2013年05月
四年生8人が、リーグ戦と併行して就職活動に励んでいます。
すでに内定者も出ております。
先日、リーグ戦を欠場して最終試験に臨んだ主将も、第一志望の会社から内定をいただきました。
四年間の取り組みを正しく評価していだいたのでしょう。
挨拶などの社会的技術の高さを、しっかりと認めていただいたのでしょう。
http://blog.livedoor.jp/morning_west/archives/51857261.html
それを外から見守る監督の私(左)とコーチ(右)。

初戦は、七回まで5-0とリードしていたものの、八回に信じられないようなミスが続き、一挙5点を取られて引き分けました。負けはしませんでしたが、負けに等しい引き分けだったと思っています。
主将(背番号1)はこのとき、「学校生活とか、服装とか、みんな、もっとしっかりしよう」と真剣に話していたように記憶しています。
この実質的な敗北が、みんなの危機感を煽りました。この実質的な敗北がなければ、今回の優勝はなかったと確信しています。
まさに「敗北は最高の教師なり」です。
今日のリーグ最終戦は、5連勝中の一年生投手ではなく、別の一年生投手が先発のマウンドに立ちました。さらに、捕手も一年生が初のスタメンマスクです。
3失点で完投。一年生捕手は好リードのみならず、2安打2打点と大活躍。主将の弾丸ライナーも飛び出しました。
8勝0敗1分で、2季ぶり6回目の優勝を遂げました。
教職員のみなさま、いつも応援ありがとうございます。
四年生投手の一人が、伊丹コーチを相手に200球以上も投げ込んでいました。
伊丹コーチの選手時代の実績については、今さら言うまでもありません。
http://blog.livedoor.jp/morning_west/archives/51807404.html
そんな素晴らしい野球人に投球を受けてもらえるありがたみを、投手陣は感じ取らなければなりません。
竹之内総監督は、西鉄ライオンズや阪神タイガースなどで主軸を務め、阪神タイガースが日本一になったとき(1981年)には打撃コーチを務めておりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B9%8B%E5%86%85%E9%9B%85%E5%8F%B2
そんな素晴らしい野球人に打撃を指導してもらえるありがたみを、野手陣は感じ取らなければなりません。
鹿島学園高校の選手は、みな「先生」と呼んでいました。
米子商業・米子松蔭高校では、みな「監督さん」と呼んでいました。「先生」か「監督」でいいんだよと選手には言ったのですが、当時の主将であったアキタくんが、「監督さんは、監督さんなので、やはり監督さんと呼ばせてください。お願いします」と、絶対に譲りませんでした。
「先生」「監督」「監督さん」、どれでもよいと思います。学生が私との関係や距離を考えて、最も適した呼び方をすればよいのです。
「監督さん」と呼ぶ選手のほとんどが、本気で甲子園を狙う高校で野球をしていた者たちです。つまり、顧問と生徒が、普通の関係ではなく、監督と選手という色合いの強い、緊張感のある特殊な関係だったと思われます。
スポーツ心理学の授業の中で、私の大学時代の恩師の話をする時間があります。
http://www2.odn.ne.jp/~cir70080/kodou.html
今期4回目の授業にあたる今日が、その話をする時間だったのです。
恩師は、昨年の11月23日に他界しました。
http://blog.livedoor.jp/morning_west/archives/51857065.html
恩師の話は、すでに何回も授業で取り上げさせてもらっています。しかし、恩師が亡くなってからは、今日が初めての授業だったのです。
みんなに話し終えて感じたのは、自分の気持ちが以前と全く変わっていないということでした。
恩師は、まだ生きている。私の心の中に生き続けていることが分かったのです。
この写真は、私が恩師に肩を貸して、審判のところへ行き、ジャッジに関する質問をしてから、ベンチへ帰るシーンです。当時、恩師は、今の私と同じくらいの年齢でした。
彼らの背後には、30人の高校野球部の監督がいるのです。つまり、30通りの野球が、チームの中に混在しているということです。30通りの野球を一つにまとめるのは、容易なことではありません。
大学野球では、スタメン発表のときに出身校がアナウンスされます。「大学野球では、出身高校の看板を背負って戦う」。私が新入生によく話すことです。
したがって、主に一年生投手には、「高校の監督に教わったやり方を信じて、コンディションづくりをしろ」と、彼らが高校でやってきたことを全面的に肯定する指導をしています。
私も元高校野球監督。選手の高校時代のやり方を否定することは絶対にしません。
大学の監督は、選手が高校の監督からの教えを土台として、さらに積み上げていけるよう、アドバイスを行うことが仕事なのかもしれません。


ネームも背番号もフエルトです。どことなく、昔の鹿島学園高校のユニフォームに似ていませんか。

ニューヨーク・ヤンキースのレプリカです(starter製)。

ルー・ゲーリック、背番号4。

同じく、ニューヨーク・ヤンキースのレプリカ(starter製)。

ベーブ・ルース、背番号3。

ロサンゼルス・ドジャースのレプリカ(starter製)。

殿堂入り選手のデューク・スナイダー、背番号4。

ローリングス製オリジナルユニフォーム。

読売ジャイアンツV9時代のビジター用・復刻版(アディダス製)。数年前に東京ドームで購入しました。

こちらは本物です。1997年のビジター用(デサント製)。

このほかに、V9時代の本物のユニフォーム(ビジター用)が、実家に保管されています。
今日は、研究室はワックスがけのため、使用できません。
13時に練習を終えると、そのまま自宅に戻り、午後から衣類の入れ替えを行いました。5月に入ったので、冬物をしまい、夏物を出しました。
衣装ケースの中から、懐かしいものを見つけました。今までに着用したユニフォームです。今日は、そのユニフォームたちを紹介します。
保存している中で、最も古いものがこれでした。大学三年生のときに着用したものです(ローリングス製)。私たちのころは、強くはありませんでしたが、最近では後輩たちががんばり、この10年間で4回も神宮に出場するほどの強い大学となりました。今みると当時のユニフォームもシンプルで、格好いいですね。
初心を忘れないように、リトルリーグの時に初めてつけた背番号37を、大学一年生から三年生までつけました。37番は、私のソウルナンバーです。四年生のときに監督が代わり、ユニフォームも変わったため、このユニフォームは記念にいただくことができました。四年生のときは、選手の背番号は30未満というチームの方針により、13番へ変更となりました。ホワイトとネイビーを反転したような新ユニフォームは、チームに返却しており、手許にはありません。
山梨・帝京第三高校に勤めていたときの教職員ソフトボールチーム(のちに全国大会出場チーム)のユニフォームです(ローリングス製)。
エースナンバーをつけていますが、投手ではなく、三塁手でした。とても楽しい青春の日々でした。
茨城・鹿島学園高校監督時代のもの(ローリングス製)。前任者がデザイン。今でもとても気に入っています。「雑草軍団」の快進撃は、指導者としての誇りです。
台湾留学生チームのもの(ゼット製)。日本人選手として助っ人に(大学院時代)。このときは主に捕手として、ヨシザワ投手(現 香川高専高松 監督)の快速球を受けていました。
このユニフォームで、人生初となる柵越え本塁打を放ちました(しかも、その日2本も)。
鳥取・米子商業高校監督時代のもの(ローリングス製)。前任者がデザイン(アイボリー)。シルバーは、セカンドユニフォームとしてつくりました。
甲子園で着用したもの(ローリングス製)。「B」だけ私がデザイン。このとき、選手の意見によって、シルバー(セカンドユニフォーム)が、ファーストユニフォームに昇格しました。
米子松蔭へ校名変更したため、ネームも変更(ローリングス製)。「S」だけ私がデザイン。校名変更にともなって、校章もエンジからグリーンに変わりました。
BEISHOおよびSHOIN卒業生チーム・新撰組のユニフォーム(レワード製)。
背番号は、もちろん。
そして、現在のユニフォーム(ミズノ製)。片山皓 前コーチ(現 大阪農芸高校監督)のデザインによるものです。ネイビー、エンジ、ホワイトのHAGOROMOカラーのトライアングル、私も大好きです。
大学野球に携わってつけた背番号をすべて足すと、37+13+50=100(完全)。
ユニフォームは、チームの歴史の一部です。よって、監督になって、ユニフォームを変更したことはありません。先人の思いを引き継いで、これからもがんばります。






























