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愛犬をノーリードにしていると、公園などでつなぐように言われることがあります。人間と犬の、何万年という愛と信頼の歴史を考えると、「条例で禁止されていますから」などと言われても「ふざけるな!」と思う人がいるのも当然です。欧米などではノーリードはあたりまえのところも多く、アンティックショップの中でのんびり店番をしていたり、電車にも乗るし、飛行機にも乗る。日本とちょっと雰囲気が違うのは、ペットを猫かわいがりしている人をほとんど見ないこと。人間とペットの間に、より深い、しかしきちっと距離を持った信頼関係があるように思います。(写真はスウェーデンのアンティックショップの犬。僕の靴の匂いをかぎながら、手でビルギッタの靴を押さえている。もちろんノーリード)

僕は3年前、愛犬のモリを交通事故で失いました。2人で奥多摩へ遊びに行き、林道の奥のちょっとした広場で、ここならいいだろうとリードを外して遊ばせたのです。モリはとても頭がいい雌のラブラドールレトリバーで、躾教室にも通っていました。でもその時のモリは少し様子がおかしかった。発情期だったのです。呼べばいつもすぐに戻ってきたのに、その時は戻らなかった。

何回目かに僕は少し大きな声で、「モリ!戻って来い!行っちゃうぞ!」と言いました。まさにその時です。僕のジープの後ろに止まっていた作業用の古いトラックに誰かが乗り込み、バタンとドアを閉め、走り出しました。

犬は音をすごくよく理解する動物です。モリは僕のジープのエンジン音を知っていて、僕が家に帰ってくると窓から顔を出して尻尾を振る。そしてドアが閉まる音がすると玄関に駆け出して僕を迎えてくれていました。そしてその時、林道で走りだした古いトラックのドアの音と、僕の古いジープのドアの音が、まさに同じだったのです。鉄の扉が閉まる小気味よい乾いた音!

モリは僕に置いていかれたと思い、勢いよく走り出し、狭い林道でトラックの前に飛び出しました。そして何度も何度も振り返り、最後にトラックに轢かれた。僕の目の前で!

即死でした。駆け付けた時に、すでに呼吸もしていませんでした。腹が裂け、腸の出てしまったモリを抱えて、僕は何をしたのかよく覚えていません。「ごめんなモリ!痛いかモリ!」そんなことを言ったと思います。「神様!5分だけ時間を戻してください!」そんなことも考えた気がします。

モリはトラックの前に飛び出す一瞬前、確かに僕と目を合わせていた。でも飛び出した。普通の状態ではなかった。犬は目で見える物よりも音を信頼するのだと、そして発情期や、不意の出来事でパニックになれば、飼い主が予想できない行動に出ることを、そのとき僕は初めて知った。(きっとどこかで聞いていたはずですが)でももうモリは帰ってこないのです。2歳になったばかりでした。あの時の、自分の手の中から、愛する者の命が消えてゆく恐ろしさは、二度と忘れることができないでしょう。

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動物を飼うということは、それだけで恐ろしい罪を背負うことなのだと、考えてしまうことがあります。本当は自然の中で伸び伸びと走り、自分の力で餌を採り、恋し、子供を育て、死ぬ。その権利のいくつもを、人間は奪っているんじゃないかと。(写真は森の机で仕事をする僕と、遊んでほしくて待っているモリ)


犬のリードを放す愛犬家には、その罪の意識もあるかもしれない。「ほらここならいいぞ、自由だぞ!」と。僕の敬愛する、ある獣医さんは「犬と猫と馬は、人間が作った芸術品だ。」と言っていました。僕もそう思います。捕まえた野生生物ではない。人が養い、守らなければいけない。そしてその中に、どうしても消えない命の営みの衝動が残っている。それも全部ひっくるめて、飼い主は最後の最後まで面倒を見なければいけない。

奥多摩の林道の奥でさえ、こういう事故があるのだから、街中や公園の中なら、何が起こってもおかしくない。そして愛犬に事故があれば、それは愛犬のせいではなく、全て飼い主の責任なのです。

公園には、よく逃げ出した犬を探してくれという話が来ます。飼い主から離れ、さまよっていた犬を保護することもあります。愛護センターに連れていってもらえば簡単だけれど、殺処分になる可能性もある。だから僕たちはとても苦労をして、どうにか飼い主へ戻そうとする。先日も公園内で逃げ出した犬を探すのに、6日かかり、最後はもう心と心の勝負で、僕はその犬に「だいじょうぶ、僕を信じて、悪いようにはしないから。」と言ったらそれが通じて、僕の手の中に入ってきた。聞いたら、その飼い主の家の前で水道工事をやっていて、その音で逃げ出して、怖くて帰れなくなったらしい。とても人見知りする犬だと言っていました。

うちの公園でも、レンジャーがノーリードの犬を見たらつなぐようにお願いします。それは園内のルールではありますが、若いレンジャーには、条例違反に対する指導ではなく、愛犬家と、その愛犬の幸せを考えて、納得してもらえる対話をしてこいと教えています。

やはりペットを飼うこと自体が、少なからず罪なのだと僕は思います。それでもやるのだから、最後の最後まで面倒を見ること、危険な目に合わせないこと、他人に嫌な思いをさせないことは、最低限の責任だと思います。僕は今、毎日、捨てられていたおばあさん猫に30分かけて点滴をしている。何のためにやっているか分からなくなることもありますが、どこかにモリに対しての詫びの気持ちもあるかもしれない。とにかくこれは最後までやりとげようと思っています。大きな喜びと、同じだけの苦しみと悲しみ、そしてその全部を背負う責任、ペットを飼うものには、その覚悟が必要なのだと思います。