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菅原道真
(845~903)
  平安前期の貴族 ・ 学者。
  ・・・宇多天皇に仕えて信任を受け、 文章博士 ・ 蔵人頭 ・ 参議などを歴任、 894年 (寛平6) 遣唐使に任ぜられたが、 その廃止を建議。
 醍醐天皇の時、 右大臣 となったが、 901年 (延喜1) 藤原時平の讒言により大宰権帥に 左遷 され、 同地で没。
  死後、 種々の怪異が現われたため御霊として 北野天神 に祭られ、 のち 学問の神 として尊崇される。
( 『広辞苑』 )



  藤原一門の陰謀によって、 右大臣職を解任され、 筑紫国太宰府へ配転されていた 菅原道真 が病没したのは、 903 (延喜3) 年の事である。
  その直後から、 畿内一円で天変地異が相次ぎ、 疫病が猛威を振るい始めた。
  そして数年の間に、 左大臣 ・ 藤原時平 を始めとする、 道真左遷劇の関係者が次々と怪死を遂げていった事から、 俄かに 道真怨霊説 が唱えられるに至った。
  怨霊信仰の生きていた時代である。
  配流の地で怨みを呑んで没した道真が怨霊となって、 京都に災厄をもたらしているものと、 当時の人々 (天皇も、 貴顕も、 衆庶も) は考えたのである。

  醍醐天皇 は、 先の道真に対する処置を大いに悔い、 官位の追贈等・・・道真の名誉の回復に努めるが、 怨霊の猛威は一向に鎮まる気配を見せなかった。
  醍醐 ・ 村上両天皇の治世は、 律令制度下に於いて最後の天皇親政が行われ、 善政の布かれた時代であったと、 後世になってから回顧されている。
  然し、 醍醐天皇は終生・・・道真の怨霊の影に怯え続けていた。
  やがて、 道真の死から二十年、 二十五年・・・と歳月が経過しても、 左遷劇の当事者達が怨霊の恐怖から解き放たれる事はなかった。
  そして、 字義通りに廟堂を震撼させた、 異変の日を迎えるのである。

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  山城国がまたしても旱害に見舞われていた最中の、 是の日・・・930 (延長8) 年6月26日。
  清涼殿に於いて、 醍醐天皇臨御の下・・・降雨対策が協議されていたが、 俄かに北西の空に黒雲が湧き起こったと見るや、 激しい雷雨が発生した。
  渇望していた降雨に、 居並ぶ諸卿は喜色を露わにしたのではなかろうか。
  或いは、 禍々しい兆候を感じ取った者もいたで有ろうか。
  四方やの惨劇は、 次の瞬間に起こった。
  凄まじい閃光と轟音が同時に来た。
  瞬間・・・白煙が立ち込め、 廟議の場を包み込んだ。
  それが落雷であると認識された時は、 殿上は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
  列席していた諸卿のうち、 大納言 ・ 藤原清貫 以下数名が死亡し、 多数が重軽傷を負った。
  清貫もまた因果を含む人物であった。
  惨劇を目の当たりにした醍醐天皇の受けた精神的打撃は余人の想像を絶するものであったに違いない。
  醍醐天皇は俄かに体調を崩し、 それから僅か数ヵ月後に逝去する事となる。

  廟堂を震撼させた 清涼殿落雷事件天神 と化した道真の魂魄が惹き起したものであると喧伝された。
  怨霊から天神へ格が上がったのは、 同時代の人々の道真に対する畏怖の念が如何に凄まじいものであったかを物語ってもいる。