ものがたりの錬金術

世界中のあらゆる人やモノやコトから“ものがたり”を見つけて紡いで語って届ける
物語屋が“ものがたり”を紡ぐための「錬金術」の場です

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「作者は作品のかげに完全に隠れてしまって、ついに最後まで、ちらりとも姿を現さず、私たちの目を奪うのは、研がれて研がれて研ぎつくされた技と巧と作品のみ、そのために骨身をけずることこそが、作家にとっての本当の意味での倫理であって、人生の求道とやらを作品のなかに持ちこむことなどは、要するに、田舎者の小説家の勘違いにすぎない、ということを私たちに如実に教えてくれるのが、久生十蘭の小説である。」

かの澁澤龍彦氏が久生十蘭について語っている文章。

小説に限らず、
絵でも、
音楽でも、
映画でも、
何かを創作する人によって創作されたものにはこれを求めてしまう、
というよりそのように創作されたものが、
とにかく、
好きです。

願わくば、
自分の「語り」もなんとかその域に、

作者は作品のかげに完全に隠れてしまって、
ついに最後までちらりとも姿を現さず、
カタチとして表に残るのは、
研がれて研がれて研ぎつくされた技と巧と、
そして作品のみ…

 

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かのシャーロック・ホームズが初めて世に出た記念すべき『緋色の研究』の中で、アーサー・コナン・ドイルはホームズに「地球が太陽のまわりをまわっている知識がぼくになんの役に立つんです?」と言わせる。
驚いて目を丸くするワトソンにホームズの説明はこうだ、つまり、小さな屋根裏部屋のような脳にたまたま目についたものを見さかいなく詰め込んでばかりいると本当に大事なものが入ってこれなくなってしまう、と。

あるいは、
久生十蘭、
物語屋が来月のお盆のときに傑作『生霊』を語る同じ彼の作品『雲の小径』で「霊媒」について説明する場面、
「その方法は、霊媒が一種の放心状態になって…というのは、じぶんの魂をひと時、肉体から出してやって空家にしておき、そこへ呼び寄せた霊を入れるという手続きになるわけだが…」

そして物語屋本人は、元々の「霊感体質」などはおそらく持ち合わせていない、
だからいわゆる「それ」を感じるのにはある種のコツというか技術というか訓練というか…

もう15年以上前になる、インドのダラムサラという地にしばらく滞在したとき、ゲストハウスのルーフトップ・レストランから見る山がとても好きで、毎朝そこでミュズリを食べチャイを飲みながら、頭を空っぽにしてその景色を飽きもせず眺めつづけた、

何日目の朝だっただろう、
突然「それ」は、
来た。

「頭を空っぽにする」
別に目新しい表現でもなんでもないし、
というか言葉にするのは簡単だけれど、
でもそのとき、
リアルにその状態が自分に訪れた、
訪れてみるとおそらく初めての感覚だった、
それまではただ言葉で言ってただけで全然できたことなんかなかったらしい、
それが急に「しよう」っていう意識もなくなれたのはダラムサラという地が持つ何かのせい(おかげ)だったのだろうか?
とにかく、
「頭を空っぽにする」
本当にこうなったときにだけ「それ」は来る、
反対に言うと、本当にそうならないと「それ」は来ない。

あくまでもこれは物語屋個人のことであって汎用性のある話なのかはまったくわからない、
逆に元々「霊感体質」の強い人などは開いているとすぐに来てしまうから普段はなるべく閉じるようにしているという話もきく、
ただ、自分について言えば、
上記「ダラムサラ体験」以降、日本に帰ったあとも折につけいろいろな機会いろいろな場所で試みる中で、
「頭を空っぽにする」
これがどういうことなのか、少しずつ、頭ではなく身体が理解していったような気がしている。

8月に怪談を語る東村山の墓場山で「これ」を実践してみると、
「それ」が来たのは、
意外にも実際の墓より手前の川というか橋のほうが強い気がした…


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"おまえの中にある星たちはとにかく出つくしたか?"
"おまえは自分の想いを出しつくすことに励んだか?"


「てのわ森の中美術館」に出展する『声と言葉のデッサン』の作品に取り組んでいる間、どこまで近づけるかわからなかったけれど極力ここから離れないようにだけは心がけつづけた、なんとかつづけているうちにそのためにはひたすら他の方向に振れないように意識する必要がだんだんとわかってきた、
だって気をつけないとすぐにあっちこっち、

例えば、

もっとこうしたらああなるかも、
とか、
そのためにはもっとそっちのほうが、
とか、

それらを一言でまとめたらおそらく、
「結果」
をあれこれ考えるのではなくてとにかく、

自分の中にある星たちを出しつくすこと、
そのときに自分の想いを出しつくすこと、

難しかったけれど、
そしてそれで合ってるのかもわからなかったけど、
要はもうこれ以上、
今回の場合、声と言葉だけでなく、写真もデザインもレイアウトも、もっと言えばSNSへの告知とかも当日のディスプレイも、今の自分を逆さに振ってもなんにも出てこないところまではやってみようと、
ていうかそのくらいしかできることはなさそうで…

ただの有名でもなんでもない個人の「詩集」めいたものを手に取る人がいるとは思っていませんでした(そしてそういう「結果」すら実は求めないようにしていました)。
お求めいただいた方には、驚きとともに感謝の言葉しか述べようがありません。
さらに、この機会を与えてくださった関係各位の皆さま、何よりもいつも近くにいつづけてくれる人に今回ほど感謝を感じたことはなかったかもしれません。

たぶん、
「自信」
というのとは遠く違うと思うのです。

ただあったのは、漠然とだけど
「これ以上逆さに振ってもなんにも出てこないところまで」なんとかやったかなぁというなんとなくそれだけ、
でもこれがあると、
お持ち帰りくださった作品にお持ち帰りくださったあとで余計な心配とか後悔とか(これまではどうしても拭えずについてまわった)それらがまったく生じないことを今回初めて知りました、
気に入ってもらえるだろうか、
とか、
もっとああしたほうがよかっただろうか、
とか、
なにせだって「これ以上逆さに振ってもなんにも出てこない」わけだからそんなグダグダ思ったってしょうがないというか思いたくても思いようがないわけで、

………

"おまえの中にある星たちはとにかく出つくしたか?"
"おまえは自分の想いを出しつくすことに励んだか?"

この言葉に触れるきっかけを与えてくれた三毛猫にも感謝しなければなりません。
 

"Were most of your stars out?"
"Were you busy writing your heart out?"
( / JD. Salinger)


癪だけど原文だと韻まで踏んでる…

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