ものがたりの錬金術

世界中のあらゆる人やモノやコトから“ものがたり”を見つけて紡いで語って届ける
物語屋が“ものがたり”を紡ぐための「錬金術」の場です

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やはり一番わかりやすいのはナウシカだろうか、
キツネリスのテトやトリウマのカイ、
そして王蟲と心を通わす女性として描かれる、
彼女にそれができるのは、
作中のミトじいの言葉を借りれば、

「姫さまは、人間よりもずっと王蟲に心をひかれておられるようだ、わしは愚かでようわからんが、ただ姫さまがどんどん蟲のほうへ行ってしまうようで…」

(それでも最後まで人間たちから離れないところがナウシカの魅力なのだろうけど)

縄文の人たちが「愛に満ちた人たちだった」とかあまりに理想視することは避けたい、
実際に「愛に満ちた人たちだった」かどうかなどわかりようがないけれど、
でも、
蟲でも植物でも動物でも、
もっと言えば、土とか風とか空とか、
人間以外の「何か」たちとのふれあいは今からでは想像もできないくらいだったように思う、何せ、周りじゅう、人間よりも人間以外の「何か」のほうが圧倒的に多い中で生きていたのはきっと間違いないだろうから、
蟲とか植物とか動物とか土とか風とか空とか、
そういった「何か」の声を聴こうとするのは、必然、
というよりそれらの声に耳を傾けそれらにこちらの思いを伝えようとしなければ日々の暮らしが成り立たないほどに、ごくごく当たり前のことだった、はず、

(そのためのツールとしての土器や土偶だったのだろうと個人的には捉えている)

そしてその、それらとの「会話」のための言葉は、
おそらく人間同士のコミュニケーションで好まれるようなきちんとわかりやすく整理配列された言葉ではなく、
目にしたまま耳にしたまま触れたまま感じたまま浮かんだまま、
いわば「言葉以前の言葉」とでもいうか、
頭で言葉に組み立てる前の言葉をデッサンしたような言葉、

ましてや、
運ばれてきた猫のものがたりの種を育てようとするのであればなおのこと、

三毛猫に、
聞いてみたいことがある



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声と言葉と想像力。

4/30に移行リニューアルされた「物語屋」ホームページの、
テーマ、
というと少し大げさだけれど、
とにかくできるかぎりこの一点に収束集中できるよう、
ずっと思いだけは渦々(うずうず)していたそれを何とか形に、

三月、いや、おそらく二月くらいから取りかかりだしたから、
制作期間ほぼ二ヶ月、
できあがった文章は、決して、まったく、長くない、
このボリュームに自分でも呆れてしまう日をかけて、
しかも、

とある機関紙に寄稿の話もあったので、
(いや、まだなくなったわけではないから一応「あるので」としておきたいが)
本当は(当初は)読みやすいわかりやすいとっつきやすい文章を心がけて始めたはずだったのに、
できあがった文章は…

ウィキペディアで「散文」を引くと、
「韻文の反意語。韻律や句法にとらわれずに書かれた文章のこと」
とある。

「想像力」を極めようと語り紡ぐ「声」や「言葉」はもはや「文章」の体をなさない(限りなく「詩」に近くなる)その「声と言葉と想像力」について文章にしようとしてもやはり「文章」にはならないのだろうか、

おそらくきっと、
あれだけの時間をかけてあの形にしかできない物語屋は、
もう二度とライターの仕事には戻れないと、つくづく思った。

なんだかここまで、
やたらと自己批判的に読めてしまうかもしれないけれど、
そうではなく、
本当に久しぶりに、
今の自分が持てるエネルギーと素の芯をここまで込めることができたのはいつ以来だろうと感じられるくらいのものを、
4/30に移行リニューアルされた「物語屋」ホームページに置きました。


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縄文の人たちがパンをつくったり食べたりしていたのかどうか…
 
きっと「発酵」の不思議さには気づいていて、
というより、あれだけ周りじゅう自然だらけだった人たちが、何千年もの間「発酵」を知らないでいることのほうがかえって不自然、
実際どうやらお酒を(自然発酵ではなく意識的に)醸していたのではないかと思われるあとも、いろいろな遺跡から発見されているらしい、
 
とはいえ、
何も縄文人たちが食べていたかもしれないパンの検証をここでしたいわけではまったくなく、
 
ここのところ、
思ってもいなかった展開とタイミングとご縁のもとで、
天然酵母パンとの関わり、
特に先週赴いた三重–奈良–和歌山でのある意味「天然酵母の旅」、その不思議なご縁はそれ自体「縄文」と呼びたくなるようなもので、またどこかで機会を設けてまとめられたらと思うけど、
とにかくその天然酵母のパンを、
なかなかうまくいかないけれど何回かつくりながら感じるのが、
 
操作性
 
または
 
コントロール
 
「なかなかうまくいかない」ことも含めて、
このパンには、
つくるそのプロセスで「操作性」がまったく湧いてこない、
こちら側からのコントロールは湧きようがない、
こちらの「できること」を「できること」としてやるだけで、
あとはもう、天然の酵母たちに、
「お願いします」
と委ねるしかない、
 
そこがやっぱり、
ああ、縄文だな、と。
 
もちろん、
もしも縄文の人たちが現代にやって来て、
巷に溢れかえっている「コントロールするためのテクノロジー(パンづくりでいえばドライイースト)」に触れたら、そっちを選択する人のほうが大多数なんだろうなと思う、
だからあんまり能天気に縄文を理想視しないではおきたい、
 
ただ、
「コントロールのテクノロジーに初めて触れた縄文人」という仮定ではなく、
そのテクノロジーを嫌になるほど知っている今の人たちが、
あえて縄文を選ぶのは、
かえってとても(縄文ではなく江戸的に w)「粋」な気がしてしまい、
 
物語屋はここでそれを、
 
「縄文クール」
 
と命名したい
 
…(笑)

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