2011年03月
リーグ戦も3試合を終え、とりあえず連勝。
3試合で2失策3失点というのも、まずまずの出来だと思います。
攻撃面で課題が残るものの、良いときもあれば、悪いときもあるのが、バッティングの難しいところ。守備面がしっかりとしていれば、秋のような快進撃も期待できるでしょう。
新年度が近いということで、校務によりグラウンドに出られない時間が増えていることが、少し気がかりなところです。
しかし、生徒が行う高校野球ではなく、学生が行う大学野球です。
生徒は教育を受ける人。学生は学業を修める人。
高校野球の監督は、前から引っぱる。大学野球の監督は、後ろから押す。
つまり、高校野球と大学野球の違いは、受身か否かという点です。大学野球では、自ら考えて行動することを覚えなければなりません。
顧問がグラウンドにいないときの全体練習、全体練習を終えてからの個人練習、自宅での過ごし方によって、チームの方向性は決められていくでしょう。
写真は、大学3年生のときの私です。
仕事や所用で3日留守にしている間に来客がありました。チームが強いときでも、弱いときでも、どんなときでも変わらない応援を続けてくれる方です。
いつも大型バイクまたは高級車で、疾風(はやて)のように現れます。サングラスに革ジャン、ときには金のネックレス。
おいしいパンや、お母様の作られる特製キムチ、花瓶など、贈っていただいたものは、数えたらきりがありません。
今回、いただいたものは、読売ジャイアンツの春季キャンプ用の帽子です。これは、身内しか手に入れられない、たいへん貴重なものです。
ひさしの裏には、希望入団枠(ドラフト1位に相当)で、読売ジャイアンツに入団した選手の直筆サインが…。背番号は28です。
偉大なる来客は、読売ジャイアンツ・金刃憲人投手のお父様・朝則さんでした。前任校で監督をしていたときには、遠征の企画、励ましの言葉など、多くの助けをいただきました。
私には、兄はいませんが、今でも兄のように慕っている方です。
甲子園に出場したときには、仕事を休み、ずっと私たちの傍にいてくれました。
新年度が間近となり、大学では、新入生の入学前指導、在学生の履修ガイダンスが行われています。窓の外から、学生たちの笑い声が絶え間なく聞こえてきます。
一年前、本学へ赴任する前に、初めてここを訪れたとき、とても温かい大学だなという印象をもちました。
その後も幾度か足を運ぶたびに、いずれも暖かい陽気であり、そのことも大きく影響していたとは思うのですが、いつでも心の中がぽかぽかと温かくなったことを覚えています。
以前にも、高校教員として、教え子の進学する(した)大学を訪れたり、学会などでさまざまな大学を訪れていたので、その温かさが錯覚ではないということは、すぐにわかりました。
何が温かいのか、よく分かりません。なんとなく温かい大学なのです。
その温かさに守られて、無事に一年が過ぎようとしています。
なお、明日から、仕事で家を空けるため、3日間ブログをお休みいたします。

リーグ戦に向けて、すべての試合を消化しました。
今日の試合は、エースが5回を無失点で切り抜けたものの、その他の投手が失点したため、敗戦。
投手陣の不調を凌ぐ攻撃力が必要だと感じました。
一方、守備力については、基本どおりのプレーが続き、安定感が増しているように思われます。
高校野球のときに比べて、校務によって練習に出られる機会が制約されており、選手に申し訳ないという気持ちと、歯がゆい気持ちでいっぱいです。ただし、ここまできたら、ジタバタしても始まりません。選手の自主性を信じるのみです。
試合を終えて、大学にもどり、反省練習。負けたあとに練習したことが、のちのち力となっていくはずです。
私は、人より多くの屈辱感を重ね、今日まで生きてきました。そのおかげで、少しのことには動じない強い精神力を身につけたようです。
選手たちも、悔しい気持ちを重ねながら、しだいに強い男になっていくはずです。
みなさん、野球の神様っていると思いますか。
努力している選手の打球が、野手の間に落ちてヒットになったりすると、野球の神様はいるのだなと感じました。
夏の大会で、控えの選手であったキャプテンをスタメンで使い、彼がそのとき、高校生活で初のホームランを放ったときにも、野球の神様はいるのだなと信じました。
昨秋のリーグ戦で10勝のうち4試合をサヨナラで勝ったときにも、野球の神様いるのだなと思いました。
リーグ優勝を終えたオフシーズンに、家族で奈良県にある洞川(どろがわ)温泉に行きました。宿の近くの山を登りながら、「野球の神様って本当にいるのかな」と、いつのまにか、またそんなことを考えておりました。
このとき、野球の神様がいるということを確信できる奇妙な体験をしたのです。
話のつづきを聞きたい方は、いずれお会いしたときに。
今日は、近畿学生野球連盟の監督・主将会議(および審判講習会)があり、奈良産業大学に行ってきました。
「米子松蔭の・・・」「そうだよ」「自分は鳥取の高校なんです」「あっ、S高校の?」「はい」「覚えてる覚えてる」「HAGOROMOの監督になっているから、びっくりしちゃって」「こっちも予想していなかったよ」。
構内で、高校野球の試合で対戦したことのある学生と出会いました。
「キャプテンになったんだ」「ええ、まあ」。
監督・主将会議では、初めに、大塚製薬(株)によるアミノ酸摂取についての講話(アミノバリューのCM)を聞き、つづいて、間もなく開幕する春季リーグ戦における学生スポーツ選手としての心構えを学びました。
ちなみに、近畿学生野球連盟には、勉学に熱心な大学が多く、「文武両道」を追求しようとする稀有な連盟です。
夕方には、自宅にもどり、浜寺公園をランニング。
公園には、春の匂いがたくさん漂っておりました。
休養日の今日は、近畿大学生駒総合グラウンドに行ってきました。
近畿大学産業理工学部(福岡)と近畿大学工学部(広島)の試合を観戦。
産業理工学部のマスクをかぶるのは、教え子のOくん(新2年生)です。
試合前、Oくんが挨拶に来たとき、思わず出た言葉は、「ひたむきにやれよ。高校野球のように」でした。
初回、一礼してから、キャッチャーズ・ボックスに入るOくんでした。
高校時代のコーチの教えを守り、泥のついたボールには、かならず両手でコネてから、投手に返していました。
背番号27は、22と並んで、捕手のエースナンバーです。
ファーストストライクから積極的に打っていくところは、昔と変わりありません。あらゆる場面でも、全力疾走を怠りませんでした。
スローイングもバウンド捕球も、成長の跡が見られました。
先発投手の不調をリリーフ陣がカバー。中盤以降は、大きな声を出して、リリーフ陣の良さを巧みに引き出しておりました。
試合後のミーティング。
第2試合は、全国制覇の実績もある近畿大学(本校)が相手でした。
監督の仕事は、野球を通じて人間教育を行うこと。勝つ喜びを教えること。後継者を育てること。などと多岐にわたりますが、忘れてはいけないのが、教え子の成長を見守りつづけることだと思っています。

私は「東京生まれの横浜育ち」です。
このフレーズがとても気に入っているので、いつも好んで使っています。
ところが、人生の中で最も長く暮らしたのは、じつは米子なんです。
13年間もおりました。
現在、横浜に実家があるので、ふるさとは横浜だと言えるでしょうが、第二のふるさとはと聞かれれば、とうぜん米子と答えるでしょう。
1年前に大阪へ移ってからも、たびたび米子の街を訪れています。
1回目は、6月に教え子の結婚式。
2回目は、その翌週に前任校のグラウンドに黄泉がえり(ノックとミーティングをしました)。
3回目は、夏休みのキャンプ。
4回目は、11月に教え子の結婚式とラジオ出演。
5回目は、1月に家族旅行(皆生温泉と大山スキー)。
そして、近々、仕事と所用で、また米子に帰ります。
1年間に6回も。2ヵ月に1回のペースで、米子に「帰る」こととなりました。
ちなみに、大阪へ向かうときは、「帰る」ではなく「もどる」と言うことにしています。
4月の終わりにも、教え子の結婚式のスピーチを頼まれているので、またまた米子に帰ります。
写真は、DARAZ FM 『GENSHINのBOZU-CAFE』の収録風景
【http://blog.zige.jp/genshin-bo-zu-cafe/kiji/173948.html】と、
米子から松江・出雲に足を延ばして、映画『Railways』に出てくる一畑電鉄(通称バタデン)に乗せてもらったときの様子です。
大阪は暖かい日が多くなりました。米子は昨日も雪が降っていたようですね。
昨年の6月11日、私は神宮球場にいました。
教え子のNくんを応援するためです。
Nくん(新4年生)は創価大学の硬式野球部に所属し、昨春のリーグ戦では、正選手として、リーグ優勝に貢献。そして、この神宮に駒を進めたのです。
対するは東洋大学。いずれ、この大会では優勝を果たすチームです。
全日本大学野球選手権大会の準々決勝だというのに、神宮球場のスタンドには、空席が目立ちました。高校野球の都道府県大会より、観客は少ないように思われました。
札幌に在住の作家・酒井明さんは、野球を文学に例えるならば、高校野球は大衆文学、大学野球は短歌や俳句であると著していました。なるほど、そうなのかもしれません。
野球の技術レベルは言うまでもありません。甲子園より、神宮の方が格段に上でした。そして、なんといっても甲子園を凌駕していたのは、その行動レベルです。
両大学とも、内野ゴロはすべて一塁へ全力疾走。外野フライならば二塁まで全力疾走。凡打のあとにベンチまで全力疾走。コーチャーまでもが全力疾走。技術面・行動面のすべてにおいて、甲子園以上の野球が観られたのです。
Nくん(背番号24)は、その日は相手投手(サウスポー)との兼ね合いもあり、試合には出場しておりませんでしたが、塁上に残った選手のグラブを届けに全力疾走をしたり、いま行うべきことを精いっぱいやっておりました。
彼が打席に立ったならば、出身高校の校歌をうたおうと、スタンドの最前列に座り、その機会をうかがっていたのですが、残念ながらその思いは叶いませんでした。
6月、また応援に行きます。
高校野球より感動できる大学野球のヒントを求めて神宮へ。
今年も創りました『光と影』。野球部の1年間の活動を綴った記念誌のことです。
本学では初の記念誌となります。
しかし、大学4年生のときに、まず1冊。鹿島学園高校で3冊。米子商業・米子松蔭高校で13冊つくっております。したがって、今回の『光と影』は、通算18冊目となりました。
いつもは、自ら印刷機で原稿を刷り、製本だけ業者に頼むという形で創っておりましたが、今回は大学に配慮していただき、印刷も製本も業者に頼むことができました。
頼んだのは、父親の跡を継いで印刷業を営んでいる大学野球部時代の同級生。大学時代の記念すべき1冊目も、実はその会社で創っていただきました。
全部で200冊。
100冊を本学の教職員に、35冊を野球部員に配りました。
残りの65冊を、各高校または、お世話になった方々に、これから配布しようと思います。
浜寺昭和小学校および浜寺小学校が編成する4チームの総当り戦が行われました。
息子は3試合とも一塁コーチャー。「ワンアウトやで」と、チームに馴染もうと、不慣れな大阪弁を使っておりました。
息子の大阪弁を初めて聞きました。転校生である息子は、大阪で生きる術として大阪弁を覚えようとしていたのかもしれません。
息子をソフトボールチームに入れたのは、友だちを多く作って欲しかったから。
4名の卒業生は、転校生として大人しくしている息子に対して、たくさん声をかけてくれました。ありがとう。おかげで、やんちゃな同級生にもまれながらも、息子はこの一年間で、もの凄くたくましくなったような気がします。
卒業生のみなさん。
浜寺南中学校の野球部に入ってからも、大いに活躍してください。
今朝、なんとか直接的に間接的に親類・知人と連絡をとることができました。そして、みんなの無事を確認しました。
地震がおきたとき、母親は、修理を終えた車に乗って帰宅しようと、エンジンをかけたところだったそうです。「車がブルブルゆれて、修理できていないじゃないの」と、クレームを言ったあとで、地震だと気づいたそうです。
美容師をしている妹は、偶然にも午後の仕事を休み、自宅にいたそうです。横浜でも、かなり大きな揺れが長く続き(5分くらいに感じたそうです)、たんすや棚などの扉や引き出しはすべて開いて、家の中は大変な状態だったといいます。高校を卒業したばかりの長女(姪っ子)は、あまりの恐怖に泣き叫んでいたということでした。妹は、長女を一人にしておかなくてよかったと言っておりました。
専門学校の教員をしている義弟(妹の夫)は、卒業式を終えたあと、ホテルで謝恩会の最中だったそうです。けっきょく、生徒とともにそのホテルに泊まり、いま横浜の自宅へ帰っている途中です。
津波が襲った北海道の港で漁師をしている大学野球部時代の同級生に、けさ連絡をとると、いま船の損壊を避けるために、船に乗り沖に出ているということでした。こういった場合、港より沖のほうが安全なようです。
私は昨日、午前中の練習を終え、午後は、研究室で練習試合のデータ整理をしておりました。そのとき、突然くらくらと目まいが。じつはそうではなくて、地震だったのです。
そのまま、2時間くらい仕事を続けていると、学内に「津波注意報」のアナウンスがありました。そこで、自宅に電話して、日本列島が大変なことになっていると気づき、すぐに帰宅したのです。
大津波警報が発令されている和歌山から通っている野球部員もいることから、部員の安全面を考えて、今日の全体練習は中止としました。
阪神・淡路大震災のときも、同じような気持ちになりましたが、「野球やっている場合か?」と、テレビのニュースを見るたびに、いま自分がしていることの小ささを感じずにはおれません。
鹿島港に津波が来ました。鹿行(ろっこう)大橋が崩落しています。鹿島のみんなは大丈夫なのですか?
横浜に住む両親・妹弟ともまったく連絡がとれません。
心配で心配でなりません。

「たった一日ですっかり変わってしまうこともある」。
前任校において、新入生に配られる国語の教科書の、初めに出てくる作品名がこれでした。
昨日は大敗。
今日も他連盟の?部リーグに所属するチームとの対戦。きびしい戦いになることが予想されました。
そこで、今日の試合のテーマとして、選手に課したのは、
①ピッチャーゴロでも、一塁へ全力疾走をすること。
②外野フライ(走者なしのとき)は、二塁まで全力疾走をすること。
③凡打のあと、ベンチまで全力疾走をすること。
その3点でした。
プレーを変えたければ行動を変えよ、です。
第一試合は、主力同士の激突。
終わってみたら1−1の引き分け。
再三のピンチを見事な併殺(3つ)で切り抜けました。
ゲームセットの瞬間、選手にかけた言葉は「ナイスゲーム」。
第二試合は、どちらも新入生が多く出場。こちらの方は大敗しました。
「たった一日ですっかり変わってしまうこともある」。
チームに力がついてきた証拠かもしれません。
ちなみに私がしている手袋は、前任校の元部長I先生からいただいた大切なものです。
今季はじめての練習試合の相手は、昨春、神宮大会に出場したO大学。
O大学には以前、前任校の卒業生が2人お世話になっていました。「彼らが、このグラウンドで汗を流していたんだなあ」。グラウンドに到着したとき、そんなことを考えていました。
O大学は新入生をふくめて総勢159人。一方わがチームは4学年あわせても30人しかおりません。
140km/h超の速球に、くらいついていく選手たち。ピッチャーゴロでも一塁へ全力疾走する選手たち。
K高校の監督時代、2,3年生12人で、大人数のチームを次々と倒していったときは爽快でした。
今日は、そんな風に上手くはいきませんでしたが、必死にくらいつこうとする姿勢が、今後の人生につながるはずです。
明日も強豪大学とダブルヘッダー。どんなくらいつき方をしてくれるのか楽しみです。
大学は高校とちがい、教員朝礼というものはありません。教員は、授業や会議に合わせて、各々が都合のよい時間に出勤します。
一見、楽なように思えますが、時間を自分で管理するのは、容易なことではありません。ともすれば、怠惰な方向へと流れてしまう危険性をはらんでいるからです。
私の場合は、足かけ20年にわたり、高校教員として教壇に立っておりましたので、遅くに出勤するという生活には、どうも馴染めませんでした。
そこで、生活のリズムを守るために、1時間目に授業があろうとなかろうと、昨年度までと同じように、8:30くらいには出勤し、授業の準備をしたり、研究の資料に目を通したりして、朝の時を過ごすようにしてきました。
6月末からは、とつぜん野球部の監督を務めることになり、帰宅は19:00を過ぎることが多くなりました。8月〜9月、2月〜3月という、授業がなくなり、大学教員が最もゆっくりできる期間も、朝から野球部の指導をすることとなり、夢に描いていた「のんびりとした生活」は、やはり夢と消えました。
ひきつづき、キャンプのレポートです。
キャンプ終盤の朝、海に向かって目標を叫びました。
マネージャーに続いて私も…。
「監督の朝西です。目標は、羽衣国際大学の野球部員を立派な社会人に育てあげることです。それから、もうひとつ。はやく昇格して、竹之内総監督を安心させることです」。
ウォーミングアップの中で、ときにはスライディングの練習もしました。
午後は打撃練習が中心でした。
毎日の終わりには個人練習。
最終日には、シート打撃も行ないました。
キャンプは無事に終了。グラウンドに挨拶する竹之内総監督と選手たち。
最後に、マウンドに集まって三本締めです。みんなでリーグ2連覇と昇格を誓い合いました。今年のキャンプは大成功といったところでしょうか。
初めて大学野球部のキャンプを体験。
私も人間として、少し成長したような気がします。
夕陽を背に大阪へ。今シーズンもがんばるぞ!
悲しいとき・・・、夕陽が沈んだとき・・・。おわり。
6:30起床
7:00散歩・ストレッチ
8:00朝食
9:20球場へ移動
10:00ウォーミングアップ(ストレッチ、ランニング、ストレングス、ダッシュ、倒立、補強ストレッチ、ランニングキャッチボール、キャッチボール、クイックキャッチボール、中継キャッチボール、ペッパー、バント)
11:00守備練習(ボールまわし、投内連係、ピックオフプレー、シートノック)
12:30昼食
13:00打撃練習
15:00個人練習
16:00宿舎へ移動
18:30夕食
19:30ミーティング
20:30素振り、シャドーピッチング
21:00入浴
22:30就寝
このような毎日を送ってきました。
合宿の様子を明日から少しずつ紹介していきますね。


















