昭和4092日夜、警視庁に国際刑事警察から連絡があった。オランダ・アムステルダムの運河から引き上がったトランクの中に、日本人の死体があったという。だが、その死体は普通のものではなかった。首と手足がなかった。国際刑事警察は、この死体の身元を照会して欲しいということで連絡をよこしたのだ。

 死体は、現地時間821日に失踪した、大阪の貿易商だということが判明した。彼は、20日に滞在していたアパートの管理人に「アムステルダムへ仕事に行く」と残して出て行った。だが、アムステルダムに取引先の商社はなかった。

 現地警察は、一人の日本人を容疑者とした。しかし、その彼は、取り調べの終わった94日、アンベルスへ向かう途中のトンネルで、事故を起こして死亡する。こうして、この日本人商社員バラバラ殺人事件は迷宮入りすることとなる……。


 

 まるでミステリのあらすじのような話ですが、実はこれは実際に起きた事件の概要なのです。トランクの中の首なし死体、商社のないアムステルダムへ向かった容疑者、そして被疑者の突然の事故死……。不謹慎ですが、この事件について世の中のミステリ好きは、様々な思索を巡らせたのでした。そして実際、この実在の事件を元に、ミステリを書いた作家がいました。

 あの、松本清張なのです。

 この事件は、その謎の魅力から、様々な作家が元ネタとしてミステリを書いているのですが(『運河が死を運ぶ』菊村到、『幻想運河』有栖川有栖など)、今回はその中でも頭一つ抜けていると思う、松本清張の『アムステルダム運河殺人事件』を紹介したいと思います。



幻想運河 (講談社文庫)
有栖川 有栖
講談社
2001-01


 

 もちろん、この小説は実際の事件に基づいて書かれているので、あらすじは上記した実在の殺人と全く同じです。ただ一つ違う点は、久間という探偵が、この事件に終止符をうつ、というところです。

 少し話は変わりますが、あなたは松本清張にどんなイメージを抱いておられでしょうか? 彼のことを指して、よく言われるのが「社会派ミステリ」の書き手だということです。この「社会派ミステリ」というのが曲者でして、本来は本格ミステリと相反するものではないのですが、なぜか社会派というと本格“推理”小説ではなく、社会を描くために推理小説のフォーマットを利用する、というイメージが強いようで、本格ファン、こと新本格ミステリファンにとっては、社会派というと、純粋推理を楽しむものではないと忌避される風潮がありました(そして斯く言う私もそうでした)。実際に、今でもそう思っている人は多いらしく、松本清張を「本格の敵」とまで言っている言説も少なからずあるのです。

 しかし、しかしですよ、そんな風に思っている人ほど、この本を読んでみてください。そして本当に松本清張は、社会派は、純粋推理を楽しむものではないのか、と自分自身に問い直してください。それほどまでにこの作品には、本格マインドがあふれているのです。

 この小説は、前半と後半の二部に分かれています。淡々とした筆致で事件の概要が書かれる前半は、確かに「社会派」的なものを匂わせるものがあります。刑事による関係者への聞き込み、新聞からの引用など、退屈を覚えてしまう人もいるかもしれません。ですが、後半、語り手が「私」に変わった途端、この小説の様相もガラリと変わります。ワトソン役と探偵が議論しながら真実を追い求めて行く、そんな王道のミステリとなるのです。

 この小説の白眉は何と言っても“なぜ死体の首と手首は切断されていたのか”という謎に対する解決。この謎から導き出される一つの結論から犯人を指摘するロジックは、読者の盲点をうまくついており、これを目の前に提示されたら、なるほどと唸るしか無くなります。

 そして話のまとめ方も秀逸。ポーの「マリー・ロジェ事件」を引き合いに出しながら、現実の事件に疑問を投げかけるようなオチに、「社会派」の松本清張と「本格派」の松本清張の二人の姿を感じることができます。

 新本格30周年の今年、奇遇なことにもう一つの新本格、つまり松本清張が提唱した「ネオ・本格」という言葉が誕生してから60周年を迎えました。これを機に、清張を手にとってみてはどうでしょうか?