ハイチ大地震の復興支援のため、国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊国際救援隊の1次隊約200人が約1カ月半の任務を終えて無事帰国した。部隊の軸となった中央即応連隊(中即連)の山本雅治隊長(1佐)が産経新聞のインタビューに応じ「現地で日本の存在感を示すこともできた」と成果を話した。(是永桂一)

  [フォト]重機でがれきを除去するハイチPKO

 ――派遣の総括を

 「一番感じたのは日本の国の素晴らしさ。日本人としての誇りを持って任務に当たれた。国際社会の一員という認識も感じることができ、日本という国への期待感も感じた」

 ――日本の素晴らしさどこで感じられたか

 「ハイチの国連の軍事部門の司令官はブラジル人。日本という国を非常に尊敬してくれており、会う度に『日本はきっちりと任務をやってくれる』と言ってもらえた。ブラジルは日本人移民も多く、そういう方々の歴史的な頑張りで、日本人の素晴らしい誠実さ、勤勉を知っていてくれた。われわれの活動を見て、その意を強くしたのだと思う」

 ――今回は急に派遣が決まり、そのうえ一部の隊員はソマリアにも派遣中だったが

 「PKOでこれだけ早く出動できたのは初めて。国際緊急援助隊が20人出ていたが、国連の要請でPKOに移行した。中央即応連隊は先遣隊として国際任務に赴くという戦力設計になっているので、その通りにできた。ジブチに人を出し、国際緊急援助隊にも出し、さらにPKOにも出せる。実際に活動したことで、発足から2年間準備してきたことが間違ってなかったと強く認識した」

 ――派遣当初の状況や苦労は

 「過酷な環境下で、何もない中での任務だったが、国内でもゼロの状態から宿営地を作る訓練をしてきたので、承知の上だった。ただし、初めての海外で言葉が通じない戸惑いなどはあった」

 ――宿営地の状況は

 「整地はブラジルがしていた。テントは80張りだが、中即連が持っていった専用のテントで空調付き。トイレも慣れると快適だった」

 ――現地での実際の活動は

 「大きく4つあり、1つは国連の空港施設にコンテナを設置する地盤の整地。われわれが一番初めにできることで、現地に入って10日後に2日ほどかけて行った。その後は、現地で有名なナデールの美術館に入り、全壊している建物を掘り起こして、美術品の搬出やがれきの除去を行った。後は、われわれの後にやってくるPKO部隊の宿営地を造成した。隣に、ペルーやインド、パキスタン、ナイジェリアが入る予定だったので、トウモロコシ畑を整地した。最後は、建物の耐震診断。現地の国連組織でもそういう器具をもっておらず、結構重宝がられた。1級建築士の資格を持つ防衛省の技官らがチームを組んで診断に当たった」

 ――現地の気候条件、衛生状況は

 「体感温度は40度ほど。毎日体温より高い。かつ、湿気が80~90%もある。夜は気温が下がる。被災者はトイレもなく、水もなく、衛生状況は良いとはいえなかった。われわれも当初、生活用水を確保できず、濡れティッシュなどで体をふいていた。水は買わなければならず、まず大きなタンクを調達して、そこにためた水をチョロチョロと出して体をふいていました。だんだんと水タンク車などを増やしていった」

 ――過酷な状況の中で隊の士気は

 「訓練でもそのようなことをしているので、むしろ誰も文句を言わず、やるべきことをやってくれて非常に心強かった」

 ――そういった状況で息抜きとなったのは

 「やっぱり、一番は飯(笑い)。お湯につけて温めればいいパック飯は日本食で結構おいしい。白飯やおこわ、炊き込みご飯とか、おかずはサバのみそ煮など20種類ぐらいある。ジブチでは米軍基地の中に駐屯していて、食事はふんだんにあるが、全部米軍支給。ハンバーガーとか、肉、魚もあるが、味付けが日本とは違う」

 ――到着した際の現地の被災状況は

 「私は阪神大震災にも派遣されたが、日本みたいに近代的な建築物が崩れているのはとは違うが、雰囲気的には一緒だった。戦争が起こった後みたいに、ぐちゃぐちゃになっていた。ただ、建築物に高層ビルはなく、低層建築のほとんどがつぶれているような状態だった」

 ――現地の人々の生活は

 「ほとんどがテント生活で、家がしっかり残っている人も、家の中にいるのが怖いといって、テントで生活していた。派遣当初は出店をちょこちょこ見かける程度だったが、われわれが帰るころには出店がすごい数になっていた。そういう意味で復興が進んでいると感じた。がれきはまだ残っていたが、ドミニカ側から物がしっかり入るようになり、人々の気持ちに余裕が生まれてきた。1カ月半のサイクルを十分に感じた。住んでいる人たちの顔つきも変わってきた」

 ――危険への備えはどうか

 「危険があると当然、自分の身を守らないといけない。ホルスター付きの拳銃を持たして自分の身は守る体勢はとっていた。現地ではわれわれも軍隊としてみられるので、そういう緊張感というか警戒心はあった。しかし、地元ギャング団みたいな集団がちょっかいを出してくるようなことはなかった。そして、われわれは工兵部隊として派遣されたので、施設警備は、例えば美術館の復興作業ではネパール軍が受け持っていた」

 ――現地の人とのふれあいは

 「われわれの生活基盤が向上してきたときに、現地の人を雇用した。ゴミ捨てや燃料補給などを手伝ってもらった。現地人の日本への感情は非常に良く、『ジャポネ、ジャポネ(日本人)』と触れあってくれる。こちらが(現地語の)クレオール語で話しかけても、日本語で返してくれる。ハイチの人にも誠意が通じた」

 ――現地の活動での教訓

 「われわれは連隊として先遣したが、決して自分たちだけでは動けない。今回も上級司令部や兵站部隊などの支援があった。いろいろなところと連携していく訓練はこれからももっと必要だと感じた。われわれだけの訓練はいつでもどこでもできるが、兵站、輸送が絡めば、陸自の総力を挙げてという話になる。そういった訓練を国内でやっていかないといけない。そういう必要性を感じた派遣だった。国を挙げての支援をいただき、現地で日本のプレゼンスを示すこともでき、喜ばれた」

 ――日本という国の存在感を示すことができた

 「私自身が感じたのは、毎週1回、国連のコマンダーズミーティングがあるんです。各国のコマンダー(司令官)が集まっての報告会。そのとき、新しく来た国の紹介があるのですが、日本は災害派遣のためにPKO派遣された初めての国だった。そのときの拍手の音が明らかに大きかった。後から来た国の拍手と比べて違った。やっぱり早く行ったことに大きな意義があった。われわれも機材の関係で、作業自体を開始したのは10日後だった。それでも日の丸を付けてその場にいるということの大きさを現地で感じた」

 ――これからの活動への心構え

 「発足して2年しかたっていないが、皆が初めてのオペレーションを任される。そういったことを自分たちが自覚できた派遣だった。『いつでも対応できる』という心構えをますます強くしないといけない。派遣業務は家族の支援が大きな比重を占めている。家族の後押し、理解がなければ動けない。協力、関係部隊、そして地域の方たちの理解、支援の基盤をつくっていくことが大事」

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