山で風のように暮らすには「不純な動機」が大切です   

私たちがこの地に移り住み、木のおもちゃやインテリア小物を製造販売する「森の工房」を始めたんだのは1993年、今から19年ほど前のことだ。福島県の中心部よりやや北側、日本百名山のひとつ安達太良山の東山麓。岳温泉という温泉地にほど近い、牧草地に囲まれた標高550mの高原である。

もともとはサラリーマンでいわゆる脱サラということになる。

よく「どうしてこの仕事を始めたのか?」と質問される。質問する側は「自然と共生できる職業を目指して」とか「ものを作り出すクリエイティブな仕事をしたかった」とかいう高尚な答えを期待しているのだろう。

 私は待ってましたとばかりにニヤッと笑って「好きな相手と24時間一緒に居たかったら・・・」と答える。一瞬言葉を失う相手のその顔を見るのが、何を隠そう私の密かな楽しみなのだ。

この仕事を始めたそもそものきっかけは「一緒にいたくて結婚したのになぜ別な場所で別の仕事をしなければならないのか?24時間一緒にいる方法はないのか?」という極めて「不純な動機」なのだ。

 半生記を書くにはまだまだ若すぎるが、親しい友人が消えていったり、重い病気に苦しんだりというような現実を目の当たりにする年令になっていることは紛れもない事実。いつ自分の番でもおかしくはないという立場になった時、それほど特別なことではないかもしれないけれど、私たちが何を思い、何を選択しながら歩いてきたのかを、誰かに伝えておきたい・・・そんなことすると死ぬぞ!などと脅されながらも、笑って泣ける森の工房物語の始まりである。



・・・その1 出逢い編・・・

 

私たちが初めて出合ったのは1980年5月15日。

日付まで覚えているなんてきっと運命的な出会いがあったのだろう・・・なんていうのは少し考えすぎです。日付を覚えているのはこの日が私にとって「自分の道を自分で歩き始めたとても大切な日」だったからである。もちろんそんな日に出会ったのだから運命的でないこともないだろうが、広子さんは記憶にありません・・・ということらしい。

 
 私は1960年兼業農家の長男として生まれた。父親を10歳の時に亡くし、一日も早く働き手となって家庭を支えることが周囲から望まれていた。どちらかといえばいい子で従順だったその頃の私は特に疑問も持つことなく勧められるままに工業高校を卒業し、デパートのビル設備管理(電気、冷暖房、給排水などの設備保守管理)の仕事に就いたのだ。

 かなり内向的で外食すらしたこともないような田舎者が、デパートという都会の象徴のような世界に放り出された戸惑いはちょっとやそっとのものではない。享楽的で打算的、そして圧倒的に女性が多い大人の世界の中である。その世界に入りきれない純朴で小心者で女性に弱い青年はあふれるほどの泣ける笑い話を経験することになるのだが、それはまた別の機会に・・・。アーアーアアアアア(もちろん北の国からのテーマである)

オカリナの音色が好き、山を歩くことが好き、木や花が好き、宮沢賢治や灰谷健次郎が好き・・・などという地味な青年は場違いな自分と社会に失望し、いつしか自分の居場所を本を読むことや、写真を撮ったり油絵を描くことに求めるようになっていた。自分は理数系でなく文系だったことにもっと早く気づくべきだった・・・。

そんな折、なんとそのデパートが入社して一年もたたないうちに閉店することになってしまい、転勤などできない私は転職を余儀なくされてしまったのだ。さあ、気分は盛り上がってきたね・・・?

次の仕事を探す中でカメラ店の人と知り合いになり、そういうことならうちに来てみないかという願ってもない話に、初めて好きな世界に飛び込めると小躍りして喜んだのだったが、そのことを快く思わなかった私の母親と親戚の連中が何やらあやしい動きを見せ始めたのだ。

なんと倒産することのない会社に就職させようと町会議員にまで手を回し、第三セクターの食肉加工会社への入社を勝手に決めてしまったのである。もちろんこの時初めて親に抵抗し、自分の意志を通すべく努力したのだが、大の大人に囲まれての執拗な脅迫はまだ18の青年には辛すぎた。カメラ店に入社を断った日のことは今でも何を着ていたかもはっきり思い出せる涙なくしては語れない出来事なのだ。

もちろん安定した生活が子供の為になる、と信じて疑わぬ常識的な行動を頭から非難することはできないのだろうし、カメラ店に入ったところでこれほど面白い展開になったとは思えまないが、このことは自分の母親に「憎しみ」という思いを初めて抱かせ、母親の理想と全く違う方向へ私を歩ませる結果につながっていったのだから決して正しい判断ではなかったと思う。言うまでもないが親と子は全く別の人間なのだ。

 憎しみと悲しみ、そしてささやかな抵抗が実ることのなかったふがいない自分への失望で自暴自棄となった私は生まれて初めて荒れた。家には毎日夜中まで戻らずただ街をぶらついたり、飲めもしない酒を飲んでみたりして不良になろうと努力した。しかし根っから不良にもなりきれない情けない自分に気がついて「まじめな不良」を目指すべく登山サークルの門を(いやぼろぼろのガラス戸だったけれど・・)叩いたのである。



というのが前置きであって、つまりこの日郡山市にある山岳会の入会の為に事務所(とは名ばかりの古い長屋の一部屋)を訪ねた私と、後から事務所に顔を出した既に会員であった広子さんは初めて出会うというわけなのだ。初めて会った印象は・・・ビビッと来たということもなく、私はかなり緊張していたので・・・まあ普通の出会いだったとしか言いようがない。

 登山サークルというのはいうまでもなく山に登ることが好きな人たちの集まりである。山に登るという無意味?なことの為に汗を流して歩き、木や花や風景の美しさに感動する純粋な変わり者?のサークルにようやく自分の居場所を見つけたのだ。

 そして私は水を得た魚のごとく(いや山を得たタヌキか?)山に登り、語り合い、恋をし?楽しく悲しく汗臭い?充実した青春の日々を過ごし、同時にアウトサイダーへの道を走り始めるのであった。          

で二人はすぐに恋に落ちた・・・というほど甘くはないものなのである。恋人と呼べる間柄になるまで実に6年という歳月が必要だったのだ。

 広子さんが「いざというとき脅すために」と持っている箱。火事でも不思議と焼け残った箱の中には私が出したらしい?手紙の束が入っている。残念ながらラブレターというようなものでは全くない。

サークルの会員がペンネームで好き勝手なことを書き込む「らくがき帖」というノートで交され続けた二人の言葉からの、生きることや夢などというものに対しての思いを汚―い字で綴った無駄に長―い手紙なのだ。

心の深い部分でつながった不思議な友人・・・6年間の二人の間を表現するとそんな言葉になるのだろうか?ちなみに広子さんからは一度も返事は来たことはない・・・。

そんなこんなで6年の後、ある日突然愛が芽生えるわけだがその辺の詳しい話は、聞いてられないという方も多いだろうからまた別の機会に。

愛し合ったら一緒に暮らしましょ、というわけでとんとんと結婚することになった。よく愛と結婚は別ものなどという人がいるが、結婚して25年以上たっても私たちには理解できない言葉だ。愛し合ったら一緒にいたい、一緒にいたいから結婚する、それ以外に何の選択肢があるのだろうか?

というわけで次回は結婚編。もちろん私が普通の結婚式などするわけはない、ご期待に沿いますハィ。

オーナー 橋本和吉

和吉20歳
20歳 登山を本格的に始めた頃 飯豊山にて