訃報

将棋──訃報──河口俊彦七段──長いあいだありがとうございました。河口さんの文章が大好きでした。

河口俊彦七段(78歳)が、2015年1月30日(金)午後5時18分、神奈川県横浜市の菊名記念病院にて腹部大動脈瘤のため、死去いたしました。
また、同日付けで八段を追贈することになりました。

将棋連盟ホームページより


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 2015年2月3日5時49分、将棋連盟のホームページで知った。おどろいた。まったく予期していなかったことなのでおろおろしている。もっともっと河口さんの文を読めるものと思っていた。いちばん好きな将棋作家だった。河口さんは闘病していたのだろうか。だって昨日届いた『将棋世界』3月号の「評伝 木村義雄」を読んだばかりだ。これは昨年内に書かれたものだとしても、すくなくとも長い期間闘病していたわけではないだろう。なんとも残念だ。長いあいだありがとうございました。河口さんの本でどれほどドキドキワクワクさせてもらったことでしょう。ご冥福をお祈りします。



 Wikipediaから河口さんの著書一覧を引いてみる。

『つよくなるぼくらの将棋入門』(1981年、新星出版社)2000年再版 ISBN 978-4405065314
『勝ち将棋鬼のごとし プロ将棋の勝負師たち』(1982年、力富書房)ISBN 978-4897760049 - 初期(昭和52年度〜)の「対局日誌」
『のこぎり詰 伊藤宗看の将棋無双より』(1983年、山海堂)ISBN 978-4381006097
『けむり詰 伊藤看寿の将棋図巧より』(1983年、山海堂)ISBN 978-4381005960
『勝負の読み方 第40期将棋順位戦より』(1985年、力富書房)ISBN 978-4897760148 - 昭和56年度の「対局日誌」
『決断の一手 第42期将棋名人戦各級順位戦』(1985年、力富書房)ISBN 978-4897760155 - 昭和58年度の「対局日誌」
『勝機を待つ 第43期将棋名人戦各級順位戦』(1985年、力富書房)ISBN 978-4897760179 - 昭和59年度の「対局日誌」
『勝因と敗因 第44期将棋名人戦各級順位戦』(1987年、力富書房)ISBN 978-4897760285 - 昭和60年度の「対局日誌」
『プロ将棋ワンポイント講座』(1987年、力富書房)ISBN 978-4897760292
『将棋対局日誌集』(1990年、力富書房)ISBN 978-4897767116 - 昭和52年度〜昭和60年度の「対局日誌」
『一局の将棋一回の人生』(1990年、新潮社)ISBN 978-4103772019 のち文庫(1994年10月)ISBN 978-4101265117
『将棋界奇々快々』(1993年、日本放送出版協会)ISBN 978-4140801161 のちNHKライブラリー(1996年10月)ISBN 978-4140840412
『覇者の一手』(1995年、日本放送出版協会)ISBN 978-4140802243 のちNHKライブラリー 
『人生の棋譜 この一局』(1996年、新潮社)ISBN 978-4103772026 のち文庫 ISBN 978-4101265124
『新・対局日誌』(全8集、河出書房新社) - 昭和61年度〜平成3年度、平成6年度〜平成7年度の「対局日誌」
第1集 二人の天才棋士(2001年4月) ISBN 978-4309614311
第2集 名人のふるえ(2001年6月)ISBN 978-4309614328
第3集 十年後の将棋(2001年9月)ISBN 978-4309614335
第4集 最強者伝説(2001年12月)ISBN 978-4309614342
第5集 升田と革命児たち(2002年4月)ISBN 978-4309614359
第6集 大山伝説(2002年6月)ISBN 978-4309614366
第7集 七冠狂騒曲(上)(2002年9月)ISBN 978-4309614373
第8集 七冠狂騒曲(下)(2002年12月)ISBN 978-4309614380
『大山康晴の晩節』(2003年、飛鳥新社)のち新潮文庫 ISBN 978-4101265131 、のちちくま文庫 ISBN 978-4480431271 
『盤上の人生 盤外の勝負』(2012年、マイナビ)ISBN 978-4839943899
『升田幸三の孤独』(2013年、マイナビ)ISBN 978-4839946456
『最後の握手 昭和を創った15人のプロ棋士』(2013年、マイナビ)ISBN 978-4839949990
『羽生世代の衝撃 ―対局日誌傑作選―』(2014年、マイナビ)ISBN 978-4839951405 



 河口さんと言えばなんといっても「対局日誌」だ。あれが切り開いた将棋文章の意義は広く深い。そのあとを同じような形で何人かの棋士が継いだが、河口さん以上のひとは誕生しなかった。若い頃から文才で注目されていた先崎だけど、すくなくとも「対局日誌」に関する限り、河口さんのそれと比べるとはるかに落ちる。 というか、あれは先崎のような現役バリバリの若手棋士が書くものではないのだろう。つまり、書けるひとだからと先崎を起用した企画ミスだ。といって年輩のひとが書いたのも、河口さんと比すとつまらない。それは文章力とかではない。目の付け所だ。河口さんは、独自の繊細な譬喩、他の追随を許さない多彩な表現、そんなタイプで光る文章家ではなかった。ごく淡々と目の前の対局の事実を書いていて、でもそれがたしかに「他の追随を許さない」のだった。やはり名人である。

 年齢制限ぎりぎりの三十歳でやっと四段になり、長いあいだその自慢にならない「最年長記録」をもっていた河口さんは、棋士としての実績は残していない。しかし将棋文筆家としては名人だった。そしてそのふたつのあいだには、きっと関係がある。「名選手名監督ならず」と同じように。



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 『覇者の一手』(1995年、日本放送出版協会)『人生の棋譜 この一局』(1996年、新潮社)は何度も海外に持参して読んだ。外国で読む将棋本は味わい深い。異国の地で、異国語の飛びかう中で、異国料理を食しながら、将棋本を読む。この快楽。

 将棋本の利点は「長持ちすること」だ。どんなにすぐれた小説でも、海外で何度も読むことには耐えない。「好きな作品で何十回読んでもあらたな発見がある」なんて作品も、そういう読者もあるのだろうけど、私にそれはない。大好きな好きな作品で、生涯に何度も読み返すとしても、一ヶ月の海外滞在なら一度で充分だ。つまり「一冊で一回」である。その点、将棋本は、文章と共に「棋譜」がある。最初は棋譜を深く検討はせず、河口さんの展開する猜語瓩鯡しむ。次には棋譜を読みつつ愉しむ。その次は、棋譜に没頭する。「ここで大山が投げた」とか、「ここで投げる升田の美学」なんてのも、弱いアマのこちらからは「なぜここで投げるのか!?」を考えるだけで難問である。升田は投げたのにこちらの気力では勝っているように見えたりする。懸命に考える。「ああ、なるほど相手の勝ちか」と解る。しかしそこでまた「でもここでこうやったらどうなるんだ!?」と思う。よって一冊の本で何度も何度も楽しめる。旅行に持参できる冊数は限られている。将棋本はいい。1冊で5冊分の価値がある。「覇者の一手」は新書判なので旅行向き。「人生の」は文庫版を持っていった。さすがにハードカバーを持参する餘裕はない。と書いて思いだした。「棋譜」というのは異国人の興味を引くものらしい。いくつもの国で多くのひとに、「それはなんだ」と覗かれて問われた。

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 上記2冊と『大山康晴の晩節』が私にとっての河口作品ベストスリーになる。ナンバーワンはこれだろうか。あの大名人大山の晩年の落日が、いや落日とはいえ最後の最後まですごいひとなのだけれど、癌で体力が落ちて、ちいさく萎むことによって、最強のボス猿が自ら裏山にひとり去って行くかのような、道の真ん真ん中からそれてゆく姿が、なんともせつない寂寥となって胸に突きささってくる。

 そのあいまに挟まれる当時のエピソード。大山対升田の時代。朝日主催の名人戦。朝日の嘱託であり朝日派の升田が勝つと本社から幹部まで駆けつけての大宴会。大山が勝つと本人と関係者だけのひっそりとした打ちあげ。それにじっと堪える大山。朝日嘱託の升田と毎日嘱託の大山という新聞社同士の角逐でもある。大山はひたすら勝つことによってそういう流れをひっくり返してきた。つよいひとだ。
 升田勝利の瞬間、盤側に駆けつけた升田贔屓の五味康祐の無礼に対しても大山はじっと耐える。そのときの記録係は河口三段。級の時から関わっている。だからこそ「河口さんの書く大山」はおもしろい。

 大山対中原の時代。当人と関係者がゴルフコンペをして汗をかく。汗を掻いたまま、風呂には行かず宴会にしようと大山の提案。誰もが汗を流したいが王者の意見に逆らえない。宴会場に向かう。そこにすこし遅れてやってきた中原。「あれ、どうしたの。先にシャワーを浴びましょうよ」。浴びたかったみんなはほっとして風呂場に向かう。取り残される大山。絶対王者大山の足もとが崩れてゆく瞬間。犲磴太陽畸羝兇蓮大山を猖棉瓩砲靴討靴泙辰拭
 大山打倒を宿願として喧嘩腰で挑んだ山田道美八段。あの「暗くしなさんな!」を知っている身には、この「シャワー話」なんてのは冒険活劇を読むよりもわくわくする。それは単なる事実かも知れないが、おもしろせつなく読ませてくれるのは河口さんの藝だ。
 なお『大山康晴の晩節』は、飛鳥新社の単行本が装丁がよくて最高だ。読んでみたいひとにはちくま文庫ではなくこちらを推薦する。



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 もう一冊、「盤上の人生、盤外の勝負」もいい。ここにある米長は魅力的だ。私は「対局日誌」のような現在進行形的なものより、こういう河口さんがじっくり腰を据えて書いたものが好きなようだ。と他人事風な書きかただが、いま書いていてあらためて気づいた。「大山康晴の晩節」がいちばん好きなのはそういう理由なのだろう。



「覇者の一手」は羽生七冠の話、まだ達成前のその道のりが中心だ。そのあとに達成してからの本格的な「七冠狂騒曲」がある。あの達成の翌朝、スポーツ紙の一面を飾った。いろいろ買って今も保存している。将棋ファンとして誇り高かった。「冒険活劇的わくわく」なら、こちらのほうがありそうだ。なんといっても前人未到の「七冠独占」なのだから。だが、なんかこちらは羽生のあまりの万能ぶりもあり、RPGのよう。たしかにラスボスクリアの快感はあるが……。時代劇的な、あるいはシェークスピア劇的なわくわくどきどきは、なんといっても「大山」だ。

『羽生世代の衝撃 ―対局日誌傑作選―』(2014)年はまだ読んでいない。明日にでも買ってきて、読みつつ、河口さんに献盃しよう。私は人後に落ちない羽生世代のファンであり、それを綴ったものでも河口さんがいちばんだと思うが、でも河口さんの最高の魅力は、やはり升田大山中原の時代を語るときだと感じる。



 結果として絶筆になってしまった「評伝 木村義雄」には、(以前にも読んで知っているエピソードではあるが)、坂田三吉の凄味をまだよくわかっていなかった河口さんが、坂田を外連からのみの評価をした文を書いたら、それを読んだらしい升田に「くだらんことを……」のようにボソッと言われる部分がある。被差別部落出身の坂田は文盲であり、将棋駒の文字すら読めなかった。独創の阪田流向飛車や伝説的なあの端歩を始め異能の人だった。それを外連ととった河口さんの姿勢はまともだろう。だが升田はそこにもっと奥深い凄味を感じていた。それを書くことによって升田が光る、また時代の向こうから坂田も光量を増す。その絶妙の価値、意義。河口さん、最高だ。
 先月号あたりから私の好きな狹通梢佑登場している。「勝つことはえらいことだ」の塚田さんだ。完結まで読みたかった。河口さんも心残りだったろう。

 河口さんの死を予期していなかったので、まだうろたえていてまともな文が書けない。時間を掛けてまた直したり足したりしよう。それでも、1月30日に亡くなった河口さんの訃報が将棋連盟サイトで発表されたのは「2月2日午前11時」のようだから、一日遅れだけど、大好きな河口さんに捧げる文章を自分のブログに書けたことをうれしくおもう。
 河口さん、やすらかに。

清志郎の命日にアクセス集中──<きっこ>の妄想文

 5月2日、異様にアクセス数が多かったので何事かと思ったら、2010年2月11日に書いた「神戸のロックカフェ.4──清志郎の息子──ミホノブルボンのダービー」というのに集中していた。調べてすぐに5月2日がキヨシローの命日と知る。早いものだ、もう5年になる。それによるアクセスだった。



 さて、困った、私はどうすればいいのだろう。 そもそもが「神戸のロックカフェ.4」とあるように宝塚市に住む友人のSとの話なのだ。それの4回目である。Sがキヨシローファンだったこともあり、流れから「そういえばあのころ下北でこどもを抱いたキヨシローと会ったことがあった」と脱線したのが「神戸のロックカフェ.4」になる。その流れからミホノブルボンのダービーのハズレ馬券話と続く。

 多くのひとは「忌野清志郎、息子」で検索してここに来たのだろう。私の文はそれがメインではないから失礼になっていないか。気になる。ならタイトルから「清志郎の息子」を外せばいいのだ。そんなものを挿れているから迷惑を掛ける。でも清志郎と息子に会ったのは事実だからウソではない。要はタイトルが羊頭狗肉になっていないか、の1点だ。

 ひとりでも多くのひとに読んでもらいたいというのとは正反対の、なるべくよけいなひととは関わりたくないという方針の地味なブログだ。ならタイトルに有名人の名など入れなければいいのだが、それを挿れているのは自分の検索用である。「ブログのどこかに下北でキヨシローに会ったことを書いたよな!?」となったとき、それを捜しだすためのキイワードである。「神戸のロックカフェ.4」だけではわからない。思い出せない。捜せない。だから副題として「清志郎の息子」、さらには同じく「おれ、ブログのどこかにミホノブルボンのダービーのことを書いたよな!?」を思い出すためにそれも挿れる。試行錯誤の末にたどり着いた私の方法論だからここは割り切るしかない。問題は検索でやってきた熱心な清志郎ファンを失望させていないかになる。



 ということで何年ぶりかで読み返して見た。あまりにファンをがっかりさせる薄味だったらタイトルから「清志郎の息子」を削るつもりで読んだ。しかし自分でも意外だったが、けっこうまともである。もっともっと濃い内容を期待して来てくれたひとにはもうしわけないが、これはこれで私なりの「清志郎の思い出」として成立するのではないか。そして今回ほっとしたのは、リンクしてある日刊スポーツのキヨシローインタビューがまだ生きていたことだ。あれはいい記事だったから、あのリンクが生きているだけでも私の文も存在価値はあるだろう。当面はこのままでゆくことにした。



 文末に<きっこ>というのが出てくる。キヨシローのマンションに泊まって、「やられてもいいと思ったけど、キヨシローはなにもしなかった」と書いている気持ち悪い狃瓩任△襦

 私が初めてキヨシローを見たのは渋谷宮益坂にあったフォーク喫茶「青い森」だった。A・ギター2本にウッドベースのRCサクセッション。彼が二十歳、私が十八。大学の先輩が「青い森」で歌っていたので誘われて見に出かけた。その日の出演者では古井戸のチャボのギターが巧いなと思った。
 初めて間近に見たのは旧いが薄い縁である。プライベートでは下北で会ったのが最初で最後だ。薄味なのはしかたない。

 その点、<きっこさん>は女子校生のころから何度もキヨシローに会っていて、女子校生アマチュアバンドのライブになんと彼が来てくれて、そのうえ夜中に彼の部屋に押し掛けたら泊めてくれたという、恋人になってもおかしくない関係だったのだからこれは縁が深い(笑)。「(笑)。」と挿れることすら書いていてむなしい。



 <きっこさん>のその文はいま削除されているようだが保存しているひとがいた。以下のようなものである。

■2004/05/24 (月) 老体ロックンロール 3 
あたしは、清志郎さんが大好きで、高校生の時に、大晦日の浅草ロックフェスで会って、打ち上げに連れてってもらって、それから親切にしてもらって、あたしのバンドのライブにも2回も来てくれて、近田春夫さんも来てくれて、渋谷陽一さんも来てくれたんだけど、やっぱり清志郎さんが一番ステキだった。 
当時、246沿いにあった清志郎さんのマンションにも遊びに行った‥‥ってゆ〜か、酔っぱらって夜中に行ったら、泊めてくれた。あたしはヤラレてもいいと思ってたのに、清志郎さんは、あたしに何にもしなかった。嬉しいのと悲しいのとが入り混じり、あたしの乙女心は複雑だった(笑) 

 <きっこさん>は、現在41歳の女性という狎瀋雖瓩世、いろんな面で設定が矛盾をきたし笑いものになっている。現在65歳(この文を書いた当時は54歳)のオカマが、「27歳のキヨシローのマンションに泊まり、抱かれてもいいと思った17歳の女子校生を妄想した」のが上の文になる。 吐き気を催す気味悪い文章だ。しかしその設定だと現在52歳になるから41歳設定に狂いが生じる。そんなものあちこちに生じていてめちゃくちゃなのだが(笑)。

「あたしの乙女心は複雑だった」って、女装オカマの妄想なのだから気味が悪い。年齢設定の矛盾を指摘したのが以下の文。まさに「時を駆けるオカマ」。性別年齢職業家族設定、自由自在変化無限(笑)。しかしこのオヤジをほんとうに女だと思っているのはTwitter11万フォロワーにどれぐらいいるのだろう。

 1972年、きっこ、産まれる。※きっこ本のQ&Aより 
   ↓ 
 1979年:いきなり高校生になった「きっこ」、RCサクセションのニューイヤーロックフェス打ち上げに参加。 
   ↓ 
 1984年:なぜか若返った「きっこ」は中学へ逆戻り入学。祖母死去。 
   ↓ 
 1985年:中学2年に進級した「きっこ」、お父さんと最後の釣りへ行く。(アサヒ・ラスタマイルド発売中) 
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 1986年:2月、中学2年の「きっこ」、葬式ごっこ事件に衝撃を受ける。 
   ↓ 
 1987年:3月アサヒスーパードライ発売開始。「きっこ」、お父さんを思い出す。 
   ↓ 
 1989年:またまた小学6年生に若返った「きっこ」が、イカすバンド天国を見る。

 お笑いネット芸人の妄想だと嗤っていればいいのだろうが、キヨシローにはいい迷惑だろう。 害虫は駆除せねばならない。

訃報──やしきたかじん さん──一覧をリンクしました

「たかじん」と愛称で呼びすてにしたいけど、亡くなってしまったのだから、「さん」をつけねばならないのか。なんとも悔しい。

私のブログのたかじんさん関連文章一覧です。もっともっと「ありがとう」「今週も最高だった」と書きたかった。 

●【木屑鈔】のたかじん一覧

●【芸スポ萬金譚】のたかじん一覧 

訃報──「森田将棋」の森田さんは昨年亡くなっていた──「森田将棋」「AI将棋」「極」「激指」の思い出

将棋ソフト開発者の森田和郎さん、12年7月に死去
 
 森田和郎さん(もりた・かずろう=コンピューター将棋ソフト開発者)が2012年7月27日に死去していたことがわかった。57歳だった。葬儀は近親者で営まれた。

 富山市生まれ。将棋ソフトプログラマーの先駆者的存在で、1985年に発売された「森田将棋」シリーズはヒット商品になった。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0603/TKY201306030400.html 

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 マイナビの将棋ツイートで知った。今週号の「週刊将棋」に記事が載るらしい。
https://twitter.com/mynavi_shogi/status/340737463716806656

 しかし一年近くも前なのに、どうして今まで伏せられていたのだろう。弟の森田高さん(元国会議員)も有名人だし、ふつう伝わってくるけどなあ。不可解である。



 「森田将棋」の歴史。Wikipediaから。

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 1982年にNECのPC9800を買ったのが私の「PC事始め」である。明確な目的はなかった。まだ文章はシャープのワープロ『書院』で書いていた。『書院』の「1ファイル最大2万字」のリミットがじゃまになり、PCの『一太郎』に移るのはこの数年後だ。
 PCを買って自作曲を自動演奏させることを夢見ていた。当時から「音楽、グラフィックはMac」だったので、憧れていたが高くて手が出せなかった。あのとき無理をしてMacにしていたら、今ごろ私も口汚くWindowsを罵る雁屋哲や茂木健一郎になっていた。彼らを観ると、Macにしなくてよかったと心から思う。Macのどんな利点美点よりも、ああいう人間と同じでないことに安心する。所詮私のやりたい音楽なんてPC9800で充分だったし。

 PCはすでにあったが、この1985年の「森田将棋」はやっていない。私の「森田将棋」初体験は1987年のファミコン版になる。最初のソフトをやっていないことを残念に思うかというと、それはまったくない。むしろやっていたら「最低最悪のゴミだった」とここに悪口を書いていた。それほど当時のソフトはひどかった。これより後に市販された、これよりも確実に強かったはずの、コンピュータ将棋選手権で優勝した将棋ソフト「極」に悪い思い出しかないのだから、そうに決まっている。やらなくてよかったと思う。



 ここには載っていないが、スーファミ用の「森田の詰将棋」もあった。将棋は弱くて相手にならなかったが詰将棋は楽しめた。思えばあのころからPC、ゲーム機は詰将棋向きだった。

 このころの将棋ソフトのBGMには、尺八とか琴とか鹿威しの音とか「いかにも和風」なものが多く、14インチのテレビから流れでるチープなそれが物悲しく、音を消して遊んだことを思い出す。
 いろいろ買ったが20世紀の将棋ソフトは弱くて話にならなかった。まさかこんな時代が来るとは思わなかった。



 2003年に出たPS2用『激指2』が強く、それまでの将棋ソフトのイメージを一新した。私は一時、将棋ソフトに愛想を尽かして離れていたが、自分よりも強いソフトが出たので、またここからいろいろ買い始める。
 『激指』の強さは、古くからの「森田将棋」等のおなじみソフトを忘れ去ることでもあった。

moritashogi ここにあるソフト発売の流れからも、「森田将棋」が先駆者ではあったが、過去のソフトになっていたのが見える。
 2007年にDS用を出したのが実質的な最後になる。
 DSの将棋ソフトはすべて弱い。今の時代のソフトとは思えない。90年代のよう。将棋の強さがCPUに左右されることがよくわかる。



 ここのところ<AI将棋17>の「奨励会」で遊んでいる。9級から始めて(というか9級から始めねばならない)いま2級まで来た。ここまでは連戦連勝(笑)。あまりに弱い相手に王手飛車をかけて勝ってもつまらない。むかしの弱いソフトを思い出した。ちがうのは、むかしのソフトは本気でも弱かったのに対し、いまのこれは、強いコンピュータが「弱い設定」になっているだけだ。勝たせてもらってもうれしくない。

 いよいよこの辺から壁が立ちはだかる。なんとか初段にはなりたいものだ。三段で指していた新宿将棋センターの名誉のためにも。

 この「奨励会」は近年の『AI将棋』の売りらしい。昇級昇段の規定は本物の奨励会と同じであり、級差があると駒落ち戦もある。負けが続くと降級点もある。果たして四段になり待望の棋士になる日は来るのだろうか。ま、とにかくまずは初段目標。



 むかしから<AI将棋>のグラフィックがいちばん好きだった。いまもしっくりくる。嫌いなのは「東大将棋」。でもずいぶんとよくなった。むかしのはほんとにひどかった。
 これはちいさなことだが、毎日のように遊ぶものだからけっこう大きい。駒は錦旗か水無瀬にする。嫌いなのは一文字駒。

 そういえば、ATOKの辞書を30年ちかく育てているので、「えーあい」と打つと、『AI将棋2』『AI将棋3』とユーザー辞書から変換される。ここのところ遊び始めたので、<AI将棋17>は、いま辞書登録したところ。
 これはいつごろのソフトなのだろう。忘れてしまった。Win95のころか? 弱いソフトだったのはまちがいない。現物ももちろん持っていない。不要なものはソフトもOSもためらわず捨ててきた。本を捨てるときはかなりためらうのにPC系に未練がないのは、確実に古くなった不要なものだからだろう。7万円もしたインチキ翻訳ソフトを捨てるときは、さすがにすこし悔しかったし、このことを書くのはもうこのブログでも5回目になるが、「メモリ1メガ1万円の時代」に、DynaBookに8メガ8万円で増量するのは冒険だった。まあコンピュータそのものがそういう時代なのだから、ソフトが弱かったのもしょうがない。

 私は2003年に発売された「PS2の『激指2』に負けた」ことは死ぬまで忘れない。それだけ鮮烈な経験だった。始めて将棋ソフトに負けたのである。
 一方こういう記憶にないソフトもある。『AI将棋2』や『AI将棋3』はユーザー辞書登録してあるのだから、それなりに気に入ったソフトだったのだろう。完全に忘れていることがショックだ。



kiwame 好きなものばかりではなく、Win3.1の時の「極」のように、あまりにだらしないのでよく覚えているソフトもある。一手指すのに思考が画面に現れ、バーっと流れる。何時間も待たされる。そこまで考えて指した手が間抜けで弱い(笑)。でもあのころは最高峰だった。
 私はコンピュータ将棋ソフトは強くなるだろうと思っていたし、8ビットファミコンと16ビットのDynabook(38万円した)は値段からも桁違いだったから、この将棋ソフト最高峰の「極」には負けることを覚悟して購入した。その落胆は大きかった。

 強い2003年の『激指』とあまりにだらしない1991年の「極」は覚えているが、『AI将棋3』あたりは覚えていない。でも『AI将棋2』『AI将棋3』と辞書登録してあるってことは、私は2も3も買ったのだ。当時はそれなりに気に入っていたのだろう。辞書登録してあるのだから。
 いまWikipediaの『AI将棋』(YSSシステム)の項目を読んだのだが、どこにも『AI将棋2』『AI将棋3』のことは書いてない。

「極」は辞書登録してない。「きわめ」と読む。1991年秋、これをOS-Win3.1のDynabookに挿れて、タイのチェンマイの日本食堂でいじっていたら、将棋好きのひとが、「その爛乾瓩辰討篭いの?」と問うてきたのを思い出す。思考がバーっと画面に流れるから、コンピュータを知らないひとには、とんでもない未来の映像にように思えたらしい。「極」は後の「金沢将棋」である。



comshogi 左は1991年の第2回コンピュータ将棋選手権の参加ソフト。
 http://www.computer-shogi.org/wcsc/csc2.htmlより


「もりたしょうぎ」も辞書登録してなかった。つまりは『AI将棋2』ほどにも認めていなかったことになる。

「森田将棋」は、この「極」あたりが大活躍していた「コンピュータ将棋選手権」のころに、ずっと上位入賞をしていたと賞讃されている。しかしそれは黎明期であり、あの時代の将棋ソフトはどうしようもなかったから、先駆者ではあったが強くはなかった、となろう。結論として。



 いまの私はPC版「東大将棋無双供廚筺愀禹12』に歯が立たない。惨めで泣きそうになるので(笑)、やらない。PS2の『激指2』には四段設定でもなんとか勝てたが、Core i7 3770を4.3GhzにOCしているデスクトップ機の『激指12』では初段設定でも負けることが多い。相手は猊短悗鍬瓩任△襦1秒もかけずに指してくる。こちらも向きになって秒指しをすると、ミスが連続しあっと言う間に負ける。惨め。本気で将棋を辞めたくなる。
 たぶん、死に物狂いでやれば、私はまだ『激指12』の初段には勝てる。負け惜しみじゃなく。でも齢を取ってくるとその「死に物狂い」が出来ない。秒指しに秒指しで対抗し、優勢に進んでいたのに、終盤、角道に飛車を成り込んで素抜きされて投了したりしている。
 将棋の実力以前に精神力の問題だ。あらためて、69歳で生涯A級だった大山名人の偉大さ、というか異常さを思い知る。

 もう縁側で日向ぼっこしつつ、渋茶をすすりながら、升田大山の棋譜を並べて昭和を偲ぶ将棋ファンに撤しようかと思う。私は大野源一九段の振り飛車が好きだった。大野さんの棋譜でも並べて将棋ソフトとは縁を切ろうか。



geki12 ところで、将棋ソフトが強くなりすぎたことは、売りあげの面では問題なのではないだろうか。

 私は『激指』が好きなのでずっと買い続けているけど、『激指12』の売りである「七段の力を確かめろ」など遙か彼方の出来事であり、『激指7』の二段にすら勝てないのだから、12の七段などどうでもいいのである。
 つまり「新バージョンを買う必要がない」のだ。新バージョンを買う必要のあるひとがいるとしたら、それは「『激指10』にも『激指11』にも最強設定で勝った。さてさて、今度の『激指12』は、どれぐらい強くなったかな」というひとだけだろう。実際私は、将棋ソフトに全勝時代、今度のはどれぐらい強くなったろうと、あれこれ買いまくっていたわけだし。しかし今、こんな強い将棋ソフトに対し、そんな将棋ファンがどれぐらいいるだろう。いや、ひとりもいないのでは……。

 もう『激指』も今回の12で打ち止めにしよう。私が13以降を買うとしたら、この12の七段に勝ってからだ。そしてそれは「まずまちがいなく」永遠に来ない。

 プロよりも強くなってしまった将棋ソフトは、ある意味、商品としては終ってしまったとも言える。過日、ふつうのPCに挿れたふつうのこの『激指』に、プロが負けた話を見かけた。じゃ私の場合、「まずまちがいなく」じゃなく「絶対」だな。



 四段ならぬ餘談。若いファンには知らないひともいるようだが「銀星将棋」は北朝鮮人が開発し販売しているものである。コンピュータ将棋選手権に突如参戦してきたときは不思議な感慨を持った。なぜ北朝鮮が将棋ソフトなのだろうと。(このころはこの名は名乗っていない。この名は商品化してからである。)

 私も持っているのだが、あまりグラフィックが好きではないのでやっていない。パチンコや焼き肉屋と同じく、これの儲けも北朝鮮に送金されているのだろうかと考えると複雑な思いがする。パチンコもやらないし焼肉も食わないけど、銀星将棋を買ったことは北朝鮮送金に荷担しているのだろうか。
 そういうこともあって辞書登録していない。いちいち「ぎん」「ほし」と変換して「ぎんせいしょうぎ」を出すので面倒だ。



 「森田将棋」の思い出を語るはずが、その他の将棋ソフト話になってしまった。「森田将棋」の思い出は、ファミコン時代の弱くてどうしようもなかった時代になってしまうからしかたない。でも森田さんのがんばりがあって道が開けたのは事実である。森田さんが「ファミコンやパソコンで将棋を遊べる」という道を開拓してくれた。
 というところでやっと「森田将棋」の思い出らしきものを思い出したので書いておこう。

 北海道で馬産をしている友人の息子は、小学生時代にファミコンの「森田将棋」で将棋を覚えた。ファミコンに勝てるようになって自信をもった彼は、父親が将棋を指せないこともあって、遊びに行った私に、将棋を指せるかと問い、挑んで来た。小遣いで盤と駒を揃えていた。ファミコンに連戦連勝し、自分を無敵だと思っていた彼は、何度やっても私に勝てないことに、ものすごいショックを受けていた(笑)。

 それは、おとなになってからこどもと遊んだことのない私にも興味深い体験だった。
 こどもだから攻め駒を集中して攻めてくる。でもそれは防御が手薄になることだ。そこを突くと簡単に勝ってしまう。それと、2の攻めを2で受けると、攻めきれない。そのためには3の攻めが必要だ。それも3で受けると攻めきれない。彼はその数の論理がわからない。こどもってこんなものかと思った。ファミコンにも友だちにもこの戦法で勝てるのに、なぜおじさんには勝てないのだろうと真剣に悩んでいた。懐かしい。その彼ももう三十半ばだ。

 森田さんは偉大な先駆者だった。ご冥福をお祈りします。

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【追記】──『将棋世界』7月号に特集されていました──6/5

shogisekai20137 私は毎月『将棋世界』は発売日の3日に購入するのですが、今月は今日5日になってしまいました。するとそこに詳細な「森田さん追悼の記事」がありました。「柿木将棋」の柿木さんを始め、森田さんと親しかったかたたちの座談会形式を、田名後編集長がまとめる形で4ページもの特集でした。『将棋世界』で4ページの追悼記事というのは凄いことだと思います。森田さんは棋士じゃないですし。

 森田さんは自分のソフトの内部を公開しました。この追悼座談会で瀧澤教授のおっしゃっている
「アイデアをオープンにするという森田さんの姿勢は、柿木さんや山下さん(YSS─AI将棋)、鶴岡さん(『激指』)、保木さん(ボナンザ)らに受け継がれています。だからこそ、ここまで急速に将棋プログラムが進歩できたのだと言えますね」
 は、森田さんへの最高の賛辞でしょう。天国の森田さんもニッコリしたと思います。 



 私は、1年近く前にお亡くなりになっていたことを将棋関係のツイートで知り、おどろき、知らないかたが多いだろうと、情報提供のつもりで上記のへたくそな文を急いで書きました。たしかにその時には、意外なニュースという感じがありました。でも専門誌がきちんと追悼座談会を組むぐらい知られた情報だったのですね。冷や汗ものです。

 本来ならこの【追記】だけにして上記の文は削除したいところですが、身勝手な思い出を書いた文も、これはこれで森田さんへの感謝になるかと思い、赤面しつつ残すことにします。 

訃報──英国サッチャー首相──誇り高い政治家のいるしあわせ

Thatcher イギリス初の女性首相として11年余りにわたり政権を率い、強気の政治姿勢から「鉄の女」とも称されたイギリスのサッチャー元首相が8日、死去しました。87歳でした。

 サッチャー元首相のスポークマンによりますと、サッチャー元首相は、8日朝、脳卒中を起こし死去したということです。(4月8日21時22分)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/k10013770101000.html

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 私はサッチャー首相の政治を全面肯定するものではない。フォークランド紛争など、どう考えてもアルゼンチンに理があると思っている。

 ただ、日本国の一国民として、中韓に気弱な、やたら謝罪するばかりの政治家に俯いた人生を強いられてきたから、もしもサッチャーのような強い首相を戴けたなら、どんなに自国に血筋に誇りを持って生きられるだろうと憧れてきた。国民に、国に誇りを持たせるのは政治家の基本であろう。サッチャーは、それをした。

 彼女に批判的なイギリス国民には、こんなことを言っている日本人の嘆きは理解できないだろう。敗戦国がどんなに惨めであることか。過去の善行ですら悪行に変えられ、存在しない悪まで捏造され、それを世界に流布され、金をゆすりとられ、しかもそのゆすりとった金のことは国民には知らせない。ひたすら謝罪を強要される日々だ。サッチャーのような強い政治家なら、断固としてそんなものは拒むだろう。

 ご冥福をお祈りします。

将棋話──『将棋世界』米長会長追悼号──秀でている内藤九段の追悼文

shogisekai3gatsu 『将棋世界』3月号。特集は米長会長の追悼。発売日は2013年の2月2日。毎月買っているが、この月は日本にいなかったので買えなかった。3月半ばに帰国し、図書館で読ませてもらおうと思ったら、もう4月号が出ているので貸し出し中。長らく待たされた。二日前、やっと読むことが出来た。

 表紙はあえてモノクロ写真を使っている。下が主な内容。

shogisekai3gatsu2

 追悼文は、森内名人から始まる。ついで渡辺竜王、羽生三冠、郷田棋王、佐藤王将の順。
 棋士としての格は羽生が桁違いに上であり、羽生が3番目というのはファンとしてすっきりしないが、これがタイトルの格による序列というものである。現在最上位は竜王だが、ここでは名人と同格の扱いとし、棋士番号から森内を上位に取ったのだろう。



 ページ順に書いてみる。
 巻頭の追悼は、カラーページでの葬儀の様子や「タイトルホルダー追悼文」があり、モノクロページになって最初は、内館牧子の連載エッセイ。これも米長追悼の中身。紅白歌合戦の審査員同士として、初めて米長に会った時の思い出を綴っている。ジャージに膝の出たズボンでさえないおっさんだった米長が、別室で和服に着替えて登場すると、周囲を圧倒するオーラを放ち始めたことを綴っている。

 和服と言えば、引退を表明した米長との最後の対戦になる佐藤康光が、通常の対局であるにも関わらず敬意を込めて和服を着て臨んだら、その心意気に応え、米長が昼休みに自宅から和服を取り寄せ、それに着替えて対局したという実話がある。いい話だ。



 そこから「さようなら、米長永世棋聖」と題した本格的追悼特集になる。

 トップは将棋連盟会長の谷川。次いで専務理事の田中寅彦。これらは役員だから当然の順。



 フツーの棋士としては現役では棋士番号が一番古い加藤一二三が最初に登場する。
 多くの追悼文の中で加藤の文は異色。悼む気持ちがまったく伝わってこない。実際悼んではいないのだろう。このひとが変人であることがよく分かる文章だ。しかし悼んでもいないのに、死んだからとそれらしき文章を書く偽善よりは自然。それはそれでいい。でも他のひとの文章がみなそうなっているから、このひとの乾いた文が異彩を放つ。
 結びは「米長邦雄さんのご冥福を心から神様にお祈りします」と、あえて狄斥有瓩汎れている。熱心なキリスト教信者であることのアピールか。

 そういえば、名人戦が契約問題で揉め、朝日から毎日に移る、というか戻ることになったときの棋士総会で、升田と加藤は朝日嘱託だから朝日に止まるべきと朝日寄りの主張をした。升田は表に出なかったから論陣を張ったのは加藤ひとりだったのだろう。
 将棋が囲碁よりも格下とされ、その契約金に反撥し、一団となって朝日と絶縁しようとするそのとき、ひとりだけ反論する加藤に向かって米長は、加藤の信奉するキリスト教に喩え、「あんたはユダなんだよ!」と言い放った。加藤は怒りで顔面を朱に染めて絶句したという。

 という経緯を考えても、ふたりが仲好しのはずもないし、加藤は米長の死を悼んでいない。まことに奇妙な追悼文である。



 次の内藤の文は全追悼文の中で最も重みがあった。
 原田八段命名の爐気錣笋流瓩箸いΕぅニモなコピーに、序盤が下手ですぐに不利になり、それから中盤、終盤になってしつこく闘いぬいて逆転する米長将棋を、「さわやか流というよりむしろ泥沼流なのではないか」と表し、「米長泥沼流」を定着させたひとである。米長はそれを気に入って、週刊誌で「泥沼流人生相談」とかやっていた。私はそういう米長のセンスが好きだ。

 さわやか流とは、いかにも万事そつがなくて多才な米長を持ちあげているようでいて、じつは本質に迫っていない。原田さんの命名失敗作だろう。米長はさわやか流をそれなりに気に入っていて、それにふさわしい言行をしていた。おんなこどもに抜群の人気があった。私の周囲にも米長ファンは多かった。私は彼の才気煥発すぎる点が嫌いで、ずっと「中原派」だったことは以前に書いた。

 米長のセンスのよさは、「さわやか流の私を泥沼流とは失礼な!」とはならず、「あ、そりゃおもしろい」と受けいれてしまう点にある。もっともそれは長年さわやか流で活躍してきたからであって、いきなり若手の時に原田さんから「米長泥沼流」と名づけられたら反撥したろう(笑)。



 全追悼文中で唯一内藤の文は米長に厳しい視点で迫る。毀誉褒貶相半ばする人だったから、これこそが本物の追悼文である。米長は優れた棋士だったし、会長として功績もある。しかし同時にずいぶんと問題や軋轢も起こしている問題人物でもある。そこにまで踏みこんで書いたのは内藤だけだった。これは内藤が米長より年長であり棋士としても先輩であり、「米長が会長になるまでは」親しい友人であったからこそ書けたことであろう。本当に不仲ならそもそも追悼文など書かない。

「私は、連盟の行く末、女流棋士への考え方など米さんと真逆であった」
 72歳の内藤が近年の造語である狄慎姚瓩覆鵑道箸辰討い襪里おかしい。連盟の行く末や公益法人のあたりは私にはわからないが、米長の女流棋士会への対応はへんだった。

「連盟に公益法人の話が出たあたりから彼の言動が理解しにくくなり、連盟が米長一人に振り回されているように見え始めた」
「犂界のナベツネになる。死ぬまで会長だ瓩修κ討気鵑宣言したという噂が流れてきた。握った権力は一生離さない。これは権力者の陥る通弊だ。もう握手できないと思った」

 『将棋世界』の米長追悼特集は、内藤の歯に衣着せぬこの追悼文で光っている。
 日本人はなんでも「水に流す」。まして死んでしまったら美辞麗句の連発だ。この『将棋世界』の「逝去した米長会長を悼む特集」で、堂々と米長批判を書いた内藤九段の姿は美しい。



 かつて理事としてがんばっていた勝浦の追悼文。

 次いで西村。西村は米長より2歳年上だが、佐瀬一門への入門は米長が5年早い。米長にとって西村は、「年上の弟弟子」である。西村は八段だがこれは勝ち星による昇段。順位戦はB級止まりだった。
 その確執もあったか長年不仲と言われていた。それがなぜか米長が理事長となり、体制を築くといつしか昵懇になり、その体制を支える懐刀となっていた。
 それはこの追悼文でも、米長の努力やそれに気づいたのは「一緒に仕事をするようになったこの十年」と書いていることからもわかる。私は「米長西村犬猿の仲の兄弟弟子時代」に将棋を覚えているので、この感覚はよくわからない。

 同じく佐瀬一門の弟弟子になる沼春雄の追悼文。



 ここから弟子の追悼文が続く。まずは一番弟子の伊藤能の追悼文。
 弟子の順位では、ここで先崎学の追悼文になるはずだ。なぜかない。

 次に弟子の中川大輔。米長に命じられるままに理事にも立候補し、米長の片腕となって米長政権保持のために滅私奉公で尽くしてきたが、昨年突如(将棋ファンには突如と思えた)米長から絶縁された。真相はわからないが、私は傲岸な米長に首を切られた不遇なひとと解釈している。「入門したのが昭和54年、二度とその門をくぐれなくなったのが平成24年」とある。ワンマン米長に嫌われ、すっかり蚊帳の外となってしまった中川に追悼文を書かせた『将棋世界』の気転はいい。

 弟子の盧螳貔検D慌裕也。中村太地と続く。

 一連の弟子の追悼文が終り、年齢制限で奨励会を退会した後、三十代でプロになった瀬川晶司の追悼文。
 これは米長が瀬川のプロ編入に賛成だったからだろう。瀬川を受けいれたことや電王戦は米長の功績になる。もっとも電王戦に関しては、プロが将棋ソフトに負けてはたいへんなことになると対戦禁止令を出したのも米長会長なのだが、渡辺竜王とボナンザとか、自らボンクラーズと対戦とか、あらたな局面を切り開いたのも事実である。私は、あの時点での「ソフトとの対戦禁止」は妥当な処置だったと思っている。



 ここからはマスコミの登場。
 序列は竜王戦1位だから、まずは読売OB。このひとは今の肩書は退社して「将棋ジャーナリスト」だが、長年読売の将棋担当記者として将棋界と関わってきたひとだ。当然の順だ。ついで読売の現役将棋担当者。
 タイトルホルダーの追悼文順位で名人を1位にしたので、こちらは竜王の読売を1位にしたのだろう。その辺の気遣いが見える。読売がふたり続く。

 ついで名人戦主催の毎日。朝日。
 新聞三社連合(王位戦主催)。日経(王座)と続く。
 共同通信(棋王戦)。ここではあの有名な米長の名言「兄貴たちは頭が悪いから東大に行った。俺は頭がいいから将棋棋士になった」が、本当は芹沢の作り話であることが明かされている。



 最後が棋聖戦の産經。新聞の序列とはすなわち棋戦の賞金の額である。かつて棋聖はもっと上だった。産經も苦しいのか、いま最下位である。賞金が安いことがよくわかる。

 このひとは「米長さんの全盛期を知らない」と書いていることからも若い人らしく、けっこう見当違いのことを書いている。
「現役時代から永世棋聖を名乗っていた米長邦雄さん、戒名にも棋聖の言葉が付けられていた。ことのほか棋聖に思い入れがあったことが伺える」ってのは間抜け。大山が十五世名人を名乗ったように、中原が永世十段を名乗ったように、米長も「ただの九段」になるわけには行かなかった。大山や中原はそれをいくつももっていたが、米長のもっていたのは年に二度開催のころに取った永世棋聖だけだった。だから永世棋聖を名乗った。それだけの話。今のように年一回開催だと五期取れなかったかも知れない。充実していた時期に連続して取って永世棋聖を獲得したのは幸運だった。

 惜しかったのに「永世棋王」がある。これの規定は「連続五期」だ。米長は連続四期保持したが永世棋王を懸けた五期目に桐山に敗れている。あそこで勝って「永世棋王」を獲得していたらどうだったろう。いま七大棋戦の順列で、棋王は5番目、棋聖は最低の7番目である。あくまでも「今の賞金額」による順位であり、かつては棋聖のほうが上だった。

 永世棋聖は、通算五期とれば名乗れる。かつては年に二度開催だったこともあり複数いるが、いまのところ永世棋王は羽生だけである。もしも米長が永世棋王を取っていたら、それは大山、中原でも出来なかった史上初の永世棋王だった。なら私は、米長は「永世棋王」を名乗ったように思う。この世にひとりしかいない、大山中原でも出来なかったというのはいかにも米長好みである。
 取ってないものを論じても無意味だが、この産經記者の文が的外れとは言えよう。「棋聖」で言うなら、今でもタイトル獲得史上最年少の記録である屋敷が、棋聖位を失ってからも愛称として棋士仲間から「キセー」と呼ばれたことの方が印象的だ。



 山崎バニラの追悼文。これも米長と親交があったからだろう。山崎七段との山崎山崎対談の号では表紙にまでなっていた。お気に入りだったのかな。私も山崎バニラは「パソコン自作派」ということで好きだけど。(後にツイッターで「山崎バニラは米長の最後の女」というデマが流され、山崎が閉口するという事件が起きる。)

 ここで意外なことに林葉直子が登場する。しかもみな1ページなのに2ページも書いている。米長に破門されているから弟子ではない。美少女女流棋士として将棋普及に役だったが、最後は中原との不倫騒動やヘアヌードでだいぶ将棋のイメージを貶めた罪人である。近年の目を背けたくなるような容貌劣化も話題になっている。追悼文はとてもよく書けていた。



 河口俊彦が4ページ。ここはやはり河口さんに米長将棋を語ってもらわないと。充実したページだ。
 C2時代の森下卓に、A級の米長が「研究会をやって教えてくれないか」と頼むシーンを伝えている。その場に河口さんもいたのだ。
「私は、私より強いか、私より熱心な人としか研究会はしません」というとんでもない森下四段の返事。それに慌てず騒がず米長は、「君より強いかどうかはわからないが、熱心さなら君に負けない」と応えてふたりだけの研究会が始まる。気鋭の若手である森下の最新の序盤感覚を取りいれた米長は、苦手としていた序盤がうまくなり、それが49歳名人に繋がってゆく。49歳は木村や大山が名人を失う落ち目の年だ。今後もこの「最年長名人」の記録が更新されることはないだろう。いや、羽生世代なら年長更新は出来るが、それは羽生や森内や佐藤の復位であり、「初名人」はあるまい。

 ここで河口さんは、米長が若手の序盤感覚を取りいれたことを「よくなかった」としている。それを取りいれたから名人になれた。これは間違いない。本来の米長将棋では中原は倒せなかった。棋風改造により宿敵の中原からやっと名人位を奪取できた。しかしその棋風改造により米長将棋は変化し、引退を早めた。河口さんはそう解釈する。若手の序盤感覚を取りいれての改造をしなかったら、米長はいつもの泥沼流で60を過ぎても現役でいられたと推測する。
 でもそれでは名人にはなれなかった。だから、一期だけでも宿願の名人になれたからそれでいいのだろうけど、「あの棋風改造は問題あり」というのが河口さんの結論のようだ。興味深い。



 ここで「追悼特集」は終るが、そのあとの青野照市の、いつもは順位戦を中心にした棋界の流れを追う「将棋時評」も米長将棋特集となっている。10ページ。
 高橋道雄の「名局セレクション」も米長の隠れた名局を特集する。2×3で6ページ。
 いやはやなんとも充実した追悼号である。何十年も買っていながら、よりによってこの号だけ買えなかった私もまた珍しいひとになる。

 人気連載「イメージと読みの将棋観」でも、テーマのひとつとして「将棋界に生きる米長哲学」を取りあげている。ただしこれは生前のインタビューであり追悼とは無関係と断っている。でもいいタイミングで、とてもいい追悼になっていた。ここを読んでくれている将棋ファンなら、かの有名な「米長哲学」はご存知だろうから説明は略。



 同じく人気連載の勝又清和の「突き抜ける! 現代将棋」は米長の訃報に触れていない。すでに書きあげてあったのだろう。その代わり3月3日発売の4月号で米長玉や米長の名局をびっしりと特集した。5月号に続くとなっている。すばらしかった。私はこの勝又の連載だけで『将棋世界』は750円の価値があると思っている。あらためてその充実ぶりに感嘆した。

 河口さんが老いた後、こういう形の伝道者はこれからどうなるのだろうと案じていた。文章が達者なことから跡継ぎと思われた先崎のそれは、ちっともおもしろくなかった。期待外れである。しかしそこに期待されていなかった(失礼)勝又がまさに彗星の如く現れた。競馬で言うなら種牡馬ステイゴールドの成功のようである。先崎は、2歳時の活躍と名血から大きな期待を寄せられたが種牡馬失格した××のようなものになる。××は適当に当てはめてください。いくらでもいる。



 追悼文でいちばんよかったのは内藤國雄九段。林葉もよかった。
 記事では河口さんのもの。
 でも一番は、4月号になるが、勝又の米長特集。

 不可解なのは、中原さんと先崎が登場しないことだけだ。
 いまも将棋界の歴代対局数でトップなのは「中原米長戦」である。中原さんの最大のライバルが米長であったのは確乎たる事実だ。本来なら、それこそ現役の竜王名人を飛びこえて、「十六世名人」として最初に追悼文が登場せねばならない。なのにない。
 体調がわるいようだけど、それならコメントという形でも出来たろう。いま中原さんは米長の死になど関わりたくないというほど嫌っているのだろうか。
 中原さんの場合は体調から推測することも可能だが、先崎になるとまったくわからない。米長と先崎が絶縁したという話も聞かないのだが……。

 それと、元『将棋世界』編集長で、そこから高名な作家となった大崎善生さんなんかも、本来なら追悼文を寄せる立場だろう。だが大崎さんは女流分裂騒動のときのコメントで、米長から諸悪の根源のように言われた。
 どっちの味方をするかとなったら、私はもちろん大崎さん側につく。とにかく米長というひとの極端な好き嫌いはたいへんなものだった。この追悼号には大崎さんのおの字もない。現在の編集長は大崎さんのエッセイ集にも登場する(というかエッセイ集のタイトルになっている)大崎さんが育てた「編集者T君」だ。林葉を出すなら大崎さんにも声を掛けてもよかったのではないか。それとも、声を掛けたが大崎さんのほうで断ったのか。それはそれで米長追悼号らしくていい。

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 と、図書館に返却する前に、ざっと3月号の追悼の中身を書いてみた。
 今夜やっとバックナンバーを買えるところを発見した。じつは買おうと思って探しても見つからず、それで図書館に予約閲覧を申しこんだのだった。
 といってもそれはべつにむずかしいことではなかった。単に私がネットで雑誌のバックナンバーを買ったことがなく不慣れだっただけである。750円の本が送料や手数料で1500円になってしまうが、永久保存版だから買わねばならない。

 将棋連盟の会長が現役のまま死去したのは初めてのケースである。米長が「棋界のナベツネ」になったかどうかはさだかでないが、「死ぬまで会長」は実現したことになる。過去の棋士の追悼特集ではなく、現役の会長の死であるからか、充実した中身の追悼特集だった。
 もうすぐ発売になる5月号の、勝又の「米長特集第二弾」が楽しみだ。

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【附記】──関西在住の連盟会長は初?──2014/7/1

 上に「関西の棋士が連盟会長になったのは初」と書いてしまった。考えればすぐにわかることだが、大山さんがいる。その前にもいたはずだ。初のはずがない。ならなぜ書いたかと言うと、米長が亡くなり谷川が後を継いだとき、たしかにそういう表現を見かけたからだ。そのまま深く考えず引いてしまった。
 今回ひさしぶりに読みかえし、なんという愚かなことをと赤面しつつ削除した。しかしまた、なぜそんなことを書いたのかと気になり、考えてみた。たしかにそんな文章を見かけたのだ。

 それで思いついたのだが、それは「関西在住棋士の連盟会長は初」ということなのではないか。谷川の家はあちらにあり、つい先日も「週に何度も往復している」と読んだばかりだった。そう思う。間違っていたらまた直します。

今日の修正──「立川談志の死」の「新日」──訃報に接する態度

いつものよう午前3時起床。
「人気記事」を見ると、「立川談志の死」が入っている。今度は誰かが落語話を引っ張りだしてくれたのか(笑)。というかこれは分類的には「訃報」か。
ということでチェックしていたら、プロレスの「新日」を「親日」と書いているのを見つけて修正。
これは逆も良くやる。気をつけよう。 



心優しい日本人は、なんでも水に流す。
村八分でも、火事と葬式の二分は例外である。
知らないひとでも、とりあえず死んだと聞いたら哀悼する。
それはきっといいことなのだろうが、ひねくれ者の私には不可解でもある。



16年間暮らした最愛の猫を失い、埋葬した家の隣の畑で泣き濡れていたら、実家に帰ってきた姉(実家に帰るの正しい使いかた)とその娘が、線香をあげようと畑にやって来た。事勿れ主義者でなんでも適当な私だけど、そのとき反射的に激しく拒んでしまった。一瞬で反応した自分におどろいた。

おとなげないと言われるだろうし、他者の好意を無にしていると嗤われるかも知れない。
東京で一緒に暮らしていた猫は、私が外国旅行に行く間に両親に預かってもらうようになった。老父母は猫をかわいがってくれた。いまも感謝している。そして猫の存在は、私とあまり仲の良くない母とのあいだもとりもってくれた。これは猫に感謝することだ。

猫嫌い、というか動物嫌いの姉は、自分の実家に猫がいることを嫌った。臭いとか気味が悪いとか、あれこれ言っていた。その娘(姪)も同じ。姉(母)が動物嫌いで飼わないから娘ふたりも動物嫌いになっている。まこと、親の影響とは大きい。そんなふたりに、死んだからと言って神妙な顔で線香をあげに来られたらたまらない。

ほんとにもう事勿れ主義であらゆる摩擦を嫌い、誰とも揉めたくないと思って生きてきた私だが、線香を手に神妙な顔で現れた姉と姪を「やめてくれ!」と激しい口調で拒んだ。よろこんで受けいれられると思ってやってきた姉と姪は予想外の事態に驚いた顔をした。ふつう線香をあげに行けば、それこそ故人の殺人者でもない限り受けいれるのが日本の常識だ。姉は常識にそって行動した。それが拒まれた。

しかしいちばん驚いていたのは私自身だった。そういう激しいことが自分に出来るとは思っていなかった。でもそれだけあいした猫だった。自分が汚されてもかまわないが、彼を護るためならなんでも出来た。自分を臭いとか気味が悪いと嫌っていた人間に線香を上げられても彼は喜ばない。恥だらけの人生だが、あのときのあれは、私には珍しくよくやったと思っている。



日本人は死んだらなんでも許してしまう。
朝鮮人の長州力は、自分の嫌いなヤツ(安生だったか)に対し、「あいつが死んだら、墓に行ってクソぶっかけてやる」と言った。「あんなヤツ、死ねばいい」ではない。死んだ後にも墓に行ってクソぶっかけるのである。まさに朝鮮人の恨の思想をよく顕わしている。時勢とはいえ、こんな民族を併合してしまったのだから、あと何百年経とうと憎まれ続けるだけである。日本人はそこを理解せねばならない。死んだら水に流す自分達とはちがうのだ。



しかしまた日本人の何でも許してしまう感覚にも問題はある。
原爆を落とされ、大量無差別殺戮をやられたのに、その相手を責めることなく、「二度と過ちはおかしません」と碑に刻む自省はヘンなのではないか。



談志が死んだとき、談志の落語など一度も聞いたことのない連中が、いかにも神妙に、かなしげに語っているのは、私には不快だった。しみじみ心の狭い人間だと恥じいるが、この感覚を当の談志は支持してくれるだろう。この「立川談志の死」という文は、熱烈な談志信奉者には嫌われるだろうが、談志本人には気に入ってもらえると思っている。

長州力のように、死んだ後に墓にクソをぶっかけに行くほど嫌いなヤツはいないが、興味のないひとが死んだとき、死んだというそのことだけで哀悼するようなことはやめようと思っている。興味のないひとには、その死にも興味を持たないのが礼儀であろう。

訃報──大鵬、死す──納谷幸喜さんの死──1/31から書きます

元横綱大鵬さん死去、72歳=最多の優勝32回、「柏鵬時代」
 
時事通信 1月19日(土)15時51分配信
 
 史上最多の幕内優勝32回を記録し、柏戸とともに「柏鵬時代」を築いた昭和の大横綱、元大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが19日午後3時15分、病気のため東京都の病院で死去した。72歳だった。
 2005年に日本相撲協会を定年退職した後、相撲博物館長を務め、08年に退任していた。
 樺太(現サハリン)生まれ。5歳で北海道へ引き揚げ、16歳で二所ノ関部屋へ入門。1956年秋場所、初土俵を踏んだ。18歳で十両、19歳で幕内へ昇進し、61年秋場所後に21歳3カ月で48人目の横綱に昇進した。色白、端正な顔立ちで人気を集め、子どもが好きなものは「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた。
 右四つ中心の、柔軟で負けにくい相撲が持ち味で、6場所連続優勝2回。全勝8回、45連勝も記録するなど抜群の強さを誇り、横綱に同時昇進した柏戸とともに「柏鵬時代」を築いた。優勝回数32回は歴代最多。
 71年夏場所中に引退し、功績に対して一代年寄「大鵬」を贈られ大鵬部屋(現大嶽部屋)を興した。通算872勝182敗136休、幕内746勝144敗136休。敢闘賞2回、技能賞1回。
 77年に脳梗塞で倒れたが、再起して79年には大鵬部屋から初の幕内力士、巨砲を生んだ。80年から96年1月まで日本相撲協会理事。09年、相撲界で初めて文化功労者に選ばれた。
 柏戸は96年に58歳で死去しており、一時代を築いた両雄が、ともに世を去った。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130119-00000079-jij-spo 

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 ひさしぶりに「えっ!」とおどろく訃報に接した。
 具合がわるいことをまったく知らなかった。

 大鵬は若くして脳梗塞を患い不自由な体になってしまった。すべてを手にしたあれだけの大天才が、引退後にこんな残酷な運命が待っているのかと、その時点で私はもう大鵬の若年の死を覚悟した。

 ところがそこからがんばった。リハビリをし、親方としてもがんばり、ライバルだった柏戸があっさり亡くなってしまってから、スポーツ紙での評論等、活躍の場を広げた。問題児の朝青竜に檄を送ったりした。

 臥せっていると知っていたら覚悟もしたが、そんな情報もなかったし、突然の訃報だった。
「巨人、大鵬、卵焼き」というコトバの実質は、「王、長島、大鵬」だった。三偉人のひとりが逝ってしまった。
 なんとも無念。あとであれこれ書き足そう。いまは大鵬を偲びつつ大相撲中継を見る。

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【追記】──1月31日から書きます──1/27

 大鵬のことが書いてあると思い、ここに来てくださったかたへ。 
 期待外れですみません。この時点では衝撃を受けただけで、とても思い出を書くような餘裕がありませんでした。
 その後、書きためていま溜っています。長文なので、1月31日から何度かに分けてアップするつもりです。 今朝方、完成させました。原稿用紙45枚になったので、5.6回に分けてアップしたいと思っています。
 大相撲ファンのかたに読んでもらえたらさいわいです。

 今日は午後からNHKで「大鵬追悼番組」がありました。見ながら、しっかり録画もしました。永久保存版です。
 この番組を見て、感動したことは、「大鵬は落ちない」ということです。あれは凄かった。ちかごろの簡単に引き技に屈する相撲を見ていると、大鵬の足腰の強さにあらためて感動しました。 対戦相手からすると、いったいどうやって攻略したらいいのか、ほとほと困ったことでしょう。
 すごい力士でした。大相撲史上最強です。 

訃報──米長邦雄将棋連盟会長──来年の電王戦を見て欲しかった──後継者は谷川か!?

00shogi.gif日本将棋連盟会長で元名人の米長邦雄(よねなが・くにお)さんが18日午前7時18分、前立腺がんのため東京都内の病院で死去した。69歳だった。


 米長邦雄さんが亡くなった。いま、安倍内閣組閣予想をする「ミヤネ屋」を見ていて、知った。
 自分の知ったのが15時半だったので「速報」かと思ったが、上のニュースにあるように亡くなったのは「午前7時」であり、もっと早くニュースは流れていたようだ。配信時間は「12時15分」となっている。

 いつものよう午前3時起きの生活だったらリアルタイムでこれを知り、もっと早くアップできていた。しかし開票速報の16日午後8時から徹夜でテレビを見ていたので、いま生活時間はめちゃくちゃになっている。今日は徹夜のまま「みのもんた」を見てから寝て、14時に目覚め、すぐにまた政治関連のニュースを見ようと「ミヤネ屋」を点けて知ったのだった。

 69歳という享年は奇しくも大山名人と同じである。大山さんは、その年で現役A級だったのだ。あらためて偉大さを知る。今年は没後20年である。
 ふたりは不仲だったが……。



 米長さんの死そのものは、数ヵ月前に見た『将棋世界』の、どこかの表彰式に出席した姿が、おどろくほどちいさく萎んでいたので、覚悟していた。もう何年も前に前立腺癌であることを公表し、闘病日記も公開していた。

 とはいえ元気満々で、相変わらず諧謔に満ちた発言を連発し、今年1月にはコンピュータ将棋ソフトと対戦し話題になっていた。
 たとえ体内にガンを抱えていようとも、生命力のあるひとは、それすらも抑えてしまう。米長さんもそのひとりかと思っていたから、『将棋世界』で見た「ちいさく萎んだ姿」はショックだった。悪魔の癌に魅入られ、ああなったらもうどんな鉄人でも終りだ。あの不屈の鉄人大山康晴ですら、最後はちいさく萎んでいた。オーラが消えていた。
 冬は元気だった。晩春あたりから一気に衰弱したようだ。



 私は熱心な米長ファンではなかった。中原米長時代で言うなら、確実に中原さんのファンだった。
 昭和58年の三冠馬ミスターシービーと翌59年の三冠馬シンボリルドルフは、ルドルフのほうが強かったが、後方一気という派手なレースぶりからシービーのほうが一般的人気があった。中原米長の関係もそれに似ている。年上の米長シービーは派手なレースで人気があったが、実績は年下の地味な中原ルドルフのほうだった。それは大山升田にも共通している。

 私は中原さんとルドルフのファンだった。何事もきちんと通じているものである。
 その中原さんは脳梗塞に倒れ、いまも障害が残っているらしい。表に出ることはない。
 熱心な米長ファンではなかったけれど、中原米長時代に将棋に夢中になったものとして、米長会長の元気な活躍が心の支えになっていた面はある。熱心なファンではないが、ファンではあった。ではその「熱心」になれない壁とはなにかと言えば、このひとは「才気煥発すぎる」のである。それが時たま鼻につくのだ。

 たとえば若い頃の、ある受賞パーティでの祝辞。紙上再現を読む。うまい。つかみはOK、笑いをとり、感嘆させ、最後にほろりとさせて結び、万雷の拍手を浴びる。なんとも、絶品の名人芸としか言いようがない。
 それが場数を踏んだベテランならともかく、30そこそこなのである。うますぎる。そのあまりのうまさに、学生だった私は、感心しつつも反撥を覚えるのだった。

 私の好きなのは、木訥な、訥弁だけど、愛情が籠もっていて、思わず感動するようなモノだった。対して米長さんのは、抜群に頭の回転の速いひとの、「これとこれをこう組み合わせて、こういう形にして、こんなふうに話すと、こういう連中がこういうふうに感動する」というような戦略が見えかくれしていた。見えていても感動させられたが。
 大山さんが米長さんを嫌ったのも、そのへんになる。武骨な大山さんには米長さんの才気煥発は軽薄に思え、同時に自分にはない羨ましい才能だったろう。



 ちいさく萎んだ写真にショックを受け、覚悟はしていたが、つい最近までホームページもツイッターもやっていたのだと知る。この流れからは「急逝」になる。
 ツイッターはフォローしていたし、ホームページも開設当初から読んでいたが、ここのところしばらく行ってなかった。これまたサービス精神旺盛すぎてかえって読み辛いのである。

 下は、ホームページの「さわやか日記」で公開した11月28日の役員会の写真。

yonenaga20121128 ついこのあいだである。次の会長は隣の谷川になるのだろうか。忙殺されるから会長職は棋士を引退してからがいい。むしろ谷川には役員すらやめてもういちど棋士に撤して欲しいと願うのだが、そうも行かないのだろう。どうなることやら。



「さわやか日記」の最後の書きこみは12月3日。テレビであの名勝負「羽生対山崎戦」を見ている。この時点では元気いっぱい。

 私があの将棋に感銘を受け、PCに向かって、このブログ用の「NHK杯戦──ひさしぶりに見た才能の将棋」を書いているころ、米長さんは囲碁を見、マラソンを見ていたことになる。

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 上記の文をブログにアップした私は再びテレビに戻り、競馬観戦(JCD)し、そのあと『笑点』を見た。ここは同じ。もう米長さんがいなくなってしまったのかと思うと、この日、同じ東京の空の下で、ほとんど同じテレビ番組を見ていたという繋がりがいとおしい。たかがテレビでも共有感覚ってのはあるのだと知る。



 ツイッターは12月5日までやっていたようだ。フォローしていたが、ツイッターをほとんどやらないので、米長さんのつぶやきが記憶にない。

 13日に倒れて救急車で運ばれたらしい、という情報を見かけた。とすると、自民党支持者の米長さんは、自民党大勝の結果を覚醒しては見られなかったことになる。あの悪夢の民主党政権が終る瞬間を見て欲しかった。米長さんなりの手法で、そのよろこびをコメントして欲しかった。

yonenagatweet























shogitaikyousuu 棋士米長邦雄は、将棋史的にも指折り数えられる名棋士だが、数字的記録は残していない。

 たとえば1980年に「年間対局数88」というとんでもない数字を記録した。あらゆる棋戦に顔を出していた全盛期である。

 だが88局を記録したから最多勝も記録したかと言えばそれはないのである。それどころか「歴代最多勝10傑」にも入っていない。

 ふたつの表を比べて欲しい、羽生、森内、佐藤、中原、森内、木村、谷川と、「最多対局ベスト10」を記録したひとは、全員「年間勝数ベスト10」にも入っている。入ってないのはただひとり、米長さんだけなのである。かっこわるい。でもこういう目立ちかたがあのひとである。
 才気煥発な米長さんが目ざしたのは「最年少名人」だったろう。だが結果は「最年長名人」だった。そういうひとだった。

shogishorisuu この88という記録は2000年に羽生に破られる。1局差の89局。だが羽生はこの年「68勝」という歴代最高勝ち星を記録している。ただ単に対局数が多かった米長とは中身が違うのである。

 タイトル獲得数は、羽生、大山、中原、谷川に次いで史上5位。でも上位3人とは比ぶべくもないし、谷川にもだいぶ差をつけられている。「米長玉」のような歴史に残る手もあったが、谷川の「光速の衝撃」と比べるとだいぶ落ちる。
 だがその米長に、まだ佐藤も森内も渡辺も届いていない。



 そんな中で今も輝いているのがこの記録。同一カードの最多記録。中原米長戦。あの時代、いかにこのふたりが抜きん出ていたことか。

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 この187という数字を抜くのは「羽生谷川戦」だと思っていた。しかし162で止まったまま。谷川の凋落からもうそれはありえない。

 唯一可能性を残しているのは「羽生佐藤戦」だが、39の差は大きい。もしも越えるとしても10年以上先だろう。
 しかしまたここでも米長は、大きく中原に負け越している。それが米長というひとの実力になる。だが、大山に負ける升田が大山より人気があったように、中原に適わない米長も中原以上の人気を誇った。



 下は、歴代名人位。これに関して書き始めると長くなり、米長さん追悼ともすこしズレるので、この話は別項にする。49歳の新名人は今後も出ることはあるまい。しかしまたここでも、「羽生へのバトンタッチ」で目立っている。そんなひとだった。

 「中原米長世代」という、ひとつの時代が犂袷瓦豊畚わった。
 これから将棋連盟は一気に若返る。20歳若返る。
 それはまた、激動の時代の始まりでもある。棋士は一丸となって連盟運営に尽力して欲しい。

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 来年の「電王戦」の布陣が決まった。

dennosen 急速に強くなったコンピュータ将棋ソフトに危機感を感じて、恥を搔くわけにはいかないと、プロ棋士に「コンピュータ将棋ソフトと対戦しないように」と通達を出したのは米長会長だった。

 しかしまた一転して、渡辺竜王とBonanzaの対局を企劃したのも、「電王戦」を設置に尽力し、自らボンクラーズと対戦し、派手に散って話題になったのも米長会長だった。

 来年3月から4月には、「第二回電王戦」として、一気に5対5の決戦が組まれる。大将として三浦八段が控えるプロ棋士として弁明不能の剣が峰である。

 これを見届けて欲しかった。なんとも残念である。



 個人的には政治思想が同じなので、安倍内閣誕生の瞬間を見て欲しかった。石原都知事のもとで都の教育委員も務めていた。園遊会での「國旗と君が代の普及」に関する発言も懐かしい。

 5日までふつうに活動し、13日に体調を崩し、18日に逝去というのは、苦しまないいい逝き方だったか。



 谷川を始め残された理事はみな醇朴だ。米長さんのような良くも悪くも策士はいない。
 棋士は、スポンサーに金を出してもらって藝を見せる藝人である。組織の長となるものは、藝とはまたべつに、スポンサーを捜し、スポンサーとの金銭交渉に長けていなければならない。将棋に好意的なら、サヨク新聞とも酒席をともにし、朝鮮企業にも創価学会にも頭を下げる柔軟さが必要である。今後の将棋界にそれの出来る人材がいるだろうか。心配だ。

 米長さん、天国から将棋連盟を見守ってください。長いあいだお疲れ様でした。合掌。

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【追記】──会長に谷川九段──12/25

 12月25日、後継の会長に谷川九段(50歳)が決まった。
 人品骨柄文句なしのかただが、現役棋士との兼務はきついだろう。A級陥落で引退となるのだろうか。
 すばらしい棋士だけに、すこしさびしい。 

哀悼──三宅久之さん──「たかじん」12月2日の追悼番組を見る

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 いま動画倉庫で12月2日放送の「たかじん──三宅さん追悼特集」を見たところ。
安倍晋三総裁の追悼メッセージが感動的で涙がにじんだ。安倍さんも涙をこらえつつ語っていた。政治家と評論家という関係を越え、ひととして、心から信頼し感謝しているのが伝わってきた。

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 勝谷も辛坊も。金さんは涙声。
 未公開の、たかじんが三宅さんに感謝して、お礼を述べつつ泣くシーンもよかったな。

 上の画像は、たかじんに涙ながらに感謝され、「あなたにそう言われたら、老骨に鞭うってがんばらないと」と笑ったところ。辛坊がメッセージで言ったように、ひとはいつかは死ぬのだが、ほんとうに突然だった。もっとこまめにブログを読みに行っていれば、入退院のことなど知って、覚悟も出来たろうが、しばらく読みに行かず、それを知らなかった隙を衝かれ、おどろくことになった。



「TVタックル」の三宅さん追悼特集は、大竹まことを見たくなかったが、リアルタイムで見た。大竹嫌いで見なくなっていたのでひさしぶりだった。やはりつまらなかった。たけしの語った思い出が「じつに義理堅いひとで、評論家を引退するときはわざわざ挨拶と説明に来てくれて」程度だったように、「たかじん」の出演者一同と比べると、親密度がちがったようだ。「たかじん」ではなくてはならない重要人物だったが「TVタックル」では出演者のひとりに過ぎなかったのだろう。それはまた東京と大阪のちがいかも知れない。追悼番組を見くらべて、「たかじん」の良さ、「TVタックル」のつまらなさを感じた。

たかじんは追悼メッセージで「たかじんの、じゃないんです、ほんとは『三宅久之のそこまで言って委員会』なんです」と語っていた。姿を見せずテロップだけというのは、まだたかじんは人前に出られないほど衰弱しているのだろうか。心配だ。早く戻ってきてくれ。

田原総一郎嫌いの私には、彼を怒鳴りつけてくれる貴重なひとだった。鉄面皮の田原は何を言われても堪えない。これからはあいつが長老面するのか。三宅さんの思い出の場面で、ほんのすこし顔を出す田原を見るだけでうんざりする。



運よくDownloadできた。この番組はいつも出来ないのだが何故だろう。三宅さんが味方してくれたのか。
保存して大切にしよう。三宅さん、天国から安倍政権の活躍を見守ってください。

ちょうど今、北朝鮮の気狂いミサイルが発射されたとニュースが入った。こんな時代だからこそ、三宅さんにもっともっと発言していただきたかったです。

山田五十鈴の死、パンダの赤ちゃんの死、かなしい時間──国民の生活が第一だよん!

山田五十鈴が死んだ。
いくつになっても同い年の死は悲しい。
ご冥福を祈る。30年もすればあたしもそっちに行く。125までは生きる。



パンダの赤ちゃんが死んだ。95歳。偉大な芸能人だった。
いくつになっても同い年の死は悲しい。

動物園の園長が泣いていた。大笑い。
ライオンやトラに喰わせるために多くの動物が殺されている。
そっちのためにも泣いてやれ。
なんでパンダの赤ん坊が死んだら泣くんだ。最低だね。

原発推進者が生きていてパンダの赤ちゃんが死なねばならないのか!?
あまりにこの世は理不尽だ。なんてことはぜんぜん思わない(笑)。
とりあえず形だけ5年前に死んだ母さんと抱きあって号泣した。涙がとまらない。 
ごめんね日本中のこどもたち、なにもしてあげられなくて。
なにかしてやる気がそもそもないんだけど。



いまからレバ刺しを食いつつ、死んだパンダの赤ちゃんの映像を見ながら号泣しよう。
パンダの赤ちゃんの姿煮ってうまいのかな(ゴクっ)。
誰が喰うんだろう、当然園長にその権利が……。

あ、大好きな小沢さんの会見が始まった。
新党の名前は何になるのかな?

隠し子と愛人の名前も言うの? どきどき。
放射能から逃げたことも言うの? わくわく。

と思ったら「国民の生活が第一」だって(笑)(笑)(笑)。



バカも窮まれり(笑)。 

がんがれよー、2年保つかな。楽しみ楽しみ。

次の選挙が第一!!!

でもみんな落ちるけど(笑)。

小沢を落とせないなら、それは岩手が呪われているってことだ!

岩手県民、気を引き締めろ。真剣に考えろ。
まともな日本人になれるか、小沢の奴隷のままか、重要な岐路だぞ!!!
地元利益誘導が政治家の意義なら、所詮あんたらはそこまでのニンゲンてことだ!

これは大震災以上に、あんたらの日本人としての覚悟が問われているんだ!

訃報・竹内宏介さん──Twist of Jobimの朝

twistofjobim

「Twist of Jobim」を聞いている。Bossa Novaの大御所アントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュート。中心はプロデュースしたリー・リトナー。あ、リー・リトナー、書けるかな、Lee Ritenourのはず。確認。当たっていた。よかった。

今日は雨が上がっていい天気になった。ひとあし早いボサノバ。本格的なのはもっと暑くなってからだが、フュージョン系だと今の季節にも似合う。
エリック・マリエンサルのアルトサックスがいい。ハービー・ハンコックのピアノも、と書いて行くと全員書かねばならない。名人達人ばかり。

こういう場合のTwistはなんて訳せばいいのだろう、うまい日本語はない。意味はわかる。意味が、とても良く解るだけに、これに匹敵する日本語を思いつけないのが歯がゆい。



昨夕、東スポで竹内宏介さんの死を知った。
ものごころついた時からプロレスが大好きだったけど、そういう小学生時代から、中学生、高校生時代、東京に出たので大試合の会場に行けるようになった18歳以降、とあれこれ思いは尽きないが、いちばん熱くて楽しかったのは、田舎の高校生として、創刊されたばかりの「月刊ゴング」と「別冊ゴング」を毎月楽しみにしていた時期のような気がする。

東京の大試合とは無縁だったけど、毎月発売日を指折り数えて待ち、下校時に本屋に駆けつけた時の昂揚は、田園コロシアムでハンセンとアンドレの一騎討ちを見た時や、東京体育館でのハンセンと馬場の初対決を見た時や国技館でローラン・ボックを見た時の興奮に負けない。
毎月、丸ごと一冊暗記するぐらい熱心に読んだ。



「まだ見ぬ強豪」として、マスカラスやスパイロス・アリオンが取りざたされていた時期だ。その仕掛け人が「ゴング」であり、若い編輯長の竹内さんだった。まだ22歳ぐらいだったろう。

先発のベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」に負けまいと、後発の「ゴング」はあれこれ工夫をした。それが楽しかった。「プロレス&ボクシング」は古手だけに、いかにも日プロの幹部と親しい(=御用マガジン)の趣があった。それこそ当時の幹部である芳の里(人名に関して強いGoogle日本語入力もさすがに芳の里は出なかった)や遠藤におもねっていたろう。
竹内さんは「プロレス&ボクシング」出身だが、いくら編集長を経験したとはいえ二十歳そこそこの若さだったから、日プロ幹部から接待されていたとは考えにくい。

創刊間もない「ゴング」は連中から鼻も引っ掛けられない立場だったか。たしかなのは、古手の「プロレス&ボクシング」よりは軽視されたことだ。その代わり、国際プロレスの記事が増えた。そのことでますます日プロには嫌われたろう。とにかくやつらは横暴だった。
その分、竹内さんの若さで、高校生の私のようなのがわくわくする企劃を連発してくれた。そのひとつが前記の「まだ見ぬ強豪」であり、話題になったのが当時ロスで活躍していたマスカラスだった。「ゴング」はマスカラス人気で部数を伸ばしていった。

ここを読んで一緒に竹内さんを偲んでくれるひとはみな「日テレの解説者の竹内さん」ではないか。私の竹内さんへの想いはそれよりも前になる。



gong

この写真は「ゲンキ・ヤ」というサイトからお借りした。こういう古雑誌の通販をやっているらしい。処分してしまったが、私もこれらをすべてもっていた。本誌の「月刊ゴング」は、ベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」と同じくプロレスとボクシング。写真はその本誌である。そこからプロレス専門誌として創刊されたのが「別冊ゴング」で、私の好きなのはこれだった。

馬場をジャイアントスイングで振りまわしているのはジン・キニスキーだ。
2年前の4月、81歳で亡くなっている。ブログにもサイトにも書かなかったけど、日記には「今日、キニスキーがなくなったと知る」と記して偲んでいる。大好きなレスラーだった。顔から「平家蟹」と呼ばれていた(笑)。。

プロレスとボクシングの二本立てなので、表紙もボクサーとレスラーが半々。しかし「ゴング」は、やがてプロレス中心になってゆく。いや、始まりがプロレスだった。だって竹内さんが中心だったのだから。

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本誌の表紙。ボボ・ブラジル、ドリー・ファンク・ジュニア、フリッツ・フォン・エリック。ボクサーよりもレスラーを大きく扱っている。当時の日本のチャンピオンは馬場だったけど、ブラジルやエリックはあきらかに馬場よりも強かった。猪木は話にならない。プロレスは「約束内の出来事」だけど、そこにもはっきり強さが見えるのが楽しい。ルー・テーズなんて地元の英雄の力道山に負けてやっているのがこども心にも見え見えだった。ブラジルもエリックも、最後は馬場に負けてやるのだが、負け方がへたなので(笑)、力の差が見えてしまっておかしかった。

ドリー・ファンク・ジュニアは、私の最も好きだったひと。大卒で、高校の物理の教師免状をもっているなんてのにも好感をもった。一緒に来日したプロンドのジミー夫人もきれいだった。のちに離婚してしまうけど。
そういう雰囲気は、後に日本のレスラーでも猪木が倍賞美津子と結婚してかもしだすが、当時の日本のプロレスにはないものだった。かっこいいなと憧れた。

NWAチャンプとして、来日してすぐ、猪木と60分フルタイム0-0の引き分け。翌日馬場と1対1のフルタイム引き分け。猪木にはフォールを許さず、馬場には許しているところが馬場猪木の格をあらわしている。馬場がフォールを奪ったのが初公開のランニングネックブリーカードロップだった。
周囲のプロレス好きは、「惜しい、もうすこしだった」「馬場猪木のほうが強い。たいしたことない」と言っていたが、私はアメリカから来日してすぐ、2日連続で60分フルタイムを戦い、それぞれドローで、地元の英雄にそれなりに華を持たせ、すぐにまた離日して、次の地元の英雄との戦いに飛び立つNWAチャンプの底知れないスタミナに驚嘆していた。

このときは父親のシニアがセコンドにつき、ピンチになると騒いだりして、「過保護チャンプ」のような演出もしていた(笑)。なつかしい。



当時のNWAチャンプは禅譲性だった。テーズは自分が老いた時、キニスキーに次を託した。タフガイのキニスキーはしっかりと務めを果たした。キニスキーから禅譲されたのがまだ27歳のドリーだった。一気に若返りを図ったから不安も大きかったが、ドリーは見事にその大役を務める。ここからNWAチャンプは、ブリスコ、テリー、レイスと若い世代のものになった。そして、実力は文句なしだが精神的にチャンプに向いてなかったブリスコとは逆に、連日全米を飛び周り、地元のチャンプと戦って悪役を演じつつ、しかししっかりベルトは守るというハードビジネスに最もふさわしい地位を確立したのがレイスだった。

後にNWAが崩壊するのはプロレス嫌いのブリスコがNWAのプロモート権をマクマホンに売ったからだった。獅子身中の虫になる。インディアンでもありいろいろ屈折しているひとだった。日本人初のNWAチャンプに馬場がなる時の相手でもある。しかしああいう金銭で動く一週間天下(帰国するときには負けてベルトを返す)は読めすぎて白けたものだ。全日ファンとはいえなにもかも認めているわけではない。



国際プロレスが、日本プロレスにいじめられながらもがんばっていたころ。吉原さんの苦労を思うと義憤を覚える。その吉原さんがいちばん信じ、そして吉原さんを己の血を流して守ったのがラッシャー木村だった。木村は興行不振の国プロのために、額をギザギザにして金網マッチを連発した。連日流血だった。

もうかなわないことだけれど、私は、「もしも好きな人にロングインタビューしてもいい」と言われたら、木村さんの話を聞いてみたかった。彼の家に押し掛け罵詈雑言を投げつけ、犬までノイローゼになるほどの狼藉を尽くした新日オタクが嫌いだ。木村さんは義理に篤い大好きな朝鮮人になる。

日プロに対抗するために吉原さんが始めたのが「総当り制」だった。当時の日プロは日本人同士、外人同士は戦わないルールだった。吉原さんの決断により、アンドレ(モンスター・ロシモフ)対カール・ゴッチや、ビル・ロビンソン対ジョージ・ゴーディエンコが実現した。

上の写真でドリー・ファンク・ジュニアがダブルアームスープレックスの形を取っているが、これは国プロからバーン・ガニアにひき抜かれてアメリカに渡ったビル・ロビンソンから伝わったものだ。AWAチャンプのニック・ボックウィンクルもそうだった。ロビンソンと闘って盗んでいる。それはロビンソンの価値だが、そのロビンソンをイギリスから呼んだ吉原さんの功績でもある。



際限なく書きそうなのでこのへんにする。これは私なりの「Twist of 竹内宏介」のつもりで書いた。

竹内さん、大好きなプロレスラーに会えて、天国も楽しいでしょう。ほんとにほんとに竹内さんはプロレス大好きの青春でしたものね。享年65歳は早すぎるけど悔いのない人生だったと思います。

吉本隆明の責任を追及する五十嵐仁という人──新左翼の暴力はリューメーのせい!?

 吉本隆明が死んだそうです。最大級の評価と追悼の言葉が、テレビや新聞で報じられています。

 昨日の朝7時のNHKニュースのトップが、吉本の訃報でした。夕刊各紙も、多くの紙面を割いて業績を紹介したり、その死を惜しむ言葉を掲載しています。
 「戦後思想の巨人」とか、「戦後の思想界を代表する評論家・詩人」だなどという賛辞が溢れていました。


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 という書きだしで、「あっちもこっちも吉本の死を惜しんでいるが、暴力的な新左翼に大きな影響を与えた吉本の責任をなぜ誰も追及しないのか」と問題提起をしたのは五十嵐仁というひと。知らない。

 このライブドアブログにログインするにはライブドアニュースのページを通過せねばならない。なかなかうまい方法だ。読みたくなくても、ついつい見てしまう。そんな中にこの「吉本隆明氏の人を狂わせた狎嫻き」という見出しがあった。全文はこちら



 言っていることはわかるのだが、なんかしっくりこない。五十嵐仁というひとを調べてみた。Wikipediaによると、彼の主だった考えは、

・国内政治
自民党から左派政党による政権交代の必要性
現在の小選挙区制は中選挙区制に戻すべき

・外交・安全保障問題
自衛隊は違憲。縮小、撤廃し、災害の救援などの非軍事的な組織に改組すべき。防衛省は海外戦争省である
北朝鮮による核実験はアメリカ政府の責任
中国・韓国における“反日”デモはすべて日本側の責任

・歴史認識
首相の靖国神社公式参拝は憲法違反(靖国神社問題)
在日コリアンの少なくない人々が日本政府に強制連行された


 というひとらしい(笑)。タジマヨーコと同じ事を言っている(笑)。
 そりゃ私とあうはずもない。あうのは中選挙区制だけ。あとはみな反対。
 ここまでくると笑ってしまう。出身校は都立大。サヨクだらけのあの大学は困ったものだ。



 なぜ都立大や市立大のような公立大学にサヨクが多いかというと、授業料が安いからだ。よって、そこそこ頭のいい貧乏人の子弟が集まってくる。ほんとはちがう大學に行きたいのだが授業料の問題でそこにしか行けない。ひねくれて当然だ。

 横浜市立大学出身の知人がいた。早慶など目をつむっても入れるぐらい成績は良かったとか。そういう私立に行き大好きな音楽をやりたかった。でも家庭の事情で当時日本で一番授業料の安かった横浜市立しか行けない。しかたなく行った。ちいさな大学でつまらなかった。そんなひとのキャンパスライフが充実するはずもない。この世を怨む。金持ちを憎む。世が世なら。金さえあったら。体制が憎い。みな捩れてサヨクになる。
 橋下市長に大阪市立大を解体してもらいたい。あそこは国の税金で国賊を育てている最低の大学だ。



 五十嵐というひとの好き嫌いとは別に、その主張に整合性はあるか考えてみる。
 このひとは新左翼運動で片目を失明しているとか。
 そういう暴力的な学生運動を煽り、思想的な支えになったのが吉本であり、死んだからといって、やたら讃歌するだけではなく、マイナスの責任も追及すべきなのではないか、という意見だ。

 私は吉本が嫌いだから賛成したい気もする。しかしじっくり考えると、どうにもこのひとの意見にも賛成しかねる。「吉本絶讃ばかりはおかしい」という部分には同意するが、意見の基調がバカサヨク独特の論理なのだ。



 この種のひとの意見は、「軍隊があるから戦争が起きる。軍隊をなくしてしまえばこの世から戦争はなくなる」というようなものだ。そうではない。人類という愚かな存在は戦争をするのだ。いま現在、便利なものはみな戦争から生まれた。戦争がなかったらいまだに鉄器すらなかったのではないかと言われている。戦争がいいわけがない。だけど縄張り争いと利権は人類の常。きれいごとでは片付かない。そういう醜い生き物なのだ、ニンゲンは。自分達を護るために軍隊は缺かせない。
 これは「ナイフがあるから殺人事件が起きる。この世からナイフをなくせば殺人事件はなくなる」というリクツと同じだ。

 私は吉本に染まらなかった。ヨシモトリュウメイというナイフは購入したが、それで殺人はしていない。
 五十嵐の意見は、ヨシモトナイフで殺人をしたひとが、「あのナイフさえなかったなら」と言っているように聞こえる。

 永山則夫という殺人鬼が「家が貧乏でなかったら、毛沢東やマルクスを勉強できる環境にいたら、人殺しはしなかった」と強弁した。永山よりも貧乏でも人殺しをしていないひとはいっぱいいる。マルクスレーニンの勉強が出来ないほど貧乏だったからと連続殺人を肯定されたらたまったものではない。貧乏人は殺人鬼になると決められたら貧乏でも清く正しく生きているひとはどうなるのか。殺人鬼の責任転嫁である。



 吉本は嫌いだが、「吉本が煽ったから新左翼は暴力的になった。私は竹棒で突かれて失明した。吉本にも責任がある」という五十嵐の意見には同調しかねる。
 吉本ごときに染まって暴力的になったのがいたなら、それは元々その程度のニンゲンということだ。
 吉本も新左翼も並列関係だ。上下関係ではない。上下関係だったというひとがいるなら、それはそのひとの缺陥である。

 じつにもうなんというか、「おれがバイク泥棒になったのは尾崎豊のせいだ」と言ってるレベル。 
 オウムに狂った連中の病巣は麻原の存在以前に信者それぞれの精神の闇にある。
 
 卑近なことで言えばオセロ中島問題も同じ。占い師だか霊能者だかが悪いのではない。問題は中島自身が抱える病巣。ハエは腐ったものに寄ってくる。今回のそれを周囲が遠ざけても、中島の病を治療しない限りまた同じ事を繰り返すだろう。

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【追記】──博打で生計を立てていて自分を博打屋と称しているひとのブログから

吉本隆明については博打屋は語る資格がない」と書きだしたのだから書かなければいいのに、

吉本隆明・87歳の人生だったが、これほど次世代に影響を与えた作家もあるまい。
60年・70年代の若者に多大な思想を与えた人と言って差し支えないばかりか、博打屋が知る限り、あらゆる権力を否定し、大衆として生きる事を実践した作家と言って違いはなかろう。
博打屋が狭義であれ、学んだ事はこの事に尽きるような気がする。


と、語る資格がない割にはずいぶんとしったかぶり。いろんなひとがいるものだ。下線部分では噴いてしまった。
この博打屋さん、民主党支持者。民主党が政権を取ったときは世界が変るとはしゃいでいた。理想の政治家は市民運動出身の菅直人。あれが首相になったときは積年の夢が叶ったと大喜びだった。どの程度の人間かよくわかる。ま、よくもわるくもというか、わるくもわるくも筋は通っている。典型的心情サヨク団塊の世代。

吉本隆明に捧げる渋谷陽一の追悼文──世代で語られる口惜しさ

いつかこの日が来ると覚悟はしていたけれど、何か自分を支えていた大きなものが失われた喪失感が重くのしかかっている。
これまで何度も書いて来た事だが、僕は吉本さんに影響されなかったらロッキング・オンを創刊しなかった。
創刊してからも、これは吉本さんが見たらどう思うのだろう、叱られないだろうか、といつも誌面を作りながら思っていた。


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くだらねえな。そんなことを思いながら作っていたのか。
どうりでつまらないはずだ。

二十代の頃、この音楽雑誌を何冊か買ったことがある。そういう時代の、そういう流れの中にいた。
好きになれなかった。なにか自分とはちがうものを感じてザラついた。
だけどそれを口に出すことは憚られた。そういう場にいた。

今その事に納得する。
直感てのは正しいんだ。自分を確認できた。



一応吉本も読んでいる。そういう時代だった。そういう流れのそういうひとたちとつきあっていた。
感想は同じ。
共同幻想論(笑)。

父親とそっくりの不細工な娘のブンガクには興味がなかった。そう言える齢になっていた。
出久根達郎が激辛の評をしている。
無味乾燥で文が死んでいると。

「刺青入浴事件」「新幹線こども事件」に、よく人柄が出ている。
世界各国で翻訳されている高名なブンガクらしいが、どの程度の人間かはこれでわかる。



背よりも高い籔の中をすり傷だらけで迷走する左右が見えない時季でも感じるものはある。
それが正しかったのだと後々確認できることは、もう間に合わない遅さだったとしても、やはりうれしい。


僕と同じ気持ちの人達はたくさんいると思う。
その人達の吉本さんに影響された仕事は、今の日本の表現状況に於いて決定的な存在感を持っていると思う。
きっとこれからも何かを作る度に、吉本さんはどう思うのだろうと僕は考え続けるのだと思う。


「決定的な存在感」は、持っていない「と思う」(笑)。
還暦を過ぎた男が87歳の人間の死に捧げる文ならもうすこしまともなものを書いて欲しい「と思う」。
こんなんじゃ大好きなツェッペリンに嗤われるぞ、「と思う」。

吉本隆明がいなければロッキング・オンも、ロッキング・オン・ジャパンも、ロック・イン・ジャパンもなかったと考えると、この巨大な思想家の存在がどんなものか感じてもらえるのではないだろか。

なんか自分のことを勘違いしているのでは「ないだろか」。
この駄文は、「ぼくがこんな凄いことができたのは吉本さんがいたお蔭」と、故人を偲ぶ形で自分自慢をしているわけだが、凄いことをしたと思っていないひとからすると、ただの勘違いしたバカの自慢話でしかない。まことに醜悪。

立川談志の死──立川談志カール・ゴッチ論──北朝鮮拉致被害者に対する暴言の記録

立川談志が亡くなったらしい。大相撲を見ているとき、中断の5時のニュースで知った。これからしばらくマスコミは追悼と絶賛が続くだろう。明日のワイドショーなどは一色か。
私の談志(と亡くなった日だからこそ呼び捨てが優れた芸人に対する敬意ですよね)に関する想いは、ホームページに今までたっぷりと書いてきたので、ここでは省く。興味のあるかたはここに書いてあるので読んでください。

ひとことで言うと、私は立川談志という落語家を礼讃はしていない。志ん生はもちろん志ん朝とも比ぶべくもない。でも「落語評論家」としては日本一だと思っている。談志ほど落語を真剣に考え理論化したひとはいない。彼の落語CDはぜんぶもっているが「五大落語家論」がいちばん好きだ。

落語よりも百倍詳しいプロレスで例えると、私の感覚では、立川談志はカール・ゴッチになる。この比喩に新日ファンの落語好きは大喜びするのか。プロレスの神様カール・ゴッチの狄斥有瓩世函まああれはゴッチぐらいしか招聘できない猪木が無理矢理作った大嘘だが。

ミスター・プロレスはルー・テーズである。最高に強くてかっこよく、適度に弱い奴にもブックなら負けてやり、逆らってくる生意気な奴はバックドロップで泡を吹かせる。何でもできる真の最強レスラーでありチャンピオンだ。すなわち志ん生である。談志は志ん生のようなチャンピオンになれず、不器用な「ほんとなら俺が一番強い」とふて腐れているゴッチである。

志ん生に対する憧れ、志ん朝に対するコンプレックスにも、それがよく現れている。王様と王子さまに対する平民の悔しさだ。

高座で寝てしまい、客が「そのままにしといてやろうよ」と寝てるのを見守ってもらえた志ん生。
自分の落語の時に寝た客を寄席からつまみだし、裁判ざたになった談志。

談志というひとの落語、生きざま、主張、すべてカール・ゴッチのように思える。上記、「自分の落語の時に寝た客と裁判沙汰」なんてのは、WWWFのチャンプだった“ネイチュアボーイ”バディ・ロジャースを控え室で殴ったゴッチに通じる。ゴッチを神様にしている日本人は「実力のない人気だけの奴に焼きを入れた」という「ちょっといい話」にしているが、こんなのは売れない芸人が人気者に嫉妬しただけの暴力事件だ。当時ニューヨークで活躍していた馬場は、ロジャースがいかに華やかでスターとしてのオーラをもっていたかを証言している。ゴッチを慕う弟子も前田日明とか、そのへんの流れも談志とよく似ている。談志も前田も「生涯欲求不満」ということで共通する。

談志が死んで、その感覚を最もよく引き継いでいる芸人は太田光か。ふたりは仲がよかった。顔も所作もよく似ている。太田は談志を尊敬し、談志は大田をかわいがっていた。談志は「爆笑問題の片方は俺の隠し子」という冗談を好んだ。私はふたりとも大嫌いだ(笑)。大田の憲法9条に関する発言を読んだりすると吐き気がする。



落語家・立川談志が生前、「北朝鮮拉致被害者」に対してどのような意見を吐いていたか。以下にまとめて書いた。2002年11月のものだ。

これからしばらくはマスコミでは「立川談志さん哀悼と絶讃」が続く。
それとは別に、こういう発言をしていた、この程度の人間であることも、よく確認して欲しい。

北朝鮮被害者に関する立川談志のとんでも発言──2002年11月

これが載ったのは談志のサイトだった。今はもう削除されてしまい目にすることは出来ないが、これが立川談志というひとの基本である。落語以外ではこの程度の男である。
これも抗議されたから削除しただけで、もちろん謝罪なんてしていない。あまりにお粗末だ。どんなに落語が巧かろうとまともな人間とは思えない。こども時代から50年ぐらい見ているが、むかしから粋がって発言するたび、こんな的外れなのばかりだった。しみじみたいしたもんじゃないと思う。談志を崇拝している人間でまともなのにあったことがない。ついでにカール・ゴッチ崇拝者のプロレスファンもろくなもんじゃない。

明日からスポーツ紙、芸能記事、テレビのワイドショー、みな「立川談志師匠追悼一色」になるだろう。私は「立川談志的ひねくれ者」として、彼のこの「とんでも発言」を強く主張してゆきたい。

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附記 11/24──ワイドショーふたつ──みのもんたとミヤネ屋

私の生活は午後9時就寝、午前3時起床。3時からPCに向かっていて、時計を見たらちょうど5時半だった。みのもんたの番組が始まるなと点けてみた。11月6日にテレビのある生活に復帰してから初めてだ。ちょうど5時半に時計に目がいったのもなにかの縁だろう。以前はよくこんな形で5時半から30分ぐらいこの番組を見ていた。ひといきつきたくなる時間なのだ。3時間のロングワイドショーだが、1時間を3回繰り返すだけなので、すこし見れば全体が見える。「8時またぎ」と銘打って7時40分ぐらいから8時20分ぐらいまでやる大ネタ(これはうまい手法だ。8時から始まる他局のモーニングショーへチャンネルを替えさせない作戦)は、ゲストに興味があったらその時間にまた点ければいい。

案の定オープニングはみのの談志との想い出話だった。昼間から酒を勧められ、「イヤ、時間が」と言ったら、「あんたは時間で酒を飲む飲まないを決めるの? 時間と酒は関係ないだろ」と絡まれた話。私も24時間飲みたいときに飲むので談志の意見はよくわかる。ひとさまが起きだして朝飯食って出勤するような時間に風呂に入って酒を飲むのは楽しい。もちろん生番組が控えていて飲めなかったみのの気持ちもわかるけど。

みのの想い出話自体はおもしろいのでまだ見たい気もあったが、この種の番組ではよくあるように、談志のだの字も知らないような(いや、ようなじゃなくてほんとに知らないな)若い女子アナが、いかにも悲しくてならないという感じの殊勝な顔で打つ「ほんとに」「ええ」「すごいかたでしたよね」なんて相槌が煩わしくて消した。なにが「すごいかたでした」だ。演目ひとつ聞いたことがないくせに。
見たのは5分ぐらいだったか。私は談志崇拝者ではないけれど、長年見てきた落語家として彼の死を悼んでいる。そんな私にはこういう女子アナは不愉快で見ていられなかった。こういう浅い演技が視聴者を不快にすることに気づかないのだろうか。というか、視聴者のほとんども同じようなものか。



午後、こたつをセットした。そろそろやらないとと懸案だった。まだ火はいれないけど、とりあえずの冬支度。いい天気で、秋の陽光が差し込む私の部屋は温室のよう。ホットカーペットを敷くのに掃除機を掛けたりしたら汗ビッショリになった。ティーシャツ一枚になる。ほんとにこの部屋は暖かい。夏は地獄だが。

そのとき、ちょうどまた偶然に午後2時ぴったりだったのでミヤネ屋をつけると、木久蔵が談志を語っていた。ミヤネ屋を見るのも7月24日以降初めて。
これは1分ぐらい見て、すぐに消した。談志や木久蔵の好き嫌いとは関係なく、この種の訃報に関するワンパターンはつまらない。「××にいるときに、△△さんから電話があって、それで知りました。おどろいて、ウンヌン」。

きついことを書いたので、ここに来て気分を害した談志ファンもいるだろうが、私は彼のCD全集もぜんぶもっているし、著書も、弟子たちの書いたものも含めて99%読んでいる。談志が企画立案し、自身で司会をしていた『笑点』も初回から見ている。後に不仲になり縁を切るので談志は『笑点』をボロクソに言うようになる。スタンダップコメディアンとして語っていた談志も見ている。距離をおいた50年だが、ここ何年かで談志のファンになり、弟子でもないのに談志を「家元」なんて呼んでいる半端な談志ファンよりはよほど談志を見てきた自信はある。

ただし肝腎の寄席は、彼が「立川流で独立してから」は見ていないので、そこのところは弱い。立川流で独立してからは、生の高座には接していない。寄席で見ていたのはその前になる。
彼の弟子筋もCDでは聞いているし著書も呼んでいるが高座は見ていない。そもそも私はプラチナペーパーとか呼ばれるものには一切近寄らないから当然だ。落語なんて予約までして見にゆくものではない。気が向いた時ふらっと寄るのが寄席だ。上野鈴本や新宿末廣にもそんな気分ででかける。

今日はこれから晩酌の時、私なりに談志の噺を聞いて追悼しよう。DVDも6枚ほどもっているから、それを見るのが筋なのだろうが、私は彼のしゃがれ声の音曲は好きではないし、「演芸評論家としては日本一」と書いたことからも、CDの「立川談志のゆめの寄席」を聞こうと思う。

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これはいわゆる「わたしの選んだおもしろい落語 立川談志編」で、談志が自分の好きな先輩落語家の噺を紹介するものだ。談志は解説と進行を兼ねてしゃべっている。登場はほんのすこしだが、落語への愛情が感じられてすばらしい。本来なら談志の「芝浜」「文七元結」「らくだ」のような大ネタで偲ぶべきなのだろうが、わたしなりにこれにした。
それと一番好きな「五大落語家論」はやはり聞こう。志ん生や文楽への愛情があふれていて、何度聞いても楽しい。

談志が選挙に出た時、選挙カーで文楽の家の前を通りかかり、「黒門町の師匠、談志です。よろしくお願いします」と選挙カーからやったら、二階の窓を開けて文楽が顔を出し、「ようがす」と言ったって話はいつ聞いてもいい(笑)。

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【附記.2】 11/25──東スポの「談志に隠し子騒動」

金曜土曜だけ東スポを買う。競馬の馬柱を見るために。
11月25日の夕方。金曜版の一面に「談志に隠し子騒動!」。
あれだけのひとだからいて当然だ。
と興味津々で読んだら、なんと上に書いた爆笑問題の太田光のこと。
あいかわらずの東スポだ。他にネタはなかったのか。

竹脇無我さんの訃報に附記──竹脇さんからもらった服

【附記】10/10──竹脇さんからもらった服

私は竹脇さんから服を二着もらっている。外国で買ったという防寒着とバーバリのコートだ。もう20年もまえのものだけどいまも大切にしている。新品ではない。竹脇さんのおさがり。ともに高級品である。

防寒着はボタンが取れてしまったのと、私がすこし太ったのできつい。竹脇さんが私にくれたのも、竹脇さんが太ってきつくなったからだろう。
でもボタン以前にこれは外が皮、内がボアのすごいやつで、寒冷地で着るものだ。日本でこれを着て電車に乗ったりしたら大汗をかいてしまう。それでいまは上掛けにしている。冬場、こたつでTVを見ていて、ちょっと寒いようなときに上半身に掛けたりする。そのまま眠ってしまっても問題ないほど温かい。

バーバリのコートも高級品。私はめったにスーツを着ないので(もう何年も着ていない)、それに合わせるコートも着る機会がすくなく、いまも新品同様だ。これからも大切にしよう。私にとっては竹脇さんの遺品になる。

あ、思い出した。外国からのお土産でFilaのポロシャツをもらったこともあった。でもこれは私はポロシャツを着ないし、水色のあまり好きなものではなかったし(すみません)、竹脇さんが着たものでもないから大事にせず、いつしか処分してしまった。免税店で多くの関係者へのおみやげとしてどんとまとめて買ったのだろうけど、それでもよくまあ私なんかもメンツにいれてくれたものだ。ぶっきらぼうだけどやさしいひとだった。当時を思い出すと涙が出た。元気になられてから会いにゆき、もらった服をいまでも大切にしていると伝えたかった。

訃報・北杜夫さん──三島由紀夫「暁の寺」-ワット・アルン-ニール・ヤング「ハーベスト」

「どくとるマンボウ」北杜夫さんが死去

「楡家の人びと」などの純文学のほか、ユーモアあふれる「どくとるマンボウ」シリーズでも人気を集めた作家で日本芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、本名斎藤宗吉=さいとう・そうきち)さんが24日午前6時2分、腸閉塞のため東京都内の病院で死去した。84歳。東京都出身。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻斎藤喜美子(きみこ)さん。(後略)http://www.sanspo.com/shakai/news/111026/sha1110260853013-n1.htm


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nire


「楡家の人びと」や「白きたおやかな峰」は箱入り本で買った。あのころ、日吉の帰りに東横線白楽駅前の「楡」って喫茶店に通っていた。一階が同じ名前のバー。二階が喫茶店。音楽サークルの友人が喫茶店でバイトしていた。住んでいたのは武蔵小山で逆方向だったから白楽で酔っ払って終電に間に合わず帰れなくなったりした。

マンボウシリーズも読んだ。でも正直に言うが、私は北さんの「ユーモア」シリーズで笑ったことはない。それはきっと私が下品だから上品なユーモアには反応しないのだろう。

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上記引用文は《「どくとるマンボウ」シリーズは「昆虫記」「青春記」などが続き、作家遠藤周作さんの「狐狸庵」とともに「マンボウ」の愛称は多くの読者に親しまれた。》と続く。遠藤周作の狐狸庵シリーズも熱心に読んだ。「狐狸庵閑話」とか。言わずもがなですが「こりゃあかんわ」という遊びですね。でも遠藤さんのユーモアにも笑った覚えはない。私の神は筒井康隆だった。星新一とか小松左京とか広瀬正とかSFも読んだなあ。



pipe


作曲家・團伊玖磨のエッセイ「パイプのけむり」シリーズもこのころだ。「続・パイプのけむり」、「続々・パイプのけむり」のように続くので、このあとはどうなるんだろうと心配したら、「また・パイプのけむり」、「またまた・パイプのけむり」と続いて笑ったものだった。最後の作品は「さよならパイプのけむり」だった。
上掲の写真が他の本の写真と比べてワイドだが、これはこういう横幅のある豪華装丁だった。

ところでATOKは「だんいくま」を変換できない。「段位熊」だと。呆れた。ひどすぎる。「もーにんぐむすめ」と打つと「モーニング娘。」と最後の句点まで出るのを自慢している有料IMEだけど、なんか方向性がちがっている。それでももう二十年以上使っているし離れられないのだけど、なんかこういう例にぶつかるたびにカチンと来る。名のある落語家とか力士も変換できない。その代わりぽっと出のアイドルの名には熱心だ。

IMEをGoogle日本語入力に切り替えると一発で「團伊玖磨」が出た。ありがたい。こちらはダウンロードして使える無料IMEだ。辞書をGoogle検索で使われる用語から自動で作っているから、この変換ができるということはまだインターネット上で團伊玖磨さんのことを書いたり調べたりするひとがいるってことだ。
無料のこれに対して8000円の価値をATOKは保ち続けられるのだろうか。



団さんの名前で思うのは、加山雄三の作曲家の筆名「弾厚作」が尊敬している團伊玖磨と山田耕筰から取られたことだ。もっとも今じゃ加山雄三の作曲家名・弾厚作を知らないひとも多いだろうけど。私は中学生の時に憧れた馴染みのある名前になる。由来もそのころに知った。でも田舎の中学生だったそのときは團伊玖磨を童謡の「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」の作曲家としか知らず、山田耕筰も「赤トンボ」「待ちぼうけ」で覚えていたから、加山雄三は童謡の作曲をしたいのかと思った。一応器楽クラブでホルンを吹いていたのだけど、その辺は無智だった。

shimakosaku


弘兼憲史のマンガ「課長島耕作」の「島耕作」は加山ファンであった弘兼が「弾厚作」からとったものだ。加山と対談した時の弘兼さんは一ファンにもどっていてうれしそうだった。時代とはそんなものである。



学生の頃によく読んだ北杜夫、遠藤周作、團伊玖磨のことを書きながら、さて音楽はなにを流そうかと考える。あのころ、これらの本を読みつつ、ラジカセからいつも音楽を流していた。ここはぜひ時代を映す音楽が欲しい。

デュアルディスプレイの片方にはいま将棋竜王戦のネット中継が流れている。二日目の午後、いよいよ終盤の盛り上がりだ。ここは熟考が続くからすぐには動かない。指し手があると駒音で教えてくれるから見逃すこともない。

あのころ、私はなにを聞いていたのだろう。日本だと吉田拓郎とか、岡林信康(はっぴぃえんどがバックについていたころ)か。加藤和彦がサディスティック・ミカ・バンドをやったのはすこし後か。バンド名からしてプラスティック・オノ・バンドを真似ていて、曲も盗作ばかりで好きではなかったが。でもあそこにはまだ若い高中正義がいたんだな。

日本語の歌は文章を書くのにはじゃまだからBGMには適さない。だから洋楽だ。できれば歌のないものがいいがJazzがわかるようになるのはもっとずっと後。
サイモンとガーファンクルを最も熱心に聴いていたのは高校生時代だし、このころとはちがう。なんだろう、ボブ・ディランに凝るのはもうすこし後になる。グランド・ファンク・レイルロードが来日して雨中の後楽園コンサート。渋谷道玄坂のロック喫茶「ブラックホーク」でCSNを聴いていた。クラシック喫茶の「ライオン」にも通ったけど。宮益坂のフォーク喫茶「青い森」でRCサクセションや古井戸、泉谷が歌っていた頃。遊ぶ街はいつも渋谷だった。

悩んだ末、ニール・ヤングにした。「ハーベスト」が大ヒットした頃だ。



shiroki


以下の「白きたおやかな峰」のタイトルに関する三島の意見と、三島の「あぷおぷ屋」の話はホームページに書いていることなので繰り返しになるが、北さんの訃報を聞いた日なので記念にもういちど書くことにする。

三島由紀夫と北杜夫は親しかったらしい。三島が1925年(大正14年)生まれ、北が1927年(昭和2年)生まれだから2歳ちがいか。團伊玖磨が1924年(大正13年)生まれ、遠藤周作が1923年(大正12年)生まれだからみな近い。遠藤さんは三島より年上だったのか。忘れていた。みな鬼籍に入ってしまった。
北さんが84歳で亡くなったのだから三島は生きていたらまだ86歳なんだな。父が92歳まで惚けることもなく聡明なままの長寿だったので私には「まだ」になる。

三島は友人の北杜夫の新作「白きたおやかな峰」をいい作品だと誉めた後、でも題はおかしいと言った。文語の「白き」と口語の「たおやかな」が混じっている。文語で「白きたおやかなる峰」にするか、口語で「白いたおやかな峰」にすべしと。
じつに、お恥ずかしい話、私はこれらの作品の中身をすっかり忘れていて、最も心に残っているのは三島のこの意見なのである。このことはかなり引きずっていて、口語の文章なのにいきなり「熱き心で」なんて出てくると引っかかってしまう。ゴルフマンガ「風の大地」を読んでいても、やたら出てくる文語に辟易する。文語が嫌いという意味ではなく、ごちゃまぜで文語を使うかっこつけに反感を覚えるのだ。その割りには長年愛読している(笑)。あれ、21年も続いているけど中身はまだ2年半ぐらいなんだよね。時の流れの遅いこと。



harvest


いま「Alabama」が流れてきた。ニール・ヤングのアルバムはぜんぶ持っているのでiTunesからシャッフルで適当に流していた。あまり馴染みのない曲もある。それまでなんてことなかったのにこの歌で反応するというのは、それだけ思い込みがあるということか。彼の作品でいちばんよく聴いたのは「ハート・オブ・ゴールド」や「オールドマン」の入っている「ハーベスト」ってことなのだろう。



akatsuki


三島が「豊饒の海」第三部として、バンコクを舞台にして書いた「暁の寺(タイ語ではワット・アルン)」が出たのが1970年(昭和45年)。当然この前に三島はバンコクにロケハンに行っている。1968年ぐらいか。これは先日映画の感想を書いた「ノルウェイの森」の舞台の年だ。
そのロケハンのことを書いた文章に「あぷおぷ屋」が出てくる。お供の連中と一緒に遊びに行ったらしい。初めて読んだ時はおどろいた。

いま手元に本がないので三島の正確な言いかたはわからない。あーぷおぷ屋だったか。
三島と伴をした編集者が行った「あぷおぷ屋」とはソープランドのことである。日本のトルコ風呂を真似したと言われている。タイ語は動詞を並べて名詞にする。あぷおぷ屋とは正しくは「アっプ・オっプ・ヌアッ(ド)」。動詞の意味は順に「浴びる」「蒸す」「揉む」になる。「マッサージ附きの蒸し風呂屋」という意味。日本のトルコ風呂も、表面上はそういうことになっていて、室内には形式的にだが簡易蒸し風呂器が置いてあったとか。残念ながらその体験はない。写真で見たことはあるが。

タイ語を知らない三島と編集者は、なんだか変な名前のその遊興施設をとりあえず「あぷおぷ屋」と自分流で呼ぶことにしたのだろう。三島は結婚してこどももいるけれど、このころは男色と言われている。こんなところに行ったのだろうか。

いいなあ、1968年のバンコクか。行きたいなあ。読んだときのおどろきとは「うらやましい」だ。タイは行けば行くほど「むかし」を知りたくなる不思議な国だ。

この「あぷおぷ屋」の話は、検索しても私しか出てこない。とても興味深いことだと思うのだけど、三島の古い話とタイ語の絡みだから、世間的にはそんなに興味はないのか。

宮本輝のデビュウ前の習作はバンコクを舞台にしたものだったそうだ。かなり初期のエッセイでそう書いていた。後にそれを仕上げて「愉楽の園」として出版する。あれに三島の「暁の寺」の影響はあったのだろうか。まあ宮本さんは熱心な創価学会信者だから、そっちからの仏教アプローチだったのか。つまらない作品だった。バンコクが舞台ということから期待していただけに失望もおおきかった。本の画像をいれようかと思ったけど貶している作品をいれてもかえって失礼だから自重。



watalen


私が、バンコクのワット・アルンで三島の「暁の寺」を読むという、ベタだけど三島ファンのタイ好きなら誰もが一度は考えるようなことを実行したのは1991年だった。つい昨日のことのようだけど、このとき生まれた赤ん坊は今年成人なのか。階段が怖いほど急なところだった。それはWikipediaのこの写真でよくわかる。なおタイ語の語順は名詞があとになるので「ワット・アルン」は「寺・暁」だ。

お笑い芸人がみなバンコクに遊びに行く。ロンブーの淳や雨上がり宮迫を案内するのはタイ語の話せるペナルティのワッキーだとか。彼らが何をしにどこに行くか、なぜワッキーはタイ語を話せるようになったのか、手に取るようにわかってくすぐったい。

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北さんの訃報を聞いて、当時のことをあれこれ思い出した。
斎藤茂吉の息子ということで注目されるのを嫌い、斎藤姓を名乗らなかったのはかっこいい。私淑している高島俊男先生なんて歴代の日本の文学者から誰か選べと言われたら迷わず斎藤茂吉をあげるぐらい大絶賛している偉大な文学者だ。高名な父の存在は息子には相当重かったのだろう。本名・斎藤宗吉だから、誰だって茂吉の息子だとわかる。

私は北さんの熱心な読者ではなかったけれど、北さんの全盛期の一読者ではあった。先日亡くなった小松左京さんのときにも思ったが、彼らが第一線にいるころが自分の青春時代だった。ほんとによく読んだ。だけど何も覚えていないってのは……。

「青春」に関していちばん心に残っているのは、五木寛之さんの言った「青春ということばを平然と使えるようになったときにはそのひとの青春は終っている」というもので、たしかにあのころ、恥ずかしてく青春なんて言ったことがない。言うとしたらギャグとしてだった。
ご冥福をお祈りします。

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というところでインターネット生中継の竜王戦第二局決着。渡辺二連勝。強い!

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【附記】10/27──三島だけ呼び捨て

今日、誤字がないかネット上のファイルを読みなおした。修正できるブログ内の文章として読んでいて気づかない誤字も、他者としてネット上のものを読むとあらたに発見することがある。それで、おもしろいことに気づいた。

最初は北杜夫、遠藤周作と呼び捨てで書くが、そのあとは「北さんは」「遠藤さんは」と「さんづけ」になっている。でもなぜか「三島」だけは三島由紀夫で登場したあとも「三島」と呼び捨てなのだ。ひとりだけ。

「誰からも呼び捨てされるようになって偉人」という言いかたがある。
猪木や馬場が、いつしか「猪木さん」「馬場さん」と呼ばれるようになったとき、私はかなしかった。
王、長島も同じく。

私はいまも偉大なひとたちに呼び捨て主義を貫いている。
まあ個人的に会った時の話では「馬場さん」としたが。

三島を「三島さん」としたことはただのいちどもない。不思議だ。

生きていた江沢民!──上海派の権勢は続く

 江沢民が生きていた。おどろいた。知ったのは10月9日。それで以下のようなツイートをした。

kotakumin


 どんなに大嫌いな奴でも生きているのを死んだと書いたのでは訂正せねばならない。
 私がそれを書いたのは、調べてみると7月7日だった。その文章はこれ
江沢民死去のことを書いている内に、江沢民派であり次の主席が確実な習近平の来日時に天皇陛下への閲見を無理矢理実現させた小沢一郎への怒りの方へと脱線し、果ては朝鮮人醜男顔がどうのこうのと書いている。

 江沢民死去の報を知ったのは愛読している宮崎正弘さんのメルマガでだった。ブログにも宮崎さんの文章を引用させてもらった。最初に報じたのは香港のメディアらしい。宮崎さんのメルマガもそこから引いている。速かった。
 すぐにMSN産経の速報が出た。これで確定と思う。
 が、すぐに新華社通信が否定し、それを読売が伝える。

 しかしこういう場合、通例からしてまず100%死んでいる。整理のための時間稼ぎだ。間を置いて正式発表される。
 ところがその後も正式発表はなく、それどころか3ヵ月後に自分の足で歩き、あの顔が記念式典に登場したのだからおどろいた。

kotakumin2

 7月に危篤が伝えられた中国の江沢民前国家主席(85)が9日、元気そうな姿を現した。北京の人民大会堂の中国の辛亥革命100年を記念する式典に、手を振りながら自ら歩いて壇上に登場。付き添いの助けを借りながらも、胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席の隣に座り、健在を示した。

 江氏は7月1日の中国共産党創立90周年の式典を欠席した際は死亡説も飛び交った。中国国営新華社通信は「全くの流言にすぎない」と否定したが、複数の中国筋や外交筋は危篤に陥ったとしていた。(asahi.comより)


 アサヒシンブンは大嫌いなのでこの種の引用でも一切利用しないのだが江沢民のことだからどうでもいい。検索したら最初に出て来たので引いた。時間は「10月10日0時9分」となっている。9日にまだ生きていたと私は何で知ったのだろう。知ってすぐにツイートしたのだが。



 アサヒシンブンと言えば、もう7.8年前の話だが。
 中共の田舎町にインターネットゲーム屋があった。若者がネットゲームを夢中でやっている。もしかして普通のネット閲覧も出来るのかと問うてみたら、1時間10元のゲーム料金で可能という。ネットに餓えていたときだったので喜びいさんで申しこんだ。
 でもキイボードが支那語のピンイン用なので使えない。なにも出来ない。どうしようもない。苦しまぎれにasahiと打ちこんだら、なんと一発でアサヒシンブンのサイトに繋がった。むさぼるようにここ1ヵ月のニュースを読んだ。日本語が読めることだけでうれしかった。
 支那に隷属しているアサヒシンブンだけに支那の検索エンジンも「ういやつよ」とトップにしているらしい。



 前回も引用させてもらったので今回も宮崎さんのメルマガ文章を引かせて頂く。江沢民がまだ健在ということから上海派が蠢くという濃い内容なので半端引用はかえって失礼と思い全文引用させて頂く。宮崎さん、ご容赦を。

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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
     平成23(2011)年10月10日(月曜日)弐
         通巻第3446号
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 江沢民は生きていた! 驚き桃の木、影武者の可能性も薄い
  孫文辛亥革命百周年の記念式典によたよたと登場し、胡錦涛の隣席

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 最初は香港情報だった。7月6日の香港メディアは江沢民が死去したという「信頼すべき情報源」。二日後、そのメディアは訂正し謝罪した。産経新聞はのせられて号外まで出した。生命維持装置をつけて入院していたが、奇跡の回復ぶり。上海で緊急入院後、北京301医院で療養していた。

 10月9日、北京人民大会堂で開催された孫文辛亥革命百周年の記念式典によたよたと登場し、胡錦涛の隣席にどかっと座った。
会場からは「おおっ」と驚きの声があがった。
何の肩書きかははっきりしないが、存在を見せつけるという中国伝来の「官場政治」の典型である。つまり京劇で言うクライマックス。
 式典には政治局常務委員九名全員が出席した。

 これで権力闘争はまたまたややこしくなる。
 「様々な憶測を呼ぶ」とヘラルドトリビューンも一面トップで報じた(10日付け)。とくに同紙は次のように言う。
 「重慶モデル」を成功させたとして騒がれる薄き来(重慶市書記)の次期常務委員に入りがあるか、どうか。彼は意図的に毛沢東復活を主唱し、社会主義市場を叫ぶので、多くから嫌われている。
胡錦涛は、広東省書記の王洋を取り立てたく、最近も広東を訪問した。胡錦涛がテコ入れをしてきたのである。

 王岐山、張徳江、愈正声らの「政治局常務委員」入りも、江沢民の登壇、上海派の派手派手しい復活により、微妙となった。

 二月の鉄道部長の更迭は江沢民が不在だったから、団派が上海派を追い詰め、次期総書記といわれる習近平の政治力を牽制するためにやってのけた節がある。
 七月の新幹線事故では上海派を集中的に排除できた。

しかし江沢民の影響力がまだ強い軍の強硬路線は収まらず、胡錦涛をあざけるかのように日本海域と領空侵犯を繰り返した。胡錦涛の軍権は、曖昧だった。江沢民派が後ろで操っていた観測もなりたつ。

 政局はまた荒れるだろう。
 しかし、いったい日本のインテリジェンス! ハッカー攻撃に無力であると同様に、情報収集さえ、我が国にはなきに等しい実態が改めて浮き彫りとなった。

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 産經新聞が号外まで出していたのは知らなかった。多くの人が「トップから引退した江沢民の死は号外をだすほどのものか!?」と思うだろう。だが支那の権力を巡る「上海派」という見地からはそれだけの政治的重みがあった。結果的に誤報だったわけだが。

 宮崎さんのメルマガを冒頭だけの引用のつもりだったのに全文引いたのは下線部分を読んで欲しかったからだ。日本に対する軍事強硬路線を推進しているのは江沢民率いる上海派であり、次の支那のトップはその上海派の習近平だということ。そしてその習近平と最も近しい日本人?政治家は小沢一郎なのである。

竹脇無我さんの訃報に後日記

「竹脇無我さんの訃報」に後日記を足しました。最後尾です。
週刊誌に近年の竹脇さんの「講演の様子」が載っていました。その内容に感じたものがあったので記しました。
鬱病を患うまでの竹脇さんと、それを克服しての竹脇さんでは、見えていた人生がまったくちがったのだと感じました。
竹脇さんの人生は、「15歳でお父さんを失うまで」「それを引きずりつつ、48歳で鬱病を発症するまで」「闘病期間を経て、それを克服した50代後半から亡くなるまで」のみっつに分かれると思います。
栄誉栄華は20代半ばから48歳までの役者生活にあるわけですが、週刊誌に収録された講演を読んで、晩年に、もうひとつの満ち足りた時間があったのだと感じました。それは15歳までの愉しい子供時代に匹敵するものだったでしょう。人生の悲喜を経験しているだけに、子供時代よりもっと充実したしあわせな時間だったろうとも思います。精神的な充実感は、美男俳優として売れっ子だった時代よりもむしろ晩年のこののんびりした時間の方が大きかったのではないでしょうか。なにしろ心に一点の曇りもなかったのですから。

親の自殺は子に影を落とします。子のために、親は自殺してはならないと、あらためて思いました。

竹脇さんの訃報に附記

「竹脇無我さんの訃報」に「過去の竹脇さんに関する文章」を追記しました。根強いアクセスがあるのは知っていましたが、自分でもどこに書いたかわからなくなっていたので整理できてよかったです。あらためて、竹脇さんのご冥福を心からお祈りします。

竹脇無我さんの訃報──あのころの思い出

15時半、読売新聞の速報で竹脇さんが亡くなったのを知る。
今朝、倒れて運び込まれたと知った時から不安になり、何度もニュースを確かめていた。

《21日午後2時5分、小脳出血のため死去した》とあるから、私が倒れたのを知り、なんとか持ちなおして欲しいと願っていたときにはもう亡くなっていたことになる。もう昨日、亡くなっていたのだ。

FM東京で7年半ほどお仕事をご一緒した。
私が竹脇さんの名前と顔を覚えたのはTBSの朝の番組「ヤング720」だった。関口宏の名前と顔もこのときに覚えた。私は田舎の高校生だった。
関口宏は俳優佐野周二の息子と知っていたが竹脇さんは、さすがに名アナウンサー竹脇昌作は知らないので、なじみがなかった。

中学高校の頃、田舎で「だいこんの花」を見ていたので、初めてスタジオでお会いしたとき、目の前に本物の竹脇さんがいるのが不思議だった。ほんとに美男子だった。声もよかった。でも親しくなってあれこれお話すると、お父さんのことを引きずっていて、どこか淋しげなひとだった。それがまた魅力になっていた。

竹脇さんがナレーターで、私が原稿を書いた。二週間分を一度に録るので月に二回の録音だった。
そのあとはいつも飲みに連れていってもらった。六本木が多かった。おおきなベンツに載せてもらえるのが嬉しかった。
サウナにもよく行った。
カラオケのおはこは「思い出のグリーングラス」だった。声がいいし、うまかった。
当時はカラオケでなく生ピアノの伴奏だったが。



中国で「姿三四郎」が放映されて、大人気だとかで、竹脇さん一行が中国から招待されて出かけたことがあった。私は当時まだ中国に行ったことがなかった。帰国してからの竹脇さんと付き人との中国思い出話がうらやましかった。あのころの私は中国四千年の歴史に憧れていた。何十回も行ったいまはもう大嫌いで、可能な限り行きたくない国だが、当時はそう思っていた。

テレビドラマの「姿三四郎」と言えば、私には小学生の時に見た倉丘伸太郎のものが竹脇さんのよりも印象深い。だいたいこういうものは最初の時が印象に残る。そもそも「姿三四郎」なんてのは必殺技が炸裂する荒唐無稽なこども向けのドラマだ。
いま調べると倉丘版は1964年、竹脇さんのは1970年になる。竹脇さんの姿三四郎の時、私はもう高三から大学だから、いまさら荒唐無稽な柔道ドラマでもなかったのだろう。あまり印象にない。

そのこと(「ぼくは姿三四郎というと倉丘伸太郎ですね」)を言ったとき、竹脇さんにイヤな顔をされた(笑)。そんなことはそれまでもそれ以後もなかったので印象深い。つまり竹脇さんにも「姿三四郎はおれだ」という無我ならぬ強烈な自我があったことになる。



ご自宅におじゃましたこともある。奥様にもお会いした。まだ離婚前だった。
明治座にもゆかせてもらった。楽屋へ入れてもらった。
このとき共演した十朱幸代と不倫して家庭がぎくしゃくする。
京都の太秦撮影所にもおじゃました。それまでにも競馬の取材で京都はたびたび訪れていたが太秦は初めてだった。あれこれ物珍しく楽しい体験だった。京都ホテルに泊まって夜は飲みに出かけた。

でもいちばんの思い出は何度も行ったプロレス観戦か。
竹脇さんは全日派だった。これは人柄とも合っている。大口をたたく猪木ではなく慎重派の馬場ファンだった。
全日の百田義浩さん(力道山の長男)と一緒にアイスホッケーチームをやっていた。録音の後、品川スケートセンターでの練習があり、それを見に行ったことも何度かあった。

(追記・いまターザン山本のブログを読んだら、「竹脇さんだが私の友人によると、全日本プロレスの東京都体育館の控室で今はもう亡くなった力道山の長男、百田義浩さんと親しくしゃべっているシーンを見たというのだ。ええ、竹脇さんもプロレスファンだったのかあ」とあった。あいかわらず雑でいいかげんな書きかただ。私はこういう伝聞ではなく実体験のみ書いている。)

プロレスの思い出で強烈だったのは「デビュウ戦を控えた輪島の控室におじゃましたこと」だ。報道陣もシャットアウトの控室に竹脇さんの顔で入れた。
タイガー・ジェット・シンとのデビュウ戦を控えた輪島を、酒も煙草も女も断って練習に励んでいると東スポは伝えていたが、目の前の輪島は指が焼け焦げるのではないかと思うぐらい短くなった煙草をスッパスッパ喫っていた。緊張していた。横綱にまで登りつめたひとでも、プロレスのデビュウ戦はあんなに緊張するのかと知った。国技館で見る輪島はいつも遙か離れた土俵の上だったから、あれが最も輪島を身近に見た体験になる。同じく控室に入っていた金田正一がなんやら声高にしゃべっていた。

竹脇さんが私の事を馬場さんに紹介してくれて、「このひとはねぇ、ほんとにもうプロレスが大好きなんですよ」と言ったら、ニコっと笑った馬場さんの顔が思い出深い。あれはほんとうにプロレスが好きなファンに向けられたものだ。



竹脇さんが鬱病を患うのはお父さんが自殺したのと同じ49歳のときだったらしい。私がお仕事をご一緒したのは竹脇さんが三十代末から四十代半ばにかけてだから病気の時期は知らない。
お父さんの自殺はいつも引きずっていた。お父さんの自殺を知らされたのは青山学院の高校生のとき。授業中、先生から呼び出されて告げられたとか。
そのときのことをポツンと話してくれたことがある。経験したものにしかわからないと、さびしげな、厳しい横顔だった。

鬱病で苦しみ、それを克服した後は、鬱病のことやお父さんのことも含めて、全国で講演していたとか。六十歳近くになってからか。ふっきれたあとは、欝病に苦しむひとの力になりたいと思ったのだろう。
今回どこかで読んだ記事(スポーツ紙)に「本当は毒舌家なのに二枚目を演じねばならないことからストレスがたまり、欝病を患った」とあったが、それはちがう。穿ちすぎだ。ふだんでも二枚目だった。

欝病の原因はそのまますなおに「自殺した父の年齢にちかづいてゆく恐怖」だろう。肉親を自殺で亡くしたひとはみなこの思いに囚われる。年々「後三年で、後二年で」と意識し、「いよいよ来年はおやじが自殺した年だ。おれはだいじょうぶだろうか。自殺しないだろうか」と強迫観念に囚われる。竹脇さんもいつもそのことを引きずっていた。親が自殺することがいかに後々までこどもの心を傷つけるかと、その残酷さをしみじみ思ったものだ。私の知っている三十代後半の時からそれを意識していたのだから、いよいよ迫ってきたときの苦しみはたいへんなものだったろう。



竹脇さんに講演の依頼が来た。女子大からだ。その初めての講演の原稿は私が書いた。竹脇さんが四十代になってすぐだった。
初めての講演だったので、私の書いたものを手に、いわば読み上げるようなもので、講演にはなっていなかった。女子大は学生に講演の感想レポートを提出させた。竹脇さんがそれのコピーをくれた。元原稿と女子大生達の感想文は今も保管している。
何度かそれをやってから、原稿などなくても出来ると素手で登壇したら、なにもしゃべれず絶句してしまったことがあった。
これは京都のホテルでの講演だった。私も京都まで出かけていた。会場でヒヤヒヤしながら見ていた。それでもう懲り懲りと竹脇さんは講演の依頼は受けなくなった。

そんな人前でしゃべることなど苦手なひとだったのに、鬱病を克服してからは、明るいキャラとなって、父の自殺や、そのことを引きずって鬱になり、死のうと思ったことも冗談交じりにして、たくさんの講演をこなしていたらしい。自分と同じ悩みをもつひとを救いたいという使命感だったのだろう。
「笑っていいとも」のテレフォショッキングに出たのを見たのが最後になった。あれはもう何年前だろう。明るいキャラになっていておどろいた。



実際にお会いした最後は、竹脇さんの付き人の結婚パーティだった。これは竹脇さんと同じく森繁ファミリーだった松山英太郎さんがサプライズで仕掛けたもので、新郎がそれに感動し大泣きしてたいへんだった。松山さんはこのあと急逝する。
森繁さんは、奥さんや息子さん、そして松山さんのようにかわいがっていた後輩にも先立たれている。竹脇さんが森繁さんを見送ったのは救いだ。

森繁さんをじつの父のように慕っていた。でも欝病で苦しんでいたときは、その森繁さんさえ忘れていたと記している。テレビで見て「あれ、このひと、誰だっけ、たしか知っているひとだけど」と思ったのだとか。病の深さが感じとれる。
自殺でないことが救いになる。

今夜は竹脇さんに献杯しよう。

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【附記】 16.23──もう葬儀は済んでいた

いまニッカンスポーツの記事を読み、亡くなったのが昨日21日の午後2時とは知っていたが、すでに今日22日に、密葬の形で葬儀も済んでいたと知る。

【附記.2】16.47──向田さんと同じ命日

今日は向田邦子さんの命日だ。あの台湾の旅客機での死。「だいこんの花」のころはまだ放送作家だった。後に作家に転身してすぐに直木賞を取る。
私は向田さんのファンだったので、竹脇さんによくその話をねだった。
「森繁のおやじのことだから、一回ぐらい手を出したかもしれないな」なんて言って笑ってた。
同じ日に亡くなるなんて……。



【附記.3】──過去の竹脇さんに関する文章──8/23/am:8.30

昨日、午後3時に竹脇さんの死を知り、急いで書いてブログをUPしたのが午後4時だった。
今朝、昨日のアクセス数が私にしては記録的であることを知る。それはアップしたのが早かったからだろうと解釈した。読売新聞の速報で報じられたのが午後3時前だから個人ブログの文章としてはかなり早かった。Googleのライブドアブログへの反応は即座だ。アップしてすぐに検索にあらわれる。だからこの文章「訃報」にアクセスがあったのだと思った。

でも今調べるとそうじゃなく、以前書いたものへのアクセスだった。そして今までにもその文章に長く確実にアクセスがあったことを知る。多くの竹脇さんのファンがお名前から検索して私のブログに来てくれていたのだろう。竹脇さんの根強い人気がうかがえる。「自殺考」のような楽しいテーマでなかったことを申し訳なく思うけれど。
でも上にも書いたけれど、「本当は毒舌家なのに、それとは反する二枚目を演じることがストレスとなり」という解釈は嘘だともういちど強調したい。ふつうに二枚目だった。竹脇さんを苦しめたのはお父さんの影だ。

せっかく多くのかたがアクセスしてくれるのに、竹脇さんのことを書いた文章がどこにあるのか自分でもわからなくなっていた。日附も。
それで「木屑鈔 竹脇」でGoogle検索し、以下にまとめた。やっていることが逆になっている。でもそれが出来るのだから便利な時代だ。
2年前、「自殺考」の最初で取りあげた前原さんがいま、総理大臣になろうとしている。

自殺考・前原さんの表情──2009/11/2

自殺考2・竹脇無我さんのこと──2009/11/19

竹脇さんとプロレス──2011/6/17


これらの文章を読み返してみたら、私が竹脇さんと番組をご一緒した期間が、7年、7年半、8年とバラバラなのに気づいた。なにしろ昭和末期から平成始めのころだからもう古い。たぶん7年と10カ月ぐらいが正解だと思う。8年目を前にして突然の打ちきりとなり、竹脇さんも私も憤然としたのを覚えている。もっともっと長寿番組にする気でいたから。

私はいまテレビがない。見られないし見る気もないのだが、今日は特別と先程携帯電話のワンセグでテレ朝のワイドショーを見た。同居していた女性が声だけで登場し、もうお酒も飲まず、定期検診も受けていて、とても健康体だったと語っていた。脳梗塞による突然死だったようだ。せっかく長年の欝病との闘いから復活したのに、67歳は早すぎた。でも苦しまなかったのはよかった。脳梗塞で眠るようにスッと行くのはわるい逝きかたではない。むしろ不随になってリハビリで苦しむ方がたいへんだ。

若いときの映像を見ると惚れ惚れするような美男子だ。今時のジャニーズ系とかがいかに貧相であるかがよくわかる。
昨夜は独酌で献盃をしたので今日は頭が重い。ご冥福をお祈りします。森繁先生とおいしいお酒を飲んでください。

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【後日記】──同居していた女性は恋人なのだろうと解釈し、最初に書いたとき、「同居している女性」のあとに(恋人)と入れた。が、テレビで「親戚の女性」と報じていたので、勘違いを恥じて急いで削除した。しかし後に近所のひとに「女房です」と紹介していたこと、「(自分には)娘がいるので入籍はしないけど」と言っていたことを知る。四十代のひとらしい。テレ朝の伝えた「親戚の女性」って誤報は何だったのだろう。「娘のことを思って」は、竹脇さんの長女は40になるから、娘と年の近いひととは再婚しないということなのだろう。

竹脇さんが倒れたのは、この女性と同居していた大田区の家だった。私がおじゃましたことがあるのは世田谷の豪邸だ。そこは離婚した奥さんに渡し、大田区にちいさな一軒家を購入して、そこでしずかに暮らしていたとか。
すっかり健康体になった竹脇さんが脳梗塞で倒れて、ふつうなら復帰できる程度のものなのに、そのままあっけなく逝ってしまったのは、糖尿病による血管の脆さが原因らしい。糖尿病は怖い病気だ。全身をおかす。これからますます怖い病気として注目されるだろう。



【後日記.2】──週刊誌に竹脇さんの講演の録再が載っていた。父の自殺や自分の欝病体験とともに、離婚にいたる女関係も赤裸々に語って笑いを取っていた。テーマはただひとつ「死んではいけない、生きていればなんとでもなる」である。

そこに「一時は女房以外の女と三人もつきあっていた。周囲にはもっと多くの女とつきあって、うまくやっているひともいる。だから自分もやれると思っていた。でもそうじゃなかった。それが苦痛になっていった。自分は女房ひとりでよかったんだ」というようなことを語っている部分がある。

その通りだと思う。でもこれは以前なら絶対に出てこないことばだった。欝病を乗りこえてからの竹脇さんは、あたらしい人生を掴んでいたんだなと感じた。
金も力もある色男だから女はいくらでも寄ってくる。簡単にそうなることが出来る。しかも相手はひとも羨む美女揃いだ。それは男の本懐である。

だが竹脇さんの本質はそうではなかったように思う。女好きでもないひとが漁色家ぶるように、酒に弱いひとが酒豪ぶるように、そういう「破滅」を願って無理をしていたのだと私は解釈している。女の話をしたことはない。そういう店にも行かなかった。男同士でわいわいやることが好きなひとだった。私もそうだったから楽しかった。ただ十朱幸代とだけは明治座の楽屋に行った時、デキてるのがすぐにわかったけど。

週刊誌では根本りつ子とのことを語っていた(正しくは、語っている講演が収録されていた)が、浮気相手はみなドラマや舞台で共演した連中だ。手ごろに見繕っていただけだ。竹脇さんはちっともスケベじゃなかった。ただ、役者として、そういうことをせねばならない、そういうことをするのが役者だと、自分に無理強いしていた感じがする。
じゃあなぜそんな無理をしたのかと言えば、それもまたお父さんの自殺からだろう。自分は落ち着いた家庭の子煩悩な父親であってはならない、あるはずがない、そんなことをしていても、いつか必ずそんなものは壊れる、壊れのだから護らない、という堂々巡り。どうせ俺もその内、おやじと同じく……。という恐怖がいつもまとわりついていたのだ。

講演で、「複数の女と不倫していたけど、自分はそんなタイプではなかった。女房ひとりで十分だった」と語っていたと知り、あらためてそう思った。
それは父の自殺したのと同じ49歳から鬱病になって苦しみ、それを吹っ切ったあとに初めて見えた青空である。15歳の時からずっとまとわりついていた黒雲が、やっとすっきり消えたのだ。美男俳優として売れっ子になり、高収入を得て、美女と浮名を流しても、いつもその黒雲がつきまとっていた。平穏な日々はなかった。一年一年、父の自殺した49歳に近づいてゆく恐怖。そこから病み、それを吹っ切ったあとの時間は、それまでとは景色が違っていたろう。

晩年は事務所の後輩連中から「無我爺(ムガジー)」と呼ばれて慕われていたと聞いた。
娘さんが最後を看取り喪主を務めているから、離婚したけど父娘関係は良好だったのだろう。
住まいの近所の人とも気さくに話して評判も良かったと報じられている。

せっかく見えた青空との時間がすくなかったのが惜しまれるが、最後の何年間は心から一切の黒雲の消えたいい時間だったろう。
講演を収録してくれた週刊誌に感謝したい。そこには私の知っている影を背負った竹脇さんとはちがう明るい竹脇さんがいた。(8/30)

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【附記】10/10──竹脇さんからもらった服

私は竹脇さんから服を二着もらっている。外国で買ったという防寒着とバーバリのコートだ。もう20年もまえのものだけどいまも大切にしている。新品ではない。竹脇さんのおさがり。だから大事にしている。ともに高級品だ。

防寒着はボタンが取れてしまったのと、私がすこし太ったのできつい。竹脇さんが私にくれたのも、竹脇さんが太ってきつくなったからだろう。
でもボタン以前にこれは外が皮、内がボアのすごいやつで、寒冷地で着るものだ。日本でこれを着て電車に乗ったりしたら大汗をかいてしまう。それでいまは上掛けにしている。冬場、TVを見ていて、ちょっと寒いようなときにお腹に乗せたりする。そのまま眠ってしまっても寒くないほどだ。

バーバリのコートも高級品。私はめったにスーツを着ないので(もう何年も着ていない)、それに合わせるコートも着る機会がすくなく、いまも新品同様だ。これからも大切にしよう。私にとっては竹脇さんの遺品になる。

あ、思い出した。外国からのお土産でFilaのポロシャツをもらったこともあった。でもこれは私はポロシャツを着ないし、水色のあまり好きなものではなかったし(すみません)、竹脇さんが着たものでもないから大事にせず、いつしか処分してしまった。免税店で関係者用のお土産にどんとまとめて買ったのだろうけど、それでもよくまあ私なんかもそのメンバーにいれてくれたものだ。ぶっきらぼうだけどやさしいひとだった。当時を思い出すと涙が出た。鬱病を克服してからの竹脇さんに会いにゆき、もらった服をいまでも大切にしていると伝えたかった。
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