プロレス

訃報・竹内宏介さん──Twist of Jobimの朝

twistofjobim

「Twist of Jobim」を聞いている。Bossa Novaの大御所アントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュート。中心はプロデュースしたリー・リトナー。あ、リー・リトナー、書けるかな、Lee Ritenourのはず。確認。当たっていた。よかった。

今日は雨が上がっていい天気になった。ひとあし早いボサノバ。本格的なのはもっと暑くなってからだが、フュージョン系だと今の季節にも似合う。
エリック・マリエンサルのアルトサックスがいい。ハービー・ハンコックのピアノも、と書いて行くと全員書かねばならない。名人達人ばかり。

こういう場合のTwistはなんて訳せばいいのだろう、うまい日本語はない。意味はわかる。意味が、とても良く解るだけに、これに匹敵する日本語を思いつけないのが歯がゆい。



昨夕、東スポで竹内宏介さんの死を知った。
ものごころついた時からプロレスが大好きだったけど、そういう小学生時代から、中学生、高校生時代、東京に出たので大試合の会場に行けるようになった18歳以降、とあれこれ思いは尽きないが、いちばん熱くて楽しかったのは、田舎の高校生として、創刊されたばかりの「月刊ゴング」と「別冊ゴング」を毎月楽しみにしていた時期のような気がする。

東京の大試合とは無縁だったけど、毎月発売日を指折り数えて待ち、下校時に本屋に駆けつけた時の昂揚は、田園コロシアムでハンセンとアンドレの一騎討ちを見た時や、東京体育館でのハンセンと馬場の初対決を見た時や国技館でローラン・ボックを見た時の興奮に負けない。
毎月、丸ごと一冊暗記するぐらい熱心に読んだ。



「まだ見ぬ強豪」として、マスカラスやスパイロス・アリオンが取りざたされていた時期だ。その仕掛け人が「ゴング」であり、若い編輯長の竹内さんだった。まだ22歳ぐらいだったろう。

先発のベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」に負けまいと、後発の「ゴング」はあれこれ工夫をした。それが楽しかった。「プロレス&ボクシング」は古手だけに、いかにも日プロの幹部と親しい(=御用マガジン)の趣があった。それこそ当時の幹部である芳の里(人名に関して強いGoogle日本語入力もさすがに芳の里は出なかった)や遠藤におもねっていたろう。
竹内さんは「プロレス&ボクシング」出身だが、いくら編集長を経験したとはいえ二十歳そこそこの若さだったから、日プロ幹部から接待されていたとは考えにくい。

創刊間もない「ゴング」は連中から鼻も引っ掛けられない立場だったか。たしかなのは、古手の「プロレス&ボクシング」よりは軽視されたことだ。その代わり、国際プロレスの記事が増えた。そのことでますます日プロには嫌われたろう。とにかくやつらは横暴だった。
その分、竹内さんの若さで、高校生の私のようなのがわくわくする企劃を連発してくれた。そのひとつが前記の「まだ見ぬ強豪」であり、話題になったのが当時ロスで活躍していたマスカラスだった。「ゴング」はマスカラス人気で部数を伸ばしていった。

ここを読んで一緒に竹内さんを偲んでくれるひとはみな「日テレの解説者の竹内さん」ではないか。私の竹内さんへの想いはそれよりも前になる。



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この写真は「ゲンキ・ヤ」というサイトからお借りした。こういう古雑誌の通販をやっているらしい。処分してしまったが、私もこれらをすべてもっていた。本誌の「月刊ゴング」は、ベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」と同じくプロレスとボクシング。写真はその本誌である。そこからプロレス専門誌として創刊されたのが「別冊ゴング」で、私の好きなのはこれだった。

馬場をジャイアントスイングで振りまわしているのはジン・キニスキーだ。
2年前の4月、81歳で亡くなっている。ブログにもサイトにも書かなかったけど、日記には「今日、キニスキーがなくなったと知る」と記して偲んでいる。大好きなレスラーだった。顔から「平家蟹」と呼ばれていた(笑)。。

プロレスとボクシングの二本立てなので、表紙もボクサーとレスラーが半々。しかし「ゴング」は、やがてプロレス中心になってゆく。いや、始まりがプロレスだった。だって竹内さんが中心だったのだから。

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本誌の表紙。ボボ・ブラジル、ドリー・ファンク・ジュニア、フリッツ・フォン・エリック。ボクサーよりもレスラーを大きく扱っている。当時の日本のチャンピオンは馬場だったけど、ブラジルやエリックはあきらかに馬場よりも強かった。猪木は話にならない。プロレスは「約束内の出来事」だけど、そこにもはっきり強さが見えるのが楽しい。ルー・テーズなんて地元の英雄の力道山に負けてやっているのがこども心にも見え見えだった。ブラジルもエリックも、最後は馬場に負けてやるのだが、負け方がへたなので(笑)、力の差が見えてしまっておかしかった。

ドリー・ファンク・ジュニアは、私の最も好きだったひと。大卒で、高校の物理の教師免状をもっているなんてのにも好感をもった。一緒に来日したプロンドのジミー夫人もきれいだった。のちに離婚してしまうけど。
そういう雰囲気は、後に日本のレスラーでも猪木が倍賞美津子と結婚してかもしだすが、当時の日本のプロレスにはないものだった。かっこいいなと憧れた。

NWAチャンプとして、来日してすぐ、猪木と60分フルタイム0-0の引き分け。翌日馬場と1対1のフルタイム引き分け。猪木にはフォールを許さず、馬場には許しているところが馬場猪木の格をあらわしている。馬場がフォールを奪ったのが初公開のランニングネックブリーカードロップだった。
周囲のプロレス好きは、「惜しい、もうすこしだった」「馬場猪木のほうが強い。たいしたことない」と言っていたが、私はアメリカから来日してすぐ、2日連続で60分フルタイムを戦い、それぞれドローで、地元の英雄にそれなりに華を持たせ、すぐにまた離日して、次の地元の英雄との戦いに飛び立つNWAチャンプの底知れないスタミナに驚嘆していた。

このときは父親のシニアがセコンドにつき、ピンチになると騒いだりして、「過保護チャンプ」のような演出もしていた(笑)。なつかしい。



当時のNWAチャンプは禅譲性だった。テーズは自分が老いた時、キニスキーに次を託した。タフガイのキニスキーはしっかりと務めを果たした。キニスキーから禅譲されたのがまだ27歳のドリーだった。一気に若返りを図ったから不安も大きかったが、ドリーは見事にその大役を務める。ここからNWAチャンプは、ブリスコ、テリー、レイスと若い世代のものになった。そして、実力は文句なしだが精神的にチャンプに向いてなかったブリスコとは逆に、連日全米を飛び周り、地元のチャンプと戦って悪役を演じつつ、しかししっかりベルトは守るというハードビジネスに最もふさわしい地位を確立したのがレイスだった。

後にNWAが崩壊するのはプロレス嫌いのブリスコがNWAのプロモート権をマクマホンに売ったからだった。獅子身中の虫になる。インディアンでもありいろいろ屈折しているひとだった。日本人初のNWAチャンプに馬場がなる時の相手でもある。しかしああいう金銭で動く一週間天下(帰国するときには負けてベルトを返す)は読めすぎて白けたものだ。全日ファンとはいえなにもかも認めているわけではない。



国際プロレスが、日本プロレスにいじめられながらもがんばっていたころ。吉原さんの苦労を思うと義憤を覚える。その吉原さんがいちばん信じ、そして吉原さんを己の血を流して守ったのがラッシャー木村だった。木村は興行不振の国プロのために、額をギザギザにして金網マッチを連発した。連日流血だった。

もうかなわないことだけれど、私は、「もしも好きな人にロングインタビューしてもいい」と言われたら、木村さんの話を聞いてみたかった。彼の家に押し掛け罵詈雑言を投げつけ、犬までノイローゼになるほどの狼藉を尽くした新日オタクが嫌いだ。木村さんは義理に篤い大好きな朝鮮人になる。

日プロに対抗するために吉原さんが始めたのが「総当り制」だった。当時の日プロは日本人同士、外人同士は戦わないルールだった。吉原さんの決断により、アンドレ(モンスター・ロシモフ)対カール・ゴッチや、ビル・ロビンソン対ジョージ・ゴーディエンコが実現した。

上の写真でドリー・ファンク・ジュニアがダブルアームスープレックスの形を取っているが、これは国プロからバーン・ガニアにひき抜かれてアメリカに渡ったビル・ロビンソンから伝わったものだ。AWAチャンプのニック・ボックウィンクルもそうだった。ロビンソンと闘って盗んでいる。それはロビンソンの価値だが、そのロビンソンをイギリスから呼んだ吉原さんの功績でもある。



際限なく書きそうなのでこのへんにする。これは私なりの「Twist of 竹内宏介」のつもりで書いた。

竹内さん、大好きなプロレスラーに会えて、天国も楽しいでしょう。ほんとにほんとに竹内さんはプロレス大好きの青春でしたものね。享年65歳は早すぎるけど悔いのない人生だったと思います。

将棋話──郷田真隆棋王の語るハーリー・レイス──井田真木子「プロレス少女伝説」──立花隆批判

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 ここ数年の『将棋世界』の充実ぶりは著しく、絶讃せねばと思いつつ書かないまま時が過ぎてしまった。それはまあそのうち自分のサイトにたっぷり書くとして。

 2日に出たばかりの6月号は、なんといっても年に一度の「プレイバック2011」──昨年の全対局から棋士(!)が投票してベストの棋譜を撰ぶ企劃──が最高だが、今まで見たことのない、とんでもないめっけものがあった。

 久保から棋王を奪取した郷田真牢王のロングインタビュウの中で、なんと郷田棋王がハリー・レイスのことを語っているのだ。しかも半端ではない。スキャンしてその部分を掲載したいが、いまスキャナーが壊れている。買わねばと思いつつほとんど使うこともないのでそのうちそのうちと先延ばしにしてきたが、とうとう後悔することになった。急いで注文する。すぐ買おう。

 レイスの活躍していた時期、郷田は小学生である。「ハリー・レイスのことを知っているひとがどれぐらいいることか」と苦笑しつつ熱く語っている。この場合の「知っているひと」は知名度のことではない。年代的に若いひとは知らないだろうが、というような意味だ。
 プロレスを知らないインタビュアーが郷田の熱弁に戸惑っている(笑)。郷田は無関係に熱く語る。

 レイスの価値が解るひとはプロレスセンスがいい。まあ新日オタクとか長州なんてのが好きなのには無理。
 
 表紙の森内名人はプロレスなんてまったく興味がないだろう。その他、羽生も佐藤もぜったい好きじゃないだろうな。
 渡辺竜王が競馬好きで一口馬主にもなっているが、棋士とプロレスは結びつかなかった。だけど私の将棋好きは挌闘技好きから来ている。将棋は最高の挌闘技だ。

 まさか『将棋世界』で、郷田の口からレイスの名を聞くとは。サプライズ。ほれ直したぞ、郷田!

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 ということで検索したら、毎月『将棋世界』の内容を紹介しているサイトを知る。えらいひとがいるなあ。
 休まず毎月レビュウするということはとても大事で、むずかしいことだ。すばらしい。

http://www.shogitown.com/book/sekai/index.html 

 と思ったら将棋の古書を売っているから商売でもあるのね。納得。



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 そういや、竹脇無我さんと仕事を始めたころ、出会ってすぐなぜかプロレスの話になり、竹脇さんが「ハーリー・レイスはかっこいいよな」と言って、私が賛同して、距離がぐっと近づいたのだった。

 と書いて思いだした。偶然じゃない。プロレスというのはアンチには手酷くコバカにされるジャンルだから、敵味方の区別に真摯になる。
 熱烈ファンはプロレス好きに敏感だ。私は竹脇さんとその仕事を始める前から、「俳優の竹脇無我はプロレスが大好き。ジャイアント馬場と親しい」という情報を得ていた。だから初対面の時からもう「竹脇さん、プロレス好きですよね」と話を振ったのだった。

 そのとき竹脇さんは、ちょっと身がまえた(笑)。それはわかる。だってそのあとに続くのは「あんなインチキ、どこがおもしろいんですか?」かも知れない。しかしすぐに私が、自分と同じく全日ファンのプロレス者とわかり、一気にうちとけたのだった。

0kanren 竹脇無我さんの訃報──あのころの思い出



 雑誌に連載していた私の競馬小説にメールをくれ、親しくなった年下の友人にSというのがいる。いつしかもう15年ぐらいのつきあいになる。神戸在住。
 彼とメールのやりとりを始めたときにも、プロレスファンかどうかをさりげなく問うた。長続きする友人になれるかどうか、そのへんは大事なのだ。競馬好きなら誰でも仲よくなれるものでもない。彼も大ファンとわかり、今も親しく連絡し合っている。

 その連載は10年以上も続いたので多くのひとから手紙やメールをもらった。親しくなったひとも何人かいたが、今はみな途絶えてしまった。残ったのはSだけだ。
 私の作品を絶讃する熱烈なファンレターをくれたひともいた。まだ電子メール以前だったので出版社気付けの手紙だった。感激して返事を書いた。しかし何度かのやりとりで、そのひとが「護憲派」とわかり(笑)、あちらも私が改憲派とわかり、次第に疎遠になっていった。出会いは競馬でも、そのあとの交友は難しいのである。



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 井田真木子が「プロレス少女伝説」で大宅壮一ノンフィクション賞を取るとき、唯一強硬に反対したのが立花隆だった。理由は「プロレスなんてものに」だ。文章や構成への注文ではなく、テーマがプロレスだから賞を与えるに価しないとの主張だった。私は立花を憎んだ。「競馬主義」という雑誌のエッセイで立花を批判した。

 立花はこう言ってこの本を否定した。

私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである」。

 プロレスは、立花のような品性と知性と感性が同時に低レベルにある人には絶対に理解できないものだ。



 そのときはまだ彼の本を一冊も読んでいない。どんなやつかも知らない。後に、詳しく知り、彼を嫌った自分の直感に満足した。

 村松友視さんの名言「ジャンルに貴賤なし、されどジャンル内に貴賎あり」で言うなら、立花は「ジャンルに貴賎あり」のひとだった。
 味も判らないのに紅茶やワイン蒐集に凝るところに、彼の気の毒な俗物性が出ている。紅茶やワインの味などわからないのだ。でもそれは彼にとって「貴のジャンル」であるから、凝る。蒐集する。それによって「ウンチク」「智識」を得る。紅茶やワインについて何時間でもしゃべれる博識。だが現実は、紅茶は安物のティーバッグを愛用している。だって味などわからないのだから。まさに「空の智識」である。むなしいひとだ。

0kanren 立花隆の「秘書日記」を読む




 ちかごろどんなスポーツ実況でもやたら「心が折れた」「まだ心は折れていない」と連発する。特にひどかったのがPRIDEがブームのころで、やたら実況がそればかりだった。
 このことばを最初に言ったのは神取忍であり、それを紹介したのが、井田真木子のこの本である。

 あのころはプロレス雑誌がいっぱいあった。そんな中、デラックスプロレス(通称デラプロ)は女子プロ専門誌へと特化していった。「特化」と書いたのは、最初はふつうのプロレス雑誌だった。生き残りのために、いつしか女子プロ専門誌になっていたのである。地方で見る女子プロ興行はおもしろかった。まさにどさ回り。私の大好きだった豊田真奈美はまだ十代だった。

 井田さんは慶應の後輩でもあり、そのうちどこかで会ったら一緒に立花の悪口を言おうと思っていたら、44歳の若さで急逝してしまった。

中国のプロレス

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 中国のプロレス

 妻は日本にいるとき私の影響でプロレスが好きになった。
  力道山時代のファンのように、ノータッチでフォールをじゃまするレスラーに、「こいつはわるいやつだ」と真面目に怒るのが、なんともほほえましかった。

 その妻から電話が来て、25日にプロレスが放送されたという。日本人が主役だと。河南省で開催と言っていた。
 妻はプロレス好きの私が知らないことを不思議がっていたが、これってそんなにおおきなニュースか。すくなくとも『NOAH』や新日ではない。

 ネット検索したら、ドラゴンゲートがやったようだ。ああいう雑伎団のようなプロレスは中国では受けるだろう。

 

 

大晦日のハッスルにミルコ来日

ハッスル オフィシャル ウェブサイト

大晦日のハッスルにミルコが来日するという。
それはよいことだが、公開メールの中の「尊敬するミスター・タカダ」は違うだろうと条件反射。
アリ戦の猪木のように寝転がった高田を最低だとボロクソに言っていたはずだ。

ということで2ちゃんねるを探すと、


>>尊敬してやまないMr.Takada

確か前に、ヤツはチキンだって言ってたよな…

いつから高田を尊敬しだしたんだろう?

と、誰もが思うことは一緒。そしてまた思うのは、

相手はもちろんブルージャスティス永田さんなんだろうな

これまた一致。

ヒョードルと闘って、恐怖から頭を抱えた永田の罪は大きい。
それは準備不足なのに無理矢理闘わせた猪木の罪でもある。
受けた永田が男なのかアホなのかいまだにわからない。

 

 

 

ゴング 廃刊!?


 ゴング廃刊!?


 

週刊ゴング廃刊決定

先日、代表取締役社長の前田大作容疑者がコンピューター関連機器会社「アドテックス」(東京都港区)の民事再生法違反事件で逮捕された日本スポーツ出版社は、27日までに「週刊ゴング」の廃刊を決定、編集部員全員を解雇すると通告しました。40年の歴史を持つプロレス専門誌「ゴング」は来週発売号をもってピリオドを打つことになりました。

<「週刊ゴング」とは?(WIKIPEDIA」より(敬称略)>
ベースボール・マガジン社でプロレス&ボクシングの編集長をしていた竹内宏介を日本スポーツがヘッドハンティングし、竹内を編集長・総責任者として1968年に月刊誌「月刊ゴング」として創刊。当初はプロレスだけでなくボクシングも扱った格闘技専門誌だった。1982年にボクシング部門を月刊ワールドボクシングとして分割、プロレス専門誌化される。1984年に週刊化され現在の誌名に変更。

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 1968年の創刊号から闕かさず読んで来たひとりとして複雑な思いである。最初はベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」に対抗したものだったので、中身もプロレスとボクシングだった。私はプロレスのみを読みたかったので、このすぐあとに出る「別冊ゴング」に特に思い入れがある。「別冊ゴング」とは月刊のプロレス専門誌だった。本誌のゴングが毎月1日発売、別冊は15日発売だったか。別冊の方を毎月待ちわびては購入したものだった。

 このプロレス専門の別冊ゴングが「週刊ゴング」になる。ベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」が「週刊プロレス」だ。週刊誌になってからは私は『週プロ』の方を読むようになり、そのあたりから「ゴング」との縁は切れてしまった。立ち読みは闕かさずしていたが。

 近年はもう立ち読みさえしなくなっていた。たまにするそれは『NOAH』の大きな大会があったときだけだった。
 思いこみというなら、昨年廃刊になった『週刊ファイト』とは比べ物にならない。ファイトを読んだのは二十代後半の時だった。別冊ゴングは高校生時代である。
 プロレス会場に足繁く通ったのはそのファイトを読んでいた時期だった。一緒に行った金沢のKやM、コニシとか、プロレス仲間も多く、自家製のプロレス誌を作ったり、いろんな意味で最もプロレスに充実?していた時期になる。だが私にとって胸が切なくなるような濃密なプロレスへの思いは、田舎の高校生のときの「別冊ゴング」とともにある。「まだ見ぬ強豪」としてスパイロス・アリオンやミル・マスカラスにあこがれていた時代だ。情報が乏しかった時代の乏しかったからこその充実を感じる。昭和三十年代へのいとしさと同質か。「別冊ゴング」なんて欄外のミニニュースまで暗記してしまうほどだった。

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 プロレスを殺したのは誰なのだろう。まだ死んでいないと怒る人もいるかもしれないから、私がプロレスを卒業してしまったのは何故なのだろう、とした方が無難か。
 それは時代の中で必然だった。私はそれを「先祖返り」と解釈している。
 本来のプロレスは権力者に庇護されて、あるいは権力者の権力の一部として、真剣勝負だった。パーリトゥードだった。
 それが発展し見せ物として成り立つようになる。各地を廻る巡業であるから怪我は大敵だ。マットは柔らかくなり、その分、派手に空を飛んだりするようになった。大技の連発で長時間闘ったりした。それが行き着くところまで行ったとき、先祖返りが起こった。1分も掛からず終っても、真剣勝負ならその方が価値があると思われる時代が来た。ぐるりと一回りして元に戻ったのである。

 ということは、今の真剣勝負であるが故に残酷で地味な短時間の闘いがまた一回りしたら、信頼し合っている者同士が相手に怪我をさせないように闘うプロレスの安心感にまた脚光が当たる日が来る、とも言える。

 しかしそんな日が来て、かつてのように子供達がゴールデンタイムのプロレスを楽しむようになったとしても、私がまた以前のようにプロレスを好きになることはないように思う。
「プロレスは卒業するもの」と言われてきた。私は頑固に留年を続け卒業しなかった。それは校舎の崩壊、あるいは学校の閉鎖のような形で訪れた。いまだ卒業したのか追い出されたのかわからないのだが、もう復学だけはないように思う。
 今も土曜の深夜、PC作業をしていて、ああもうそろそろプロレスだな、と思うことがある。ネットの番組表を見る。棚橋、永田などと書いてある。見る気がしない。見ない。『NOAH』の我慢比べのような試合もつまらない。ブロレスは「あれが出たら終り」でなければならない。
 創刊号から読んできたゴングの廃刊で切れかかっていた糸がきれいに切れた。突然のことではなく緩やかな死だったから、かなしみはない。

小橋のアメリカ遠征

小橋がアメリカ遠征をした。38歳で初めての海外試合である。『週プロ』には「Living Legend」として熱狂的なアメリカのプロレスファンに迎えられたとあった。

 テリー・ファンクがLiving Legendだと聞いたとき、私の好きだったのはNWA世界チャンプのドリーの用心棒としてがんばる二十代半ばの荒々しいテリーだったから、しみじみと時の流れを感じたものだったが、小橋がそうだとなると戸惑いを隠せない。テリーの場合は自分が高校生の時でありそれだけの時が流れているから、誰でもいちばん甘酸っぱい思いを抱いているのは少年期だとでも言い含められるのだが、小橋に関してはハンセン、ブロディのあたりのセコンド(というか身の回りの世話)をしていた短パンの前座時代がついこのあいだのように思えるからだ。二十歳でデビュして三十八だから二十年近く前のことにはなるのだが。

 しかしそのあと『週プロ』の「超満員の観衆」「熱狂的な歓迎」に続く「観客千人」を観て、なんとも複雑な気分になった。写真を見ればわかる。こりゃ田舎の町の体育館である。そういうことかとわびしくなった。

 スターになる日本人プロレスラーは海外武者修行からの凱旋帰国というのが力道山ブロレスから馬場、猪木時代、今にいたるまで一貫した流れであった。東プロから復帰する猪木なんぞもUSヘビー級なんてインチキベルトを急造してチャンプになって箔をつけたりした。佐山、前田から三沢、川田にいたるまで同じ。そんな中、唯一海外武者修行をせずにスターレスラーになったのが小橋だった。馬場がもうアメリカンプロレスに学ぶものはない、行く必要がないと判断したからであり、それは正しい意見だったが、それに納得しつつも小橋の中にアメリカに対するひとつの憧憬が生まれたのも確かだろう。
 馬場自身はWWWFでニューヨークのマジソンスクエアガーデン、NWAのキールオーデトリアム、WWAのロスのオリンピックオーデトリアムと当時の三大団体でメインを張る希有な体験をしている。馬場だけの勲章である。その意味でも馬場と猪木では格が違う。むしろそれに次ぐのはキラー・カーンか。

 このあといくらでも書けるし書かねばならない。本来は長文になるのだが急いで結びとする。
 私の中にも小橋に海外で試合をさせたいという思いがあった。それは外国を知らないかわいい甥っ子に海外旅行をさせてやりたい叔父のような気持ちだった。
 日曜の深夜、そのテレビ中継があったので録画し、のちに楽しみに観たのだが、アメリカの田舎町の体育館で試合をする小橋を観ていたら、ものさびしくなって、なんどもテレビを消したくなった。消してはならないと言い聞かせ一応最後まで観たが気分は複雑である。

 小橋がアメリカのコアなファンのあいだで「Living Legend」であるのは確かである。いつしかプロレスの本場はアメリカから日本に移り、WWEの大味なショープロレスに飽き足らないアメリカの真のプロレスファンは日本のプロレスに憧れるようになった。彼らが年間ベストレスラー、ベスト試合として選ぶのは毎年三沢や小橋だった。ごくごくちいさな世界ではあるが真実である。

 だからノアが箔付けのために名前を借りているハーリー・レイスの地元で行われたこの「町の体育館のプロレス」でも、小橋を観られてうれしくてたまらないというコアなファンもいたと信じたい。だけどかわいい甥っ子に思い切りアメリカを満喫して来いよと送り出した気分のおじさんとしては、なんとなく、すまんなあ、こんなつもりでは……の気分を払拭しがたい試合だった。

 勇んでタイトルだけ書きヴィデオを観た。これらのことを連綿と書きつづるつもりだった。だが観たらもう文章を書きたくなくなった。がんばってこれだけ書いた。いま書いておかねば書く機会がなくなる。救いは、小橋はこの遠征をすなおに喜び、得るものがたくさんあったと目を輝かせているだろうってことだ。

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