火災からの復興後、不況といわれる中ではあったが店を大きくした事や、自然志向のライフスタイルの流行もあってか売上は順調に伸びて行った。翌年開催した「第二回あだたら手づくりフェスタ」は何と地方紙の第一面を飾り、誰が言ったか知らないが「森の工房は飛ぶ鳥を落とす勢い?」という噂があったとか・・。とにかく順風満帆という状態だった。

 何もかも順調だとすぐその気になってしまうのが人間の弱さなのであろう。借金をして隣地を取得し念願の750坪の持ち主となってやっと駐車場のスペースが確保すると、自宅も作りたいという欲求が出てきた。

 火災後3キロほど離れた所にアパートを借りて暮らしていたが、通うのが不便だし何かと制約もある。土地はあるのだから何も残らぬ家賃を払い続けるなら借金しても返せるはずだというのは理屈ではある。第二子風人君も生まれ、「よし家を建てるぞ」と決心したのは火災から2年後の96年の事である。最も仕事場からの適当な距離に満足していた広子さんは複雑な胸中だったようだが反対するほどの理由もない。

 ごく普通の住宅を建てようと思うと2000万近くの費用がかかってしまうが、それでは返済が家賃を遥かにオーバーしてしまう。というわけで外側だけ大工さんに建ててもらって内装は自分で住みながらやろうという結論に達した。「ウッディライフ」やら何やらに自分で家を建てたという情報はたくさんあって内装ぐらい自分にできないはずはないし、何といっても木工屋さんで道具も揃っているのだからこれ以上の条件は無い。

 幸いこの地域はその時点では都市計画外無指定地域だった。すなわち宅地であれば無許可で何を立てても構わないということである。適当に大まかな設計図を描いて知りあいの大工さんに依頼し、600万を借りて建築工事が始まった。

 大工さんに依頼するのは基礎、骨組み、外装、サッシ工事のみである。したがって基礎工事が始まるのと同時に給排水、電気工事を「橋本組」が請け負った。といっても作業員は私一人だが、電気工事士など建築関係の免許も持っているので出来るものを人に任せるのは面白くないし、設備工事は費用がかさむのだから選択の余地はない。朝晩を中心に穴掘りに明け暮れるのだった。

 建築費を抑えるために構造は単純な総2階建で床面積は16坪×232坪。風が強いので高さを抑えるため2階部分は小屋裏作りとし屋根に外国製の天窓をつけた。寒冷地でも快適に暮らせるよう外断熱仕様にしてしっかり断熱、後で取り換えは効かないので値は張るがサッシ類はペアガラスにした。念願の薪ストーブも安価なものを見つけて購入したが火災防止や汚れ、煤対策が重要な煙突工事の方にお金がかかってしまった。

 外装がほぼ出来上がると初冬の寒風の中外壁の防腐剤を塗り、風人君をおんぶしながらユンボを操作して浄化槽を埋めた。居間にアカマツの床板を張り、最低限の間仕切壁と計算の難しい折り返しのある階段を作り、水道・電気工事も何とか終えた。お風呂はさすがに難しいので安いユニットバスを入れてもらった。

 こうして玄関の扉もない(自分で作るつもりだったが間に合わなかった)台所もまだ完成しない、構造材むき出しのがらんとした建物に大工さんに驚かれながら無理やり引っ越したのが12月31日。誰がどう見ても工事中だったが、見てくれは悪くても薪ストーブは暖かく、断熱がしっかりした家は驚くほど快適だった。(続く)



橋本和吉