2011年09月
中日ドラゴンズ・落合博満監督の退任を知り、落胆しています。
1994年、西武ライオンズをリーグ優勝に導いた直後の森祇晶監督の退任。
1995年、千葉ロッテマリーンズを2位に躍進させたあと(たった1年間指揮を執っただけ)のボビー・バレンタイン監督の退任。
2009年、東北楽天ゴールデンイーグルスを2位に押し上げての野村克也監督の退任。
プロ野球では不可解な人事が多すぎますよね。
いや、まてよ。一般社会でもそのことは当てはまるでしょう。
何かに本気で取り組んだことのない経営者は、部下のもつ正義の剣を正面から受け止めるだけの盾を持ち得ないのかもしれません。
そういった経営者は、前任者(部下)の功績を忘れ、それ以上のことを求めてイエスマンを募り、結局はそれ以下のことしかできない組織に没落させてしまうのです。
息子が中日ドラゴンズを応援している影響もあってか、最近では中日ドラゴンズの野球にたいへん興味をもつようになりました。落合監督ひきいるドラゴンズの野球は、とても面白かった。
落合監督が退任したら、以前のように、プロ野球への興味は失せるでしょう。
人間の価値は、その人がいなくなってから分かるといいます。
中日球団は、取り返しのつかないことをしてしまったと、あとから気づくはずです。
今は、落合ドラゴンズのリーグ優勝、日本一を祈るしかありません。
堺市に暴風警報が発令されたため、大学は休校。野球部の練習も中止となりました。ところが、すぐにしなければならない仕事があったからです。
9/25(日)から鹿屋体育大学(鹿児島)で開かれる「日本体育学会第62回大会」で、研究発表を行うことになっています。
演題は『高校野球における特待生についての研究』です。
練習を終えたあとは、肉体よりも、精神の方が疲れてしまい、脳がうまく働きません。よって今日は、発表の準備を終えるのには、絶好の機会だと考えました。研究をするには、心の余裕が必要なのです。
前任校では、指導12年間で、137名の卒部生を送り出しました。
卒部生を技能特待生(64名)と非技能特待生(73名)のグループに分け、それぞれの高校通算成績を合計してまとめ、打撃成績では「打率」「仕事率」、投手成績では「防御率」「勝率」を、両グループ間でそれぞれを比較するという研究です。
外からは、大きな雨音、激しい風音が聞こえてきます。
しかし、学内には学生がおりませんので、静かな気持ちでパソコンに向かうことができました。
野球選手が、ズボンの裾をだらんと伸ばして履くようになったのは。
どう考えても、それはみっともないことでしょう。
長嶋茂雄は、ズボンの裾を伸ばして履くようなことは絶対にしませんでした。
ズボンの裾をきっちりと内側に折り曲げ、折り曲げた裾の先端がふくらはぎの最も太い部分にくるように履く。
そこには、くだらない流行に負けることのない信念が宿っているような気がしてなりません。
いつの頃からかでしょうか。
世の人々がシャツの裾をズボンの外に出して着るようになったのは。
どう考えても、それはだらしのないことでしょう。
私は、ユニフォームの最も美しい着こなしは、「長嶋茂雄の着こなし」だと考えています。シャツの裾も絶対にズボンの中に入れる。
くだらない流行には負けないようにしています。

米子にいたとき、住んでいるマンションの前には、皆生バッティングセンターがありました。
にもかかわらず、息子は小学4年生になっても、本格的に野球をしていなかったため、目の前にあるバッティングセンターに行くことは、ほとんどありませんでした。
ほかの子供たちに、毎にち野球を教えているというのに、高校野球監督が肝心の息子に、野球をまったく教えていないという状況だったのです。
大阪に越してきた5年生になってから、ソフトボールチームに入り、バッティングセンターに行くことが増えました。
はじめのころは、1ゲーム中バットに当たる回数も片手で数えるほどでしたが、今日バッティングセンターに連れて行くと、3球のうち2球はバットに当たるようになっていました。
チームメートの足を引っ張らないように、今がんばっているところです。
小学生のとき、テレビドラマ『熱中時代』に夢中になりました。
水谷豊が演じる小学校教員・北野広大にあこがれ、その走り方を真似たりもしました。
「自分もいつか小学校の先生になりたい」。
今日は、念願だった小学校の先生となりました。
堺市・教育アシスタントとして、体育の授業の中でソフトボール投げの指導をしたのです。地域貢献・社会貢献も大学教員の仕事のひとつです。
「足をつかって投げる」「ボールを放すときに声を出す」「投げた方向に背中を向ける」。
この3点だけを考えて投げなさいと指導しました。
授業の最後に、「いつもより遠くに投げられた人?」と聞くと、8割以上の児童が手を挙げてくれました。
5時間目のたった45分間の北野広大。
授業が終わったあとは、汗だくになっていました。
http://www.youtube.com/watch?v=pn7tuYxnGnY&feature=related

ふたたび京都学園大学と練習試合をしました。
神宮に出るようなチームと試合ができるわがチームは、本当に恵まれていると思います。
米子松蔭高校監督時代の教え子である稲垣将大くんは、今日も挨拶に来てくれました。
京都学園大学は、秋季リーグ戦を4勝0敗。主戦投手の稲垣くんは、2試合連続の零封と、MVPをとった春の好調をそのままキープ。リーグ3連覇に向かって邁進しているところです。
私は「信頼している者には、厳しく叱る」。ウチの選手にそう話しました。
怒鳴られている選手は、私に信頼されていると考えてください。
稲垣くんが高校生のとき、厳しく叱りました。
みなさんの想像をはるかに超えるレベルでです。
そのときは、私のことを恨んでいたでしょう。憎んでいたでしょう。
すぐに分かることは大したことではありません。
あとから分かることが大したことなのです。
稲垣くんは、高校時代、あと一つ勝てば甲子園(センバツ)というところまで行きました。前に会ったとき、「高校時代の悔しさが神宮へとつながった」と話してくれました。
稲垣くんが、野球選手として大きく成長していることは周知の事実です。
しかし、私は、彼が人間として大きく成長していることのほうが、うれしくてしかたありません。
「あとで稲垣にあげるものがあるから…。ゲンコツじゃねぇぞ(笑)」。
私の贈り物は「鳥取県応援Tシャツ」でした。
今日もグラウンド整備をありがとう。
鳥取県出身者として、プロ野球選手を目指してがんばってください。 

先日、「堺相撲選手権大会」が行われました。
「堺相撲選手権大会」は、「わんぱく相撲堺大会」「堺市種目別優勝大会」とならんで、堺市の大きな相撲大会のひとつです。
息子(写真左)は、この2年間で大会にそれぞれ2回ずつ、計6回出場し、5個のメダルを獲得しました。
内訳は、銀メダル1個、銅メダル4個です。
横綱マツダくん、大関キタヤマくんの前に屈し、とうとう金メダルの獲得はなりませんでした。
それもそのはず、両者は相撲クラブで真面目に鍛え上げているからでした。
素人が金メダルを獲得できるほど、相撲の世界は甘くないのです。
ソフトボールでも、メダルは銀。
どんな種目でも、金メダルを獲得することは困難です。
10月上旬に行なわれる「堺市民オリンピック」のリレーの選手にえらばれました。
金メダルを目指してがんばるようです。
試合は、8回を終えて0−2。敗れれば、早くも自力優勝がなくなるという土俵際まで追い詰められました。
ところが、平井さんのラストシーズンとなった4年生の秋に、5度のサヨナラ勝ちをふくめて10連勝したときと同じように、最終回の二死から同点打。延長で勝ち越し。3−2で勝利を収めました。
監督に就任して以来、リーグ戦の1点差ゲームは、これで8勝0敗。
「去年みたいなゲームができたな」「見ていて思わず声を出しそうになりました」。
平井さんは勝利の女神です。
根拠はありませんが、私には感覚的にそれが分かるのです。
そこにいるだけで、みなが安心して戦えるような、奇跡がおこるような、そんな雰囲気をもっている女性なのです。
これから毎試合、応援に来てもらおうかな(笑)。

「スポーツ推薦入試」「AO入試」が行なわれました。
試験の仕事を終えると、職員の方から「先生の教え子さんが来られております」と促され、受付の横にあるエントランスへ向かうと、横浜義大くんとそのお父様がおられました。
前任校の教え子である横浜くんは、現在は堺市に住んでおります。
お父様も、私の前任校の野球部のご出身です。卒業後に進まれた新日鉄堺では、エースナンバー「18」をつけるほどの名投手でした。元メジャーリーガーの野茂英雄投手は、後輩にあたるそうです。
したがって、横浜くんも、生まれてから小学3年生までは、堺市に住んでいたということでした。つまり横浜くんは、生まれ故郷にもどってきたというわけです。
堺市の大学に私が赴任してきたことも、何かの縁なのかもしれません。
横浜くんは、終始緊張の面持ちでした。
彼が高校生のとき、とても厳しい指導をしてきたからでしょう。
しかし、大学野球をやり遂げ、社会人野球に携わり、結婚もして、父親となり、今こうして挨拶に訪ねてきてくれることは、高校野球の監督をしていた身としては、とても幸せなことです。
教え子に恥じない生き方を、これからもしていこうと思います。 
午後から、息子の授業参観がありました。
平日ということで、周りはお母さんだらけ。
6年生は堺市の「連合運動会」が近いということもあり、4クラスそろって体育の授業となりました。
校庭で、ダッシュの練習、体力づくり。そして、クラス対抗の綱引き。
授業の最後、クラスごとに親VS子の綱引きがありました。綱引きは、体重がものをいいます。4クラスとも、親チームが勝利しました。
父親の数が少ないため、私は4試合すべてに参加。身ぶり手ぶりで「かかってこいや」などの演出を加えながら、最前線で綱を握り、試合を盛り上げてみました。もちろん、最後にガッツポーズを入れることも忘れてはいません。
息子は私のことを「酔っ払っている人みたいだった」と。
もちろん酒など飲んでませんし、あくまで芸人としての演出でした。
授業参観の撮影は禁止されておりましたので、授業前の休み時間に、遠くから息子を撮影したものを掲載いたします。
富士大学には、前任校の野球部員が4名も特待生として入学、そして卒業させていただきました。
伊藤さんと、特待生のうちの一人である横浜義大(よしひろ)くんは、富士大学野球部の同期生です。
横浜くんは、高校のとき、四番打者として活躍。中国大会にも出場しております。富士大学のセレクションでは、遠投120mを放り、周囲を圧倒したそうです。大学卒業後、NOMOベースボールクラブでは投手として、140km/h超の豪速球を武器に活躍。引退後は結婚して、最近こどもを授かりました。
教え子の友だちが、いま私の近くにいる。
前にも言いましたが、野球の世界は広いようでいて、意外とせまいものです。
せっかく大阪に住んでいるのですから、時間があるときには、息子と大阪・京セラドームで試合を観ることにしています。
近鉄バファローズは、西本幸雄監督のもと、昭和54(1979)年、昭和55(1980)年にパリーグを制し、日本シリーズでは、いずれも広島カープと激戦をくりひろげました。
その後、平成元(1989)年には仰木彬監督のもと、平成13(2001)には梨田昌孝監督のもとで、リーグ優勝を果たしています。
4度の日本シリーズでは、すべて敗退しているのですが、逆にその悲劇性が、大阪に根強いファンをもつことにもつながったようです。
やはり、大阪・京セラドームには、大勢の観客が詰めかけていました。
台風の影響で、本日の試合は中止となりました。
野球部は、早朝から(7:30〜)の練習を終えたあと、本日おこなわれているオープンキャンパスの「はごナビ(補助員)」の仕事、体育館に残って個人練習を行なっているところです。
以前、野球部員は、授業に出席しなかったり、学内での素行が乱れていたり、私が赴任した当時の評判は、芳しいものではありませんでした。誤解のないように付け加えれば、真面目な部員も多くいたのですが、その存在が埋もれていたのです。
野球部を立て直そうと、専任教員である私に監督の要請がありました。
私は、本学には、野球部の監督として来たわけではなく、あくまで教員(研究者)として来たわけですから、監督の要請をしばらくは断り続けていました。
しかし、学内でタバコをふかしている野球部員、廊下にたむろしてゴミを散らかす野球部員を見るにつけ、一人の野球人としての使命感が沸いてきたことも事実としてあります。けっきょくは、監督を引き受けることとなりました。
この一年半で、野球部員は、人間としてとても立派になったと思います。
時間を守れるようになった。挨拶ができるようになった。服装がきちんとしてきた。授業態度がよくなった。
多くの方々から、評価していただけるようになりました。
「はごナビ」は、大学の顔でもあるわけですから、そのうち野球部員が8人もいることは、じつに喜ばしいことです。
私は、監督である前に教員ですから、そういった練習以外の学生としての活動(授業はもちろんのこと、検定試験のための補習や、大学運営・行事に関する協力)への参加については、大いに理解を示しているつもりです。
練習試合よりも、「はごナビ」を優先させることもあります。
野球を通じた人間教育。
これからも続けていきたいと思います。

和歌山ラーメンといえば、まず「井出商店」の名前が浮かんできます。
私が横浜の実家へ帰ったときに、いつも立ち寄るのが「新横浜ラーメン博物館」。
ラーメン店が頻繁に入れ代わる「新横浜ラーメン博物館」の中で、「井出商店」は、「支那そばや」と並んで、ずっとずっとそこで店を構えています。私は、それらのラーメン店のファンです。
インカレで和歌山に行ったときに、「井出商店」に足を向けました。本店でラーメンをいただくのは、2004年12月20日以来、およそ7年ぶりのことです。
7年前、「米子松蔭高校・学校創立50周年記念・招待試合」の対戦相手を、平成の横綱・智辯和歌山高校にお願いするために、監督であった私は、部長の岩垣秀二先生といっしょに和歌山へ行ったのです。そのとき初めて「井出商店」の和歌山ラーメンを食べました。
インカレの間は、夕食のときに3回も「井出商店」に行きました。同じ味だとは思うのですが、新横浜ラーメン博物館で食べるより、本店で食べる方がおいしく感じたのはなぜでしょう。
和歌山ラーメンは、横浜ではなく、やはり和歌山で食べるのが一番なのかもしれません。


















