山で風のように暮らすには

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です14

木工職人のチーズケーキ


 そういうわけで素人なりに工夫しながら「カフェ」として営業をして1年半ほど過ぎた頃、お客様が思ったよりも多いことに気を良くして「もっとカフェでお客様を呼べないか」などと余計なことを考えるようになってしまった。それには何かここだけの「名物」を作らなければならない、という結論に至った。ステーキ?ピザ?ケーキ?などと候補をあげていろんな店の視察を繰り返した結果、「チーズケーキ」というのがロケーション的にも似合いそうだし持帰る事が出来ることで売上を伸ばせる可能性が高いのではということで結論を出した。まあ私はうまいものも料理も大好きだし、ケーキを作ったことだって一度や二度ではないからやってやれない事は無いだろう・・・。そんな安易な発想の下このプロジェクトはスタートした。

 さっそく有名無名のケーキ店やチーズケーキ店を食べ歩き、遠方の有名店は通販で取り寄せて味見を重ねた。しかしその結果、どういうわけか「・・・まずい」というものが大部分だったのが驚きだった。もっとも私はチーズ嫌いでチーズケーキもチーズの強いものほど苦手だったというどうしようもない原因はあるのだが、好みはあるにしてもこんなまずいものが有名店で売られているというのはちょっとショックだった。自分の舌を絶対視するわけではないがもう少し一般的な「おいしさ」が必要なのではと思えてならなかった。もちろん数は少ないがおいしい部類に入るものもあってそれを超える事が目標になった。

 試食と並行して試作も始めた。手に入る限りのレシピ本を集め片っ端から作ってみる事にした。チーズケーキを作るのは初めてである。主に使うのがクリームチーズと呼ばれる非熟成のフレッシュチーズであることももちろん初めて知った。そのクリームチーズもスーパーで手に入るものだけで数種類あり全て味が違う。材料とレシピの組合せでとんでもない数に上る試作は想像を超えた大変さだった。

 素人が始めるからと言って妥協するつもりは最初からなかった。納得のいかない物は出す意味が無い。それは根っからの凝り性という性格、木工で養った職人気質でもあったのかもしれない。良いものを追求する心地良さは木工でもケーキ作りでも変わらないものがあると私は思っている。もちろんそれは試作段階の困難さも示していて、砂糖の量を少し変えるだけで味が変わってくるケーキの世界は木工よりも手ごわかったかもしれない。

 数か月に渡る試作でレシピが絞り込まれるとオリジナリティーを加える段階になる。出来合いのレシピで満足しないのはこだわりなのかへそ曲がりなのかはわからない。より納得がいくものへとレシピ同士の組み合わせやレシピに無い材料を加えたりして行くのだ。そこは怖いもの知らずの素人、これとこれは組合せないとかいう常識が全くないことが結果的に良い方向に繋がっていった。そうして出来あがった現在のレシピはどこの本にも無いオリジナルになっている。

 試食の段階でNO1と位置付けたケーキを超える満足のいく味に仕上がったオリジナルチーズケーキ。果たして売れるのか?

 つづく

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です13

風花誕生編

 時間は経っても相変わらず完成しない自宅。その自宅を指さして「あの建物はなあに?」と言ってきたのは岳温泉のホテルのおかみだった。「自宅です」と答えると「あらもったいないわね、私なら喫茶にでもするのに・・・」とのたまったのだ。

確かにお客さんから見て一番目に入る、一番立派そうな?建物が自宅というのは誰が見てもおかしい。痛いところを突かれたと私は思ったが「それなら喫茶にしてしまおう」と考えてしまったのが広子さんである。

せっかく作った自宅をと思うと何だが、外装も内装もそれなりにこだわっていてそういじらなくても店になりそうではあった。まあそういうのも悪くは無いかと私も乗ってしまって、工事中に目的変更となった。狭くとも暮らせないことはないさと、一階の風呂を除くすべてを二階に詰め込み、苦労して作った間仕切壁を取り外し床板や壁を補修、出入り口などの工事を除いてほぼ自分で施工。商売になると思えばスピードはかなり違うのだから現金なものである。工房で作ったテーブルとイスを設置すれば何とか喫茶店のようにはなった。最低限の厨房設備を入れ冷凍のケーキや食材を使って2002年春にオープンさせたのが「風花」である。

メニューはドリンクと既製品の冷凍ケーキ、冷凍やレトルトの食材を組み合わせた軽食。森の工房に寄ったお客さんにお茶を飲んで行ってもらう、というだけの目的だった。

名前は子供二人の名前から一文字づつとった。どうせ田舎者がやるのだからと横文字の難しい名前よりやさしく覚えやすい名前を選んだ。「どうせそんなにお客さんは来ないよ」そう言って始まった当初は広子さんが切り盛りしていたのだが、あまりのお客さんの多さに悲鳴を上げて私が担当する羽目になってしまった。その後もお客さんは増え続け「何でこんなところでコーヒーを飲んでいくの?」というほどの潜在需要があったことに驚いてしまった。

木工の工房との二足のわらじはなかなか大変でアルバイトを入れてしのいだが、お客さんが多くなると冷凍のケーキでも申し訳ないと生来のこだわり性が頭を持ち上げて来た。既製品ではない何か特徴のあるオリジナルのものを提供できないか?などとバカなことを考え始めたのだ。


つづく

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です 12

猪苗代ショップオープン編


どんな業種でもひたすら右肩上がりという企業は少ないわけで、飛ぶ鳥を落とす勢いだったはずの森の工房もその例に漏れずやがて売り上げは頭打ちとなり、不景気と時代の変化によって次第に下がり始めることになる。エレベーターと同じで下がり始めは気持ちが良くないわけで?子供たちの教育費も稼がなければなどと焦って悪あがきを始めてしまうのだ。

いくら何でも不景気はこれ以上は続くまい、三流の立地でもこれだけの売り上げがあるのだから一流の場所に出店すればまだまだ売れるはず、と安易な発想を抱いていた頃、運悪く?一流リゾートとして有名な猪苗代湖畔の国道沿いに元コンビニだった貸店舗を見つけてしまった。交通量は何倍もあるし、野口英世記念館、世界のガラス館などに隣接している、立地は抜群だった。すぐその気になってしまうのが悪い癖で、捕らぬ狸の何とやら・・・。「絶対間違いない」そう思ってかなりの予算を立てても銀行も問題なく貸してくれてまた借金を増やしてしまうのだが、借りる時は返せないとは思わず借りるものだから仕方ない。

雪解けとともに改装をはじめゴールデンウィークを前にオープンにこぎつけた。店舗面積は本店の2倍以上、ショップデザイナーに依頼した改装工事はプレハブとは違ってかなりセンスの良い店に仕上げることができた。やっとまともな店を持つことができたと満足だった。現地で募集したアルバイトに管理を任せ週に1.2回私や広子さんが通うことになった。

しかし、蓋を開けてみれば思ったほどの売り上げにはならなかったのだ。本店と比べてかなり良かったのは最初の三年だけだった。底なしの不況が世界中を覆い、観光不況は深刻なものになっていた。そうなると経費がかかるだけ、管理するのが大変なだけの店になってしまった。最初は「車で50分なら通える範囲」とたかをくくっていたがやがてそれさえも苦になるようになってしまった。あれこれと手を変え品を変え金をかけて悪あがきを試みるのだが客が減り続ける時に何をやっても効果は無いのである。いや単に頭が悪いだけなのだが・・・。これでは借金も返せなくなってしまう、私は頭を抱えてしまった。


続く

 

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です11

火災からの復興後、不況といわれる中ではあったが店を大きくした事や、自然志向のライフスタイルの流行もあってか売上は順調に伸びて行った。翌年開催した「第二回あだたら手づくりフェスタ」は何と地方紙の第一面を飾り、誰が言ったか知らないが「森の工房は飛ぶ鳥を落とす勢い?」という噂があったとか・・。とにかく順風満帆という状態だった。

 何もかも順調だとすぐその気になってしまうのが人間の弱さなのであろう。借金をして隣地を取得し念願の750坪の持ち主となってやっと駐車場のスペースが確保すると、自宅も作りたいという欲求が出てきた。

 火災後3キロほど離れた所にアパートを借りて暮らしていたが、通うのが不便だし何かと制約もある。土地はあるのだから何も残らぬ家賃を払い続けるなら借金しても返せるはずだというのは理屈ではある。第二子風人君も生まれ、「よし家を建てるぞ」と決心したのは火災から2年後の96年の事である。最も仕事場からの適当な距離に満足していた広子さんは複雑な胸中だったようだが反対するほどの理由もない。

 ごく普通の住宅を建てようと思うと2000万近くの費用がかかってしまうが、それでは返済が家賃を遥かにオーバーしてしまう。というわけで外側だけ大工さんに建ててもらって内装は自分で住みながらやろうという結論に達した。「ウッディライフ」やら何やらに自分で家を建てたという情報はたくさんあって内装ぐらい自分にできないはずはないし、何といっても木工屋さんで道具も揃っているのだからこれ以上の条件は無い。

 幸いこの地域はその時点では都市計画外無指定地域だった。すなわち宅地であれば無許可で何を立てても構わないということである。適当に大まかな設計図を描いて知りあいの大工さんに依頼し、600万を借りて建築工事が始まった。

 大工さんに依頼するのは基礎、骨組み、外装、サッシ工事のみである。したがって基礎工事が始まるのと同時に給排水、電気工事を「橋本組」が請け負った。といっても作業員は私一人だが、電気工事士など建築関係の免許も持っているので出来るものを人に任せるのは面白くないし、設備工事は費用がかさむのだから選択の余地はない。朝晩を中心に穴掘りに明け暮れるのだった。

 建築費を抑えるために構造は単純な総2階建で床面積は16坪×232坪。風が強いので高さを抑えるため2階部分は小屋裏作りとし屋根に外国製の天窓をつけた。寒冷地でも快適に暮らせるよう外断熱仕様にしてしっかり断熱、後で取り換えは効かないので値は張るがサッシ類はペアガラスにした。念願の薪ストーブも安価なものを見つけて購入したが火災防止や汚れ、煤対策が重要な煙突工事の方にお金がかかってしまった。

 外装がほぼ出来上がると初冬の寒風の中外壁の防腐剤を塗り、風人君をおんぶしながらユンボを操作して浄化槽を埋めた。居間にアカマツの床板を張り、最低限の間仕切壁と計算の難しい折り返しのある階段を作り、水道・電気工事も何とか終えた。お風呂はさすがに難しいので安いユニットバスを入れてもらった。

 こうして玄関の扉もない(自分で作るつもりだったが間に合わなかった)台所もまだ完成しない、構造材むき出しのがらんとした建物に大工さんに驚かれながら無理やり引っ越したのが12月31日。誰がどう見ても工事中だったが、見てくれは悪くても薪ストーブは暖かく、断熱がしっかりした家は驚くほど快適だった。(続く)



橋本和吉

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です10


山で風のように暮らすには不純な動機が大切です10
災難編

 その朝、私たちは激しく窓を叩く音で起こされた。

 何かのいたずら?覚めぬ頭に「・・・火事だ起きろ!・・・」という声が響いてくるではないか。

「えっ?火事・・・どこが・・・まさか?」

昨夜は山の友人たちが集まってヒマラヤに行くメンバーの壮行会を駐車場の隅でやっていた。

バーベキューを囲んで楽しく過ごし、広子さんなどはついさっき布団に入ったばかりなのだから何が何だかわかりようがない。

半分寝ぼけながらあわててズボンをはき外に出ると、顔をひきつらせた数人の友人が「火事だ、早く子供を外に!」と叫んでいる。

ふと工房の方を見ると何とオレンジ色に揺らめく炎が見えるではないか。

「・・・うそだろう・・・」悪夢なのか現実なのかすぐに自分の中で理解することなど全く不可能だった。

「・・・火事だ、工房が燃えている!すぐに花梨ちゃんを連れて逃げろ!」

うろたえる広子さんを残し炎の見える方に走ると積み上げた材料が火に包まれている。

「水は!」

「出ない、電線がやられた」

「だめだもう消せない、早く119番に!」

「少しでも持ち出せるものを持ち出そう」

「店に回れ!」

10人近いテントを張って泊まっていた友人たちが慌てふためきながら走り回っている。

どうしたらいいのか、何をすればいいのか、何を持ち出せばいいのか・・・冷静になどなれるはずがあるはずもない。頭の中は真っ白だった。

「・・・燃えてしまう・・・私達のすべてが燃えてしまう・・・私達のすべてが・・・」

ただあっという間に燃え広がっていく炎の色が目に焼きついていくだけだった。

今から考えれば消火器もあったし、風呂に水もあったはず。持ち出すものだって写真や現金など優先するものがあったはずなのに・・・。

焚き木のような材料とシンナー類の危険物、ベニヤ板だけの建物・・・全焼するまでそれほどの時間はかからなかった。

田舎に暮らすことを目指す多くの人がまず出会う災難が火事で、そんな話を本で読んだり、聞いたりはしていましたがまさか自分たちがそんな目にあうなんて・・・。

後の祭りではあるけれど私は火の元に関しては結構細かい方で、「失火」以外の原因が考えられないとはいえ夕べだって建物からの距離は十分とってあったし小雨も降っていて、誰がどう考えたって火事になるなんて考えられないはずなのだが・・・。

ともかくわずか2時間足らずですべては灰となって崩れ落ちた。

くすぶって煙のあがる焼け跡に冷たい雨の中で震えながら呆然とする私達がいた。消防団は片付けを始め、隣組の女の人たちが手際良く消防団の人達に炊き出しをし、男の人たちは後片付けの手配を始めている。聞きつけた観光協会の人達や親戚、知人たちが駆けつけてくれる。そのすべてがまるで無声映画のようで私達二人を取り残したまま時間が過ぎていくようだった。

それから数日の間に親戚や知人が次々に見舞いに訪ねてくれ、服一枚すら持ち出すことが出来なかった私たちに多くの家財道具と多額の見舞いを届けてくれた。何もかも失った私たちにはただただありがたく涙が乾く間がなかった。

このありがたさは本当にこういう目にあって見なければわからないものだろう。どんなに助けられ、力づけられたことだろうか。別に誰の世話にならなくても生きていける・・・そんな風にどこかで思っていた私達にとって大きな変革を迫られる事件でもあった。



悲しみばかりに浸っているわけにはいかない。やらなければならないことが山ほどある。

近くに空き家を借りていた従業員のところに転がり込んで、まずは残骸の後片付けはもちろん、それをお願いする隣組の人たちへのお礼、犯罪者を調べるような警察の調書作成、お世話になった人たちへの挨拶、迷惑をかけた方へのお詫びなどめったにできない経験をした。もちろんしないに越したことのない経験だが・・・。

さらに翌日に予定していた取引先への支払い延長のお願い、銀行や市役所への通帳や書類の再発行手続き、火災保険の手続き、再建へ向けた取り組み・・・と足を棒のようにして走り回らなければなかった。

服を買う時間などあるはずもなく、上から下までいただきもののサイズの合わない服や靴を身に着けて、あちこちと走り回る自分の惨めさに悔し涙が所かまわずあふれてしまう。こぶしを握り締め、肩を震わせて、歯を食いしばって歩く姿は随分異様に見えたことだろう。

何よりも再建に向けて急いで事を進めなければならない。従業員を解雇するわけにも行かないし夏休みが目の前なのだ。よく再建したねー!火事になんてあったらとてもそんな気になれないよ・・・とよく言われた。確かにそうなのかもしれない。これは経験したものでなければわからないがその喪失感はあまりにも大きく、すぐに再建しようなんて気力は無いほうが当たり前だとも思う。

私たちの場合、従業員がいたことが再建への大きな力となった。二人だけだったらその時点でやめていた可能性だってあったと思う。従業員を路頭に迷わせるわけには行かない!その思いだけでただ夢中で走り回ったように思う。

火災保険にはもちろん入っていた。でも本当に火災にあうことを想定して保険に入っている人はそういない。それなりの保険金は入っては来たが休業中の売上の減少分や、どうせ作るならと前よりも広くと思ってしまう分までは考えているはずも無い。ここで無理をしてしまったことが後でたたってしまうのだ・・・。とりあえずわずか一月半後の8月には再オープンさせるという周囲の人も驚くほどのスピード再建だった。もっとも住宅を建てるだけのお金は足りず、当面アパートを借りることにはなってしまったが。

この一件でたくさんの人のお世話になり、助けていただいた。その恩は一生忘れることはできないと思っている。

新店舗
復興後の店舗




つづく 


 

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です9

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です 森の工房オープン編2

初めてのお客さんは通りかかった写真屋さん。売れたのは忘れもしない8000円のフクロウの温湿度計。平日ということもあり初日は数人が寄っただけ。まあ休みの日はもう少し来てもらえるんじゃないかとかすかな望みは持っていた。

ところが・・・である。

翌日からのゴールデンウィークには8坪の狭い店に人がひしめき、後半を待たずしてあらかたの商品が無くなってしまうという異常な事態が発生したのだ。一番驚いたのは誰でもない私達自身だった。

 今から考えてみれば温泉街を除けば他に大した店がないという逆の意味で目立つ立地条件、温泉からの適度な距離、自然を背景にした環境、木の良さが見直されてきた社会環境などが総合的に影響し、どんな専門家も予想し得なかった結果になったのではないだろうかと思う。

 あわてて子供を預ける保育所を探し、初めて従業員というものを二人採用。夏休みを前に給排水も開通して風呂も完成、予算が無くて作れなかった塗装室も増築、殺風景な外回りに植木を植えたりと急ピッチで設備も充実していくのだった。


そんな何となく見通しが明るくなってきた矢先、花梨ちゃんが風邪をこじらせて熱を出したのだ。

二本松市内の小児科に通うのだがいつまでたっても熱が下がらず、悪化する一方の病状に郡山市内の有名な小児科を紹介されて入院。いやがって動くので体を縛り付けて点滴する姿に目がうるみ、いつまでも続くもうろうとした状態に一時はもしかしたら直らないんじゃないかと恐怖に怯える毎日だった。もちろん広子さんはつきっきりで私は夏休みで休むわけにもいかない森の工房と病院の往復だ。

いろいろと検査するものの原因がわからぬままさらに総合病院に転院。ようやく髄膜炎という病名が判明、後遺症が残る可能性があるという医師の話に少々ぎくりとしながらも回復して退院したのは一ヶ月後。熱が出始めてから何と2ヶ月、冷夏であったことなど気付く余裕も無く夏休みが終わろうとしていた。回復した喜びとともに何年か分のエネルギーを使い果たしたような疲労感が残り、子供を持つということはとてつもない恐怖を併せ持つ事なのだと思い知らされた。子供を持っただけで親になるのではなくさまざまな出来事をくぐりぬけて初めて親になっていくのだとつくづく感じた。


秋に入っても売上の方は順調で、冬を前に住宅部分に断熱材を入れたり、工房を有効に使うため棚をつけたり、店の入り口に風除室を作ったりと工事が続く。長崎から面接に来た変り種の従業員も一人増え狭い工房はフル回転だ。

初めての高原の冬。

冬という季節はけしてきらいではない。ピンと張り詰めた空気はなかなか良いものだし雪の美しさは降ってよし、積もってよしである。けれどうわさに聞いていた安達太良おろしはすさまじいものだった。トタン板の壁面が今にも壊れそうなバタバタというすさまじい音をたて、建物全体がギシギシと鳴って揺れ、隙間風のうなる様は恐怖以外のものではなく、一睡もできない夜がいく晩もあるのだ。翌朝には隙間から入り込んだ雪が室内に積もっていたりするのだからなかなかのものである。

どんなに防寒対策をしても所詮プレハブ。とにかく寒いし、暖房すれば結露でびっしょり。三春との標高300メートルの差は大きかった。もっとも、風の穏やかな月の夜に一面白くなった雪野原を長靴をはいて駆け回って喜んでいる人もいたのだから楽しみが無いわけでもなかったが・・・。

ここは積雪自体はそう多いわけではなく積もっても3、40センチくらいだ。ただ寒さは厳しく坂道ばかりの道路はずっと凍ったままなので車の運転は実に怖い。ここに来てから冬と風がすっかり嫌いになってしまったのは仕方の無い結果だろう。


恐怖の冬が終わり、翌年春に開催した「手づくりフェスタ」という手づくり品の展示即売のイベントがまずまず成功。マスコミにも取り上げられ、「森の工房は飛ぶ鳥を落とす勢い?」というようなうわさが出たとか出ないとかいう話まで飛び交うようになった。この頃には何と相手にもしてくれなかったはずの銀行が向こうから頭を下げてくるようになったではないか。

いくら何でもいいことばかりが続くことは良くない。「慢心」というものが全く無かったといえばうそになる。そんな心の隙を突くように大変な試練が待ち受けていたのだ。


オーナー 橋本和吉

 

 

 

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です8

「森の工房オープン編」

 

さあ土地を買ったはいいが借り入れが受けられずに建物の青写真が宙に浮いてしまうという事態・・・。

親子の縁を切ってまで踏み出して後戻りなどできるはずが無い私達は、無謀にも300万余の運転資金用のお金で何としても建物を建てるべく奔走するのだった。

ゴールデンウィークまでにはどうしても引っ越してオープンさせなければ・・・車一台分程度のお金で何ができるか?安い建物=プレハブ、プレハブの中でも最も安いもの・・・究極の選択は本体坪単価5.5万円の32坪という建物で、要するに土木工事の現場事務所である。かろうじて雨風がしのげるという程度の建物に8坪の店舗、6坪の事務所、12坪の工房、6坪の自宅を無理矢理押し込めるというもの。機械や材料が全部入るのだろうかと不安はつきないもののこれ以上は予算が許さないのでこの際「あれば便利」は「無くてもいい」ということにしよう。

いくら予算が無いといっても標準の青い屋根のままというのは観光地だからというより美的センスが許さない?のでこげ茶色にオーダーし、名だたる強風地帯ゆえ風対策で強度をアップ、という程度のことは止むを得ないだろう。

申し訳程度に店舗用のサッシを入れ、入口両側に板を張って看板をかけ、自分で切り抜いた「森の工房」という文字を貼り付けとりあえず店らしくはしてみたが、夢に描いたものとは大違いのみじめでみすぼらしい建物がだだっ広い畑にぽつんと建ったわけである。こんなものにお客さんがくるのだろうかと不安だけが大きく広がるのだが、何ともいたしかたないことだった。

そして建物が完成するかしないかの内に無理やり引越しを強行する。もちろん業者を頼むほどの予算も荷物も無いのでドゥーイットユアセルフである。レンタルで借りた4トントラックの運転もユニック(クレーン)の操作も初めてでもまあやればできるもので機械、材木からわずかな家財道具も数人の友人に手伝ってもらって数回の往復で完了。引越し費用5万円也・・・ユニックのワイヤーを切ってしまって余計な出費があったのだけれど・・・。

今日からここで暮らすんだ!という私達に驚きを隠せないのはまだ工事中の業者さんと手伝いの友人だった。あまりにも殺風景でとても人が住めるようには思えないのももっともだった。

基礎工事、電気工事、駐車場の砂利敷きなどを含めるともう手元にはほとんど何も残らない状態。井戸はもともと掘ってあったものの水道工事まで予算が回らず、台所に流しはあっても給水も排水もつながっていない。もちろん風呂もなし、トイレは工房で使っていた汲み取り式の仮設トイレのみという次第。屋外の井戸のそばに流しと洗濯機があって、食事の支度はカセットコンロとホットプレートを使い、お風呂は岳温泉の公衆浴場に通うという、要するにまあ毎日キャンプのような生活というわけである。

子供を背負いながら外の流しで食器を洗い、洗濯機を回す姿は周囲の人にはどれほど奇異に映ったことか・・・まあ本人たちは至ってまじめで不自由な生活もまあ楽しいじゃないか!などとのたまっていたのだが。

 いや楽しむより先に店をオープンさせなければ・・・。仕入れるお金も無いので取引先を拝み倒して商品を後払いで借りたりしたわずかな仕入れ品とオリジナルの商品を集めてとりあえず体裁は整えたものの、立地はC級、店構えは貧弱、グリーンピア二本松という施設があるにはあるがそれほど多くの入場者がある風でもない。どう見積もってもここで採算が取れるほどの商売は見込めない。まあいいさ、いくら少ないとはいっても三春の工房よりは人は来るだろう。子供を見ながら畑でもつくって商品を卸売りすれば何とかなるだろう。何より家族3人水入らずで暮らせるのだから欲を出す必要は無い・・・なんて自分に言い聞かせながら。


そんなわけで1993年4月28日「森の工房」は誕生したのである。折りしも当時はバブルが崩壊し景気が一番良くないと言われた時期。最低の時に始まれば後は上がるだけさ・・・なんてね。


つづく
クラフトは薄
オープン当時の森の工房


オーナー 橋本和吉

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です 7

そうこうしているうちに花梨ちゃんが誕生。運良く出産に立ち会った私はいきなり生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこさせられて、感動も実感もわかず戸惑うばかりだった。けれどあれほどいらないと思い続けてきたはずなのに、日がたつにつれ深まっていくその愛おしさに子供を持つという幸せをしみじみ感じるようになった。この子のために自分の生き方と地球の未来に責任を持たなければならないという非常に大げさで都合のいい責任感が生まれてくるのであって、親バカというか何と言うか、子供を持たなかった自分は何と無責任でかたわな人間だったのだろうともつくづく思うのだった。

かくして、寝顔を見てはその愛おしさにウルウルし、泣いている赤ん坊を前に顔を見合わせては育児書をめくる、といったような私の人生計画には無かった笑える子育ての日々が始まった。

 

さて、さんざん走り回った末に最後にたどり着いたのは意外と身近な場所で、登山のホームベースとして何十回となく登った安達太良山の山麓だった。田んぼのない牧草地の広がる北海道にも似た風景に、100%満足とまでは言えないけれどいいところで落ち着いたのかもしれないと思った。

土地探しを始めてから2年。雪の積もったこの畑を見た時のことは忘れない。ここでどんな未来が自分たちを待ち受けているのだろうと胸が高鳴るのだった。もっとも今でこそいい場所だったと思えるのだが、その当時は不動産業者も首をかしげる誰も商売になるとは思えないような土地で、おまけに安めとはいえ、どうがんばっても全部で750坪ある畑の300坪しか買うことができないという悪条件の中のスタート。まあ多少のお客さんは来るだろう、畑でもつくりながらのんびり暮らそうとあくまでも楽観的だったのだが・・・。

 おっと土地を買うには金が要る。貯金などあるはずもないからそれまで工房にしていた古い家の周辺の土地を処分することにした。これは残念ながら秘密にするわけにもいかず売るぞと宣言をすると、案の定母親が親戚中に泣きつき何をとんでもないことをと予定通りの大騒ぎになった。

自分名義の土地を売って土地を買う。この何でもない行為がとんでもない大罪になるのが田舎である。あげくの果てに自分が好きなところで暮らしたいというだけで親を捨てるなんてただの一度も考えたことも無く、いずれ面倒見るのは自分の責任と思っていた私に、親を捨てるようなやつは犬畜生にも劣る!とまでのたまうのだった。さすがの?私も悔し涙を抑えることができずにブチ切れて、そこまでいうのなら捨ててやろうじゃないか!とこの時点で親子の縁、親戚の縁を切ることになってしまったのだから人の心は不思議なものである。でもそんなに悪いことをしてるの???

 割り切っているつもりでもいざ契約書に判を押し代金を受け取ると、先祖代々の土地を売ってしまったという罪の意識にさいなまれるのであって、家というものの持つ罪の深さを思うのだった。

 豊かな自然の中で夢のような仕事を・・・誰もが?憧れるような「森の工房」は、けして純粋とはいえないドロドロとしたものを抱えて、それでいて明るく走り始めたのだった。

さていよいよ設計図もできて新しい森の工房のスタート・・・と思いきや、予定していた銀行の借り入れが受けられないという思わぬ事態が待ち構えていた。この場所ではとても商売にならない、担保価値もないというのがその理由。今よりはるかに少ない売上予想を出したのにそれさえも見込めないと・・・。

 土地代を払ったら残りは運転資金にするつもりだったお金だけ・・・どうしよう、今さら後に引けない・・・。


つづく

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です 6

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です 7

神様の贈り物?編


結婚して6年、工房を始めて4年。直売できる店を構えようという計画は、なかなか虫のいい話にめぐり合えないまま過ぎようとしていた。

そんな‘921月、私は頭で理解できるようになってから初めての戦争「湾岸戦争」が始まったというテレビのニュースに釘付けになってしまった。

 私は無所属の反戦主義者のはしくれのつもりであって、暴力や武力は最も野蛮で非文化的な行為だと常々思っているのである。

悪いやつはいるのだとは思うし、社会から排除しなければならないこともあるとは思う。しかし国の善悪を判断するのはウルトラマンや水戸黄門のように簡単ではないと思うのだ。武器を持つ戦争に本当の正義など存在せず、殺りくと破壊は憎しみと悲しみしか生まないことは歴史をまじめに勉強すればわかることで、戦争以外の選択肢を考えられない無学で無能な政治家は私には悪いやつと紙一重に見えてしまうのである。

 あの光の中でたった今殺され、傷ついていく人たちがいる。バカな指導者に脅され、そそのかされた哀れな兵士も、平和主義者も、女も、子供も、年寄りも・・・。相手は怪獣のように爆発するはずはなく、腕や足をもぎ取られて地獄の悲鳴をあげ、内臓を飛び散らせてのたうちまわるのだ・・・。

どの国に対してでもない、「戦争」という暴力への怒りと憎しみ、そして悲しみ・・・人事なのに涙もろい私はどうにも涙が止められないのだった。

どうせ世の中何も変わりはしないと結婚以来久しく市民運動などにかかわらなかった私が、数日後広子さんと二人「湾岸戦争支援反対」というプラカードを掲げ郡山の市内を歩いていた。団体で行動することが嫌いな私のことだから二人だけ。一人でも行くといったバカな私に広子さんはついてきてくれた。

何のことは無い、それしかできなかったし、それだけの話である。無論戦争が止まることなどあるはずがない。しかしこの話は不思議に続いていく物語の初めのように今は思える。


半年後広子さんの体調に異変が起きる。どうも妊娠したらしいのだ。それまで私達は子供はいらないと思い続けてきたのですが、どういうわけかすんなり受け止める気持ちになっていた。

「神様の贈り物・・・」神様など信じてもいないし、ただの偶然にしか過ぎないのだろうけれど、ふとそんな思いが胸をよぎったのだ。もしかしたらその時が来たのかも知れない・・・半年前の出来事が自分の何かを変えたのかも知れない・・・すみません、思い込みが激しい性格で・・・。

 

同じ頃、以前から決してうまくいっているとはいえなかった広子さんと私の母との関係が悪化し、私がいないと2階からトイレに降りることさえできないという状態に陥っていて、これは膀胱炎にならないうちに何とかしなければならないと思っていた矢先の出来事だった。

 「私はどんな人とでもうまくやっていける自信がある」

結婚する前はそう豪語していた広子さんだったのだが、それはたまたま周りにいた人に恵まれていただけのこと。私は親だからとあきらめられても広子さんにそれは無理なことなのだ。

 そんな状況の中で「直売できる店を・・・」という計画は二人プラスアルファで暮らせる場所を探すという不純な方向へ比重を移していくことになるのだった。

 別にありそうな話だし、それほど難しいことではない・・・とお思いの方も多いとは思うが、田舎の農家の長男が家を出るということは想像を超える大事件なのである。

 私は山や自然が好きだし、次第に住宅地へと変貌していく自分の家の周りを眺めながらもっと山の中で暮らしたいといつも思ってはいた。けれど農家の長男という重圧は親からばかりではなく親類一同よってたかってのもので、跳ね除けるには半端ではない覚悟とエネルギーが必要。そんなことは一生口にしてはならないものと思い込まされていたのだった。

 でもよくよく考えてみればたった一度しかない人生、好きなところに住んで好きなことをしていかなければ結局後悔することになってしまうではないか。これまでは仕方ないとあきらめていたことも、生まれてくる子供のためにも言い訳しない人生を送らなければならない、と都合よく思えるようになったのは大きな変化である。

 長距離ドライブは避けなければならないはずのおなかの大きくなった広子さんを乗せて、遠くは岩手まで足を延ばし物色するのですが値段と立地条件が折り合わず土地探しは難航。

どんなに条件が良くても高い土地はとても買えるはずもない。分譲別荘地など御免だし、かといって道路から奥まったところや、ただの田舎ではお客さんが来るはずもない・・・。

 

 

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です 5

木工 独立編

 いい気になって商品をつくって出荷したものの数ヵ月後にはすべてが不良品として返品という始末。「木」というものをあまりに知らない素人の仕事なんて所詮そんなものなのだ。

 生活費を稼ぐどころか材料費を支払う分の売上にもならない現実に、とにかくまともなものを作れる技術と道具が必要なのだと思い知らされた。だからといって始まったものはやめられないし、三年かかっていたのでは間に合わないのだ・・・。

 それから必死になって理論と技術を学びながらの仕事である。毎日真夜中までやって人が三年かかるところを一年に縮め、商工会を通じて国民金融公庫から500万ほど借りて中古の機械ばかりではあったが設備を充実。ようやく木工の工房らしい体裁を構えることが出来た。もちろんこの間生活がどれほど苦しかったのかは言うまでもない。よい子の皆さんはけして真似しないでください。

学ばなければならないのは木工の技術だけではない。自営業というのは何でも自分でやらなければならないから自営業というわけで?営業はもちろん、経理、銀行との折衝、仕入、商品開発・・・何から何まで初めてのことばかり。学校を出てからこれほど勉強したことがあるだろうかというほど覚えなければならないことが山積みである。自営業は人の2倍仕事をして収入は半分といわれる意味を納得せざるを得なかった。

 

 そうこうしているうちにそれなりに仕事は入るようになり広子さんもパートをやめて専業になり、やっと目指した24時間一緒の生活にたどり着いた。サリーマンを辞めて3年近くの回り道だった。

 この頃の主力商品は糸鋸を使ったパズル。以前に比べてプロっぽい?ものになり、鳥や動物、日本地図など種類も増えました。おもちゃやインテリアなど他の商品も少しずつ試作の段階にあった。

 そんなこんなで数年が過ぎていくのだが、この間初めてテレビや雑誌の取材を受けたり、大手玩具メーカーとの提携の話に振り回されたり、忙しくて初めてアルバイトを頼んだり、といろんなことがあった。

 しかしながら忙しいほど仕事は入ってきても相変わらず生活はやっとという自転車操業からはなかなか脱出できなかった。もうからない理由は1.問屋さんからの単価の低い発注がほとんどだということ2.問屋さん向けに売れる商品ばかりで自分が本当に作りたいものを作っていないこと3.作りたいものを作っても売る店がないこと、の3点だったので、それを解消するためには「自分で作って自分で売るというスタイルが不可欠である」という結論に達したのだ。

 果たしてそんなもの売れるものだろうか?試しにやって見ようか、土地や建物を買うまでの予算はないから貸店舗を探してみよう。売るとすれば町か観光地か?町は家賃が高すぎて競争が激しいだろうし、観光地は何となく雰囲気は合いそうだけれど借りる物件が少ない・・・うむ。そんな時に知り合いの知り合いからあそこが空いているらしいと紹介されたのが猪苗代湖畔のレストラン別棟のログハウス。湖畔のログハウスなんて条件が良すぎるではないか!というわけで早速交渉して借りることになったのが'90年4月のこと。ゴールデンウィークに間に合わせる形で、数件の工房や問屋さんから商品を仕入れ、オリジナルの商品をあわせて販売。「クラフトハウス」という店の始まりだった。

 広子さんが片道50分かけて毎日通い、国道沿いの条件は悪くないところで素人っぽい店ではあったがそれなりのお客様が入り、年間売上が始めて1000万円を超えた記念すべき年になった。もしかしたらこれはいけるかもしれないなどと悪魔がささやくのだった。

 もともとそう長くは貸せないという条件だったので秋のシーズンが終わると同時にとりあえず撤退。今度は着実に営業できる場所を探そう、という段階に入った。


続く


クラフトハウス
猪苗代で営業したクラフトハウス

風人舎
風人舎当時の写真で唯一消失を免れたもの

 

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です その4

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です その4 木工入門編

 というわけで2ヶ月余りの沖縄での非日常を過ごして帰ってきた。もちろんだからといってそうそううまい話が待っているわけでもなく、職安の求職カードと求人広告を眺める毎日が続くのである。

 「高給優遇」とか「やる気のある方求む」などという縁の無いコピーを眺めながら、甲斐性の無い私はため息をつくばかりなのだった。

 特別何をやりたいという希望がこの時点であったわけではなく、ただ普通のサラリーマンではない仕事を、いつか自分たちが独立してやっていけるような仕事を、というような漠然とした思いだった。何かを作る仕事・・・とパン屋さんに行ってみたもののどうも向いていないようであきらめてしまったし、木工といっても住宅メーカーの大工かアルミ中心の建具屋くらいで、夢の描けない会社の歯車では同じもの作りでもとても耐えられる自信もない・・・。

 そんなある日、運命なのか偶然なのか悪魔のささやきなのか「木工民芸品工房」という求人カードをついに発見!これだ、これにかけるしかない!一枚のカードが私達にとっては金色のごとく光り輝いて見え、いそいそと面接に出かけたのだった。

 オーナー側でもサラリーマンでないタイプの人間を求めていたらしく無事就職。東京からやってきて職業訓練校で木工を学び、古くからの民芸品をアレンジした木工品を作る老夫婦のこじんまりとした工房で木工と出会うことになった。

 一時的に広子さんも夢を描いてここに通ったのだがオーナー夫妻との性格的な組み合わせが思わしくなく別なパートの口を捜して早々にリタイヤした。


 この工房で木工のいろはを学ぶことになるわけなのだが、こうなったらいずれ独立して・・・と思うのが人情というもので、少しでも知識を吸収しようと努力した。しかしながら我慢強い?私にとってもオーナー夫妻との相性は良くはなかったようで丸1年で辞めざるを得ないことになってしまった。

 はてさて、またここでどうするか?という立場になってしまった。あきらめてサラリーマンに戻ればいいものを、出した結論は無謀にも独立してしまおうというのだからあきれてものが言えない。

 といっても資金は全くなし。友人に頭を下げた10万の借金も断られ、仕方なく最低限必要な小さな糸鋸とDIY用のドリルとサンダーをローンで購入。古い自宅を自力で改造して工房にし、材料はほんの少しずつ仕入れながら、民芸品工房時代に知り合った問屋相手に始めたのが森の工房へと続く「風人舎」(ふうじんしゃ)の始まりだった。誰もがこの仕事を20年以上続けていけるなどとは夢にも思わない惨めな惨めなスタートだった。

 工房に就職したときには無職でいられるよりはと思ってあきらめた母親も、いよいよ自営業を始められてしまった、と大変な嘆きようである。またよりによって一番嫌いな職人という職種で・・・まあ、どうしようもないけど。

 広子さんはこの時点ではまだ、パートの仕事をしながらデザインやら、色付けやらを手伝う形だった。元デザイナーだからデザインはすべて広子さんが・・・と誰もが思うところだろうがどうも分野が違うらしく商品開発もほとんど私の担当だった。

 最初につくったのは鳥をモチーフにしたインテリアパズルだった。道具も技術も無く、いかにも素人ぽい出来だったが・・・。

 え?木工ってそんな簡単に出来るもんなの?・・・いいえとんでもない。職人というジャンルはどんなものでも一人前になるまで最低で三年かかるといわれるくらいのもので一年やっただけで独立なんてあまりに無茶苦茶な話で、案の定厳しい現実が迫ってくるのだった。


  

 続く

 

 

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です 3

山で風のように暮らすには不純な動機が大切です その3 脱サラ編

 新婚生活も楽しいのは1ヶ月くらい、あとはつまらぬ日常が待っている・・・というのが普通なのだが、そうはいかない困った二人である。

 少なくとも恋愛結婚は一緒にいたくてするはずなのにどうして別の会社に行って仕事をしなければならないのか?などという疑問を本気で考え込んでしまったりするのである。

 そりゃ一緒に仕事できればそれに越したことはないけど、世の中そんなに甘くないし現実的ではない・・・と常識のある人は考えるのだが、もともとそんなことは欠けっぱなしの二人、24時間一緒にいるためには・・・と良からぬ計画を立て始めたのだった。

 だからといって特にあてがあるわけでなく素人にもできそうなもの、というわけで喫茶店でもということで話がまとまった。

こうしてやがて森の工房につながる脱サラ人生が、けして高尚な理由でなくて極めて不純な動機で頼りなく始まったのだ。

  

一緒にいたいと思うのは最初のうちだけ・・・そのうち空気のような存在になって「うちの旦那はまったく・・・」とか「うちの愚妻が・・・」とか愚痴をこぼすようになるんだから・・・経済的な安定が結婚生活の前提なんだから・・・などと常識的な考えをお持ちの方には、二人でいっしょにいたいがために不安を抱えながら職業まで変えてしまうという考え方は奇異なことに映るだろう。でもそれならなぜそんな相手と結婚するのだろう?人生はけして長くない。愛する人にめぐり合えたら可能な限り1分でも一緒にいたい。貧乏であろうが何であろうかまわないと私たちは思うのだ。愛は地球を救うのである??いや、ただ無謀で無計画なだけか・・・。

ただの喫茶ではなく「木工品」も販売するウッディな店にしたい・・・いいですか!ここで私達の人生で始めて「木工品」という言葉が出てくるのである。もっともこの段階では自分で作ろうなどということは夢にも思っていなかったのだが・・・。

 何を隠そう私は「多くの人生を変えた自然主義人間のバイブル?」とまで言われた雑誌「ウッディライフ」の創刊号からの読者の一人であって、木と自然にまつわるライフスタイルに一方ならぬ興味を抱いていたのでる。

 例によって自営業など職業ではない、ましてや水商売などとんでもないと考える母親は猛反対。やめさせようとまた裏工作を始めるのだが、今回は私達の行動が素早かったのでおろおろと様子を見ているしかなくなってしまったようだ・・・。

そんなわけで会社を辞め、100万ほどの貯金と銀行からの借入100万の資金で貸し店舗を見つけ改装工事に着手したが・・・。

とりあえずは大工さんにお願いしたのだが、予算の都合上例外に漏れず自ら改装工事を手伝う私に広子さんから突然の帰宅呼び出し電話が入った。いぶかりながら帰宅した私を待ち受けていたのは、全く予想もしない事件だった。この事件により虎の子の貯金がすべて持っていかれてしまった。詳しいことは支障のある方がいるので書くことははばかれるが、私たちの全く責任のないところで詐欺にあったようなものと思っていただければ。

いくら私達でもさすがに自己資金がなくなってしまっては計画を続けることもできず、風人舎(ふうじんしゃ)と名付けられるはずだった店は完成を待たずに取り壊されたのだ。


はっきり言って今になって思えば成功するはずなどまずあり得ない計画である。20年前とはいえ200万では喫茶店などできるはずなどありえない。あまりにも無知で無謀で素人すぎた。たとえ始められたとしてもひと月と持たず閉店となっていたことは間違いない。

しかしたとえ結果は同じでも、やってみてつぶれてしまったこととつぶされてしまったことは180度も違うことなのである。母親などはこれ幸い、またサラリーマンに戻ってくれるものとほくそえんだことだろうが、不完全燃焼のまま夢が絶たれてしまった私達はどの会社を面接してもそう簡単に入社する気にはなれなかった。

無職、そして米と野菜はあるからとりあえず腹は減らずに済んだけれど本当に一文無し。

悪いことは重なるもので私の不始末から以前の女性問題が泥沼化して面倒なことになってしまい、解決するまで広子さんにも随分悲しい思いをさせてしまった。

どこから考えても人生最悪の時間がしばらく続いたある日、友人からふいに舞い込んだのが沖縄への出稼ぎ話。思い切りとんでもないその話を「渡りに船」とばかりに後先のことを全く考えもしないで飛び乗ってしまったのはやっぱり普通ではない・・・。

とはいえ財布は空っぽで旅費すらない!こんな理由で誰からもお金は借りられるはずもない。仕方なくこんな時のためにと買いためた(そんなはずはないのだが)私の唯一の財産の本を売り払い、6万円(わかるだろうか?6万円で売る本がいくらで買ったものか・・・)の行きだけの旅費をつくって沖縄行きのフェリーに(飛行機代などありませんので2泊3日のフェリーなのです)乗り込んだ。

さて沖縄。正確には沖縄から石垣島、石垣島からさらに船を乗り継ぎ、行くだけで1週間もかかってしまう後に「Drコト―」の舞台にもなった日本最西端の与那国島が出稼ぎ先である。

熱帯植物が生い茂りエメラルドグリーンの珊瑚礁が美しいこの島での仕事は、1年に1ヶ月だけ稼動するサトウキビ製糖工場の作業員。サトウキビの収穫期にあわせた季節労働は労働力の確保が難しく、日本の経済構造が肌の合わない?旅人や冬の間仕事がない北海道からの出稼ぎ者で支えられているのだ。

ともかく島の民宿に落ち着いた私達は、ボロボロの送迎車に揺られてニ交代12時間(シフト交代日は18時間!)肉体労働の作業員となったのだ。

サトウキビを搾り黒砂糖を作る工程のラインに入り、おまけ程度の休みを挟みながら約1ヶ月半続いたこの仕事は、柔な体にはかなりきついものだったが、精神的には島人と美しい海に癒された時間だった。

泡盛や沖縄料理が口に合わず閉口していた広子さん。そして毎日出てくる刺身にうんざりしていた私だったが、観光では決して味わえない島の文化や暮らし、そしておおらかな島人や個性豊かな旅人(こんなありふれた言葉ではとても表現できないのだが・・・)とふれ合ったこの体験は大きなカルチャーショックとなり、その後の生き方に少なからぬ影響を与えることになるのだ。

 でもとりあえず帰ってからどうしよう・・・思いあぐねる次回はいよいよ「木工入門編」。(まだ続きます・・・)

※沖縄の写真はすべて焼失し一枚も残っていません、ご了承ください。


 


 

山で風のように暮らすには「不純な動機」が大切です2


・・・その2 結婚編・・・

 

そうと決まれば早く結婚ししょうというわけで、形だけの結納もして(お金は無いので結納金も指輪も一切無し)結婚式の日取りも3月にということで話がまとまりました。結婚式なんてやらなけりゃやらないで一緒に暮らせばそれでいいとも思うのだが、とりあえず本家で農家の三代目長男ということになると形だけでもやらなければ方々が収まらないようで・・・めんどくさい・・・。

そこで普通は結婚式場に行ってということになるのだが、そもそも私達は立派な?貧乏で貯金などほとんどないので人並みの豪華な結婚式ができるはずもないし、したいとも思わない。結婚式といえば普通は親が出してくれるのが当たり前のようだが、二十歳を過ぎた人間が自分の勝手で結婚するのだから自分達のできる範囲内でやればいいじゃないか!とバカな私達は考えるわけである。結婚は金がかかるとかお金が無いから結婚できない、というようなことは全く考えない非常識人なのだ。

ごく当たり前の私の親には「金を出すから当たり前の結婚式をしてくれ」と泣かれるのだが、「自分の好きな道を選択する代わりに自分ですべての責任をとる」というのがあの日からの譲れない自分の生き方なんだからしょうがねえべ!無論広子さんもその辺の価値観は同じ。それに自分達の結婚に対して招待者にも負担をかけたくもないと思うし、ご祝儀に大金を出してもらいながら離婚することになったら詐欺だろう・・・。

というわけで私達は当時かろうじて生き残っていた「会費制」というスタイルをとることにした。必要最低限の費用だけを会費として負担していただき、準備や運営を山の友達にお願いするというもの。ちなみに会費は6000円で5000円に出来なかったのが大きな心残りだった・・・。

本来会費制の結婚式というのは普通結婚式場で行われる豪華な結婚式を簡略化して質素ながら手づくりの温かな内容にしていくもので、大まかな流れとしては似たようなものだ。しかし私はへそ曲がりなので、どうせやるのなら思い切り個性的なものをなどと考えるのだ。え、山でやるとか海でやるとか・・・それは場所が違うだけだろう!

そもそも結婚ということは・・・という追求から始まった私の結婚式の計画は、聞いた広子さんの顔が青ざめていくのがわかるようなそれはそれは恐ろしい計画だった。でも変わってるけど間違ってはいないし、ウエディングドレスなんて着たいとも思わない変った人だから無論共犯である。

通常は手伝ってくれる人と本人達が相談して決める内容に関して今回は私達だけで決め、手伝いの人たちには流れと作業を説明しただけで中身は当日まで秘密・・・いったい何が始まるのか?企画、制作、脚本、演出、音楽、文集作成までのすべてが二人の手による前代未聞の結婚式の準備は多忙を極め、数ヶ月前から当日の朝まで甘い恋人ムードなど感じている暇すらなかった。いや本当に!

無論、両親、親戚をはじめ友人たちからさえあまりに突飛なやりかたに非難や批判も数多く噴出し、その解決のため本来の準備以外に多くの時間とエネルギーを消耗させられた。わかってはいたつもりだが人と違うことをするというのは大変なことなのだ。

● ● ●

当日の朝三時までかかって準備を終えたものの、広子さんは仮眠を取る暇もなく五時から美容院行き。どうしても花嫁衣裳を着せて写真を撮り三々九度をさせたい、という親の希望をしぶしぶ受け入れての予定外のスケジュールだ。

素顔のわからぬほど真っ白に化粧させられ、顔のよく見えない白無垢など着せられて「あらーきれいねー」なんて失礼だと思わないか?本人も、何でこんなもの着せられて見世物にならなくちゃいけないの!と文句をいうことしきり。

そもそもセレモニーとしての式などうさん臭くて気に入らない。今愛していることがすべてで愛せなくなったら別れる、というのが私達の結婚だから神の前で永遠の愛を誓うなどとんでもない。神を信じてもいないのに神に誓って、誓ったのに別れる人が多いなんて神をも恐れぬ・・・。

もともと私達は理由あっての無宗教だから教会でも神社でもない「家」でやるという変った決断をし、集まった親戚連中を前にしてピリピリして望んだのだが、不思議と穏やかな雰囲気が・・・何と私達は計らずも途絶えて久しい重要無形文化財的な山村の結婚式を復活させてしまったのだ。もともと集まった人達はほとんどがそういう結婚式をした世代。おそらくこれから先も二度と見ることはできないであろう風習を全員が興味深く楽しんだ、という感じかな?

いやいや感心している場合ではない。めんどうなものはさっさと脱いでスーツとパーティドレスに着替えて会場へ。招待状にも平服でおいでくださいと書いているし、広子さんは元が美しいので?お色直しなどもちろんない。

古い洋風建築味わいのある建物である郡山市公会堂が会場だ。入口には「メッセージ・・ありがとうをあなたへ・・」という変わったタイトルの看板がかかっている。それは結婚式という概念をひっくり返そうというとんでもない計画の象徴だった。

 まず主催者は○○家ではなく二人。結婚するのは二人であって家に嫁に行くわけでももらうわけでもないというところが出発点だ。したがって招待状の差出人も二人の名前。あとはすべて招待者でもちろん両親も客人扱いだ。なぜならばこの披露宴はタイトルが示すとおりこれまで二人を育んでくれた方々へ「ありがとう」を言おうというのが趣旨で、一番ありがとうを言わなければならない両親は最前席というわけ。どうですこの非常識さ、もう目が点になってる?まだまだこれからである!

 入場した私達はいきなりこの披露宴の趣旨、そして招待者への感謝の言葉を読み上げ始めたのだ。自分達が一つ一つ言葉を選び、形式的なあいさつではなく本当に心の底からあふれ出る感謝の思いを綴った作文・・・広子さんの部分など「小学生の作文じゃない、心からの言葉で綴るんだ!」と幾度となく、そう今朝の三時までかかって書き直させられた、二人にとって一世一代の大演説である。

 めぐり会えた喜び。愛することの大切さ。自分たちが今こうしてあることへの心からの感謝の思い。自立を望み、自らの責任で生きていこうという姿勢。形よりも大切な心。何が大切なことなのかを極めていったこの日の形の意味・・・気恥ずかしくてこんな時でなければ言えないような言葉を並べたこと並べたこと・・・。

 二人合わせて40分に及んだこの演説がこの披露宴のすべてといってもいいもの。この間会場は水を打ったような静けさに包まれていた。残念ながら記録したビデオテープ、カセットテープ、原稿もすべて焼失してしまった今となっては内容を確認することはできないが・・・。

終えて席に着いた時には、ほっとした安堵感ととんでもないことをしたかもしれないという複雑な思いがぐるぐる回っていた。どんなに間違ったことをしてはいないつもりでもどれだけのプレッシャーだったか・・・。それから自作のスライドストーリーがあったり、お祝いの言葉があったりと進行していったがこれは付録のようなもの。二人にとって無理解、非難、妨害と戦いながら準備してきた数ヶ月はすべて終わった。幾人かの人が素敵だった、素晴らしかった、感動した、と声をかけてくれたが両親や親戚をはじめ他の招待者にどう写ったのか不安は消えなかった。

 すべてが終わって二人になり「終わったね」「終わったね」とお互いに繰り返した。どう受け止めてもらったかはまだわからないけれど二人がすべての力を出し切った非常識この上ない、だけど何も間違ってはいないはず・・・の一大イベントは終わった。

● ● ●

新婚旅行は早春というよりはまだ冬の北海道、列車とバスを乗り継いで、リュックを背負い安宿を泊まり歩く行き当たりばったりの旅。

とある温泉宿で広子さんの実家に電話を入れると酔っ払ったお父さんが電話口で「すばらしい結婚式だった・・・」とのたまっているではないか。わかってもらえていた。張り詰めていた気持ちが一気に崩れ落ち二人とも涙でぼろぼろに・・・そこへタイミング良く宿の女将が挨拶に来たからたいへん。「・・・どうかなさったんで?」「・・・あ、家に電話してたもので・・・」「・・・え・あ・・・し・新婚さんで・・・あらまあ・・・」というコメディーに・・・。

旅行から帰ると意外にも多くの人から「素敵な結婚式をありがとう」「結婚も悪くないと思えるようになった」というような手紙やはがきをもらい、親戚や年をとった方たちにも理解してくれた方が多かったことも知った。間違ってはいなかった・・・とほっと胸をなでおろした。

もちろん理解していただけない方もいたわけで、その代表が残念ながら私の母親だった。このことはその後の私達に暗い影を落とすことになる・・・・。

この後こんなすばらしい結婚式を自分たちもと真似をする人が続出!・・・するわけはない。


まあ、それなりにドラマティックなのは普通は結婚まで。あとは退屈な毎日が続くわけだ、そうはいかない。これほど変わった結婚式をした人達の面白い人生はこれからである。結婚は単なるスタート地点にしかすぎないだ。


                                           しつこくつづく
1
結婚式で演説

 

 

山で風のように暮らすには「不純な動機」が大切です   その1


山で風のように暮らすには「不純な動機」が大切です   

私たちがこの地に移り住み、木のおもちゃやインテリア小物を製造販売する「森の工房」を始めたんだのは1993年、今から19年ほど前のことだ。福島県の中心部よりやや北側、日本百名山のひとつ安達太良山の東山麓。岳温泉という温泉地にほど近い、牧草地に囲まれた標高550mの高原である。

もともとはサラリーマンでいわゆる脱サラということになる。

よく「どうしてこの仕事を始めたのか?」と質問される。質問する側は「自然と共生できる職業を目指して」とか「ものを作り出すクリエイティブな仕事をしたかった」とかいう高尚な答えを期待しているのだろう。

 私は待ってましたとばかりにニヤッと笑って「好きな相手と24時間一緒に居たかったら・・・」と答える。一瞬言葉を失う相手のその顔を見るのが、何を隠そう私の密かな楽しみなのだ。

この仕事を始めたそもそものきっかけは「一緒にいたくて結婚したのになぜ別な場所で別の仕事をしなければならないのか?24時間一緒にいる方法はないのか?」という極めて「不純な動機」なのだ。

 半生記を書くにはまだまだ若すぎるが、親しい友人が消えていったり、重い病気に苦しんだりというような現実を目の当たりにする年令になっていることは紛れもない事実。いつ自分の番でもおかしくはないという立場になった時、それほど特別なことではないかもしれないけれど、私たちが何を思い、何を選択しながら歩いてきたのかを、誰かに伝えておきたい・・・そんなことすると死ぬぞ!などと脅されながらも、笑って泣ける森の工房物語の始まりである。



・・・その1 出逢い編・・・

 

私たちが初めて出合ったのは1980年5月15日。

日付まで覚えているなんてきっと運命的な出会いがあったのだろう・・・なんていうのは少し考えすぎです。日付を覚えているのはこの日が私にとって「自分の道を自分で歩き始めたとても大切な日」だったからである。もちろんそんな日に出会ったのだから運命的でないこともないだろうが、広子さんは記憶にありません・・・ということらしい。

 
 私は1960年兼業農家の長男として生まれた。父親を10歳の時に亡くし、一日も早く働き手となって家庭を支えることが周囲から望まれていた。どちらかといえばいい子で従順だったその頃の私は特に疑問も持つことなく勧められるままに工業高校を卒業し、デパートのビル設備管理(電気、冷暖房、給排水などの設備保守管理)の仕事に就いたのだ。

 かなり内向的で外食すらしたこともないような田舎者が、デパートという都会の象徴のような世界に放り出された戸惑いはちょっとやそっとのものではない。享楽的で打算的、そして圧倒的に女性が多い大人の世界の中である。その世界に入りきれない純朴で小心者で女性に弱い青年はあふれるほどの泣ける笑い話を経験することになるのだが、それはまた別の機会に・・・。アーアーアアアアア(もちろん北の国からのテーマである)

オカリナの音色が好き、山を歩くことが好き、木や花が好き、宮沢賢治や灰谷健次郎が好き・・・などという地味な青年は場違いな自分と社会に失望し、いつしか自分の居場所を本を読むことや、写真を撮ったり油絵を描くことに求めるようになっていた。自分は理数系でなく文系だったことにもっと早く気づくべきだった・・・。

そんな折、なんとそのデパートが入社して一年もたたないうちに閉店することになってしまい、転勤などできない私は転職を余儀なくされてしまったのだ。さあ、気分は盛り上がってきたね・・・?

次の仕事を探す中でカメラ店の人と知り合いになり、そういうことならうちに来てみないかという願ってもない話に、初めて好きな世界に飛び込めると小躍りして喜んだのだったが、そのことを快く思わなかった私の母親と親戚の連中が何やらあやしい動きを見せ始めたのだ。

なんと倒産することのない会社に就職させようと町会議員にまで手を回し、第三セクターの食肉加工会社への入社を勝手に決めてしまったのである。もちろんこの時初めて親に抵抗し、自分の意志を通すべく努力したのだが、大の大人に囲まれての執拗な脅迫はまだ18の青年には辛すぎた。カメラ店に入社を断った日のことは今でも何を着ていたかもはっきり思い出せる涙なくしては語れない出来事なのだ。

もちろん安定した生活が子供の為になる、と信じて疑わぬ常識的な行動を頭から非難することはできないのだろうし、カメラ店に入ったところでこれほど面白い展開になったとは思えまないが、このことは自分の母親に「憎しみ」という思いを初めて抱かせ、母親の理想と全く違う方向へ私を歩ませる結果につながっていったのだから決して正しい判断ではなかったと思う。言うまでもないが親と子は全く別の人間なのだ。

 憎しみと悲しみ、そしてささやかな抵抗が実ることのなかったふがいない自分への失望で自暴自棄となった私は生まれて初めて荒れた。家には毎日夜中まで戻らずただ街をぶらついたり、飲めもしない酒を飲んでみたりして不良になろうと努力した。しかし根っから不良にもなりきれない情けない自分に気がついて「まじめな不良」を目指すべく登山サークルの門を(いやぼろぼろのガラス戸だったけれど・・)叩いたのである。



というのが前置きであって、つまりこの日郡山市にある山岳会の入会の為に事務所(とは名ばかりの古い長屋の一部屋)を訪ねた私と、後から事務所に顔を出した既に会員であった広子さんは初めて出会うというわけなのだ。初めて会った印象は・・・ビビッと来たということもなく、私はかなり緊張していたので・・・まあ普通の出会いだったとしか言いようがない。

 登山サークルというのはいうまでもなく山に登ることが好きな人たちの集まりである。山に登るという無意味?なことの為に汗を流して歩き、木や花や風景の美しさに感動する純粋な変わり者?のサークルにようやく自分の居場所を見つけたのだ。

 そして私は水を得た魚のごとく(いや山を得たタヌキか?)山に登り、語り合い、恋をし?楽しく悲しく汗臭い?充実した青春の日々を過ごし、同時にアウトサイダーへの道を走り始めるのであった。          

で二人はすぐに恋に落ちた・・・というほど甘くはないものなのである。恋人と呼べる間柄になるまで実に6年という歳月が必要だったのだ。

 広子さんが「いざというとき脅すために」と持っている箱。火事でも不思議と焼け残った箱の中には私が出したらしい?手紙の束が入っている。残念ながらラブレターというようなものでは全くない。

サークルの会員がペンネームで好き勝手なことを書き込む「らくがき帖」というノートで交され続けた二人の言葉からの、生きることや夢などというものに対しての思いを汚―い字で綴った無駄に長―い手紙なのだ。

心の深い部分でつながった不思議な友人・・・6年間の二人の間を表現するとそんな言葉になるのだろうか?ちなみに広子さんからは一度も返事は来たことはない・・・。

そんなこんなで6年の後、ある日突然愛が芽生えるわけだがその辺の詳しい話は、聞いてられないという方も多いだろうからまた別の機会に。

愛し合ったら一緒に暮らしましょ、というわけでとんとんと結婚することになった。よく愛と結婚は別ものなどという人がいるが、結婚して25年以上たっても私たちには理解できない言葉だ。愛し合ったら一緒にいたい、一緒にいたいから結婚する、それ以外に何の選択肢があるのだろうか?

というわけで次回は結婚編。もちろん私が普通の結婚式などするわけはない、ご期待に沿いますハィ。

オーナー 橋本和吉

和吉20歳
20歳 登山を本格的に始めた頃 飯豊山にて

 


 


 

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