00-DSCN1778
道しるべの向こうに大正湯


00-DSCN1765
煙突


00-DSCN1779

八幡浜にある大正湯

大正時代の建物でしかも現役


00-DSCN1781

00-DSCN1782

表に座っていた人が、中に入れと言うのでお言葉に甘えてお邪魔した。

00-DSCN1785

番台に

00-DSCN1789

年季が入っている





00-DSCN1786

傘立て


00-DSCN1787
下駄箱

00-DSCN1788


00-DSCN1791

女湯入り口(許可を得て撮影)


00-DSCN1792

法律により上限が決められている。概ね理髪店の料金の10分の1くらいだとか(下記参照)


00-DSCN1793

更衣ロッカー

00-DSCN1794


00-DSCN1795
かなりの年代物


00-DSCN1798


00-DSCN1799
40番まで(欠番無し)


00-DSCN1801


00-DSCN1802
現在注油中


00-DSCN1804

かつては電気湯、薬湯もあった。

電気湯は壊れて修理不能、薬湯は六一〇ハップ(ムトーハップ)から諸般の事情により入浴剤(下記参照)へ


00-DSCN1805

00-DSCN1806

00-DSCN1807

00-DSCN1808


00-DSCN1809

00-DSCN1812

00-DSCN1813


00-DSCN1815


浴室で使っていた木の桶(お け)は昭和50年(1975年)ころにプラスチックに変わりました。イスもプラスチックになり、風情がなくなりました。木桶のころは、風呂場に『カラン、 コロン』と独特の音が響いていました。現在の風呂桶はケロリンのプラスチック製です。銭湯はケロリンのものが多いです。」
 ケロリンは、内外薬品 の頭痛薬の名称である。昭和38年に睦和商事という会社が、内外薬品に『風呂桶にケロリンの広告を出しませんか。』と持ちかけ、最初東京の銭湯に置かれ た。衛生上の問題から、木桶が合成樹脂に切り替えられる時期であったため、全国に波及していった。関東のものに比べ関西のケロリン桶は少し小さい。関西で は湯船から桶でかけ湯をする習慣があり、関東版だと湯が入りすぎて重くなるからである。また、初期は白色であったが、白は汚れが目立つため黄色に改められ た。

00-DSCN1816


00-DSCN1817

月曜が定休日のようだ

00-DSCN1818
日興証券

00-DSCN1819

営業前なので、女湯も撮影して良いとのことで、お言葉に甘え


00-DSCN1820

00-DSCN1828
やはり40



00-DSCN1821
赤ちゃん用のベットがあるのが相違点


00-DSCN1822


00-DSCN1823

00-DSCN1824

渡辺薬局


00-DSCN1825

ベビーと子供おしゃれ着

ベル

00-DSCN1826

室内装飾
河舞屋

00-DSCN1827




00-DSCN1829
大体浴室は同じようなつくり(左右対称)


00-DSCN1831
ケロリン

00-DSCN1832
デザインが違う
00-DSCN1834


00-DSCN1833



00-DSCN1835

00-DSCN1837

2017 11 25

田中みずき

絵を描いた人?

00-DSCN1838

00-DSCN1840
剃刀

シャンプー、リンス、歯ブラシ

50円

石鹸100円

タオル200円


00-DSCN1841



00-DSCN1845

00-DSCN1846



やはりお札は八幡神社

お礼を言って帰りました。

何時か入浴に来る日を約し。

2018年12月



データーベース「えひめの記憶」より引用
八幡浜市で銭湯を営む山内實さん(昭和14年生まれ)に銭湯の仕事の移り変わり、地域とのかかわり等について話を聞いた。
 「大正湯の創業は大正4年(1915年)です。昔、八幡浜市内には多くの銭湯がありましたが、うちが一番古いと聞いています。大 正湯という名前は、大正時代創業というのもありますが、おそらくこの辺が大正(たいしょう)町という地名だったからでしょう。このあたりは八幡浜市内でも 古い街です。うちの前を南北に走る道は宇和(うわ)に通じる古い街道で、北を東西に走る道は旧県道です。うちは東西および南北に走る昔の主要街道が出会う ところに立地していたのです。現在のメインストリートの昭和通りは、国鉄が開通した時(昭和14年)にできました。
 創業者は祖父で、私で3代目 になります。祖父が取った汽罐士(きかんし)の免許証が残っています。今でいうボイラーマンの資格です。銭湯を営業するためには、 従業員の誰か1人はこの資格が必要でした。国鉄の蒸気機関士もこういう免許が必要だったと思います。私もこの資格を昭和43年(1968年)に取得しまし た。
 建物の骨組みは創業時のままですが、改修を2回しました。銭湯はどうしても湿気が多く、建物が傷むため、内張り、床などの改修が必要です。 私が物心ついたとき、すでに祖父は亡くなっており、父が銭湯の仕事をしていました。私の記憶では、昭和20年代の大正湯は現在とほぼ同じ造りで、当時はイ モを洗うようにたくさんのお客さんが来ていました。」

   イ 銭湯繁盛記

 「昭和20年代は、ボイラー室に男性2人、 脱衣所に女性2人の従業員を雇っていました。ボイラー室では1人が火の番をし、もう1人は当時の燃料だった『おがくず』を製材所にもらいに行く係でした。 脱衣所のおばちゃん(若かったと思うが、小学生の私にとっては『おばちゃん』でした。)は、赤ちゃんの世話や、更衣の手伝いなどをしていました。『背中流 し』、俗にいう『三助(さんすけ)』はうちにはいませんでした。昭和30年代半ばまでは、本当にお客さんが多かったです。
 2人の従業員を雇っていた当時、父は番台に座っていました。客も多く繁盛していたので、父は『飲む・打つ・食う』の道楽をしていました。母が番台に座ることも多かったです。
戦 後の貧しい時代には、ほかのお客さんの服を無断で着て帰ったり、他人の履物を履いて帰る不心得者もいました。現在は靴箱も更衣ロッカーも鍵がありますが、 昔は靴は脱いだまま、服はかごに入れたままのお客さんが多かったのです。昭和30年代半ばまではそんなことがよくありましたが、豊かになってからは少なく なりました。
 また、戦後しばらくは、銭湯でノミやシラミがうつるというので、保健所の人が定期的に来て、更衣ロッカーやかごなどの消毒をしてい ました。保健所からは、衛生管理についていろいろな指導を受けました。痰壷(たんつぼ)の設置もその一つです。当時は結核がはやっていたためです。痰壷は 浴室に入ったところに昭和30年代まで置いていました。現在はレジオネラ菌などが問題になっていますが、対策として塩素を入れ、塩素濃度を測って発生しな いようにしています。うちは水道水を使用しているので比較的保健所の指導も緩やかですが、地下水を使用しているところは厳しい指導があるようです。」

   ウ 燃料はおがくず

  「私が銭湯の仕事を始めた当時(昭和42年)の燃料は、おがくずや廃材(製材して残った木切れ)でした。主な燃料であったおがくずは、生(乾燥させていな い状態)ですが火床が長持ちしました。一度に燃え上がらないでじわじわと燃え続け、一定の温度を保ちます。火床に、うまいことおがくずをスコップで補給し 続けるのにはコツがいりました。現在おがくずは使っておらず、製材所で出る廃材だけです。釜の番を40年間続けてきましたから、今では火加減などよく分か るようになりました。昔は昭和通りに6軒くらいの製材所があり、おがくずもたくさん確保できたのですが、現在はよそに移ってしまい ました。昔はそれぞれの銭湯でおがくずをもらう決まった製材所がありました。おがくずはリヤカーを引いてもらいに行きました。リヤカーは、荷台の周りにつ いたてをして、一度にたくさん運べる工夫をしていました。子どもの時に手伝いでよくこのリヤカーの後ろを押しました。うちがおがくずを取りに行ったのは、 西村製材所さんと木の折箱を作っていた谷水産業さんです。そこから昭和通りを通っておがくずを運びました。当時の昭和通りはバスが走っているくらいで、車 はあまり通っていませんでした。
 おがくずは、かなりな量が必要でしたので、毎日2、3回は製材所に行きました。当時は製材所も景気がよく、おが くずも多かったのです。しかし外材が中心になってから、製材所は少なくなりました。それと八幡浜は平地が狭いため、より地価が安く広い場所を求め、昭和 40年代ころ大洲市や保内(ほない)町に移動していったのです。現在、うちの燃料となる廃材は、毎日保内町の山下木工までとりに行っています。向こうも廃 材が処分でき、お互い様ということで無料です。夏場は、軽トラ1台分の廃材がだいたい1日分の燃料になります。燃料がおがくずから廃材に代わったのは、昭 和40年代だったように思います。昭和30年代におがくずを使っていたときは、月2,000円くらいの代金を製材所に払っていたと思いますが、銭湯が減っ てくるとおがくずが余り、製材所も処分に困るようになったため、基本的に無料になりました。
 うちのボイラーは、廃材やおがくずを焚(た)くよう な構造になっていますので、重油などの燃料は使いません。ボイラー装置は創業以来3台目になります。現在のものは平成11年(1999年)に据(す)え代 えました。今はほとんどの銭湯が灯油か重油を燃料としており、自動的に燃料を燃やしてお湯を沸かすような装置になっているようです。ボイラーのお湯の温度 は温度計を見て調整します。ボイラーの90度くらいの熱湯がパイプで混合タンクに送られ、水と混ぜて約70度(夏は60度)にしてから浴室に送るのです。
  うちで使う水は、昭和51年(1976年)までは地下水でした。深さ12mの井戸からいい水が出ていました。しかし、だんだん水量が少なくなったうえ、 51年の旱魃(かんばつ)の時、地下水に塩分が入るようになって使えなくなったのです。この時は、なめたら分かるくらい塩分が入り、石鹸(せっけん)の泡 立ちも悪くなりました。それ以降は全部水道水を使っています。八幡浜は野村(のむら)ダム(昭和57年完成)から取水しているので、断水の心配はほとんど ありません。」


 「私が八幡浜に帰ってきてこの仕事を始めたのは昭和42年(1967年)です。その時に父は銭湯の仕事を引退しました。当時の入浴料金は、大人が24 円、子どもが15円でした(写真2-1-4参照)。現在、大人は360円です。これは県の入浴料金審議会(業者・行政・学識経験者で構成)というのがあ り、約1年半ごとに見直しをするのですが、物価統制令の適用を受けるため、それ以上は料金を高くできないのです。(物価統制令は昭和21年公布。現在この 適用を受けているのは公衆浴場のみとなっている。料金の上限は各都道府県知事が決定することになっている。)現在多くなっているスーパー銭湯は、組織がぜ んぜん違うもので、物価統制令の適用外です。私が若いころには、散髪屋の料金から0を引いたら(最後の0を取ったら)風呂屋の料金とよくいわれました。私 が父から後を継いだ時、ボイラー室の2人の男性従業員はいましたが、脱衣所の女性従業員はいませんでした。もう必要がなくなったのです。
 私は昭 和43年(1968年)に汽罐士(きかんし)(ボイラー士)の資格を取りました。資格を取るために、愛媛県ボイラー協会が東・中・南予それぞれで3日ぐら い実施する講習を受け、学科試験をパスしました。資格は取りましたが、実際のボイラーの扱い方に慣れてないので、従業員のやるのを見て覚えました。なんと かボイラーを扱えるまでに半年くらいかかりました。
 父の後を継ぐことは小さい時から決めていたわけではありません。大学進学で東京に出て、しば らく向こうにいたのですが、父に呼び戻されたのです。後を継いだ昭和42年当時は、まだまだお客さんは多かったです。現在の営業時間は15時から20時く らいですが、当時は22時までやっていました。」

   オ 木桶からプラスチック桶に

 「浴室で使っていた木の桶(お け)は昭和50年(1975年)ころにプラスチックに変わりました。イスもプラスチックになり、風情がなくなりました。木桶のころは、風呂場に『カラン、 コロン』と独特の音が響いていました。現在の風呂桶はケロリンのプラスチック製です。銭湯はケロリンのものが多いです。」
 ケロリンは、内外薬品 の頭痛薬の名称である。昭和38年に睦和商事という会社が、内外薬品に『風呂桶にケロリンの広告を出しませんか。』と持ちかけ、最初東京の銭湯に置かれ た。衛生上の問題から、木桶が合成樹脂に切り替えられる時期であったため、全国に波及していった。関東のものに比べ関西のケロリン桶は少し小さい。関西で は湯船から桶でかけ湯をする習慣があり、関東版だと湯が入りすぎて重くなるからである。また、初期は白色であったが、白は汚れが目立つため黄色に改められ た。
 「うちの煙突は、昭和26年(1951年)に建て替えました。高さは15mありますが、別に基準はありません。今ごろの銭湯は低い鉄製の煙 突が多いです。重油を燃料としているのであまり煙が出ないからです。うちはおがくずや木を燃料とし、黒い煙が出るため、近所迷惑にならないように高い煙突 を作ったのです。
 電気湯、薬湯は戦前からあったと思います(図表2-1-2、写真2-1-5参照)。現在、電気湯は使っていません。電気湯は専 門の機械が釜場にありました。髪の毛くらいの太さの電線をコイルに巻いていて、1秒間に何回か電気が入ったり切れたりします。これが電気湯の両端にある銅 版に流れ、お湯に伝わるのです。平成11年(1999年)に故障し、修理するところも新品を売っているところもないため、使用できなくなったのです。現 在、電気湯のある銭湯は少なくなってきました。
 薬湯は昔から六一〇ハップ(ムトウハップ)という黄色い入浴剤を入れていました。全国の銭湯がこ れを薬湯に使用していたのです。しかし、これに含まれるイオウ成分が硫化水素自殺に使われることが問題になったため、昨年(平成20年)生産中止になりま した。現在は薬局で売っている家庭用入浴剤を使っています。
 お客さんが体を洗うのは、カランの前か湯船の周りのどちらかですが、これは地域によって特徴があるようです。うちは湯船のお湯を使って体や頭を洗うお客さんが多いようです。
  昭和40年代後半までうちの浴室にも壁画がありました。壁画は、浴室に入って正面の壁に、海に帆掛け舟、岩に松の木、そして富士山が描かれていました。壁 画のサイズは、縦2m、横3m余くらいだったでしょうか、壁一面ではありませんでした。壁画は壁に直接描くのではなく、油絵のキャンパスのような布地をは り、それに描いていました。壁の改装をして石膏(せっこう)ボードに変えた時に絵はなくしました。東京の銭湯はだいたい浴室に壁画があるようですが、それ でも東京で銭湯の壁画を描く職人は2人しかいなくなったそうです。今は業者が壁画用のタイルを張ったりしているため、絵師は商売として成り立たなくなった のではないでしょうか。うちの浴室の壁画は、地元の看板屋さんに頼んでいました。壁画の下に広告のスペースが10マスほどあり、地元の知り合いの業者の広 告を載せていました。広告料で壁画の制作費を浮かしていたのです。
 昭和50年代まではコーヒー牛乳やヨーグルトなどの飲料も扱っていましたが、現在は置いていません。子どもの客が減って売れなくなったからです。石鹸(せっけん)やタオルなど簡単な入浴用具は今でも番台で売っています。
 昔は指名手配のポスターを脱衣所に貼(は)っていましたが、最近は警察も持ってこなくなりました。昔市内にあった昭和館や八幡浜劇場の映画や芝居のポスターも貼っていました。
  脱衣所のロッカーは創業時からのものです。脱衣所の鏡や体重計は昭和20年代に設置したと思います。マッサージイスや、女性脱衣所のイス型ドライヤー、男 性脱衣所のコイン式ドライヤーなども昭和30年代、40年代の名残です。脱衣所の天井にあるプロペラ式扇風機も昭和30年代のもので、今も風呂上りにお客 さんが縁台に座って涼んでいます。」

データーベース「えひめの記憶」


sasaki

ささき整体施術院



愛媛県宇和島市坂下津乙18-5

電話番号 0895-23-7177

施術料金 1時間 3,500円

完全予約制




ma1ランキング参加中 ポチッと押してね。<(_ _)>




にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村

にほんブログ村 健康ブログ 整体へ
にほんブログ村