以前にもふれたが、大宮庫吉翁をよく知る人が、ホールに自分の名前を残したり、自身の銅像を建てる事を認めるのは「理解でき難い」と述べたと言う。



「大宮庫吉小伝」によればかつて「ロダン像」の京都流出を防ぐために多額の寄付をしたときも「名を秘す京の篤志家」と地元紙に報じられた(大宮氏の名を報じた新聞もあった)

決して目立つ事を決して喜ぶ人柄ではなかった事が伺える。



図書館で色々調べているうちある本に出会った。



「十一文の足跡」梶原計国



P1100803


梶原計国氏の銅像(三島神社) 


000DSCN2641



梶原氏は、地域に功績のあった人々の銅像を各地に建設した実績があった。



銅像と言うのは私は亡くなった人に対して造るものかと思っていたが、そうばかりではなく生きている人間に対し「いつまでも長生きして郷土のために尽くして欲しい」と言う思いを込めて作る場合が多いらしい。



氏の最初に手がけたのはは南宇和郡出身で政財界で活躍した二神駿吉の銅像を故郷城辺町の諏訪神社に建設した事である。


amP1180915


二神駿吉

  明治元年、深蔵の次男として生まれる。

  多数の会社社長会長を歴任。

  昭和3年、第一回普通選挙に選ばれ衆議院議員となる。

  昭和36年、死去。 



銅像は昭和8年建立

大東亜戦争の金属供出で失われたが昭和31年再建された。


amP1180938


諏訪神社鳥居


その他、宇和島各地にも多くの銅像を建設するために運動するため、「いつしか私は銅像の相談所になってしまった」(十一文の足跡)と言う。





P1100681


八幡屋春太郎翁(赤松遊園地)



P1100770


山下亀三郎(翁吉田町 横堀公園)



P1100782


清家吉次郎翁(吉田役場・当時)





上記の銅像以外にも多くの銅像建設に尽力したり関わったりした(本文より)





梶原氏の著書の中で大宮庫吉翁が公会堂に多額の寄付をしたときに、元市長の中村純一氏から翁の銅像建設について相談を受けたとある。







建設場所    和霊公園

作家       木村硅治氏

建設委員長   中川千代治市長

題字       池田勇人氏

撰文       伊達宗彰氏





昭和36年に夕刊宇和島日日に梶原氏の「大宮庫吉翁寿像の除幕式に寄せて」と言う題で挨拶文が掲載されているが、彼が庫吉翁と直接交渉したという記録は見つからなかった。



しかし、他所に比べて銅像の少ない土地柄であった宇和島に銅像建設のマニュアルを作り上げた事は事実であろうと思われる。



この文中に、上記の二神氏が吉田町の山下亀三郎翁(既に物故)の銅像除幕式の挨拶の時にこう述べたと言う記録がある。



抜粋

おい、山下の兄貴、ここにあんたの銅像が出来た。



こう言えばあんたは、「お前が余計な口を利いて俺をさらしものにする」というだろう。



どっこい、そうは言わせない。



先年僕の寿像の話が持ち上がった時あんたは何と言ったか



「あんたの銅像は、あんたのために建てるんじゃない、郷里の後輩を奮起させるために有志の者の思い付いた事で、あんたの関係する事じゃない」と、僕に猿轡をはめたじゃないか。



・・・・後略・・・




尚、祝辞の中には山下翁の子息は「この悪い時期に人様へご迷惑をかけては・・」と延期を申し出たが、二神氏が説得したとある。


000DSCN2640







余談だが

九島村が宇和島市に合併したのは昭和9年だが、大正年間から宇和島市に近い戎山や保手は、学校や病院など生活圏を宇和島市と共にしていたので分離合併を望んでいた。

その合併委員長に保手出身の梶原氏の名前を見ることが出来る。





P1100150


宇和島市誌より



「吾々二部落は宇和島市との合併を希望し、これを為すに非ざれば吾が部落の向上発展は期せども望めざるの現状にあり、宇和島市庁当局においても吾等の苦衷
を諒察せられ、一日も早くこの問題を解決するようお取計らいあらむことを望む 右連署の上陳情候也  昭和3年10月 16日」