漢字

ことば──「残滓─ざんし」の読みかた──室谷克実さんの講演から

「呆韓論」「悪韓論」とヒットを連発している室谷克実さんの講演をネットで見た。「ざんさい」と口にされていた。前後の話から推測するに「残滓」でまちがいないと思われる。「残滓─ざんし」の百姓読みだ。旁(つくり)が「宰相」の「宰」なので、ここからの推測で「ざんさい」という読みが発声する。

 室谷さんは慶應の法学部を卒業後、数年前の定年まで時事通信で記者をしていたかたである。編集長も勤めている。「残滓」を百姓読みで「ざんさい」と読むひとがいるとは知っていたが、今まで出会ったことがなかった。まさか室谷さんのようなかたが口にするとは思わなかった。あの麻生首相の誤読以来のショックである。いやそれよりもおおきいかも知れない。あの場合は単に麻生さん個人が漢字が苦手だったにすぎない。その個人が日本国の総理だったので大きな話題となったわけだが、室谷さんの場合は、いわばことばの専門家である。これは「時事通信社では残滓を爐兇鵑気き瓩汎匹爐海箸ふつうになっている」ということだ。つまり室谷さんの周囲にいるひとたち、同僚、部下も、みな現場で「ざんさい」と言っているのである。報道の現場で「ざんさい」と使われているのだ。「そういう読みをするひとがいる」とは知っていても、私の周囲にはひとりもいないし、かつて耳にしたこともなかったから、私にはとんでもなく大きな事件だった。
 普及している百姓読みには、「些細─ささい」を「しさい」、「洗滌─せんでき」を「せんじょう」なんてのがある。これもみな旁の読みからの発声だ。それらは日常的に耳にするが、私はいまだかって「残滓」を「ざんさい」と読むのを耳にしたことがなかった。私の知らないところでどんどん時代は変っているらしい。
 

 
 それはとてもショックではあったが、私の持論からするとさほどのものでもない。なにしろ私は「脆弱─ぜいじゃく」を「きじゃく」と読んだひとが笑い者になるたび、「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と反感を抱き、「もう読みは爐じゃく瓩播一してしまえ」と思うほうだったからだ。
 偏(へん)と旁(つくり)から成る漢字を旁で音読みするのは日本人の習性だ。よって「脆」の旁の「危」から「きじゃく」という読みが生まれる。それは間違いとされる。まあ国語の試験的にはまちがいであるけれど。

 「ぜいじゃく」が正しく「きじゃく」は間違いという根拠は、「脆」の字を「ぜい」と発音することが、シナの原音にちかい(漢音でゼイ、呉音でセイ)という理由にすぎない。これはそれほど重要だろうか。日本人の漢字使用とは、そもそもが「和語に漢字を当てはめた」という「当てはめゲーム」にすぎない。なら「RADIO」から「ラジオ」という日本語を作ったように、「脆弱」を「きじゃく」と読む日本語があってもいいのである。「脆弱をきじゃくと読んだ。正しくはぜいじゃくだ」という批難は、「RADIOをラジオと言った。正しくはレイディオだ」と言うのに等しい。たいしたことじゃない。
 

 
 このブログでぜひ読んで欲しいテーマに「三年遅れの麻生首相漢字誤読論」がある。ここでの私の意見も同じく「漢字の読みなんかどうでもいいじゃないか。つまらんことで大騒ぎするな。政治家にはもっと大切なことがある」になる。だがそれを理解できない麻生信者から、「おれたちの麻生先生を否定するヤツが現れた」とばかりに、「むかしは順風満帆をジュンプウマンポと読んでいたのだ。ジュンプウマンポで正しいのだ」とか、「留学の長かった麻生先生は、ことばをまず英語で頭に入れ、それを日本語に訳して口に出すので時間が掛かるのだ」などと寝惚けた反論がとどいた。こちらの言っている要旨が理解できていない。自民党後援会員にはバカが多い。私の言いたいのは、「漢字の読みなんてどうでもいいじゃないか」に尽きる。麻生さんの味方なのだ。

 数日前に書いた、「弁える─わきまえる─ベンの字について」も、肝要なのは「弁えるという表記が醜い」である。「わきまえるは爐錣まえる瓩班修垢襪里いいが、どうしても漢字を当てたいなら、以前使われていた猾える瓩任△蹐Αこれには意味的に通じる部分がある。しかしなんの意味もない猜曚┐覘瓩鷲塒佑澄廚箸いΥ岨大好き者を嗤った意見だ。
 

 
 私のこの脳内理論はだいぶ前からなのだが、まだまだ「きじゃく」と聞いたらピクンと反応するし、もう時事通信社では常識らしい「ざんさい」にも脊髄反射してこんなことを書いているのだから、なかなか現実の感覚とは一致しないようだ。誤解しないでいただきたいが、私は「読みなんてのは時代とともに変って行くだろうし、めくじら立てなくてもいいじゃないか」とは思っているが、かといって自分が率先してそれをしているわけではない。私はこれからも「ざんし」であり「ぜいじゃく」である。今風の「憮然」や「閑話休題」の使いかたにも逆らって行く。

 願うのは、自分の好きなひとにはそれをしてほしくないということだけだ。過日「チャリンコ嫌い──朝鮮語から来たコトバ」を書いた。親しいひとに「チャリンコ」「ママチャリ」「ゲンチャリ」等と使うひとがいないことには救われる。大阪の朝鮮人部落から始まったことばだから、ダウンタウン一派の大阪芸人はみなこのことばを連発する。気分が悪くなる。対してビートたけしを始めとする関東芸人に使うひとはすくない。まことに「ささい」なことであるが癒しになっている。

ことば──「わきまえる」「辨える」「弁える」──ベンという漢字のこと

●ことば──「弁える」という表記の愚

《Wikipediaではやたらに不要な漢字を使うひとが多い。「弁える」がよく出てくる。くだらん漢字使用だ。いきなり「弁える」と出てくると思考が停止する。「猜曚┐覘瓠,覆鵑世海譴蓮 ああ、わきまえるか」と、ほんの一瞬ではあるが、そうなる瞬間がわずらわしい。しかも、そもそもその文中に「わきまえる」という日本語が必要とは思われない。唐突に登場する。このひとは「弁える」と書きたくて無理矢理使用しているのではないかとすら思える。》

 というようなWikipediaの文章批判をブログに書いたままほうりだしていたのでその続き。



 高島俊男先生の『お言葉ですが…』の初期のテーマに「全部ベンの話」というのがあった。何巻のどこかはあとで記入するとして、以下はそのとき覚えた話。ノートに手書きして「ベンの字」の区別を覚えたものだった。以下は引用。とはいえ手元にいま本はない。でも覚えているので書ける。教えて頂いた恩に感謝しつつ、先生の御健勝を祈りつつ、思い出し引用。

 敗戦後、当用漢字制定により多くの漢字が使用停止となり同じ音の字で代用されるようになった。「ベン」の字はその代表例。

──しゃべるという意味──雄辯、辯護士、
──区別するという意味──辨別
──編むという意味──辮髪
──花びらの意味──花瓣
──とりしきる──辧公室
──冠、帽子の意味

 これらの意味のちがう漢字をみな最後の「」で統一した。なんとも乱暴な話である。よって、辯護士が弁護士、辮髪が弁髪、花瓣が花弁と、本来は別々だった「ベン」の字がみな「弁」になってしまった。

「わきまえる」に当てられていた漢字は「区別する意味の」である。もともと和語の「わきまえる」に「辨」を使うことが当て字であり意味のないことなのに、その字を使用禁止にして、まったく意味の異なる「弁」を使ってまで「弁える」なんて使うのは滑稽でしかない。「わきまえる」でいいが、どうしても漢字を使いたいなら「辨える」にすべきだろう。いまはこうしてパソコンでも表示できるのだから。

 高島先生が漢字に関して一貫して主張しているのは、「やたら漢字を使いたがるひとは無教養である。過剰に横文字(カタカナ英語)を会話に入れるひとと同じだ」になる。渡来語という虎の威を借りて自分を大きく見せようとするつまらんひとの虚仮威しだ。ところが日本人の漢字崇拝というのはまだまだ根強い。英語を多用するひとを嫌いつつ自分は漢字信者だったりする。同じなのだ。文章に「わきまえる」と書いたら「弁える」を知らないと思われるのだろう。しかし「弁える」に「わきまえる」の意味はない。弁は冠とか帽子のことなのだから。わきまえるを「弁える」と書くことこそが無教養なのである。



 と、ここまで書いてきて、「これ、同じ事をむかし書いたな」とやっと思い出した(笑)。サイトを調べてみると、《『お言葉ですが…』論考──智弁なのに日鐵》と題して書いていた。2001年11月20日の文だからちょうど13年前になる。中身は前半がここと同じ「ベンの字のちがい」について、そこから「テレ東が智辯学園を智弁にしていたのに、新日鐵という会社名はではなくしっかり正字ので表示していた。なぜ? その理由は?」と続く。

 シナで見かけた「麻花辮」の画像を置いている。中共もずいぶんと漢字を統一して文化を壊している。このブログで書いたのでは「ラーメン等の麺が面」「機械の機が机」があった。
 私が最もひどいなと思うのに「穀物」の「」の字が同じ発音の「」に統一されたことだ。「谷物」で「穀物」を想像するのは日本人には無理だ。「谷」には「コク」よりも「たに」のイメージが強すぎる。
 そういう中共でも、この「様々なベンの字」はまだ生きているようだ。日本の「弁に統一」も「谷物」に匹敵するほど悪質である。

 2001年にはまだ「」の字が表記できなかったが、やっと出来るようになったという2009年の追記が懐かしかった。私のサイトのこの種のテーマには、切り貼りの画像が多い。2000年前後はまだまだ表記できない漢字が多く、それを牴菫瓩箸靴禿修蠅弔韻討い襪里任△襦
 たとえばこんなヤツだ。ji-gyoこれ、中共簡体字の「」である。当時はこれが表示できなかった。だから漢字の「業」を拡大し、上の部分をカットして画像として説明している。簡体字だろうが繁体字だろうが楽々と表示できる今ではウソのような話だが、当時はこんな苦労をしていた。
 タイ文字もまだ表示できずこれも画像でやっていた。出来るようになってからはうれしくてタイ文字キイボードを購入して使ったりもした。いまじゃもうすっかり忘れてしまった。なんとかまだ初歩的な読み書きは出来るがタイ語キイボードは使いこなせない。まだ所有しているが。



 私は「ベンの字は弁」という教育で育った世代だから、「雄弁」にも「花弁」にも違和感はないが、正しくベンを使い分けてきた世代は、「弁護士」なんて書くことには抵抗があったろう。違和感のない世代である私ですら「弁える」なんて表示には、なんかちょっとおかしいのではないかと本能で反撥するのだから。

 私のPCに入っている辞書で、「わきまえる」の漢字表記を「弁える」のみではなく「これは猾える瓩梁緲儡岨だよ」と「辨える」も表示して教えてくれた良い辞書は、大辞泉、学研国語辞典、明鏡国語辞典。

 対して「わきまえる」の漢字表記を「弁える」だけしか表示しなかったダメ辞典は、広辞苑、大辞林、新明解国語辞典。

 どれを使うかでこちらの智識にも関わってくる。よい辞書を使えば「弁えるは辨えるの代用なんだな」と学べる。辨えるなんて書く必要はないが、弁えるを得意気に連発することはなくなるだろう。

 私が自分の文章で「わきまえる」と使うことはまずないと思うが、そのときはしっかり「わきまえる」とカナで書き絶対に「弁える」とは書かないことをわきまえておこう。

0kanren 

 ・「残滓」の読みかた──室谷克実さんの講演から

 ・三年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」


ことば──怪訝──爐韻欧鶚瓩鉢爐いが

携帯電話の辞書機能」に以下の文を追記。


【追記】──「怪訝」について──明鏡モバイル国語辞典の限界──2014/11/08

「怪訝」をどう読むかと問われたら、試験に出たなら、多くのひとが「けげん」とするだろう。いぶかしむときの「けげんに思う」だ。一方でこれはそ のまま音読みする「かいが」でもある。「かいがにたえない」は「怪訝に堪えない」と書き、「どうにも不可解だ、なんとも不思議だ」ぐらいの意味あいで使 う。というか「かいが」のほうが正しい。無理矢理「けげん」と読ませているだけだ。

 辞書のない環境にいるとき心に浮かび、調べたいと焦るのはこの種のことになる。「怪訝(けげん)は怪訝(かいが)でも使うよな、怪訝にたえない、とか」と思い、「たえないは耐えないか、いやちがうな、どのたえないだ? 堪えないか? 絶えないではないな、耐えないでいいのか?」

  ケータイに入っている明鏡モバイル国語辞典は「耐える、絶える、堪える」とみっつを表示してくれる。ありがたい。漢字なんてのは所詮和語の当て字だからどうで もいい。「怪訝にたえない」でいい。しかしまた漢語から来ている「確定している組合せ」もあり、それを外すと無智丸だしの赤っ恥にもなる。「怪訝に堪えない」のような組合せで初めて「ここは爐韻欧鶚瓩任呂覆爐いが瓩伐仔匹澆砲垢襦廚箸亮臘イ砲覆襦正解が欲しい。が残念ながらケータイの明鏡モバイルに「けげん」はあっても「かいが」はない。「絵画」のみだ。そりゃしょうがない、モバイル 用のちいさな辞書なんだもの。これに文句を言う気はない。



 こんなのは帰宅してから調べればいいことだ。手帳にメモす る。
 帰宅して、PCに挿れてある大辞林、明鏡、広辞苑、新明解、学研、大辞泉で調べたら、なんと正規の辞書なのに「明鏡」には「絵画」しかなかっ た。これは新鮮な発見。モバイルだから削ってあったのではなかった。明鏡はこういうふるくさい表現はもう放棄しているのだ。もちろん他の辞書にはぜんぶあった。たえないの漢字は「堪えない」であることも確認でき た。
 まあ「怪訝に堪えない」なんて表現を使うこともめったにあるまいが、でも辞書には「けげん」ではない読みと使いかたも載せておいて欲しいとも感じた。 「たえる」をみっつ確認できるだけで「ケータイの辞書」としては合格なのだけれど。

携帯電話の辞書機能──今ごろになってやっと気づいた──怪訝について──ことば

 過日奥多摩にいたとき、ふと「あの字はどう書くんだっけ」と疑問が浮かんだ。調べたい。調べられない。タブレットを持参しているがWifiは通じない。ケータイすら圏外になることが多い。東京都なのだが。

 奥多摩に住む予定は断念した。プラスマイナスを考えると、美景と幽谷というプラスと比してマイナスが大きすぎる。光ケーブルが通じていることからその気になっていたのだが、日常生活で、故郷の茨城の田舎よりもはるかに不便だ。住民のかたは、食糧は主に生協の宅配を利用しているらしい。今年二月の大雪では、降雪後一週間十日と過ぎてもまだ道路が通れず、孤立してしまった集落に自衛隊のヘリコプターで食糧を運ぶという事態となった。5分でスーパーやコンビニに行ける今の環境からは離れがたい。なにより「刺身で晩酌」が出来なくなる。



 知りたいと思ったことを調べられないのはつらい。ましていまはインターネットという万能百科事典をいつも持参しているようなものだ。何でもすぐに調べられることが当たり前になっている。調べられないとストレスがたまる。だからそれが出来ない環境にいるときは、なるべく「疑問を抱かないようにして過ごす」ことにしているのだが、それでも浮かんでくるものはある。

 たとえば「奇形」は「畸型」と書くのが正しい。「畸」は当用漢字というくだらない制度で使用不能となり「奇」が代用されている。では「奇妙」も「畸妙」とすべきなのか。確認したい。できない。なんどかテーマにしたことだが、附属学校、附属病院の附属は「附」が正しい。「付属」なんて使ってはならない。そういえば四月にもどってくる税金の「還付金」は「還付」と書くが、あれも「還附」が正しいのではないか。寄付は寄附が正しい。ならやはり「還附」だろう。いや、「ひとに対してのもの」だから「還付」とニンベンでいいのか。調べたい。調べられない。大きな搬送用の木箱を見かけた。ああいう「木箱」って英語でなんていうんだっけ。喉元まで出かかるが出ない。港にある大きな荷物によく印刷されている。なんだっけ、たしかカ行、クラフト、そんな感じ。そのへんだ。確認したい。出来ない。イライラする。



 ガラケーに「辞書」というボタンがあるのに偶然気づいた。国語辞典と英和和英がついている。ありがたいことに圏外でも使える。タブレットのそれはネット辞書なのでWifiが通じないと使えない。所有しているモバイルギアではPOMERAに辞書機能があり、通信とは関係なくいつでも使えるが、あのキイボードは使いづらくここのところ携帯していない。なんかあたらしいものをと探していたが、「青い鳥」よろしく、しあわせはいつもポケットにいれている身近なケータイにあった。和英辞書を引く。木箱はCrateか。よかった。ほっとする。咽のつかえが取れた。

 ちいさな辞書なので簡便なことしか調べられない。「畸」の字の情報はなかった。でもそれは家でやればいい。書けないようなむずかしい漢字が調べられなくても不満はすくない。ストレスは度忘れにある。知っているのに思い出せないもの。背中の痒いところに手が届かない感覚だ。それをこの辞書は救ってくれる。

 「携帯電話に辞書」は、いつから始まったのだろう。20年ほど使っているが今まで気づかなかった。ここ10年は電話機能しか使ってないし、さらにいえば受信専用みたいなもので、それも1日に2件ぐらいしかないから、ほとんど使わないのと同じ。連絡はみなPCメールでしている。今のガラケーなんて機種交換して2年近くなるが未だに新品同様だ。あ、もうひとつ、外国に行ったとき「目覚まし機能=アラーム」に助けてもらっている。目覚まし時計は必ず持参するのだが、ケータイとダブルでセットしておくと安心感が違う。ローミングすることなく外国から発信受信できるようになってケータイはほんとに便利になった。目覚ましに加えて辞書でも助けてもらうようになったから、これからはもう「おれはケータイは電話にしか使わない」とは言わないほうがいいのか。それにしても便利だ。いままで気づかなかったのが悔やまれる。

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【追記】──「怪訝」について──明鏡モバイル国語辞典の限界──2014/11/08

「怪訝」をどう読むかと問われたら、試験に出たなら、多くのひとが「けげん」とするだろう。いぶかしむときの「けげんに思う」だ。一方でこれはそ のまま音読みする「かいが」でもある。「かいがにたえない」は「怪訝に堪えない」と書き、「どうにも不可解だ、なんとも不思議だ」ぐらいの意味あいで使 う。というか正解は「かいが」だよね。「けげん」なんてただの当て字だ。過日「おこがましい」を「痴がましい」と書いているひとがいた。くだらんことだ。

 辞書のない環境にいるとき心に浮かび、調べたいと焦るのはこの種のことになる。「怪訝(けげん)は怪訝(かいが)でも使うよな、怪 訝にたえない、とか」と思い、「たえないは耐えないか、いやちがうな、どのたえないだ? 堪えないか? 絶えないではないな、耐えないでいいのか?」

  私のガラケーに入っている明鏡モバイル国語辞典は「耐える、絶える、堪える」とみっつを表示してくれた。ありがたい。漢字なんてのは和語の当て字だからどうで もいい。「怪訝にたえない」でいい。しかしまた漢語から来ている「確定している組合せ」もあり、それを外すと無智丸だしの赤っ恥にもなる。「怪訝に堪えな い」のような組合せで初めて「ここは爐韻欧鶚瓩任呂覆爐いが瓩伐仔匹澆砲垢襦廚箸亮臘イ砲覆襦正解が欲しい。が残念ながらケータイの明鏡モバイルに 「けげん」はあっても「かいが」はない。「絵画」のみだ。そりゃしょうがない、モバイル 用のちいさな辞書なんだもの。これに文句を言う気はない。



 こんなのは帰宅してから調べればいいことだ。手帳にメモす る。
 帰宅して、PCに挿れてある大辞林、明鏡、広辞苑、新明解、学研、大辞泉で調べたら、なんと正規の辞書なのに「明鏡」には「絵画」しかなかっ た。「けげん」はモバイルにもある。これは新鮮な発見。モバイルだから削ってあったのではなかった。明鏡はこういうふるくさい表現はもう放棄しているのだ。もちろん他の辞書にはぜんぶあった。たえないの漢字は「堪えない」が常用であることも確認でき た。

 まあ「怪訝に堪えない」なんて表現を使うこともめったにあるまいが、でも辞書には「けげん」ではない読みの使いかたも載せておいて欲しいとも感じた。 「たえる」をみっつ確認できるだけで「ケータイの辞書」としては合格なのだけれど。

ことば話──「腹腔」の読みかた──ふくこう、ふくくう

2014年08月02日16時13分58秒

市村正親 胃がん手術終了「順調に回復」

 胃がんで休養中の市村正親(65)が2日までに、都内病院で腹腔(ふくくう)鏡手術を終えたことが同日、分かった。http://www.nikkansports.com/

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 腹腔をずっと「ふくこう」、発音的には「ふっこう」と読んできたので、尊敬するアサヒシンブン系ニッカンスポーツ様に、カッコつきで「ふくくう」とされると、こりゃ今まで何十年も誤読してきたのかと焦る。 
 いま辞書は「ふくこう、ふくくう」と両方載せているようだ。



「腹腔」を「ふくくう」と読むのは、ツクリの「空─クウ」から読む、いわゆる百姓読み。
 毎度書くが、この場合の百姓は「世の中のふつうの人々全般」の意味。元々「百姓」ということばは、漢字からも感じとれるように、農民、漁民、猟師、職人、すべてを含むひろい意味のことばだった。それがなぜか農民限定になり、さらには差別語にまでなってテレビ・ラジオ・新聞から追放されてしまった。いまもシナには、日本の「大衆酒場」の意味の「百姓酒場」というのがどこにでもある。



「脆弱(ぜいじゃく)」を「きじゃく」と読んで嗤われた女子アナのこれもツクリからの百姓読み。
 麻生太郎が誤読した「破綻(はたん)」を「はじょう」、「詳細(しょうさい)」を「ようさい」もこのパターンになる。

「ふくくう」も早い時期に言いだしたひとは麻生さんのように嗤われたはずである。しかし世の中、多数が強い。みんなが誤読すれば、それが一般的になり、やがて辞書にも載る。スポーツ紙にもカッコつきで読みが載るようになる。たぶん今が端境期で、あと10年もすれば「ふくくう」のほうが多くなるのだろう。

 医療現場のあわただしさもあるように思う。医者にとっては「ふくこう」でも「ふくくう」でもどうでもいい、手伝うスタッフや看護師がわかればいい。「絶対にこれはふくこうだ」と思っている漢字好きの医師がいたとしても、手術がすんなり行くために「ふくくう」のほうが便利ならそれを使うだろう。漢字の読みなんてのは、そんなものでもある。



 こういうことを書くと漢字好きのオヤジが最近の世相を嘆いていると勘違いされそうなので、書きたくないが書いておく。
 私は高島俊男先生の「日本語が漢字と出会ったのは不幸だった」説を熱烈に支持するものである。できるだけ日本語に当て字の漢字は使わないように心懸けている。

 たとえば高島さんは、「坐」「座」「挫」は「ザ」でしかないと言う。それを日本語の「すわる」に使うのは強引な当て字なのだ。だから私は「座る」「坐る」のような表記はせず、「すわる」にしている。この種の話に興味のあるかたはぜひ「漢字と日本人」(文春新書)を読んでください。

kanjito



 私は漢字なんかどうでもいい、という考えだ。ATOKが自慢する「記者が汽車で帰社する」なんてのを、バッカじゃねえの、と思っている。そんなことに力を注ぐなら、政治家、落語家、力士、そんな名前の変換をもっと充実させろ。
 「腹腔」を「ふくこう」と読もうが「ふくくう」と読もうが、意味が通じればそれでいい。むしろどうでもいい混乱をなくすために、「ふくくう」に統一したらいい。同じく、「脆弱」は「きじゃく」で、「詳細」は「ようさい」にしたらいいのではないかとすら思う。いや「すら思う」ではなく、何十年後かには自然にそちらになっているだろう。

 だからじつにもうどうでもいい話。でも私はまだ当分、「腹腔」という字を見かけたら、「ふくこう」と読んで生きて行く。 

ことば考──かな交じり熟語の無意味──改ざん、ねつ造、だ捕、ら致──小保方さんの表記とテレビ局の表記

 小保方さんの抗議文書のアップに「改ざん」「ねつ造」等のかな交じり熟語が見えた。なんとも見にくい。
 今時の入力装置は「改竄」「捏造」と出せる。なのにそういう「かな交じり」を使って書いているのは、思うに、小保方さんが会社に提出するような書類では、いまだに「常用漢字の枠組」というのを順守せねばならない決まりがあるのだろう。 アサヒシンブン(笑)のように。



 これを報じるNHKでは、そのまま「改ざん」「ねつ造」と表示して報道していた。
 と書きつつ、いま苦労している。ATOKは「改竄」も「改ざん」も出せる。私は醜いかな交じり熟語は嫌いだからATOKの辞書からすべて削除してしまっている。ATOKを使い始めたころだからもう20年も前にやり、その辞書を引き継いできていることになる。だから出せない。よっていま「改竄」と売った後、「竄」の字を消し「ざん」とやって「改ざん」なる醜いものを作っている。手間が掛かる。しかも大嫌いなものを作るのだから精神に悪い。

 NHKはふだんのニュースでも、そんな「かな交じり」にしているのだろうか。むかしはそうだった。いまもそうなのか。それともこれは小保方さんの原文がそうだったから尊重して同じような表記にしているのか。NHK嫌いで見ないので知らない。 



 月曜夜、日曜の「たかじん」をYouTubeで見た。このテーマを取りあげていた。 読売テレビは、小保方さんの原稿のアップで、そこにあるのが「改ざん」「ねつ造」であることを示しながらも、自分達の番組の表示では「改竄」「捏造」としていた。ほっとした。



 醜い「かな交じり熟語」は、昭和20年から27年まで日本を占領していたGHQの指示により、内閣が漢字数を制限したことから始まる。当用漢字(現在の常用漢字)の意味は「面しばらくはいるが、そのうち全面廃止する漢字というもの」の意である。全面廃止が基本だ。いわば1日20本走っていた漢字という電車を、もうすぐ廃線とすると決定し、それでも朝夕の2本だけは走らせたようなものである。20本走って生活に役立っていたのが、たった2本にされたら問題が生じるのは見えていた。命令は占領軍だが、西洋コンプレックスから、お先棒をかついで漢字撤廃運動をした連中もいた。いつだって真の敵は内部にいる。いくらだって逆らえた。でも阿った。

 だけどその感覚はわかる気もする。こざかしい連中はいつもそれだ。日本が朝鮮を併合したとき、「ありがとうございます、これからもよろしくお願いします」と日本に阿った朝鮮人に限って、日本が負けたら、「力付くの植民地支配、許すまじ!」と愛国の戦士のようなふるまいに出る。
 戦中は「皇軍、またも大勝利、撃ちてしやまん!」と煽っておいて、敗戦したら「私たちはもともと戦争には反対でした」と言いだすアサヒシンブンなんてのも同じ。 



 敗戦した日本が再度独立するのは昭和27年である。いわゆる狠腸瑤寮ぢ絖瓩蓮日本が独立国ではない時代に生まれた鬼っ子になる。狂ったのがいるのもむべなるかな。
 敗戦国を支配するGHQの指示により、敗戦国のインチキ内閣が使用漢字制限を厳命する。敗戦国の役所がそれに従うのは当然としても、まともなマスコミなら、そういう政策には抗うと思うのだが、アサヒシンブン、マイニチシンブンを始め、みなそれにすなおに従った。それどころか気味悪い「かな交じり熟語」を率先して作りだした。

 漢字制限には従ったが表現は捨てなかった。その歪んだプライド?によって同じ音による置きかえという奇妙なものが生まれた。「交叉点」が「交差点」、「頽廃」が「退廃」のような意味不明のことばである。「義捐金」が「義援金」なんてのもそれになる。適当な同音の字がなく置きかえられないのはひらかなにした。そこから「改ざん」「ねつ造」「だ捕」「ら致」のような醜い、まったく意味のない「かな交じり熟語」が溢れることになる。これらのことばは文字が意味を持つのであり、「音」で表しても無意味である。こういうことをするひとの感覚ってどうなっているのだろう。
 小学生低学年のころは難しい漢字はかなで書いて書ける字だけ漢字にした。綿矢りさの「にな川」はそれを遊んだものになる。しかし新聞社のそれはあるまい。



 かといって私はむずかしい漢字を使うべしという考えではない。逆である。そこまでして漢字にこだわるなという考えだ。
 識者がしばしば指摘しているが、こんな意味不明の表現をするなら、他のことばに置きかえればいいのである。簡単に出来ることだ。でもなぜかかたくなに、こんな意味不明の表記にしてもそういうことばを使いたがるのが役所や新聞社なのだ。彼らにはこういう「表記」を醜いと感じる感覚がないのだろうか。役所は役所だからしょうがないと苦笑して諦めるにしても、新聞社はなあ……。新聞社になんかなにも期待していないけど。



 過日奥多摩を走ったとき、「土砂しゅんせつ作業」という看板を見かけた。「しゅんせつ」は「浚渫」か。
 この看板を見たこどもは「しゅんせつって何だろう?」と考えるだろう。「しゅんせつ」とありルビが振ってあったら辞書で調べる。サンズイの2文字からそれなり推測もするだろう。
 といって、こんなめったに使わない漢字をルビを振ってまで使えと言っているのではない。ぜんぶをかなにしてまで、そんなにまでして、このことばを使いたいのか、使わねばならないのか、そこが理解できないのである。河川の流路を拡げたり土砂を掬ったりする工事だ。いくらでももっとわかりやすく具体的に表現できるだろう。そのほうが地域住民だってどんな工事かわかっていいだろう。なぜこだわるのか。わからん感覚である。



 小保方さんの場合は彼女の好みの表記ではなく、立場上たぶんそう制限されているのだろうと感じた。
 NHKは、テレビ局以前に役所だから、ああいう表記をするのだろう。
 小保方さんの「改ざん」「ねつ造」を確認しつつ、「改竄」「捏造」と表記した読売テレビに拍手を送りたい。

 しかしまた原点に戻れば、小保方さんがそういう用語を使わねば、私もこんなことを書かずに済んだ、という話になってしまう。でも30歳の小保方さんでも「改竄」「捏造」ということばを使わねばならないという思い込みはあるのだろう。私だったら「改ざんしたつもりはありません」とかな交じりの表記を使うぐらいなら(規定により使わねばならないのなら)、「自分の意に添うような書きかえをしたつもりはありません」「悪意をもった書き直しはしていません」のように別の表現にするけれど。 それじゃダメなのか!?

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【追記】──曖昧さの価値?──4/10

 昨日は小保方さんの涙と笑顔の会見があり、夕方からテレビはそれ一色だったようだ。夜のニュースで5分ほど見た。すぐに消した。ま、その程度でいい。

 さて、上記の例で、「なぜこんなわかりにくい表現をするのか!?」と疑問を抱いたのだが、もしかして「わかりにくいことに価値があるのか!?」と思うようになった。

「しゅんせつ作業」で言うと、この看板を作ったのは工事を担当する土木業者である。しかし文面は役所の許可を取って作るものだ。土木業者の担当が新米の、私のような感覚の者だったとする。「しゅんせつ作業」なんて表現が気味悪く、また「しゅんせつ」ではわからない住民が多かろうと、「河川流域拡張作業」とか「河川の土砂取り出し作業」のように具体的に銘打ち、役所に届けたとする。するときっと役所は「毎年どの業者も爐靴紊鵑擦頂邏鉢瓩箸靴討い襪里如△修μ召鼎韻蹇廚噺世Δ里世蹐Αいわゆる慣例だ。いや役所以前に、会社の上司から「しゅんせつ作業にしろ」と言われるか。いやいやそれ以前に、業者による落札のとき、すでに「××川しゅんせつ作業」で競っているのか。また、もしも役所側に私のような感覚のものがいたとしても(いないだろうけど)、長年の慣例で表記をあらためることは否定されるのだろう。

 世の中にはいろんなクレーマーがいる。「河川流域拡張作業」と銘打ったら、「どこをどう拡張するのか」「拡張作業と言いつつ一部はむしろ狭くしているのではないか」などとケチをつけてくるのがいる。なら「しゅんせつ作業」と、むずかしい漢字をひらかなで書いた、含みをもった曖昧表現にしておいたほうが多くの場面に対応できるのだ。



「改竄」と「捏造」も、「悪意を持って文章を直してはいません」のように口語的な直截表現をするよりも、「改ざんの事実はありません」のように堅苦しい玉虫色にしておいたほうが後々の弁明のためにもいいのだろう。



 これらは「わかりやすい表現を、むずかしい漢字を使ってわかりにくい表現にしている例」だが、放送禁止用語のようなものは逆の流れにある。
「盲」「びっこ」を、「目の不自由なかた」「足の不自由なかた」のようにする。「盲」「びっこ」という定着している日本語を、差別的であると簡易なわかりやすい表現で置きかえている。しかし簡易な表現ではあるが、「不自由なかた」は、これまた曖昧で意味不明になっている。これを最初に思いついたひとは相当にことばに不自由なかただ。だからこれもまた「わかりやすい表現のようでいて、わかりにくい表現への置きかえ」になる。

 このやりかたが、本音と建て前を使い分ける日本人らしさ、と言えばそうなのもかしれないが……。



 私のきらいな競馬ライターに、簡単に書けることをやたらむずかしく書くのがいる。自分に自信のない臆病さを、むずかしそうなことばという甲冑で隠しているみっともないひとだ。しかし野っ原を裸で走ればすり傷だらけになる。「改ざん」や「しゅんせつ」のような何とでも逃げの聞くような便利用語をいくつか用意しているほうが生きるのには楽なのかも知れない。

武井咲の「咲」に関する<きっこさん>の笑い話──無学が隠せない

 武井咲というタレントの「咲」という名について【芸スポ萬金譚】に2題書いた。

・タカトシの時間ですよSP──誤って伝わった漢字「笑う」と「咲く」について

・再び「笑う」と「咲く」について──武井咲を「えみ」と命名したひとのセンスのよさ

 ここでの千原ジュニアと塚地の勘違いは、私にとって大きなテーマになる。漢字というのは日本語の当て字にすぎない。日本語と漢字は同列ではない。もともとあった日本語に、借り物の漢字を無理矢理当てはめたのが現状なのだ。その基本を勘違いしている。

 ただし、そこから産まれた日本製漢語は優秀であり、現在の支那は日本製漢字抜きではなにもできない。正規の国名「中華人民共和国」の内、元々の漢語は「中華」だけ。「人民」も「共和国」も日本製漢語である。本家ではあるが、それがないと国名すら名乗れない。



 今回、元有名ブロガー、現アフィリエイト商人として有名な<きっこさん>が、こんなことをツイートしていると知った。

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 まあ、それはそれでいい。おっちゃん、いちゃもんのプロフェッショナルとして、あらゆるものにいちゃもんをつけ、政事から競馬までしったかぶり全開だが、なんとも基本がお粗末である。

3年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」──「触れない腫れ物」では破綻する──「傷」を晒して居直るのが最善



 私は自分のサイトで十数年「ことば」について書いている。自分なりに気になる日本語をテーマにしたものだ。 高島俊男先生の『お言葉ですが…』について書く《『お言葉ですが…』論考》も同趣旨のコーナーになる。このブログでも「ことば」をテーマにして書いたものが50篇ほどある。とは、いま調べて知った。いつしかそんなに溜まっていた。サイトの支店として始めたここも2005年からだからもう7年になる。それぐらいは溜まるか。
 日本語の使いかたについてがテーマだから、政治家の発言を取りあげることもある。

 いまこの10年分を見てみた。

・中曽根大勲位の「ひさかたの」(2003/01/21)
 中曽根さんが「ひさかたの」で始まる短歌を詠んだ。しかしその「ひさかたの」は「ひさしぶりに」という意味に使われていて、「天」や「雨」等ににかかる枕詞の使いかたを間違えていた。たぶん「久方振り」との混用なのだろう。(これは新聞も取りあげた。)

・菅直人の「役不足」
 民主党の代表選に出馬するのかと問われた菅直人が、「私では役不足ですが」と述べた。「役不足」の誤用である。2007/07/29

・安倍首相の「慙愧に堪えない」(2007/05/28)
 松岡農水省の自殺に、当時の安倍総理が「慚愧に堪えない」と言った。「残念」という意味で使ったのだろうが、「慚愧」は「恥ずかしい」という意味であり、これでは「自殺するようなのを登用して恥ずかしい」になってしまう。誤用である。(これも新聞が取りあげて話題になった。)

・「田中眞紀子と麻生太郎」というのがあるので、どんなものだったかと読んでみたら、2007年の安倍政権時、当時の麻生外務大臣が「そんなこと、アルツハイマーでもわかる」と差別発言をして問題になったことに対し、眞紀子が「自分がアルツハイマーだから、そんなことを言うんでしょ」と言ったというしょうもない話だった(笑)。

・「ジュンプウマンポ」という項目があるので、今回のテーマでもあるから(笑)読んでみる。書いたのは2004年の4月2日。かの有名な松本清張原作、野村芳太郎監督の映画「砂の器」の中に、役者が「じゅんぷうまんぽ」と言うシーンがあるのだそうだ。映画は見ているが覚えていない。そういうセリフの読み間違いに、何故誰も気づかなかったのだろうという映画評論家の文章の話だった。



 麻生太郎教信者のJNSC会員は、「むかしはジュンプウマンポと教えていた」と書いていたが、それはたぶんちがう。正解は「むかしから、そういう誤読をするひとが多かった」であろう。私も、そう口にするひとを何人か知っている。

 検索したら、あるひとが「私はこどものころ読みのテストでジュンプウマンポと書いて丸をもらった。だから強烈に覚えている。あれの読みはジュンプウマンポだと今も思っている。だがいくら辞書を調べても載っていない。どういうことだろう」と相談していた。誰も応えていないようだから私が答える。それは「先生がじゅんぷうまんぽと誤読で覚えていたから」である。

 とまあ、目につくコトバがあるとメモのようにあれこれ書いているのだが、あれほど話題になり、しかも数が多かった麻生さんの誤読に、私は本店のサイトでも支店のこのブログでも、ひとことも触れていない。



 理由は、「あまりにかなしかったから」である。

 政治家は若い頃から聴衆を酔わせる効果的な演説を考える。言葉が勝負だ。言葉づかいは上手であり、語彙も豊富だ。わるい言いかたをするなら、「言葉で平民をだまくらかす詐欺師」である。やたら支那の故事を引用したがる。田舎者にはそういう難しい言いまわしが効くらしい。田中眞紀子ですら「隗より始めよ」なんて使っていた(笑)。
 この頃は英語が流行っている。日本語で言えば簡単なところを敢えてあちらの言葉を使う。これまた無学なものには、意味不明の外来語は効くらしい。マニフェストとかアジェンダなんてのもそれになる。麻生さんも得意の英語はよく使った。田中康夫も得意だ。

 私はサイトで自分の無学の恥を晒している。「極寒」を「きょっかん」だと思っていたり、「十手」が「じゅってと打っても変換されない、なぜだ!」と怒ったりしている。正解は「じって」。
 自分自身がそういうレベルなので、私が取りあげる政治家の発言は、「言葉のプロである政治家が、こんな間違いをしていた」のような場合が主だった。



 それらと比すと、麻生さんのは中学生レベルの漢字誤読だった。指摘し、テーマにするには、あまりにレベルが低かった。

 私は漢字が苦手だ。あまり好きではない。苦手なものは努力して克服するようにしてきたが、漢字に関しては投げている。DSで漢検の準一級、一級あたりをやっていると、読めない書けないコトバが頻出する。そのとき「こういう文字が読めるようになりたい」というよりも、「こんなもの、読めなくていい」と感じてしまう。渡来の漢字に和語を当てはめる不自然さが、そのクラスになると判じ物のようになっていて、ああいうものを得意とするひとを、尊敬ではなく軽蔑したくなる。
 そういう私から見ても、麻生さんの誤読はひどすぎた。ぜんぶ私ですら正しく知っている字、熟語だった。

 この文のタイトルは「触れない腫れ物では破綻する」だが、麻生さんはこの「破綻」も「はじょう」と誤読した。これほど漢字の読めない総理大臣は憲政史上初だ。ひどいを通りこしていて、文章にしてそれを笑う気にさえならなかった。だから書かなかった。

 麻生さんの初歩的な誤読がいかに話題になったかは、2010年の正月に届いた年賀状に添えられた一筆で、複数の友人が「日本は今みぞゆうの危機にありますが頑張りましょう」と書いてきたことでも解る。必ず「みぞゆう」のあとには「(笑)」とあった。日本中のお茶の間で、酒席で、どれほど多くのひとが笑い話にしたことだろう。
 念のために書いておけば、私の友人であるから思想はみな保守系である。そういうひとたちですら書くほど大きな話題だったことになる。

 だがそれは自国の総理大臣なのだ。私は、ただの一度も麻生さんの誤読を笑い話にしたことはない。なんとも物悲しくて、その気になれなかった。
 自分の支持している総理大臣のそういう姿は見たくなかった。笑い話には出来ない。

 長らく政権与党の座にあり続けた自民党が腐敗し、長年続く不景気の中、あらたな期待を託された民主党に政権を奪われるのは時代の必然だった。止められない流れだった。同時に、堕ちた自民党のイメージに、「常識的な漢字も読めない総理大臣」があったのも事実である。いかな麻生支持者であれ、それはすなおに認めねばならない。



 期待大の民主党政権になったが、ほんの半年も経てば誰もが気づく。ありゃ口先だけだと。
 一年ほど経ち、民主党がどうしようもないカスだと決定的になると、政治を扱うテレビ番組に、「元首相」の麻生さんが、ぽつぽつと出るようになった。
 すべて見ているが、このとき異様なことに気づいた。「誰も誤読には触れない」のである。
 MCがいて、辛口の政治評論家なんてのもいて、麻生さんのやった経済政策を誉めたり、批判したり、自由な意見が飛びかうのだが、不自然に、どの番組でも、「漢字のことは絶対に出なかった」のである。
 麻生政権末期に、どれほどそれを流したことか。国会での誤読する映像を流し、誤読例をスーパーで出し、これでもかというぐらい笑い物にしたのに、まるでそんな事実は一切なかったかのように触れないのである。

 これも前項の私を「失せろ、外道!」と言った盲目的に自民党を崇拝するJNSC会員なら、「誰もが麻生さんの価値に気づき、あれが誤読ではないことを理解したからだ」となるのだろうが、そんなことがあるはずもない。それはこのJNSC会員の脳内お花畑だけの出来事だ。真実は、「触れないことを前提にしての出演」だったのだろう。



 粗の見えてきた与党民主党を論ずるのに、前政権の元首相は、野党代表として価値が大きい。出演オファーが行く。しかしマスコミにはあれほどひどい目に遭ったから、麻生サイドは慎重になる。断る。
 そういう中、つきあいのあるプロデューサーやらタレントやらとの関係から、出演を受ける番組も出て来る。
 そのとき麻生サイドは、「絶対にあの漢字誤読には触れないこと」を条件に出演したのだろう。それこそ一筆取ったと思われる。

「TVタックル」に出演したときも、そういうツッコミが大好きなたけしも大竹も、かつてはさんざんやっていたのに、まるで「そんなことはなかった」かのように、一切触れなかった。完璧に触れないことが不自然だった。
 この出演は麻生さんと酒席を共にしたたけしが直接出演を口説いて叶ったという。そのとき条件として麻生さんはそれを出したのだろう。たけしも諒承したのだ。

 それでも大竹がそのことにつっこんだら私も彼を認めるのだが、番組の約束を護って大竹は漢字のかの字も口にしなかった。そこに彼の「サヨクタレント路線」という演技が見える。その程度の男だ。どうせなら「漢字誤読の話はしない」という約束ごとを破って、激怒した麻生さんが退席するぐらいの事件を起こしてみろ。

 政策として麻生さんの路線は正しかったと今も思う。だがそれを見直す場でも、誤読の話が出たらすべてぶち壊しになる。それほど破壊力のある醜態だった。なにしろ総理大臣が中学生レベルの漢字を読めないのだから。それが連続したのだから。
 それに触れないというのは出演の絶対条件だったろう。

 つまりそれは、それだけ麻生さんにとっても傷ついた、未だ傷の癒えていない、今も触れられたくない事件だったことになる。すべてに恵まれた最高級の人生を歩んできた麻生さんは、自分がまともに漢字を読めないバカだと初めて知った。漢字が読めないことでいちばん傷ついたのは、自分を漢字の読めないひとだと認識していなかった麻生さん自身なのだ。



 テレビがその約束を護り、鄭重に扱ってくれたのは、なかなかテレビに出てくれない「野党の大物の元総理」だったからだ。だから腫れ物に触るよう特別な扱いをしてくれた。だから成立した。

 これからは政権与党の経済方面を担う重鎮である。国会の質疑において、野党がそこまで気を遣ってくれるだろうか。野党時代の民主党のあのいやらしさを思い出せば、またネチネチと無意味な攻撃を始めるのは目に見えている。

 その対策として、前記JNSC会員のような、「むかしはじゅんぷうまんぽと教えていた時代があった。麻生さんは誤読していない」とか、「麻生さんは他人の作った原稿を読むのが苦手で」「英語で考えて、それを一旦日本語に変換してから口に出すので」などという幼稚な身贔屓擁護は役に立たない。



 戦略として、「あまり勉強してこなかったので漢字の読みは苦手です。でも今論じているのは経済の問題ですから、私が漢字を読めないことは関係ないでしょう。経済の政策なら自信がありますよ」と居直るのが最善だろう。
 実際漢字の誤読を取りあげるのは、本題とは関係ない揚足取りにすぎない。それへの対応は、「隠す」のではなく、露出して居直ることだ。童話「北風と太陽」の太陽になる方針だ。
「漢字が読めない」という傷を、隠す「北風路線」ではなく、大っぴらにしてしまえばいいのである。たいして醜い疵痕じゃない。すぐに厭きて誰も見なくなる。つっつかなくなる。それが最良の方法だ。

 第二次安倍政権の国会でのやりとりはどうなるだろう。このことを突っこまれたとき、麻生さんがどう居直るか、期待してみつめたい。今度は大丈夫だろう。
 そう思った矢先の、祝勝会における「じゅんぷうまんぽ」だった。この調子ではまた同じミスを確実にする。どう対処するのか。世の中は、麻生さんのあらゆることをすべて好意的に受けいれてくれる前記JNSC会員のようなひとばかりではない。



 一応これで終る。続篇を書く機会がないことを祈る。

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【追記】──イヤな予感が当たりませんように!──1/2

 私のブログ文章は後々からアクセスが増えることが多い。「予測が当たった」ような場合である。古い文章が脚光を浴びて異様なアクセスになったりする。
 なんだかイヤな予感がする。大事な閣僚答弁の場で、またも麻生さんが「やっちまう」ような気がするのだ。

 麻生さんの大失態のあと、それを怖れた民主党政権時代、官僚が作った原稿には中学生なら読める漢字にもみなフリカナがついていた。一度、菅直人の原稿が映ったことがあった。フリカナだらけだった。いかに麻生さんの失態が政治家にとって恐怖だったかになる。

 自民党政権になってもそれは踏襲されるだろう。特に麻生さんの読む原稿はフリカナだらけになると思われる。その点では安心だ。麻生さんがヒラカナを読み間違えない限り。
 でもこのひとは、またなにかやらかしそうな気がする。答弁において。

 つまり「未曽有」を「みぞゆう」と誤読したようなのは、今後は避けられる。フリカナがあるからだ。
 だが「じゅんぷうまんぽ」のように、「誤って覚えている日本語」を、このひとはいっぱい持っている。ただ原稿を読んでいるだけならいいが、安倍首相の「慚愧」のように、「自分のことばの誤用誤読」をしそうなのだ。



 安倍政権を倒すことを社是としているアサヒシンブンのようなのは、閣僚の失態を狙っている。なんとかして安倍政権を倒そうと鵜の目鷹の目で探っている、待ち構えている。
 安倍内閣のメンバーの内、麻生さんが、またも「やっちまったなあ」になりそうなイヤな予感がする。

 というのは、先日の為政会での発言を聞いて、麻生さんがこの3年間、その辺のことを反省して勉強してきたとは思えなかったからだ。私に対して麻生信者のJNSC会員が「このバカは3年間なにをしてきたのだ」と書いていたが、それはすんなり麻生さんに当て嵌まる。また同じ轍を踏み、アサヒあたりに揶揄されるのではないか。心配である。
 そうなると、古い記事であるこのブログ文章に異様なアクセスが殺到する。 そうならならないことを願う。3年前とは一味ちがう麻生さんを見せて欲しい。

3年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」※;′殳の引き倒しに気づかないJNSC会員の幼稚な麻生擁護



 福島のJNSC会員は、「麻生先生」と読んで尊敬している麻生太郎が、漢字を読めないと書かれたことがよほど不快だったようで、即興で一句詠んでいます(笑)。俳句の素養もあるようで、さすがJNSC会員。「マジギレ」のあたりに、このひとの教養が見えますね。

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 そして、麻生さんが漢字を読めないことを否定します。

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 麻生さんは「他人の作った原稿を読むのは苦手」なのかもしれません。
 でもそのことと熟語誤読は関係ないですよね。他人の書いた原稿であれ、知っている字は読めます。こんな屁理窟で誤読の言い訳は成立しません。誤読というか、要は「ことばを知らなかった」のでしょう。
「知らない熟語なので読めなかった」という事実の前に、「他人の作った原稿を読むのは苦手」は無意味です。自分の好きな政治家を庇いたい気持ちは解りますが、恥ずかしいこじつけです。

 麻生さんは「自分のことばで喋るのは得意」なのは知ってます。秋葉原での演説も聴いてますからね。
 でもそのことと漢字誤読は関係ないですね(笑)。為政会の挨拶で未だに「じゅんぷうまんぽ」と言っているように、自分の言葉そのものが誤読なのですから(笑)。



 このひとの言うように、麻生さんに「 主要な語句は英語で覚えていて一旦変換してから口に出す」(という特徴)があるかどうかは知りません。この発想をするひとは、日本に来て何十年も経つが、いまだにその癖が抜けないという英米のひとにいます。もしもその通りなら麻生さんは心の芯まで英語人ということになります。それは日本の閣僚として問題ですね。

 どうにも麻生さんの英語がそれほどのものとは思えないし、日本に生きているのになぜそんなことをするのだろうと思いますが、これを事実としても、漢字誤読の弁明にはなりません。「英語でことばを考えて、それから一旦変換して日本語でしゃべる」のだとしても、誤読は誤読です。

 このひとの前項のツイートに「麻生先生が漢字の読みに詰まる理由を深く考えたこともないんだろ?」とありますが、これがその理由のようです。つまり麻生さんは「ことば、熟語、用語を英語で覚えていて、それから日本語に変換して口にするので、時間がかかる」ということのようです。

 でも時間がかかることと誤読は関係ないですよね(笑)。時間がかかっても知っている熟語は正しく読めますから。自分の好きなひとを、まさにこじつけで庇おうとしていますが支離滅裂です。麻生さんならこれは「しりめつさけ」と最後のひと文字だけ訓読みにするのかな(笑)。むかしはそう教えていたらしいから(笑)。

 この論法だと、「麻生さんはケガという日本語を英語のInjuryで覚えていて、ケガとしゃべる時には、Injuryから一旦日本語のケガに変換して口に出す」ということになりますが、そのことと「怪我」を「カイガ」と読むことはつながりません。単に「怪我「」を「けが」と読むことを知らなかっただけです。

 麻生さんがそんなことをするとは思っていませんが、もしもこのひとの言うように本当に「主要な語句は英語で覚えていて、それから日本語に変換してしゃべる」が事実なら、それは日本の大臣として問題ですね。日本人の日本語は日本語で考えねばなりません。まあそんなことはあり得ないと思います。こういう信者の捏造でしょう。



 このひとは「贔屓の引き倒し」ということばを知らないのでしょうか。無理矢理牽強附会で麻生さんを庇えば庇うほど、言えば言うほど自分の無学と、麻生さんへの「盲目愛」を吐きだし、結果として麻生さんの立場を悪くするだけです。それは決して麻生さんのためにはなりません。サヨクに「麻生がバカだと信者もバカだな」と言われるだけです。
 私も今日、思いました。「麻生さんの熱烈支持者ってこんなバカばかりなのか!?」と。

あれから三年も経つのに、いまだにこんなことを言っているバカは何を見てきたのだ」をそのままお返しします。
 なんという幼稚な擁護なのでしょう。呆れます。事実を正面から見詰められない、受けいれられない、錯乱した思い込みだけのゆとり教育の弊害そのものです。

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 熱烈なジャイアント馬場ファンが、「馬場は腕が細い」と言われることに反撥して、「馬場さんの腕は細くない。躰が大きいから、腕が細く見えるだけだ」と強弁していたことを思い出す(笑)。馬場の腕は細いのだ。すなおに認めなさい。と言う私が猪木ファンかというと、私は馬場ファンであり全日ファンだった。好きなものでも認めるべきは認める。
 プロレスは好きだったがプロレスファンには嫌いなのが多かった。とくに新日信者はどうしようもなかった。みな、こいつみたいな性格だった(笑)。こういう屁理窟を振り翳していた。バカの共通。

 自分の好きなものを、わるいところは見ないようにして、いいところだけを過度に讃美して、実際以上に大きく見せようとするのは過ちだ。
 瑕疵はそれとして認めねばならない。そのことで価値が落ちることはない。
 完璧などありえない。

 なんだかこいつの「麻生讃歌」を聞いていたら、創価学会の「池田讃歌」を思い出した。まあ信者であることは共通している。

※ 

 麻生さんは吉田茂の孫であり、麻生財閥の主という超エリートであることを問われて、自ら「血筋はいいが育ちは悪い」と苦笑しつつ言っているように、家庭環境にあれこれあって、遊んでばかりの学生時代だった。
 でもその代わり、アメリカに留学して学んでいる。英語が話せる。会社を経営し、経営者感覚を持っている。趣味の射撃でオリンピックに出るほどの腕前だ。いまもビッグコミックから少年ジャンプまでマンガを読んでいる。そういう幅広い智識と趣味人間である分、詰めこみ受験勉強で覚えるような漢字の読みは苦手だった。それだけのことである。なぜそれをすなおに認めないのか。それでいいではないか。それ以上にいいところがいっぱいあるのだから。

 2.3、劣るところがあっても、よいところが10も20もあるのだからそれでいい。それがひとに対する評価の基本だ。なのになぜその2.3を認めようとせず強弁し、否定しようとするのか。
 通知表で言うなら、麻生さんは漢字が苦手で国語が2だ。でも5の教科がいくつもある。それでいい。なぜ無理矢理麻生さんは本当は国語も5なのだと言いはる必要があろう。

 漢字が読めない程度で「政治家麻生太郎」が全否定されるわけではない。漢字の誤読などささいなことだ。
 麻生太郎ファンなら、「麻生さんは漢字が苦手」とすなおに言えなければ本物ではない。政治家の支持に100%はありえない。妥協して最善を求めるしかないのだ。

 私はこの「好きなのよぉ、麻生さんが好きなのよぉ、麻生さんのことをわるく言うヤツは許さないのよぉ!」と髪を振り乱して叫んでいるヒステリック女みたいなJNSC会員より、よほど正当に麻生さんを評価しているまともな麻生支持者と自負している。 



 このJNSC会員は、私に対して、「おまえのような勘違いエセ保守右翼が政権を後ろから撃つような愚か者と化すのだ」と書いているが、勘違いと思い込みをしているのはこいつのほうである。

 こういう自分の好きな物に対して「ぼくの好きな女の子はウンコをしない」みたいな幼稚な思い込み偶像化バカが、好きな女の子も自分と同じようにウンコをすると知ると、「失望した、絶望した、裏切られた」と、いきなりスカトロジストになったりして(笑)、「政権を後ろから撃つような愚か者と化す」のである。

 結婚離婚を繰り返す男女にもこのタイプが多い。いきなり相手を「理想のひと」「このひとに出会うために生まれてきた」と思い込んでしまうから「あばたもエクボ」になる。結婚する。すぐに「あばたはあばた」と知り、さらには「エクボもあばた」になり、憎しみあって別れる。しかしまたすぐに「運命のひと」と出会い、結婚する。そしてまた別れる。それを繰り返して行く。「あばたはあばた、エクボはエクボ」と正当に見ることが肝腎なのだ。だがこの種の連中はその学習が出来ない。このJNSC会員も典型的なこれである。

 私のように、好きなものの美点も缺点も受けいれている大きな心(笑)のひとは、そんなことにはならない。ほんと、こいつの10年後、いや3年後か、を見てみたい。自民党に絶望したと共産党に入ってるんじゃないか。それとも政治そのものに絶望して新興宗教にでも走っているか(笑)。ナンミョーやってたりして。最も倦きっぽい染まりやすい粗末な人格を感じる。
 いまのこいつは「自民党教麻生太郎教」の信者だ。すでに愚か者と化している。麻生さんは魅力的な政治家だが信仰の対象じゃない(笑)。3に続く

「真に恐ろしいのは有能な敵ではなく無能な味方である」by.ナポレオン

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 このヒステリックな自民党支持者を見て、むかし書いた「呉智英さんとゴルゴ13ファンのケンカ」を思い出した。13年前に書いたものだ。舞台となったのは、さらにその15年前である。自分の好きなものを狂的に擁護して錯乱するバカというのは、いつの時代でも、どの分野でも、共通のようだ。

 リンクしたので読んでください。

参考・「呉智英さんのゴルゴ13論争」

3年遅れの「麻生太郎漢字誤読論」;;,い泙澄屬犬紊鵑廚Δ泙鵑檗廚噺世辰討い襪里如△修譴鮖愿Δ靴燭蕁崋困擦蹇外道!」とJNSC会員に言われました(笑)

 12月29日、ツイッターで、ニコ生に麻生派(為政会)の当選を祝う映像があると教えてもらったので出かけてみた。大勝に沸く目出度い席だ。

 司会に続き麻生代表の挨拶になった。すると相変わらず「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と言っていたので白けて、途中で見るのをやめた。当選した議員達に自信満々で、「皆さんの中にはかつての私たちのようにじゅんぷうまんぽで当選したひとたちばかりでないかたもいる」のように言っていたから、これは新聞等で誤読を指摘されても、意地でも直さないのか、いまだに誤読と知らないかであろう。
 
 それで、そのニコ生を教えてくれたひとに以下のようなツイートをした。

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 すると今日、以下のような返信が来た。

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 「麻生先生は漢字を読み間違えるという脳内バイアスをいいかげん捨てられたら如何かと思いますがね」というあたりに、このひとのレベルが垣間見える。

 好きな政治家を庇いたい気持ちはわかるが、これはちょっと牽強附会に過ぎる。
 私は学校で「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と教えていた時代を知らない。いったいいつごろなのだろう。

 まず思うのは、順風満帆という四字熟語の内「じゅんぷうまん」と3文字が音読みだから、「帆」だけ「ハン」ではなく「ほ」と訓読みにするというのは、熟語の読み方としてかなり変則的になる。そんな例があるだろうか? 「まん」という撥音の後だから「はん」は「ぱん」とパ行になる。日本語の法則である。「じゅん」の次の「ぷう」もそうですね。

「よりかぜみちほ」とかのすべて訓読みならまだわかるが。漢字4文字の内、最後の1文字だけ訓読みにする変則的な読みかたをする四字熟語ってあったろうか。
 でもこのJNSC会員が言うように、学校でそう教えていた時代があり、麻生さんがそう習って覚えたというのなら、それはそれで正しいことになる。


 
 しかしそれを論拠とするなら、かの有名な「踏襲」を「ふしゅう」、「未曽有」を「みぞゆう」等も、みな「麻生さんの時代には学校でそう教えていた。麻生さんは誤読していない」になる。ならねばならない。
 もしもそうなら、麻生さんの誤読が問題になったとき、同じ教育を受けた世代が「あの読みかたでいいのだ。私たちはそう教わった」と麻生さんを庇ってたちあがったはずだ。 漢字学者も「むかしは踏襲はふしゅうと読んでいた」と発言しただろう。

 もともと漢字なんてのは渡来したものであり、読みかたなんてどうでもいいのである。漢字の正しい読みかたというものがあるとしたら、それは支那人(漢民族)の発音のみである。外国人が東京をトキオと発音するように、日本人の漢字の読み方なんてそんな訛のひとつにすぎない。一念発起の「発起」を「はっき」と読んだら笑われるが、明治の中ごろまでは「はっき」だったという説もある。「発足」も同じく。そんなことはどうでもいいのである。たいした問題じゃない。

 このひとの言うように、かつては「じゅんぷうまんぽ」と読んでいて、麻生さんはその時代の教育を受けてきただけで誤読はしていないのかも知れない。「踏襲」は「ふしゅう」であり、「ふむ」という訓読みと「しゅう」という音読みの、いわゆる「湯桶読み」の熟語だったのかも知れない。それはあり得る。

 しかし残念ながら擁護者はいなかった。明らかな誤読なのである。それを認めず大声で庇うのはこういう一部の信者だけだ。
 「踏襲」の誤読で言うなら、「踏」の字の音読みの「とう」を知らなかったのだろう。というか「踏襲」という熟語を知らなかったのだ。これは世界第2位(当時)の経済大国の総理大臣としてかなり恥ずかしいことになる。 


 
 「麻生総理 誤読」で検索したら、まとめてあるところがたくさんあった。こんなに誤読していたとは知らなかった。それをまとめて、以下のような返信ををした。

techto2





 

 ここまでオソマツだと庇いようがない。とくに「詳細──ようさい」「破綻──はじょう」のようなのは、テレビで「脆弱」を「きじゃく」と読んで恥を搔いた女アナがいたように、ツクリから誤読する「百姓読み」というヤツである。
 不勉強なひとが知らない単語を無理矢理読もうとすると必ずこうなる。知らないものをツクリから推測して読もうとするからだ。これらの「誤読の傾向」からも、麻生さんが漢字を知らないことが見てとれる。

 しかし、漢字の読みなんてのはどうでもいいのである。「些細」を「しさい」、「消耗」を「しょうもう」と読む百姓読みが普遍化しているように、「詳細」も、そのうち「ようさい」が主になるも知れない。だってツクリは羊のヨウだものね。円周率の3.14が「だいたい3」になったように、漢字のこういう読みも、そのうちすべてツクリに準じた読みやすいものになるかも知れない。
 その他のことばでも、現実に、「憮然」「忸怩」「姑息」「私淑」「なしくずし」なんてのは誤用が定着している。
 だから誤読なんてちいさなこと、どうでもいいのである。これが私の意見になる。



 私の立場と意見は最初のツイートから読み取れる。

・国の舵取りをする人にとって漢字の読み間違いなどたいしたことではない。(=もっと大事なことがある)
・しかし揚げ足を取って攻撃してくるサヨクマスコミがいる。
・だから麻生さんにはもうすこし気をつけてもらいたい。(=直ってなくて、すこし落胆した)

 麻生ファンである私が「もうすこし慎重に」と衷心からの意見を述べたのだ。まともな読解力を持つひとなら、私が麻生支持者であると即座に理解するだろう。私は「揚足取りの連中がいますから気をつけてください」と言っているのだ。

 もしも字数が許すなら私はこう書きたかった。
「周囲の秘書連中はなにをしているのだ。人前で大将が恥を搔かないよう、非礼を承知で進言するのが務めではないか」と。

 上記百姓読みでわかるように、学生時代趣味ばかりやっていた麻生さんは不勉強で漢字が読めない。それは事実だ。おそらくそれは日常でも数多いだろう。これは一部であり、実態はこの何十倍、何百倍であろう。しかし、そのたびに周囲の連中が注意してやれば直る。
 これは本人の努力だけで直すのは難しい。「思い込み」だからだ。「これはこう読む」と長年思い込んでおり、まちがいを認識していない。本人の学習だけで矯正するのは無理がある。だからこそ周囲なのだ。ブレーンなのだ。

 私の知人にも、「境内」を「けいない」、麻生さんと同じく「思惑」を「しわく」と口にするひとがいる。「身をコナにして働く」と言うひともいた。誤読を指摘するのは友人でもためらう。
 まして麻生さんのような立場のひとに下の者が進言するのは勇気が要ろう。しかし、それはまさに「一時の恥」なのだ。大臣として発言してマスコミに叩かれるよりはちいさな痛みである。なぜ周囲の連中はそれをしてやらないのか。それこそが本物の愛情だろう。真心を込めての箴言なら、格下の者からのことばでも麻生さんには通じるはずだ。



 そんなことを思っているところに、次のようなのが返信されてきた。

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 残念ながら私の本意は伝わらず、「失せろ、外道!」と言われてしまった。
 しかし私はおとななので(笑)、動じることなく、次のような返信をしようとした。
 
「最初の文をよく読んでください。私は麻生支持者です。アサヒシンブンを始めとするサヨクマスコミにまた突っこまれないよう、気をつけて欲しいと願っただけです」
 
 でももうブロックされていて投稿できなかった。カッとなっての即行ブロックらしい。いやはやなんとも。
 これがネトウヨと呼ばれる底の浅いひとたちの実態なのか。なんとも情けない。
 気に入らない相手に罵詈雑言を浴びせて、すぐにブロックか。

麻生先生が漢字の読みに詰まる理由を深く考えたこともないんだろう?」とのことだが、たしかに考えたこともない。だって考える必要もない。漢字の勉強をしてこなかったから常識的な漢字熟語が読めない。それだけのことだからだ。なにかそれ以上の理由があるのだろうか。
「バカの壁」の養老孟司(ヤニ中毒)が、麻生さんを「読字障害」と精神的な障碍者にしたのは知っている。養老のような難しい解釈をして、麻生さんが漢字を読めないことを擁護しろというのか。
 そんなものは必要ない。ただ単に学生時代まじめに勉強してこなかったから漢字が読めないだけだ。

 このひと、福島在住の福島復興にかけるJNSC会員らしい。福島復興と自民党の明日が心配になってきた。(2に続く)

「真に恐ろしいのは有能な敵ではなく無能な味方である」by.ナポレオン

NHKの「富山大学付属病院」、「やまとなでしこ」の「慶明大学付属病院」──付属と附属──テレビ新聞と現実の表記──なんと、明治は付属!──臓器移植法

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昨年、10年遅れで松嶋菜々子の「やまとなでしこ」を見たとき、劇中の舞台として「慶明付属病院」というのが出てきて奇妙に感じた。

大学のふぞく学校やふぞく病院に関わったひとならわかるだろうが、表記は「附属」である。附属と付属は意味からして異なる。附属を付属と書くのは明らかな誤記である。

理由は簡単。敗戦後の漢字制限で「附」が使えなくなったから当て字で似たような「付」にしたのだ。「頽廃」を「退廃」に、「交叉点」を「交差点」にしたのと同じ、くだらないこと。無意味。いや、有害なこと。



私は「やまとなでしこ」でそれを見たとき、「これはシナリオの文字なのだろうか!?」と考えた。
場所はその辺のロケ地である。使用させてもらった建物の入口に、小道具係が作った「慶明大学付属病院」というプレートを貼っている。

まともな大学病院だったらぜったいに「附属病院」である。
シナリオライターが、どこかの附属学校を出ていたら必ず「附属」と書くだろう。シナリオライターはどう書いたのだろう。附属か付属か。

また演出家が附属学校出身だったら、シナリオにそう書いてあったとしても、「附属」に直すだろう。「付属病院」なんて意味不明のことばは字面からしても我慢できるものではない。

さらにまた、シナリオライターも演出家も「附属」に縁がなかったとしても、実際にそれを作る小道具係が漢字にこだわりがあったら、「これは猊軋悪瓩犬磴覆い鵑任垢」と言ったろう。
さらにさらにまた、スポンサーがそれに誇りがあったら、「あの看板の猊嫗悪瓩魯悒鵑覆鵑犬磴覆い痢廚噺を出したろう。

シナリオライター、演出家、小道具係、スポンサー、いくつもの目を通りぬけて不自然な「付属病院」であることが不思議だった。ある意味、「やまとなでしこ」を見て、いちばん心に残った一件になる(笑)。

好意的に解釈するなら、「架空のドラマの存在しない病院なのだから」と、あえて「付属」にした、ともとれる。



今日、「小沢一郎離婚──放射能から逃げだす」をやらないかなとテレビを点けたら、「臓器移植法の変更により6歳のこどもの臓器移植が行われた」とNHKが報じていた。舞台は「富山大学付属病院」とテロップが出る。テレビではもうこんな表記をするのか。知らなかった。

本物の富山大学ふぞく病院も、時勢にまかせて「付属病院」にしているのか? まさかね。

調べてみると、インターネットの検索項目では「付属病院」となったりしているが、本体はしっかり、「附属」としていた。そうだよなあ、付属病院なんて、するはずがない。そもそもそんなものは存在しない。安心した。

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この富山大学附属病院で脳死したこどもの臓器を移植手術したのが大阪大学附属病院。

おどろいたことに読売新聞の記事では「付属病院」になっていた。

改正臓器移植法に基づき、6歳未満で初めて脳死と判定された男児から提供される臓器の摘出手術が15日、男児の入院する富山大学付属病院(富山市)で始まった。
 
心臓は大阪大学付属病院(大阪府吹田市)に運ばれ、10歳未満の女児に移植する。(読売新聞)

テレビも新聞もここまでひどい。最大発行部数の読売が、すでにもうこんな表記をしている。おどろいた。NHKや読売新聞がこうなのだから、フジテレビの架空のドラマで「付属病院」なのは当然となる。

しかし信じていたとおり、本物はしっかり、
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だった。



ということで、テレビや新聞がそんな誤表記をしようと、本家本物はしっかり「附属」と正しく書いているのだと安心しつつ、同種のことをいくつか見ていたらショックなことがあった。

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こういうとこを出たひとは、自分の出身校を「付属」と書くだろう。だって正規の表記が「付属」なのだから。明治大学に関しては、「明治大学附属中学校」と書いたら誤記になる。いやはや。これを決断したひとは、ものすごくかっこわるいことをしたんだけど、自覚はないんだろうなあ。

「やまとなでしこ」のシナリオライターや演出家は明治出身だったのかな。
しみじみがっかりした。



【附記】──兵庫県立大付属高校──10/3

修学旅行が韓国である高校は多い。そのことに生徒達が反撥し、旅行先を替えて欲しいという運動をしている高校があると知る。よいことだ。

高校の名前は「兵庫県立大付属高校」。
兵庫県というと国立大学は神戸大学か。大きな県だから、それとはべつに県立大学をもっているらしい。初めて聞いた。まああっちのほうに興味がないからそんなものだ。

しかしこの「付属高校」にはがっかりした。明治大学に続きふたつめになる。
神戸大学のほうは「附属病院」とかぜんぶしっかりしている。いい高校なのに、名前はすこし残念。


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臓器移植法

死んだひとの躰を切り刻み、新鮮なハツやレバーを取りだし、他人の躰に移植する。
ひとは、そこまでして生きるべきなのだろうか。

富山の亡くなった6歳のこどもの躰からは、「使えそうなモノ」が切りとられ、全国のいくつかの病院に運ばれた。冷凍で活きの良さを保ったのだろう。そこで移植手術が行われる。遺族は「誰かの躰で役だって生きて行くのなら……」と語ったとか。



種の基本として、優勢劣勢の問題は看過できない。

野田聖子のこどもは、生まれる前から障碍が見えていた。むかしなら生まれてすぐに死んでいた。
しかし国会議員先生の大冒険だ。現代医学の精鋭が秘術を尽くす。よって、生まれてきてから身体中、パイプだらけ。手術に次ぐ手術。全身切り傷だらけ。これからしなければならない手術も複数待っている。そうしてなんとか生きている。しかしこのまま生き長らえても、脳を始め数数の障害が残ることは確定している。それは「貴い命」なのか。単なる虐待ではないのか。

以前も書いたことだけど、1歳未満の重度の障碍をもった赤ん坊を、寄附を募って1億円集め、アメリカに渡って手術する。それって「人道的」なのか。そりゃ天使の笑顔だ、それがもうすぐ消えてしまう。かなしいに決まっている。「なんとしても」と思う。
だけど、死なせてやれよ。赤ん坊はそう思っている。大金持ちが自分の金ならまだしも、他人様から寄附を募ってまでその命にこだわるなよ。天命として死なせてやり、あらたにまた作ればいい。あらたにはもう作れない夫婦だったなら、それはそれでまた己の運命として受けいれるべきだ。どうにもこういう話題には納得できない。
それが「種」というもの、「命」というものの基本だと思う。



ひとは、そんなにまでして生きるべきなのか。

息子から肝臓をもらったのに、コウノヨウヘイ、タロウ親子がいた。先日亡くなった安岡力也も息子がそうしたのだったか。
親が子に臓器をあげるならともかく、子の臓器を親がもらうとは、なんたることか、鬼畜の所業という批判もあった。しかしこれは成人した親子の問題である。子が親のために差し出したのだから、これはこれでいいだろう。おとなの話だ。私も父が私の腎臓や肝臓で長らえることができるのなら差しだす覚悟はあった。

覚悟はあったし、もし必要ならほんとにそうしていたけど、それが「ひとの道」として、正しいかどうかはまた別の話になる。やはり命は「順序」だから、親が子にすることはあっても、逆はよくないように思う。

そこまでして、生きるべきなのか。
1歳でも100歳でも、天寿は天寿だろう。



ほんとうはこちらのことを書こうと思ったのだが、「やまとなでしこ」の時から気になっていたので、そっち中心になってしまった。

漢字とひらがな3

3866d4bc.gif漢字とひらがな──とめる・やめる・とどめる
 今週の『お言葉ですが…』は、高島さんの持論であるひらがなを使え、の巻。
 最初は「止める」が「とめるかやめるかわからない文章が多い」から始まる。これはまったくその通りなので私は今、とめるややめるを漢字で書くことはしない。泊めるや停めるは使っているが。

 辞書を使わねば読めないようなとんでもなく難しい漢字を使うことは一種の知的劣等感である。シークレットブーツを履くのと同じ感覚だ。背が低くても自分の中身に自信をもっている人はそんなものは履かないように、人間も中身に自信を持てばやたら難しい漢字は使わなくなる。「小説教室」をカルチャースクールでやっている作家講師がみな口を揃える生徒の缺点も彼らがやたらと難しい漢字を使いたがる、である。いわばこけおどしだ。
 ネット上の文章でもいくらでも実例を挙げられるが好んで波風を立てたいわけではないので抑える。一例だけ挙げるなら、「ほだされる」なんてのは和語のいいことばである。これはひらがな五文字の中にやさしさがある。これに「絆される」と漢字を当てると、糸偏が強烈すぎる。「ほだされる」という「ほだす」の受身形を敢えて漢字で書くならそれは「立心偏」だろう。心や情に関することばだ。だがこの糸偏の漢字があるとこんがらがった糸のイメージが押し寄せてきて興ざめだ。「ほだす」の本来の意味が「つなぐ・束縛する」であろうと、別れようと思いつつ別れられない「女の情にほだされる」と使うとき、漢字はない方がいい。
 いずれにせよ難しい漢字を連発する人は眉唾物である。もちろん京極のようにそれを味としている人は別として、だ。売りにしているとわかっていても私は京極を体質的に受けつけないけれど。
 難しい漢字を連発する人に限って会話の中に英単語を交ぜる人を否定する人が多い。同じなんだって(笑)。いずれにせよ、「なにか」で、人を圧倒しようとする人は、中身のない人である。

 やたら難しい漢字を使う人は知的劣等感だが、どっちに読んだらいいかわからない漢字の使い方をする人は無神経である。
 漢字の使い方でその人の心がわかる。かといって「会社を辞める」を「会社をやめる」と書くと「辞める」を知らないのではと思われるから、私のような雑文書きは、画一化されたマニュアルが横行する社会で生きて行くのはけっこう面倒である。ま、「ビッグ」になれば問題はないのだろうが。
 好きな作家に、「あの作品では『あおい空』になってましたね」と言い、「ウン、どうしても青いでも蒼いでもなくて、ひらがなしかなかったんだ」なんて話すのは楽しい。

 と脱線してしまった。本題。
 高島さんは「とめる・やめる」に続いて、「止る」の例を出す。これは「泊まる」の意味らしく、「藤沢の旅籠に止る」のようにむかしの文章には多いのだとか。そしてこれは「とどまる」であるとする。「とどまる」だと「留まる」があるが、「止る」が主流だったという。今の時代「とどまる」を使うには「とどまる」と書くしかあるまいとして、中には「止どまる」とやる人もいるがこれは論外とする。
 送りがなの問題は深刻だ。私もまだ不徹底なので悩んでいる。ただ今の社会が、というかマスコミ界が、こちらが「終る」と書いても「終わる」に直してしまうのなら、こちらとしては高島さんの言うように「おわる」と書くしかない。これまた長年の習慣であり、なにも漢字で書く必要はない。「終わる」も「終る」も当て字でしかないのだから。

 毎週『週刊文春』を買って、電車の中、ラーメン屋、晩酌のとき、といろんなシチュエーションで『お言葉ですが…』を読むのが楽しみだった。その楽しみを奪ったキマタ編集長への恨みは深い。かといって不満を言いつつ読むのだけは我慢ならなかったから、今のスッパリやめている自分は気に入っている。
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