ドンッ

なぎとの会話で前を見ていなかった僕は前を歩いていた学生に軽くぶつかってしまう。目の前の彼女も後ろからぶつかられたものだから少しバランスを崩し酔っ払ったらサラリーマンみたいなヨレヨレ歩きを数歩すると立ち止まり僕たちを見てくる。

『あ。そのごめんなさ・・・』

『どこ見て歩いているの?殺すわよ?』

これが彼女と僕の初めての最悪な出会いそして死の宣告だった。

【どこ見て歩いているの?殺すわよ?】

人は驚きすぎると声が出せないと言うのは本当のことらしい。人生で始めて人に死の宣告をされてしまう。もちろん僕の不注意で彼女に当たってしまったから悪いのは変わりないのだけど・・・。

『わ、悪気はなかったんだ。ごめんなさい』

『ふんっ!!』

彼女は僕の事を睨みつけると早々に立ち去ってしまう。僕となぎは少しの間その場から動くことが出来なかった。

『す、凄かったね・・・』

僕の隣で驚いているのが幼馴染でもある桝山渚。今は一緒に学校へ登校している所だった。

『だね・・・でも、流石に殺すとか物騒だよなー。確かに僕が前を見て歩いていなかったのは悪いけどさ』

『ま、まあ。入学早々に凄い体験ができたと思えばイイでしょう』

『プラス思考すぎだと思うけどそう思うことにするよ』

『もー!元気だしなって!今日から私たち高校生なんだから!』

『そ、そうだよね!よし!気持ちを切り替えて行こう!!!』

『おー!』

なぎのおかげでなんとかいつも通りのテンションに戻ることが出来た。確かに高校生活が始まろうとしているのにこんな低いテンションで始まるなんて勿体無い。これからの高校生活は薔薇色じゃあなくてはならい。そう思っていたのだけど・・・・

『はい。という訳で今日から貴方たちは高校生になりました!これからは悪いことをしたりしたら中学とは違って退学なんてこともあるから節度を持った高校生活を送るように!それじゃあ、初めてのHRを終わります。はい!クラス委員長号令!』

『起立。礼。』

クラスメイト達は部活を見学に行ったり思い思いの放課後ライフを楽しもうとしている。しかし、僕はそうも言ってられなかった。なんと、ジャンケンで負けクラス委員長に襲名させられてしまった。そもそも、入学初日にジャンケンでクラス委員を決めるなんてどうかと思う。まあ、運で決めるっていう方法は後腐れもなく良い方法だと思うけど・・・。

『うわっ!』

背中に何か衝撃が襲って来る。すぐさま振り向くとそこには男子一名、女子二名の姿があった。

『クラス委員長おつカレーサマー!お前がクラス委員とか全然似合わねー』

右から神戸樹哉。中学からの仲で話しやすくとても気さくで彼の方がどちらかと言うとクラス委員に合っている。華やかで格好もいい。

『ホントお疲れ様。入学早々大変だね・・・合掌』

神戸の隣でニコニコしているのが日暮 優。彼女も中学からの友人で頭脳明晰、容姿端麗。学校でミス〇〇があったら間違いなく選抜されるであろう人物。その横でニヤニヤしながらなぎが話しかけてくる。

『秋ちゃんも災難だね。私が変わってあげたいよ・・・』

『マジ!?じゃあ、変わって!?』

『やだ・・・・やっぱり面倒くさいもん・・・』

『だったら言うなっての!!』

そんなやりとりを見て面白かったのか神戸とゆうも会話に混じってくる。

『ははっ。まあ、いいじゃないの。高校に入って早速役職に付けるなんていいことだろ!?』

『確かに、将来進学する時には内申点が少し上がると思うから今のうちに少しずつあげておけば良いんじゃない?』

『入学してもう再来年の心配をしなくちゃいけないんですか・・・てか、どうしてまだ残ってんの?』

『どうしてなんてご挨拶だな~。秋ちゃんを待っていたんだよ!?入学早々一人で帰宅なんてかわいそうだからさっ』

『そ、言うこと!桝山が言い出したんだぞ?ちゃんと俺にも感謝しろよ?』

『なんで神戸が偉そうにしているかは疑問だけど毎度まいどと気を使ってくれてありがとう』

『気にしなーい!幼馴染なら当然だよー』

『ホント、秋くんと渚ちゃんて仲がいいんだね』

『えへへ~』

楽しく会話をしていると僕いじりに飽きたのか神戸が暇そうに外を見ながら、

『なー。放課後一応部活とか見て回る?』

僕は急ぎ委員長の仕事。つまり日誌を書き終わらす。外を見てみると先輩たちが一生懸命部活を青春の汗をせっせと流している。その姿が僕には眩しすぎて目を反らしてしまう。

『よっし。書き終わったから職員室に提出してくる。ちょっと待ってて』

『ほいよ』『はーい』『りょか~い!』

三人をこれ以上待たすのも申し訳ないので少し小走りで職員室まで向かう。僕は、何を思ったのか旧校舎の屋上を見た。別に何かがあるとか、何か視線を感じたとかではなくただ単に偶然に見てしまったんだと思う。

『って!はぁ!??』

視線の中に入ってきたのは屋上で両手を広げ今にも飛び降りそうな一人の女子校生の姿。非日常的な光景を目のあたりにした僕は迷うことなく彼女が居る旧校舎の屋上へと走り出した。高鳴る心拍音は屋上に近づくにつれて高鳴る。そりゃあそうだ。今まさに屋上で飛び降りようとしている女子生徒を見てしまったのだから。今さら僕が走って行っ ても遅いし何も出来ないかもしれないけど【見て見ぬふりをするよりまし】だ。しかし、公衆の面前で飛び降りるなんて何を考えている!?一体何人 の人があの光景を見たのだろう?

『って、今はそんな事を考えている場合じゃあない!!』

走る。はしる。ハシル。

今まで生きてきた中でここまで本気で走ったことなんて絶対をつけてない。始めての全力疾走がまさかこんなことでなんて考えてもいなかった。全力で走ったせいか目撃してから数分も経っていないだろう。全力でドアを蹴り開ける。

ドゴッ

『痛っ!?』

鈍い音と共にドアがゆっくりと開く。気をつけて欲しい。学校の鉄製のドアは漫画のように蹴り飛ばしても綺麗に開きはしない。しかし、今考えることは自分の事でもなければ蹴飛ばしたドアでもない。あの時見た女生徒だ。当たりを見渡すとどこにも彼女の姿は見当たらない。

『ま、まさか・・・・』

僕は高鳴る鼓動を抑えつつ彼女がいたであろう場所へ向かう。

『急に扉を蹴飛ばして来るなんて何を考えているの?』

ふと後ろから女性の声が聞こえる。声のする方へ視線をやっても誰もいない。

『なにこれ!?怖い!!!!』

『どこを見ているの?私はここよ?』

冷静になると少し高いところから声が聞こえてくる気がした。ふと見上げると彼女はそこにいた。

『貴方・・・今朝の』

『・・!?あっ!今朝僕に死の宣告をした人だ!』

『失礼ね。あれは貴方が悪いんでしょう?』

『ま、まあそうだけど。ってか!?ここで飛び降りようとしていた女子見なかった!?』

『飛び降り?』

『そう!なんか両手を広げて立っていたんだ』

『・・・』

何を思ったのか彼女は顔を少し赤らめ黙り込んでしまう。何がどうしたと言うのだろう?しばらくして彼女は何を思ったのか僕が居る場所へ降りてくる。

『あ、あれは・・・・わ、わ、私よ!』

『えっ!?』

『だから、少し鳥の気分になってみたかったの!なんか文句ある!?』

『なんだ・・・良かったー。てっきり飛び降りをするのかと思って焦ったよ。あー良かった!』

久々に本気で走ってしまったせいか足が震え始める。流石に足が震えているという事を悟られては恥ずかしいので地面に座る。

『・・・あなたって不思議な人ね』

『そう?別に普通だよ?』

『普通・・・か。ふふっ・・・ねえあなた名前は?』

『ん?夏越秋(なごし あき)だよ』

『なごしあき・・・名前がもう中二病ね』

『んなっ!?人の名前を侮辱すんな!親にもらった大切な名前だっての!!』

『ふふっ♪ホント面白い人ね』

『それで、アナタの名前は?』

彼女は左手を顎に置き何かを考えている。僕は何か変な事でも言ったのだろうか。まさか、また心無い一言で傷つけられるんじゃあ・・・。そんな事を思っていると彼女は凛とした姿でこちらを見てくる。

『私は霧隠才蔵よ』

『・・・』

一瞬にして二人の周りに漂う空気が凍りつくのがわかってしまう。しかし、彼女なりのボケだったんだろうか。すかさず僕はフォローに入る。

『・・・・えっ!・・・あ、あの!有名な忍者がまだ生きていたなんて!?それも、女性!?』

『冗談よ。馬鹿なの?リアクションがオーバー過ぎてダメね』

『分かっていたけど冗談に乗ったんだよ!?乗ってあげたのに罵声を浴びさせられるなんて・・・』

『ふふっ・・本当に面白い』

『人を馬鹿にするのもいい加減にしなよ・・・』

『私の名前は蕨野瑞穂よ』

『蕨野さんか・・・』

『私、苗字で呼ばれるの好きじゃあないから瑞穂で良いわよ』

『あ、じゃあ、瑞穂さん。どうしてこんなところへ?』

『理由なんて無いわよ。ただ、気持ちよさそうだったからここへ来ただけ』

『なるほ・・・痛っ・・・』

『どうしたの?』

『あ、いや。さっき急いでてドアを蹴飛ばした時痛めたのかも』

『ドアを蹴飛ばすなんて・・・本当に馬鹿ね』

『んなっ!?・・・えっ!』

雫は罵声を僕に浴びさせながらも肩を貸してきてくれる。一体全体どう言った風の吹き回しだろう。

【私にも少しは非があるから本当は男子に肩を貸すなんて嫌だけど保健室までついて行ってあげるわよ】

『あ、ありが・・・・』

ドガン!

『!?』『!?』

僕が蹴飛ばして開けた時よりも大きな音でドアが開く。なぎが息を切らしながら血相を変えて立っていた。

『ちょ、ちょっといいかな!?』

顔を真っ赤にしながらずかずかとこちらに近づいてくる。鬼気迫るものがありなにも悪いことをしていたわけじゃあないのに後ずさりしてしまう。その行動に気が触ったのかなぎの表情がより一層に険しくなる。

『あ、秋ちゃん!?あのさ!その女の子だ、だ、誰かな!?』

顔 を真っ赤にして何を聞いてくるかと思えば本当にどうでもいいことだったため、ついつい苦笑いをしてしまう。後ろに立っているであろう蕨野もきっと苦笑いをしているに違いないだろう。反応が気になった僕は後ろを向いてみると予想を反し、微笑ましそうな表情でこちらを見ている。

『な、何か面白いことでもした?』

な ぎの疑問をさしのけて蕨野に対して質問をしてしまう。そうすると彼女は僕、なぎを見ながら笑っているだけ。流石になぎも少し戸惑っている様子だった。なぎ が真っ赤な顔をして来ただけ。ただ、それだけの話なのにそこまで笑う要素があるだろうか?すると何度か頷き改めてこちらを見てくる。

『い、いえ。なんだか、漫画を見ているような気がして。大丈夫よ。私、秋くんとは今ここでばったりとあっただけだから。あなたが思うような関係じゃあないわよ』

そ う言うと彼女は凛とした出で立ちでその場を去る。去り際にポンと肩を叩かれ耳元で『いい彼女ね』と言われたときに否定をすれば良かったのだろうけど、あま りにも唐突に耳元で彼女の声を聞いたものだからそのまま体が硬直してしまった。しばらくしてなぎの声掛けにやっと反応できるぐらいまで回復する。囁かれた 耳を触ってみると妙に熱かった。

『ねー!!本当に蕨野さんとはなにもなかったの!?』

『な、なんにもないよ!ってか、なんでなぎが瑞穂さんのことを知ってんだよ?』

『あー!へんへん!!入学したばっかりだっていうのにもう女の子を下の名前で呼んでる!!やらし!やらしー!!熟女好き!』

『下の名前で呼ぶからってなんでやらしいってことになるんだよ!それに声がデカイって!?ってか!その熟女ネタやめ!』

『だって!なんかエッチだもん!!入学初日に知らない女の子の苗字じゃあなくて名前で呼ぶとか!』

『小学生か!!ってか、小学生でもそんな事言わないっての!!お前にだって下の名前で呼んでんじゃん!』

『私は小さい頃からの仲だらかいいんだもん!』

い つものように何か気に入らないことがあったらなぎはプンプンと怒り出し結局は『秋ちゃんはエッチだ!』と言う第三者から聞かれたら明らかにド変態と言う噂 を流されかねない危険な単語をバンバンと言ってくる。それも女子が言うから余計にタチが悪い。以前も本屋でアダルト本を父親に頼まれて買った時も店中に聞 こえる声で『秋ちゃん!熟女が好きなの!!ショック!!』なんてとんでも発言をしてくれた。それっきりお気に入りで通っていた本屋には行けなくなってし まった。当然だろう。あんなでかい声でそれもアダルト本の種類まで言われてしまうと・・・ねえ・・・。しかし、タチが悪いのはなぎには悪気がないというと ころ。だから、怒るに怒れない。頭を抱えていると裾を引っ張ってくるなぎがこちらを見ていた。

『なに?』

『もしかして怒ってる?』

『へ?なんで?』

『私が、出しゃばって来ちゃったから』

『そんなことないよ。もう、なぎの暴走は慣れたよ』

『じゃあ!仲直りねっ!』

『仲直りもなにも喧嘩してないし。なぎが勝手に怒ってただけでしょ・・・ってか、なんで教室で待ってるはずなのにここにいるの?』

ふとした疑問をなぎに投げかける。そうだった。僕はたまたま日誌を提出しようとして歩いていた時に蕨野の姿を見てここまで来た。だけど、なぎはどうしてここに僕がいることが分かったのだろうか?するとなぎは何やらあっけらかんとした表情でこちらを見てくる。

『トイレに行ってて帰りにたまたま旧校を見たら女の子と二人っきりでいたから飛んできたんだよ?』

『・・・な、なんか普通の顔をして言っているけどちょっとその行動力・・・怖い・・・』

『なんでだよっ!』

そう言うとなぎは全力で肩を殴ってくる。まだ、叩くのなら可愛げがあっていいのだけどそうじゃあない。全力で握りこぶしをつくって殴ってくる。そう、叩くんじゃあなく殴ってくるのだ。ボクサーかとツッコミを入れたくなるほど脇が締まっていい形だったりもする。

『っておい!!なに殴ってんのよ!?結構女子のグーパンチも痛いのよ?』

『知らない!秋ちゃんが悪いし!』

『いやいや!!どこに僕の落ち度があるのかさっぱりんごだよ!』

『・・・』

『・・・ゴメン・・・行こっか』

なぎのゴミを見るような視線がとてつもなく痛かった。久々に女子の怖さを体験した。少しばかり冗談でも言って空気を良くしようとした結果がこれだ。余計に空気は寒くもなり悪くなりなぎにはゴミを見るような目で見られてしまった。入学初日から心が折れてしまいそう。すると僕が少しかわいそうになったのかなぎがため息をしながら背中を一発叩いてくる。そして親指を立てグッドポーズをしながら元気よく、

『発言に【しまった】と思ったらさ・・・【しまった】と言って【しまった】って言えばいいよ!!』

『・・・・・・は?』

『・・・』

なぎは先程以上に顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。

世間では春だというのに僕となぎの周りだけは冬が来たのかと思うぐらい冷め切っていた。旧校舎の屋上に居続けても先生に見つかってしまうと色々と面倒になると思った僕たちは若干いつもよりも重い空気を背負いながら屋上を後にする。なぎも先程のフォローするつもりが自分の発言で滑ってしまったのが相当精神的に効いたのか随分と静かになる。これぐらい静かにしているとなぎも十分可愛い分類の女子に入ってくる気がする。真っ黒な髪。まるで、墨汁を染み込ませたかと思うぐらいに漆黒の色をしてい る。日本人形のようでたまにこの髪を見ていると魂を持って行かれてしまいそうな錯覚に陥る時もある。それぐらい見蕩れてしまうほど綺麗な髪。なぎが色白で 余計に黒さが目立ってしまうからかもしれない。

カツカツと階段を下りていると何やら奇妙な悪寒に襲われる。たまに背筋がゾクッとするよう な生半可なものではない。憎悪、呪怨、妬みのような何とも言えない嫌な視線。と言ってもこの場には僕となぎしか居ないはず。それになぎは僕の前を歩いている。つまり僕の背中に視線を送ってくるやつなんて居るはずがない。しかし、確かに誰か後ろから僕たちを・・・いや、僕をそう言った類の感情で見ている。

睨みつけられているような・・・刺のある視線・・・いや気を抜いてしまうと首をもぎ取られてしまいそうなネットリとした死線を感じる。と 言っても感じるだけで襲って来るような感じでもない。本当は振り向いて見るほうがいいのだろうけどそれこそ怖く、視線が合うと何らかのアクションをしてこ られそうで怖かった。とく、とく、どく。静かに鼓動が徐々に早くなってきている。知らず知らずに歩く速度も速くなっていく。

『ん?どうしたの?トイレ?なんか顔色悪いよ?』

不思議そうになぎは僕の歩幅に合わせて来る。なぎを見るとテンションは少し低いが通常通りの表情。僕が感じているような視線は感じていないのであろう。こんな視線を感じてしまうときっと自分の事だけで手一杯のはずだ。なぎの言葉に返事をする余裕もない僕はなぎの手を握る。

『えっ!?どうしたの!?きゅ、急に手を握るなんて!』

『ゴメン!ちょっと走るから!』

『ちょ、ちょっと!?秋ちゃん!』

と にかくこの場にいるのはまずいと本能的に察した。高校生男子の脚力と言ってもどこまでこの視線から逃げれるかという恐怖があった。しかし、こちらからアク ションを起こす事にした。これで視線を送っているヤツには僕がその視線に気がついたといことを教えてしまうことになるだろう。それでもこの視線から逃げき れるかもしれないという可能性を信じた。信じたというよりも願った。

ひとりで走って逃げても良かったのだろうけどなぎを残して行くという 選択肢は絶対的に思い浮かばなかった。単に気がつていていないだけでなぎにもあのネットリとした視線を向けられていたのかもしれないのだから。ゆったりと 脈を打っていた心の臓も今はフルスロットルで稼働している。少しでも早く走るために両足、肺、脳、体中の必要としている場所へ酸素を運んでいく。

『ちょっと!本当にどうしたの!?秋ちゃん!?』

『ゴメン!とりあえず走って!あとで理由はちゃんと話すから!とにかく旧校舎から一秒でも早く出よう!』

『え!?・・・う、うん!分かった!』

よき理解者でもあるなぎも僕の表情を見て何かを思ってくれたんだろう。戸惑っていた表情も僕の一言で真剣な表情へと変わり引っ張り気味だった手が真横へと来る。本当は手を離し走ったほうが良かったのだろうけどそんな事を考える時間も惜しかった。

『・・・・です?』

何やら誰かの話し声が聞こえた気がした。走り際に視線をやってみると理科室と書いてあった。と言っても今立ち止まるなんてもってのほか。新校舎を目指し走る。

『ふふっ』

何やら笑い声のようなものが聞こえた。横を向くとなぎが真っ黒な髪を靡かせながら併走している。いつものなぎの元気のよい笑い方ではなく艶やかで大人っぽい微笑みに少し恐怖を覚える。

『ん?どうしたの?』

『あ、いや・・・なんでも』

枯 れ尾花。視線のせいで恐怖心を狩り立てられてしまったのか何気ない、見慣れているはずのなぎの微笑みさえも恐怖してしまった。数回走りながら空いている右 手で頬を数回叩く。こんな状況では冷静さを失うと致命的だということを誰かに聞いたことがある。そして、なんとか旧校舎と新校舎を繋ぐ廊下まで駆け出すこ とに成功する。とりあえずここまでくれば安心だろう。なんの根拠もないのだけど何となく僕はそう感じた。

深呼吸を数回しながら乱れた呼吸を整える。なぎも男子高校生の脚力についていくのが精一杯だったのか僕以上に呼吸が乱れていた。同じく深呼吸を何度もしつつ呼吸を整えている。乱れた呼吸が落ち着いたのだろう、なぎはこちらを見てくる。

『日誌だしていこー』

な ぎはどうして僕は急に走ったのかを聞いてくるものだと思っていた。しかし、何事もなかったようにいつも通りの笑顔で新校舎へと歩いていこうとする。急にな にも言わず手を握り走り出した。世間的に言えば変な事をしたと言うことになる。にも関わらず一切どうしてそんな事をしたのか?と理由を聞いてこない。なぜ だろう?そんな疑問を抱いていたのが分かったのかなぎは歩き出していた足を止めこちらを向いて来る。あまりにも真っ直ぐに僕の瞳を見てくるものだから僕は その場に立ち止まってしまった。奇妙に夕日に照らされるなぎの表情はなんら見慣れている表情なのだけど、どうしてもそうは見えなかった。逃げてきた旧校舎よりに後ずさりしてしまう。少し後ずさりしたからといってなぎから逃げきれるわけがない。と言うよりも逃げる理由がない。きっと変な視線に追われて頭の整理が隅々まで行き届いて いないからだろう。頭を数回左右に振り冷静さを取り戻す努力をしてみる、が早々に平凡な高校生男子が頭を左右に振ったぐらいで冷静さを取り戻せるわけがなかった。だからと言ってこのままなぎと離れて歩くのもおかしな話だ。なぎは何かを悟ったのか微笑んでくる。

『どうしたの?本当に秋ちゃん変だよ?』

『あ、いや・・・別に何でもないよ!』

『そう?でも、何かに怯えているみたい・・・だけど?』

ド クン。静かで大きな鼓動が僕の胸を打つ。静寂な廊下に響き渡ってしまったかのような大きな鼓動音が僕の体の中じゅうに響き渡る。血管、内蔵、骨、筋肉、僕 の体のあらゆる場所を震撼させた。夕日が少しずつ傾いてきたのか逆光になってしまいなぎの表情がよく見取れなくなってしまう。ドクンともう一度深い鼓動。 ゴクリと大きな音を立て生唾を飲んでしまう。それぐらい何かに怯えていた。コツン。と足音が前から聞こえてくる。誰でもないなぎが廊下を歩きこちらに向かってきている足音。僕の足は何かに縛られているような錯覚に捕らわれる。いや、目には見えない何かに両足を囚われている。徐々に迫ってくるなぎに僕は何をすることもできない。

『な、なんだよ』

ゆらり、ゆらりとなぎは近づいてくる。どうしようもできない。足を動かそうとしても、いや、体の何処かを動かそうとしても上手く動かせずにいた。それだけ、僕は恐怖し体が硬直してしまっていた。するりとなぎの手が僕の顔をめがけて伸びてくる。

『う、うわ!!!』

『な、なに!?秋ちゃん!本当にどうしたの!?』

『・・・え?』

先程までの不気味な雰囲気は一切感じられず僕が知っているなぎが目を大きく見開き驚いていた。

『あ・・・えっと・・・ごめん』

『本当に大丈夫?今日は入学式で疲れたんだよ。今日は見学するの止めて帰ろ?』

そう言うとなぎはポケットに入っていた携帯電話を取り出し誰かと連絡をし始める。口調からして電話の相手は神戸あたりだろう。要件だけを伝えただけなのかすぐに電話を閉じる。

『たっつんに連絡してカバンとか昇降口まで持ってきてもらうように頼んだから!行こっ!』

そ う言うとなぎは新校舎に向かい歩き出す。いつも通りの口調でいつも通りの表情だった。だけど、さっき一瞬だけ見せたあの人を取って喰ってしまいそうな表情 はなんだったんだろうか?そもそも、僕が少しばかり冷静さを失っていたからそう見えただけなのだろうか?少し先で僕を呼ぶ声が聞こえてくる。胸にできてしまった霧のようなモヤをかき消すことはできずそのまま胸の片隅へしまいなぎの後を追うように歩き出す。

新校舎へと足を踏み入れると一気に生に満ち溢れているという実感が湧いてくる。数メートルでこうも違うものかと驚かされる。生、つまりは生きている命がすぐ 側にあると実感できる。辺りを見渡せば人、人、人。学生たちが教室で楽しそうに雑談をしたり、掃除をしたり、外では野球部だろうか?必死に声を出している。そう、何かしら懸命に命を消費している。

しかし、さっきまで居たあの場所は違う。命(おと)そのものがない空間。今考えるとあんな場所によく言ったと自分自身に驚く。必死だったとはいえあんな場所へ行くなんて浅はかすぎだ。数分前の自分を戒める。

『秋ちゃん?』

『わっ!?』

気がつくと幼馴染が心配そうな表情で顔を近づけてきていた。高校生にもなってこう言う風に無防備に顔を近づけて来られるのは・・・なんと言うか・・・どう言った反応をしていいのか分からなくなってしまう。

『か、顔が近いって!』

『別にいいでしょ!減るもんじゃあないんだしっ』

『そうかもしれないけど!でも、もう少し危機感を持ってだね!』

『あー!あー!出たよー!』

『出たとか言うな!』

僕が必死にツッコミをいれているとなぎが急に笑い出す。どこに笑う要素があっただろうか?

『いつも通りの秋ちゃんに戻ったね。なんか旧校舎に行ったあたりからほんと顔色が悪かったけど今はイイっぽいね!きっと、何かあったんでしょ?でも、話しにくいんだったら話さなくてもいいからねー。でも、話したくなったらいつでも聞くから』

手を頭の上にあげひらひらとさせながらまた歩き出す。シリアステンションが一気に台無し。緊張の糸もプツリと大きな音をたてて切れてしまう。しかし、気が少し紛れたのも確かだった。僕はもう一度歩いてきた廊下を見るため振り向く。そうすると忘れていた事に気がつく。

『あ・・・視線感じなくなってるな。なんだったんだ?』