郷土史

宇和島女子尋常高等小学校校歌


仰げ諸とも緑こき 鶴島城の松のいろ
その植松の八千歳(やちとせ)も 変えぬ操に習い宛(つつ)

今も今もと油断なく 己が勤めを盡(つく)してよ
見よ諸共に底(そこい)なく 湛(たた)うる大海(うみ)の源も

落つる雪輪の一片(ひとひら)や 降り来る霧の一雫
小さき物事慎みて 大事を誤る事勿れ

玉の簪(かざ)しや綾の衣 人の道には何かせん
真澄の鏡曇りなき 清き心を言の葉と

起居(おきい)の上に示さずば 世に立つ甲斐や忽(なから)まし  
身は手弱女にありとても 君の御恵(みめぐみ)父母の恩

我師の教えかしこみて 遠(とおつ)御祖(みおや)の御言葉に
答え奉(まつ)らむ真心は 大丈夫(ますらたけお)に劣るなよ

宇和島女子尋常高等小学校校歌
校長 兵頭賢一作歌

「南豫案内」小林葭江より引用


現在の城南中学校校歌の歌い出しの一節「緑濃き古城のほとり」はこれを参考にしたのかなと、ふと思った。


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丸之内二丁目
専売公社跡

戦時中までここに、鶴島小学校の前身「第二尋常小学校」があったことはよく知られている。


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第二小学校の写真






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宇和島第弐尋常小学校の印


そもそもその場所は、明治の中頃、女子小学校が出来た事が始まりであった。

時代はそれから幾星霜を経て明治32年となった。町長土居礼の末期である。
宇和島町では教育の振興を期すために初めて高等小学校を単置することになった。場所は丸之内の旧竟成小学校で校舎はこの時新築した。無論男女の共学である。
然るに町会方面から「男女各々進むべき道を異にしている。それを共学制度にするのは教育の能率をあげる所以ではない」と批判の声が上がりだした。明治37年になると男女を分けて授業をすることになり、高等科単科を廃した。
それに代わって併置の方針を樹て広小路の尋常小学校を改めて男子尋常高等小学校となし、丸之内の単置校の跡に、女子尋常高等小学校を新設したのである。

やがて明治も終り大正時代となった。これより先、男子校には高橋彦之丞がそのまま居残ったが明治44年4月の異動で吉田町に去り、後任には北宇和郡三島村出身の赤松和江が来任した。北宇和郡視学の清家吉次郎の力が預かって大をなしたということである。
女子校長には津島郷立尋常高等小学校長の兵頭賢一が転入してきた。2人の性格は人間的にも、また教育方針にもかなりの相違点があったが、何れも教育者とし ての強い情熱と高い見識を持ち、それを実践した処は両者共通のものがあった。而して宇和島教育界に早くも黄金時代を現出するに至ったのである。
赤松校長の下からは後に和霊校長二宮弥助の如き、明倫校長山口久米助の如き有為の人材が輩出し、女子校の如きは当時破格ともいうべき文部省の選奨を受けた。即ち模範校になったわけである。
個人としては2人共に他に先駆けて奉任待遇となり叙位の沙汰を受けた。
「宇和島の明治大正史」より引用

引用終わり



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戎山の歴史 6(戦時体制) 昭和15年~21年



昭和15年

1月27日

1区長改選
 区長 早川長七
副区長 水野實太郎


6月6日
6電話設置に対する委員

正副区長

部落側 山本増吉 古島時夫

市会議員 田中又雄

消火班長 古島朔


本日米配給制実施に付き区民に報告す


戎山町内会新役員次の通り

町内会長 水野實太郎
副会長  吉良初太郎

(以下部落台帳昭和10年~より)
10月10日
1,宇都宮正雄氏部落加入す 酒2升
1,形岡氏より部落に対し、子供三人とも無事帰郷に付き、寸志を協議の結果頂く事に決す
1,鍋島家火災に付き見舞いを各人思い思いにすることに決す
1,区長会の事(不読)
1、当日山路宗禅を5日に行う事に決す
1,鍋島見舞金計、金1円30銭を区長に差し出す

11月30日

戎山町内会長 水野實太郎
   副会長 吉良初太郎

部落墓地管理者兼寺総代 河野國太郎
坂下津2部 戎山合併委員
       山本増吉
       古島朔
       形岡正義
       古島時夫

氏子惣代は別に専任とす町内会長任期満了の者がなる事
町内会長任期は2ヶ年とす
針金の配給は必要に依り区長の元迄申し出る事

昭和15年12月8日
第一回戎山町内会開催す

欠席者氏名
木下音松 河野國太郎 古島キセ

決定事項
町内会経費毎月10銭宛の会費を集めて一か年の予算を立て運営を行うものとす
(以下略)


(部落台帳、以上)



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戎山町内会規約帳  昭和拾五年拾弐月八日

 

信条

1皇室を尊崇し敬神崇祖の美風を顕揚す

2挙国一致大東亜新秩序の建設を邁進す

3隣保相扶の精神を重し共存共栄の実を挙ぐ

4国民新体制に則り公益優先滅私奉公の誠を盡(つく)す

5相互に人格を尊重し協同一致以て皇道翼賛の大成を期す(朝に礼拝夕に合掌)

 

戎山町内会規約

 

第1条

本会を戎山町内会と称す

 

第二条

本会は萬氏翼賛の本旨に則り皇国臣民たるの責務を完うし隣保相扶の実を挙げ生活安定上必要なる機能を発揮し以て区民の愛国総親和を組織す

 

第三条

本会は戎山町区民全部を以て組織す

組合の地は奥組を第一組、第二組は杉の谷より先とす

 

第五条

本会は事業進展を期する為左の部門を設く

1産業経済部

2教化部

3軍事警防部

4保健衛生部

5社会部

6納税貯蓄部

第六条

本会は左の役員を置く

会長一名 副会長一名 組長二名 部長六名

会長は会員の互選により市長の選任を受くるものとす。

副会長は会長之を選任す

他の役員は会員の互選に依る

各役員の任期は二年とす

 

第7条

1会長は会務を総理す

2副会長は会長を補佐し会長事故ある時これを代理す

3組合長は組合統制並びに事務を総理し事業常会の座長となる

4産業経済部長は産業経済に関する事業調査計画並びに事務を総理をなす

5教化部長は教育教化に関する調査並びに指導にじ青少年の指導に当たる

6軍事警防部長は軍事警防に関する事業調査計画並びに事務の総理に仕し軍人遺族家族の救護銃後奉公の事務防空防火応召入営入国者等の慰問のに当たる

7保健衛生部長は区民の保健衛生に関する事業の調査計画の事務に任じ衛生組合結核乳幼児の保護等事業に当る。

8社会部長は社会事業に関する各種の調査計画並びに事務にじ区民の生活改善貧困者救済年末同情金犯罪防止各種寄付金の理に当たる。

9納税貯蓄部長は納税貯蓄に関する事業の調査計画の事務に任じ貯蓄組合事務貯蓄の勧誘納税組合の事務に当る。

 

第八条

本会に会長の推薦により顧問を置く事を得、顧問は会長の諮問に応じ意思を述ぶ

 

第九条

本会は八日に常会を開催す

但し必要に依り臨時常会をかいさいするものとす

但し必要に応じ主婦又は青年会合にて代わることあるべし

 

十条

総て会合には各戸必ず一名以上出席することを要す。

 

十一条

本会の経費は区費その他の収入を以て之を充て毎年年末常会に於いてその収入を報告するものとす

 

十二条

本規約は昭和15年12月8日より実施す




昭和16年1月3日

戎山海岸道路修繕工事を実施す

工事費399円その半金を市より補填
工事人夫は区民員、総動員で工事に当たる



(以下部落台帳昭和10年~より)
昭和16年7月15日
早川長七君、応召に付き部落中餞別左の通り
現金5円 お札代三円、ハダマブリ代25銭
計8円25銭

氏子惣代は早川長七は応召に付き早川長七任期間は浜田朝吉氏に決定す
藤田虎美入営に付き部落中餞別
軍服代として17円 御カグラ代3円 ハダマブリ代30銭
計20円30銭なり

応召兵留守宅は戸主と認められる者は総ての区費は免除する事

入営応召兵餞別決定事項
留守宅よりは1升の酒も受け取らぬ事決定す
餞別白米一表とす

死亡者宅では一切の〇飯はせぬ事を決定す
1人当たり1合以上は貰わない事決定す

(部落台帳、以上)


昭和17年9月19日

鹿島千松氏部落中代参拝五社を参拝す
御祈禱代、三社で4円50銭
現金2円で合計6円50銭を部落中が見舞いする

弁当箱配給当選者、5名
(部落台帳)


昭和18年2月8日 決定事項

酒一升に付き5円の国債買い入れの事

不幸の場合は国債買い入れることなく三升を給付の事

(以下略)

(以下部落台帳昭和10年~より)
1月1日
戎山町内会長 吉良初太郎
       古島忠雄
班長(鼻組) 浜田喜太郎
班長(奥組) 浜田朝吉


第三条

本会は戎山町区民全部を以て組織す

組合の地は奥組を第一組、第二組は杉の谷より先とす

 


作者註・班は杉の谷より分かれる

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杉の谷(推定)




昭和18年度第一回紺足袋抽選番号の記

2023-05-30 21.29.14



(部落台帳、以上)



昭和19年5月8日

酒一升に付き、国債買い入れの事とし国債消化できざる場合市民税割り当てに追加するものとす


(以下部落台帳昭和10年~より)

常会長(町内会長) 濱田朝吉
副会長       河野利晴
第一班長(奥組) 山本増吉
第二班長(鼻組) 早川長七
    
(部落台帳、以上)





昭和20年3月8日

応召、葬儀など各一升宅区より配給する事に協議す

(以下部落台帳昭和10年~より)

2月8日

町内会長 山本増吉
副会長  (空欄)

班長兼衛生部長 鹿島松治郎
班長兼警防部長 藤田孝季

(部落台帳、以上)

昭和21年
(以下部落台帳昭和10年~より)

区長    新井留次郎
区長代理  藤田孝季
第一班長 河野利晴
第二班長 河野タツヱ

相談役 濱田喜太郎
 〃  山本増吉

農事組合長 吉良初太郎
副組合長  鹿島千秋




(部落台帳、以上)


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戎山の歴史 5 昭和10年~14年


昭和10年
部落協議録より

1月30日、部落集会


政府貸与の低利資金の養蚕実行組合名義を借り部落で1100円を申請せり


宇和島市合併条件の促進さすため委員条例を設け委員を選定せり、正副区長および組長、大塚勇藏、松廣藤吉、早川長七、浜田朝吉、以上就任す

3河野國太郎申し出に付き、若宮神社腐(キョウ)に付き新築する事を計りしが、満場一致を承認せり


浜田傅吉氏部落加入する事承認せり


納税組合を部落全般組合として組織する事を決定す役員選定は次回の集会に回す事



5月17日

肥料資金定理金借り入れ

先2名連署を以て農工銀行・・・

一金17円70銭也

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農工銀行宇和島支店



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浜野ハル氏長男、保夫、広島へ入営 (除隊まで)区費免除


新区長(11年)


(正)山本増吉
(副)形岡正義



昭和11年


4月23日
大塚勇藏君、市会議員当選

6月1日
田中又雄君 水野實太郎君、部落加入


旧7月16日
念仏集会

山本寅一君、部落加入


昭和12年
旧7月16日、組長選挙

当選
河野國太郎
松廣藤吉


中井戸の役員は時の区長とす

衛生役員は選挙する事


昭和13年

1月1日

松廣君一身上の都合により組長辞職
役員会により水野君を推薦の事
組長水野實太郎君


1月10日

河野利治君入営に付き、軍服餞別なり
代金8円80銭


1月4日役員選挙

区長
(正)形岡正義
(副)鹿島松治郎

4月15日部落集会



保手橋寄付金に関する件


防空演習を実施する件

保手橋寄付金は当区より20円寄付する事に決定

一戸当たり1円

8月28日集会

1つ
家庭防空組合に関する件

1つ
防空カバー注文の件


家庭防空組合結成は万やむおえざる迄一時中止する事と相成る

防空カバー注文する事と相成り

市議会議員に関する件

満場一致にて当区より田中又雄氏を推薦せり






9月8日区会召集す

納税組合




2023-05-06 21.57.41


防護団選定の件(人員2名)

協議、区長一任となる

区長任命により、益田繁助、鹿島松治郎両氏を推薦せり
但し、1日1円として日給を支給する事

防護団(ぼうごだん)とは、1932年から1939年までの日本で、民間における防空活動を行うために地区ごとに設けられた団体である。もと防災活動にあたる民間団体として東京で構想され、陸軍の働きかけで空襲による大火災に備えることを主任務とし、各地に広がった。1939年に警防団に代わることになり、解散した。wikipedia

9月14日役員会開催す

水野實太郎氏、応召につき送別会に関する協議す


明倫巡査餞別


8月11日(旧7月16日)
お念仏開催す

道路改善尾見を協議せり

不参加は1円を徴収

旧7月7日(日にちが前後している)

区中、井戸掃除を行う

松枝切って浜田氏へ売りて同日の酒代となしたり

9月25日より10月5日まで
第4回防空演習が行われ当区より益田繁助氏10日間服役せり
1日1円、10円支給せり


10月24日
甘藷切干政府納入 出荷に付集合す

註 13年より、浜田喜太郎の名前が見える(部落台帳)

14年

1月22日市農会麦渡し

2023-05-16 22.15.18


2023-05-16 22.15.25



2月5日
第2回消防組寄付金捻出の件

一戸当たり2円以上寄付する事決定する


2月6日(旧1月16日)
例年のお念仏を行えり

古島幹夫君部落に加入せり決議し満場一致加入を承認せり
その時古島君より酒2升部落に入るため出されたり



4月13日部落集会

1消防組寄附の件

1若宮神社寄付の問題は河野氏と協議の決定問題。
所有は河野氏であるが、万一河野氏、他へ行くような事があれば時の区長に一応相談して行く事と定められたり。
若宮神社の寄附は自己の思い思いに寄附いたすこととなりたり

4月28日
浜田久君?入営に付き寄附7円


4月13日集会の続き


近頃は区会の集会致せしも区民の集合が悪いが為、出来るだけ区会を致さぬよう、現在の役員以外に4名の役員を置き役員会にて協議を行う事決議する左の役員を選任する

山本増吉 古島朔 早川長七 鹿島千松 4名のものに決定せり

7月30日区会を催す
形岡正義区長を応召のため解任す。同日後人区長代理に鹿島松治郎君を満場一致で後任区長に推薦せり
(副・作者註)区長代理選挙の結果、早川長七当選せり
当日後任者に一切の事務申し送りせり

基本金
26円56銭



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戎山の歴史 3 昭和7年~8年

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昭和7年

2月28日

保安会役員

幹事  山本増吉
評議員 早川長七
評議員 鹿島松治郎


当部落では、消防組は組織せず

津江七太郎 当部落に加入せり(作者註・現在の住田氏の住居)

10月16日 部落総会

区長  松廣藤吉
副区長 古島朔(はじめ)







昭和8年

1月4日午後六時部落会

村救農土木土木に関係した保手橋架設の件に付、村議決定したにもかかわらず非(否)決した事に付き部落から委員を送って積極的に進める事

委員は大塚勇藏氏

古島小太郎 山本増吉(作者註・昭和5年の名簿に名前登場す)正副区長

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昭和9年に、九島橋(現在の板島橋)が出来るまではこの保手橋が最も下流の橋だった。(作者註)





2月10日
区長宅で、旧16日のお念仏祈祷を成す

当日、今後部落のお念仏祈祷不参加者は科料、金50銭を徴収する。

(作者註 昭和8年2月10日は、旧暦で1月16日である)

5月9日午後8時
大塚勇藏、来る村議会議員候補に推薦され部落総会を開き各有権者を区長宅に招待し立候補挨拶



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部落協議録

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部落台帳

昭和8年2月25日

大和丸遭難寄附者

南豫自自新聞社主催
九島村役場納付

大和丸遭難事件とは

以下「友さん」から引用
1月10日午後一時発の御荘行き大和丸には数十人(総員37名)の乗客があり、マジ風が強かったが無理をして出港した。下灘村の成、須下の客を下ろし由良岬を回った時、大和丸は突然大波と強い突風を食らい、大猿島の沖にある巨大な岩礁に叩きつけられたのである。奇跡的に一人生き残った機関士は夜通し歩いて網代と云う集落へ通報に行った。網代の青年団長をしていた木網は団員を集め、数隻の小船に分乗して急行した。木網たちが収容した遺体33体は網代の浜に並べられ盛運社の船舶担当と遺族の到着を待った。
引用終り
この事故で盛運社は壊滅的な被害を蒙り、宇和島運輸との提携を余儀なくされた※






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部落台帳

9月5日(旧7月16日)
旧16日のお念仏

明倫校火災寄付(総)部落で拾円を市学務課に送金す
(赤枠の文字は、圓の異字体)

スクリーンショット (1447)




明倫尋常小学校建築昭和7年 (1)

青年団道路修繕寄付は金額を区長に一任す

加藤清一氏部落退去に付き区長挨拶
組長解職につき補欠選挙を行う

第二組組長 早川政重当選す


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昭和8年11月5日

九島村救農土路線決定戎山保手部落意思と希望を入れられぬ付税金不納同盟書を去る10月21日村会議席で村長に手渡したに付き今後対策に付き協議す
代理人松廣藤吉氏を代理人に選定し部落個人から委任状を出すこと


合併委員を選定正副区長大塚勇藏、鹿島千松、藤堂熊蔵、片岡(形岡)久吉、山本増吉に決定す。

上記の件が、山村豊次郎傳にも書かれている「村税不納決議」である。


以下、山村豊次郎傳より引用

10月31日午前9時から召集された九島村会は清家村長議長席に着き戸数割賦課の件を決議した後かねて紛争中の救農土木による道路改修問題に関し調査付託中の道路委員会決議に基づき坂下津字大福浦部落の海岸に対し2千円の予算を以て改修すべく本会議に諮ったところ坂下津選出議員三浦鐵藏氏は憤激のあまり退場するに至ったがその際

保手橋から戎山に至る新県道を先にすべきだと主張し更に本日の村会に宇和島市対三部落合併問題の附議されざるは当局者に誠意なき証なり。

と、捨て台詞を残してさっさと退場、これに続いて合併問題の村会だと珍しく参集した多数の傍聴者も、一斉に退場したが村当局側では如何に騒ぐとも合併問題は未だ村会にかける程に進行しているわけでは銘々勝手な話は聞くがこれという捕らえ処のあるはなしではないとして一笑に附し只一部のものが騒ぐだけの事と見くびっている内にこの日退場した保手、戎山及び坂下津の一部合計60名は直ちに連印を集めて左の村税不納同盟決議文を知事宛に起草し長井宇和支庁長に提出するという新しき問題が起こったのである。

村税不納決議文

我が三部落は従来村として行う事業の恩恵に浴する事薄く且つ今回の救農土木においても当然行われるべき吾らの要望は容れられず吾らは斯かる不公平にして暗き村政の下に在るを潔しとしない。この上は村税不納を決議すると共に九島村から分離し改めて宇和島市に編入方の現実を期するものである。
この機会において県は公平なる判断によりこれが実現のために援助を乞う。
11月1日 

三浦鐵藏他59名

引用終わり

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資料「山村豊次郎傳」



同年11月29日

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区長その他の手当が明記されている。


2023-04-06 17.20.17a

「村税不納決議」についての方針

「去る競技会に置き税金を合併問題促進のため滞納する事を決議せんが村とし充分の好意を持ち話が進むに付き村長の真意を確かめ之を撤回し感情を害せぬよう円満に解決を進む様役員に話し決議したり


同日、浜野円市氏部落加入を満場で決議承認す

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戎山の歴史 2 大正13年~昭和6年

同年二月の総会において、戎山区民の名前が初めて出る。




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大正13年4月5日総会


8月28日

保手橋掛け替えに付き、酒代は〇三円也とし

一行解読不明


 

御台場沖合埋立地に舟焼場に認許を出願する事

費用は共有金中を(使用)する事


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お台場と言い伝えられるところ(作者註)


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浜田海産あたりか?



 

10月27日

区長、副区長選挙す

 区長 古島小太郎 當

副区長 鹿島千松 當


12月2日

林武市、宇和島市へ転籍
部落共有金半分を割り戻す




大正14年1月25日

部落総会を開き職員住宅〇〇に関し協議し敷地買入に議決す

 

2月14日

部落対(二名の名称伏せる)との絶交に付部落会を開き村長及び保手、坂下津、有志立会の上協議し仲裁人に一任し和解となる

 

保安会幹事 河野國太郎 

仝 評議員 木下音松

 仝 仝  吉良寅平

右同日より就任す

 

 

4月8日

右、同日より就任す

部落等級下調


渡辺良正 河野國太郎


片岡久吉


鹿島千松 大塚勇藏


古島小太郎


木下音松 藤堂熊吉(熊蔵の誤り)


吉良寅平

鹿島定治郎 浜田初太郎 古島十次郎 浜田久吉


松広弥三郎 堀田幸助 早川武助 


河野豊次郎


早川トメ 新戸主鹿島源次郎 八月一日(ほづみ)類太郎


益田繁助


河野ロク



2023-04-18 22.26.37

4月28日 奥南橋新設寄付

2円31銭

21戸、一戸11銭


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坂下津小学校の話題が登場


7月20日

坂下津学校教員住宅(敷地に関し) 部落総会を催し総額6割及び保手、戎山部落が宇和島市合併し通学廃止と(なる)時、払い金前部を返金するの書(類)を提出すれば土地買入を承認する事

部落は不要なる住宅をは〇なきものと見

〇〇〇際し校庭へ建築する事を望む

8月11日

部落会を催し国勢調査及び紫〇株式に関し協議し25円二株を部落より申し込む事決定した

 



11月13日

村会議員予備選挙

7点 河野國太郎

4点 大塚勇藏

3点 古島小太郎

12月16日

部落総会に際し区長早川武助、吉良寅平満期となり

新任区長 浜田久吉 鹿島定次郎

右当選す

 

12月16日

衛生組長及び副組改選に付

藤堂熊吉(熊蔵の誤り)

堀田幸助

鹿島定治郎

満期となる

 

信任衛生組長

大塚勇藏

副組長

古島十次郎

松広弥三郎

 

12月31日

部落会開き左記事故を協議す

前区長隠退に付き藤堂熊蔵を改選す


(大正15年)5月12日

 

坂下津小学校教員住宅買入に付その代価一戸分3円20銭づつ部落共有金に支払へり(但し共有金は永久に取切にする事)

青年団夜警賃に〇一戸30銭づつ出金せり



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大正15年11月

「松山連隊秋季機動演習の為宇和島へ出張の際三島村広見川へ自動車転落の際死亡重傷せられし辻本軍曹他3名御見舞金として一戸に付6銭6厘20戸分1円32銭集めたり」(カナは平仮名表記に修正)


皮てんぷらのエッセイに
大正15年11月5日に、小松の通称「保木の坂」と言う難所で、陸軍第11師団の機動演習が行われ、折からの大雨も災いして、貨物自動車が広見川の岩盤に14メートル落下、軍曹1名、伍長勤務上等兵1名、東宇和郡出身御用商人1名が死亡、5名の重軽傷者を出したとあった。

と、ある。
しかし、軍の機密ゆえか、一切の公文書にはその記録は見当たらないと言う。

戎山部落協議録 1 広見川転落事故への見舞金

 

昭和2年1月4日

南予利用飯(販)売組合の件に付協議せり区長鹿島千松、福(副)区長早川武助坂下津学校教員住宅件に付、前一戸3円20銭づつ

納めたる件、前20戸〇〇18戸納めたるに付、二戸不足に付此度教員住宅料原価の返書をとるなれば二戸分納める事に決定その時納めたる人名左の如し

 

形岡久吉 濱田久吉 大塚勇藏 木下音松 鹿島千松 古島十次郎 古島小太郎 渡辺 藤堂熊太郎(熊蔵の誤り) 早川武助 鹿島定治郎 鹿島源太郎 松廣弥三郎 濱野初太郎 早川トメ 益田繁助 八月一日類太郎 河野ロク

山本善四郎 昭和2年1月より戎山部落に加入したる事

 

大正14年15年両年度除隊兵39名に支給すべき軍服一戸に付12銭8厘20戸分2円56銭残金4銭

 

15年11月松山連隊秋季機動演習の為宇和島へ出張の際三島村広見川へ自動車転落の際死亡重傷せられし辻本軍曹他3名御見舞金として一戸に付6銭6厘20戸分1円32銭集めたり

 

部名中地祝2銭納

 

昭和23月吉日

70円    机及び腰掛各10

3円     (5字不明

3円20銭  焼板

1円   (7文字不明

50銭  天井(5文字不明

1円   釘一式

5円   大工2人役

合計81円70銭一戸に付1円当り4月1日坂下津納入し候也

 

等級下調

山本喜四郎(善四郎の誤り?) 大塚勇藏 形岡久吉  河野國太郎 

渡辺クマ 古島小太郎 鹿島千松 藤堂熊蔵 吉良寅平 古島十次郎 濱田久吉 木下音松  
鹿島定治郎 松廣弥三郎 濱野初太郎 早川トメ 八月一日類太郎 益田繁助 早川武助

漁業下調  河野國太郎



右の通り也

5月15日

戎山部落会儀致したく候 学校先生内家協議 宅粗家 売る事と

 

7月28日

協議には誓約の事(記)し有候に付まず中(心)とに角 三浦三太郎氏の話の上立てる事と

 

10月1日

馬越運河に開設に関し調印せし氏名左の如し

 

形岡久吉 早川武助 濱田久吉 吉良寅平 松広藤吉(弥三郎?) 藤堂熊吉 (熊蔵?)

古島小太郎 木下音松 大塚勇藏 鹿島千松 鹿島源次郎

 

昭和2年12月2日より

部落会を開き左記の事故(事項?)を協議す

新衛生組長 山本善四郎殿 

   副長 河野國太郎殿

   副長 益田繁助殿

 

月日不詳

部落会を開き左記通り事故を協議す

区長 山本善四郎

 

 

昭和3年1月1日

益田栄次昭和2年10月より戎山部落加入したる事

 

1月28日

等級下調

山本善四郎 大塚勇藏 形岡久吉 河野國太郎 古島小太郎

鹿島千松 藤堂熊蔵 渡辺クマ 吉良寅平 古島十治郎 

濱田久吉 早川武助 松廣弥三郎 鹿島定治郎 木下音松

八月一日類太郎 鹿島源太郎 早川トメ 河野ロク 益田繁助

益田英治

漁業下調  河野國太郎

 

昭和3年11月

部落市合併問題の為集会を開き協議し結果その解詰(解決?)に付、交渉委員として、時の正副区長、大塚勇藏議員 河野國太郎 古島小太郎 藤堂熊蔵に決定す

 

 

昭和3年11月29日

当部落仲決算 前述のとおり決定す

仲入用

(金額不明) 区長 弁当代

(金額不明) 副区長 仝

(金額不明)(役職不明)酒代

(金額不明)(役職不明)肴代

(金額不明)(役職不明)宿禮

(金額不明)(役職不明)樒御供養

(金額不明)(役職不明)不明

 

昭和4年2月14日

(3文字不明)に依り部落共有金貸付利子一ヶ月壱(割)年中壱割に改め貸付する事に決議す

 

昭和4年12月

新衛生組長決す

濱野初太郎

濱田朝吉(久吉?)

木下音松

 

12月

新任区長決す

形岡久吉

吉良寅平

昭和4年度12月昭和(昭和5年度12月←書き足したと思われる)

当部落仲決算左の通り

 

5円也 区長 弁当代

2円50銭也 副長弁当代

2円50銭 区長酒代

1円50銭也 区長肴代

1円也      宿禮

1円也      スミ代

1円20銭也  大師樒御佛供代

2円20銭也  (4文字不明)納代

10銭也 部落地(2文字不明)

計17円也

2円也 青年酒代

 

 

昭和5年4月10日 等級下調

大塚勇藏 形岡久吉 山本増吉 河野國太郎 古島小太郎

藤堂熊蔵 古島重治郎(十次郎)吉良寅平 濱田久吉 松廣弥三郎 鹿島定治郎 鹿島千松 木下音松鹿島源太郎 早川トメ 

濱野初太郎 益田繁助 益田英治 早川武助

 

漁業下給調 三等河野國太郎

 

 

昭和6年度等級下調

 

不鮮明により省略

 

 

昭和6年4月11日夜部落総会を・・・致し、部落共有金を昭和・・元金を限りとして各人に割金を利用し分配する事決定す。



昭和6年12月

新任区長決す

早川長七
加藤清一




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戎山の歴史 1 明治22年ー大正12年




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宇和津彦神社の摂末社の手水鉢裏の文字から


明治28年9月吉日

石工

清水辨蔵

の名前も確認されている。

この時代すでに、戎山に人が住んでいたと推定される。


さらに




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戎山の元集会所があった土地

部落の中地(共有地)である。

奥(左方)に井戸が見える


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この石仏は、浜田茂道氏(故人)の話によれば、昔井戸が枯れたときに、石仏を建立して祈るとたちどころに水が出たの言い伝えられる。
今も近在の方の供養が絶えない。



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左は大師像であるは分かる


八十八ヵ所

明治2?7年9月?

小島小太郎(古島)


河崎?大造



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明治2?7年●月3日?


戎山の歴史は、審らかでないが、石碑から明治20年代には、人が住んで集落を形成していたと思われる。

さらに、現存する埋葬許可書には、大正三年が一番古い。

現在もある馬越の墓地は戎山が管理していた。


但し、古島小太郎氏は、明治10年生まれと、ある書類に記載されているので、この年18歳と言う事になる。







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2023-04-18 22.48.22


大正12年~ 部落台帳より

「大師接待」の文字が出る。

かつては遍路に対する接待をしていたのだろうか?

昭和40年頃まで、戎山にもへんろが来ていた記憶がある

2023-04-19 21.10.02

この頃、保手橋が頻繁に出てくるようになる。修理などよくしていたようだ。

当時の来村川最下流の橋なので、戎山から宇和島市にへの陸路は必ず通らなければならなかった。

余談
藩政時代、戎山に砲台が築かれ「お台場」「玉蔵」などの地名も残り、戦後地元民が大砲の弾と思われる鉄球を掘り出したという話もある。


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次に古い資料は、この旗

若宮神社 大正9年



さて、文書として戎山にコミュニティーが確認できたのは、古い順から


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「部落台帳 大正拾年 一月起」

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その冒頭に

大正拾年壹月ヨリ

 区長 河野國太郎
副区長 大塚勇藏

と、ある。

記録に残る最初の戎山の区長である

更に宅地祖の名簿に、下記の20名の氏名が記されている(順不同)

渡辺良正

 形岡久吉

 河野國太郎

 鹿島勝太郎(仙松父)

 大塚勇藏

 古島小太郎

 木下幾松

 藤堂熊蔵

 鹿島定治郎(重利祖父)

 吉良寅兵衛

 濱野初太郎

 林熊次郎

 古島(重二郎)

 松広弥三郎

 早川武助

 浜田久吉

 堀田幸助

 益田繁助

 清水倉吉

 河野ロク

大正10年

学校へ送金 36円60銭 一戸割合 1円40銭


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7月25日

艦隊入港費って何?


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大正11年11月28日

一金壱円也

但し

皇太子殿下(昭和天皇)宇和島へお出迎え費用

これは大正11年11月25日に、宇和島中学校においての奉迎と思われる。




2023-04-17 21.43.22

大正12年の新任区長
大塚勇藏

副区長
藤堂熊蔵






00-2023-03-30 22.27.16

「部落申合規約録 大正拾弐年 一月元旦調」


部落申合規約録  大正拾弐年元旦

 

旧来の陋習悪弊を打破し改良進歩を計り面目一新するの目的を以て左の規約を定む

戎山住民は各自一家繁栄を計り名誉を重んじると共に当部落を一大家族と心得一致協同和親の美風を作興する事

若し不幸にして自活し難き貧困者ある時は救助する事

他人の名誉を重んずる事

些細なることは争論せぬ事

若し事故生じたる時は区長議員保安会役員の公平無私なる仲裁に任す事

重大ならざる限り妄りに法廷に争わざる事

区内全般の幸福を進め利益となるべき事は従い個人として不便不利ありともこれを忍ぶべき事

当区内に於いて協議決定したる事は服従の義務あるものとす

正当の理由なく違背したる者は制裁を科す

選挙権は公民に与えられたる権利なれば之を行使するは国民の一大義務と心得、決して棄権せぬ事

村会議員、県会議員、衆議院議員等の選挙

学校教育を助長発達せしむる事

国家の祝祭日は国旗を揚げ特に三大節(元旦、紀元節、天長節)は休業し学校に参集して御影を拝する事

時間は正しく守る事。凡て集合の場合、遅刻せぬこと。協議の際一人発言中は勝手に話さぬ事。 正当の事由なく不参せしものに科怠金を課す。

十一

不幸の手伝いは哀悼の心より行うべき事

炊事料理の手伝いは看督人の指揮に従う事

妄りに子供を伴い行き飲食をせしめぬ事

十二

婚礼年賀その他祝賀費用を節し其の一部を区内公共事業積立金に充つる事。

 

十三

区長議員学務委員等の凡て役員の選挙は身分を問わず人材を採用する事

十四

区内へ他より転籍者は共有金元在額(現在額)の一戸割を積立つるものとす。同月より一戸あたりの共有金の積立をなすものとす(総会により、取り消し20条挿入)

十五

共有金の規約を実行するものとす。規約は共有金台帳明記してあるを以て略す

十六

役員選挙は代書せざる事

 

(十七無し)

 

十八

部落戸主集会には男戸主、女戸主の別なく集合するものとす。

十九

協議録、部落台帳、申合規約録、共有金台帳を作成し置き永く保存するものとす

各項は大正十二年一月一日より実行するものなり。

廿

一四条他より転籍者は共有金元在額の一戸当を積立つる事あるを七歩と改正する事

若し区内民をして当区内へ不都合もなく、他へ転籍するものは一戸割の半額を割戻す事

廿一

他部落民にして当村居留一ヶ月以上滞在者にして町村長の身元証明書持参して尚、前科なき者にあらざれば絶対世活(※生活)せぬ事



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「部落協議録 大正拾弐年一月元旦調」

部落協議録に拠れば、大正12年1月元旦に総会協議、



部落台帳、申合規約協議録共有金台帳を作成し永代保存をするものとす

共有金規約中第六条七条の二か条を取り消し第十九条を挿入の事

部落申合規約中第十四条を取り消し、第二十条を挿入の事

 

宇和島市合併に係し委員五名を置く

渡邊良正 古島小太郎 河野國太郎 藤堂熊蔵 大塚勇藏

 

部落申合規約第二十一条挿入の事

 

〇〇(人名省略)寄留入村し件

寄留先◇◇方、〇〇家中一人も前科犯なきものなれば部落申合規約を実行するなれば〇寄留を許すこと

(しか)も町村長証明書持参の事

共有金管理は大正十二年より古島小太郎就任決定



この時期、必要な規約、台帳を作成し、コミュニティーとして体裁を整えたのは、当時所属していた九島村から分離して、宇和島市への編入を目指していたことが伺われる。

以下、「山村豊次郎傳」から引用


宇和島市と九島村の合併問題はその源を昭和3年第3代山村市長時代に発している。

当時問題になった合併は九島村の全村問題としてではなかったが市と陸続きの保手、戎山の2部落が熱烈に合併希望を訴え最初は坂下津も加わって3部落の部落合併であった。

すなわち昭和3年6月4日、保手の清風園に3部落有志が会合し、市から福田助役が列席して市の現状を説明したのに対し、3部落側は熱心に合併を希望し合併委員を挙げてこの問題を具体化すべく運動を開始したのが、そもそも合併運動の皮切りであった。

然るにその後如何なる理由によったのか、3部落の内坂下津は次の合併陳情書に参加していないところを見ると脱退したのであろう。



陳情書



「吾々二部落は、宇和島市との合併を希望し、これを為さずに非ざれば、吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり宇和支庁当局においても、吾らの苦衷を諒察せられ一日も早くこの問題を解決する様御取計いあらんことを望む。右連署捺印の上陳情候成」



昭和2年10月16日



合併委員長 梶原計國


合併委員 戎山

九島村村議会議員、河野國太郎  戎山区長、鹿島千松  副区長、早川武助

区民、小島(ママ・古島)小太郎  同、大塚勇蔵  同、藤堂熊吉(ママ・熊蔵)  



合併委員 保手

区長、浜田清一  副区長、山本善平  区民、浅川三治  同、片山圓太郎 同、梶原計國  同、三好國三郎



宇和支庁長 高橋作一郎殿



理由書

我々二部落の合併は多年の懸案にして既に大正12年には保手戎山において村当局に稟申書を提出せし次第なるもそのまま放任され今日に至るは実に遺憾とする所なり。

これを地勢状より観るも僅かに一町に過ぎざる河川によりて区分され種々行政上の便宜に於いて九島村役場に行くより宇和島市役所に行く事が簡易にして便利なるは明らかである。

最も注意すべきは近き将来に来村川は坂下津へ貫流すべく付け替えらるると聞く(計画だけで終わったようである。地元の古老はその話しを知っている人が多い)

斯くなる時は当然に宇和島市と接続するは明らかにして道路橋梁なども完全を期し時代の要求は副わねばならぬ。然るに現在のままに放任する時は百年一日の如くこの部落の発展を望む事は不可能である。

事に教育に於いては狭小なる学校において教育を施すは子女の幸福に非ずと本年4月以降小学児童の総ては宇和島市の第二小学校(丸之内JT辺りにあった。後の鶴島小学校)委託教授をなしつつある現状にしてこれ既に行政上合併したるも同様なり。





中略



次に衛生面において考えうるも、この2部落に於いては病人患者の発生したる場合といえども村医を招聘することは殆どなく総て宇和島市の医師に診察を受くる有様にして多額の村費を支出しつつある村立病院も村医も我々2部落民にとりては有名無実と言う現状にあり



上述の如く地勢状より自治行政上より、教育衛生上より何れの観点よりするも我が部落の向上発展を期し部落民の利便幸福を計るの道は有利なる条件のもとに、
宇和島市に合併して市の大計の傘下に入るを待つあるのみなれば宇和支庁においても慎重審議以って大局に注ぎ我々部落の意の存する所を諒察せられ今秋の盛典
たる御大典記念として速やかに解決せらるる様、ご尽力あらんことを懇願して止まざるなり。

「山村豊次郎傅」引用


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同年二月の総会において、戎山区民の名前が初めて出る。




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一月十七日会議

自治会評議員に河野國太郎就任決定

農業委員 形岡久吉就任決定

 

二月十三日会議

保安会幹事、評議員満期に付き改選協議

幹事 大塚勇藏

評議員 藤堂熊蔵

評議員 形岡久吉





大正十二年四月総会



 渡辺良正

 形岡久吉

 河野國太郎

 鹿島勝太郎

 大塚勇藏

 古島小太郎

 木下幾松

 藤堂熊蔵

 鹿島定治郎

 吉良寅兵衛

 濱野初太郎

 林熊次郎

 古島(十次郎)

 松広弥三郎

 早川武助

 浜田久吉

 堀田幸助

 益田繁助

 早川トメ

 河野ロク

 河野豊次郎


 


8月17日総会(大正12年)

 

九島村と宇和島市との交渉の際に交渉員として渡辺良正君就任〇事

村議場に通うる区民二名

濱田久吉 益田繁助

 

9月12日総会、、、7行、解読不明

 

 

大正12年10月23日?総会

戎山役員、等級順序

上半期の通り




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ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制


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昭和天皇行幸と中平常太郎

昭和25年昭和天皇宇和島行啓

ある方より譲り受けた、古い写真の中から見つかった一枚

写真は、昭和25年の昭和天皇行幸に於ける、宇和島奉迎所の風景と思われる。

最初、判らなかったが

①後方の「丸劇」と「奉迎」の文字と

②当時、遺族として最前列に席を占めたおふくろ一家

③そして、近所の古老(故人)の「青年団の勤労奉仕で、東邦銀行(現・信用金庫新橋支店駐車場)前の内港埋め立て地の整備に参加した」

と言う証言からの想像である。

左方に「・・和」と名前の入った建物は「丸和百貨店」と思われる
現在、愛媛銀行がある。


さらに、

ある人からもらった、廃品の中から見つけた書籍




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前方向って日の丸の左に「四国銀行」の看板あり


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翌26年、筋交橋に代わり、新橋架設


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昭和29年ごろの地図

赤丸辺りが奉迎台と思われる。


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現在の、この辺り


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昭和25年愛媛縣行幸記念誌

この中には、昭和天皇が愛媛県に来られた時の日程や道筋が、分単位で記されている。


それによれば、昭和天皇が宇和島奉迎所にお着きになったのは、3月20日16時30分であった。

この日、松山市の御宿所「鮒屋旅館」を午前9時にお立ちになった昭和天皇は井関農機、東洋レーヨン御視察、郡中奉迎所で奉迎を受けられた後、南郡中駅より予讃本線にご乗車、大洲駅で奉迎、八幡浜駅に降りられ、酒六株式会社、八幡浜漁港の御視察後、八幡浜駅、卯之町駅で奉迎、そして立間駅(立間村)に降りられて吉田小学校(現、吉田支所)で奉迎を受けられた後、お車で宇和島に向かわれた。


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吉田町

そして、前述の宇和島市の奉迎所にお着きになる前に、宇和島市で唯一御視察になられたのが、宇和島民生館であった。16:05~16:20



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宇和島民生館は、昭和21年「宇和島市民共済会」が発足させた生活困窮者のための宿泊施設であり、授産所も併設された。

前述の「宇和島市民共済会」は昭和2年、宇和島市の方面委員(現在の民生委員に当たる)中平常太郎らが山村豊次郎市長らと諮り発足させた。7年に財団法人、27年には社会福祉法人として改組され現在に至る。

生活困窮者の救済は、当初篤志家や一般市民からの寄付を集め、これを支給していたが常々その現金支給のみの弊害を感じていた方面委員会長、中平常太郎らは授産事業を通じて、授産場を創設して失業者救済と窮貧者の生活安定を図る必要性を痛感していた。そして思い付いたのが団扇製造であった。

その他下駄、宇和島人形などもあったという

うわじま人形と中平常太郎(木屋旅館)



団扇製造は、戦前の多い年で年間生産量200万本を越え、愛媛県一の生産を誇った。、遠く台湾まで売り出されたと言う。


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某新聞の記事昭和31年

年間生産110万本とある。

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別の新聞記事 29年

生産量10万本は誤りか?

昭和天皇が、民生館を御視察になられたのは、やはり中平らの尽力を評価しての事であったのかなと思う。

宇和島民生館


吉田町をお発ちになった天皇陛下には、隣村高光村の至る所で村民の奉迎にお応えになり、さらに同村申生田から北宇和島駅前にかけて整列した成妙、三間、二名、好藤、松丸、泉、吉野生、三島、近永、日吉の各町村の学童並びに町村民八千名の歓呼奉迎する中をご機嫌うるわしく御通過、午後三時五十四分北宇和島駅前をお通りになり、これより宇和島市内の学童、幼稚園児および一般市民の熱誠あふれる奉迎に応えられつつ、四時過ぎ御視察箇所である宇和島民生館へお着きになった。

民生館では関係者のお出迎えを受けられたのち、玄関続きの一室で宇和島市長国松福祿氏から同市の復興状況をおききになり、ついで館長中平常太郎氏から事業概要の奏上を受けられたのち、中平館長の御先導で館内を御視察になり、居住者百十余名につき、ご通路に当たる一室一室の遺家族、引揚者、戦災者に対し、つぎのような懇ろなお言葉を賜った。

戦災者、吉川リサさんに
「元気を出して頑張ってくださいね」

同室の戦災者遺族土居ウメさんの子供静子、真桯、勝子、佐智子の四人に対して
「立派な人になってくださいね」

遺族藤木しげるさんに
「それはお気の毒でした。苦しいでしょうが更生に努めてくださいね。」

引揚者太田クメさんに
「大変だったでしょう。小さな子供は可愛がってあげてくださいね。」

幸造、俊子、和子、真一の四人に
「しっかり勉強して立派な人になってちょうだいね」

これに対して太田クメさんは「有難うございます」と答えてひれ伏した。

また大連から単身引揚げた老人、三好キヨさんには
「良く帰って来られましたね。御難儀だったでしょう」
とお慰めになられた。

ついで作業場にお入りにならり、展示品(うちわ、下駄)の前までお進みになられた。この時作業場で働いていたのは24,5人であったが、陛下はその状況をご覧になって
「みんなやっているね。しっかりやってくださいね」
とおっしゃった。そして中平館長から、「うちわは年産150万本で600万円の実績を挙げています。下駄の製造も一年に300万円の売り上げがあります。」とご説明申し上げると、陛下には
「あぁそう。それはいいね。あぁそう」と仰せられた。

作業場で働いている人のうち気の毒な二人、兄三人を戦死させた川本節子さん(一八)と夫を戦争に失い子供二人を抱えた河野タツヱさんを館長からご紹介申し上げると陛下には川本さんに
「大変だったでしょうね。しっかりやってくださいね」とお慰めになり、川本さんは「有難うございます」とお礼を申し上げた。次に河野さんには
「お気の毒ですね。どうかしっかりやってくださいね」
とのお言葉があり、河野さんも「有難うございます」とお礼を申し上げた。

ついで陛下には社会事業関係者のお待ち申し上げている階上へおいでになり、中平氏のご紹介で一同に
「皆さん社会事業のため頑張ってくださいね」
とご激励のお言葉を賜り、一同感激した。

つづいて展示品(アルコール、密柑酒、玩具八ッ鹿、同牛鬼、煮干しいわし、戸雁焼、真綿編物」など)をご覧になって階下へお降りになられ、再び作業場をお通りになって同所の万歳にお応えになり、再び階上へ上がられてご通路以外の居住者のお待ち申し上げる一室にお進みになり、中平館長から引揚者久留島亀子、中川コトの両人の模様をご説明申し上げたのに対し
「よく帰られましたね。苦しかったでしょう」
とお言葉をかけられ、さらに他の人々にも
「苦しいでしょうが、しっかりやってくださいね」
と温かいお言葉を賜った。一同は感激してただ涙するばかりであった。
以上で全部の御視察を終えらせられ、湧き上がる万歳の声にお会釈あそばされ階下へお進みになり、4時20分、玄関でご乗車、歓声渦巻く巷を丸の内劇場前の市奉迎場へ向かわせられた。
「昭和25年 愛媛県行幸記念誌」より


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ある日、鬼北町の旧家から、大量の団扇がでて来た。


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電話番号に市内局番がない事から、昭和41年以前のものと思われる。

これも前述の宇和島の授産所の制作かな?とふと思ったが真偽の程は未だ不明である。






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河身北陽を貫く(築地花街建設記念碑)


この記事は、2008年6月28日に「新・気功的整体師」に掲載したもの改良版です。



13日に、住吉山に登ろうと出かけたところ




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コーラルホテルの駐車場前に、石碑発見


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石応、堂崎の2つの伝説

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堂崎に行きました。


小学校と中学校の時と、2回遠足に行ったがお寺には上がらなかった。

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恵比寿山砲台

宇和島藩には3つの砲台があった。




一つ目、久良砲台(愛南町)





二つ目、樺崎砲台(築地)



そして、もう一つが小説や歴史書などには記載され、図面も残っているのですが長い間場所が特定されずに「幻の砲台」だったうちの裏山の砲台について、「お台場」「玉蔵」と言う地名が語り継がれている場所がある事を知りました。
50年程前には穴を掘っていて砲弾と思われる鉄の玉を数個掘り出し、子供達が転がして遊んでいた。。。と言う話も聞きました。

歴史を研究してる人たちと一緒に案内してもらいました。

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訪問ありがとう
プロフィール

まーきみ。

四国の片隅で「気功的な整体施術」しています。
世界で一つだけの、ココロとカラダが喜ぶ究極のリラクゼーション&トータルヘルスを目指して。
家内はフラワーエッセンスとヒーリング、ヒプノセラピーなどやっています。
夫婦で力を合わせて

プライベートメッセージ

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