2018年06月27日

〜Blogについて〜 たかゆき

 ブログ、ずいぶんサボっています。2ヶ月前にりょう子さんが「ちょっと目が変・・」と呟いたので、メガネ屋さんで検眼してもらったら、「これはメガネ屋では無理」と喋られました。眼科で詳しい検査をしたら「加齢性黄斑変性症」という眼の老化にともなう病気でした。りょう子さんはまずこの「加齢性」という言葉にショックをうけました。そして、紫外線やパソコンが発生するブルーライトが「眼に良くない」というところもあって、ブログの筆が止まりました。黄斑症についての治療の決定はないようですが、最終的に「アイリーア」という眼球に直接注射する治療法を進める事になりました。この治療は成果が確実に担保できるものではないのですが、私の友人にこの治療を半年続けて視力が戻ったということもあり、決めました。ただ、この治療は高価になり、1回5万円となっており、一ヶ月おきに3回の治療を施術することになります。このアイリーアは最大5回だそうですが、患者さんの中には7年間続けている人もいるようです。単純計算すると莫大な費用になりますが、成果は人によってさまざまなようです。まず半年後を目指して頑張ろうと思っております。そんなこんなで現在「加齢性」の治療中であります。蛇足ですが、治療日が限られているので、宿泊をお断りすることもあろうかと思います。よろしくお願いいたします。
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※写真は二度咲きした玄関の八重桜

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2018年04月14日

「デボつくり」 〜とし〜

 レジ袋にいっぱいクスリをもらい、どれが何のクスリか分からなくなっても、頑張っているのでしょうか。若い人はほとんど居なくなりました。昔はどこの家でも兄弟姉妹がたくさんおりました。五人、六人は当たり前。九人、十人の姉妹も珍しくはなかった時代でした。もともと漁村のこの村は、とにかく魚を穫って生計をたてて、畑を耕し、子どもは小学校を卒業すればもう大人と同じ仕事をし、親の手助けをして大きくなりやがて、親と同じ仕事をして家族を養っておりました。ゴム製品がまだ出回ってなかったので、足はワラジばき、上衣は木綿の筒袖仕立てに下はモモヒキ。頭は黒のビロードを頭巾でつつみ、手袋はこれまた木綿の布で、中に綿を入れ、2本指。今は「ミトン」というスタイルですが、その頃は通称「デボ」と云い、仕事がきついのですぐ破れます。破れると布をあて、何度も何度も修理します。その上、どっぷり海水に濡れるので、何個も変わりをつくり、それは女達の仕事でした。いろりの上には棚がぶら下がっていて、濡れた作業衣やデボがいつも干してありました。
 女の子は、母に習って、小さい手で「デボ」づくりをしていたのを見た事があります。あとになって物置の片隅に、まるでボクシングのグローブのように丸くかたまって、カラカラに乾いた「デボ」が何個もぶら下がっておりました。今と比べると、かなりつらい仕事だったと思います。親が忙しいし、子どもが多いので、時には男の子でも学校に赤ん坊をおぶって行くのも珍しくなくなり、休み時間になれば、「どれ、どれ」と女の子が慣れた手つきでオシメを取り替えてくれたそうです。 
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2018年04月12日

「いやー参りました」 〜りょう〜

 我が家が長期のお休みをとるということはいままでありませんでした。ふっと思いついただけだったはずが、なんとその間に我が家で大事件が・・。朝ご飯を普通に食べ、五分後だったかなあ。ダンナが気分悪いといってまもなく、吐血したのです。すぐに救急車でむつ病院へ。雪道を1時間半かけての車の中で血圧がふた桁にどんどん下がり、点滴を受けながら走りました。本人はいたって元気。そばにいた私の方が車酔いでゲーゲー寸前。トホホでしたよー。すぐ入院。次の日、胃カメラを入れながらポリープからの出血を止める手術をしてもらい五日間で帰宅しました。やれやれと思っていたら本丸がやってきました。風邪です。最初はダンナ。熱を下げる頓服を出してもらいなんとかクリアしたのですが、次は私。風邪をこじらしたということで、三週間もおつきあいをしました。卵巣癌手術の入院の日々よりつらかったなあ。人生68年初体験でした。今は二人とも元気です。みなさんに本当にお世話になりました。感謝です。来年はどうしましょう。休むと又何かあるかも? いやー、来年こそお休みを楽しもう!DSC_1512


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2018年03月05日

「花街・4」 〜とし〜

 バタバタと終戦。浜町もしじみ貝も丸焼け、野原になりました。しばらくたってから、青森のしじみ貝でおなじみだった彼女にばったり。「カメさんでねがァ」と」声をかけられびっくり。なんと背中に赤ん坊を背負っていたのだそうです。話によると、「過去の商売のことを知っていて、それでもいい」といってくれたそうで、大工のダンナと子どもに恵まれ「今は涙がでるほど幸せだ」と良い顔をしていたそうです。カメも所帯を持って三人の親になりました。アルファベットを読めないカメはテストの英字をマークと覚え、がんばって、がんばって小型船の免許もとりました。晩年のカメは船に乗る体力もなくなり、沖から戻る漁船の魚の仕分けを手伝う日々でした。時々、我が家の分を小さなバケツに入れて持って来てくれます。帰り、きれいに洗ったバケツにりょうからお菓子をいれてもらい喜んで帰った海の男カメも今はもういません。夜明けに寝ていると、遠く漁船のエンジンの音がすると、なつかしいカメをおもいだします。DSC_1028


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2018年02月28日

「花街・3」

 当然ながらカメさんはいつしか「しじみ貝」の常連さんになり、青森に材木を運ぶ回数も増えてきました。カメはお酒がまったく飲めないので、近くの店から大福もちとか、おやきを持ってなじみの家に行くのです。「カメさんでねがァ」、「さあ、入って入って」と迎えてくれ、花札やトランプをして遊んでいるとやがて夕方。「そろそろ、いいんでねがァ」と声がかかります。まごまごしていると次の客が来るかもしれないからとのこと。だれもいない船に戻り、舟底にあたるピシャピシャの波の音を聞きながらぐっすり。三時間半をかけてまた下北にもどります。ある時、カメが打ち明けたのは「とうとうもらってまったじゃ」つまり、いかがわしい病気をうつされたというのです。「なじみの家」に行って彼女に話すと「わりがったのォ。かにやー(かんにんや)。」と常日頃、自分たちが世話になっているそれ専門の医者の所にすぐ連れて行ってくれたそうです。いや、いや、笑っていいのか、あきれていいのかおこっていいのか。そうこうしているうちに、国の具合もだんだん悪い方に進み、カメにも令状がきてなんでも横須賀の方に連れていかれてしまいました。DSC_4794


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2018年02月24日

「花街・2」 〜とし〜

 昔、青森市にも花街がありました。「浜町」、そこは格調の高い料亭が並び、高い塀に囲まれた立派な一角で、夕方になると人力車に乗った日本髪の芸者さんが通り、その後ろから三味線箱を抱えた男衆が付いて行くのが見られました。料亭の中は客同士が顔を合わせないように造られた廊下を長い裾を上手に足でさばいて通ると、ビンつけ油の残り香がなんともいい感じだったそうです。ところがその通りをひとつ下った所に、格式のぐっと下がり目的も「そのものずばり」の一角がありました。青森市を流れる堤川の川口に近い所で、いつも荷物を運ぶ船がたむろしている所、通称「しじみ貝」です。土地の人なら誰でも「あれか」と知っている通りでした。家の中にポッポッと植え込みがあったり、格子の入った丸い窓があったり、当時めずらしい門灯がついていたりの普通の家に見えました。
 ここで話はさかのぼって・・。昭和のはじめ、口減らしのため津軽の方から脇野沢村の漁師の家にひとりの男の子がもらわれてきました。年齢の関係から高橋と同じ三年生に編入されたのですが、学校にも通っていなかった彼はどんなに心細かったことでしょう。とにかく山猫のように目をギラギラさせ、誰かれなくケンカを売っていまいた。その子の名前は通称カメ。育ての親の漁師はいい人で、自分の子と区別することなく1から教えてやがてカメは一人前の漁師になりました。冬のタラ漁が終わったオフ、カメは下北ヒバを乗せて青森まで運ぶ仕事をし始めたのです。船は堤川に着きます・・。
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2018年02月20日

「花街・1」 〜とし〜

 私の好きなラジオ番組の中に、朝五時から入る民謡があります。先日、その放送の中に約百年前に八戸市の「鮫」にいた芸者さんが持っていたという三味線をひいて唄ってくれたことがありました。「鮫」、今は八戸に組いれられている町なのですが、「八戸小唄」の中に「鮫の岬は潮けむり」との一節があるとおり、昔は栄えたいわゆる「風待ちの湊」だったのです。「鮫」といえば、私にはるか昔の思い出があります。私が小さかった頃、父と一緒に「鮫」の料亭で、たしか「石田屋」と覚えておりますが、父の職場の方々と行ったことがありました。大広間にお膳が並んで、ゆかた姿の男たちがいて五人の芸者さんが踊っておりました。昔、江戸時代には、大量の物資を遠くまで運ぶには、大きな船で運ぶしかなかったので、いわゆる北前船で上方から太平洋を廻る東まわりと日本海を廻る西廻りの航路があるのですが、その動力は大きな帆を張って風の具合と波のもようと舟頭のカンだけの船旅でした。「板子一枚、下は地獄」の通り、命がけの仕事でした。積んでいた品物は、上方から酒、米、衣類、雑貨などで、北海道の松前あたりまで足をのばし、「俵もの」と称するスルメ、コンブ、ワカメ、干しタラ、など積んでまた上方へ帰るもので、「主が行ってから100日過ぎた、あとの100日どう暮らす」との盆唄にも残っているとおり無事の帰りを祈って待つのみでした。船の方では同じ土地に風の具合などで、しばらく足止めされることもあたりまえ、となると船乗り相手の花街があっても不思議はなかったわけです。DSC_4746


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2018年02月18日

「風呂あれこれ6」〜とし〜

 春、5月になると今度は村では日を決めて一斉に山にふき取りに入ります。長さ1メートルにも大きくなったふきを束にして背負って山から降りるころ、下では年をとって山には入れない人たちが待っていて、たら網を煮る時に使った例の大釜でふきを煮ます。夏になるとこの大釜は風呂に早がわり。「湯のあんべどんだァ」と囲ったよしずの間から声がかかります。「ヒァー見ればアガネー」娘たちは黄色い声をあげると、後ろから「メダドォ(見たぞ)」と別の声が。夏のお楽しみでした。その頃は、映画はもちろんラジオもなく新聞も来ないし、電話は役場と警察にあるだけ。(母に聞きました。昭和の初期だそうです。)ずっと後になってから、あの釜の風呂かに入る時、脱いだ着物はどこに置いたのか、あがり台はどうなっていたのか、石けんは?と気になり昔の漁師に聞いたことがありました。「アハハどんであったか忘れてまった」歯の一本も無い口をあけて笑っていました。今は魚もとれず仕事もないし、若者はみんな都会へ行ってしまいました。そしてむつ市の片隅の静かな脇野沢になりました。終わり。DSC_1017


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2018年01月25日

「風呂あれこれ5」 〜とし〜

 網元にはちゃんとした内風呂があるのですが、当時の普通の漁師の家にはありません。広い土間のすみに破れたりしてもう役に立たない古網、綱、魚箱、かご、ガラス玉が山のように積まれ、その隣に一年中いろりで燃やす薪、それも少なくなればどんどん上に積むので下の方は腐ってぼろぼろ。その間をネズミがうろうろ。そこに裸電球がぶらさがり、ドラム缶がひとつ。それが風呂でした。ドラムの風呂は底にスノコがあり、入るのにはコツがあって慣れない人にはとても無理ですが、子どもたちは上手にヒョイと入ったりしておりました。下北の冬は厳しいものでした。夜の開ける前に津軽海峡近くまで行く漁師たちが帰る時間にあわせて女たちはドラム缶風呂の用意をして待ちます。湯を足しながら何人もの人が入った缶の中のお湯はどうなっていたか誰も気にすることはないのです。やがて漁期が終わって変える時は、塩漬けタラ、塩漬けたらこ、干しタラ、するめなどいっぱい背負って青森行きの「じょうき船」に乗って「へば、来年」と帰ります。帰っていく津軽には海からのみやげは皆に喜ばれ、海のない津軽では貴重なものだったのです。DSC_0049


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2018年01月09日

「風呂あれこれ4」 〜とし〜

 県庁所在地の青森でさえこんなひどい状態ですから下北の小さな漁村では「押して知るべし」でした。12月の中頃からタラ漁の終わる2月末まで、前もってしなければならない大仕事がありました。それは漁網、漁網は木綿製でそのまま海水につけると腐りやすいので、新しい網を「防腐剤」を入れた大きな釜で煮るのです。大量の網を赤黒くなるまで煮る作業は大変なものだったようです。網の用意が出来たころ、津軽の方から出稼ぎの男たちがやってきます。網元には八人〜十人ぐらい、普通の漁師の家でも二人〜三人それもすぐ戦力になる同じ人が、時には親子二代という人もおりました。彼らは秋にとれた新米、男には地酒、子どもたちには大きな鉢に入った水飴をみやげに持ってきてくれました。何しろ、ここは田んぼの少ない土地なので、米ばかりの飯は病人かお産の後くらいのもので、普段は麦、ヒエ、アワなど混ぜて食べているので白いマンマは宝石のようにみえたようです。ごめん、風呂の話は次に。DSC_4372


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2018年01月04日

「あけましておめでとうございます」 〜りょう〜

 我が家も無事三人、新しい年を迎えております。今年もよろしくお願いいたします。
 去年の末はけっこう雪が降り、ラッセル車のガーガーという音と震度1のきしみで起こされました。夜中の二時ごろですよ。それも今年になってからは無し。楽をしています。今、我が家ではさぼろう病が大流行。これまではお部屋、廊下、洗面台、等に真冬でもお花をセットし、冷蔵庫の中には高値のレタス、トマトなどをストックし、結果捨てるのが常でした。そんな時、冬眠しない?という悪魔のささやきが聞こえたのです。良いねとすぐ誰かさんも同調。これで猛吹雪の中、無事着けるかしらと朝から心配することもなくなります。毎日のんびりしているのに、「のんびりもいいね」とおかしいことを言うわたし。母は張り切ってブログの原稿を書いているし、ダンナはパールの写真を眺め「今年も良い顔しているね」とぶつぶつ言っているし、部屋にはジャズが流れ、台所からカレーの匂いがしているし、まっ、冬眠もいいか!もうすこし。
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2018年01月02日

「風呂あれこれ3」 〜とし〜

 私たちが小さかった頃、家の近くに銭湯が二軒ありました。一軒はすぐ近くにあるのですが、いつも湯船にうっすらと垢が浮いていたり、時には赤ん坊のウンコまで浮いていたこともあり、トイレの近いそこはいつもトイレの匂いが気になるし、湯船のお湯がぬるくなると、どんどんと羽目板をたたくと熱い湯が入ってくる仕組みになってそんなあんばいだからいつもガラガラ空いておりました。もう一軒はしばらく歩きますが、そこは新しく明るく広くきれいですが、いつも大入り満員。時間によっては、洗い場から湯船まで人をかき分けたりしないととどかず、たまには目の前の湯桶を子どもがまたいで通ったり、脱いだ衣類をかごにいれるのですが、隣のかごとくっついて足の踏み場もないくらいでした。寒い冬の日など、外に出るとすぐ洗った髪がコチコチに凍り、まつげまで重くなり、長靴の中は冷たいし、家に着くころは雪だるまのようでした。
続く。
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2017年12月25日

「風呂あれこれ・その2」 〜とし〜

 江戸時代の銭湯を営むには手数が大変かかりました。まづ、井戸から湯船に水をくみ上げる手間、火を燃やしてもいつも人の目が必要な手間、江戸中を大八車をひいて建物を建てている現場の切れっぱし、取り壊しの現場から、火事場の後始末まで手伝って湯をわかす木々を集める手間、その集めた木を燃えやすいように切りそろい、その木の置き場の整理、中には生木があれば乾燥させる手間、なかなか大変な仕事だったようです。風呂場の中は、今のようにガラスがあるわけもなく、湯がさめないように出入り口を狭くし「ざくろ口」という潜り戸を開けて中に入ると、中は薄暗く窓のない湯船のまわりは湯気で湯の汚れは見えず、汚れが見えてもそれが当たり前と思えば気にならないし、いい気持ちです。一時期には、混浴の時代もあったようですし、女は朝早くから銭湯に行かなかったので、女湯にも刀掛けがあり、同心など朝風呂を楽しんだといいます。私たちが小さかった頃の銭湯は?
 また、続きます。
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2017年12月01日

「風呂あれこれ・その1」 〜とし〜

 先日、大雨の土砂災害があった時、テレビで若い男が「もう四日も風呂に入っていないので死にそう」と云うのをみて、昔と今の入浴の思い入れの違いに少々驚きました。本人は冗談とも思えない真面目な顔をしているし、テレビも当たり前のように放送しておりました。入浴は今も昔も同じで、1日の疲れもとれてさっぱりし、ほっとするのはそのとおりです。そこで江戸時代はどうであったかそのころの様子を覗いてみました。当時、内風呂を備えていた家は大きな商家、お寺、医者、亦は町民とかかわりのある仕事に携わっていた武士などで、一般の人たちは、男は井戸端で体を洗ったり、女は行水ですませることが多かったようですが、結構、銭湯も利用されていたようです。1日の仕事を終えた大工、左官、屋根やなどの人たちが肩に手ぬぐいをひっかけて、銭湯に行く様子など時代劇に出てきますが、彼らは手に職のあるエリートたちで、賃金も高かったとのことで、気軽に銭湯に通えたようです。銭湯を営業していた方は、現代と違って大変手数のかかる仕事だったそうです。どのような手間が?続きは次に・・。DSC_3629


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2017年11月12日

「父さんの自転車」〜りょう〜

 旅人を迎えて52年。予約の電話の時の声でだいたいの年齢が分かるのですが、今回は失敗。宿泊カードの年齢を見ておもわず「ね、君13歳?」。「はい」。突然記入をやめた彼、玄関に置いてあるダンナの自転車のところにバタバタと行き、それをなでながら「これどこのメーカー?」「ね、先に受付してしまおうよ」、そんな会話で彼を迎えました。なにやらダンナと話をしています。父さんの自転車を借りて旅をしていること。その自転車は2年型落ちの安い買い物だったこと。自分の自転車が欲しいこと。そして父さんが自然派であること。とにかくご飯が楽しみなんだということetc。同じテーブルのご夫婦が少し遠慮するほどおひつを抱え込むようによく食べていた13歳。最後はおかずなしでお米だけを食べていました。次の日はあいにくの雨。プレゼントのおにぎりを自転車にくくり付け、元気に出発しました。「あのおにぎり、お昼まで保たないよ。すぐ食べるぞ。俺もそうだった」。「俺も自転車でどこかに行こうかな」。真顔でブツブツ。あれは本気でした。きっとダンナはどこかにいくぞ!DSC_1641


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2017年10月08日

「淡谷のり子と私・3」 〜とし〜

 淡谷のり子の歌が流れているころ、日本は聖戦と称してどんどん中国に兵隊を送り、大きな戦争をしていました。始めの頃は「勝った、勝った」とのことで、戦争のおそろしさ、悲しさ、おろかさも全く知らないまま。万一の時は「神風」が吹いて日本は勝つと学校でも教えられていました。が、戦況はどんどん坂を転げ落ちるような早さで悪い方に進み、やがて学生は勿論、中年の男でも戦地に送られるようになりました。昭和20年7月28日に青森市が空襲。父は新聞社で焼死です。私たち親子は焼け残った家の一部屋を借り、着たきり生活をしていたころ、のり子さんから大きな箱が届いたのです。中にはワンピース、スカート、ブラウスから下着、肌着まで中にはステージで着るスパンコールが付いたキラキラが付いたドレスまで入っておりました。本当に助かりました。そののり子さんは今ふるさと青森で眠っています。市民葬には隆幸さんに連れていってもらいました。遺族席には私ひとりで誰もいません。目の前のピアノで「別れのブルース」を弾いてもらい感無量。古い青春に別れをつげました。その後、妹とし子さんも亡くなったと風の便りで知りました。そのうち私も別の世界に行った時、のり子さんと会えたら「おや、としちゃん、とうとうおめも来たガァ」と云ってくれそうな気がします。
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2017年09月17日

「淡谷のり子と私・2」 〜とし〜

 コロンビアに入ったのり子さんはやがて流行歌手として、レコードも売れラジオでもよく聞けるようになりました。青森市でのコンサートの時は、私の家に泊まり、その晩は夜遅くまで話に花が咲き次の日は私の家からまっすぐ劇場の楽屋に行ったものでした。私は物珍しいのでそのまま楽屋に付いて行き、舞台のソデからステージをみるようになりました。その頃の楽屋の様子はひどいもので、舞台の裏には雑多な板や、張りぼての芝居道具やらあちこちにいっぱいあり、その脇をトイレの匂いがするうす暗い所を通って行くような所もありました。冬など舞台のソデから客席を覗くと、ぬくぬくとオーバーに襟巻きなのに歌手の方は裸に近いドレスです。私はのり子さんの毛皮のオーバーを持って歌い終えるとサッと包んであげるのが私の仕事になりました。私が女学校の2年生の頃、のり子さんも在学生であったということから学校の講堂でリサイタルをすることになり、当日学校に着いたのり子さんにいつものようにくっついていて、校長室でお茶の接待を受け、記念写真も真ん中に座り、今思うと赤面です。その頃、のり子さんの父親は身代をつぶし、何人目かの女性と仙台におりましたが若くして亡くなり、のり子さんが遺骨を欲しいと云ったら世話をした分のお金を要求されました。かなりの金額が動いたと聞いています。今、父親は青森のお墓で眠っております。DSC_2810_edited-1


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2017年09月13日

「淡谷のり子と私・1」 〜とし〜

 昔、青森市寺町にダイゴ(大の真ん中に五の字が入っていた屋号)という大きな呉服屋がありました。そこの惣領息子は商売が嫌い、酒と女は大好きという時代劇にでも出てくるような息子だったそうです。親類が集まって、嫁でももらったら落ち着くかもしれないということになり、そこで白羽の矢が立ったのが私の母の姉すなわち叔母だったのです。本人の気持ちなどまったく無視され、年端もゆかないまま嫁ぎ、それでもしばらくして女の子が二人生まれました。上の娘はのり子、下の娘はとし子です。のり子が青森の女学校に入って間もない頃、とうとう叔母は二人の娘を連れて淡谷の家を出て上京し、親子三人で生きる道を選んだのでした。その頃は嫁が子どもを連れて家を出て生活をするということはとんでもないことで、世間に家の恥をさらすことになり、青森での暮らしはとても出来ない時代でした。その頃、私の父は市内の新聞社に勤めており、少ない給料の中から、ボーナスの時は少し色をつけて毎月送金していたとのことでした。大正12年に私が生まれ、その年の9月にあの関東大地震でいた。父は背中に背折れるだけの米と油紙に包んだ味噌を背おい上京し、焼けだされた親子をみつけたのでした。あとあとまで、叔母は本当に助かったといくどもいくども云っておりました。やがて、のり子は東洋音楽学校へ進み、卒業の際にはすぐにお金になるように勧めてくれた人もありコロンビアにはいることになったのです。DSC_2817_edited-1


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2017年09月08日

「三年過ぎました」 〜りょう〜

 やっと三年を終え、私のむつ総合病院への検査も半年に一回になりました。今までは三ヶ月ごとだったのです。産婦人科の待合室で覗き見た患者さんの人生も、小説家だったらさぞ筆も進んだことでしょう。「○○さーん、一番にどうぞ」の声に20代のふっくらとした方が立ち上がりました。「日本語わかりますか?」と看護師さんの問いに頭を振り無言です。入院手続きの書類を手に今にも泣きそうです。「分かるところだけ書いてネ」といわれてもジーっとしているだけ。どんなに心細いことでしょう。何があったのでしょう。胃がキューとしてきました。「ナシテ、ワ、コゴサイルノ?どうして、わたしはここにいるのですか?」大きな声がしました。介護施設のユニホームを着た若い方が、車いすの老婆に「シーッ」と合図します。耳元にささやいているのですが、又大声で叫びます。どうやら認知症の患者さんのようでした。すぐ横を小さな赤ちゃんを片手で抱いて、もう片方の手は彼女と・・。ペアが来ました。サンダルに半ズボン。腰にはジャラジャラと鎖。待合室はまさに人生。トホホホ。DSC_2813_edited-1


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2017年08月17日

「神楽」 〜りょう〜

 今年も盆がやってきました。お墓にお花を活け、お寺さんにも納めるものを納め後はお祭りの準備が始まります。ユースのあるここ瀬野部落にも神楽が家々を廻ります。太鼓のペコン、ペコンのお囃子がだんだん近づいてきました。もうすぐ我が家です。今年は94歳になった母も神楽をお迎えしたいということでスタンバイ。道行く人が「あれー、おかっちゃん!」とびっくりしたように声をかけてくれます。そのたびに「今日は生存証明のようなものダベ。たまに外の空気を吸わないと」と云うわたしにみんながニコニコ。久しぶりの青空も手伝いのんびりした空気が流れました。神楽がやってきました。無言でお辞儀をする慣習なのですが、「いやー、おかっちゃん、元気デラガ?」と太夫が母に一言。「おかげさまで」と頭を下げる母を横で見ながら、母が元気で良かったとしみじみ感じました。来年は? 再来年は・・? 考えるのはやめましょう。晴れたのはあの時の1時間だけ。今日も雨。奇跡のような青空でした。_DSC1700


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