いいコメントを頂いたが、返信をコメント欄に入れるのは狭いので、記事にさせていただきます。
前記事↓
http://blog.livedoor.jp/morerain19-2009/archives/1597064.html
コメント↓
http://blog.livedoor.jp/morerain19-2009/archives/1597064.html#comments
1、目的と根拠
倫理を共同体概念のもとに捉えようとすることには賛成です。また、それが言語のうちに胚胎しているという発想も興味深いですね。しかし、ひとつだけ疑問に思う点があります。それは、他者との共存はあくまでも達成されるべき目的であって、規範の根拠足りえないのではないか、ということです。
他者との共存が、倫理の最終目標であるということは、それ自体ですでに大きな問題です。カントならば反対するでしょうし、ホッブズも「殺し合いで死なないためだ」とか何とかいうのではないでしょうか。しかしここではあまり根本的なことには触れず、「できるだけ多くの人が命の危険なく、平和に生活していけるため」に規範的な行動をとるのだとしておきましょう。疑問の余地は大有りですが。
いっぽう、規範の根拠にはどういったことが必要でしょうか。根拠とは、論理的な役割を考えると、主張を裏付けるような言明のことです。この場合ならば根拠は、「嘘をついてはならない」を、確固たるものにするために働かなければなりません。では果たして、「思いやり、同胞への愛、共同体意識」といったものは、「~してはならない」「~すべき」を少しでも確固たるものにするのか。ここに私の疑問があります。
たとえば、他人のことを思ってついた嘘はどうでしょう。これは明らかに矛盾します。「思いやり」から出た行動が、「嘘をついてはならない」の根拠になるのだとすれば、(その判断が間違っていたとしても)あえて嘘をついた人の行動は思いやりでは説明できない。もしくは、その嘘をついた人は、「思いやり」に欠けた人であることになってしまいます。これは、われわれの直感に反する結果です。
また仮に「思いやり、同胞への愛、共同体意識」が規範性の根拠になるとしたら、自分のために規範的な行動をとることは説明できなくなります。たとえば、不正な金の受け取りを拒否する場合は、他者への思いやりよりも自尊心のためにそうするのではないでしょうか。(もちろんこれが唯一の根拠だとはおっしゃていないのですけれど…)
よって私は、他者との共存は目的であって根拠ではないと考えます。
2、「他者との共存」のもとで善悪の価値を決めることはできない
ここからは少し寄り道になりますが、よろしければお付き合いください。「他者との共存」という発想だけでは、どうして倫理や規範を説明できないか、少し考えてみたいと思います。(レスの範囲を離れます。)
私はその根拠を、「他者との共存」という発想では、善悪の価値を十分に説明できないからだと考えます。どんなふうに説明できないかというと、「他者との共存」に依拠した善悪の価値で物事を判断すると、われわれが日常的に考える善悪の価値観と相容れない結論をまねくから、説明できていないと考えます。
まず、「他者との共存」を倫理の主軸とした場合、善悪の基準はどんなものでしょうか。それはどうしても、功利的であらざるを得ません。他者(たち)との共存がうまくいけば善、そうでなければ悪、です。特定の誰かにとって利益があることよりも、他者との共存をはかることが優先されます。(当然ながらどんな功利を目指すかは別問題です。他者との共存が結果的に存続させる行為が善なのか、思いやりのような気持ちが善なのか。)現実的にはこの原理に沿って行動していても問題ありませんし、むしろそのような人が多いほうが快適な社会になりそうです。しかし、よく考えてみれば、必ずしも肯定できない面があるのではないでしょうか。
それを説明する前に断っておきたいのは、善悪の価値に、何かはっきりした定義があるわけではないということ。だから、功利主義的善悪の価値を頭から否定することはできません。よってここでは、功利主義的価値を否定するのではなく、どうして善悪の定義が功利的ではまずいのかについて考察してみたいと思います。
では、「他者との共存」に依拠した善悪の価値で物事を判断すると、われわれが日常的に考える善悪の価値観と相容れない結論をまねくとはどういうことか。それは簡単に言うと、具体的な行動よりも、「他者との共存」を阻害するものが悪となってしまうということです。
たとえば、他者と共存していくためには、人身御供が必要だと考える集団がいたとします。この場合、人身御供で人間を殺すことは善で、それをしないことが悪、となります。これはわれわれの直感に反する受け入れられない結論です。しかし、「他者との共存」を主軸とした善悪の価値に依拠すると、それが可能になってしまいます。
やはりどうしても、行為自体が悪だといわざるを得ない場面があるでしょう。(これが、先の文章で述べた規範の「無根拠さ」の議論につながっていきます。)もちろんいつでもどこでも悪だといえる行為は存在しません。殺人でさえ、正当防衛で偶然人を殺してしまったら、それをただちに悪とは言いがたいところがあります。だから、行為自体を悪だとすることは必ずしも鉄板とはいえない。しかし、「他者との共存」だけでは、善悪の価値を説明するのには不十分だということに、変わりはありません。
さいごに:
コメント者様のご意見は、唯一絶対の答えを提案するというよりも、私に欠けている視点を指摘したものだと思います。実際に指摘通りの面がありますが、私は、自分が他者との共存を無視しているわけではないことを示そうと思いました。そのために、他者との共存と倫理との関係をめぐって考察してみた次第です。
あとは、私には記事を書く権限があるけど、コメント者様にはないので、それは不公平ですね。ごめんなさい。
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1、目的と根拠
倫理を共同体概念のもとに捉えようとすることには賛成です。また、それが言語のうちに胚胎しているという発想も興味深いですね。しかし、ひとつだけ疑問に思う点があります。それは、他者との共存はあくまでも達成されるべき目的であって、規範の根拠足りえないのではないか、ということです。
他者との共存が、倫理の最終目標であるということは、それ自体ですでに大きな問題です。カントならば反対するでしょうし、ホッブズも「殺し合いで死なないためだ」とか何とかいうのではないでしょうか。しかしここではあまり根本的なことには触れず、「できるだけ多くの人が命の危険なく、平和に生活していけるため」に規範的な行動をとるのだとしておきましょう。疑問の余地は大有りですが。
いっぽう、規範の根拠にはどういったことが必要でしょうか。根拠とは、論理的な役割を考えると、主張を裏付けるような言明のことです。この場合ならば根拠は、「嘘をついてはならない」を、確固たるものにするために働かなければなりません。では果たして、「思いやり、同胞への愛、共同体意識」といったものは、「~してはならない」「~すべき」を少しでも確固たるものにするのか。ここに私の疑問があります。
たとえば、他人のことを思ってついた嘘はどうでしょう。これは明らかに矛盾します。「思いやり」から出た行動が、「嘘をついてはならない」の根拠になるのだとすれば、(その判断が間違っていたとしても)あえて嘘をついた人の行動は思いやりでは説明できない。もしくは、その嘘をついた人は、「思いやり」に欠けた人であることになってしまいます。これは、われわれの直感に反する結果です。
また仮に「思いやり、同胞への愛、共同体意識」が規範性の根拠になるとしたら、自分のために規範的な行動をとることは説明できなくなります。たとえば、不正な金の受け取りを拒否する場合は、他者への思いやりよりも自尊心のためにそうするのではないでしょうか。(もちろんこれが唯一の根拠だとはおっしゃていないのですけれど…)
よって私は、他者との共存は目的であって根拠ではないと考えます。
2、「他者との共存」のもとで善悪の価値を決めることはできない
ここからは少し寄り道になりますが、よろしければお付き合いください。「他者との共存」という発想だけでは、どうして倫理や規範を説明できないか、少し考えてみたいと思います。(レスの範囲を離れます。)
私はその根拠を、「他者との共存」という発想では、善悪の価値を十分に説明できないからだと考えます。どんなふうに説明できないかというと、「他者との共存」に依拠した善悪の価値で物事を判断すると、われわれが日常的に考える善悪の価値観と相容れない結論をまねくから、説明できていないと考えます。
まず、「他者との共存」を倫理の主軸とした場合、善悪の基準はどんなものでしょうか。それはどうしても、功利的であらざるを得ません。他者(たち)との共存がうまくいけば善、そうでなければ悪、です。特定の誰かにとって利益があることよりも、他者との共存をはかることが優先されます。(当然ながらどんな功利を目指すかは別問題です。他者との共存が結果的に存続させる行為が善なのか、思いやりのような気持ちが善なのか。)現実的にはこの原理に沿って行動していても問題ありませんし、むしろそのような人が多いほうが快適な社会になりそうです。しかし、よく考えてみれば、必ずしも肯定できない面があるのではないでしょうか。
それを説明する前に断っておきたいのは、善悪の価値に、何かはっきりした定義があるわけではないということ。だから、功利主義的善悪の価値を頭から否定することはできません。よってここでは、功利主義的価値を否定するのではなく、どうして善悪の定義が功利的ではまずいのかについて考察してみたいと思います。
では、「他者との共存」に依拠した善悪の価値で物事を判断すると、われわれが日常的に考える善悪の価値観と相容れない結論をまねくとはどういうことか。それは簡単に言うと、具体的な行動よりも、「他者との共存」を阻害するものが悪となってしまうということです。
たとえば、他者と共存していくためには、人身御供が必要だと考える集団がいたとします。この場合、人身御供で人間を殺すことは善で、それをしないことが悪、となります。これはわれわれの直感に反する受け入れられない結論です。しかし、「他者との共存」を主軸とした善悪の価値に依拠すると、それが可能になってしまいます。
やはりどうしても、行為自体が悪だといわざるを得ない場面があるでしょう。(これが、先の文章で述べた規範の「無根拠さ」の議論につながっていきます。)もちろんいつでもどこでも悪だといえる行為は存在しません。殺人でさえ、正当防衛で偶然人を殺してしまったら、それをただちに悪とは言いがたいところがあります。だから、行為自体を悪だとすることは必ずしも鉄板とはいえない。しかし、「他者との共存」だけでは、善悪の価値を説明するのには不十分だということに、変わりはありません。
さいごに:
コメント者様のご意見は、唯一絶対の答えを提案するというよりも、私に欠けている視点を指摘したものだと思います。実際に指摘通りの面がありますが、私は、自分が他者との共存を無視しているわけではないことを示そうと思いました。そのために、他者との共存と倫理との関係をめぐって考察してみた次第です。
あとは、私には記事を書く権限があるけど、コメント者様にはないので、それは不公平ですね。ごめんなさい。
上の動画は省略なしです。
私は、本村さんの死刑観には必ずしも与しない。それでも、あらゆる方面に配慮しつつもなお情熱をもって自身の考えを保持し続ける態度は、尊敬に値する。怒りなどの感情を失わずに、冷静に物事を押し進めていくことは並大抵のことではない。私にはできない。
ここ数日、自分にとっての問題は何かということに悩まされていた。
否、問題は何かに悩んでいたというよりも、問題のわからない状態に悩んでいた。
それに対する答えが見つかったというわけではないが、電車の中で思いついたことがあったので、書いておこう。
それは、私のアイデンティティや個性は、他者からの否定を必ず伴うものだ、ということ。
(言葉の定義より)私のアイデンティティは他者と同じであるはずがないとすると、アイデンティティは、他者との差異化ということにその本質があるといえるだろう。
他者との差異化とは、言い換えると、ほとんどの他者に認めてもらえず、受け入れても貰えない部分に着眼するということである。(他者に共感され受け入れられる部分が、他者との差異になるはずもないからだ。)
このことは、私のアイデンティティを考えるとき、そこには孤独さや不幸さがつきまとうことを意味する。
孤独や不幸に嘖まれてもなお、アイデンティティを保持していられる人は少ないと思う。
私も保持していられない一人で、他者に受け入れられるなら、アイデンティティなど捨ててしまえる。
しかし、そう簡単にはいかないところもある。
捨ててしまってもなお、まだ手元に残る残念さがある。
他者に受け入れられない一片を、まだ身体の底に残している。
だから結局は、捨ててしまったアイデンティティをもういちど引き取りにいくことになる。
私はいままでこれを幾度もくり返してきた。進歩なく他者に迎合しては、見返りの少なさにがっかりしてきた。
でも、もうそろそろこんなこともおしまいにすべきかもしれない。
私は他者からの否定にまみれたアイデンティティを不法投棄するのではなく、ゆっくり丁寧に葬り去るべきなのかもしれない。
それが私の問題を生きることなのだと、そう思った。
そのためにできることをいましておこう。
宣言します。
私は芸術的感性至上主義ですよ。
悪いか?
否、問題は何かに悩んでいたというよりも、問題のわからない状態に悩んでいた。
それに対する答えが見つかったというわけではないが、電車の中で思いついたことがあったので、書いておこう。
それは、私のアイデンティティや個性は、他者からの否定を必ず伴うものだ、ということ。
(言葉の定義より)私のアイデンティティは他者と同じであるはずがないとすると、アイデンティティは、他者との差異化ということにその本質があるといえるだろう。
他者との差異化とは、言い換えると、ほとんどの他者に認めてもらえず、受け入れても貰えない部分に着眼するということである。(他者に共感され受け入れられる部分が、他者との差異になるはずもないからだ。)
このことは、私のアイデンティティを考えるとき、そこには孤独さや不幸さがつきまとうことを意味する。
孤独や不幸に嘖まれてもなお、アイデンティティを保持していられる人は少ないと思う。
私も保持していられない一人で、他者に受け入れられるなら、アイデンティティなど捨ててしまえる。
しかし、そう簡単にはいかないところもある。
捨ててしまってもなお、まだ手元に残る残念さがある。
他者に受け入れられない一片を、まだ身体の底に残している。
だから結局は、捨ててしまったアイデンティティをもういちど引き取りにいくことになる。
私はいままでこれを幾度もくり返してきた。進歩なく他者に迎合しては、見返りの少なさにがっかりしてきた。
でも、もうそろそろこんなこともおしまいにすべきかもしれない。
私は他者からの否定にまみれたアイデンティティを不法投棄するのではなく、ゆっくり丁寧に葬り去るべきなのかもしれない。
それが私の問題を生きることなのだと、そう思った。
そのためにできることをいましておこう。
宣言します。
私は芸術的感性至上主義ですよ。
悪いか?
2/18追記
2/18夜、さらに追記
自分にとっての問題を明らかにしないまま(ついでにいうと英語力がさして上達しないまま)学部を卒業しそうな私は、かなり大きな問題を抱えた状態で進学しようとしている。
しかし、ある程度努力してやっとわかったのだ。
学部のうちに、自分の問題(と英語)をある程度モノにしておく必要があったということを…(遅えよ)
すぐに何とかなるとは思えないが、すぐに手を打たねばならない。四月までに。
そこで、とりあえず興味のあることを挙げてみる。
・日常性や「あたりまえ」を成り立たせているものは何か
この問題を説明するには、私の生い立ちから説明しなければならない。
私は昔から、当たり前のことが当たり前にできないこどもだった。これまでの知識から次を推測する能力に欠けるこどもであったといってもいい。たとえば、やばそうなときには黙っておくとか、してはいけないことを大人の前ではしないとか、集団行動をするとか、ほかの人を真似してうまくやるということがそもそも念頭になかった。(特別教室にいれられそうになったが、国語の成績がよかったのでいれられなかったぐらいだ。)今も微妙に周囲から浮いてしまい、常に人から数歩遅れたり、反対に早すぎたりして息が合わないところがある。もちろん私は努力したので、周囲になじみ、周囲の人間が考えそうなことを先読みして行動することが以前よりできるようになった。だから今は、多少周囲から浮いてしまっても、生活に困るほどのことはない。
話を戻そう。このような次第で、私は当たり前のことを行うことに、人一倍注意を払ってきた。特に不思議だと思っているのは、いったん「当たり前」になじんでも、もう次の「当たり前」がやってくることだ。つまり、「当たり前」の内容は時々刻々と変わっており、何が当たり前で、どんなふうに認められて、どんなふうに実施されるかさえ定かでない。もちろんそこには変わらない部分もある。流行の内容が変わっても、流行という現象が存在し続けるように、「当たり前」をみんなで「当たり前」にしていく儀式は、不変であり続けるだろう。しかし、当たり前にしごく敏感なこちらの身としては、流動的な「当たり前」に対応できる人々が不思議でならないのだ。
だから私は、こう問いたい。流動的な「当たり前」とは何であるのか。また、人々はどうしてこれに対応できるのか。
・人はどうしてコンベンショナルなものを身につけていけるのか
これも、上の問いの延長にある。コンベンショナルなものと一口にいっても明らかではないが、とりあえず「当たり前」の堆積であるといって間違いではないだろう。人々は、変化する「当たり前」に対応しながらも、その遺物たる「コンベンショナルなもの」を身体の振る舞いに携えている。むしろ、「当たり前」に対応できるのは「コンベンショナルなもの」を身につけているからこそだともいえる。「コンベンショナルなもの」をより豊富に身につけている大人のほうが、新しい「当たり前」にうまく対応できるのは自然なことだ。(「コンベンショナルなもの」にこだわりすぎて対応できなかったりする人もいるが。)
・倫理との関係
コンベンショナルなものと一口に言っても、「朝起きたら顔を洗う」といった単なる習慣的なものから、「嘘をつくべきではない」といった規範的なものまである。私は、特にこの規範的なものにこそ問題意識を抱いている。私がコンベンショナルなもの一般に乗り遅れた子どもであったことはすでに述べたが、中でも規範的なものに関する認識はいまだに乗り遅れているような気がしてならない。
たとえば、「嘘をついてはならない」のはなぜだろうか。母は私を教育するときに、人間としてやましいことはしてはならないといった。学校の先生は、他人にされたくないことはするなといった。しかしどちらとも答えになっていない。嘘をつくことは本当にやましいことだろうか。そもそもやましいとはどういうことか。仮に嘘をつくことがやましかったとしても、どうしてそれをしてはならないのか。また、他人にされたくないことをしてはならないのはなぜなのか。仮に他人にされたくないことを人にしてはならないとしても、もし嘘をつかれても平気な人がいたら、その人に対して規範的効力はないのではないか。
いうまでもないが、小学生の私がここまで考えていたわけではない。これは永井均氏からの受け売りに自分なりの論理的検討を加えて書き出したものだ。しかし、当時、説得力を感じなかったことだけは確かである。今の私は、他人に乗り遅れまいと涙ぐましい努力をした成果もあって、嘘をつくべきではないと自然に思えるが、これについて確信や根拠があるわけではない。
結局、私にとっての規範性とは、倫理的なそれであっても慣習や生活形式となんら変わるところがない。なぜなら、倫理規範には根拠がないから、他の習慣との違いも程度問題としか思えないのである。程度問題としか思えないので、倫理だけに特別な価値が与えられていることをつねに不気味に感じる。どうしてコンベンショナルなもののなかから、倫理だけが規範性をもって浮かび上がっているように思えてしまうのか?
永井氏なら、倫理は無根拠だからこそその規範性に特権があるというだろう。それは正しいと思う。無根拠だというのは私も同感であるし、倫理は社会にとって重要なものだから、無根拠であることを隠す何かが必要なのだ。しかし、これで私の問題意識が解決されたわけではない。なぜ、特権がなくてはならないのか?無根拠であるということを認めてもなお、有効性は保たれるのではないか?その証拠というほどではないが、私は無根拠であると認めつつも倫理規範に従うし、私のような人が大勢いても何の問題もないはずである。
この問題については、「教育の場で必要なのだ」という実際的な回答がある。いったん規範を習得したならば根拠なしにそれをやってのけることが可能だが、未習得の子どもに対しては、あたかも規範性があるかのように説明しなければならない。なぜならば、子どもは、「なぜ?」と問うからだ。
・倫理との関係、さらに
ここで新たな問いを開くことは可能だ。子どもに対して、「根拠はありません」と正直に本当のことを説明することはできないのか。
論理的には、可能である。PTAの苦情で先生が辞職においやられる可能性や、ものすごく説明に骨が折れる可能性はあるが、これらは論理的可能性を少しでも損なうものではない。子どもに倫理規範の無根拠さを説明することに、何の矛盾もない。
ただ問題は、子どもが「やってはいけないことを無根拠にやらない」ことを、理解できるかどうかである。この問題は、このように言い換えることもできる。「やってはいけないことを無根拠にやらない」 ことは、すでに大人の規範性の中にあるのではないか。
言語習得の場面を想像してみてほしい。どんな手段をとるか。多分大人は、正しく子どもが発音するなり記述するなりすれば褒め、間違って発音したり記述したりすれば子どもが不快に思うリアクションをとるだろう。(体罰とか、怒鳴るとか、しかめっ面をするとか。)いわゆるアメとムチである。なぜこんなことをするのかというと、子どもには、まず規範を守るということ自体から教え込まなければならないからだ。そしてその手段として、アメとムチがある。いったんそれを習得した子どもには、もはや体罰などのリアクションをとる必要はなく、守るべき規範のリストに新たな項目を加えていけばいいだけだともいえる。
いっぽう大人は、守るべき規範を順守するのに、アメとムチなしで基本的にはよいわけだから、「やってはいけないことを無根拠にやらない」ことも理解できるのである。もちろん、規範を順守しない大人も存在するが、規範を守ることを理解しているかどうかで、大人と子どもを分けることはできるだろう。
ここまで述べれば、要点は明白である。子どもは、守るべき規範が存在し、自分もそれに従わなければならないことを、まず学ぶ。いっぽう大人は、守るべき規範のうちに自らも巻き込まれていることを体得している。だから、すでに体得した側の「やってはいけないことを無根拠にやらない」の理屈は、子どもの教育には使えないのである。
しかし、個人的には、ここで話を終わらせたくはない。子どもさえだませないようなでっちあげをすることは非常にばかばかしいと感じるから、できればほかの語り口を模索したい。もうひとつ、倫理に特権が与えられる理由は教育という必要性で説明しきれることなのだろうか。大人でも、規範は守るけれども、無根拠であることを認めない人もいる。そのような意見も一理あるだろうから、提案があれば傾聴したいと思う。(受け入れられるかどうかは別として。)
2/18夜、さらに追記
自分にとっての問題を明らかにしないまま(ついでにいうと英語力がさして上達しないまま)学部を卒業しそうな私は、かなり大きな問題を抱えた状態で進学しようとしている。
しかし、ある程度努力してやっとわかったのだ。
学部のうちに、自分の問題(と英語)をある程度モノにしておく必要があったということを…(遅えよ)
すぐに何とかなるとは思えないが、すぐに手を打たねばならない。四月までに。
そこで、とりあえず興味のあることを挙げてみる。
・日常性や「あたりまえ」を成り立たせているものは何か
この問題を説明するには、私の生い立ちから説明しなければならない。
私は昔から、当たり前のことが当たり前にできないこどもだった。これまでの知識から次を推測する能力に欠けるこどもであったといってもいい。たとえば、やばそうなときには黙っておくとか、してはいけないことを大人の前ではしないとか、集団行動をするとか、ほかの人を真似してうまくやるということがそもそも念頭になかった。(特別教室にいれられそうになったが、国語の成績がよかったのでいれられなかったぐらいだ。)今も微妙に周囲から浮いてしまい、常に人から数歩遅れたり、反対に早すぎたりして息が合わないところがある。もちろん私は努力したので、周囲になじみ、周囲の人間が考えそうなことを先読みして行動することが以前よりできるようになった。だから今は、多少周囲から浮いてしまっても、生活に困るほどのことはない。
話を戻そう。このような次第で、私は当たり前のことを行うことに、人一倍注意を払ってきた。特に不思議だと思っているのは、いったん「当たり前」になじんでも、もう次の「当たり前」がやってくることだ。つまり、「当たり前」の内容は時々刻々と変わっており、何が当たり前で、どんなふうに認められて、どんなふうに実施されるかさえ定かでない。もちろんそこには変わらない部分もある。流行の内容が変わっても、流行という現象が存在し続けるように、「当たり前」をみんなで「当たり前」にしていく儀式は、不変であり続けるだろう。しかし、当たり前にしごく敏感なこちらの身としては、流動的な「当たり前」に対応できる人々が不思議でならないのだ。
だから私は、こう問いたい。流動的な「当たり前」とは何であるのか。また、人々はどうしてこれに対応できるのか。
・人はどうしてコンベンショナルなものを身につけていけるのか
これも、上の問いの延長にある。コンベンショナルなものと一口にいっても明らかではないが、とりあえず「当たり前」の堆積であるといって間違いではないだろう。人々は、変化する「当たり前」に対応しながらも、その遺物たる「コンベンショナルなもの」を身体の振る舞いに携えている。むしろ、「当たり前」に対応できるのは「コンベンショナルなもの」を身につけているからこそだともいえる。「コンベンショナルなもの」をより豊富に身につけている大人のほうが、新しい「当たり前」にうまく対応できるのは自然なことだ。(「コンベンショナルなもの」にこだわりすぎて対応できなかったりする人もいるが。)
・倫理との関係
コンベンショナルなものと一口に言っても、「朝起きたら顔を洗う」といった単なる習慣的なものから、「嘘をつくべきではない」といった規範的なものまである。私は、特にこの規範的なものにこそ問題意識を抱いている。私がコンベンショナルなもの一般に乗り遅れた子どもであったことはすでに述べたが、中でも規範的なものに関する認識はいまだに乗り遅れているような気がしてならない。
たとえば、「嘘をついてはならない」のはなぜだろうか。母は私を教育するときに、人間としてやましいことはしてはならないといった。学校の先生は、他人にされたくないことはするなといった。しかしどちらとも答えになっていない。嘘をつくことは本当にやましいことだろうか。そもそもやましいとはどういうことか。仮に嘘をつくことがやましかったとしても、どうしてそれをしてはならないのか。また、他人にされたくないことをしてはならないのはなぜなのか。仮に他人にされたくないことを人にしてはならないとしても、もし嘘をつかれても平気な人がいたら、その人に対して規範的効力はないのではないか。
いうまでもないが、小学生の私がここまで考えていたわけではない。これは永井均氏からの受け売りに自分なりの論理的検討を加えて書き出したものだ。しかし、当時、説得力を感じなかったことだけは確かである。今の私は、他人に乗り遅れまいと涙ぐましい努力をした成果もあって、嘘をつくべきではないと自然に思えるが、これについて確信や根拠があるわけではない。
結局、私にとっての規範性とは、倫理的なそれであっても慣習や生活形式となんら変わるところがない。なぜなら、倫理規範には根拠がないから、他の習慣との違いも程度問題としか思えないのである。程度問題としか思えないので、倫理だけに特別な価値が与えられていることをつねに不気味に感じる。どうしてコンベンショナルなもののなかから、倫理だけが規範性をもって浮かび上がっているように思えてしまうのか?
永井氏なら、倫理は無根拠だからこそその規範性に特権があるというだろう。それは正しいと思う。無根拠だというのは私も同感であるし、倫理は社会にとって重要なものだから、無根拠であることを隠す何かが必要なのだ。しかし、これで私の問題意識が解決されたわけではない。なぜ、特権がなくてはならないのか?無根拠であるということを認めてもなお、有効性は保たれるのではないか?その証拠というほどではないが、私は無根拠であると認めつつも倫理規範に従うし、私のような人が大勢いても何の問題もないはずである。
この問題については、「教育の場で必要なのだ」という実際的な回答がある。いったん規範を習得したならば根拠なしにそれをやってのけることが可能だが、未習得の子どもに対しては、あたかも規範性があるかのように説明しなければならない。なぜならば、子どもは、「なぜ?」と問うからだ。
・倫理との関係、さらに
ここで新たな問いを開くことは可能だ。子どもに対して、「根拠はありません」と正直に本当のことを説明することはできないのか。
論理的には、可能である。PTAの苦情で先生が辞職においやられる可能性や、ものすごく説明に骨が折れる可能性はあるが、これらは論理的可能性を少しでも損なうものではない。子どもに倫理規範の無根拠さを説明することに、何の矛盾もない。
ただ問題は、子どもが「やってはいけないことを無根拠にやらない」ことを、理解できるかどうかである。この問題は、このように言い換えることもできる。「やってはいけないことを無根拠にやらない」 ことは、すでに大人の規範性の中にあるのではないか。
言語習得の場面を想像してみてほしい。どんな手段をとるか。多分大人は、正しく子どもが発音するなり記述するなりすれば褒め、間違って発音したり記述したりすれば子どもが不快に思うリアクションをとるだろう。(体罰とか、怒鳴るとか、しかめっ面をするとか。)いわゆるアメとムチである。なぜこんなことをするのかというと、子どもには、まず規範を守るということ自体から教え込まなければならないからだ。そしてその手段として、アメとムチがある。いったんそれを習得した子どもには、もはや体罰などのリアクションをとる必要はなく、守るべき規範のリストに新たな項目を加えていけばいいだけだともいえる。
いっぽう大人は、守るべき規範を順守するのに、アメとムチなしで基本的にはよいわけだから、「やってはいけないことを無根拠にやらない」ことも理解できるのである。もちろん、規範を順守しない大人も存在するが、規範を守ることを理解しているかどうかで、大人と子どもを分けることはできるだろう。
ここまで述べれば、要点は明白である。子どもは、守るべき規範が存在し、自分もそれに従わなければならないことを、まず学ぶ。いっぽう大人は、守るべき規範のうちに自らも巻き込まれていることを体得している。だから、すでに体得した側の「やってはいけないことを無根拠にやらない」の理屈は、子どもの教育には使えないのである。
しかし、個人的には、ここで話を終わらせたくはない。子どもさえだませないようなでっちあげをすることは非常にばかばかしいと感じるから、できればほかの語り口を模索したい。もうひとつ、倫理に特権が与えられる理由は教育という必要性で説明しきれることなのだろうか。大人でも、規範は守るけれども、無根拠であることを認めない人もいる。そのような意見も一理あるだろうから、提案があれば傾聴したいと思う。(受け入れられるかどうかは別として。)
大学院の二次試験で受けた扱いがあまりにも悔しくて、3日間苦しんだあげく、ちょうど数時間前、この悔しさに見合うだけのより大きな目標を思いついた。
しかしこの目標、具体的かつ現実的だけれども、人生サイズつまり最大級のもの。
あらら。
思えば私は、中学生位から既に身の丈を知っていて、大きい目標は持たなかった。
自分の偏差値で入れる高校に入った。
自分のレベルで確実に取れる級の検定だけ受けた。
だからそれほど悔しい思いをすることなくここまで来た。
悔しい思いをするほど頑張ることもなかったからだ。
しかし今回は死ぬほど悔しかった。(結果まだ出てないけど)
それでやっと、こんな大きな目標を立てなければ忘れられないほど悔しい思いをしたことに気がついた。
(ちなみに今日、今学期の成績が出て、手を抜いた科目は案の定悪かったけど、そんなに悔しくない。)
いまは次なる目標のことしか考えてないと言ったら嘘になるけれども、二次試験のことはかなりどうでもいい。
私の身体、私の頭は、次なる目標に向かって知恵をふりしぼり始めているし、行動を起こしかけている。
どんな目標かというのは、今度会ったときに話します。
仮に二次試験受かっていたら、その時はまた考えることにします。
そいじゃ。
しかしこの目標、具体的かつ現実的だけれども、人生サイズつまり最大級のもの。
あらら。
思えば私は、中学生位から既に身の丈を知っていて、大きい目標は持たなかった。
自分の偏差値で入れる高校に入った。
自分のレベルで確実に取れる級の検定だけ受けた。
だからそれほど悔しい思いをすることなくここまで来た。
悔しい思いをするほど頑張ることもなかったからだ。
しかし今回は死ぬほど悔しかった。(結果まだ出てないけど)
それでやっと、こんな大きな目標を立てなければ忘れられないほど悔しい思いをしたことに気がついた。
(ちなみに今日、今学期の成績が出て、手を抜いた科目は案の定悪かったけど、そんなに悔しくない。)
いまは次なる目標のことしか考えてないと言ったら嘘になるけれども、二次試験のことはかなりどうでもいい。
私の身体、私の頭は、次なる目標に向かって知恵をふりしぼり始めているし、行動を起こしかけている。
どんな目標かというのは、今度会ったときに話します。
仮に二次試験受かっていたら、その時はまた考えることにします。
そいじゃ。
明日ですべてが終わる。
と同時に、明日からすべてがはじまる(かもしれない)。
情緒のことをここでさらすべきなのか?
してもいいけどそんな必要もない。
今後の心意気、もしくはこれまでの反省でもすればいいのか?
してもいいけど、それが何だって言うんだろう。
すごく中途半端な状態。
何がしたい?
わからない。
うまく予定を組み立てることはできるさ…
でもそれも面倒な感じ。
神様が私にだけ台本付けを忘れたような気分になっている。
そんなことないか。
明日の面接の対策しないといけないし…
医者いかないといけないし…
ドイツ語毎日続けるつもりだし…
ハイデガーやウィトゲンシュタイン読むんじゃなかった??
これでいいはず。
はああ
と同時に、明日からすべてがはじまる(かもしれない)。
情緒のことをここでさらすべきなのか?
してもいいけどそんな必要もない。
今後の心意気、もしくはこれまでの反省でもすればいいのか?
してもいいけど、それが何だって言うんだろう。
すごく中途半端な状態。
何がしたい?
わからない。
うまく予定を組み立てることはできるさ…
でもそれも面倒な感じ。
神様が私にだけ台本付けを忘れたような気分になっている。
そんなことないか。
明日の面接の対策しないといけないし…
医者いかないといけないし…
ドイツ語毎日続けるつもりだし…
ハイデガーやウィトゲンシュタイン読むんじゃなかった??
これでいいはず。
はああ
書くことがなくなってしまった。
哲学のことに夢中になって、哲学の言葉で哲学の話題を哲学らしいやりかたでつくっているうちに、私には、何か特別に書きたいことがなくなってしまった。
予感はあったし、哲学に夢中になっていくと人間性が丸くなっていくという話しは聞いたことがあった。
私はやっと、単に文章を書くだけの楽しみを手にいれたのだ。
ただ歌うことだけが楽しい歌手のように
ただ描くことだけが楽しい絵描きのように
個人的な思いというつまらないものに左右されず、完全な戯れができるようになるのだ。
言語という神からの贈り物を、私という個体に閉じ込めてしまうのではなく、天に向かって贈りかえすことができるようになるのだ。
なぞるなぞるひとのことば
ひとのみた夢
ひとのみた景色
ひとのみた世界
あなたの感覚に滑り込んでゆく
ぼんぼんぼん
あなたの声にのる
あなたの悲しみにのる
あなたの喜びにのる
あなたの死にのる
あなたの歌を歌う
わたしはとうめいないれものになった
哲学のことに夢中になって、哲学の言葉で哲学の話題を哲学らしいやりかたでつくっているうちに、私には、何か特別に書きたいことがなくなってしまった。
予感はあったし、哲学に夢中になっていくと人間性が丸くなっていくという話しは聞いたことがあった。
私はやっと、単に文章を書くだけの楽しみを手にいれたのだ。
ただ歌うことだけが楽しい歌手のように
ただ描くことだけが楽しい絵描きのように
個人的な思いというつまらないものに左右されず、完全な戯れができるようになるのだ。
言語という神からの贈り物を、私という個体に閉じ込めてしまうのではなく、天に向かって贈りかえすことができるようになるのだ。
なぞるなぞるひとのことば
ひとのみた夢
ひとのみた景色
ひとのみた世界
あなたの感覚に滑り込んでゆく
ぼんぼんぼん
あなたの声にのる
あなたの悲しみにのる
あなたの喜びにのる
あなたの死にのる
あなたの歌を歌う
わたしはとうめいないれものになった
1 面接対策。当日起こりそうなことをすみずみまで細かく予想して、具体的に。問答をつくる。
2 少し太ったのでダイエット。3キロやせる。完食をせず、朝晩に腹筋、階段を使う。
3 スーツをクリーニングに出しベルトを買う。
4 別の院試に向けドイツ語の単語と文法を毎日やる。筆記も。
5 背中のぶつぶつを治す。早寝早起きと栄養!
2 少し太ったのでダイエット。3キロやせる。完食をせず、朝晩に腹筋、階段を使う。
3 スーツをクリーニングに出しベルトを買う。
4 別の院試に向けドイツ語の単語と文法を毎日やる。筆記も。
5 背中のぶつぶつを治す。早寝早起きと栄養!
・オーストリア版(本家)の「Elizabeth」の挿入歌「Die Schatten werden länger」を訳します。解釈が間違っていたら教えてください。
トート:
とうとう話しあう時だ
沈黙は破られる
君は僕を知っている…そう、知っている!
君は子どものころを覚えているかい
約束をしたときから
ずっとそばにいると
ルドルフ:
ああ、君を忘れたりはしない
我が友よ 呼んだではないか
僕が不安をむさぼっていたとき
トート:
私は来た 君が必要としたから
両者:
闇が伸びてゆく
それにもかかわらず人々は盲目で口もきかない
笛吹き男の音色のために
金の子牛の周りを踊り狂っているんだ
闇が伸びてゆく
12時の5分前
時はまわらんとしている
ルドルフ:
世界の裂け目が現われる時間だ
今僕は舵をきることができるのに
でもここへ立ちつくしていなければならない
僕の両手は縛られているんだ
トート:
ただ知っていることよりひどいことはない
災いの燃え上がるさまを
無力のうちにただ傍観していなければならない
ルドルフ:
僕はおかしくなっている!
両者:
闇が伸びてゆく
歌は情け知らずでけたたましい
悪循環はひどくなっていく
人々は信じたいものを信じているだけ
闇が伸びてゆく
12時の5分前
なぜみな静まりかえったままなのか?
トート:
何故にためらう
今がこの時だ
力を手に入れろ
正当防衛のためだろう?
ルドルフ:
正当防衛!
両者:
闇が伸びていく
起こるべきことが今起こるべきなのだ
悪循環はひどくなっていく
災いに立ち向かわなくてはならない!
闇が伸びてゆく
皇帝よ
ルドルフ君が時代に立ち向かうんだ
トート:
とうとう話しあう時だ
沈黙は破られる
君は僕を知っている…そう、知っている!
君は子どものころを覚えているかい
約束をしたときから
ずっとそばにいると
ルドルフ:
ああ、君を忘れたりはしない
我が友よ 呼んだではないか
僕が不安をむさぼっていたとき
トート:
私は来た 君が必要としたから
両者:
闇が伸びてゆく
それにもかかわらず人々は盲目で口もきかない
笛吹き男の音色のために
金の子牛の周りを踊り狂っているんだ
闇が伸びてゆく
12時の5分前
時はまわらんとしている
ルドルフ:
世界の裂け目が現われる時間だ
今僕は舵をきることができるのに
でもここへ立ちつくしていなければならない
僕の両手は縛られているんだ
トート:
ただ知っていることよりひどいことはない
災いの燃え上がるさまを
無力のうちにただ傍観していなければならない
ルドルフ:
僕はおかしくなっている!
両者:
闇が伸びてゆく
歌は情け知らずでけたたましい
悪循環はひどくなっていく
人々は信じたいものを信じているだけ
闇が伸びてゆく
12時の5分前
なぜみな静まりかえったままなのか?
トート:
何故にためらう
今がこの時だ
力を手に入れろ
正当防衛のためだろう?
ルドルフ:
正当防衛!
両者:
闇が伸びていく
起こるべきことが今起こるべきなのだ
悪循環はひどくなっていく
災いに立ち向かわなくてはならない!
闇が伸びてゆく
皇帝よ
ルドルフ君が時代に立ち向かうんだ
ひとりぼっちの世界へ帰ってきておくれ
Guten Abend.
Jemand wacht ?
Wahrscheinlich, niemand. (lustig☆)
Ich lerne WorterUbungsbuch zu auswendig.
sehr sehr sehr ich bin mude!!!!!!
Namlich bestehe ich wie “Hakuho”(←Japansches Kampfen.Er ist am besten.)
Ein bisschen lerne ich 3,000 Worter auswendig.
YEHHHHHHHHHHHHHH
Also halte ich bis zum Ende durch.
TSCHUS!
Jemand wacht ?
Wahrscheinlich, niemand. (lustig☆)
Ich lerne WorterUbungsbuch zu auswendig.
sehr sehr sehr ich bin mude!!!!!!
Namlich bestehe ich wie “Hakuho”(←Japansches Kampfen.Er ist am besten.)
Ein bisschen lerne ich 3,000 Worter auswendig.
YEHHHHHHHHHHHHHH
Also halte ich bis zum Ende durch.
TSCHUS!
hallo.
Ich will noch schlafen.
Im Voraus führe ich Tagebuch.
Heute habe ich ein schriftliches Gesuch an Chiba Universität vorgelegt.
Danach ich habe Deutsch gelernt.
Wortschatz,Grammatik,Leseverstandnis...
Ehrlich gesagt, ich habe Angst, Furcht.
Wenn ich werde die Prüfung durchfallen, schäume ich sich.
Ach! Ich habe keine Selbstvertrauen.
keine...keine...
Vielleichte ich habe Angstneurose???
Dieses Gedanke ist unbedingt. ya, ich weiss.
Gute Nacht, meine Damen und Herrn...
Allmählich werde ich einschlafen.
Ich will noch schlafen.
Im Voraus führe ich Tagebuch.
Heute habe ich ein schriftliches Gesuch an Chiba Universität vorgelegt.
Danach ich habe Deutsch gelernt.
Wortschatz,Grammatik,Leseverstandnis...
Ehrlich gesagt, ich habe Angst, Furcht.
Wenn ich werde die Prüfung durchfallen, schäume ich sich.
Ach! Ich habe keine Selbstvertrauen.
keine...keine...
Vielleichte ich habe Angstneurose???
Dieses Gedanke ist unbedingt. ya, ich weiss.
Gute Nacht, meine Damen und Herrn...
Allmählich werde ich einschlafen.
Ich bin mude, aber schreibe diesen Aufsatz.
warum ich schreibe das?
—Wahrscheinlich merke ich den Vorfall.
Ich mochte diese Gedanken sagen, schreiben,erzahlen.
Doch ,ich kann nicht.
Alles wird verstecken. Das ist, meine Monolog.
Tschus! jeden Tag.
SAORI
warum ich schreibe das?
—Wahrscheinlich merke ich den Vorfall.
Ich mochte diese Gedanken sagen, schreiben,erzahlen.
Doch ,ich kann nicht.
Alles wird verstecken. Das ist, meine Monolog.
Tschus! jeden Tag.
SAORI
遅延中の千代田線の車内にて。
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』内田樹著、角川文庫、読了。
解説の、解説になっていない銀色夏生さんの文章にほっこりいやされる。
内田さんの文章は、あいかわらず。
シリアスになりがちな脳支配人間に、ゆるみをもたらしてくれる。
印象的な言葉をひとつ。
「欲望の充足を生態系の安定より優先的に配慮する生物、それが人間である」
「動物と人間が違うのはおそらくただその一点だけ」
ともにp246
私は卒論で、動物と人間の差異を扱ったけれど、これは私にはない発想だった。
そして、ものすごくエコロジカルな発想だと思う。
私は言語に着目して考察をすすめたから、思い至らなかったな…
勉強になりましたあ。
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』内田樹著、角川文庫、読了。
解説の、解説になっていない銀色夏生さんの文章にほっこりいやされる。
内田さんの文章は、あいかわらず。
シリアスになりがちな脳支配人間に、ゆるみをもたらしてくれる。
印象的な言葉をひとつ。
「欲望の充足を生態系の安定より優先的に配慮する生物、それが人間である」
「動物と人間が違うのはおそらくただその一点だけ」
ともにp246
私は卒論で、動物と人間の差異を扱ったけれど、これは私にはない発想だった。
そして、ものすごくエコロジカルな発想だと思う。
私は言語に着目して考察をすすめたから、思い至らなかったな…
勉強になりましたあ。
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