漫画

マンガ話──マンガとBGM──「Blue Giant」「夏子の酒」「どうらく息子」

6時前だというのに射しこむ朝日でまぶしいほど。室温は早くも30度を突破。「夏はBossa Nova」一辺倒なので朝からもうStan Getzが吹きまくっている。

先日、「Blue Giant」を全5巻まとめ買いした。1巻ずつでは生殺しだから溜るまで待っていた。気合いを入れて読んだ。画でJazzを表現しようと石塚真一さんが挑んでいるのだ。こちらも気魄をもって接せねばならない。「気合い」とか「気魄」と書いているが、なんのことはない、最高に愉しむための酒と音楽に凝ったという話。これはサイトに独立して書こう。長くなる。当然Jazzを聞くのだが、作品中にもばんばん出てくるので、それを追っているだけでもたのしい。でもそれでは追従で不満とも言える。作品に負けることなく、こちら側の選択で対決するというのも手だ。結果的に私はSonny Rollinsを撰んだ。画から流れてくる音がそう聞こえたからだ。
いまトリオを組んだから、次ぎに単行本を買って読むときは、ピアノも意識せねばならない。あの音は誰なんだろう。というかトリオのままなのかな。ベースが欲しいけど。

酒は、むかしからJazzを聞くときはbourbonと決めていた。ストレートだ。Monkのように「straight no chaser」とは行かずたっぷり氷水を飲む。腹の中で混ぜているのだから水割りと同じじゃないかとも思うのだが、それでもストレートと水割りは私の中では明確にちがう。Jazzとbourbonは、あまりにワンパターンとも思うが、それがいちばん合ってたのしい。フランスという国はいろいろ問題があって好きか嫌いかいまだにわからないのだが、アメリカで差別されて苦しむ黒人ミュージシャンに寛容だったことは好意的に解釈する。そういう意味ではたしかに藝術の国だ。もっとも我が日本だってすぐれた音楽家は肌の色など関係なく大歓迎するから、初来日したアート・ブレーキーがそれに感動して大の親日家になったのは有名な話。
今回はJazzマンガをJazzを聞きつつ飲むのだからbourbonに決まっていそうだが、あえてそれはせず、いつもの「キンミヤとホッピー」にした。「菊水ふなぐち熟成」のときもあった。一応理由はある。主人公がまだ十代でもあり、作品から酒の匂いがしないのだ。石塚さんは飲まないひとなのかな? ならワンパターンのbourbonはかえって不粋なのではないかと考えた。Jazzだからbourbonと構えず、普段着の酒で、そのぶん音のほうに凝った。



ひさしぶりに「夏子の酒」を読み返している。このあと「奈津の蔵」「蔵人」もいく。こちらは「Blue Giant」の「なにを聞くか」と同様に「何を飲むか」が重要。日本酒と決まっているが、作品に失礼にならないだけのものを用意せねばならない。日代わりで純米酒や大吟醸を飲んだ。酒屋で唸った。選択に迷った。まあたのしい悩み。

こまったのは音楽だ。私は画を見つつ音楽を流し、酒と肴と、視覚聴覚味覚ぜんぶ愉しむのを常としている。なにかひとつ缺けても物足りない。この作品にはどんな音楽を流せばいいのだろう。作品に出て来るレベルに合わせるなら、新潟の田舎の青年がドライブ中に「ユーミン、聞くか?」なんてセリフがあるからそのあたりになるが、そういうものでもないだろう。ユーミンもとり揃えてはあるが。

しかしこれは「Blue Giant」から酒の匂いがしなかったように、音楽が聞こえてこないんだよな、作品から。なら「なし」なのか。「風の音」のような効果音でも流すのか。



尾瀬さんの最新作は「どうらく息子」。こちらも10巻そろったので手にした。まだ導入部の一巻しか読んでいない。落語マンガ。これは酒は日本酒ともう決めているけど、こちらも音楽はどうするんだろう。「Blue Giant」で名の出て来るミュージシャンの作品を意識したように、作品から感じる咄家の作品を適時に撰んで流すのか。志ん生親子、圓生、文楽、春風亭一門、柳家一門から立川流、関西は春団治、米朝、枝雀、文珍、三枝まで、なんにでも対応できるよう揃えてある。志の輔のDVDなんてのもぜんぶある。
といって落語マンガに落語ってのもベタだ。というか落語マンガに名人芸を流したらマンガが霞んでしまう。主役はマンガのほうで音楽はそれを引き立てる役目だ。いや音楽が主役の場を奪って、しばし聴き惚れるのも愉しいのだが……。じゃあなにを流す。そういや「出囃子集」なんてのももっている。そういうのもありか。

飲食話──なすのわさび漬けの素──異国で涙したわさびの味──庶民派屋台好き『島耕作』のウソ--ネットレシピは誤字だらけ

wasabi motoスーパーで写真の「なすのわさび漬けの素」を見かけた。なつかしくて思わず3袋も買ってしまった。値段は税抜きで93円だった。以前買ったときは130円ぐらいしたと思うのだが勘違いか。
 異国に長逗留するとき、ふと思いたってこの種のものを手当たり次第に買って持参した。こだわりのモノを持参することは以前からやっていた。
 たとえばタイに燃えていたころ(笑)、塩味歯磨きを持っていった。あのころのタイの歯磨きはハッカ系のものばかりで、サバイサバイを至上とする民族なので、スースー度合もすごかった。しかし日本人の私にはあわない。私は日本にいるときからスースー系はきらいだったし。同じく彼らにも塩味歯磨きは不評だったのだろう。タイ製はもちろんないし、大きなスーパーに行っても日本からの輸入品もなかった。どこを探しても見つからず持参することになった。いまはもちろんある。
 「森永ハイソフト」というキャラメルが必需品の時期もあった。日本にいるとき口にすることなどほとんどないのだが、異国でさびしくなったとき、あの味が私には疲れを取る最良の甘さだった。どこに行くにもバッグにひとつ入れていった。とまあいろいろあるのだが、さすがに漬け物の素を買ってもっていったことはなかった。



 だいぶまえの話だが。
 世界を巡ることがたのしくてしょうがない時期の三十代の競馬ライターが、一緒に旅行することの多い先輩の五十代のライターを否定していた。そのひとと異国に行くと、まず最初に日本料理店はないかと言うのだとか。せっかく異国に行ったのに日本食ばかり食べている。異国に来たならその地の料理を食うのが基本であり、「あのひとは若いときから多くの国を旅したひとなのに、なんであんな……」というのが彼の不満だった。
 しかしそれは「若いときから多くの国を旅したひとだからこそ」なのである。その先輩ライターは、それこそあのシベリア鉄道でヨーロッパに渡った世代だ。当時は日本食など食いたくてもなかったろう。それはそのあとに巡った数十ヵ国でも同じだった。その地その地の飯を食うしかなかった。不満はあったにせよ、この三十代のライターと同じく、それがたのしい時期もあったろう。
 そうして五十代も後半に入ると、素朴な本音が出て来る。日本人なのだ、日本食が好きなのだ。もうそういう苦労からは卒業して日本食の好きな日本人として素直に生きたい。そういうものである。それがまだ異国巡りと異国の味が新鮮でたのしくてたまらない三十代の彼にはわからない。私にも三十代の彼と同じ時期、同じ意見の時があり、そしていま見事にその先輩ライターと同じ感覚になった。
 あの三十代のライターもいまはもう五十代だ。ここのところ音信不通だが、いまはどんな食生活で異国を巡っているのだろう。



『島耕作』の初期の頃、異国に赴任した彼が、その国の庶民の食べる屋台で食事し、現地人の社員に「こんなひとはいなかった」と一目おかれるシーンがよくあった。その後もその路線は続いた。気どっている日本人はみなクーラーの利いている日本食や洋食のレストランに行くのに、島耕作は、現地人と一緒に庶民的な屋台で汗を掻きつつ食事する。現地人スタッフから、あなたは変人だ、でもいいひとだ、と思われる設定である。現地人の美人秘書に、それが理由で好かれたりする。わたしたちと同じ目線のひとと。
 それが弘兼さんの姿勢であり、「その国の庶民のものを喰わなければその国はわからない」という主張なのだろう。フィリピンでもタイでもベトナムでもやっていた。定番であり、悪く言えばワンパターンとなる。中国でも同じだ。それは現地採用の連中に好感を持って受けいれられている。

 しかしこれはウソだ。こういうところに「取材して描くマンガ」の嘘っぽさが出る。弘兼さんの異国取材は長くても一週間だ。そりゃ初めて行った国で、庶民が食事する屋台取材は基本であり、「うん、こりゃうまい、気に入った」が出来るだろう。一、二回は。一週間だけだし。
 だがサラリーマンは数年間も勤務する。フィリピン、ベトナム、中国の、現地の連中があわただしく食事する下々の者の屋台で、毎日『島耕作』のようにスーツにネクタイ姿の日本人サラリーマンが食事など出来るはずがない。一週間で厭きて、つらくなり、日本食が食いたい、クーラーのあるところで飯が食いたい、となるだろう。あくまでもあれは「弘兼さんの一週間取材」であるからこそ出来るエエカッコシーである。現地赴任のサラリーマンからは、そういう『島耕作』のキレイゴトには批判もあったと思う。

 タイ篇のバンコクではトゥクトゥクに乗り、「わーお、こりゃベンツよりいい」なんてやるシーンがあった。もちろんそこでもタイ人の運転手ソムチャイに、「旦那はかわったひとだ」と好意的な評価を受けている。弘兼演出の「島耕作はいいひと」である。初めて乗って、一回限りだからそんなことが言える。あの地獄渋滞都市バンコクで、毎日トゥクトゥクに乗っていれば、暑さにバテ、排気ガスに煤けて、クーラーの利いたベンツが恋しくなる。私がそうだった。「庶民なのだから庶民用のトゥクトゥクに乗るべし」なんて、100回ぐらいまではトゥクトゥクだったが、やがてエアコン附きのタクシーにばかり乗るようになった。地獄の渋滞もジャスミンの生花のいい匂いがする涼しい車内なら耐えられる。

 私はサラリーマンじゃないから、気楽な恰好で、『島耕作』と同じ考えで庶民屋台で食事をする旅をしてきたが、美味しいタイやベトナム料理だって、毎日そればかりだと厭きてくる。たまにはちがうものを喰いたくなる。カンボジアはまずかったし、中国はもうあのうるさくて礼儀がなく食いちらかすシナ人と一緒に飯を食うだけで憂鬱になる。食はたのしみなのに、食が憂鬱になるのだ。シナ人の食堂に行きたくなくて、部屋でコーラとビスケットで過ごしたことすらあった。そのほうがまだヤツらの食堂に行くより精神的にましだった。なにが「食は中国にあり」だ。食以前に人間の問題のほうが大きい。
 『島耕作』はフィリピンやベトナムや中国の屋台に何度行ったのか。「よし、これからは朝食はここにしよう」なんて言ってるが、ほんとにそれからも毎日そこに通ったのか。訊いてみたいものだ。

 全巻所有している大好きな『島耕作』だが、あちこちに矛盾点を含んでいる。でもそれはそれでおたのしみと割り切ることにしているから、私のいちばん嫌いな『島耕作』は、この「異国でやたら庶民派をアピール」かもしれない。



wasabi moto 日本食に餓えたときのために「きゅうり 浅漬けの素」とか、同様のものを何種類か持っていった。その中で私がいちばん感激したのがこの「なすのわさび漬けの素」だった。期待していなかった。ほったらかしておいた。なすの漬け物なんて日本でも作ったことがない。漬け物は、大根、蕪、白菜、高菜、野沢菜、なす、きゅうり、みな好きで、日本酒を飲むときには、メインの肴は刺身だが、漬け物も缺かせない。といって異国で餓えるほどでもなかった。

 餘談だが、私はいま朝鮮漬けを喰わない。日本のおいしい漬け物があるのに、なにゆえに朝鮮漬けを喰わねばならないのか。むかしは「朝鮮漬け」と言った。いつしか「朝鮮」というコトバが禁句となり、いまは「キムチ」と言うらしい。日本の最高にうまい漬け物に「糠漬け」がある。それを食わず朝鮮漬けを好むようなのは、味覚が壊れている。食品は風土にあって育つ。朝鮮漬けは日本よりも寒い朝鮮半島で喰ってこそうまいものだろう。閑話休題、言帰正伝。

 旅行バッグの中からこれを見つけた。やってみるかと手にする。なすはあった。日本と同じ感じのものが。それを庖丁ならぬカッターで切り、ビニール袋にいれて、この素と揉み、冷蔵庫に保管した。たいした期待はしていなかった。1時間で喰えるようになるらしいが、一昼夜ほっておいた。これは正解だった。一昼夜漬けは1時間よりもあきらかにうまかった。これは後日確認した。
 翌日「あ、忘れていた」と取りだし、口にしたとき、茄子の漬物のわさびの味から日本を想い、泣きそうになった。そしてまた、猛烈に日本酒が飲みたくなって困った。とても日本酒が手に入るような環境ではない。諦めざるを得なかったが、あれで日本酒を飲んだら確実に泣いていた。



 こういう「素」に関して素朴な疑問がある。旬となってきゅうりが安くなり、3本が98円なのに「きゅうり 浅漬けの素」が128円だったりする。私の感覚だと、きゅうり本体が3本98円なら、浅漬けの素は30円ぐらいが適切だ。「素」のほうが高いことに納得が行かない。本末転倒だろう。
 その点この「なすのわさび漬けの素」は、まだ茄子がシーズン前なので高く、今回私の買ったのは博多茄子で3本268円、この3本を漬ける「素」が93円だから、私流のリクツにあっている。


「素」の中身にも「なぜそんな値段なのかわからない」と感じる。簡単な調味料の組合せにすぎない。どう考えても30円で充分だ。つまりこれは「浅漬けすら作れないヤツのためのもの──高くて当然」ということなのだろう。それすら出来ないヤツのための便利グッズだから、そういう値段なのである。ターゲットとする「ヤツ」は料理の出来ない主婦か。

 一般にはどうなのかと検索してみた。「素」を使わずにおいしい漬け物を作っているひとがいるはずだ。ネットには「なすのわさび漬け」のレシピがいっぱいあった。チューブわさびを使って、すこしその他の調味料を足せば作れるようだ。「チューブわさび」は私には必需品で異国に行くとき必ず持参する。うまい刺身が手に入ったとき、これがないと困るからだ。わさび抜きの刺身を喰う気はない。チューブわさびはまずい。しかしあるとないとでは段違いだ。ちかごろスーパーの寿司に「さび抜き」というのがあり、たまにまちがって買ってしまうことがある。そのときしみじみわさびの利いてない寿司など意味がないと感じる。というぐらいわさび好きで、外国に行くときは、その味に満足はしないが緊急用として常にチューブわさびをも持参するのだが、残念ながら今まで役だったことはない。ポルトガルでタコを喰う機会があったら役立つのだが、ここのところ私の異国行きはシナの山の中ばかりなので、わさびを使うような肴には出逢えなかった。いつも使わずに持ち帰っていた。帰国してそのままごみ箱行きである。だからこそ「なすのわさび漬け」のわさび風味に感激したのだ。そうか、チューブわさびを工夫すればいいのか。勉強になった。役立ちそうだ。まずは日本で作って試してみよう。



 ネットの料理レシピを見るなんてめったにない。便利なものだと感激した。しかし、ちょっとこれはと思うこともあった。あまりに誤字が多いのだ。それもほんの1、2行の短文の中に。

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「茄子を5cm長さ切り」──「煮切り」という料理用語があるのかと思った。茄子を煮るのか!? 煮た茄子を漬けるのか? ただの「に」を漢字変換したミスだった。また「5cm長さに」は「5cmの長さに」と「の」を入れるべきだろう。

 しかしこんなミスが出るのはなぜなのだろう。20年前のIMEならともかく。すくなくともATOKはこんなミスはしない。









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夏向きひと品──これも最初「名ひと品」というものがあるのかと思い、それからやっと「夏向きな」の「な」を不要な漢字変換しているのだと気づいた。おそらくMS-IMEだと思うが、しかしこれぐらい気づかないのだろうか。IMEもお粗末だが、これに気づかないひとの感覚が信じられない。



 他人様の揚げ足をとってもつまらないからもうやめるけど、これは数多くの中のほんの一例。多い。料理レシピにはほんとにこんなのが多い。あきれた。ネットにレシピをあげるひとってこんなにがさつなのか。ほんの1、2行の文章の中にこんな誤字を挿れるひとの料理がうまいのだろうか。信じがたい。読む気が失せた。

マンガ考──「大相撲」と「将棋」はマンガ原作に向いてない

 その1──漫画原作の王者ボクシング
 
 少年向けスポ根マンガの原作として相撲は向いていない。「スポ根マンガ」とは多少ちがうが、「戦いもの」として括るなら、将棋もこの「向いてない原作」に入る。それは王者であるボクシングと比較すると明らかだ。
 ボクシングが今も昔も王者であるのはなぜか。「戦いもの」の基本である「敵のステップアップ」に最高のジャンルだからである。
 まずはデビュー戦。相手はデビュー前から話題の選手だったりする。アマチュアのエリート。対してこちら、主人公は無名の新人だ。でもやがて世界最強になる逸材なのだが。
 このデビュー戦だけで充分に盛りあがる。引っ張れる。熱戦の末に勝つ。第一関門突破。次は東の新人王戦。ここではデビュー戦の時、無名ながらすさまじい勝ちかたをして話題になったのが相手になる。また盛りあがる。これも突破。東の新人王。次は東西対決の新人王戦。デビュー戦の相手だったアマチュアエリートが、アマチュア時代唯一負けた相手だったりする。「ヤツの××に気をつけろ」と、今は主人公を応援してくれているアマチュアエリートが忠告に来てくれる。このとき「××」に謎を絡ませることも出来る。謎めいた「××」とは何なのか。この「かつての敵が味方となって関わってくる」もボクシングマンガの醍醐味だ。つまり一期一会。ステップアップするたびに過去は懐かしい風景となって行く。こうして日本チャンピオン、東洋チャンピオン、最終目的の世界チャンピオンと、「よりスケールアップしたあたらしい敵」と戦いつつ進行するのだから、まさに原作の王者である。世界チャンピオンという最終目的が明確にあり、減量という地獄も絡められる。子ども心を刺激する必殺技を使えるのも長所だが、私はこの「過去の対戦相手が次の対戦相手の引き立て役になる」というスパイスも大きな魅力と思う。「熱戦を繰り広げ、試合後は互いを認めあい親友となったアイツが、廃人にされた」のような形で過去の登場人物もストーリィに寄与して行く。
 以下のリンクは「好きなボクシング漫画ランキング」。http://ranking.goo.ne.jp/ranking/026/boxing_comic_male/
 「はじめの一歩」が1番人気。上に書いたボクシング漫画の王道を真っ直ぐに歩いている。私がいちばん好きなのは「がんばれ元気」だが、これは「あしたのジョー」のアンチテーゼとして作られたものだから──たとえばジョーに対抗して経済的には恵まれていることにした──「ジョー」の偉大さは否定できない。対して、さすがに「リングにかけろ」は連載時に成人していたので、あの荒唐無稽さは楽しめなかった(笑)。でもああいう必殺技で燃える子ども心はわかる。私がいちばんそれで興奮したのはプロレス漫画の「タイガーマスク」になる。プロレス漫画もボクシングに負けず劣らず少年スポ根分野の王者だが、チャンピオンのランキングがボクシングのようにシビアでないし、減量の苦しみのようなサイドストーリィが使えない。逆にタイガーマスクは躰のちいさいことで悩んだ。これは星飛雄馬の球質の軽さの悩みに通じる。
 高橋留美子やあだち充の作品は、「ジョー」にあった血腥さを否定してラブコメ風にした軽い乗り。まったく異なる作風ながら、ここでもまた「ジョー」は無視できない。
 ちばあきおの「チャンプ」がずいぶんと下のほうだが、知っているひともすくなくなったのか。彼らしい派手なことをしないシリアスなボクシング漫画だった。
 同じような形で「野球」も王者側だろう。ボクシングが横綱なら、プロレスと野球は大関か。野球も、とにかく少年スポ根漫画の盛りあがりは「一期一会」だから、プロ野球よりも「甲子園もの」が向いている。これもボクシングと同じように、地区予選、県大会、甲子園と「ステップアップする世界」が使える。
 「巨人の星」は、けっきょくのところ「子離れ出来ない父親」との関わりを含め、「必殺技とそれを破る新技」の繰り返しだったから、ストーリィの本筋は、野球漫画というよりプロレス漫画にちかい。梶原一騎らしい結末の悲劇も共通している。(続く)

マンガ話──「岳 みんなの山」の感想──三歩はエベレストで死なねばならなかったのか!?──「Blue Giant」讃歌

 ひさしぶりにブログを書き、人気記事のランキングを見たら下のほうに「岳 みんなの山──石塚真一」が入っていた。2012年3月に書いている。マンガ大賞を受賞した傑作全18巻の感想というには羊頭狗肉の半端な文だ。ずっと気にしていた。急いで書き足すことにする。



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 Wikipediaからの基本情報
『岳 みんなの山』(がく みんなのやま)は、石塚真一による、山岳救助を題材とした漫画作品。なお、単行本での題は『岳』である。
『ビッグコミックオリジナル』2003年19号に初掲載された。その後、同誌および『ビッグコミックオリジナル増刊』にて不定期連載を開始し、2007年7月からは『ビッグコミックオリジナル』に毎号連載となり、2012年12号で完結した。
マンガ大賞2008、第54回(平成20年度)小学館漫画賞一般向け部門、第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞[1]を受賞している。
実写映画化され、2011年5月に公開されている。

 私が『岳』を読んだのは、連載修了後の2012年だった。オリジナル連載時から知ってはいたが、登山に興味がないこともあって立ち読みすらしなかった。それを爐とな買い瓩泙任靴篤匹鵑世里蓮∪ご屬良床舛高かったからである。いわば俗なベストセラー読みと変らない。とはいえおとな買いは財布が傷むので充分に慎重ではあった。
 同時期にレンタルビデオで小栗旬主演の映画版も見ている。感想は……なにも覚えていないからその程度なのだろう。ひとつだけ、私は長澤まさみという女優に興味はないが、この役は原作のイメージと合っているように感じた。原作重視主義の私には大事なことだ。

※ 

 2012年3月に書いた上記のブログ文は、「『岳』を全巻揃えた。これから読む。楽しみだ。いま第1巻を読みおえたところ。泣いた。いい話だ。これから愉しみに読もう」である。これじゃ感想になっていない。『岳』のファンが、同好の士を探してたどり着いたとしたら、はなはだ落胆したことだろう。もうしわけない。そのことを気にしていた。

 あのあと完読し、さらには犲炊瓩靴謄侫.ぅ襪砲靴拭つい先日からASUS MeMO Padにいれて、出先や電車の中で再読している。登山家・山野井泰史さん夫妻が住んでいる奥多摩に関わって山と渓流を意識したことも関係あろう。



 完読したのだから、半端なブログ文のままほっておかず、その後に感想文を書きたしておくべきだった。そういう形で完了させたテーマも多い。口はばったいが私なりのブログに対する責任感である。なら、『岳』に関してなぜしなかったのか。

 それはいまここを読んでいる『岳』ファンからも多くの同意を得られると信ずるが、私は「第15巻の三歩がヒマラヤに行き、死ぬという結末が見えてきたあたりから読むのが苦痛になってしまったから」である。一旦そこでやめた。



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 作者は多くの山好きを作品中で死なせてきた。落ちとして三歩を殺さねばならなかったのかも知れない。あの種の作品は「編輯者とともに創るもの」でもあるから、そちらからの意見もあったのか。西原理恵子の「人生画力対決」で、「本当はJazzマンガを書きたい」と、かなり『岳』に行きづまっていることも告白していたから、もうほんとうにどん詰まりだったのだろう。

 「画力対決」に登場する石塚の懊悩を、私はれいによって西原がいつものよう大袈裟に表現しているのだろうと解釈した。しかし考えてみりゃ『岳』は屍累々の作品である。しかも屍は凍死のみならず滑落して手足が折れ壊れたマリオネットのようになっていたり、足が千切れたり、上半身下半身が分かれたり、腐乱死体もあるし、なにより目の前で死んで行く友に何も出来ず、ただ死んで行くのを見ているだけ、のようなつらい場面が多い。いくつの死体が登場したことか。あれを描き続けていたら精神は追い詰められて行くだろう。いや病んでしまうのではないか。

 私がマンガを読むときの最大の楽しみは晩酌の友なのだが、『岳』は下調べをしてから手にした。晩酌しながら読める内容ではないものが多いからだ。
 だからあの結末は、しかたない、しょうがない、のかも知れない。それでも私は三歩の死を受けいれることが出来ず、長いあいだ「15巻の途中」で抛りだしていた。

 意を決して最終刊まで読みきったのは2013年だった。感想は、決してよいものではない。わかってはいたが、いまも納得できない。三歩にはいつも明るく元気に生きていて欲しかった。エベレスト頂上ちかくでの刀折れ矢尽きての凍死が暗示され、その後はいきなり日本の「その後のみんなのエピソード」が描かれ終了となる。なんともやるせない気分だけが残った。なんだかさみしくて、読後、うなだれていた。それは今も変らない。



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 石塚真一さんは、その後以前からの望み通りJazzマンガ「Blue Giant」の連載を始めた。こちらは『岳』のようなおとな買いではなく、出るとすぐ単行本を購入している。連載も毎回読んでいる。これはJazzマンガの最高傑作になるだろう。楽しみだ。音を紙面で顕わすのだからたいへんである。早速もうマンガとコラボしたアルバムが出ているらしい。作中に登場する名曲をコンピしたアルバムだ。

 いまAmazonでそれを確認したら、Sonny Rollins、Dizzy Gillespie、Sonny Clark、Bud PowellとまさしくJazz Giantの名曲が並んでいる。掲載誌はビッグのレギュラーだから読者年齢層は高いが、これをきっかけにJazzを好きになるひとが増えたらうれしい。やがて「始まりはマンガの『Blue Giant』だったんですよ」なんてJazzファンが大勢生まれることだろう。
 このコンピアルバムに収められた曲を全曲保っているのがささやかな自慢(笑)。これからコンピアルバムが2枚、3枚と出ても全曲保っていると自負しているが果たしてどうなるか。



 ASUS MeMO Padで再読を始めた『岳』は、いま第4巻まで読了した。たぶん12巻ぐらいまではすんなり進むが、15巻間近でまた投げてしまうと思う。それが『岳』ファンとして正しいのか誤りなのかはわからない。ただ、まちがいなく私は今回も、そのあたりで投げだして15から18は読まないだろう。結論とも言えない結論だが、これが私の『岳』に対する正直な気持ちになる。
 ともあれこの文を書いてほっとした。いまから2012年の文にリンクを貼り「感想はこちらに書きました」と附記してこよう。

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「『岳 みんなの山』──石狄唇譴鯑匹爬;)秬限析困離泪鵐好き」

『岳』から『ゴルゴ13』──沢木耕太郎の『凍』から山野井泰史の「情熱大陸」
 

島耕作話──「学生島耕作」がスタート!──島耕作の矛盾点、孫鋭の「娘」が成長すると「息子に」(笑)

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 しばらく「島耕作」を読まずに(読めずに)いて、ひさしぶりにコンビニで立ち読みしたら「会長」になっていたのでおどろいた。前々から弘兼さんは「社長で終り」と明言していたのだが、ここまで来るともうとめられないのだろう。これに関してはすでに「課長」のころ、単行本の解説に「掣肘を阻む」という表現で語っている。キャラがひとり歩きを始めていて、弘兼作品ではあるが弘兼さんにももう先が読めない状態になっているのだ。



 ただ、長年読みつづけてきた読者として、「立場が上がるほどにつまらなくなった」とは言える。それは「島耕作のゴルゴ13化について」と題して書いた。

 ゴルゴ13のつまらなさは、というか白ける手法は、「ゴルゴ13というスナイパーの物語のようでいて実は世界情報ウンチクマンガ」であるから、読者にその情報の状況と背景を説明せねばならないのだが、それを登場人物の会話でやる点だ。もう何度も書いているので今更だが、それでも倦まずに書くと、たとえば《沖縄独立のために自衛隊精鋭が決起する。決起前夜、リーダーが延々と沖縄の歴史を語り始める。決起直前になにやってんのとここで鼻白むが、問題はそのあと、その彼の説明する沖縄の歴史に、一緒に決起する隊員が「えっ、そうなんですか!」と驚いたりするのである。そりゃなかんべさ。そのやりとりが不自然だ》になる。読者に沖縄の虐げられた歴史と、何故自分達は立ち上がったかを知ってもらわないと物語のおもしろさが伝わらない。それを説明するのはわかるが、なぜ決起前夜にリーダーが延々と語り始めるのか、そして命を賭して決起する精鋭が、そんな初歩的な情報に、なぜ今ごろ「えっ!」と反応したり、「それではその場合?」と質問したりするのか。それはもうずっと前に済んでいることだろう。そういうことをすべて学んだ連中が決起したのだろう。ト書きで処理できないのだろうか。毎度毎度白けてしまう。全編がそうであり、依頼主のCIAやMI6、KGBの高官が延々と状況説明を始め、聞いている側近が「えっ!」とやる。みな同じパターンである。

 テレビの2時間推理ドラマ等では、最後の崖っぷちに立ったようなシーンで犯人が延々と犯罪に到る動機、殺人のトリック等を説明する。それと同じ白々しさである。もっともテレビの場合、小説やマンガのように文字で説明は出来ないから、どうしても「しゃべらねばならない」という面はあろう。だがマンガには文字がある。文字の説明でいい。ドラマのように「会話」で無理にする必要はないのだ。ただしゴルゴも初期の作品を読むとト書き処理もある。連載が続く内にこの手法が中心となったようだ。



「島耕作」もえらくなるにつれて中国、インド、ロシア、ブラジル等を語る「経済ウンチクマンガ」になってしまい、つまらなくなっていった。それはそれでいいのだが、その手法にこの「ゴルゴ方式」を取りいれたのは興醒めだった。「課長」のころは、単身赴任した初めてのニューヨークについても、ト書きで説明していた。それで十分だった。その方法でよかった。なぜいまゴルゴ方式にしたのか、なんとも残念。

 つまらない一例として、インド篇で「不浄の左手」の話がある。インド人はなぜ食事の際左手を使わないかの説明だが、それをヒロイン?の大町久美子が質問するのである。その時点で久美子はもうインドに長く住んでいる。久美子がインドに行く前に「地球の歩き方インド編」を読んだかどうかは知らないが(笑)、セレブはあんなものは読まないか、インドに住もうとするひとならそれぐらいは知っているだろう。弘兼さんが「不浄の左手」のウンチクを披露したかったのはわかるが、それの質問者に久美子を選び、その初歩的な智識に久美子がおどろくというのは、前記ゴルゴの「沖縄独立決起前夜に決起メンバーが沖縄の歴史を知らされて驚く」のと同じ滑稽さでしかない。

 もっとも、滑稽とか矛盾で言うなら「島耕作」はそれに満ちていて、久美子にしても、初芝創業者吉原初太郎の寵愛した芸者に産ませた一人娘であり、母は巨額の株をゆずり受けた大金持ちである。正妻とも一人娘とも不仲の吉原が真に愛したのは、その芸者の愛人と久美子だけであり、久美子の婿に初芝を継がせるのが吉原の願いだった。久美子は後々世界の社交界にデビューし、将来は初芝の社長夫人となるお姫さまなのだ。
 なのになぜか登場時は短大卒の初芝の経理社員である。ソロバンが得意というわけのわからなさ。ここではそんな設定だったのだろう。しかしまた久美子も独自の動きを始める。島耕作のラブアフェアの相手として設定した女子社員が、これまた弘兼さんの「掣肘を阻」んで「吉原初太郎の隠し子」というひとり歩きを始めてしまった結果、世界の初芝を継ぐセレブレディが、名もない短大を出たそろばんの得意な娘という矛盾が出た。あちこち「後付け」だらけの矛盾に満ちた物語ではある。でもそれがまたいとしい(笑)。



 島耕作が出世するに従いつまらなくなったなと思っていた頃に「ヤング篇」が始まる。これはおもしろかった。でもズルい。だって「未来を知っている」のだから。何が流行り何が廃れるか、どんな夢のような商品が開発されるかも、そしてその夢の商品ですらもより新たな製品に押し遣られて消えて行くことも、すべて知っている。家庭用ビデオが開発された時代だ。それの普及もテープがHDDになることも、すべて知っている。家庭用電気製品の廃棄処理が問題になる、なんてことまで読んでいる。あれはちょっとやり過ぎだと思った。あの時代にあそこまで読んでいたひとはいないだろう。

 たとえば「鉄腕アトム」では、人型ロボットのアトムが空を飛ぶ時代なのに電話はダイヤル式の黒電話だ。
 たとえば「バビル2世」では、はるか未来の図書館で調べ物をするとき、相変わらずぶ厚い本を拡げている。
 後付けじゃないからひとりひとりが携帯電話をもつ時代とか、電子チップへの情報処理まで想像が出来ない。
 その点、後付けは強い。

 しかしまた後付けであるから矛盾が生じる。弘兼さんが意図してやったのかボケたのか知らないが、「課長」篇で会長宅に呼び付けられ「初めて吉原初太郎に会った」というシーンがあるのに、「ヤング篇」では、新入社員時代にもう親しく話したりして、自分で自分の作品を壊している。

 私は「課長」「部長」時代の島耕作と「ヤング」が矛盾することを、弘兼さんなりに割り切って遊んでいるのだと好意的に解釈することにした。そういう大きな心がないと「島耕作」は楽しめない(笑)。
 たとえば「課長」後半になって登場する重要な脇役であり、私がいちばん好きなキャラの「中沢部長」なんかも、「ヤング」時代に、すでに中沢課長のころから知っていたりする。そのころから中沢課長は、さすが将来最年少で社長になるぐらいの才覚を現している。中沢部長もまた弘兼さんの手を離れてひとり歩きしたキャラであり、弘兼さんもお気に入りなのだろう、だからこんなことをする。「課長篇」とは矛盾しても、それは弘兼さんの読者サービスであり弘兼さん自身の楽しい遊びでもあるのだろう。そう解釈している。



 しかし以下のものなんかは完全にボケているんだろうなあ。海外でノートパソコンに挿れて持っていった自炊ファイルを読んでいて思った。世界中いろんなところで「島耕作」を読んでいる(笑)。そういえば海外の日本人の溜まり場に置いてあるマンガは、日本の理髪店と同じく『ゴルゴ13』『美味しんぼ』『静かなるドン』がベスト3だが、ここのところ『島耕作』も増えてきた。読者は最も島耕作と遠い人生を歩んできたひとたちだが。

 小説の場合も思うのだが、こういうミスって編集者は気づかないのだろうか。あるいは描いているスタッフは。本人はしかたない。そんなものだ。いわば遮眼革を掛けた状態。まっすぐしか見えない。しかし周囲はちがう。それを指摘してやることはできないのだろうか。

 中国の電機メーカー「出発」の社長・孫鋭に、日本の女「男全(おまた)マキ」が近づき子供を産む。孫鋭は「出発」の創業者、オーナー社長、大金持ち。独身。こどもはいない。後に日本留学時代に芸者に産ませた娘がいることになる。これまた大きな矛盾なのだが、それはまたべつにして、この時点ではこどもはいないことになっている。
 男全マキの生んだ子は孫鋭の莫大な財産を受け継ぐ権利を持つ。そのために近寄り、そのために産んだ。金のためだ。悪女である。念のために書いておくがこどもはこれひとり。最初が女で二番目が男とか、そういう話ではない。

 下は、その念願のこどもが生まれたときのシーン。出産したのはインドである。携帯電話で中国にいる孫鋭に報告している。「常務篇」のひとこま。なおこの男癖のわるい悪女のことは孫鋭も疑っていて、すぐに医者にDNA鑑定をするように依頼している。

shima-musume

 それから数年後、成長したこの「娘」が中国で誘拐される。身の代金目当てだ。こちらは「社長篇」の中の一篇。するとこんなシーンが。ここでは孫鋭もかわいがっているから、DNAの結果は自分のこどもだったのだろう。

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 誘拐される前の食事シーン。落ちつきのないこどもは食事途中でその辺を走りまわり、その際に攫われてしまう。「本龍」という名前から男の子と思われる。しかしインドで産まれたのは上の画にあるように「女の子」なのだ。とすると女の子なのに「本龍」なんて男っぽい名前をつけたのか。そこに誘拐犯から電話が掛かってくる。

shima-musuko

 やはり「息子」のようだ。とするとインドで産まれたときは「女の子」だったが、そのうち次第に「男の子」になったのだろう。一般社会でもよくあることだ。って、ないか(笑)。

 しかし気づかないのかなあ。誰かひとりが「先生、産まれたときは女の子設定でしたよ」と言えばすむことなのに。編集者もスタッフも気づかないのだろうか。ほんとに不思議だ。
 産まれたのが「常務篇」、その次ぎに「専務篇」が5巻あり、そして「社長篇」だから、画の通り赤ん坊から幼児まで作品中でも現実でも5年ぐらい経過しているのか。弘兼さんがボケて勘違いしたのはしかたないとしても、スタッフも編集者もみな忘れてしまうものなのだろうか。信じられない。



 しかしこんなことに腹立っていたら「島耕作」は楽しめない。成りゆきにまかせ、大らかな心で読むのが正しい。こういうこともまた楽しみのひとつなのだ。
 私は上掲3枚の画像を探すのに苦労した。「たしかこんな矛盾があったはず」とは覚えていても、それが何篇の何巻にあるかまでは記憶していない。よって「部長」の後半から「取締役」「常務」「専務」「社長」と探しまくった。閑人である。それもまた「島耕作」を読む楽しみだ。

 閑人と言えば、「課長篇」で登場するハーバード大卒の切れ者の八木が、出世とともに人格が変貌して行き、「社長篇」ではロシアで悲惨な殺されかたをする。容貌の変化もまたひどいことになっている。その変化を画像で並べたいと前々から思っているのだが、さすがにそこまで暇でもない。



 12月から始まるという「学生篇」だが、さてどうだろう。
「課長篇」初期において回顧される「学生島耕作」は、普通に学び遊び雀荘に入りびたったりする、あまり勉強に熱心ではないノンポリ学生だった。そもそもそういう「凡庸なサラリーマン物語」のはずだった。
 対して、後にフィリピンで死んでしまう樫村という早稲田の同期学生が、ESSのリーダーで優秀な男という設定だった。ところがキャラがひとり歩きを始めると、島耕作もまた英会話に堪能な優秀な学生だっことになり、さらには僚内の集会で、理想論をぶつサヨクの先輩を論破したりする秀でた存在として描かれる。これはきちんとした保守思想を持っている学生でありノンポリではない。これまた「課長篇」の否定だった。

 おそらく「学生島耕作」は、若者らしい軽さやおっちょこちょいな部分を見せつつも、一面においておそろしくスーパーな存在にも描かれるのだろう。なにしろ「後付け」だから。世界の初芝の頂点に立つ男の「後付け青春時代」だから、その辺はもうわかっている。「ヤング」「主任」「係長」と読めば読むほど「島耕作ってこんなにすばらしいひとだったのか」と感心することばかりだ。やりすぎ(笑)。
 40年後の世界をすべて知っているのだから恐いものなしだ。ソ連が崩壊することも北朝鮮の真実の姿も、すべてわかっている。わかっていて、北朝鮮が医療も教育も無料の夢の国とされていた時代を描く。

 前記、ヤング篇で、県人寮のようなところに住んでいた島耕作は、そこのサヨク集会に缺席がちだとサヨク先輩に怒られるが、きちんと筋立てて彼を論破する。私の憧れである。私も当時のサヨクを論破したかったが無智なので出来なかった。自虐史観には染まっていたが私はサヨクではなかった。周囲はサヨクだったがサヨクになりきれなかった。北朝鮮を夢の国と讃美する感覚に疑問を持っていた。しかしまたそれに対抗できるだけの智識も智慧もなかった。今までに「ヤング篇」の中で何度か回顧的に描かれた「学生島耕作」は私の理想の学生になる。しかしあの時代、あんな正しい学生はいなかった。いるはずがない。アサヒシンブンの報じることをみな正しい情報と思い込んでいた時代だ。あくまでもあれは「今という時代を知っているひとの描く理想の学生」である。いわば「少年H」の滑稽さと同じである。

 これから描く「学生島耕作」は、弘兼さんにとっても理想の学生であるにちがいない。今は保守思想である弘兼さんだが、学生時代にサヨクを論破する島耕作ほどの強さはなかったろう。「もしもあのころ、おれもこれぐらいしっかりしていたら……」。その視点で描かれるにちがいない。
 島耕作と同じ多くの団塊の世代が、当時を偲びつつ懐かしく読むのだろう。そこには元サヨクも数多くいるにちがいない。現役サヨクは読まないだろうけど(笑)。



「ヤング島耕作」の連載が始まったとき、私は「これを待っていた」と喜ぶと同時に、心の片隅で「これをやっちゃあおしまいよ」とも思っていた。その気持ちはいまも変らない。「学生島耕作」も同じく反則である。でも楽しみだ。

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【追記】──「会長島耕作」の老け顔

 前々から島耕作の容姿が「若すぎる」と批判があったのを気にしてだろうが、初めて「会長」を読んだら老けているので驚いた。画で老けさせるにはシワを挿れるしかない。それだけで一気に老けるが加減が難しい。「会長」には両方の目尻に2本ずつシワが描かれていた。すると島耕作が一気に老けておじいちゃんになる。66歳になる設定だからそれ相当かもしれないけど、 若々しいひとだっているし、あんなに老けさせる必要もないと思うけどな。



【追記.2】──作家と編集者--浅田次郎の凡ミス

 女の子で産まれたのにいつのまにか男の子になってしまうミスをなぜ弘兼さんのスタッフや編集者は気づかないのだろうと思っていたら、浅田次郎のことを思い出した。

 今夏、「島耕作」と同じく海外で浅田次郎のエッセイを何冊も読み返したのだけど、そこではくどいほどに、自分がいかに真剣にゲラチェックするか、遣り手の、厳しいけれど有能な編集者に恵まれているか、いかに優秀な校閲が存在しているかを語っていた。いわば爛繊璽狎田畆慢のようなものである。

 その発端は、それを知らないマスコミに攻撃された際の反論だった。
 有名な話だが、直木賞を受賞した翌日に、「直木賞受賞第一作」という帯が着いた本が平積みされた。「活動冩眞の女」だったか。それを「不自然だ」と批判した記事があった。受賞翌日にそんなことが出来るはずがない。もう受賞は決まっていて用意していたのではないかと。
 それに対し浅田は、もちろん「直木賞受賞作『鉄道員』」、「直木賞受賞第一作『活動冩眞の女』」という帯は受賞を予測して作ってあったのは当然として、その帯掛けは、「受賞決定の夜に、編集者がみな徹夜でやってくれたのだ。朝一番で本屋に届けてくれたのだ。彼らは天使なのだ」と反論した。

 チーム浅田自慢のもうひとつの流れとしてインターネット批判がある。浅田はインターネットをやらない。さらにはワープロとも無縁の今も手書きのひとである。当然インターネットとは距離を置くというか、批判的な視点で語る。世の中には検閲を受けず、他人のチェックを通さず流通するインターネット文章のようなものがある。自分が関わっている世界はそんなものとはちがうのだ。多くのすぐれた人間が、職人が、誇りを持ってチェックしてくれているのだ、という主張である。

 しかしそんなに優秀な人々に恵まれ、本人も何度もゲラチェックしている割には、彼の小説には常識的な用語の誤用が多い。周囲は直せないのだろうか。信じがたい。本人はしょうがない。知らないのだから。間違いに気づかない。これは誰にもあることだ。だけど周囲が指摘してやればわかるだろう。あまりに簡単な誤用の連発を見ると、私は彼は既に狎田天皇瓩砲覆辰討い特も忠告できないのかと思えてくる。
 でもあのシリーズエッセイはビッグになる前のものである。直木賞をまだ受賞していない40代の浅田さんになら編集者は言えると思うのだが……。浅田さんの誤用という恥はチーム浅田の恥でもあるのだし。彼の自慢する腕利きの編集者ってなんなのだろう。彼の編集者礼讃を読むと、私はただの身内の褒めあいにしか思えない。本当に優秀な編集者なら、ベストセラー作家であろうと誤用を指摘してやるだろう。本人のためになるのだし。

 つい最近の『新潮45』にも著作権を守るための文を書いていた。あの「自炊代行業者」訴訟である。つい先日勝訴したようだ。そこではネット世界を、自分達のような二重三重の校閲も校正もないから、誤った情報が垂れ流しだと批判していた。その事はまったくその通りなのだけど、彼のいる紙メディアには、そういう自慢するような優秀な校閲や校正がいるのなら、なぜ彼の文章にはあんなに誤りが多いのだろう。これまた不思議でしょうがない。

タバコ話──喫煙と食マンガ──『美味しんぼ』『将太の寿司』&『味いちもんめ』『深夜食堂』『孤独のグルメ』

 タバコを喫おうが喫うまいが個々人のかってだが、こちらに食を提供するひとにだけは喫って欲しくない。というか、それはもう基本と思うのだが、世の中必ずしもそうではないようだ。
 タバコを喫うと舌の味蕾がぼろぼろになる。そりゃニコチンタールという毒物をひっきりなしに舌に塗っていたら荒れて当然だ。いかなタバコ擁護の愛煙家でも、あの「非喫煙者の味蕾、喫煙者の味蕾」という写真を見たら、味について大きな事は言えなくなるだろう。味を判別する味蕾がみな潰れている。味蕾があの様になっているひとが味について語っても意味はない。それは××が××を語るようなものだ。しかし今の世の中、とんでもない××が有名人になって言いたい放題しているようだから、それも成りたつのかも知れない。
 


shinya
 先日、インターネットでテレビドラマ「深夜食堂」を見た。好評らしいので、どんなもんかと覗いてみた。マンガは以前から読んでいる。テレビドラマ化されてマンガの売りあげも伸びたらしい。テレビの影響力はまだまだ大きい。東野圭吾の傑作「白夜行」が、小説ではなくテレビドラマとして認知されているのは悔しい。でも力関係はそんなものなのだろう。

 ほんのすこしだけだが、初めて見ての感想は「『深夜食堂』の舞台ってこんなに暗かったのか?」だった。マンガのほうは白い空間を活かした線の細いアッサリ味である。いわば「薄い塩味、透明スープ」。対してテレビドラマは暗い店内に店主の衣裳も暗く、「濃い醤油味、まっ黒け」のようになっていた。まあそれはそれで演出なのだろうが、マンガから想像していた『深夜食堂』とはずいぶんと異なっていた。逆にまた「白夜行」なんかもそうであったように、テレビで知ったひとが原作を読んだら、その相違に戸惑うだろう。



oishinbo
 私の読んだ食マンガで、食の職人はタバコ厳禁としているのが『美味しんぼ』と『将太の寿司』、料理人が喫煙するのが『味いちもんめ』と『深夜食堂』、料理人ではないが主人公が喫煙者なのが『孤独のグルメ』になる。

shouta
『美味しんぼ』と『将太の寿司』では、職人が内証で喫煙し、料理にヤニの臭いがうつってしまい、海原雄山や親方から厳しく叱責される回がある。煙草呑みは味覚と同じく嗅覚も死んでいるから自分では気づかないが、手にヤニのついた人間の作った料理は一発で判る。臭くて気持ち悪くて喰えたものではない。料理人として失格だろう。

 私が今まででいちばん惘れたのは、池尻大橋にあった寿司屋だった。カウンターの中で店主が銜え煙草で寿司を握っていた。すぐに出た。



aji
『味いちもんめ』はスマップの中居が主演してテレビドラマとしてもヒットしたらしい。見ていないし興味もないが、ただあの主人公の容姿は中居に似ているので、スポーツ紙で記事を読んだとき、いいキャスティングだとは思った。
 あのマンガは食マンガでありながら原作者が喫煙者だからか登場人物も喫煙する。休憩時間に花板の親方からしてあぐらを搔いてタバコを喫うコマがあり、以降は読まなくなった。どうにも我慢ならなかった。

 『深夜食堂』や『孤独のグルメ』の喫煙に文句を言う気はないので、五つのマンガで絶対的に否定するとしたら、この『味いちもんめ』になる。



shinya 『深夜食堂』も料理を作る店主は喫煙者だが、これはマンガのテーマが食と言うよりも店に出入りする客の人間模様だから、さほど気にならない。喫煙者の溜まり場のほうが自然だ。そういうものがあっても、いい。こういう物語の設定で店内が禁煙だったらかえっておかしい。そのことで料理人の店主の喫煙を許容するわけではないが、味なんてどうでもいい客のあつまりなのだ。そんなことにこだわったらこのマンガは楽しめない。



 同じくインターネットで見た「たかじん」で知ったのだが、アニメ映画「風立ちぬ」に喫煙シーンが多すぎる、こどもに悪影響を与えるとケチをつけた団体があったとか。こうなるともう気狂いの世界である。時代も状況も考慮していない。
 そのケチには「もらい煙草」に対するものもあったそうだ。あれは喫煙率の高かった当時の風習である。喫煙率の高い支那にいると、ちょっとした知りあいにしょっちゅう煙草を勧められる。そこいら中ケムくていやになるが、「一本どうですか」と勧められると、むかしの日本もそうだったなあと思い出す。当時を描いた作品に今の視点でケチをつけるのは意味がない。今の感覚で戦前を裁こうとするように。

 こういうヒステリックな抗議も、テレビだったらまだわかる。よく言われるようにテレビは「誰でも見られるメディア」だからだ。ポルノ解禁している国でもテレビはおとなしい。エロシーンも暴力シーンも制限されている。いちばんいいかげんなのが日本だ。その分、あちらでは有料であり限られた人々の見る映画での表現は自由になる。

 「風立ちぬ」の喫煙シーンにケチをつけた団体があると知ったとき、こんなもの誰だって気違い染みたヒステリックないちゃもんだ否定するはずだから、もしかしたらこの団体って、ウヨクのイメージダウンのために朝鮮人サヨクがニセウヨクになって暴れるように、ニコチンタール中毒者が嫌煙の流れに水を差そうと作った擬似の嫌煙団体ではないかと疑った(笑)。



 マンガ『深夜食堂』の店主が喫煙者であることは気にならなかったのだが……。
 ネットで見たテレビ映像に「タバコ喫っていいんでしょ」と問う老女の客に、店主の小林薫が灰皿を出しながら、「このごろタバコも喫いづらくなって」と応え、大箱のマッチをシュッと擦って自分もタバコに火を点けるシーンがあった。これもマンガでは読んでいる。この老女、じつは伝説のストリッパー、というオチになっている。
 そのシーンを見てイヤになってしまった。据え置き型の大きなマッチ箱からシュッと音を立ててマッチ棒を一本摺り、煙草に火を点けるシーンは小林の軽い見せ場なのかも知れない。テレビ画面からマッチの臭いがしてきた。やはり映像という動画は画像のマンガよりも強烈だ。ハッキリとマッチの硫黄の臭いが伝わってきた。

 これをふつうのドラマで見ても反感は抱かない。このシーンも、その前との繋がりがなければ平気だった。ところがその前のオープニングに、店主が料理を仕込んでいる映像があった。蒟蒻を指でちぎって鍋に入れている。煮ものを作っていた。あのヤニ臭い指でちぎるのかと、マッチの臭いまで重なってきて、それ以上見られなかった。あの煮ものはヤニ臭くて喰えたものではないだろう。10分ほどで視聴を辞めた。

 ここで「蒟蒻を千切る前に手を洗うよ」という喫煙者からの反論があるかも知れない。そりゃ当たり前だけど、そういうもんじゃないのだ。ヤニの臭味は躰に染み込んでいる。ヤニ中毒のあなたにはわからないだろうけど。ドラマとして、こちらにそう思わせてしまってはダメだ。自分のために料理するひとはいい。料理がヤニ臭くてまずかろうと本人は気づかないのだからしあわせだ。だが客に提供するひとは、手で触れた料理を出すような立場のひとは、喫煙してはならない。

 店主がマッチを擦ってタバコを喫うシーンと、指で蒟蒻をちぎって煮ものを作るシーンを、一緒に流すのだから、この番組の演出者は無神経である。たぶん喫煙者だろう。



kodoku
 同じくテレビドラマ化されて古いマンガ本が急に売れ始めた作品に『孤独のグルメ』がある。今、モデルとなった食堂には客が押し掛けているのだとか。なんだかね。時代は変るようで変らない。昭和30年代もインターネットの平成もおんなじだ。
 こちらは主人公が町で出会った定食屋の一品(のような食)について語ったりするマンガであり、主人公がうまそうに食後の一服をすることに文句はない。 私のこだわりは「作るひと」である。



 新宿ゴールデン街を舞台にしている『深夜食堂』のような店に私が行くことはないし、舞台設定から禁煙の店だったらかえって不自然だし、その他の作品についても、マンガやドラマという作り物にケチをつける気持ちはないのだが、タバコを喫うひとの作る料理は食いたくないという気持ちに変りはない。まして生物だったら絶対だ。指先のヤニの臭いは当人が思っているよりもキツい。躰の中に染み込んでいるタバコの臭いは決して取れるものではない。
 
 私は電車で隣にすわったひとが喫煙者であることが一瞬でわかる。あまりに臭い。生命力の強い若者だと、生命力がニコチンタールに勝っているのだろう、かすかに臭いだけだが(でもわかる。オーデコロンをつけている女でもわかる)、体力の衰える中年以降のニコチンタール中毒者は、吐き気をもよおすほどの悪臭を全身の毛穴から発散しており、それは腐った内臓からの死臭に思え、我慢出来ず席を立つこともしばしばだ。それがけっこう長距離の電車で、苦労して取った席だったりするとすこし悔しい。それでも立たずにいられないほど臭い。

 生の食材を扱う仕事をしていながらタバコを喫うひとは非常識である。それは嫌煙がどうの愛煙の権利がどうのなんてのとは別次元の話だ。 

マンガ大賞考──2013年は「海街diary」──世間との数少ない接点

manga-gaku 今年のマンガ大賞が決まったらしい。

マンガ大賞とはなにかとWikipediaから引くと。

マンガ大賞(まんがたいしょう、英題: Cartoon grand prize)は、マンガ大賞実行委員会によって主催される漫画賞である。友達に勧めたくなる漫画を選ぶことをコンセプトにしている。発起人はニッポン放送アナウンサーの吉田尚記。2008年3月末に第1回マンガ大賞が発表された。

 ということらしい。



 脱線するが、タイ語にマンガやアニメのことを呼ぶ独自の言葉はない。なんというかと言うと英語のカトゥーンである。それは英語のそれに匹敵するマンガ文化がなかったからだろう。りんごは「アップル(発音はエップン)」。これまた当然だ。あの国でりんごは成らなかったから。高級輸入品なので水商売のねーちゃんによくねだられたものだ。いまは違うようだけど。

 世界で「manga」という日本語、「anime」(本来は英語だが、それとはまた別の意味で使われている)という日本語?が普及しているのとは対象的な話になる。Tsunamiという世界標準語には胸が痛むが。



 マンガ大賞の対象になる作品は限定されているとか。再度Wikipediaから。

選考年の前年の1月1日 - 12月31日に出版された単行本の最大巻数が8巻までに限定された漫画作品(過去にマンガ大賞受賞作は除外)を対象としている。これは「8巻まで出ていれば、人に勧めたいマンガの面白さは発揮されているだろう」「それ以上の長さのものは、面白さは世間に知れ渡っているだろう」「これ以上長いと、気軽に手に取るにはちょっと量がありすぎる」ためだという。

 なるほどね。「8巻」までという限定はおもしろい。



 2008年の第1回が「岳」。これはビッグコミックオリジナルだから知ってはいた。でも読んでなかった。それからまとめ読みした。このブログにも感想を書いた。

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「岳──みんなの山──石塚真一を読む」


 いまこの文を読み返してみたら、マンガの話なのに麻生さんの漢字誤読に触れていて苦笑した。

 私にとってマンガ大賞とは、ビッグコミックやモーニングすら買わなくなった身に、この作品のことを教えてくれた恩義になる。またそれは「インターネットの価値」にも繋がる。インターネットの流し見する情報で「今年のマンガ大賞に『岳』が撰ばれた」と知らなければ、私は今もこの作品のことを知らなかった。感謝、である。



manga-chihayafuru 2009年は「ちはやふる」。テーマは競技カルタである。タイトルは小倉百人一首の撰歌「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」から来ている。テレビアニメにもなったというから万人の知る作品なのだろう。

 私はかるたに疎く、毎年正月のニュースでやる競技かるたの映像も、奇妙なものだと思って見ていただけだが(挌闘技なのはよくわかった)、唯一「ちはやふる」は落語のネタで小学生のときから知っていた。諳んじられる数少ない一首である。落語演目「千早振る」はよくできたネタだ。落語らしくて罪がない。

 私はこどものころから人後に落ちないマンガ好きだったが、少女漫画のタッチだけは受けつけなかったので、この作品も、とてもよく出来たストーリィだと感心したが、購入とまでは行かなかった。マンガについて、それなりに語れる知識を積み重ねていると自負しているが、こと少女漫画だけは「ベルサイユのバラ」とかも読んでいないし(読もうとしたがつらくてダメだった)何も知らない。



manga-teruma
 2010年はヤマザキマリの「テルマエ・ロマエ」。これは西原理恵子のエッセイで知り、受賞以前に購入していた。嫉妬心の強いサイバラは「あんなもんで稼ぎやがって」と相変わらずの口の悪さでこの作品を誉めていた。
これは画期的な作品だ。「こんな世界でマンガを描ける」というのに驚嘆した。発想がぶっとんでいる。

 阿部寛主演で映画にもなったらしい。DVDにはもうなっているのかな。今度借りてみよう。
 気楽なのは、原作と映画は異なっているだろうが、この作品に関しては、それに苛立たないことだ。作者の感覚を監督がどう受けとめたのかというセンス勝負になり、それが自分の願うものとは異なっていたとしても、それはそれで割りきれる。阿部寛でいうと業田良家のマンガを原作とした映画「自虐の詩」があった。すっきり割りきれて楽しめた。小説が原作の作品で感じる違和感がないので助かる。これもきっとアベちゃんのいい味が出た作品になっていることだろう。


kanren1  DVDで映画「テルマエ・ロマエ」を観る



manga-3gatsu
 2011年は「3月のライオン」。これは将棋好きとして当然受賞以前から「話題の将棋マンガ」として知っていたが、絵柄が私好みではないので読まずにいた。なぜそういう情報を知っていたかというと、将棋雑誌である。日本将棋連盟の機関誌『将棋世界』は、将棋の普及に熱心だ。だから将棋をテーマにした小説やマンガが話題になるとすぐに紹介する。それで知ってはいた。でも将棋マンガには落胆することばかりなので近寄らなかった。

 受賞と知って読んでみた。全巻持っている。監修は先崎。「月下の棋士」のようなアホな将棋マンガよりも遥かによく出来ている。ただこれも女流漫画家のタッチなので私にはむずかしい。これはあらためて「将棋」の項目で書こう。将棋はマンガの素材としては適していないと思っている。とはいえ「月下の棋士」や「ハチワンダイバー」のような世界とはまたちがった将棋マンガの切り口として、この作品は高く評価されるだろう。ってもう評価されてるのか(笑)。



manga-gin
 2012年は「銀の匙」。北海道の農業高校が舞台。さすがにこの種の青春マンガを楽しむのはきつくなってきたので、この「銀の匙」と「ちはやふる」は漫画喫茶でお茶を濁した。初めて読んだとき、「荒川弘」って男の漫画家なのにタッチが女っぽく、最近はもう男女の区別なく、みなこんな感じの絵なのかと思ったら、女だった。「弘」は「ひろむ」と読むらしい。「ひろむ」って名前は部落出身の売国奴野中広務しか知らない。

 ここまで「岳」以外はみんな女漫画家だ。そういう時代なのか。それともこのマンガ大賞というものの視点がそっちなのか。かといって「これを撰べ!」と推す作品があるわけでもないが。



manga-umimachi
 発表になったばかりの2013年度マンガ大賞(2012年に発刊された作品から撰ぶ)は、この「海街diary」に決まったそうだ。これは知らない作品。そのうち漫画喫茶で読んでこよう。
 吉田秋生という作者も女性らしい。女の時代なんだな。

 まったく知らなかったので、どこで連載されているのだろうと調べてみた。
《『月刊flowers』(小学館)に不定期に連載》とあり、じゃあ「月刊flowers」ってなにと調べると、《小学館から発売されている日本の女性向け月刊漫画雑誌》だとか。そりゃ知らん。でも毎週「女性自身」や「女性セブン」まで立ち読みし、芸能人のゴシップまで完全掌握(笑)していた雑誌マニアのむかしなら、きっと知っていたろう。

 そういや「3月のライオン」も単行本で買ったから掲載誌を知らなかった。「ヤングアニマル」白泉社と知って、さらに首を傾げた。今までにいろんなヤングなんとかが出たけど「アニマル」は知らない。なんちゅう命名センスだろう。それと出版社の名前だ。「白泉社って、フランス語の教科書出してなかったか!?」と思ったら、それは白水社だった。



 芥川賞や直木賞の受賞作だけを熱心に読むひとがいる。私はそういう読書はしないけど、買うほどでもないが無視できないというような作品は図書館で借りて読もうと思うことがある。すると受賞したばかりの作品には、なんと何十人もの予約が入っていて一年先まで読めなかったりする。それを知ると読む気が失せて、すんなり諦められた。そしてまた2年後ぐらいにふいにそれを思い出して探すと、今度は誰にも借りられることなくひっそりと眠っているのだった。

 そういう読書法を嫌っている、というかあなどっているのに、マンガ大賞受賞作品を知って、それを読む、というのは、まったく同じ感覚になる。嗤えない。

 でもまあアンテナを張ることをやめてしまい、ますます世間とは遠ざかり仙人ぽくなってきた今だから、こういうのの世話になるのもいいかもしれない。
「おとなのマンガ大賞」とか、そんなのはないのかな。それがあると助かるんだけど。
 漫画評論もする呉智英さんは、いまもこの種の漫画をきちんと読破しているのだろうか。

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【追記】──「孤独のグルメ」再読

kodoku
 年明けだったか、いや年末か、もう忘れたけど、ネットで「『孤独のグルメ』が話題になっている」と見かけた。なぜ話題になっているのかも忘れたが、とにかくそれで、再読した。懐かしかった。1990年代中期の作品である。
そういう刺激を与えてくれるから、やはりネットってのはありがたいと思う。だってそれがなかったら、私がこの作品を読み返すことはなかったから。

「忘れた」ばかりじゃまずいので調べてみた。そうか、テレ東でテレビドラマになったのか。テレビドラマになって話題になり、いま、むかしの原作本が売れているという話だった。テレビを見ないのでこのへんもズレている。
それにしても近年のテレ東、なかなかやるな。

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【追記.2】──青春モノ嫌い

 学校を舞台にしたような青春モノが嫌いだ。それは齢のせいかと思ったが、思えばこどものころから、むかしから大嫌いだった。

 学園ドラマとして日本一有名なのは「金八先生」だろうが、あれ以前にも、私の時代にもその種のものはあった。千葉県知事森田健作はそのころのスターだ。
 生徒が主役だと、スポーツが得意な明朗快活な主人公がいて、マドンナ(笑)がいて、勉強だけが得意な青白いイヤミなインテリがいて、落ちこぼれがいて、ワルがいて、教師は敵になる。教頭は腹黒く、校長先生はいいひとだった。「熱血教師」が主役のものも、基本配役は同じである。シリーズによって変るのはスポーツの種類ぐらいだ。

 クラスには、それが大好きな連中がいた。
 私は当時から嫌いで一切見なかった。
 その理由を考えてみると、教師一族(当時田舎の没落地主は教育をつけて、そうなるぐらいしかなかった)であり、校長だった父が毎晩のように泥酔し、部下を連れて我が家で二次会の乱痴気騒ぎをやっていたことから、当時は聖職(笑)であった教師の実態をふつうよりはすこし知っていたということもあろうが、それ以上に、学園ものの勧善懲悪というウソっぽさが嫌いだったからのように思う。いわゆる「オケツがこそばゆくなる」であり、夕日に向かって海辺を走る感覚になじめなかった。

 金曜八時の「金八先生」を見ない、知らないのは、金曜八時はプロレスを見ていたからと思っていたが、もしもそうでなかったとしても私は見なかったと気づく。ああいう世界が嫌いなのだ。番組表だけの問題なら、あとからビデオでもなんでも見ることができる。それをしなかった。いまもしていない。

 そのころから一貫して嫌いなのだから、さすがにいま「学園マンガ」はきつい。

「ビー・バップ・ハイスクール」のようなのも嫌いで読まなかった。嫌うというより読んでいてつまらないのだ。作品世界に興味がない。
 学校が嫌いな落ちこぼれで、ああいう作品世界が大好きなのがいる。ほんとうは学校が好きで、自分なりの理想の学園生活を夢見ているのだろう。
 ああいう作品を一切合切大嫌いなことからも、私の学校嫌いのほうが本物?だと思う。

 マンガ大賞に選ばれるような話題の作品を「読んでみよう」と思いつつ手がでないのは、齢をとったからとか、絵のタッチが、とかではなく、「学園モノは嫌いなのだ」という基本を確認した。

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【追記.3】──「海街diary」を読んでみた

 夕方、すこし時間が出来たのでまんが喫茶で「海街diary」を読んでみた。 
なるほど、こういう作品なのか。粗雑な頭なので、複雑な人間関係を理解するまで時間が掛かった(笑)。わたしゃ複雑な家庭環境モノも苦手なんだよなあ。

 世の中には、平凡だけどしあわせな家庭に育ったのに(育ったからこそ)波瀾万丈の家庭モノを好む人もいるのだろう。私が絶対に見ることのない「大家族モノ」なんてテレビ番組が受けているのも、その流れなのだろう。
まだ一巻とニ巻しか読んでいない。感想は、通読してから書こう。 

習近平に最敬礼した公明党山口への怒り──ロンサム・ジョージとゴルゴ13

1月27日に書いた「習近平に最敬礼する公明党山口の無惨──世界に報じる朝貢外交」に書いた山口への怒りはいまも治まらない。あれがナンミョー党のひとりとしての行動ならどうでもいい。やつらの神様である犬作からして、朝鮮とシナには土下座しているのだから。

だが山口は「日本国の首相の親書をたずさえた使者」でもあるのだ。その親書を渡すときにあの腰を折ってのお辞儀である。相手も同じことを返したなら問題はないが、習近平はふんぞり帰っている。いまも腹立ちが治まらない。
世界の人間がこれを見たなら、どう考えても「謝罪」になる。

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ということで古い『ゴルゴ13』を思い出した。舞台はガラパゴス。

ゴルゴはロンサム・ジョージを護る側。そりゃそうだ、ゴルゴが狙う側なら簡単に殺せちゃう。

ロンサム・ジョージを殺そうとする刺客は誰かわからない。島には多くの観光客がやってくる。その中に紛れこんでいるのか。



その刺客をゴルゴが射殺する。死ぬ間際、刺客は問う。「なぜおれだとわかった?」
ゴルゴが応える。「日本人は日本人であることをわざとらしくアピールはしない」

刺客は「日本人観光客を装ったシナ人」だった。出っ歯でメガネで、首からカメラをぶら下げて、という典型的日本人的容姿の彼は、異国人に握手を求められたとき、日本人だからとそれを拒み、ぺこぺこと頭を下げる日本的挨拶をしていた。そのわざとらしさから、ゴルゴはこいつは日本人でないと見抜いたのだ。



というお話。何十年前の作品だったか。感謝するのは、私はこの作品でロンサム・ジョージのことを知ったのだった。なぜかはまってしまい、ガラパゴス諸島に関する本をずいぶんと読んだ。まだ行ったことはないし、行くつもりもないけれど。
そういう点では、まことに世界のそれらにアンテナを張っている作品ではある。私は近年のゴルゴを読んでいないけれど、麻生さんも今も熱心に読んで勉強していることだろう(笑)。



100年以上生きたロンサム・ジョージも、昨年6月に死んでしまった。新聞記事にもなった。そのときにもこのゴルゴの作品を思い出し、書こうと思いつつ、時が過ぎてしまった。まさかナンミョー党のお辞儀に腹立って書くことになるとは……。

日本独自の進化をした、まるでガラパゴス諸島のような携帯電話、略してガラケーなどと使われるが、そう口にするひとでガラパゴス諸島のことを知っているひとはどれぐらいいるのだろう。世界地図でガラパゴス諸島の位置を正しく指せるひとは。
いや、誤解されそうなのできちんと書こう。私は、ガラパゴス諸島のことを勉強しろと言っているのではない。そんな必要もない。言いたいのは、位置さえ知らないのに「ガラケー」などという言葉が定着してしまう不思議さについてである。



それにしても習近平に対する山口の低姿勢。いまだに腹が立つ。国辱だ。

中川昭一さんを偲んで「加治隆介の議」を読む夜──国賊ルーピー

ma-kaji 昨夜Wikipediaで第一次安倍内閣のことを勉強していた。当時の閣僚を確認したりしている内に、いつしか中川昭一さんのことを調べていた。

 その流れで今夜は、晩酌しつつ「加治隆介の議」を読んでいる。何度目の読みかえしだろう。中川さんをモデルにした政治漫画だ。連載開始が1991年だからもう20年以上前になる。「課長島耕作」にひと区切りつけ、弘兼憲史さんが挑んだ政治漫画の最高峰である。

 まだ中選挙区制の時代。弘兼さんの意見として主人公に言わせる「二大政党制にすべき」とか、「比例制度の導入」なんて言葉が躍っていて時代を感じる。
 上記「政治漫画の最高峰」と書いたが、かといって全面的に同意見ではない。私は当時も今も「小選挙区制」と「二大政党制」には反対だった。日本には合わないと思っていた。それは「民主党政権という実験」で明確に否定されたと思う。比例というのも無意味だ。いや害毒だ。



 現在連載中の「社長 島耕作」には、現役政治家として「加治隆介の息子」が登場している。防衛副大臣だ。このマンガでは「鹿児島ラサール中学の中学生」。まだ父の価値がわからず戸惑っているところ。

 そして今、「社長 島耕作」も尖閣問題等、政治局面を意識し、予測するような描き方をしている。いまの弘兼さんにとって、電機メーカーの「社長」より、日本国の「総理」のほうが興味があるのだろう。



 「加治隆介」のモデル、というかイメージを借りた政治家が、故・中川昭一さんだったことは弘兼さんが明かしている。39歳の商社マンが突然死した父の跡を継いで政治家となり、総理になるまでの道を描くとき、中川さんのバックボーンを借りたのだろう。

 中川さんをモデルにしつつ、地元の北海道をうまく鹿児島に置きかえて描いている。父と後継者の予定だった長兄が事故(それは政敵により仕掛けられた牋纏Ν瓩世辰拭砲濃爐鵑生紂⊂社マンだった次男加治隆介(39歳、課長)に後援会から立候補の願いが届く。戸惑う加治。

 そのとき加治を押し退け、出たくてたまらない父の秘書がいる。意見が対立した陣営は分列し、やがて二人は中選挙区制で、加治の父が残した票を取りあう戦いをすることになる。この下種な秘書の描き方が、やることなすことスズキムネオに似すぎていて苦笑する。
 中川さんをモデルにしたことが最も鮮明に出ているのは、加治が中川さんと同じ世襲議員だったり東大卒とか以上に、この「下種な秘書の存在」であろう。

「加治隆介の議」のおもしろさは、サイドストーリィに一ノ関鮎美との恋愛を絡ませたところにある。お約束ではあるが、やっぱりこれはいいなあ。
 やりすぎと思うのは、カンボジアや北朝鮮で大活劇を繰り広げるところ(笑)。おもしろいけど、スーパーマンすぎる。



 いま3巻目。今夜はこのまま生レモン割焼酎を飲みつつ、読むだけ読んで、眠くなったところで寝よう。
 その容姿から猖務い嶺鵜瓩噺討个譴辛稈羸邂賚困、じつは繊細で気弱なひとだったように、中川さんも心の弱いひとだった。それが、あんなに能力がありながらの早世に繋がっている。

 自分がいま何をやっているわからず、シナで売国発言を連発し、いい気になっている元総理がいる。信じがたい。あれが日本の総理大臣だったのだ。ああいうのが長生きして、中川さんのような国士が、罠にはまって早世してしまう。悔しくてたまらない。

 加治隆介が総理になる最終回まで読んで、しばし憂さを晴らすことにする。



 私は十数年続けているホームページでも、2005年からやっているこのブログでも、他者に対して「死ねばいい」というような表現は一度も使ったことがない。それはたとえば#鼻カルボの、「お年寄りは宝物だから長生きして欲しいけど、石原慎太郎だけには一日も早く死んで欲しい」のような醜悪な発言を目にし、他山の石としてきたからだ。どんなに立腹しようともそういう言いかただけはしまいと誓ってきた。
 いま調べると、鼻カルボは相変わらず今夜もこんな言いかたをしている。このひと今までどれほど他人を死ねと言って来たろう。人を呪わば穴二つである。

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 こんな言いかただけはしないようにしようと諌めている。

 でもいま初めて思う。あの国賊は生きている価値がない。 ルーピーとかならまだアホバカで済むのだろうが、それどころの話ではない。あれは日本国に深刻な害をもたすら害虫である。駆除せねばならない。

「社長島耕作」の解散預言はヒットかチョンボか!?

昨日は寒かったなあ。今年は厳冬になりそうな気がする。
去年の日記を見ると、「そろそろこたつの用意をしないと」と11月末に初めて書いている。今年はもう11月始めに同じ事を書いている。冷えこむのが早い。暖房なしでいつまでがんばれるか。



今週号の「社長島耕作」が衆議院解散を描いている。島が、万亀会長や中国人として初のテコットの理事となった陳らと一緒に温泉でくつろいでいるとき、解散の報が届く。年内解散で選挙は1月4日としている。

弘兼さんは松下電器のPanasonic改名や三洋電機の買収等、現実よりも先走ることを誇りにしてきた。未来予測である。経済界の現実があとからついてきた。
もしも今回もバッチリだったら称賛を浴びたことだろう。

だが、11月16日解散、12月16日投票という衝撃的な現実の前には、「12月解散、1月選挙」は霞んでしまう。
とするとこれはチョンボなのか?



しかしまた、民主党が政権にしがみつき、何を言われようと満期の来年9月まで解散しなかったら、「1月解散という予測」は現実と乖離して笑いものになっていた。「島耕作」そのものの存在価値を落としていた。

とするなら、ほんのすこし時期がズレたが、大胆にも「解散」と予測して描いたのは大ヒットなのか。
そんなの触れずにいてもいいことだ。現実を知ってから追っ掛けで描いた方がミスがない。それを思いきって踏みこんだ。弘兼さんなりに情報を得て、自信を持っていたのだろう。やはりヒットなのか?
 
世間の評価はどうなのだろう。

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【追記】──選挙結果は先走り

 11月29日発売号ではもう選挙結果を出し、一足早く自民党(作品中では民自党)圧勝を報じていた。

生活雑記──「ひとりこたつ」到着──冬の準備完了

kotatsu 去年の厳冬期に、「来年はこれを買おう」と思った「ひとりこたつ」というのが今夜届いた。左の写真。27センチ四方なのでちいさい。これをデスクトップ機のしたにおいて使う予定。



 ところで、大嫌いな佐川急便(笑)がやってきたのは午後9時過ぎ。こんなに遅いのは私は初めて。
 昨日発送したと通販会社からメールが入っていたので、今日は近所のドラッグストアに行くときも、「この間に来たらまずいな」と気を遣ったりしたのだが、取り越し苦労だった。
「遅くにすいません。今日はこれからまだ20軒もあるんです」と言っていた。とすると22時過ぎ、23時過ぎの配達なんてのもあるのか。私は早朝だろうと深夜だろうとかまわないが、困るひともいるだろうに。なんでそういうことになるの? 運転手は朝の8時から働いていて、そうなの? 相変わらずよくわからん会社だ。



 脚もとの暖房には苦労している。こたつ大好きなんだから、冬場は「こたつにノート」で決まりのはずなのだが、自作デスクトップ機偏愛のPC人生なので、ノートじゃつまらんのである。なにをするにもデスクトップ機でないとイヤなのだ。

 病膏肓に入り、とうとうこの頃は長年厳禁にしてきた「デスクトップ機前での飲食」までするようになってしまった。これはやめたほうがいいのだが……。



 こたつテーブルで晩酌をし、マンガを読んだり録画しておいたテレビを見たりする習慣だった。小説の場合は、読んでいるときはとても楽しいのだが、酒を飲みつつだと翌日内容を覚えていない(笑)。けっきょく素面の時に読んだ箇所まで戻ることになる。まあ何度も楽しめてお得と居直ればいいのだが、「あの時間はいったいなんだったんだ」と思うと虚しい。

 マンガがいちばんいい。もちろん深刻じゃないものに限る。でももう「本の形のもの」は読み尽きた。私は宝物にしている本以外はみな犲炊瓩靴燭里如◆嵋椶箸靴栃櫃辰討い襯泪鵐」はすくない。「いがらしみきおの初期作品」とか、小林まことの猫マンガ「What's Michael」とか、そういう宝物以外はみな自炊してPCに収めてしまった。これはもうたっぷり保っている。150GBを越えているからかなりのものだ。まあマンガ好きとしては人後に落ちない。だいぶかたよっているが(笑)。

 全巻もっていた「ゴーマニズム」とか缺かさず買っていた『SAPIO』とかも捨てる前に自炊すればよかったと悔いるのだが、捨てる決断をしたときまだそういうスキャナーは出ていなかった。「ゴーマニズム」は、戦争論、台湾論、沖縄論、天皇論あたりを残して、みな処分してしまった。



 絶対厳禁だったPC前の飲食をやるようになってしまったのは、この「自炊マンガ」が関係している。こたつテーブルだと、それを見るのはThinkPadの12インチになる。私にはそれではちいさいのである。デスクトップ機の2台の23インチで読むのが楽しい。これだと二面あるからサブのほうで音楽を表示して流せる。映画をBGVとして流したりもする。

 こたつテーブルにもiPodやCDを再生できる機器を先日導入したのだが、とにかくもうなんでもできるデスクトップ機の魅力にはあらがいがたい。こたつテーブルでする、マンガ(ノートPC)、音楽(再生機)、BGV(テレビ)というのがデスクトップ機だと一台で出来てしまう。しかも操作が素速い。ノートのポインティングデバイス、テレビ用のリモコンと音楽再生機のリモコンの使い分けも、飲んでいるときでもあり、けっこうわずらわしい。その点、痒いところに手の届くように磨きあげた自分だけのデスクトップ機は快適だ。音楽再生にしてもiPodをこちゃこちゃいじってやるより、そりゃもうデスクトップ機の画面からの操作のほうがぜんぜん楽だ。ぜんぜんを肯定的に使うのにまだ抵抗があるが実験的にやってみた(笑)。ぜんぜん楽しくない。やっぱりやめよう。



 酒と肴の組合せが重要なように、酒とマンガの組合せもたいせつだ。たとえば春先のかつをを喰うとき、冬場に湯豆腐で日本酒をやるときは、さいとうプロの「鬼平」や「梅安」がいい。時代劇マンガが嵌る。ストレートウイスキーのときは、同じさいとうプロでもゴルゴになる。

 ここのところ焼酎を飲みつつ「空手小公子」を読んでいた。ビールのときは弘兼憲史が多い。

 先日読み返したが、あらためて能條の「月下の棋士」ってバカマンガだと思った。将棋好きとしてあんなのは容認できない。今度悪口を書いてやろう。



 shimesabaしかしさすがにまだかわいいかわいいデスクトップ機の前に湯豆腐の鍋を置いたことはない。
 でも先日、昆布締めしめ鯖と熱燗をやってしまった。PC前の刺身は初めてだった。うまかったなあ。こんなことをやっちゃいけないと思いつつ、このうまいしめ鯖と日本酒で「剣客商売」を読んでいると、果てしなく堕ちて行くようで(ようじゃなく実際堕ちてるか)、なんかそこには自虐的な快感もあった。おんなが堕ちて行くときもこんな感じなのだろうか。「ああ、あたしもついに、こんなことをするおんなになっちゃった」
 ここまで来ると、ディスプレイに鍋物の撥ねた液が着くのもさほど先のことでもあるまい。

 酔っ払って、たいせつなキイボードに酒を零して壊し、翌朝素面になったときしみじみと悔いるような日が来る気がする。PC歴30年、まだそれは一度もない。ないはずだ、だってPC前で飲食をしなかったのだから。
 せめてその悔いをすこしでも軽くするために、PC前で酒を飲むときは壊れてもいい安物キイボードを置くようにしよう。ここまで来たらもうこの流れは止められない気がする。だって、楽しいから。ならせめて、酒を飲むときは大切にしている東プレや富士通のキイボードは外して、壊れてもいい千円キイボードに替えよう。それぐらいは出来るはずだ。飲み始める前は素面なのだから。



 話もどって「ひとりこたつ」のこと。デスクトップ機の脚もとにおく暖房の話。
 電気アンカでは物足りなかった。寒かった。
 ハロゲンヒーターは熱すぎた。焦げそうになってスイッチを切ったり、寒くなってまた入れたり、落ちつけなかった。
 それで今年、この「ひとりこたつ」を買ってみた。

 上記、飲み食いの話を書いてしまったが、それはもちろんごく特殊な時間。ほとんどは午前3時から午後まで真面目なことをしている。これから冬。明け方の寒い時間にかじかんだ指でキイボードを敲くのが好きだ。暖房はいれない。毎年思うのだが、上半身も下半身も平気だ。悩むのは脚もとと指先である。昨年の今ごろは「指なし手袋」のことを書いている。百円ショップで買えるのだが、近所になく、けっきょく安い手袋を買ってきて、指先を切って使ってみた。まあ正直、手袋をしてキイボードを打つのは楽しくない。今年はやらないと思う。



deskheater こういうパネル型ヒーターを机のしたにおくのにも興味がある。売れているらしいから、会社で使っているひとも多いのか。一般にオフィスではどうしているのだろう。というかオフィスは全体暖房がまず入っているから、私には参考にはならない。

 小型のセラミックファンヒーターの愛用者も多いのだろうけど、私は音がうるさいのでファン型はダメ。デスクトップ機のファンですら極力減らして静音化しているのに、セラミックファンヒーターは使えない。

 冬が好きなのは、夏場だとそのデスクトップ機のファンをいくつも回転させねばならないのに対し、冬場はほとんどを停止させ、静音に出来ることもある。真冬のシンとした午前3時には、12センチファンひとつの音ですら気になる。電源を入れたデスクトップ機がほんのりとあったまってくる。それすらも冬場はいとしいのだ。季節の好き嫌いにすらデスクトップ機が関係している。

 寒い部屋の冷たい空気の中でも、脚もとさえ暖かくしておけば、白い息を吐き、かじかんだ手を擦り合わせつつキイボードを敲くのも、楽しい。ふつうのひとは楽しくないだろうなあ。とすると、たんなる変態か。いやなんかこう、寒い中で健気にがんばっている、って感じがいいんです(笑)。で、夜が明け、日当たりだけはいい部屋だから、10時ぐらいになるともうさんさんと日が差しこんで、真冬でもちっとも寒くなくなる。だからこそ午前3時から7時ぐらいまでの指先がかじかむ時間がたまらない。
 今はまだ暖房の要らない季節。これからが楽しみだ。



 いや、誤解のないようにきちんと書いておこう。
 私は秋、暖房も冷房もいらない今の季節がいちばん好きだ。四季の中で秋がいちばん好きだ。今年、特に強くそれを思った。
 なんで秋が好きなんだろうと考えたら、本を読んだり、音楽を作ったり、そういう方面でのやる気を起こさせてくれる気候が好きなんだと気づいた。その点、同じ暖房も冷房も要らない季節でも、春はのんびりしてしまって、創作に燃えるという感じはない。

 でも冷えこむ冬に、暖房なしでがんばるのも、けっこう好きだ。
 猛暑の夏にクーラーなしで、水風呂に入ったりしてがんばるのは、あんまり好きじゃない(笑)。
 夜明けの早い夏は、なんだか「なにもしない内に一日が過ぎてしまった」ようなのが多い。
 その点、秋の夜長は楽しい。
 とか言ってる内に夜が明けてしまった。

「島耕作」話──久美子に豊麗(ほうれい)線

最近の「島耕作」は、完全に「ゴルゴ13」になっている。つまらない。
それがどんな意味かはあらためて書くとして。

最新号の「島耕作」は、「社長話」が行き詰まっていることもあり、「耕作と久美子の新婚話」をやっている。それでいい。それが読者の最もよろこぶ話だ。



「65になる社長島耕作が若すぎる」とは以前から問題?になっていた。
弘兼さんは、「アラフォーの前髪ハラリのパターンで始めたため、替え時を失った」と話していた。イシダジュンイチみたいなものか。

その反省?があったのか、ここのところ「島耕作」は、いきなり65歳という年齢相応になってきた。白髪っぽく、それなりに老けさせている。
それに合わせたのか今出ている最新号では、「大町久美子」に豊麗線がある。それはまあ彼女も45歳だから当然だ。



しかし「島耕作」のおもしろさとは、「41歳の島耕作課長が、セクシーな新人OLの大町久美子21歳とアレコレすること」にあった。

65歳と45歳のくんずほぐれずでは、弘兼さんのべつのヒット作「黄昏流星群」のセックスシーンと変わりない。
なんだかな。

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【追記】──「あぶさん」と「浮浪雲」のすさまじい格差(笑)

ビッグオリジナルは、巻末のほうに「浮浪雲」と「あぶさん」が並んでいる。「浮浪雲」は時が止まっている。「あぶさん」は現在進行形だ。その極端な差(笑)。

と言えば「釣りバカ」もそうか。こちらは現在進行形なら「スーさん」は死んでたな(笑)。

「課長島耕作」話に追記──その他の作品への感想

課長島耕作に少年篇が」を大幅に書き直しました。
ゴールデン街のモデルになった店に関して質問のメールをいただいたからです。 半端な文章だったので、わかりやすくまとめました。つもり。

ついでに、弘兼マンガを「島耕作」しか読んでいないと思われると悔しいので(笑)その他の作品に関する感想も大ざっぱに書きました。私は弘兼さんがビッグコミック大賞に応募してきた素人時代の作品から読んでいます。
マンガは評論家が出来るほど読んでいるけど、評論家ほどきらいなものはないので、極力評論はやめています。映画も音楽も。私のは「感想」です。

なおきといえば、「課長島耕作」のスタッフに「唐沢なをき」の名があるのは印象的ですね。有名な話ですけど。あのころ弘兼さんのところでアシスタントをしていました。



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『ゴルゴ13』は、全作リアルタイムで読んでいて、それこそ第1話のころは高校生だったのだから、長年の友人のような親しみはあるけれど、かといって上記の本で著名人がやっているように自分流の「ベスト13」を選ぶほどの熱心さはない。この『広辞苑』みたいに分厚い「Best13」は、ファンの礼儀として買ったけど、とにかく重い。風呂の中で左手で開いて見るには無理(笑)。文庫本てのは便利なアイテムだ。

すらすらと感想を書ける「島耕作」は、かなり好きなマンガなのだろう。と思う。 



浦沢直樹が大好きで全作品読んでいるけど、「20世紀少年」じゃ筋書きがわからなくなったし(笑)、いまの「Billy Bat」もわかりません(笑)。大好きだった筒井康隆に「虚構船団」のあたりからついてゆけなくなったように、ウスラバカは天才には置いてけぼりをくうようです。

まだなんとか「社長島耕作」についてゆけているのがなぐさめ。つうかもうノウハウマンガだからついて行くとかの問題じゃない(笑)。興味が持続するかどうかの話。だからこそ長年の恋人の久美子のガンは久々に新鮮なネタだった。

島耕作話──「社長」で終るはずの島耕作に「少年篇」が!──アメトークの「島耕作」──西原理恵子「人生画力対決4」

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 「課長」で始まった「島耕作」は、「部長」「取締役」「常務」「専務」と出世して行き、今はとうとう「社長」をやっている。団塊の世代の夢の象徴として、「あの島耕作がついに社長になった」と新聞記事にまでなったほどだった。

 それとはべつに平行して「ヤング島耕作」が始まった。「課長」の前の、新入社員、平社員の島耕作である。あとづけであるからなんでもできる。なにしろ未来を知っているのだからスーパーマンだ。新人時代に早くも将来の「家電廃棄処理問題」について先見の明を発揮していたりする。「おまえは神様か」と言いたくなるほど(笑)。
 でも神様なんだよね、20年後、30年後、40年後の世界をぜんぶ知っているんだから。ちょうど家庭用VTRの1号機が出る夢の時代を描きつつ、VTRがやがてHDDレコーダになることまで知っているのだから。

 あのころ私は「すこしでも安いVTRテープ」を買おうと思い、また「テープが貴重だからCMの時は録画ストップ」をした。まさかそれから30年後にダンボール箱に入れたビデオテープを何千本も捨てる時代が来るとは想像できなかった。

 初めてCDを手にしたときは宝物のように扱った。傷を付けては大変だと細心の注意を払った。まさかすぐに雑誌の附録にもついてくるようになり、ジャマになり、まとめて捨てるようになるとは思いもしなかった。


 あとづけで若い頃の島耕作を描くことで「島耕作シリーズ」にはいくつもの矛盾点が出てきた。たとえば「島耕作と初芝の創立者吉原会長との初対面」だ。「課長」の何話かに上役と一緒に吉原邸を訪問した際の初対面が描かれている。雲の上のひとである経営の神様との間近での初対面に「課長島耕作」はコチコチである。が、「ヤング」が始まると新入社員の研修中、ショップの不法投棄に逆らっているところにいきなり吉原会長が現れる。通りかかったのだ。これじゃ課長時代のあれはどうなるのだ、となる。島耕作ファンなら誰でも気づく矛盾だ。

 最初は「弘兼さん、ぼけたのか!? スタッフは気づかなかったのか!?」と思ったが、その後同じような矛盾が連続するから、最初の時はともかく、これはもう割り切って楽しんでいるのだろうと解釈することにした。初期の「課長」時代の矛盾には目を瞑ってもらうことにして、今を楽しもうとしているのだ、と。

 なにしろ始まったばかりの「課長」のころなど、島耕作はどうしようもないヘタレである。小心翼々を画に描いたようなつまらない男だ。そんな凡才のサラリーマン話として弘兼さんも連載を始めた。ところがそこからなぜか方向転換して社長にまで駆け上がるスーパーサラリーマンになってしまう。

 「あとづけ島耕作」は矛盾だらけだが、私としてもいちばん好きなキャラである中沢部長(後に社長、あっさり逝去)の課長時代が見られて愉しい。不満はない。というか、この「あとづけ」がいちばんおもしろい。中沢部長のフルネームは「中沢喜一」。ヨーダに似たどこかの総理大臣を思い出す名前で、それだけが不満(笑)。


 名前と言えば、中沢部長は、アメリカの「コスモス映画」の買収に成功したという実績が大抜擢の基本になる。この「コスモス映画の変人オーナーの名はバクスター・ゴードン。弘兼さんはハワード・ヒューズからイメージとエピソードを得たと語っている。

 「島耕作」の売りのひとつに章のタイトルが名曲というのがある。「課長」の途中からJazzの名曲がタイトルになった。そのことで弘兼さんもスタッフもJazzに詳しくなっていっただろう(笑)。バクスター・ゴードンの名はサックス奏者のデクスター・ゴードンから取っている。こんなあそびが見えるのも「島耕作」の楽しみの一つだ。


 平社員の「ヤング」から始まった流れは「主任篇」になり、いまの「係長篇」が最後になると言われている。そりゃそうだ、次は「課長」だからすべての人生を描いたことになる。ぐるりと環が繋がる。

 この「あとづけ」で始まった「ヤング」「主任」「係長」の島耕作は、人格的にも知識、正義感、すべてにおいてすばらしく、ますます連載初期の「ヘタレ課長島耕作」の矛盾が浮き彫りになる(笑)。

 たとえば「ヤング」で、学生運動出身の先輩が初芝の新人寮でアジテーションする場面がある。あまり乗り気でない島耕作は集会に遅れ、組合運動の若いリーダーである早稲田のその先輩になじられるのだが、ハッキリとその青臭い学生の革命理論に対して反論を述べる。論破する。島耕作のかっこよさに惚れ惚れするシーンだ。
 
 でもそれはあとづけの島耕作、「人間交叉点」を経た今の弘兼さんだからできること。最初の設定の島耕作は、フィリピンで死んでしまった樫村がESSの生真面目リーダーであったのに対し、雀荘に入り浸ったり、雰囲気サヨク(私なんかもそうだったが)だったり、いいかげんを絵に描いたような学生生活なのである。なんだか「あとづけ島耕作」があまりにかっこよく、読んでいて気恥ずかしくなる。


 と、今現在の流れの「社長」と、あとから描いている若き日の「係長」連載終結で、「大河マンガ島耕作」大団円かと思っていたら、今週特別編として「少年島耕作」が載った。冒頭の写真。社長の島耕作が高校生15歳の島耕作を自転車に乗せているという時を飛んだいい絵である。
 
 三週連続でやるらしい。そうか、この手もあったのか。「社長」の次の「会長島耕作」は誰でも思いつくし、その後の「相談役島耕作」「老後島耕作」も、もう「部長」のころから楽しい笑い話にしたものだが、「ヤング」以前の島耕作は考えてなかった。「少年」が出てきたなら、次は「園児島耕作」か(笑)。さらに溯れば「島耕作の父」もかける。「島耕作」が生まれる前の両親の話。


 というのは冗談。なぜここで「少年」が出てきたか!?
 前回の「社長」で、島耕作シリーズのマドンナ大町久美子がガンになる展開になった。下腹部を指した久美子が「ここにゴルフボール大の腫瘍があるの」と言う。子宮癌か。ここのところ企業漫画に徹していた島耕作シリーズの私生活における久々の大事件である。泣きながら久美子が結婚して欲しいと言う。死にたくないと。そこでふたりはついに入籍した。大手術前のふたりだけの結婚届だ。長い長い春だった。

 ふたりの出会いは課長の40歳と短大を出たての新入社員20歳の時。あれから25年。課長だった島耕作は社長となって今は65歳、初芝の創立者吉原初太郎が芸者に産ませた隠し子であり、吉原の株を相続して大金持ちの性に奔放な久美子も45歳になった。そしてガン。なかなかの大河ドラマである。すくなくとも国営放送の大河ドラマと称しているものなんかよりははるかに大河だ。

 でもこれなんかも、晩年の吉原初太郎が最愛の女に産ませ、将来初芝の社長となる男と結婚させ自分の後継者にしようと思っていた久美子であり、母親も吉原から一千万株をもらい大金持ちという設定なのだから、なんで短大卒で初芝に就職してくるのか疑問。「世界的社交界にデビュウさせる」というプランも後に実行される。だけどだったら名のある四年制大学からイギリスやフランスに留学となるはずで、なんで名もない短大卒の一OLとして初芝に就職してくるのか。

 これも「課長島耕作のオフィスラブの相手として、若い美人の部下の大町久美子」を設定し、そこから「もしも久美子が吉原初太郎の隠し子だったら」と、「もしももしも」で路線変更していった矛盾なのだろう。

 いや矛盾と言ったら失礼か。いわゆる「キャラの一人歩き」だ。見事なキャラの設定により、作者を無視して一人歩きを始めたのだ。久美子や中沢部長の一人歩きはクリエイター冥利に尽きる愉しみだろう。


 弘兼さんは登場人物を殺すのが好きだ。読者に人気のあるキャクラクターをばんばん殺す。読者から批難が殺到するのを楽しんでいるかのようだ。果たして久美子を殺すのか。

 「少年島耕作」は、そんなヒロイン大町久美子のこれからを描くという大仕事の前にワンクッションおいたのだろう。

 吉原初太郎も、木野会長も、大泉社長も、中沢部長も、みな死んでしまった。フィリピンの銃撃で死んだ同期の樫村もいたなあ、ニューヨークで作ったハーフの娘のニャッコも死んじゃったし……。「課長」時代の八木なんて有能ないい部下だったのに、なぜか「社長」では、島耕作に絡んでくるとんでもなく悪相のイヤなヤツになってロシアで殺された……。ポイントは中国篇なのかな。中国を理解しようとしない高飛車なやつに描かれていた。

 読み返してみていちばんおもしろいのは、やはり「課長」になる。いいかげんだからこそ面白い。経営マンガ、薀蓄マンガになったら、おもしろさは目減りする。けっきょくは課長の島耕作と久美子の物語だ。
 その久美子をどうするのか!? 45歳でやつれさせてガンで殺すのか……。


 いずれにせよ「社長篇」も、あとづけ連載で始まった「ヤング」からの流れの「係長篇」もともに大詰めだ。弘兼さんは「社長篇が最後」と明言している。大河漫画の完結もまぢかい。

 いろいろ言うひとはいるし、たしかに「幸運な偶然」が多すぎるけど(笑)、私はこの作品をリアルタイムで楽しめたことに感謝している。

 先日何度目かのまとめ読みをした。テレビは見ないしインターネットも極力やらないようにしているので時間がある。かといって<きっこさん>みたいに、星を見上げたり、虫の声に耳を傾けたりするような風流な趣味もないので(笑)、マンガを読む時間が増えた。とはいえこれとか、「パイナップルアーミー」「マスターキートン」等の限られた好きな作品の読み返しだ。私の基本はビッグコミック(小学館)系なので、講談社系のモーニング連載作品はこれぐらいだ。もちろん「バガボンド」とか有名作品はぜんぶ読んでいる。読んでいることと好きはまた別。


 ひさしぶりに読み返してしみじみ思ったのは、目につく矛盾よりも、リアルタイムでこれらを読んできたという過ぎ去った時間への愛しさだった。1984年からだから28年を並走したことになる。この時間は大きい。

 たとえば、「島耕作」の名は「弾厚作」から取っている。加山雄三(も芸名だけど)の作曲するときの筆名だ。田舎の少年だった弘兼さんにとって加山雄三はあこがれのスターだった。後に対談している。うれしそうだった(笑)。そんなもの。子供のときのあこがれのスターはいくつになってもスターだ。

 弾厚作という筆名は、加山の好きな作曲家、團伊玖磨と山田耕筰から合成している。こういうことはいくらでもあとから知識として得ることはできるが、加山雄三が登場した時のかっこよさは、時代を知らないとわからない。
だからやっぱり、最後部の【餘談】に書いたけど、「アメトークの島耕作大好き芸人」の企劃は無理だった。

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 たとえば、木野会長と大泉社長の決断で、取締役35人抜きで中沢部長が次期社長に決定する。これはソニーをモデルにした。あまりの行天人事に固持する中沢部長を「社長を受けてください。社長になってください」と「課長島耕作」が口説く店は、新宿ゴールデン街の古びた店だ。店名は伏せられているが、モデルとなった店を知っている身には、なんともたまらない設定である。

 「課長島耕作究極の謎」とか、そんな本があるらしい。私は読んでいない。同じような内容であろう『ゴルゴ13』のものは読んだが。
 弘兼さんは、その本が前記の店を特定したのでおどろいたと単行本「課長島耕作」のあとがきで書いていた。正解だ、と。でもゴールデン街に出入りしていたひとなら、あの店を断じるのは難しくはない。

 後に「島耕作部長」と「中沢社長」は、思い出のその店を訪ねる。するとすでにつぶれて、ない。でも同じ場所に「Chaco」というワインバーが出ている。弘兼さんはモデルにした店の名を口にしていないが、この店の名前「チャコ」からモデルとなった店の名を暗示している。

 このChacoのママは以前の店の女将の娘で、外国から戻ってきたばかりのワイン通、という設定だ。その後の「九州篇」「ワイン篇」「中国篇」にも関わってくる。
 この辺は純粋な弘兼さんの創作だが、現実にその店の女将にも娘はいて、私の知人と同棲したりしていたから、なんとなくこのへんもくすぐったい。


ハロー

 「島耕作」を語るなら弘兼さんの最初のヒット作である「ハロー張りネズミ」は避けて通れない。そういや弘兼さんのデビュウのきっかけは「ビッグコミック大賞」への応募だったけど(佳作だった)、このあたりからもう講談社系だ。「ハロー張りネズミ」には「島耕作」でも肝腎の所で絶大な働きをする「グレさん」こと私立探偵の「木暮久作」が登場している。というかほぼ主役。弘兼さんもよほど好きなキャラなのだろう。

 大ヒット作であり弘兼さんの代表作となっている「人間交差点」はビッグオリジナル連載。これは小学館。弘兼さんのことをこの作品で語るひとは多いが、これは原作の矢島正雄の作品だ。絵師としての弘兼さんの力がなければ成立しないほど密接につながっているとはいえ、根本の思想がサヨクの矢島のものだ。たとえば「あの戦争」がテーマとして何度も出てくるが、そこでは日本は紋切り型の「アジアに迷惑をかけた悪い国」である。それは弘兼さんの感覚とは異なっている。

 この連載で絵師として「矢島思想」にじっと従っていたからこそ、その後の「島耕作」も「課長」と「部長」のあいだに書かれた政治漫画「加治隆介の議」も、まっとうな弘兼さんの政治思想が表に出たのだろう。「加治隆介の議」は「島耕作」なくしては誕生しない作品だった。別の言いかたをするなら、「島耕作を描いていれば加治隆介を描くのは必然だった」となる。まあこれも主人公の政治家加治隆介が、カンボジアとか韓国でアクション映画みたいな大活躍をしていて、おもしろいけどやりすぎだとは思うシーンも多いけど(笑)。


 「部長」以降の「島耕作」は、音楽業界に出向したり、ワインの輸入に関わったりしてゆく。私は、このへんから次第に興味を失っていった。音楽業界もワイン輸入もつまらなかった。
 唯一、九州博多での活躍は面白かったけど、あの「今野輝常」にまでもやさしくしてやるのは人間が出来過ぎと感じた(笑)。
 みんないいひとになって大団円になってゆく中、なぜ「八木尊」はあんな悪相になってロシアで殺されねばならなかったのか、ほんとに謎だ。訊いてみたい。ただあれもキャラがひとり歩きを始めたようにも思う。悪相になって殺されるところまで暴走を始めた八木を作者の弘兼さんも止められなかったのか。

 「社長」になってしまうと、やっぱりつまらない。権力があるからとかではなく、完全な企業マンガになってしまったからだ。松下がPanasonicになるように、初芝をTecotにするとか、松下と三洋の吸収合併の話とか、発電産業に参加する予定だったが東日本大震災で諦めるとか、もう時代に沿った企業マンガであり、やはり主人公は課長ぐらいがいいのだなと感じる。逆に「加治隆介の議」は、総理大臣になってからの加治隆介も、すこし読みたいなと思ったものだが。


 「島耕作」と並ぶ代表作である「黄昏流星群」には、「島耕作で培った知識」があちこちに出てきて興味深い。ワインの薀蓄とか。これは小学館。「人間交差点」以来のビッグの連載。
 ここには「ハロー張りネズミ」のころから弘兼さんが大好きであり、でもマジメな「島耕作」では使えなかった「タイムスリップ」「心霊現象」「呪術」「空間移動」とかが出てくる。そういう意味で、「ハロー張りネズミ」で始まった弘兼憲史のマンガ歴史は、絵師としての「人間交叉点」で方向性を確立し、思想として「島耕作」「加治隆介の議」で結実し、すべてを含んだ遊びとして「黄昏流星群」で完成を見たというのが「論」として正しいように思う。



【追記】──中国蘇州篇「周紅梅」の呪縛について──7/29

 「島耕作シリーズ」には、弘兼さんの大好きな「呪術」「呪縛」が出ないと書きましたが、この「周紅梅」に呪縛が出てきますね。忘れていました。ほんとにほんとにこういうネタの好きなひとだから、さすがに「フランス ワイン篇」なんかでは出せなかったけど、中国篇になったら、しんぼうたまらん、という感じで描いてしまったのでしょう。すごくマジメな島耕作ファンからブーイングだったと思います(笑)。



 「黄昏流星群」は中編のアンソロジーだから、出来不出来に差があり、大好きだからこそがっかりした作品も多いと批判するひともいるが、まあそれはしょうがない。どんなすぐれた作家も短編すべてが満点とはゆかない。

 さて、じゃこれから「黄昏流星群」でも読もう。私も好き嫌いがあるので好きなのだけを選んで。

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【餘談】──アメトークの「島耕作」

 私は「アメトーク」が好きだけど、中身の好き嫌いにはかなり差がある。好きな中身のときは録画して保存するが、中身次第では見ない回も多い。

 「島耕作大好き芸人」だったか、そんなタイトルの回はひどかった。楽しみにして見たのだが、出演した芸人が「島耕作大好き、詳しいですよ!」と言うには、あまりに若いのだ。30歳そこそこの麒麟の川島が島耕作マニアとしてしゃべるのは無理がある。実際知識も浅いのが見え見えだ。かなり無理な企劃だった。連載が始まったときは赤ん坊だろう。いくら若くても、「20歳の大学生のときから読み始めて28年経って、いま48歳」ぐらいでないと話にならない。もちろん最適なのは島耕作(=弘兼憲史)と同じ団塊の世代だ。

 お笑い界にそんな世代はいないのか。年齢的には西川きよしだ。西川きよしは島耕作を読まないだろうし、読んだとしても中学を出てがんばって、24歳の時には家を建てていたと自慢するあのひとでは「島耕作」は楽しめないか(笑)。

 川島世代のお笑い芸人だからこそ他人事風に楽しめたと言えるのもしれない。一種の夢物語として。ま、あたらずとも遠からず、冬来たりなば春遠からじ。冬の来ない春はない。来週も「少年篇」を読まないと。

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【追記】──西原の「人生画力対決」 ──弘兼、柴門ボロクソ(笑)

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 過日、西原の「人生画力対決」の3と4を買って読んだ。もちろん1,2も持っている。
 これが連載されている「スペリオール」は「あずみ」終了以降読んでない。すっかり「雑誌派」から「単行本派」になってしまった。今回この「画力対決」はUstreamネット中継があると知る。まあそこまで関わる気もない。単行本だけでいい。

 「岳」の石塚真一が登場していて興味深かった。「ほんとは山マンガでなくJazzマンガが描きたい」のだとか。楽しみに待とう。その割りにはマイルスの画がへたすぎだったが(笑)。「岳」が高い評価を受けたので、書き続けることがきつくなっているのだろう。わかる心理だ。

 「画力対決」には登場しないのだが、パーティで顔を合わせた弘兼憲史が出てくる。西原は前から弘兼をボロクソに言っている。ついでに「こいつの女房(柴門ふみ)のマンガがまたつまらなくて」と、怖いものなし状態(笑)。ほんとすごいな、西原って。大笑いした。

「岳」から「ゴルゴ13」──沢木耕太郎の「凍」から山野井泰史の「情熱大陸」

gaku

マンガ「岳」を読んでいたらフリークライミングの平山ユージの名が出て来た。それを調べていたら「ゴルゴ13に名前が出ている」とあったので、そのゴルゴを引っ張りだして読み、それからアルピニスト山野井泰史のブログに飛び、沢木耕太郎の「凍」を思い出し、そのあとYouTubeの「情熱大陸──山野井泰史」をダウンロードして見た。

山野井さんのブログに、奥多摩に住んでいる山野井さんがジョギング中にクマに襲われ、「腕を20針、顔を70針縫った話」が出て来る。ヘリコプターで搬送されたいへんな状況だったようだ。クマの手で顔をひと搔きされただけでそうなる。

奥多摩は東京都! である。東京都の山中で、さほど大きくない、おとなしいと言われている月の輪熊に襲われただけでも、瞬時にしてこれだけの災害になる。これがもう300キロの獰猛な羆だったりしたら、瞬殺である。あらためてヒグマを飼ったりする愚行に腹が立つ。

続きはこちら

「岳 みんなの山──石塚真一」を読む──麻生太郎のマンガ好き

gaku 2008年のマンガ大賞に撰ばれた「岳 みんなの山──石狄唇譟廚鯑匹濟呂瓩拭
 こどものころからいまに到るまで自慢できるぐらいマンガは読んでいるが、ここのところ定着気味。定番ばかり。マンネリ。

 それを恥じてはいない。自然と思っている。いまも毎週「少年ジャンプ」を読むという麻生太郎のほうが異常だ。私は小学生のときから読んできた少年サンデー、マガジンを、三十代で卒業した。これでもかなり問題だろう。実際当時私は「おれはこのまま一生サンデーマガジンを読み続けるのだろうか」と自問した。といってタバコのように苦しんでやめたのではない。次第について行けなくなり疎遠になった。そりゃ小学生向けに二十代の漫画家が描いている少年漫画誌を三十代の男が楽しむというのは歪んでいる。卒業は自然だ。マンガにも年相応がある。

 麻生さんはよくもわるくも怪物である。といって私は、麻生さんのようにジャンプを読みたいとは思わない。何事も世代はある。だからこそビッグコミックもあんなに分派した。

 しかしそのことで言うと、(麻生さんはこのことにだけは触れられたくないようだが)、マンガというのは、おとなが子供向けに描くものだから、どうしてもコトバは難しくなる。その分、カナ(ルビ)が振られているので、わかりやすい。だからマンガ好きの子供は、コトバでは大人びる。大のマンガ好きだった私は小学校3年ぐらいのとき、近所の不勉強な中学3年生より、コトバでは大人びていた。

 まあ、あまりにレベルの低い地域の話なので、私がすぐれていたというより、周囲が遅れていたのだが。でもあのころ手塚治虫の「鉄腕アトム」には、「ヴァン・アレン帯」なんてコトバが登場していた。地球内部の「マントル層」とかもマンガで覚えた。それらを知っている小学校低学年の私と、マンガを読まず知らない中学生のあいだに智識差があったのは事実だ。
 マンガ好きの麻生さんがなぜ漢字を読めなかったのか不思議でならない。

 ここで、もしかして「その後の鳩山や菅もひどいひどいと言われながら麻生のようなことはなかった。麻生が飛びぬけてバカだった」と思っているひとがいるかもしれないので、念のために書いておくと、麻生の赤っ恥で懲りたことから鳩山や菅の原稿は、それこそスタッフにより小学生でも読める漢字にまでカナがふってあった。あれはあれで屈辱だったろう。それだけの話。

 麻生は「TVタックル」や「たかじん」に出演するが、絶対にこの話題にだけは触れさせない。彼なりに強烈なトラウマなのだろう。でもマンガ好きとしては「未曽有」を「みぞゆう」ではなく「みぞう」と読むなんてのは、マンガのフリカナで学ぶ典型例だと思うのだが……。 

kanren7●三年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」

 


 と、最初から脱線してしまった。麻生さんじゃなくて「岳」の話。
 ビッグコミックをレギュラーを始めとして創刊号からぜんぶ読んでいるというのは私の数少ない自慢だ。
 しかし時の流れと共にいちばん好きだったオリジナルも今は買わくなくなった。コンビニで「風の大地」と「黄昏流星群」を立ち読みする程度。後々それらは単行本を買って読む。「毎週買う派」だったのに、すっかり「単行本派」になってしまった。スピリッツやスペリオールは手にすることもない。あとはモーニングやイブニングの「島耕作」ぐらい。
 それは正しいと思っている。いまの私がスピリッツの最新人気漫画に詳しいことは、AKB48の曲をカラオケで歌って若ぶるおっさんと同じぐらい滑稽だ。



「岳」のことは知っていたが立ち読みもしていない。そもそも立ち読みって申し訳ないと思うから5分以上しないし。
 その立ち読みも、「千円買い物したから5分の立ち読みは許されるかな」とか気を使う典型的小市民感覚(笑)。ほんと私は「今日はモーニングの島耕作を立ち読みしよう。その代わり何か買わないと。何か買う物はあるだろうか」と確認してから出かける。律義だ。



 マンガ大賞に撰ばれた秀作であることはもちろん、ストーリーも画風も確認してから、いわゆる「おとな買い」で入手し、読み始めた。漫画家志望ではなかったのに、浦沢直樹や弘兼憲史の絵を見て独学したと言うだけあって、浦沢的なタッチが随所に顔を出す。私にとって好みの画風というのは大事で、どんなに世間的に話題の作品でも自分好みでないと受けつけない。

 これはドラマでも同じ。どんなに話題の、おもしろそうな作品でも、役者が嫌いだと見ない。というか見られない。
 先日十数年遅れで松嶋菜々子と堤真一の「やまとなでしこ」を見てたのしんだ。でもどんなにおもしろいラブコメでも、あれが久本雅美と武田鉄矢だったら見ない。



 さんざん検討した結果の購入であるから当然なのだが、アタリでよかった。年をとると、「ハズレを嫌う感覚」が強くなる。

 私は山岳関係の本やマンガはけっこう読んでいる。楽しんでいる。マンガだと村上もとかの山岳モノが好きだ。沢木耕太郎の「凍」を読んだときは、指を失う恐怖に震えた。山登りに興味はない。多くのひとが魅せられるようにすばらしいのだろうとは思うけど、楽器演奏が好きな者として、凍傷で指を失う恐怖には耐えられない。浅田次郎の「プリズンホテル」にも指のない豪気な山男が出てくるが、やはりなじめなかった。



 いま「岳」一巻目の「写真」まで読んだところ。いい話だ。泣いた。
 どんどんひとが死ぬ。全員助かってのハッピーエンドはない。きつい。読んでいてつらい。でもそれが現実だろう。とても酒を飲みつつ読める作品ではない。
 15巻まである。じっくりゆっくり読んで行こう。

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【補記】──作者は茨城出身

 作者の石塚さんは茨城出身なのだとか。どこなのだろう。毎度言うが、茨城も福島寄り、栃木寄り、千葉寄りで、あれこれちがうのである。私の田舎は利根川を挟んだ千葉寄り。
 なんとなく気になる。でも「茨城県出身」という以上の情報はない。石塚というのはけっこうあった苗字なので、もしかしたら、と思う気持ちがある。いま41歳。アメリカの大学に行った……。もしかしてあの石塚さんちの息子なのではないか!?

【追記】──私なりの感想をこちらに書きました──2014/06/22

 『岳』に関してまともなことが書いてあると期待してここに来たかた、すみませんでした。すこしまともな感想をこちらに書きましたので読んでください。

●マンガ『岳 みんなの山』の感想──三歩は死ぬ必要があったのか!?

映画「容疑者Xの献身」感想──ミスキャスト堤真一の熱演

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映画「容疑者Xの献身」感想──ミスキャスト堤真一の熱演
関連として、「武士の一分」「Dr.コトー」「蒲田行進曲」

追悼──中川昭一3──「加治隆介の議」のモデル

中川昭一の父中川一郎は北海道出身の初の総理大臣の期待を寄せられていた。タカ派のその主張と豪快な行動発言は"北海のヒグマ"と呼ばれた。
息子中川昭一は東大を出て銀行に勤めるエリートだった。ごつい容姿の父に似ずハンサムだった。不可解な死を遂げた父の地盤を秘書の鈴木宗男が継ぐという。後援会はふたつに割れた。鈴木を嫌う一派に担がれて立候補する。その流れからしてドラマチックだった。日本中の注目を浴びた選挙戦だった。

政治漫画の傑作として名高い「加治隆介の議」の設定に、作者弘兼憲史は中川父子を選んだ。
《与党要職にあった大物政治家の不可解な死。跡を継ごうとする人品骨柄卑しい秘書。ふたつに割れる後援会。一方から後継者として担ぎだされる、それまで政治にはまったく無関心だった東大卒エリート銀行員の息子。悩んだ末の出馬。死んだ政治家の息子と秘書の争いとなる選挙戦。》
まさに中川父子そのものである。さすがに舞台は北海道から鹿児島に移してある。加治隆介には父の跡を継ぐ予定の兄がいて父の秘書をしていた。その兄も父と一緒に殺されてしまう。そうして立ち上がった次男だった。
中川の場合は長男だし父の後継は意識して育ったろう。とはいえ首相を狙う地位の父が57歳で急逝し急遽出馬することになるのは想定外だったはずだ。

「島耕作」でサラリーマン漫画に金字塔を打ちたてた弘兼憲史が、それをしばらく休み、次のジャンルとして選んだのが政治だった。綿密な検討の上に選ばれたモデル。中川昭一の政治家人生は弘兼憲史の描きたい世界と一致していた。当面の敵役となる秘書出身の俗物議員のキャラも申し分ない。主人公を支えるブレーンキャラのためにも東大卒が望ましい。すべてにおいて満点である。もっとも加治隆介の妻はヤクザと浮気する悪妻だったから「がんばれニッポンイチ!」と声援してくれた中川の方が恵まれていたか。(続く)

図書館の西原人気3

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 図書館での西原理恵子人気はすごい。いつ行ってもみな貸し出し中だ。そんな中、唯一あるのが伊集院静とのコンビ本。これはもうどこにいっても必ずある。西原関係の本はみな貸し出し中なのに、唯一残っている。だから借りる。でもこれ伊集院の本だ(笑)。せっかく借りてきたのだからと読む。つまらない。後悔する。返す。その繰り返し。そう、せっかく借りに行ったのだからと、なんどか同じ事をやっている。ばか。
 
  そんなに好きなら買えば? と言われそう。買っている。けっこうもっている。あのアマゾンに出かけたのなんて、引っ越しの際の何度もの大量焚書をくぐり抜けて残っている。「恨ミシュラン」はあったか? 前回の焚書で焼いたような。あれはコータリの本だし、なにより出版がアサヒだった。カモちゃんの本はまだ何冊かもっているが次の焚書で焼かれそうだ。

  最近の母親シリーズに、買うほどの興味はない。かといって読みたくはある。なので図書館、という流れ。しかしいつ行ってもどこでもみな貸し出し中なのである。
  私は「予約」というものをやったことがないし、する気もない。そこまでして借りるなら買えよ、と思う。なのに買わないから堂々巡り。いつまで経っても近年のサイバラを読めずにいる。
 
  立ち読み、という手がある。だが私の住んでいる地域でサイバラの本をそろえている店はない。いったいどんなところに住んでいるのかと笑われそうだが現実である。
 
  今朝は、カフェラテを作って飲んでいたらサイバラが読みたくなった。がまんするとすぐに忘れる。しばらく後、また思うことになる。同じ事を書かないようにメモ。

「あぶさん」「浮浪雲」と「風の大地」

ビッグコミック・オリジナル(小学館)で35年にわたって連載中の長寿漫画「あぶさん」の主人公、ソフトバンク・景浦安武外野手(61)が、今季限りで引退する意向を固めていることが31日、分かった。
後見人(原作者)の水島新司さん(68)が明かしたもので、今季は代打に専念し、巨人と日本シリーズを争う“有終の美”を夢想している。……。(以下略スポーツ報知より)
 

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オリジナルは創刊号から闕かさず今も読んでいるが、「あぶさん」は20年ぐらい前からもう読まなくなった。やがて「浮浪雲」も。
おもしろいと思わないのだから読む気にはならない。

「あぶさん」は野球に興味がないから。「浮浪雲」はマンネリにうんざり。
かといってまったく興味のないゴルフ漫画の「風の大地」は読んでいるのだから、これは物語として「あぶさん」や「浮浪雲」の吸引力が落ちたということだろう。いや私の何かが変ったのか。

同じ長期連載の作品だが両者には大きな違いがある。「あぶさん」は現実の時間を生きて年を取り、「浮浪雲」は時が止まっていることだ。

ジョージ秋山はなぜ倦きないのだろう。不思議だ。
倦きないふたりのどっちがすごいかと言えば、そりゃあジョージ秋山のほうだ。だって「あぶさん」は現実のプロ野球界が舞台だから毎年変化があってネタ不足がない。「浮浪雲」は舞台も登場人物も限定された上での一幕芝居だ。
 

水島氏のいくつもの作品に登場する「岩田鉄五郎」は架空の老齢キャラだった。水島氏の中で不屈の老齢キャラはあこがれだったのだろう。35年掛けて経歴のある本物を作り出したのだから積み重ねは偉大である。


ところで「いぶし銀」というのは、どうにもほめようのない長所のない人への、しかたのない形容なのだとか。すすんで使う表現ではない。ずいぶんと誤用されている。水島氏はその普及隊長だった。

NHKの西原5

 NHKの西原理恵子(3/14)


 午後1時5分からの「スタジオパーク」に西原理恵子が出ていた。
 NHKは嫌いなので意図的にこの番組を見たことはない。
 たまにチャンネルを替えているときにこの番組に出会うことがある。朝早くから仕事をしていると、昼のこのころは、ちょうどベッドに寝ころんでくつろいでいる時間になる。
 興味のある人だったらしばらくのあいだ見たりするのだが、たいがいは途中でやめてしまう。どんなに興味ある人がゲストであっても、毒にも薬にもならないNHK的切り口にうんざりしてしまうからだ。子供時代から今に至るまでどうにもNHKは体質的にあわない。
 テレビの思い出は数限りなくあるがNHKはほとんどない。紅白歌合戦を最後に見たのは家族と見ていた小学生の頃だし、大河ドラマとやらは一度も見ていない。いわゆる「チャンネル権」が手に入ってからは、というか自分のテレビを手にしてからは、まず見ていない。とにかく筋金入りのNHK嫌いである。

 といって思想的にうんぬんというレヴェルではない。ごく単純におもしろいと思わないのだ。娯楽に対する感覚の問題だろう。
 とはいえ競馬のダービー優勝時に、君が代の流れる中、日の丸を映すのがいやでずっと馬の尻を映していたような露骨な局内サヨクの無礼には心底腹を立てている。
(世話になっているのは大相撲と将棋だけだ。縁を切りたいが困るのは相撲である。将棋はCSの将棋チャンネルと契約すれば縁を切れるが……。)

 今回も見ようと思って意識していたわけではない。それでも偶然大好きな西原が出ている珍しい場面に出くわしたから、なんということもなく眺めていた。結果として「スタジオパーク」なる番組を最初から最後まで初めて見ることになった。これはこれで収穫(?)である。

 ひとえにそれはNHK的感覚と合わない西原の野放図な魅力ゆえだった。
 まずはいつもは生番組なのに彼女の出演部分だけ録画だというのが笑える(笑)。この番組の売りは、生放送中に寄せられたファクスから出演者に質問したりするリアルタイムなラジオ的なやりかただ。それが録画になった。理由は「あぶないから」(笑)。
 それに関しても西原は平然と「生放送どうですかって言われたんだけど、危ないですよって」と笑っている。

 どこをどうカットしたのか知らないが、それでも西原の魅力は十分に発揮されていた。だからよけいにカットしていないモノを見たくなる。
 子供が可愛くて、母親という仕事が楽しくて、今度生まれても絶対お母ちゃんになるんだという西原のそれを、NHKはNHK的な感覚で語ってもらおうとする。母親の子供への愛情というステロタイプの描き方だ。だが西原は感覚が違うからズレる。それが笑える。

「子供のいちばんかわいいところはどこか」と、司会進行は赤ちゃんから小学生の今にいたるまでを常識的に語ってもらおうと水を向ける。それこそ「ものを言えない赤ちゃんだけど、笑顔を見ただけで一日の疲れが吹き飛ぶ」なんてパターンだ。が、西原は平然とそれを否定する。
「人間になってからですね」と。
 そこまで育てるのは動物の世話と同じでたまらない。今までいろんな仕事をやってきたが専業主婦ほどたいへんなものはない。なにしろ休みがない。24時間中相手をしなければならない。べろべろばあなんてのも、こちらは3回やれば倦きるが、あちらは何時間でもそれを要求すると(笑)。

 好き勝手なことを言っているようで、西原は子育てのたいへんさと女の偉さ、価値を語っている。専業主婦の絶大な意味合いも。こういうのが本当の主張だ。対極にタジマヨーコのようなのがいる。

 すでにNHK的な「赤ちゃんの笑顔」を否定してしまった西原だが、ここからがまたすごい。
「人間になってから」の理由を問うと(NHKアナも問わなきゃいいのにね)、「だって立ちグソしたりしますからね。ありゃチクショーと同じですよ。そんな時期はかわいくない。チクショーですから。物を考えるようになって人間になってからですよ、かわいくなるのは」
「上の子が二階からションベンして、下の子がそれが下で浴びてる。たまんないですよ。男ってのがこんなんだとわかってたら、離婚という失敗もしなかったですけどね」

 西原の口調は早口でもぐもぐしてるから、すこし聞きづらいのだが、充分にNHK的ではないことばが連発されるので、テレビ桟敷のこちらは楽しくてしょうがない(笑)。カットされた部分じゃなにを言っていたのやら。

「目の中に入れても痛くない」のような子供讚歌を引き出そうとしたNHK的感覚が、「立ちグソ」「チクショーと同じ」「ションベン」と美しい糞まみれになるのだから痛快である。
 おろおろしている司会進行の女と男の様子がまたおもしろい。
 西原の出番が終わり、「さて、ここからはいつものように生番組です」と言ったときの男のほっとした顔にまた笑った。

 録画して保存版にしなかったのが悔やまれる。偶然出会ったのだからしょうがない。それにNHKでこんなおもしろいモノが見られるとは思わなかった。

 なんで西原がこの番組に出ているのだろうと思ったら、NHKで体当たりルポのような番組をやるらしい。もうやっているのか?
 見てみたいと思った。虚飾のない本物は説得力がある。

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