2017年09月17日

「淡谷のり子と私・2」 〜とし〜

 コロンビアに入ったのり子さんはやがて流行歌手として、レコードも売れラジオでもよく聞けるようになりました。青森市でのコンサートの時は、私の家に泊まり、その晩は夜遅くまで話に花が咲き次の日は私の家からまっすぐ劇場の楽屋に行ったものでした。私は物珍しいのでそのまま楽屋に付いて行き、舞台のソデからステージをみるようになりました。その頃の楽屋の様子はひどいもので、舞台の裏には雑多な板や、張りぼての芝居道具やらあちこちにいっぱいあり、その脇をトイレの匂いがするうす暗い所を通って行くような所もありました。冬など舞台のソデから客席を覗くと、ぬくぬくとオーバーに襟巻きなのに歌手の方は裸に近いドレスです。私はのり子さんの毛皮のオーバーを持って歌い終えるとサッと包んであげるのが私の仕事になりました。私が女学校の2年生の頃、のり子さんも在学生であったということから学校の講堂でリサイタルをすることになり、当日学校に着いたのり子さんにいつものようにくっついていて、校長室でお茶の接待を受け、記念写真も真ん中に座り、今思うと赤面です。その頃、のり子さんの父親は身代をつぶし、何人目かの女性と仙台におりましたが若くして亡くなり、のり子さんが遺骨を欲しいと云ったら世話をした分のお金を要求されました。かなりの金額が動いたと聞いています。今、父親は青森のお墓で眠っております。DSC_2810_edited-1


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2017年09月13日

「淡谷のり子と私・1」 〜とし〜

 昔、青森市寺町にダイゴ(大の真ん中に五の字が入っていた屋号)という大きな呉服屋がありました。そこの惣領息子は商売が嫌い、酒と女は大好きという時代劇にでも出てくるような息子だったそうです。親類が集まって、嫁でももらったら落ち着くかもしれないということになり、そこで白羽の矢が立ったのが私の母の姉すなわち叔母だったのです。本人の気持ちなどまったく無視され、年端もゆかないまま嫁ぎ、それでもしばらくして女の子が二人生まれました。上の娘はのり子、下の娘はとし子です。のり子が青森の女学校に入って間もない頃、とうとう叔母は二人の娘を連れて淡谷の家を出て上京し、親子三人で生きる道を選んだのでした。その頃は嫁が子どもを連れて家を出て生活をするということはとんでもないことで、世間に家の恥をさらすことになり、青森での暮らしはとても出来ない時代でした。その頃、私の父は市内の新聞社に勤めており、少ない給料の中から、ボーナスの時は少し色をつけて毎月送金していたとのことでした。大正12年に私が生まれ、その年の9月にあの関東大地震でいた。父は背中に背折れるだけの米と油紙に包んだ味噌を背おい上京し、焼けだされた親子をみつけたのでした。あとあとまで、叔母は本当に助かったといくどもいくども云っておりました。やがて、のり子は東洋音楽学校へ進み、卒業の際にはすぐにお金になるように勧めてくれた人もありコロンビアにはいることになったのです。DSC_2817_edited-1


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2017年09月08日

「三年過ぎました」 〜りょう〜

 やっと三年を終え、私のむつ総合病院への検査も半年に一回になりました。今までは三ヶ月ごとだったのです。産婦人科の待合室で覗き見た患者さんの人生も、小説家だったらさぞ筆も進んだことでしょう。「○○さーん、一番にどうぞ」の声に20代のふっくらとした方が立ち上がりました。「日本語わかりますか?」と看護師さんの問いに頭を振り無言です。入院手続きの書類を手に今にも泣きそうです。「分かるところだけ書いてネ」といわれてもジーっとしているだけ。どんなに心細いことでしょう。何があったのでしょう。胃がキューとしてきました。「ナシテ、ワ、コゴサイルノ?どうして、わたしはここにいるのですか?」大きな声がしました。介護施設のユニホームを着た若い方が、車いすの老婆に「シーッ」と合図します。耳元にささやいているのですが、又大声で叫びます。どうやら認知症の患者さんのようでした。すぐ横を小さな赤ちゃんを片手で抱いて、もう片方の手は彼女と・・。ペアが来ました。サンダルに半ズボン。腰にはジャラジャラと鎖。待合室はまさに人生。トホホホ。DSC_2813_edited-1


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2017年08月17日

「神楽」 〜りょう〜

 今年も盆がやってきました。お墓にお花を活け、お寺さんにも納めるものを納め後はお祭りの準備が始まります。ユースのあるここ瀬野部落にも神楽が家々を廻ります。太鼓のペコン、ペコンのお囃子がだんだん近づいてきました。もうすぐ我が家です。今年は94歳になった母も神楽をお迎えしたいということでスタンバイ。道行く人が「あれー、おかっちゃん!」とびっくりしたように声をかけてくれます。そのたびに「今日は生存証明のようなものダベ。たまに外の空気を吸わないと」と云うわたしにみんながニコニコ。久しぶりの青空も手伝いのんびりした空気が流れました。神楽がやってきました。無言でお辞儀をする慣習なのですが、「いやー、おかっちゃん、元気デラガ?」と太夫が母に一言。「おかげさまで」と頭を下げる母を横で見ながら、母が元気で良かったとしみじみ感じました。来年は? 再来年は・・? 考えるのはやめましょう。晴れたのはあの時の1時間だけ。今日も雨。奇跡のような青空でした。_DSC1700


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2017年08月07日

「あの頃のおやつ・1」 〜とし〜

 昔、子どもたちが集まりそうな神社の境内とか公園などに子ども相手の小さな屋台がありました。プチレストランです。メニューは「こんにゃくだけのおでん」。竹くしにヒラヒラのこんにゃくが刺してあり、そのてっぺんに「エンドウ豆」くらいの小さい「肉」らしいものが付いていました。その頃は「肉」などはめったに手に入るものではなく、年に二三回も食べられると最高のごちそうでした。誰とも無く「あれは犬の肉だ」といううわさが流れ中には「赤犬がうまいそうだ」とのうわさも流れました。なべの中の汁の上にうっすらと油らしきものが浮いてさすが女の子はちょっと手を出しかねたのですが、男の子は「わのさ(私のには)ニグついてねっ」とわめきながら一本一銭のごちそうを食べていました。こんにゃくのなべの隣に「あづき湯」のなべがありました。なべの底にはたしかにあづきらしいものが入っているのですが、ほとんどはほのかに甘い汁ばかりなのです。注文すると、茶飲み茶碗に一応底をかき混ぜ、ほとんどは湯ばかりを渡してくれました。持つと暖かく女の子には人気でした。今でいうと、ジュースを飲むつもりだったのかもしれません。これも一銭。一銭を持ってうろうろと、どちらにしようか迷ったのをなつかしく思いだしています。DSC_2524


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2017年07月22日

「思い出すのは…」〜とし〜

 昔、「ちゃんとママけでらが?」(ちゃんとご飯食べられているか)つまり生活が出来ているかというのが挨拶でした。お日様といっしょに起きて、米と味噌と少々の野菜と時々魚も買い、暗くなると眠るし元気で仕事が出来れば満足、衣類も洗って、洗って破れたらつぎをあて、その後はゾーキンにしたり、年をとってくると今のような便利な紙パンツもないので、こっそりその時の始末のために用意したりの生活でした。まわりをみても似たり寄ったりのくらしで、気を使うこともないし、それが普通のくらしでした。ところが今はどうでしょう。「飲めばたちどころに元気になる」とのコマーシャルを信じ、何種類ものサプリメントを飲み、家に居ながら体を鍛えられるという機械を揃え、テレビをつけると瞬時に世界中の出来事を知ることが出来るし、夜中でも楽しめるゲーム機が子どもでも手に入るし、まわりと同じような生活をするのにはお金がかかるのが当たり前ですし、上をみればきりのない世の中です。
 昔は、これで生活が出来るのだろうかと思うような商売もありました。私がやっと小学校に行くころ、子どもたちは「ヤッチャアメ」と呼んでいたじいさんの「アメ屋」がおりました。小さい屋台に色とりどりの折り紙を小さく切ったのを細い針金にいっぱいくっつけて、本当は万国旗を飾りたかったが、日の丸しか知らなかったので、とにかくそれらしくはりまわしたのでしょう。今思うとそんなにじいさんの年ではなかったかもしれませんが、子どもたちにはヨタヨタじいさんにみえました。引き出しのついた箱の中には、黄金色の水飴のかたいのが入っていて、一銭でわりばしの短いような棒に指で水飴をくるくる巻いてくれました。それをなめながら餓鬼どもは、「ヤッチャアメ ボロクソ アメまでボロクソ」と」はやします。じいさんは歯の無い口を大きく開けて「アハハ」と笑います。母は「あのアメ屋は、おしっこをしても手を洗わないから買ってはだめ」というのですが、私は好きなのでよく買いました。しばらくして、姿が見えなくなったのは、もうアメ屋が出来なくなったのかな。冬は屋台を引っ張っての商売は無理だし、雨の日は折り紙もぬれるし。今でもあのヒラヒラの飾りがいっぱいついたアメ屋を思い出します。 DSC_1954


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2017年07月08日

「久しぶりで八戸へ・2」 〜とし〜

 今回、新幹線の着く八戸の駅舎の中に大きく「おんであんせ」と書いてあり、祖父の母を思い出し少しうれしくなりました。初めてみた駅舎は、その大きさ、立派さにびっくり。何しろ駅と云えば青森駅しか知らない私には、まるで遠い所に来たような気がしました。予約してあった食事処で、ゆっくりお昼をすませホテルへ。夜、4階の窓から見た夜景の美しかったこと。あの一つ一つの灯の下で、それぞれの人がそれぞれの思いで生きているのだと久しぶりで感無量。朝はまるで線香花火の玉のような真っ赤なお日様が上がってゆくのを何十年ぶりの眺めでした。
車はやがて「八食センター」へ。ここは八戸の市場で、かなり大きな建物です。まずドアを開けると「ボワーッ」と魚の匂いがしました。さすが八戸。新鮮な魚から、いろいろな干物、加工品の袋詰めの山などところ狭しとばかり並んでいました。一角にある「七厘の村」では、好きな」材料を買って来て、炭火で焼いて食べるコーナーです。私たちはさっそくホタテ、サザエ、エビ、カレイ、キンキなど買って来て焼きました。やはり、美味しかった。イカはさすが八戸でも今年は大不漁とのこと残念。満足してマイホームへ。長い道を隆幸さんの車に乗せてもらい、かわりばんこ娘に車いすを押してもらい私は幸せものです。八戸は100パーセントなつかしい所になりました。そして、いつか「夢で又会いましょう」なつかしの八戸よ。
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「久しぶりに八戸へ・1」 〜とし〜

 初夏の5月29日、思いがけず八戸まで連れていってもらうことになりました。それが、娘のり子が脇野沢まで来られることになり、それならば八戸まで出迎え、一緒にあっちこっち見て回ったらということになったのです。私は春の青森行きで味をしめ、すっかりその気になりました。八戸と言えば、10パーセントくらいなつかしい気がします。というのは私の先祖が昔、南部藩の武士だったそうで、何でもその昔殿様が、幼くして亡くなった何とか姫のお墓の近くに家来が自らの墓を造っていつまでも姫を守ってくれとのことで、我が家の古いお墓も八戸にありました。私の祖父が生まれたのが慶応3年。「大政奉還」の時で、坂本龍馬がまだ生きていた時代でした。その祖父の母はいわゆる江戸時代の女で私が女学校の頃にはまだ生きておりまして、私の友達が家に遊びに来ると、その武士の妻だったおばあさんが奥からヨタヨタと出て来て、正座して八戸弁で「よぐ、おんであんした」と云って深々と頭を下げるのには、友達はびっくりするし、私は本当にはずかしい思いがしました。なつかしい思い出です。
 
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2017年06月29日

「初体験」 〜りょう〜

 連休中のことでした。ユース宿泊がまったく未経験というご夫婦がおいでになりました。お部屋に入られたのですが、まもなく「あのー、お布団は自分で敷くのでしょうか」と聞きにこられました。和室をお二人で使用です。しばらくして「あのー、部屋に鍵がついてませんが」と、又おいでになりました。ユースでは基本は相部屋ということで我が家は開所から鍵のことはまったく考えたことがありませんでした。食事の時、ジーっと座っていたお二人に、隣に座っていた方から「おひつ」から自分でごはんをよそおうようにと教えてもらっていました。大事な旅のひととき、さぞかし戸惑い、不安な夜になってしまうのではないかと案じました。もっと説明をした方が良かったのかしらと反省もしました。ところが、雰囲気を察した旅人たちが気を使い、声をかけてくれ、手を振って送り出してくれたのです。後でその方から電話がありました。楽しかったと。助けてくれた同宿泊者の方々に感謝、感謝です。ユースっていいなあしみじみそう感じました。
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2017年06月06日

「あの頃・2」 〜とし〜

 私の子どもの頃「ご用聞き」という仕事がありました。月に二度三度、若い兄さんが朝「今日は何か?」とやって来ます。「買い物代行屋さん」なのです。「ザル、ほうき、ちりとり、ちり紙から、石けん、歯磨き粉、メリヤスのシャツ、ももひき、風薬に傷薬、髪の油から顔に塗るクリーム、ポマード」など、など。なにしろ当時は、洗顔石けんは「花王石けん」歯磨き粉は「ライオン」髪に塗る油は「つばき油」下着は同じもの。今のようにメーカー品など全くなく、蚊取り線香でも虫取りくすりでも一種類しかなかったのです。夕方には注文した品物が届きます。明細書ナシ、領収書ナシ、手数料がどれくらいかどれだけ割高になっているのか全く分からず、いうだけのお金を払ってどうもありがとうです。人のいい母などは、「ご苦労様」とおつりをとらずでした。このシステムは今のネット販売のはしりだったのかな。
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2017年05月27日

「あの頃・1」 〜とし〜

 私の子どもの頃は、女の人は日常和服で過ごしていたし、男の人も給料とりか制服組の人も、職場以外では沓をはくことはありませんでした。下駄です。下駄には日和下駄、雨降りにはくあしだ、雪の日にはつま先に雪よけカバーのついた雪下駄、都会では「かまやつひろし」の歌にあるように当時の高等学校の学生が、わざとバンカラスタイルで高いあしだをはいて、それを高々と下駄を鳴らして歩いていたもので、金持ちは下駄に金をかけて津軽塗、桐の柾目、ござ敷きのものとかを何足も持っていました。昔の士や職人のはいていたのは、ぞうりとかせった類で、子ども用にはぽっくり(今は京都の舞子さんがはいている)とかで、庭下駄など様々なものがありました。
 そこで、下駄の修理屋」ですが、人がひとりやっと坐れる位の屋台にかじ棒が付いていて、自分がひっぱって歩き適当な所に屋台を止めて、中に入って仕事を始めます。その中には薄い座布団が敷いてあり、両側には大人用、子供用、男用、女用の「ハナ緒」がびっしりぶら下がり、後ろの箱にはいろいろな下駄のハ、まわりに細工道具があるだけです。チビた下駄のハの取り替え、人によって斜めにハが減っているものを直し、切れたハナ緒の取り替え、雪下駄の滑り止め課金具つけ、仕事は結構あったようですが、ほとんど年寄りが多く無口で黙々と仕事をしておりました。強風、大雨や吹雪の時は仕事がお休みだったし、そんな日は何をしているのかなと思ったりしていました。あれで生活が出来ていたのですから良い時代でした。
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2017年05月12日

「桜」

 五月中旬にやっと我が家の桜が満開になりました。お昼過ぎお風呂に入りました。いつもの通り窓を開け、湯につかりながら花をながめようとしたのですが、どうも様子が違います。今年の台風でお風呂の前に立っていた桜の木が倒れたのを忘れていました。覗いてみると、窓の下にゴロンと幹が寝ていました。花を咲かせたかっただろうなあ。そう思うとしんみりとしてしまいました。ユースの前の愛宕山公園も今年の桜はさびしいものでした。ウソが花芽を突いてしまったようで、トホホです。弘前の桜は今年もそれはそれは素晴らしいものでした。ところがダンナはテレビで弘前の桜のニュースが出るたびブツブツ。ダンナいわくお金をかけて人工的に仕上げた桜は自然ではないというのです。自然の桜はひっそりと咲いている山桜が一番美しいというのです。確かに濃い緑の中に「ごめんください。失礼しまーす」とピンクの桜が一本張り付いている姿はけなげです。これからは公園の桜を楽しんだ後、山桜も眺めてみたらいかがでしょう。出店はありませんが・・、エヘヘ。 〜りょう〜DSC_0434


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2017年04月28日

「はじめての体験」

 先日、むつ市「回転すし店」に連れていってもらいました。半分「寝たきり老人」の私はこのようなお店には久しくご無沙汰していたので、店の中に入ると何でも珍しく、あたりをキョロキョロ。店の中は広く、明るく座席もゆったりしていて、隣の仕切りも適当に高くまわりを気にすることのないように造られて昔と何か違っているように感じました。りょうが手慣れた手つきでお茶をいれてくれ、隆幸さんは少し高い所にあるボードのようなものを指で押しているのです。聞いたらこれで注文出来るのだとのこと。皿がツ、ツ、ツ、と流れてきます。それも早くもなく、おそくもなく、いい案配で流れます。所々にケーキとか果物とかおしるこまで出てくるのも驚きでした。そのうち、注文した皿がやってきました。ちゃんと目の前でストップ。なんと利口なこと。どうして間違いなく届くのでしょう。どれもおいしく頂ました。
 そのうち、私たちの席の横にパタパタと音がして四歳くらいの男の子がきて、目ではこっちを見ながら「ママ、おしっこ」と叫びました。何年ぶりかで男の子の声を聞きました。それもテレビで聞く子どものイントネーションそのままで、今は普通の家でもいわゆる東京弁で会話をしているのでしょうか。何年か前まで、ここでも「アヤァー(母さん)、ションベェー」の生活でした。だんだん方言も少なくなりました。そういえば、昔九州の方では、領内に間者(スパイ)が入っても言葉で分かるように方言を大切にしていたとのこと。今テレビの時代劇を観ると、どこの殿様も同じ言葉ですが、昔は津軽や南部の殿様はどんな言葉を使っていたのでしょう。考えると楽しくなります。方言は早い速度で消えていきますが、津軽弁で「モチョガセバ、モチョグチャグナル」という言葉があります。「くすぐれば、くすぐったくなる」のことです。方言も昔を知っている私たちの時代で終わって、この子どもたちが今の私ぐらいの年のころは、世界共通語になっているかもしれませんが、少しさびしくなります。やっぱり寿司は美味しかった。ありがとう。 〜とし〜
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2017年04月18日

「ふるさと」

 母を連れて昔の家跡を見てきました。行こうヨと誘うのですが、なかなかうんと言わなかった母ですが、今は行ってよかったとつくづく感じています。何が邪魔をしていたのか分かってきました。やはりトイレでした。安全パンツをはいていても昔の人です。殿方の前でトイレに行きたいということを口に出すのが、はばかられるようでした。手提げにはストッパー(下痢止め)も入れ、心の準備です。ダンナが「おかあちゃん、トイレは大丈夫?」と声をかけるのですが、「大丈夫」と答えます。「俺、トイレにいきたいから」そういってコンビニで降り、みんなでトイレを利用。本当にダンナ様々でした。母はこれがコンビニか!と、コーフン。あんなに品数が多いとは思わなかったと帰ってからも喋ります。ここでは立派なスーパーマーケットです。我が家の跡はこんなに小さかったのか! 道路もこんなに狭かったのか! ショックです。子どもの目線からはでっかく見えていたのですねー。母に又いこうねといいました。「わ、認知症になったら、どすべのー」。大丈夫、なっている人はもうなっているから・・。 〜りょう〜DSC_0328_edited-1


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2017年04月07日

「なつかしなあ」

 珍しく暖かい日、隆幸さんの車で、りょうと三人昔私が生まれ育った所、そしてりょうの姉、のり子とりょうが生まれ育った青森市の旧線路通りに連れて行ってもらいました。そこは、私の小さい頃は、自動車など通ることのない、子どもの良い遊び場の道路でした。今はすっかり街になっている大野、荒川あたりのオド(父)、アニ(兄)たちが、毎日市内の会社や大きな商店の荷物を運ぶため朝早く、何台もの荷馬車がゾロゾロと列をつくって通るのです。春はつばめが飛び交い、夏の夜にはホタルが家の中まで入って来て、カヤの外で光っているし、秋にはコオロギが縁側で一晩中鳴いていたし、赤とんぼが素手で払えるほど飛んでいました。どこの家にも子どもがゴチャゴチャいて、かくれんぼ、おにごっこ、陣取りにマリつき、真っ黒になって走り回っていたものです。夕方、どこかの家から「○○子、ママ(ごはん)だぞー」の母親の声を聞くと、まるで蜘蛛の子を散らすように家に帰ります。日が落ちる頃、朝出かけていた荷馬車の列がゾロゾロ帰ってきます。中には良い声で「津軽じょんがら」を歌って通ったりしました。
 やがて世の中は不気味な方へと進み、とうとうオドやアニたちも兵隊となって満州(中国)に送られ、馬は軍馬となって全部取られてしまったのです。終戦の15日前、青森市の空襲でほとんどの家が焼け、私の父も職場で焼死。そして終戦。生き残ったオドやアニはヨレヨレになってふるさとに帰って来、食う物もろくに無い生活が始まりました。その頃から旧線路道路はまた子どもの遊び場になり、のり子、りょう子の時代に入ることになります。
 昭和41年、私たちはユースホステル開設のためここ脇野沢に移りました。脇野沢は高橋の生まれ育った土地なので、親類も友人もいっぱい居て、皆のお世話になりながらふるさとを思い出す暇もないほどバタバタの生活。旅人たちと過ごして50年が過ぎました。私も93歳となり、ふと生まれたあたりはどうなっているんだろうと思うようになりました。今回、我が家のあった所に連れて行ってもらい、広いと思っていた道路はふるぼけた狭い道となり、家の跡はコンクリートでびっしり固めた駐車場になっていました。りょうと「ここが玄関」「ここが台所」と言っていたら、「やあ、やあ」と声を掛けてくれた白髪のおじいさんがいました。なんと昔、隣の家でサッカーをやっていた青年です。話を聞くと、やはり近所のほとんどの方は亡くなっておりました。
 次の日、隆幸さんが写真を見せてくれました。赤い車いすに乗せてもらい、小さくかたまって、風が吹いたらひっくり返りそうな小さなババア、それが私でした。もうすぐ94歳。そろそろ、お父ちゃん迎えに来てもいいよ。 〜とし〜
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2017年04月02日

「母のブログ」

 母は93歳です。九時に就寝、五時過ぎに起床の毎日で、床の中ではイヤーホンでラジオを聴いています。食事だけは、昼と夜ごはんを母のもとへ持っていきます。そのたびにお礼と「わんつか(わずか)でいいよ」というのですが、ついつい多めになってしまうのはゴメン、反省しています。朝は自分でパンを焼き、ジャムをのせてテレビを観ながら優雅にやっています。まっ、シャワー使用も含め自信をもって言えます。母は自立です。この間、朝食でパンをかじっていたダンナが突然「おかあちゃん、ブログやらないかな。」と言い出したのです。彼の横には「90歳。何がめでたい」佐藤愛子の本があります。ハハーッこれか! 納得です。すぐ母のもとへ。「ワ、カゲルベガ(書けるだろうか?)」声がオーケーしていました。毎日、テレビでは、森友学園の問題がとりあげられ、園児が教育勅語を読み上げるのを母が案じていました。何か感じたのでしょう。?・・忘れていました。例の本、母が先に読んでいました。やはり愛子か! 〜りょう〜
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2017年03月29日

「初春この頃」

 きょうも青い空。やはり春が近くなったのかなと座ったまま、隣の屋根を窓から眺めていたら、りょうが昨日の朝は、一面真っ白だったよと云う。アレッ、これが本当の「なごりゆき」だったらしい。テレビでは、なんと国をあげての「証人喚問」の話しが次々と出てきて、「越後屋、お前もか、アハハハ」で終わることのないように願うばかりです。やり取りされている金額の大きいことにもおどろく。なにげなく出てくる億とかのやりとりは、私たちが子供の時は、親から一銭をもらってアメを買いに行ったもので、今は当たり前の話しのようです。キャベツの大きさが気になったり、タマゴが少し安いことが話題なったり、そんな生活をしているほとんどの人も別の世界に生きているわけでもないし、耳を澄まして、世の中の生きざまをしっかり知ろうと思う。 〜とし〜
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「森と潮風の親子日記」〜下北半島の脇野沢つれづれ〜

 今春から、「森と潮風のりょう子さん日記」を改変して「森と潮風の親子日記」と称して、新しいブログをお送りさせていただきます。
 お母ちゃん(とし子)の生まれは大正12年7月7日の七夕様。青森市の中央1丁目に生まれ、育ち、そして51年前に現在の脇野沢YHに移住して17年間、「ユースのお母ちゃん」として旅先の親代わりをつとめてきました。義父である「ユースのお父ちゃん」は2年前に他界しましたが、先日、生まれ故郷の「青森市」を訪ね、界隈を歩いてきました。終戦前の空襲もうけ、かなり変貌した街並でしたが、駐車場になった実家跡地にたちながら、「あそこが・・、ここが・・、」と話題の尽きない一日でした。娘のりょう子さんも幼少の頃を思い出しながら一緒にタイムスリップしていました。
 前置が長くなりましたが、あらためて93歳になる母と68歳になる子のブログを楽しんでいただければと思っております。〜たか〜
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2017年03月23日

「まぼろしのパン屋」

 金曜日と火曜日の日だけオープンするパン屋さんがあります。むつまで行く時は、みなさん必ずそのお店の前を通るのですが、本当に普通のお家しかみえないので分からないと思います。ただ、その日は「パンの日」という旗が玄関前にひらひらしているので、どうぞ覗いてください。玄関を開けると、靴箱の上にかごが五つくらい並んでいて、ほわんと良い香りがしています。あんパンはもちろん、その日のオリジナルの菓子パンたとえば、キンピラパン、グラタンパン、肉じゃがパンなど、前の日の夕ごはんが想像できるのが楽しいかぎりの品々が10種類くらい入っております。値段がこれ又びっくり。すべて100円。子どもが100円持ってパンを選び、走って帰るその姿が良いというのが、作っている彼女の言葉でした。お味もグッド。店の前はむつ湾が広がり、かもめが飛び、ホタテ舟を眺めながらのドライブ。こころがいっぱい詰まった彼女のパンをお連れにしてなんて・・。えへへ。DSC_9660


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2017年03月17日

「はまるドー」

 脇野沢から田名部までの真ん中、川内町のバス道路添えに果物とやさいを売っている小さなお店があります。スーパーでりんごを買うのを忘れたのでダンナに寄ってもらいました。ドアを開け、「ごめんください」といくら叫んでも誰も来ません。見ると小さなチャイムが。押すと同時にのそっとおじいさんが出てきてくれました。髪はボーボー、ひげに何かのしずくがくっついているらしくキラキラしています。おじいさんはムスッとして一言も何も言いません。りんごをおそるおそるおじいさんに差し出し、ついでに横にあったキュウリのカス漬けの漬け物も手に取った時、「はまるドー」いきなりの声でした。それから「はまるドー」と何度もいいます。「自信作ですね」と言うと「はまるドー」とニンワリ。結局それしか言ってもらえずお店を出ました。夕飯にさっそく頂いてみました。ダンナは一言「俺、はまらない!」。母は「遠慮するべ」。カスに弱いふたりを無視して、私はおいしく食べています。他の漬け物はどうかな?今度こそ、はまるかもネ。又行こう。DSC_6922_edited-1


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