2020年01月13日
「令和の新年」
まもなく小正月。季節は小寒から大寒を迎える脇野沢ですが、積雪はなく、晩秋のような風景が続いています。
あらためまして新年明けましておめでとうございます。私事ですが、今年は子年で「年男」になります。脇野沢に移住して33年目を迎え、両親は他界しておりますが、我々二人とも何とか健康でやっております。ただ周辺はいろいろありまして、様々な所に変化があり、長く営業していた仲間である「ひろさきY H」が閉鎖となります。青森県には私どもと「カワヨGYH」の2軒のみとなります。時代変化ということもありますが、寂しい幕開けとなります。
脇野沢YHは1965年に開設しましたので、今年で55年を迎えることになります。私たちもそうそう長くは営業できないと思いますが、体力の続く限り、もうしばらく継続してゆこうかと思っております。こう少しお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。ちなみに「りょう子」さんが写っている庭の写真は2019年12月27日の雪の日と、「テン」は2020年1月6日に山の奥で撮影したモノです。


あらためまして新年明けましておめでとうございます。私事ですが、今年は子年で「年男」になります。脇野沢に移住して33年目を迎え、両親は他界しておりますが、我々二人とも何とか健康でやっております。ただ周辺はいろいろありまして、様々な所に変化があり、長く営業していた仲間である「ひろさきY H」が閉鎖となります。青森県には私どもと「カワヨGYH」の2軒のみとなります。時代変化ということもありますが、寂しい幕開けとなります。
脇野沢YHは1965年に開設しましたので、今年で55年を迎えることになります。私たちもそうそう長くは営業できないと思いますが、体力の続く限り、もうしばらく継続してゆこうかと思っております。こう少しお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。ちなみに「りょう子」さんが写っている庭の写真は2019年12月27日の雪の日と、「テン」は2020年1月6日に山の奥で撮影したモノです。


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2019年05月31日
「5年目の卒業式」〜Taka〜
春が落ち着いた5月30日、りょう子さんの5年目の癌経過定期健診が異常なしとのことで無事に終わりました。次は一年後で、医者いわく、健康診断のつもりでおいでくださいとのこと。4年前に「お父ちゃん」こと義父が他界、昨年は「お母ちゃん」こと義母が逝き、この5カ年で色々なことがありました。本人にとって様々な葛藤があったことだと思いますが、とりあえずピリオドが打て、今日から新しい一歩を歩みはじめました。また、周りでもいろいろなことが起こりはじめ、二人でそんな年代になったのだなとしみじみ語り合いました。
新しい時代。まずは健康を最優先して、YH運営と自然との関わりが続けて行ければと考えております。

新しい時代。まずは健康を最優先して、YH運営と自然との関わりが続けて行ければと考えております。

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2019年05月23日
「令和の工事」〜Taka〜
5月のGWが終わって間もなく、洗面所の給湯工事をはじめました。女子洗面所からスタートし、中旬の会議週をクリアーし、今週はじめから男子洗面所にかかり、先ほど完成しました。脇野沢YHが開設して半世紀になりますが、初めて洗面所にお湯が出るようになりました。宿泊所でよく今まで「水」だけで宿泊者の方々には我慢していただきました。この場をお借りしてお礼申し上げます。本日をもってようやく世間並みの宿泊所となりました。ちなみに明後日は私の71回目の誕生日となり、70歳最後の、そして令和初の磯山工務店工事が完結しました。まずはご報告です。




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2019年04月28日
「桜・さくら・サクラ」〜Taka〜
ようやく満開になりました。でも例年よりは早めで、愛宕山は桜色に包まれています。早朝ウォーキングのりょう子さんは山頂付近でカモシカと遭遇。脇野沢にきて32年、二度目の遭遇だそうです。GWも始まりました。旅人たちは動き始めており、何となく気持ちが踊ってきます。





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2019年04月20日
「梅にメジロ・・」〜Taka〜
我々が今のユースホステルを継承して32年立ちましたが、玄関先にある梅がここまで花を咲かせたのは初めです。玄関を出ると「プーン」とウメの香りがただよい、春を感じることができます。においをこのあたりの言葉で言うと「かまり」です。今日もこのにおいに誘われてか、メジロの群れが頻繁にやってきます。周りではウグイスが鳴き、春爛漫です。ただ、タラノメなどの春物は遅れ気味で、もう少しかかりそうです。それぞれの春なのです。




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2019年04月17日
「梅が咲いた!」〜Taka〜
ようやく世間並み。我が家に梅があった事を忘れていましたが、開花した今日、思わず見惚れました。今年は芽をついばむ「ウソ」の姿があまりなく、久しぶりに花芽が残ったのでしょう。それにしても綺麗で、りょう子さんも万歳ものでした。満開は2、3日後ですかね。GWでは少し遅いかもですが、19日に最低気温がマイナス一度の予想なので、案外、GWまで引っ張れるかも知れません。



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2019年04月14日
「りょう子さんの誕生日と脇野沢」〜Taka〜
今日14日はりょう子さんの70回目の誕生日。本人曰く、「はじめての経験・・」だそうだが、誰しも誕生日は初体験の年齢だろうと思う。今朝のりょう子さんのウォーキングは宿泊者のこともあって9時過ぎだった。天気が良く畑にあちこち人影があるので「おはようございます」と挨拶すると、全員が「おめ、誰だべ」と逆に問われたそうだ。りょう子さんは「ユース」だと回答。先日、久しぶりに温泉に行くと新人の女性が受付にいて、やってきた地元の親父から「おめ、誰だば」と聞かれ、「ミチヒコの娘だ」と回答。それで会話は成立したが、聞いている第三者は「誰の子」なのかわからない。ぶっきらぼうな聞き方にシンプルな回答が成立する脇野沢会話にどっちもどっちだと思った。が、何となく懐かしい思いがし、MailやLINEにはない「人のかまり(匂い)」がただよっていた。




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2019年04月10日
〜早朝ウォーキング〜 Taka
すっかりご無沙汰でしているうちに「令和」が準備されました。昨年5月に「加齢性黄斑変性症」と診断されたりょう子さんは、一年が経過した今、ある程度までは戻ったものの、完治レベルまでは届いていません。それでも日常生活はそれなりに動きはじめ、少し前から「早朝ウォーキング」を始め、万歩計は2000〜3000歩程度、時間的には30分程。令和の頃には距離が伸びそうです。




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2018年11月28日
「お久しぶり」〜りょう〜
だいぶ時間が空きました。みなさん、いかがお過ごしですか? 口頭で喋っています。隣でダンナが打っています。なんとここは、むつ市総合病院の眼科待合室です。あと30分で目ん玉に注射です。トホホホ。目は少々難ありですが、口は達者です。いろいろあった一年ですが、周りの患者さんを見ているとまだ私はマシな方です。自信を持ちました。
丹下左膳です。6回目の治療となると慣れすぎて、お化粧禁止なのに「厚く塗って」きてしまいました。先生に言われるかな? ちょっと心配です。注射は一応「手術」と呼ばれ、手術室に入り、ライトの下で目の部分だけ抜いた布を被せられ、目が開いたまま固定するように肩を抑えられます。手術時間は4分間ほどで終わります。どなたか「黄斑変性症」になった方、お知らせください。事細かく一から十までお教えしますよ。そろそろ呼ばれそうです。それでは皆さん御機嫌よう。

丹下左膳です。6回目の治療となると慣れすぎて、お化粧禁止なのに「厚く塗って」きてしまいました。先生に言われるかな? ちょっと心配です。注射は一応「手術」と呼ばれ、手術室に入り、ライトの下で目の部分だけ抜いた布を被せられ、目が開いたまま固定するように肩を抑えられます。手術時間は4分間ほどで終わります。どなたか「黄斑変性症」になった方、お知らせください。事細かく一から十までお教えしますよ。そろそろ呼ばれそうです。それでは皆さん御機嫌よう。

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2018年11月19日
「今年も師走間近」〜たか〜
脇野沢はわずかな残り秋が山を彩っている。まだ総括には早いけれど、今年は色々なことがあった。まず私事で、2月に1週間の入院をした。朝食後に吐血。脂汗が滲み、気分は最低。救急搬送でむつ総合病院へ運ばれ、生まれて初めて「飲んだ」胃カメラの映像は真っ赤っか。3日間、水無し食物なしの検査で食道のポリープ破裂による吐血と判明。患部を留めてもらった。2月はユースホステル開設以来はじめて冬季休館していたのが幸いした。
今夏、96歳になる義母高橋トシが他界した。7月末にお腹が痛いとのことで診療所へ、そのまま救急車搬送による入院。しかし4日後に他界。あっという間に「ユースのお母ちゃん」はこの世から姿を消した。義父が他界して4年目のことだった。
その少し前の5月のGW後、りょう子さんが「目が不調」ということでメガネ屋さんへ。検眼してもらったら「これはメガネでは補正できません」とのこと、眼科に回された。診察は「加齢性黄斑変性症」という難治の病気。半年後の現在は少し改善したものの、まだ治療中。むつ総合病院の眼科は週二回しか診察日がなく、一日がかりの病院通い。YHの営業にも影響が出ますが、気長にやって行こうと考えています。
とまあ、今年の三大ニュースは健康絡み。2018年も残りわずかとなりましたが、最後の追い込みで良いニュースがあればいいんだが・・・。これからますます健康との勝負になってきそうです。

今夏、96歳になる義母高橋トシが他界した。7月末にお腹が痛いとのことで診療所へ、そのまま救急車搬送による入院。しかし4日後に他界。あっという間に「ユースのお母ちゃん」はこの世から姿を消した。義父が他界して4年目のことだった。
その少し前の5月のGW後、りょう子さんが「目が不調」ということでメガネ屋さんへ。検眼してもらったら「これはメガネでは補正できません」とのこと、眼科に回された。診察は「加齢性黄斑変性症」という難治の病気。半年後の現在は少し改善したものの、まだ治療中。むつ総合病院の眼科は週二回しか診察日がなく、一日がかりの病院通い。YHの営業にも影響が出ますが、気長にやって行こうと考えています。
とまあ、今年の三大ニュースは健康絡み。2018年も残りわずかとなりましたが、最後の追い込みで良いニュースがあればいいんだが・・・。これからますます健康との勝負になってきそうです。

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2018年10月28日
「闘病中・・でーす」〜りょう子〜
GW明けに診断された「加齢性黄斑変性症」がまだ抵抗していて、現在まだ治療を続けています。眼科医から40才過ぎたらじゅうぶん加齢・・ですよ、と言われてショックを受け、5ヶ月間治療を続けて「若いんだな、新生血管の威勢がいいね」といわれ、ダブルショック。医者の「もう少し押してみましょう」の一言で、若年寄りは奮闘しております。ペンを持つのはもう少しご容赦を・・・。

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「ブログの刷新」〜隆幸〜
2005年7月にはじめたこのblogも13年目を迎えました。長かったようですが、今思い起こすとあっという間のように思えます。今夏、途中から参加していた「お母ちゃん」こと義母が他界し、しばらく更新をしないままでした。そこで今秋から、タイトルも一新して、隆幸とりょう子の二人三脚でつづって行こうと思います。
さっそくこのタイトルについて一言。「北の田舎の物語」は4年前に他界した義父「高橋金三」が86年に出版した書籍の題名です。脇野沢の古い慣習や風習をまとめてものですが、家族総出でつくった本です。三重から当時の脇野沢村に移住して31年目を迎え、人生の中で、脇野沢で過ごす時間が過半を占めるようになりました。下北半島、脇野沢の「風土」とまでは行かなくても、「風」くらいにはなれたのかなと思うようになりました。二人とも還暦を過ぎてかなりの時間が立ち、このまま、この地の「土」に還るのかも知れません。
30回の脇野沢での春・秋・冬・冬・冬を体験し、「森の中で」の時間も長く体験し、2万人近い旅人をお迎えしてきました。この先、いつまで現在の宿の親父・女将が勤まるのかわかりませんが、もう少し、現在の舞台で頑張りたちと考えております。
二人きりとなった脇野沢ユースホステルですが、あらためて、よろしくお願いいたします。

さっそくこのタイトルについて一言。「北の田舎の物語」は4年前に他界した義父「高橋金三」が86年に出版した書籍の題名です。脇野沢の古い慣習や風習をまとめてものですが、家族総出でつくった本です。三重から当時の脇野沢村に移住して31年目を迎え、人生の中で、脇野沢で過ごす時間が過半を占めるようになりました。下北半島、脇野沢の「風土」とまでは行かなくても、「風」くらいにはなれたのかなと思うようになりました。二人とも還暦を過ぎてかなりの時間が立ち、このまま、この地の「土」に還るのかも知れません。
30回の脇野沢での春・秋・冬・冬・冬を体験し、「森の中で」の時間も長く体験し、2万人近い旅人をお迎えしてきました。この先、いつまで現在の宿の親父・女将が勤まるのかわかりませんが、もう少し、現在の舞台で頑張りたちと考えております。
二人きりとなった脇野沢ユースホステルですが、あらためて、よろしくお願いいたします。

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2018年06月27日
〜Blogについて〜 たかゆき
ブログ、ずいぶんサボっています。2ヶ月前にりょう子さんが「ちょっと目が変・・」と呟いたので、メガネ屋さんで検眼してもらったら、「これはメガネ屋では無理」と喋られました。眼科で詳しい検査をしたら「加齢性黄斑変性症」という眼の老化にともなう病気でした。りょう子さんはまずこの「加齢性」という言葉にショックをうけました。そして、紫外線やパソコンが発生するブルーライトが「眼に良くない」というところもあって、ブログの筆が止まりました。黄斑症についての治療の決定はないようですが、最終的に「アイリーア」という眼球に直接注射する治療法を進める事になりました。この治療は成果が確実に担保できるものではないのですが、私の友人にこの治療を半年続けて視力が戻ったということもあり、決めました。ただ、この治療は高価になり、1回5万円となっており、一ヶ月おきに3回の治療を施術することになります。このアイリーアは最大5回だそうですが、患者さんの中には7年間続けている人もいるようです。単純計算すると莫大な費用になりますが、成果は人によってさまざまなようです。まず半年後を目指して頑張ろうと思っております。そんなこんなで現在「加齢性」の治療中であります。蛇足ですが、治療日が限られているので、宿泊をお断りすることもあろうかと思います。よろしくお願いいたします。

※写真は二度咲きした玄関の八重桜

※写真は二度咲きした玄関の八重桜
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2018年04月14日
「デボつくり」 〜とし〜
レジ袋にいっぱいクスリをもらい、どれが何のクスリか分からなくなっても、頑張っているのでしょうか。若い人はほとんど居なくなりました。昔はどこの家でも兄弟姉妹がたくさんおりました。五人、六人は当たり前。九人、十人の姉妹も珍しくはなかった時代でした。もともと漁村のこの村は、とにかく魚を穫って生計をたてて、畑を耕し、子どもは小学校を卒業すればもう大人と同じ仕事をし、親の手助けをして大きくなりやがて、親と同じ仕事をして家族を養っておりました。ゴム製品がまだ出回ってなかったので、足はワラジばき、上衣は木綿の筒袖仕立てに下はモモヒキ。頭は黒のビロードを頭巾でつつみ、手袋はこれまた木綿の布で、中に綿を入れ、2本指。今は「ミトン」というスタイルですが、その頃は通称「デボ」と云い、仕事がきついのですぐ破れます。破れると布をあて、何度も何度も修理します。その上、どっぷり海水に濡れるので、何個も変わりをつくり、それは女達の仕事でした。いろりの上には棚がぶら下がっていて、濡れた作業衣やデボがいつも干してありました。
女の子は、母に習って、小さい手で「デボ」づくりをしていたのを見た事があります。あとになって物置の片隅に、まるでボクシングのグローブのように丸くかたまって、カラカラに乾いた「デボ」が何個もぶら下がっておりました。今と比べると、かなりつらい仕事だったと思います。親が忙しいし、子どもが多いので、時には男の子でも学校に赤ん坊をおぶって行くのも珍しくなくなり、休み時間になれば、「どれ、どれ」と女の子が慣れた手つきでオシメを取り替えてくれたそうです。

女の子は、母に習って、小さい手で「デボ」づくりをしていたのを見た事があります。あとになって物置の片隅に、まるでボクシングのグローブのように丸くかたまって、カラカラに乾いた「デボ」が何個もぶら下がっておりました。今と比べると、かなりつらい仕事だったと思います。親が忙しいし、子どもが多いので、時には男の子でも学校に赤ん坊をおぶって行くのも珍しくなくなり、休み時間になれば、「どれ、どれ」と女の子が慣れた手つきでオシメを取り替えてくれたそうです。

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2018年04月12日
「いやー参りました」 〜りょう〜
我が家が長期のお休みをとるということはいままでありませんでした。ふっと思いついただけだったはずが、なんとその間に我が家で大事件が・・。朝ご飯を普通に食べ、五分後だったかなあ。ダンナが気分悪いといってまもなく、吐血したのです。すぐに救急車でむつ病院へ。雪道を1時間半かけての車の中で血圧がふた桁にどんどん下がり、点滴を受けながら走りました。本人はいたって元気。そばにいた私の方が車酔いでゲーゲー寸前。トホホでしたよー。すぐ入院。次の日、胃カメラを入れながらポリープからの出血を止める手術をしてもらい五日間で帰宅しました。やれやれと思っていたら本丸がやってきました。風邪です。最初はダンナ。熱を下げる頓服を出してもらいなんとかクリアしたのですが、次は私。風邪をこじらしたということで、三週間もおつきあいをしました。卵巣癌手術の入院の日々よりつらかったなあ。人生68年初体験でした。今は二人とも元気です。みなさんに本当にお世話になりました。感謝です。来年はどうしましょう。休むと又何かあるかも? いやー、来年こそお休みを楽しもう!

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2018年03月05日
「花街・4」 〜とし〜
バタバタと終戦。浜町もしじみ貝も丸焼け、野原になりました。しばらくたってから、青森のしじみ貝でおなじみだった彼女にばったり。「カメさんでねがァ」と」声をかけられびっくり。なんと背中に赤ん坊を背負っていたのだそうです。話によると、「過去の商売のことを知っていて、それでもいい」といってくれたそうで、大工のダンナと子どもに恵まれ「今は涙がでるほど幸せだ」と良い顔をしていたそうです。カメも所帯を持って三人の親になりました。アルファベットを読めないカメはテストの英字をマークと覚え、がんばって、がんばって小型船の免許もとりました。晩年のカメは船に乗る体力もなくなり、沖から戻る漁船の魚の仕分けを手伝う日々でした。時々、我が家の分を小さなバケツに入れて持って来てくれます。帰り、きれいに洗ったバケツにりょうからお菓子をいれてもらい喜んで帰った海の男カメも今はもういません。夜明けに寝ていると、遠く漁船のエンジンの音がすると、なつかしいカメをおもいだします。

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2018年02月28日
「花街・3」
当然ながらカメさんはいつしか「しじみ貝」の常連さんになり、青森に材木を運ぶ回数も増えてきました。カメはお酒がまったく飲めないので、近くの店から大福もちとか、おやきを持ってなじみの家に行くのです。「カメさんでねがァ」、「さあ、入って入って」と迎えてくれ、花札やトランプをして遊んでいるとやがて夕方。「そろそろ、いいんでねがァ」と声がかかります。まごまごしていると次の客が来るかもしれないからとのこと。だれもいない船に戻り、舟底にあたるピシャピシャの波の音を聞きながらぐっすり。三時間半をかけてまた下北にもどります。ある時、カメが打ち明けたのは「とうとうもらってまったじゃ」つまり、いかがわしい病気をうつされたというのです。「なじみの家」に行って彼女に話すと「わりがったのォ。かにやー(かんにんや)。」と常日頃、自分たちが世話になっているそれ専門の医者の所にすぐ連れて行ってくれたそうです。いや、いや、笑っていいのか、あきれていいのかおこっていいのか。そうこうしているうちに、国の具合もだんだん悪い方に進み、カメにも令状がきてなんでも横須賀の方に連れていかれてしまいました。

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2018年02月24日
「花街・2」 〜とし〜
昔、青森市にも花街がありました。「浜町」、そこは格調の高い料亭が並び、高い塀に囲まれた立派な一角で、夕方になると人力車に乗った日本髪の芸者さんが通り、その後ろから三味線箱を抱えた男衆が付いて行くのが見られました。料亭の中は客同士が顔を合わせないように造られた廊下を長い裾を上手に足でさばいて通ると、ビンつけ油の残り香がなんともいい感じだったそうです。ところがその通りをひとつ下った所に、格式のぐっと下がり目的も「そのものずばり」の一角がありました。青森市を流れる堤川の川口に近い所で、いつも荷物を運ぶ船がたむろしている所、通称「しじみ貝」です。土地の人なら誰でも「あれか」と知っている通りでした。家の中にポッポッと植え込みがあったり、格子の入った丸い窓があったり、当時めずらしい門灯がついていたりの普通の家に見えました。
ここで話はさかのぼって・・。昭和のはじめ、口減らしのため津軽の方から脇野沢村の漁師の家にひとりの男の子がもらわれてきました。年齢の関係から高橋と同じ三年生に編入されたのですが、学校にも通っていなかった彼はどんなに心細かったことでしょう。とにかく山猫のように目をギラギラさせ、誰かれなくケンカを売っていまいた。その子の名前は通称カメ。育ての親の漁師はいい人で、自分の子と区別することなく1から教えてやがてカメは一人前の漁師になりました。冬のタラ漁が終わったオフ、カメは下北ヒバを乗せて青森まで運ぶ仕事をし始めたのです。船は堤川に着きます・・。

ここで話はさかのぼって・・。昭和のはじめ、口減らしのため津軽の方から脇野沢村の漁師の家にひとりの男の子がもらわれてきました。年齢の関係から高橋と同じ三年生に編入されたのですが、学校にも通っていなかった彼はどんなに心細かったことでしょう。とにかく山猫のように目をギラギラさせ、誰かれなくケンカを売っていまいた。その子の名前は通称カメ。育ての親の漁師はいい人で、自分の子と区別することなく1から教えてやがてカメは一人前の漁師になりました。冬のタラ漁が終わったオフ、カメは下北ヒバを乗せて青森まで運ぶ仕事をし始めたのです。船は堤川に着きます・・。

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2018年02月20日
「花街・1」 〜とし〜
私の好きなラジオ番組の中に、朝五時から入る民謡があります。先日、その放送の中に約百年前に八戸市の「鮫」にいた芸者さんが持っていたという三味線をひいて唄ってくれたことがありました。「鮫」、今は八戸に組いれられている町なのですが、「八戸小唄」の中に「鮫の岬は潮けむり」との一節があるとおり、昔は栄えたいわゆる「風待ちの湊」だったのです。「鮫」といえば、私にはるか昔の思い出があります。私が小さかった頃、父と一緒に「鮫」の料亭で、たしか「石田屋」と覚えておりますが、父の職場の方々と行ったことがありました。大広間にお膳が並んで、ゆかた姿の男たちがいて五人の芸者さんが踊っておりました。昔、江戸時代には、大量の物資を遠くまで運ぶには、大きな船で運ぶしかなかったので、いわゆる北前船で上方から太平洋を廻る東まわりと日本海を廻る西廻りの航路があるのですが、その動力は大きな帆を張って風の具合と波のもようと舟頭のカンだけの船旅でした。「板子一枚、下は地獄」の通り、命がけの仕事でした。積んでいた品物は、上方から酒、米、衣類、雑貨などで、北海道の松前あたりまで足をのばし、「俵もの」と称するスルメ、コンブ、ワカメ、干しタラ、など積んでまた上方へ帰るもので、「主が行ってから100日過ぎた、あとの100日どう暮らす」との盆唄にも残っているとおり無事の帰りを祈って待つのみでした。船の方では同じ土地に風の具合などで、しばらく足止めされることもあたりまえ、となると船乗り相手の花街があっても不思議はなかったわけです。

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2018年02月18日
「風呂あれこれ6」〜とし〜
春、5月になると今度は村では日を決めて一斉に山にふき取りに入ります。長さ1メートルにも大きくなったふきを束にして背負って山から降りるころ、下では年をとって山には入れない人たちが待っていて、たら網を煮る時に使った例の大釜でふきを煮ます。夏になるとこの大釜は風呂に早がわり。「湯のあんべどんだァ」と囲ったよしずの間から声がかかります。「ヒァー見ればアガネー」娘たちは黄色い声をあげると、後ろから「メダドォ(見たぞ)」と別の声が。夏のお楽しみでした。その頃は、映画はもちろんラジオもなく新聞も来ないし、電話は役場と警察にあるだけ。(母に聞きました。昭和の初期だそうです。)ずっと後になってから、あの釜の風呂かに入る時、脱いだ着物はどこに置いたのか、あがり台はどうなっていたのか、石けんは?と気になり昔の漁師に聞いたことがありました。「アハハどんであったか忘れてまった」歯の一本も無い口をあけて笑っていました。今は魚もとれず仕事もないし、若者はみんな都会へ行ってしまいました。そしてむつ市の片隅の静かな脇野沢になりました。終わり。

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