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前回からの続きになりますが…
 
相模原の博物館や遺跡を案内くださったご夫婦に、
 
「お礼のお手紙を書こう」
 
帰りの電車の中でそんな思いが浮かび、そして次の日早速手紙を書いて、
書きながら感じた、というか、感じながら書いた、それが、
 
ああ、
これも縄文かも…
 
もちろん、文字を持たなかった縄文の人たちに手紙を書く行為はありえなかったはずで、
だから、そういうことではなく、
 
手紙を書くときにかける時間、
その時間のなかで、
実にいろいろなことを感じたり思い出したりする、
雨の中一緒に土器を拾った辺りの様子が目の前に浮かんでくる、
雨とか草の匂いとか濡れた土器に触れた感覚が蘇る、
あれも言えばよかったこれを聞きたかった話し足りなかった言葉があれやこれや脈絡ナシに浮かんでは、
気がつくと、
手元に置かれた手紙に当初書くつもりのなかった文章が綴られたりしていて、
 
ふと、
 
土器とか土偶つくってるときってこれに近いものがあったんじゃないだろうか…
 
前回ひもといた「これって縄文」の一つ、
 
コントロールからの解放がもたらしてくれるもの
 
そこにもう一つ、
 
時間をかけると自分のなかに起きること
 
を加えてもいいのかもしれない、
そんなふうに感じました。
 
さらにここで結構大事な「縄文」かなと思うのは、
これらを単純に逆に言い換えたときの、
つまり、
 
コントロールからの解放がもたらしてくれるものはコントロールから解放されないともたらされない
 
時間をかけると自分のなかに起きることは時間をかけないと起きてくれない