「79歳いまだ現役!日々録」

憂国の情やみがたし 亡国の危機を知ってしまった者の悲しみ

いまだ現役のケアマネージャーをやっております、悲喜こもごもを綴ります。

昨日、今日のごくつまらない日常


にほんブログ村

DSC01687
明治通りで ここは野中のあぜ道じゃありません、
天下の明治通りで草摘む乙女あり(ははは)

DSC01708
神田川の左岸で いつもは右岸を通りますが、今日は左岸を
ありました、柔らかい草

DSC01707
神田川の左岸で 大きくなっていますがまだ春浅い時節、柔らかい
DSC01691
あまおうの小粒3パック買いました、1,107円  明治通り産ヨモギ
DSC01700
あまおう、レモン、砂糖30% 一瓶399円、高いな
どっかの「道の駅」で山盛りのイチゴを買いたいな

DSC01711
今日の神田川産ヨモギ
DSC01714
娘が夕食食べさせてと来ましたので、娘の好きなヨモギの天ぷら
これが美味しいのなんのって!



今日は午後3時から北の方の利用者宅訪問だったので南の会社まで行くのは大儀なので2時まで写真の整理をしようと思った。
しかし旦那の部屋にあるブツを探しているとあまりにも散らかっているので、思わず掃除した。
それから写真整理に取り掛かったが、もうその時は腰が痛くてたまらなくなったのでギブアップ!

まず以下のブツを捨てる
DSC01702
支那の奥地に旅行する時に買った翻訳機、使い物にならなかった、
捨てよう!
DSC01704
これは私が買った覚えのないネガ透視機(?)
捨てる

DSC01703
36枚撮りフイルム13個、古い歴代のカメラ、
まだある筈だけどどこにあるのかな、捨てる

産経よ!おまえもか


にほんブログ村

IMG_20170323_0001


愛子さま、学習院女子中等科ご卒業
「楽しい3年間を過ごすことができました」
4月から学習院女子高等科へ

皇太子ご夫妻の長女、敬宮(としのみや)子さまは22日、学習院女子中等科の卒業式を迎えられた。

セーラー服姿の愛子さまは午前9時10分ごろ、
学習院戸山キャンパス(東京都新宿区)にご到着。

皇太子さま、皇太子妃雅子さまとともに、門前で記念撮影に臨まれた。
報道陣から中等科生活の感想を問われると、

愛子さまは「先生方とお友達に恵まれて、楽しい3年間を過ごすことができました」と笑顔で応じられた。

愛子さまは4月から、学習院女子高等科へ進学される予定。
愛子さまは中等科在学中、自然学校(群馬県みなかみ町)や臨海学校(静岡県沼津市)、広島県などへの修学旅行といった学校行事に参加された。

昨年9月下旬から約1カ月半の間、学校を欠席するなど体調が心配された時期もあったが、以降は平常通りの登校に戻られていた。
皇太子ご夫妻の公務に同行する機会も増え、
皇族としての経験も積まれた。

皇太子さまは57歳の誕生日を前にした会見で愛子さまについて
「皇族としての務めについての理解を深め、また、自覚と役割を学びつつあるように思います」と述べられていた。

感想を述べる気にもならない!

新聞


にほんブログ村

29/3/22 (水)晴れ

DSC01689
明治通りに去年植栽された街路樹の桜が咲いていました、
赤めですからソメイヨシノではないですね、


IMG_20170322_0001

今日の日経夕刊記事を見て何か違和感があった。
皇太子殿下のご長女愛子殿下が学習院中等科を卒業されたと言う
記事なんだけど、まるで芸能人一家の消息を報じるような書き方は何なんですか。
皇太子ご夫妻だの、愛子さまだの、皇室を貶めたい思惑が透けて見える、やっぱり日経は日本の新聞じゃないですね。

愛子さま、学習院女子中等科卒業 平和への思いを文集に
皇太子ご夫妻の長女、愛子さま(15)が22日、学習院女子中等科(東京・新宿)の卒業式に出席された。
4月から女子高等科に進学される予定。
午前9時すぎ、ご夫妻と登校した愛子さまは校門前で写真撮影に
応じられた。
昨秋は体調不良のため1カ月半ほど欠席し、宮内庁関係者からはほっそりした様子を懸念する声もあったが、この日は顔色もよく
元気そうな姿を見せられた。

ところでそんな時に久しぶりに新聞の拡張員が来た。
出てみたら若い男性が『朝日新聞です、なんとかかんとか、、、』と
述べた。
私「うちは産経取ってます、産経だと言うことは朝日は嫌いってことですからお断りします」
『そう仰らずにぜひ朝日もお願いしますよ』
「昔ね、朝日新聞襲撃事件が頻発した時に、どうして朝日は襲撃されるのだろうと思って6か月購読してみたわよ、そうしたら私も襲撃したくなったわよ」
彼『朝日新聞襲撃事件って何ですか』
「そうか、貴方若いからそんなことも知らないのね」
『これから調べてみます』
調べてわかったら朝日の拡販するのが嫌になるんでは
ないでしょうかね。
まだ若いから早いとこ見切りをつけて転職した方がいいでしょうね。



今日は午後からマンション売却の件で先方の業者に室内を見せた。
内装
業者と同行して改装費がどの位かかるか見て貰うようだった。

よくよく見てみたらとてもきれいな室内だった。
台所の壁がすすけてなくて綺麗と言うことは家で料理をしてなかったんだな、外食ばかりだったんだなとなんだか切なかった。

浴槽(ボイラーも)と浴室のドアと便器と湯沸かし器を去年新調したし、ベランダのサッシも取り替えてあるし、そんなところを強調した。
内装業者もほとんど金は掛かりませんねと言っていた。
写真をバチバチ撮って上司にみせて価格を判定するらしい。
幾らで売りたいですかと聞かれたので、私としては400万で売れたら
御の字だと思っていたが500万で売りたいと言った。
さてどのような返事が来るでしょうかね。


疑問を解く


にほんブログ村

29/3/21 (火) 終日雨


IMG_20170321_0005
16年2月に北支の長城炭鉱に月俸銀73元で甲種雇用される
IMG_20170321_0006
17年7月に銀79元に昇給
IMG_20170321_0007
18年8月に依願退職
帰国後に叔父さんから姪浜炭鉱に誘われたようだ、
行かなくてよかった!
IMG_20170321_0002
19年2月に技手(ギテ)として杵島炭鉱に採用
IMG_20170321_0001
月俸80円で採用
IMG_20170321_0003
20年7月88円に昇給
IMG_20170321_0004
20年10月依願退職


15日書いた「思いだしたこと」の記事がどうにも腑に落ちなくて
追求してみた。
当時昭和18年頃から20年にかけての時系列がはっきりしなかった。
私以外の人にはどうでもいいことでしょうが、
私ははっきりさせたかった。

それは父が福岡市の姪浜炭鉱に行くはずがもめている間に
20年6月に福岡大空襲があったと言うあたりと、
18年に引っ越しの為に幼稚園を中途退園したことがむすびつかないのだ。
そして引っ越し止めたのになぜ復園させてくれないのだろうと不満に思ったことを記憶しています。

父は怖かったのでほとんど直接話を聞いたことがないが
大人の話や雰囲気で察していた記憶が間違っていたことが判った。
父は北支から帰国後姪浜に行くつもりだったが条件問題でもめて
結局行かなかったのだ。

それで馴染みの杵島炭鉱に就職して終戦間際に労災事故に会い
杵島炭鉱をやめたのだ。
その前に20年6月19日~20日にかけて福岡大空襲があり、
行かなくてよかった、行ってれば被災していたという大人の話を
記憶していたようだ。

なぜ杵島炭鉱でなくて姪浜の炭鉱に行くことになったのかが
わからない。
ちなみに父は杵島炭鉱には顔が利き甥や義弟やその他の就職したい人の世話をしていた、町役場にも顔が利き姪を競争の激しかった町立病院に入れてあげたこともある、その従妹は最後は婦長になった。
それなのに子供達の就職や縁談は放置していたな。
頭下げるのが大嫌いな父だった。

幸い父が辞令を保存していたので並べてみる。
以前にもアップしたけどどうせ皆さん興味はそんなにはないでしょう。
私の納得の為です。

F1000014
今日のランチ、デイ3で 今日の料理は社長が作った、
完食

常に生老病死の憂患あり。


にほんブログ村


29/3/20 (月)春分の日 晴れ

DSC01673
DSC01674
ペット納骨堂 ペット法要も行われる
ペット
「さんご」ここに眠る
DSC01677
お斎 これが楽しみです。
仏教の場合は、法事・法要の際に、僧侶による読経のあと食事がふるまわれます。この食事をおとき(御斎・お斎とも書く)と呼びます。



今日は春のお彼岸
お彼岸には檀家寺の法要に何度か参加しているけど
今回はとりまぎれていた。

最近私の心には鬱屈している澱が溜まっているなと自覚しているので、そうだ団扇太鼓を打ち鳴らし題目唱えて憂さを晴らそうと思った。

今日の参加者は満席で今までで最高の参加者だった。
日蓮宗の法要は団扇太鼓に大太鼓を打ち鳴らしとても賑やかだ。

昨日癌の親友に久しぶりに食事しましょうと電話したら、
彼女今とても忙しいらしい。
姉妹よりもよく面倒見てくれた隣家の奥さんが正体不明の状態で
入院しているそうだ、

世話焼きだけど、息せききって喋りまくる女性で私は敬遠していたが、入院中も他のベッドや他の部屋まで行って喋り続けるらしい。
それで個室に入れられ拘束されたらしい。
5秒喋らないでと止められても2秒で喋り始めるらしい。
彼女らしい晩年の状態です。

精神科で脳をスキャンで検査したら真っ白で医者もこんな症状は
経験がないほどの重症で難病に指定されたらしい。
おまけにそのご主人は膀胱がんの既往症があるのに他に転移が見られるそうで、彼女は日頃のお礼を込めて毎日見舞いに行って面倒見ているらしい。一人娘さんが両親が病人になってしまって大変らしい。

晩年を生きるのは難儀です。
まったく三界は安きことなしです。


今朝、彼女から今日は見舞いに行かなくても良くなったので会おうと電話があったので法要が終わってからオペラシティで2時間ほど
おしゃべりした。

彼女は直腸癌になってから人工肛門を付け、卵巣、子宮、膀胱と
下半分に転移しておまけに近年はリンパにも障害があり、
その抗ガン治療が気を失うほどのきつい治療だったそうだけど
笑い話にして報告してくれる。

最近の旦那の状態から考えると全く彼女はなんという強さだろう。
それと比較するせいか旦那のヘタレが情けない。
始めて彼女に言ったわ「貴女は本当に強いね、偉いわ」
法話より彼女の話を聞く方が心が安らぎます。

私は長い事創価学会員だったのでお経を唱えることは得意です。
意味も解らず唱えていたけど意味の勉強をしてみたいと思う。

欲令衆より
三界は安きことなし。
猶(なーお)火宅のごとし。
衆苦充満して。
甚(はなは)だ怖畏(ふゐ)すべし。
常に生老病死の憂患(うーげん)あり。

DSC01683
お寺に行く途中にヨモギが萌えていましたので
お寺さんから袋を貰い帰りに積みました、とても柔らかいです。
綺麗な文旦を二個頂きましたのでピールを作りました。
DSC01686
大東島南瓜の種です、これから蒔き時期らしいので希望者に
差し上げます。

写真整理ならず!

完遂なるか!


にほんブログ村

29/3/19 (日) 晴れ 暖かい


DSC01672
ここが一番邪魔にならない場所 
以前と違って今は膝が折れませんどうやって作業しましょうか。


私は整理整頓苦手!
お掃除苦手!
捨てるの苦手!
末はゴミ屋敷住人候補ですな!

我が家の歴史である写真類が一切整理されておりません。

撮るだけ撮って溜めてあります。
まだパソコンの面白さを知らないときに一念発起してこの写真の
ように部屋の片隅に出して整理を始めたことがありますが、
何か月たっても進捗せず、タンスの上に放置してしまいました。

部屋を占領するので旦那のいないうちにやろうと思いながら
そろそろ旦那の退院も近いです。
ですが息子が所帯持つのでせめて婿入り道具として
赤ちゃん時代から少年時代までのアルバムを作成しようと
決心しました、、、が自信はありません。
明日から始めます。

今日の午後旦那が外出して来ましたが、帰ってからもんちが
ヒンヒン泣いてうるさいです。
散歩に行って帰ってきたらその感情はクリアーされて
忘れたようです。
明日も帰ってくると言っていましたからまた泣くのでしょうかね。
もんちはパパっ子ですからね。
耐えていたんでしょうね。


名画座に映画を見に行った


にほんブログ村

29/3/18 (土)晴れ

IMG_20170318_0002
DSC01661
「下高井戸シネマ」
京王線下高井戸駅傍のマンション2階にあった、
地元商店街に愛されて応援されているようです。
現在は判りませんが下高井戸商店街は元気が良くて面白かった
印象があります。美容院を予約してたもんで急ぎました。



「海賊と呼ばれた男」を封切られた頃見損なっていたので
ネットで上映館を検索したら下高井戸シネマで一日一回上映する
ことが判ってほっとした。

私は新宿渋谷で上映されなくなったらもう見られないのかと残念がっていたがこの手があったんだ、名画座。
電話したら10時上映で「海賊と呼ばれた男」は人気があるので早めに来てくださいと言われたので土曜日だと言うのに7時に起きて
もんちの散歩をして出かけたら当駅から13分も掛からずに到着した。


観た人が口々に滂沱と涙が流れたと言っていたが私は白け人間ですから批判的にみてしまいます。
私は戦前生まれなので戦中戦後の情景が演出されるドラマ、映画に違和感を持つのです。
戦後生まれの人達が気付かないおかしなことが目に付くのです。

例えば今日の映画でも復員兵が出て来ますが栄養満点です。
今どき戦中戦後の様なやせ細った俳優なんていないんでしょうが
準主役や主人公役は仕方ないとしても脇役や通行人位は
何とかやせ細ったエキストラを取りそろえるべきでしょうね。

戦前生まれはその他さまざまにおかしいと思いますが、
戦後生まれがこの世を動かしている時代になってしまったんだから
仕方ないのでしょうね。
こうして戦前戦後時代は江戸時代並みに過去の歴史となっていく。

それから寅さん映画の子役から大人になった吉岡秀隆は離島の
医師役がはまり役で企業戦士にはそぐわないと思いました。

いくら戦時中とはいえこの画面の暗さは何だろう、戦前も昼間戸外では太陽はさんさんと輝いていましたよ、以前観た「ブルゴーニュで会いましょう」も暗かったがこれは監督の嗜好なんでしょうね、戦時中がすべて暗黒だったわけではありません。

私は小学生の頃から大人の新聞(西日本新聞)を
読んでいましたので、この出光興産と日章丸が華々しくマスコミに登場した頃、高校に入学しましたので興味深くそのいきさつを追っていました。

詳しいいきさつを今日の映画で知り、納得致しました。
この映画を全否定しているわけではございません。

IMG_20170318_0001
これ面白そうだから見に行こうっと

DSC01665
今日のランチ、映画館出たらすぐそばに在ったイタリアンで
あんまり大きくてさすがに食べきれなかったので半分
お持ち帰りにしてもらいました、今夜はこれでビールを飲みます。


1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入{日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港}。
英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。

このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。

臨時福祉給付金


にほんブログ村

29/3/17 (金)晴れ


IMG_20170317_0001
今回私が憤慨しているのは日本国籍を有しない外国人にも
支給することです。
どうして外国人にまで支給しなければならないのですか、
まじめに働いて納税している日本人が可哀想じゃないですか。



私は文句の多い女です。
今回表記の知らせが来ました。
貧乏人に一人15,000円支給します。と

前回3,000円貰った人が対象らしい。

その時私はわざわざ区役所まで出向いて文句を言って来ました、
もとい意見を述べて来ました。
貧乏人に3,000円下さってもなんのつっかえもにもなりません。
例え3,000円と言えども全国にばらまいたら巨額になるでしょう。
欲しい人はそのままもらえばいいけど、辞退したい人向けの
プログラムもあるべきだと思うと、ただ辞退するだけではなくて
そのお金を何か有効な使い道を提案してそこに寄付と言う形に
したらどうですかと言ってきました。

窓口:そんな意見もありますと言っていましたけど、
集約して意見具申したのでしょうか。

3,000円ではなんのつっかえにもならないと言ったから
5倍にしたのかな。
今回夫婦で30,000円なのでありがたく頂戴いたします。

臨時福祉給付金

臨時福祉給付金(経済対策分)は、平成26年4月に実施した消費税率引上げによる影響を緩和するため、所得の少ない方に対し、
制度的な対応を行うまでの間の、暫定的・臨時的な措置として実施するものです。

DSC01577
プードル尽くし


今日は直行で1件訪問してから、出社して例の改悪プログラムソフトと格闘しました。
誰の意見も同じでとんでもないソフトです。

特に2票が最悪でエクセル仕様でまるでオーダーメイドの様な仕組みです。
私は件数が少ないのであれこれ弄っても構わないけど件数の多いケアマネは大変でしょう。

ところで元女優が私はエクセルの勉強していたので得意なのよと
あれこれ口を出してくれましたが、
私は昔シニア向けのエクセル講座を1回受けただけなので詳しいことは判りません。
元女優の配下に下っています。
今度エクセルを本格的に勉強しなくちゃ!



ったく!もう


にほんブログ村

29/3/16 (木)晴れ 富士山見える

DSC01638
昨夜の夕食、ナメタカレイの煮付けと我が家でブームの
菜の花とナスのソテー、これが簡単で結構旨い
今夜も娘と、感じの良い居酒屋で天ぷら他美味しい物を頂きました、
娘が財布を忘れて来ました、わざとじゃないと言っていましたけどね、飲めるっていいですね、憂さが晴れます。


昨日から新しい改良型(?)介護ソフトに取り掛かっている。
利用票・提供票はその前に作成していたので、引き継がれているのでちょっとした操作で使える。

昨日から計画書3票の作成にかかっているんだけどこれがもう
どうなっているの、と不思議な書類が出来上がる。

エクセルで作成してあるけど使い勝手が非常に悪い、こういう書式の事をなんというのか知らないけど書類に殿とか様とかの敬称、署名捺印の欄をいちいちチェック入れないと反映されない。
それも戻ってみると又いれなおさなければクリアーされている。
そんな書式ってありますか。

社長が意見をじゃんじゃん言わないと改良されないよと言うので、
ヘルプセンターに電話したら担当者が空き次第電話しますと言うが
昨日はとうとう電話がこなかった。

今日、社長命令のデイ3の責任者に電話して教えを乞うたが
彼もよく判らないのであ~でもないこ~でもないと意見交換しながら
やってみた。
私はパソコンオタクだから好きですしいろいろやってみていますが、これ解決するのでしょうかね。

社内混乱しています、私は高齢者なのでついて行けないのではないかと社長が心配してくれていますが、幸いパソコン少女(ハハハハ)
ですから負けないでしょう。
まったく!この歳で新しいシステムを覚える羽目になるなんて
なんてこった!!

思いだしたこと

 
にほんブログ村

29/3/15 (水) 曇り


03_channel_o_rekishi_entotsu[1]
我が杵島炭鉱の大煙突 石炭と水は豊富に地下から出て来ますので自家発電していました。すべての炭鉱施設と社宅に
無料で配湯、配電、配水していました。
私は炭坑節は杵島炭鉱の歌だと思っていました。
♬月が出た出た月が出た杵島炭鉱(三池炭鉱)の上に出た、
あんまり煙突が高いのでさぞやお月さんも煙たぁかろう♬
04_channel_o_rekishi_botayama_syoki[1]
初期の頃のボタ山
01_omachi_chou_zenkei[1]
有明海から佐賀平野を蛇行している六角川と
おびただしい炭住街、全て納屋(炭住)です。
右側の堤の周りには社宅(社員用)の一戸建てがありました、
セコムの社長になった杉町君も住んでいた、
この地域は高学歴の社員が多く住んでいたので生徒の偏差値も
高かった。
ちなみに我が家もそこに住む資格がありましたが炭鉱を辞めて
自家に住んでいました。
09_sekitan_sen[1]
六角川に港町と言う地名がありましたが、鉄道が引かれるまでは
ここから六角川の満潮を利用して(多分干満の差が激しいので)
有明海の住之江港まで石炭を運びました、
私がもの心付いた頃は国鉄に接続して引き込み線がありました、
県下一の荷扱い量だったそうです。
16_syougakkou_hitomoji[1]
日本一の小学校でした。
hontai_1[1]
大町煉瓦館 杵島炭鉱の変電所跡
私はこの近くに住んでいた。

佐賀県大町町での炭鉱の歴史は古く、江戸時代からすでに採掘が始まっていたそうです。
杵島炭鉱は昭和4年に設立され、最盛期には町民の約6割が炭鉱関連の人だったそうで、日本でも有数の炭鉱町として栄えました。

その後、石炭から石油へのエネルギー変革の波を受け、
杵島炭鉱は昭和44年に閉山しました。
 写真の“杵島炭鉱変電所跡”は、昭和2年に稼動した赤レンガ造りの変電所です。
近くの石炭火力発電所から町内や炭鉱施設に電気を送っていました。
現存する唯一の炭鉱時代の建物として、町内有志の皆さんが
“大町煉瓦館”として、修復・保存活動を進められています。



先日、東京大空襲73回忌の法要に参加した時
村田さんが講演中に空襲警報のサイレンの音を聞かせて
くれました。
そして彼は僕は実際の音は知らないので警戒警報と空襲警報の
違いが判らないのですと仰いました。
私が口を出したらさんごママは若いのに良く知っているねと
冗談をいいました。

私は実際に警戒警報は良く聞いていました。
しかし空襲警報はたった一度だけしか聞いておりません。

私の育った炭鉱町は超田舎ですが、当時の基幹エネルギーの石炭を産出する町ですから、多分戦争が長引けが空襲があったかもしれません。

わが町は佐賀平野の西の方の山の中腹にありましたので、もう少し高い所に行けば雲仙岳も見えたし、有明海の反対側にあった工業都市大牟田市あたりが戦火で赤々と燃える光景を何回も見たことがあります。
大牟田空襲

終戦間際だったと思いますが、父が労災で入院していましたので母のお使いで3歳下の弟と二人で病院へ歩いている時にいきなり空襲警報が鳴り響きました。

すぐに敵機が1機飛んできました。

道を歩いていた人々はちりじりに逃げました。
私は道の傍のサツマイモ畑に潜り込みました。
多分頭隠して尻隠さずだったと思いますが、イモの葉陰から見上げるとパイロットの顔も見えるほどの低空でした。
1機だけだったので多分偵察だったのでしょうすぐに引き返しました。

さぁ~弟はどこに、私は弟をほったらかして自分ひとりで逃げたの
でしょうか、
しかしそのうちどこかのおばさんに連れられてあらわれましたので
本当に安心しました。
おばさんがとっさに幼い子供の手を引いて避難してくれて
いたのです。
母がとても心配しておりました。

そして私達一家は戦災に会うはずだったのが不思議な因縁で免れました。
父は北支の炭鉱で働いていました、次弟が18年4月8日に生まれましたが、日本で出産する為に母と長弟と3人で帰国しておりましたので父が単身で残っていましたが終戦前に無事に帰国しました。

18年4月に幼稚園に入園しました時は、母が出産前後でしたので
叔父(父の弟)が親代わりで入園式に出てくれました。
入園児に当時貴重だったお菓子が一袋づつ配られたことがいまだ
忘れられません。

そして帰国した父は自分の叔父さんの紹介で福岡の姪浜の炭鉱に就職することにしました。
私は幼稚園を中退し、家じゅう引っ越し荷物が作られている最中に条件問題でもめたようです。
話が違うと交渉している最中に福岡大空襲で姪浜は空襲被害を受け、叔父さん達も被災しました。

もし順調に行っていたら私達空襲にあって死んでいたかもしれません。

幸い叔父さん一家は無事でしたが、我が家に来た時にその経験を話してくれましたが、経験で慣れると言うことがあるけど爆弾が落ちて来るシュルシュルと言う音は何度経験しても慣れない怖いもんだと言っていました。

母の実家は佐世保にありましたが、その家も焼夷弾で燃えました。
出征した母の弟の嫁さんが留守を守っていましたが、焼夷弾の怖さを語っていました。
消そうとするとますます広がって為すすべがなかったそうです。

結局父は杵島炭鉱で働き、事故にあい間もなく会社を辞めたのです。

話は長くなりますが、北支から帰国する時父が一緒でしたが、
関釜連絡船内で入浴した時の経験がいまだ解けない謎があります。

その浴槽は表現すれば蓑虫のように天井から吊り下げた皮袋(の様な)にお湯が入っていました。

質問魔の私は聞きました
「お父ちゃん、なぜ船の風呂は天井からぶら下がっているの」
外地に住んでいましたので標準語を話していましたよ。
『その方が揺れてもお湯がこぼれないからだよ』と
わかったようなわからないような答えでした。
いまだ解けない謎です。


福岡大空襲
1945年6月19日から翌6月20日


東京大空襲

最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

記事検索
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ