
長い下り坂だった。
交差点を左折した後、緩やかな勾配をまっすぐ港に降りていく釜石街道。
「釜石といえば被害の大きい地域の一つだったはず」という情報が頭に残っていたけれど、バスの窓から見える風景にしばらくの間変化は見えない。「ここがラグビーで有名な新日鉄釜石だ…」などと思っていると、それは突然始まった。
「釜石といえば被害の大きい地域の一つだったはず」という情報が頭に残っていたけれど、バスの窓から見える風景にしばらくの間変化は見えない。「ここがラグビーで有名な新日鉄釜石だ…」などと思っていると、それは突然始まった。
道の両脇に並ぶ商店街の、1階の部分が消滅しているのだ。それも、とてつもなく凶大な力でもって無理矢理ねじり切られえぐり取られている。道が下るにつれ、1階だけだったその無残な消滅は2階をも巻き込みアーケードの屋根を朽ち落とし、そしてついに、街のすべてが破壊されるに至る。
道を北に折れて大槌町へ向かうと、破壊の悲惨さはいよいよ絶望的になる。溶けて喪失したような鉄道の線路。スクラップと化した車の山。まず交通を確保することが最優先されたのだろうが、道路だけが綺麗に清められているみたいにも見えて、人の住めなくなった街を作業車ばかりが行き交っているコントラストが、余計に気分を滅入らせる。
海側から少し離れた高台の家には普通に洗濯物が干してあったりもして、「津波はここの直前まで来たんだ…」ということが、割とはっきり見て取れる。その境目ぎりぎりのところで難を逃れた家に暮らし続けることの残酷さ。すぐ軒を接した近所がなくなってしまっているところでの生活が人にどんな思いを抱かせるものなのか、生半可な想像を許すことではない。
河川敷に打ち上げられた瓦礫の撤去作業。大槌港の河口から逆流した津波が、海底や川底のヘドロと一緒にあらゆるものを呑み込み運んできていて、周囲は表現しがたい悪臭に覆われていた。所々、鯖とおぼしき魚の死体も腐って転がっているのだから、その臭いたるやたまったものではない。こんな状態のままで人が暮らせるわけもなく、生活を元通りにするにはこういう地味な作業から始めなければどうにもならないことを痛感した。
木片やガラスの破片から顔を覗かせていたCDにふと顔を近づけてみるとそれは、ちょうどたまたま先日自分がとある事情でとある人に贈ったのと同じエリック・サティのCDだったこともあって、「このCDはどんな人たちがどんな経緯で手に入れどんな思いで聴いていたのだろうか」などと考えだしてしまうと、「瓦礫」といっても津波が来る直前までは瓦礫でも何でもなかったんだという至極当たり前の現実に突き当たり、心が折れてしまいそうになる。周りを見ると、作業をしているボランティアの人たちはリタイア後世代の男性たちと若い女性たちの割合が高く、特に、「できることをただするだけ」と言わんばかりに黙々と作業を続ける女性たちの姿には胸を打たれた。
リタイア後世代の人たちや若い人たちのちょうど狭間のような自分は、参加者たちのなかでどんな立ち位置に居たのだろう。普段周りにいる同年代のコネクションは、会社にいれば中堅どころが多かったり家に小さな子どもがいたり、被災地支援のこういったボランティア活動に気持ちはあってもなかなか参加できない友人知人が少なくない。そんななか、自分みたいなフリーランスの人間が思うように動けない人の分も動くべきなのだろうと手を挙げてはみたけれど、「動けない人の分も」などというほどの「動き」が果たしてできていたのかどうか…
それにしても、思いを巡らせずにいられないのは、宮沢賢治。愛してやまなかったイーハトーブが受けたこの傷に、もしも彼が今生きていたとしたらどれだけ心を痛め、そしてどういう行動に出ただろうか。
この先まだまだ膨大な日々とエネルギーが必要になることは間違いない。それに対して圧倒的に不足している人の手。何せ現地で動けている人間は、ほとんど自衛隊かボランティアかだけなのだ。
きっと、賢治の代わりに、『グスコーブドリ―東日本大震災編』をみんなで長い長い時間をかけて紡ぎつづけていかなければならないんだろうなと、そんなことを感じながら、傷だらけの“イーハトーブ”を後にした。
(2011年6月5日 岩手県花巻にて)