突然ですが、

私は奈良出身。

自然と、日本の古代史に興味を持つのは、ごくごく自然のこと。

大胆な仮説を打ち出し、
日本古代史研究家から賛否両論、むしろ「否」が優勢の歴史作家、
関裕二氏の本を読むと、確かに大胆な仮説なんだが、

私の中では、すとんと腑に落ちてしまうのだ。(・∀・)つ

この話題は以前に少し触れているのだが、
今回は、もう少し、つっこんで見てみようと思う。


日本史で習う日本古代史のクライマックスシーンがこちら。

『645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が蘇我入鹿を暗殺した「乙巳(いっし)の変」と、それに続く「大化の改新」 。皇位を奪おうとする悪者、蘇我入鹿を殺して、大豪族蘇我本宗家を滅ぼし、律令制度を取り入れた斬新な行政改革が、 天智天皇と藤原家一族によって進められた。』


最大の悪者、蘇我氏をやっつけた
日本古代史のヒーロー、中大兄皇子と中臣鎌足。
この「乙巳の変」をきっかけに、皇室に取って代わろうとする横暴な豪族達から国を守り、
我々の日本史は、皇族とその側近「藤原家一色」に塗り替えられた。このおかげで、日本は画期的な行政改革を成功させたのだ。そして、藤原の世はその後1000年続く。

って習ったよな、確か。

ここに、関裕二氏は異を唱えるのである。

それは一つの矛盾点から始まった。

「律令制度は、天智天皇と藤原鎌足が悪者を退治したあとに始められたはずなのに、この改革はそれ以前に、蘇我氏を筆頭として豪族たちが既に始めていた。」

うん?
ということは、改革を進めるのに邪魔者だった蘇我入鹿を暗殺したのではなく、改革を率先して進めていた蘇我氏を殺した、ということになる。

しかも、書記をあさるうちに、どちらかというと、民は、蘇我びいきであったことがわかってきた。

さらに、天智天皇や藤原鎌足の不人気をにおわせる記述がちらほら。

どないなってるねん???( ・Д・)

実は、この中臣(藤原)鎌足が曲者なのだ。

よくよく見てみると、
藤原家が栄えた時、日本国民は不幸になっている。(゚ロ゚;)エェッ!?

なぜなら、藤原家は、
「自分が良ければそれでよし。」「反藤原は、全て抹殺。」「全ては俺の物(日本の豪族の土地を根こそぎ奪取に成功)」が基本。合意制を中心とした話し合いで成立していた大和政権にとって、異色の「自己中」集団だったのだ。特筆すべきは、日本史上、藤原家こそが、もっとも多くの皇族を暗殺して来たのだ。(; ̄Д ̄)


この藤原鎌足、一体、何者なのか???



鍵となるのは、
この「乙巳の変」で、蘇我入鹿が暗殺された時、
その瞬間を目の前で見てしまった人間だ。

蘇我の血を引く古人大兄皇子だ。

入鹿暗殺を目撃した古人大兄皇子が私宮へ逃げ帰り、こう述べた。


「韓人(からひと)が、鞍作(入鹿)を殺した!

胸が張り裂けそうだ〜!」ヽ(TдT)ノ



中臣鎌足のことを「韓人」と呼んだのだ!Σヾ( ̄0 ̄;ノ


つまり、

「韓人=韓国人」

出たー!Σ(`□´/)/

どうやら、中臣鎌足が韓人だということは、
当時の人々には周知の事実であったようだ。


一方、目の敵にされた蘇我入鹿。

一体彼が何をしたというのだ?

実は、蘇我入鹿は、中臣鎌足に対して、何もしていない。

ただ、倭国を良くするため、正しいと思うことをやっていたのだ。
中国に習い、律令制度を取り入れ、改革を始めたのだ。


律令制度は、豪族達の私有地をいったん朝廷へ返し、
百姓に貸し付け租税を徴収するというもの。

大豪族であった蘇我氏には、不利な条件でありながらも、
国を思い、他の大豪族、物部氏にも協力してくれるようにお願いし、
土地を朝廷へ返す所までこぎつけたのだ。

さぁこれから、というときに蘇我入鹿暗殺。
一気に蘇我家を滅ぼして物部氏と蘇我氏の広大な土地をかすめ取ったのは、
韓人「中臣鎌足」だったのだ。

そして、あたかも、自分が改革をやったかのように歴史をすりかえ、
我が物顔で朝廷にいりびたったのである。


奈良時代に成立した歴史書で、最古の正史とされる『日本書紀』の大編纂がなされたのは、藤原家が栄えていた時、藤原不比等がその監修をしていたというので、藤原家に都合の良いように、書きかえられた可能性が高い。

さらに「日本書紀」に関するウィキペディアには、このようなことも書かれている。

なお『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。

証拠隠滅やで、こっれ〜!Σ( ̄ロ ̄|||)


さらに興味深いのは、
蘇我氏は、明確な系譜を持つ正当な豪族であるのに対し、
(蘇我氏の系譜↓ ウィキペディアより)
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藤原鎌足は素性が不明。蘇我氏が持つような正当な系譜がない。

中臣鎌足がどっから湧いて出て来たのか、かなりあやふやなのだ。
誰が父で、誰が母なのだ?という基本的な情報すら欠けている。
藤原家が編纂した日本書紀にも書かれていない。

つまり、本当に、湧いて出て来た(外国から来た)としか思えなくなってくる。


さて、ここから読み取れることを考察してみよう。

1)藤原家の自己中心的政治で、日本国民は苦しみ不幸だった。

2)藤原家の祖、中臣鎌足は、何を隠そう韓国人だった


3)藤原氏は、
聡明で人気者の政治家で大豪族(金持ち)の蘇我氏に嫉妬。

4)
藤原氏は、蘇我氏の功績を奪い、歴史をすりかえた。

5)
アンチ藤原氏は、どんな手を使っても抹殺。皇族でもどんどん殺す(軽んじる)。

6)
藤原氏は、古い書記の証拠隠滅をし、都合の良いように歴史を変え、嘘を真実にしようと画策した(そしてそうなった)。



ここから、どっかの国を彷彿とさせられるのは、
私だけだろうか。(・∀・)つ



韓国に住み、韓国人と働き、日々韓国人と触れるにつれ、
私は、関裕二氏の突拍子もない「藤原鎌足は韓国人だった」説に、
むしろ信憑性を感じてしまうのである。


さて、この鎌足。

関裕二氏は、こやつの本性に検討をつけている。

それは、

「百済王子、豊璋(ほうしょう)」

実は、この豊璋、

百済と日本の同盟を担保する人質として日本に来ていた。

この百済王子は、王位争いに負けて日本に追い出されたふしがある。

その名誉挽回に、日本を乗っ取る気でいたかもしれない。

そこで、彼は、日本人の名に変え、中大兄皇子に近づいた。
人質といえど、百済王子。待遇は良かったので、
皇族に近づくことは豊璋にとって難しいことではなかったはずだ。

その後、天智天皇(当時まだ中大兄皇子)が、同盟により、
663年白村江の戦いで、百済に援軍を送って、敗北している。
不思議なことに、その間、記録の中に、全く中臣鎌足の名が出て来ない。
あれほど、金魚の糞のごとく
中大兄皇子に付いて回っていた鎌足が、この戦いの間だけ、日本史から消えているのである。

なぜなら、
豊璋(中臣鎌足)は百済で戦っていたので、天智天皇と行動を共にしていなかったから、と考えるのが自然だろう。

限りなく、怪しいではないか。

皆さんはどう思いますか?

ネタバレしちゃったけど、
興味のある方は、
34 AM

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