画賞」でいいだろうに、アメリカの「アカデミー賞」を名乗っている。この程度のものには、このへんの偏向映画がちょうどいいのだろう。
 それでも今回のこの文を書くために一応下調べとして「パッチギ」を検索したら、「すばらしい映画ですね」ぐらいはまだいいとしても、「井筒監督ってエネルギッシュで憧れちゃいますね」あたりになると、さすがにもう読めなかった。



 あの映画は沢尻エリカがきれいだと話題になっているのを楽しみにした。きれいな女を見る以上の眼福はない。それにしても日本人男とフランス人女の混血美少女を在日朝鮮人にする感覚もかなりのものだ。日本人男は犬にして、生まれてきたこどもは黒人にするようなCMを作るのが孫正義に代表される朝鮮人感覚なのに、自分達のことはずいぶんときれいにする。もっともこのソフトバンクの国辱的CMは、作った側よりも、それを受け入れているほうにより異常を感じるが。

 沢尻はパッチギを映画以上の特別な存在であり今の自分を作ったと発言している。つまり沢尻はいまも「井筒思想」に染まったままなのだ。まちがいなく反日であろう。彼女の後の奇行もここに根ざしているのではないか。するとすんなり理解できる。あんな映画に出たら頭が狂う。そこから覚醒した高岡はほんとうにえらい。



 今回のことで井筒はまだ発言していない。あいつは高岡発言に何と言うだろう。「パッチギのころは自分と同じ考えだった。何があってこんなことになったのか」と嘆くのか、それとも「パッチギのころから反抗的で気に入らなかった」と言うのか。どっちだろう。来週頭に出るアサヒ芸能あたりで書いていそうだ。チェックしよう。

 発言が遅れている理由は明解。高岡にあれこれ知られているからだ。あからさまに高岡を否定したら高岡からの逆襲がある。慎重になっているのはそれが原因だ。韓国のプロモーションにまで帯同しているのだから、当時の高岡が井筒のお気に入りだったのはまちがいない。それもまた私が当時は洗脳されていたと考える理由になる。井筒は、後々高岡がまさかこんな発言をするようになるとは夢にも思わず、心を許し、いろいろと語っているはずである。裏事情も知られているだろう。そのヤバさから高岡批判が遅れている。



 いずれにせよ私は、あの「パッチギ」洗脳から脱出したことを評価し、染まっていた当時の発言の真偽はわからないが、假りにあったとしても、いまの発言が正当なのだから関係ないとする。
 つまり、前記赤字の連中は、「そういう時期があったんじゃないの?」→「だったら信じられないよな」としているわけだが、私は「そういう時期があったのはむしろ当然じゃないか。そこから脱出したのだからよけいにえらいじゃないか」としているわけで、彼らとは根本からしてちがうことになる。



 彼らのような発想をしていたら何も言えなくなる。
 卑俗なことで言えば、私はヘビースモーカーだった。やめてもう二十数年経ち、今は大のタバコ嫌いだが、嫌煙の主張をするときは、当時の自分を意識し、いまでも恥を感じる。私自身が加害者だった時期があるからだ。

 でもだからといって「以前は喫ってたくせにエラそーなことを言うな!」と喫煙者から責められても困る。それを気にしていたらいつまで経っても何も発言できない。過去にタバコを喫っていた者は嫌煙権を主張できないことになる。やめて二十数年経つ私でもそうなのだから、やめて一年なんてひとは、嫌煙の主張をしたくても、だいぶためらいがあることだろう。でもやめて一年でもすべきことはしたほうがいい。

 その点ほんの数年前までは「お肉大好き」と日記に書いていて、その言辞がいまもネット上に明確に残っているのに、いまは食わないことを理由に、肉を食う人間や畜産農家を否定する「きっこさん」はお気楽な性格だと感心する。まああのひとはタバコでもパチンコでも「わたしの好きなものはすべて正しい」路線だから壊れている。「きっこさん」は自分がタバコをやめたら、タバコがいかに害毒のあるものであるか、かつて愛煙家であったことなどきれいさっぱり忘れて他者を責められるのだろう。

 いやそんなタバコだとか肉食だとかの卑小なことではなく、前記「イムジン河」が流行っていた頃の私は、アサヒシンブンを愛読する日教組教育の自虐史観に染まった青年だった。「パッチギ」のころ高岡がすこしばかり反日だったからいま愛国的発言をできないとするなら、私なんかなにも言えなくなるし、私どころか現代の保守系論客なんて、ほとんどは60年安保、70年安保の時はサヨクだった。そこからの、サヨク運動からの転向者である。ひとはなにかに染まり、それに疑問を持ち、悩み、脱却し、目覚めて、成長して行く。いま覚醒しているのに出自を問われて否定されたらたまらない。



 それと、これもまた大事なことだが、前記赤字の発言をするようなひとは、そんなにリッパなのだろうか。恥じるような過去などなにひとつないのだろうか。
 假定だが、高岡がかつて関東連合という暴走族と関わっていたとして、またパッチギ当時反日思想に染まっていたとして、いまそれとは無縁になった高岡を冷笑できるほど真実一路のリッパなひとたちなのだろうか。

 まあ中には「おれは高岡と同じ年齢だが、物心ついてからずっと愛国者だ」というようなひともいるのだろうが、あんまりすんなり来ているのも気味悪い。サヨク思想というハシカは一度経験した方がいいのだ。朝鮮礼讃映画に出演したときは朝鮮贔屓、日本嫌いに染まったが、いまはそこから脱出した、という青年のほうがずっと自然だ。信用できる。



 私は、韓国から帰化した呉善花さんが好きだ。著書もよく読んでいる。彼女の発言は朝鮮での教育に染められ、かつては反日だったひとが、来日し、日本の真実を知り、親日家になり、すると今度は在日朝鮮人や故国からは嫌われ、入国拒否をされるような目に遭っているからこそ重みがある。

 中共から帰化した石平さんも好きだ。独裁国家の怖さを知っているからこそ石平さんの意見は傾聴に値する。ただ私は何度も中共に行っていて生理的に支那人とは合わないことを確認しているから、石平さんの書いた支那人分析の本は、一応読んだが愛読とは言いがたい。私は、支那人よりは義理に厚い朝鮮人のほうがまだ好きだ。

 だがこれらも呉善花さんを「元は朝鮮人だろ」、石平さんを「帰化したからといって支那人なんて信じられるかよ」と言っていたら何も話せない、前に進めない。

 高岡が「パッチギ」時代はどうだったか知らない。それはまたどうでもいいことである。大切なのはいまだ。今の彼は信用に足るだけの勇気ある発言をしている。それは反原発利権でプロ市民と連携している山本太郎とは異なる。

「パッチギに出ていたからなあ」
「日本を卑怯な国って以前言ったんだろ」
 そんなことをしたり顔で言って今の高岡を否定するひとを、しみじみくだらん、と思う。

役者・高岡蒼甫の心意気!──応援するぞ!!!

山本太郎という、母親絡みで8年前からグリーンピースを支援しているという、とんでもない反日分子が反原発で注目を浴びる中、こちらにも期待の新星が飛び出した。その名、高岡蒼甫。



高視聴率だったNHKの大河ドラマに主演したのが女房で、そちらの方が高名らしいのだが、私は大河ドラマなんて見たことがないので知らない。
いや見たことはあるんだ。ほんの数回。最初は、え〜とね、地味な劇団俳優の緒方拳てのが秀吉役に大抜擢されたってとき。食うや食わずの貧乏役者がとんでもない大役を射止めたと話題になっていた。
あとは、歌舞伎の尾上菊之助って美男が源義経を演じるってとき。思いっきり悲劇の美男に描かれたわけだけど、司馬遼太郎が「義経はチビで出っ歯の醜男」とアサヒシンブンに書いていたことが印象的だった。念の為に書いておくとこのひとは寺島しのぶの父ちゃんね。それ以降、大河も紅白も見たことがない。朝ドラは一度も見たことがない。ま、ほんの40年前の出来事なんだけど、私も一、二度、大河ドラマを見たことはあるわけだ。

私はとても頭がよくて物知りで(笑)、たまにクイズ番組を見るとどんな難問もすらすら解けてロザンの宇治原以上の正解率なのだが、バカバラエティでやる「NHKの朝ドラに主演した女優の名を5人あげよ」とか「昨年の紅白に出場した歌手の中で」なんて問題だけはお手上げ。まったく答えられない。見てないのだから知るはずもない。しかし民放って大河ドラマとか紅白の話、好きだよね。本家のNHK以上に。なんで? 国営放送に敬意を払ってるの?
この役者のことはまったく知らなかった。より有名らしい女房も知らないのだから当然だ。



この高岡蒼甫という29歳の役者が、フジテレビの異様な朝鮮崇拝に苦言を呈した。役者はみな河原乞食。電波芸者だ。なのに勇気ある発言である。山本太郎のそれには政治的な思惑が見えていたが、高岡の場合は、ごく素直に本音が出たという感じで好感が持てる。

韓流「洗脳気持ち悪い」高岡蒼甫つぶやく

 女優宮崎あおい(25)の夫で俳優の高岡蒼甫(29)が、自身のツイッター上でフジテレビと韓流ブームを過激批判し話題になっている。23日に「8は今、マジで見ない。韓国のテレビ局かと思うこともしばしば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど」とツイートして以来、26日までに「洗脳気持ち悪い」「嫌な物に媚び売ってまで活動しない」「骨抜きだよ、今の日本人は」「干されることによってみんながこの悪しき流れに気付くなら本望」などと発言をエスカレートさせている。
 また、この騒動で妻の宮崎との間に亀裂が生じていることも明かしている。26日「本人が書いてくれと言っているので書きます。家の妻は自分と一緒の思想ではありません。火の粉が飛ぶのは勘弁です。と。はぁ、家出ようかな」とつぶやいている。
(日刊スポーツ)

しかし「俳優の高岡蒼甫」と書かれる前に「女優の夫で」と書かれるのは屈辱だろうなあ。芸人とはそんなものとは思いつつも。



そのことをツイートした。

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というところに、「香川照之」に関する質問がツイートされたので応えたのが以下のもの。私も役者としての彼のファンだったので、南京事件をスキャンダラスに扱い、針小棒大に取り上げた中共プロパガンダ映画に染められ、反日分子になってしまった香川には失望した。不快過ぎてここには書く気になれないようなひどい発言をしていた。

しかしまた当然とも思うのである。役者とはそんなものだ。反日クソ映画「パッチギ」で、笹野高史が日本人に虐められて苦労したという設定の朝鮮人役を演じていたが、あのときの彼は日本人を憎む朝鮮人になりきっていたろう。しかしまた立場が違う誇り高い日本軍人を演じる時があったなら、それはそれで彼はその役に成り切ると思う。役者はそれでいいのだ。名優とはそんなものだ。
香川のそれには落胆したが、そうでなければあんな役は演じられまい。まあ心ある役者なら最初からあんなオファーは受けないと思うので、彼がもともとそんなたぐいであった可能性も高いのだが。

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ビートたけしの意見は、役者というもの、芸人というものに関して、正論だ。ただしこれは、たけしがポツネンとつぶやいたものではない。たけしは、反体制を粋がる愛川欽也のような俗物に対するアンチテーゼとして、こういう発言をしたのだ。芸人なんてのは所詮そんなものなのだと。
その基本に、むかし蜜月、いまは不仲になった大橋巨泉のもったいぶった発言があったのはまちがいない。愛川とか巨泉は典型的な「芸人は反体制でなければならない」という時代錯誤人間だ。それはそれでいい。電波芸者が食ってゆくポーズとして、ありだ。そういう時代だった。それがもてはやされた。だがいつしかそれは形骸化し「反体制というポーズのための反体制」になっている。たけしはそういうものとはちがうレベルに踏み込んだ。巨泉と不仲になるのは当然だった。



フジテレビというのは、本来開局の目的からして保守陣営のものだったはずなのだが、なにゆえ、あんな醜悪な局になってしまったのだろう。経営者、株主、いったいなにがあったのだ。不勉強なので(というかテレビに興味がないので)知らないけれど、いくらなんでもあまりに朝鮮に阿っている。

そんな中、高岡蒼甫という29歳の役者のフジテレビ批判は、私には一服の清涼剤だった。サッカーに興味のない私には、なでしこジャパンの世界一よりも、はるかに希望的な出来事だった。日本の若者にも、まだまだ骨のある奴はいる。希望は目の前を明るくする。しみじみと気分の良くなる出来事だった。

高岡蒼甫、がんばれよ。応援している日本人は山といる。まっとうな日本人はみな同じ事を思っている。

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【附記】──「パッチギ」に出ていた高岡蒼甫

高岡は前記の反日映画「パッチギ」に朝鮮人役として出ていた。いまだ顔は思い出せないが。だってあの映画、腹立って不愉快で見ていられなかったから(笑)。

とすると、中共の南京事件映画に出て支那贔屓になった香川照之のように、高岡がこの映画や井筒に感化されて反日の自虐史観に染まってもおかしくなかった。しかし彼は逆に目覚めた。やはり骨のある青年のようだ。



【附記.2】──フジテレビの株主比率

フジテレビの外国人株主比率が20%を超えているとツイッターで流れている。そのことが異様な韓国番組の放送につながっていると。
しかしフジテレビはもともと日本の有志が、そういう意志で作ったテレビ局だ。フジサンケイグループである。假に外国人の株主が20%になり、放送内容にまで影響を及ぼすようになったとするなら、真っ向からそれに反対する勢力もまた動き始めるはずなのだが……。

問題は外国人株主20%ではない。日本人株主80%にある。
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