2016年11月
11月30
11月29
11月28
11月27
今年の大相撲は、ずっと苦汁を飲まされていた横綱の優勝で締めくくられました。
「手に汗を握る相撲が減っているな」というのが、個人的な感想です。相撲の時間が、あまりにも短かすぎます。立ち合い直後に、片方の力士が土俵に転がっている相撲を多く見かけました。横綱同士の取り組みでも、手に汗を握る前に、あっけなく終わってしまう相撲がありました。
子供の頃にワクワクして見た相撲とは、明らかにその質が変化しているのを感じています。「輪島-貴ノ花」の壮絶なつり合い。「輪島-北の湖」の水入りの大相撲。そういった手に汗を握る相撲は、明らかに減っています。
最近、あの頃の相撲を特集した雑誌が発行されました。昭和51(1976)年から52(1977)年にかけて、千秋楽の結びの一番で、毎場所のように優勝を賭けて戦っていた輪湖のくっきりとした足跡が、懐かしく掲載されていました。

「手に汗を握る相撲が減っているな」というのが、個人的な感想です。相撲の時間が、あまりにも短かすぎます。立ち合い直後に、片方の力士が土俵に転がっている相撲を多く見かけました。横綱同士の取り組みでも、手に汗を握る前に、あっけなく終わってしまう相撲がありました。
子供の頃にワクワクして見た相撲とは、明らかにその質が変化しているのを感じています。「輪島-貴ノ花」の壮絶なつり合い。「輪島-北の湖」の水入りの大相撲。そういった手に汗を握る相撲は、明らかに減っています。
最近、あの頃の相撲を特集した雑誌が発行されました。昭和51(1976)年から52(1977)年にかけて、千秋楽の結びの一番で、毎場所のように優勝を賭けて戦っていた輪湖のくっきりとした足跡が、懐かしく掲載されていました。

11月26
11月25
担当する新人戦も終わったので、練習中は環境整備にシフトします。
先日おとずれた卒業生のキノ君が教えてくれた「草むしりのときに、いろいろなことを考えた」という話は、とても興味深いものでした。
今日は、午前中に3時間かけて、グラウンドの奥を中心に草むしりを行いました。見えてきました。見えてきました。大学教員としての、野球指導者としての、進むべき道が。
おそらく、今まで誰も通ったことのない道だと、私は思っています。新たな目標に向かって、しっかりと準備を進めていきたいと思います。
http://blog.livedoor.jp/morning_west/archives/51808186.html

先日おとずれた卒業生のキノ君が教えてくれた「草むしりのときに、いろいろなことを考えた」という話は、とても興味深いものでした。
今日は、午前中に3時間かけて、グラウンドの奥を中心に草むしりを行いました。見えてきました。見えてきました。大学教員としての、野球指導者としての、進むべき道が。
おそらく、今まで誰も通ったことのない道だと、私は思っています。新たな目標に向かって、しっかりと準備を進めていきたいと思います。
http://blog.livedoor.jp/morning_west/archives/51808186.html

11月24
11月23
新人戦の準々決勝が行われました。






八回まで、無安打無得点に抑えられていたものの、一方的な試合展開とはなりませんでした。
二年生投手のモリカワ君が、毎回のように得点圏に走者を進められるものの、相手にも得点を与えなかったからです。

九回表、先頭打者の一年生サンドウ君が、セーフティー・バントを決め、チーム初ヒットを記録。二年生コニシ君の犠打、ワイルド・ピッチにより、局面は、一死三塁と広がり、二年生オチアイ君がスクイズを成功させ、先制点を挙げました。
しかし、好投を続けていたモリカワ君も最後につかまってしまい、残念ながら1-2で惜敗しました。
本学が放ったヒットは、たったの1本。一方、相手校は9本(うち長打5本)。内容的には、完敗でした。それでも、最終回まで接戦に持ち込めたのは、HAGOROMOの持ち味である粘りの野球ができたからでしょう。
「悔しいなあ」。私は、懐かしい痛みを感じました。







八回まで、無安打無得点に抑えられていたものの、一方的な試合展開とはなりませんでした。
二年生投手のモリカワ君が、毎回のように得点圏に走者を進められるものの、相手にも得点を与えなかったからです。

九回表、先頭打者の一年生サンドウ君が、セーフティー・バントを決め、チーム初ヒットを記録。二年生コニシ君の犠打、ワイルド・ピッチにより、局面は、一死三塁と広がり、二年生オチアイ君がスクイズを成功させ、先制点を挙げました。
しかし、好投を続けていたモリカワ君も最後につかまってしまい、残念ながら1-2で惜敗しました。
本学が放ったヒットは、たったの1本。一方、相手校は9本(うち長打5本)。内容的には、完敗でした。それでも、最終回まで接戦に持ち込めたのは、HAGOROMOの持ち味である粘りの野球ができたからでしょう。
「悔しいなあ」。私は、懐かしい痛みを感じました。

11月22
11月21
11月20
11月19
高校のとき、一学年上のH先輩から4枚のLPレコードを預かりました。
タイトルは、『帰去来』『私花集』『印象派』『うつろひ』。すべて、さだまさしのアルバムです。
H先輩には高校時代、朝練習などで鍛えていただきました。休みの日には、新宿や渋谷に連れて行っていただき、映画やハンバーガーなどを、よくおごってもらいました。
ある日、H先輩が「さだまさし、聴いてみろよ。そのまま預かっておいていいから」と、私にレコードを渡してきました。私は、先輩の言いつけどおり、ずっとアルバムを預かっています。
H先輩は、部活動を引退してからは、私の母の店でアルバイトをしていました。数年前、H先輩と連絡を取ることができ、思い出の母の店で再会を果たすことができました。
http://blog.livedoor.jp/morning_west/archives/51870761.html
「さだまさしのレコードをずっと預かっているんですけれど」「そうだったっけ。忘れちゃった。アサニシにやるよ」ということで、さだまさしの4枚のLPレコードは、正式に私のものとなりました。
久しぶりに、H先輩からいただいたレコードを聴いてみました。「キラキラしていたな俺たち。一生懸命だったな」。『うつろひ』に収められている「昔物語」の中の歌詞でした。

タイトルは、『帰去来』『私花集』『印象派』『うつろひ』。すべて、さだまさしのアルバムです。
H先輩には高校時代、朝練習などで鍛えていただきました。休みの日には、新宿や渋谷に連れて行っていただき、映画やハンバーガーなどを、よくおごってもらいました。
ある日、H先輩が「さだまさし、聴いてみろよ。そのまま預かっておいていいから」と、私にレコードを渡してきました。私は、先輩の言いつけどおり、ずっとアルバムを預かっています。
H先輩は、部活動を引退してからは、私の母の店でアルバイトをしていました。数年前、H先輩と連絡を取ることができ、思い出の母の店で再会を果たすことができました。
http://blog.livedoor.jp/morning_west/archives/51870761.html
「さだまさしのレコードをずっと預かっているんですけれど」「そうだったっけ。忘れちゃった。アサニシにやるよ」ということで、さだまさしの4枚のLPレコードは、正式に私のものとなりました。
久しぶりに、H先輩からいただいたレコードを聴いてみました。「キラキラしていたな俺たち。一生懸命だったな」。『うつろひ』に収められている「昔物語」の中の歌詞でした。

11月18
11月17
11月16
11月15
昨夕、昨春に卒業したキノ君と、卒業後はじめて会いました。
キノ君は、主務という大役を二年生の秋から、2年間 勤め上げました。
一年生の頃は、チームよりも自分を優先する言動も見られましたが、後輩ができると180度の方向転換。真っ先にチームのことを考える学生へと変身を遂げたのです。
私が彼の曲がった帽子のひさしを真っすぐにしたことが始まりのようですが、聞いて興味深かったのは、練習前のグラウンドの草むしりが、彼の考えを変えたということです。
草むしりをしながら思考する時間を持てた。そのことが彼には大きかったのだそうです。その感覚とてもよく分かります。私も、春のリーグ戦を終えてから、ひたすらグラウンドの草むしりをした時期がありました。すると、今まで見えなかったものが、見えてきたのですから。
キノ君の在学中の素晴らしい足跡につきましては、長くなりますので、また別の機会に。
学部は異なりますが、「スポーツ実習(マラソン)」の授業を受けたタニグチさんも、同期のキノ君と一緒に、元気な姿を見せてくれました。
決して、捕らわれた宇宙人ではありません。

キノ君は、主務という大役を二年生の秋から、2年間 勤め上げました。
一年生の頃は、チームよりも自分を優先する言動も見られましたが、後輩ができると180度の方向転換。真っ先にチームのことを考える学生へと変身を遂げたのです。
私が彼の曲がった帽子のひさしを真っすぐにしたことが始まりのようですが、聞いて興味深かったのは、練習前のグラウンドの草むしりが、彼の考えを変えたということです。
草むしりをしながら思考する時間を持てた。そのことが彼には大きかったのだそうです。その感覚とてもよく分かります。私も、春のリーグ戦を終えてから、ひたすらグラウンドの草むしりをした時期がありました。すると、今まで見えなかったものが、見えてきたのですから。
キノ君の在学中の素晴らしい足跡につきましては、長くなりますので、また別の機会に。
学部は異なりますが、「スポーツ実習(マラソン)」の授業を受けたタニグチさんも、同期のキノ君と一緒に、元気な姿を見せてくれました。
決して、捕らわれた宇宙人ではありません。

11月14
昨日の試合の様子です。
ふだんは陰でチームを支えている二年生を中心に、その活躍を紹介させていただきます。
ふたりの投手は、それぞれ三塁手として、中堅手として出場しました。

四回までパーフェクトに抑えられていた打線ですが、五回表の先頭打者オチアイ君のヒットから、ゲームが動き始めます。
二死三塁から、ファールで5球も粘ったあとのカツラダ君の打球は、気迫で敵失を誘い、先制点を挙げます。
二年生のモリカワ君が、気持ちのこもった投球で、5回2/3を2失点に抑えます。
一時は逆転されるものの、ナカザキ君の適時打で追いつきます。
代打の一年生アンドウ君の適時内野安打で、再びリード。しかし、すぐに同点とされます。
九回表、二死一、二塁から、代打のサカモト君が値千金の2点適時二塁打(送球の間に三進)。
さらにワイルドピッチで、この回に3点を奪います。
九回裏に1点を返されますが、モリカワ君を救援した一年生のコバヤシ君が、最後をきちんと締めくくりました。
11月13
今朝、家族から「久しぶりにユニフォームを着ている姿を見た」と言われました。
ユニフォームを着るのは、岸和田産業高校と練習試合をして以来、約3ヵ月ぶりのことでした。ふだんは、立場と役割を明確にするため、ジャージで練習に参加しているからです。
新人戦は、一、二年生のみが出場。約3ヵ月ぶりに指揮を執らせていただきました。野手を全員を使いながら、勝つことを目指さなければなりません。プロ野球のオールスターゲームみたいな戦い方になります。
スタメン10名のうち9名を二年生としました。二年生は、2人の投手を除いて、ふだんは試合に出場する機会が少なく、チームを陰から支えている者が多いので、奮起を期待してのものです。2人の投手は、新人戦は野手として出場させています。
先制点を取る。すぐに追いつかれる。さらに勝ち越される。逆転する。また追いつかれるというシーソーゲーム。八回を終えて、3-3。九回表、本学の攻撃も二死走者なし。嫌なムードが漂いましたが、安打と死球で二死一、二塁と粘りを見せます。
二年生で唯一スタメンを外れていた努力家の選手が、満を持して代打で登場。二者を還す長打を放ち、試合を決めました。最終スコアは、6-4。他の二年生の活躍は、また明日お伝えいたします。

ユニフォームを着るのは、岸和田産業高校と練習試合をして以来、約3ヵ月ぶりのことでした。ふだんは、立場と役割を明確にするため、ジャージで練習に参加しているからです。
新人戦は、一、二年生のみが出場。約3ヵ月ぶりに指揮を執らせていただきました。野手を全員を使いながら、勝つことを目指さなければなりません。プロ野球のオールスターゲームみたいな戦い方になります。
スタメン10名のうち9名を二年生としました。二年生は、2人の投手を除いて、ふだんは試合に出場する機会が少なく、チームを陰から支えている者が多いので、奮起を期待してのものです。2人の投手は、新人戦は野手として出場させています。
先制点を取る。すぐに追いつかれる。さらに勝ち越される。逆転する。また追いつかれるというシーソーゲーム。八回を終えて、3-3。九回表、本学の攻撃も二死走者なし。嫌なムードが漂いましたが、安打と死球で二死一、二塁と粘りを見せます。
二年生で唯一スタメンを外れていた努力家の選手が、満を持して代打で登場。二者を還す長打を放ち、試合を決めました。最終スコアは、6-4。他の二年生の活躍は、また明日お伝えいたします。

11月12
11/6(日)、旭川は雪から雨に変わりました。

ブランチは、われらが大学野球部のソウルフードである「よし乃」の みそラーメン。
先日、札幌に出張したサトウ先生にも「よし乃」の みそラーメンを推薦しておきましたが、旭川市民である弟によると、店によって味が違うということでした。
私たちが大学時代に通ったのは、永山店。サトウ先生にも一度、「よし乃」永山店の みそラーメンを食べていただきたかったです。
一学年上のキャプテン・イタヤさんは、大学時代に一週間つづけて「よし乃」永山店に通ったことがあるそうです。
いつも、スープまで飲み干します。

われらが大学野球部のソウルフードは他に、「うえすぎ」のポークチャップ、「とりよし」の焼き鳥といったところでしょうか。
旭川駅から1km弱つづく日本では初の買物公園(歩行者天国)も、真っ白でした。

「旭川」から「千歳空港」までは、JRを利用して2時間強。

空港までは、すんなり着いたものの、保安検査場では1時間くらい並び、出発は1時間以上も遅れ。ラーメンを食べて、文庫本を最後まで読み切って、出発を待ちました。

大阪・堺の自宅に着いたのは、その日のちょうど24時。5泊6日の長い旅は、これで【おわり】。

ブランチは、われらが大学野球部のソウルフードである「よし乃」の みそラーメン。
先日、札幌に出張したサトウ先生にも「よし乃」の みそラーメンを推薦しておきましたが、旭川市民である弟によると、店によって味が違うということでした。
私たちが大学時代に通ったのは、永山店。サトウ先生にも一度、「よし乃」永山店の みそラーメンを食べていただきたかったです。
一学年上のキャプテン・イタヤさんは、大学時代に一週間つづけて「よし乃」永山店に通ったことがあるそうです。
いつも、スープまで飲み干します。

われらが大学野球部のソウルフードは他に、「うえすぎ」のポークチャップ、「とりよし」の焼き鳥といったところでしょうか。
旭川駅から1km弱つづく日本では初の買物公園(歩行者天国)も、真っ白でした。

「旭川」から「千歳空港」までは、JRを利用して2時間強。

空港までは、すんなり着いたものの、保安検査場では1時間くらい並び、出発は1時間以上も遅れ。ラーメンを食べて、文庫本を最後まで読み切って、出発を待ちました。

大阪・堺の自宅に着いたのは、その日のちょうど24時。5泊6日の長い旅は、これで【おわり】。
11月11
11/5(土)、札幌は雪となりました。

雪が降ると、一気に景色が変わります。

繰り返しますが、前日の景色です。

この日は、4人の研究者の方の口頭発表を聴きました。学会に参加すると、自分の力不足を認識できるので、とても有意義ですね。

午後、「大通り」で、大学野球部時代の同級生のサカイ君と待ち合わせ。
大学卒業後は初めて会う(約30年ぶり)、一学年上のキャプテンの運転する車に、ふたり乗せていただき、青春の地である旭川へ移動しました。

その夜、いつも北海道遠征で練習試合をしている旭川大学野球部の秋季リーグ戦・優勝祝賀会に出席。

司会は、大学野球部の後輩でもある私の弟が務めていました。

左は同級生のウラカワ君(北海高校出身)、中央は旭川まで送っていただいた一学年上のキャプテン・イタヤさん(卒業後、日産サニー札幌で正選手として活躍)。

4年半ぶり(9季ぶり)の優勝。神宮をかけた代表決定戦は敗れてしまいましたが、来春は5年ぶりの神宮を勝ち取ってくださいね。

私は、OB会を代表してお祝いの言葉を述べました。

二次会の様子です。

生涯チームメイトなり。

昭和58(1983)年夏、南北海道大会の決勝は、北海-駒大岩見沢。
北海のキャプテンは、ウラカワ君(捕手、二年生の春に甲子園出場)。駒大岩見沢のセカンドは、ナカハラ君(三年生の春に甲子園8強)。結果は、逆転勝ちで駒大岩見沢が夏の甲子園に出場。
高校ではライバル同士が、大学ではチームメイトとなり、そして再会を果たす。野球で培った友情って素晴らしいですね。


雪が降ると、一気に景色が変わります。

繰り返しますが、前日の景色です。

この日は、4人の研究者の方の口頭発表を聴きました。学会に参加すると、自分の力不足を認識できるので、とても有意義ですね。

午後、「大通り」で、大学野球部時代の同級生のサカイ君と待ち合わせ。
大学卒業後は初めて会う(約30年ぶり)、一学年上のキャプテンの運転する車に、ふたり乗せていただき、青春の地である旭川へ移動しました。

その夜、いつも北海道遠征で練習試合をしている旭川大学野球部の秋季リーグ戦・優勝祝賀会に出席。

司会は、大学野球部の後輩でもある私の弟が務めていました。

左は同級生のウラカワ君(北海高校出身)、中央は旭川まで送っていただいた一学年上のキャプテン・イタヤさん(卒業後、日産サニー札幌で正選手として活躍)。

4年半ぶり(9季ぶり)の優勝。神宮をかけた代表決定戦は敗れてしまいましたが、来春は5年ぶりの神宮を勝ち取ってくださいね。

私は、OB会を代表してお祝いの言葉を述べました。

二次会の様子です。

生涯チームメイトなり。

昭和58(1983)年夏、南北海道大会の決勝は、北海-駒大岩見沢。
北海のキャプテンは、ウラカワ君(捕手、二年生の春に甲子園出場)。駒大岩見沢のセカンドは、ナカハラ君(三年生の春に甲子園8強)。結果は、逆転勝ちで駒大岩見沢が夏の甲子園に出場。
高校ではライバル同士が、大学ではチームメイトとなり、そして再会を果たす。野球で培った友情って素晴らしいですね。

11月10
11月9
11/3(祝)、甲子園キャプテンであるスギモリ君の結婚式に招かれました。

米子商業高校(米子松蔭高校)の教え子の結婚式に出席するのは、これで13回目。鹿島学園高校の教え子を合わせると16回目となります。教え子の結婚式に出席するのは、最高の喜びです。

約6年前、スギモリ君の弟の結婚式もここで開かれたのです。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/duswd404/marriage4.html

受付を務める選手会長のエンドウ君と副キャプテンのヤマモト君。

今年は、四番、エース、キャプテンと、甲子園組の結婚ラッシュの年となりました。

新郎と新婦がご対面。新郎は、われらがキャプテンのスギモリ君。

指環の交換をしているところです。

式を終えてから、ガーデンに移動して、記念撮影を行います。

まるで、わたせせいぞう氏のアニメーションを見ているようでした。

野球部みんなで記念撮影。当時の部長先生も来られました。

終始笑顔のスギモリ君。「とても幸せです」。心の状態がそのまま表情にあらわれていました。

彼らの学年は全員で15名(マネージャー1名を含む)。これで15名すべてが結婚を遂げました(安堵)。

スギモリ君は、三兄弟の真ん中。弟(右)も私の教え子です。念のため申し上げておきますが、スギモリ君は、ピコ太郎ではありません(笑)。

来年、彼らは、私が甲子園に行ったときの年齢に並びます。来夏、選手・保護者・顧問が集まり、同窓会を開くことが決まりました。


甲子園組への最後のスピーチは、いつもより少し長めに。なんせ大トリですから。

祝辞(要旨のみ)
私が、スギモリ君に初めて会ったのは、彼が中学三年生のとき。場所は大山町の体育館でした。
米子商業高校への進学を希望していた同級生のカネダ君と一緒に、私のところへ挨拶に来てくれたのが、スギモリ君でした。スギモリ君は、県立の進学校へ進むと聞いておりましたので、彼に野球を教えることはないのだなと、そのときは思っていたのですが、彼は学業特待生として米子商業高校に入学してきてくれたのです。
スギモリ君は、その無念の思いをマスコミに伝えます。すると、それを聞いた日本高野連が、翌年から、選手宣誓は希望する者の中から選ぶと方式を改めたのです。そして、その方式は今でも続いています。そう考えると、スギモリ君は、甲子園を変えた男だと言えそうです。
現在、スギモリ君は、私の後継者として、監督となり、部長を経て、今は副部長として母校を支えています。ヒナタ先生が、米子商業高校の部長として、私が監督として、そして彼が主将として過ごした時間の最大の名誉は、単に夏の甲子園に出場したことではありません。鳥取県出身の選手だけで、夏の甲子園に出場したことです。いずれはスギモリ君が、鳥取県出身の選手を率いて、再び甲子園に還ることを願っております。

いつものように、大声でエールを贈ります。「スギモリ本当におめでとう」。

エールを終えると、すぐに米子鬼太郎空港に移動しました。

訳あって、その日のうちに札幌へ着かなければならなかったのです。

送り迎えをしてくれたタクノ君とエンドウ君、一日ありがとう。

米子から羽田を経由して、札幌・新千歳空港へ。「霧のため、着陸できませんので、上空で待機します」「着陸できない場合は、最悪、羽田に引き返すかもしれません」。
「明日の行事に参加できないと、大変なことになるぞ」。紆余曲折ありましたが、予定より約1時間遅れて、何とか北海道にたどり着きました(安堵)。ホテルに着き、時計を見ると、まもなく24時でした。


米子商業高校(米子松蔭高校)の教え子の結婚式に出席するのは、これで13回目。鹿島学園高校の教え子を合わせると16回目となります。教え子の結婚式に出席するのは、最高の喜びです。

約6年前、スギモリ君の弟の結婚式もここで開かれたのです。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/duswd404/marriage4.html

受付を務める選手会長のエンドウ君と副キャプテンのヤマモト君。

今年は、四番、エース、キャプテンと、甲子園組の結婚ラッシュの年となりました。

新郎と新婦がご対面。新郎は、われらがキャプテンのスギモリ君。

指環の交換をしているところです。

式を終えてから、ガーデンに移動して、記念撮影を行います。

まるで、わたせせいぞう氏のアニメーションを見ているようでした。

野球部みんなで記念撮影。当時の部長先生も来られました。

終始笑顔のスギモリ君。「とても幸せです」。心の状態がそのまま表情にあらわれていました。

彼らの学年は全員で15名(マネージャー1名を含む)。これで15名すべてが結婚を遂げました(安堵)。

スギモリ君は、三兄弟の真ん中。弟(右)も私の教え子です。念のため申し上げておきますが、スギモリ君は、ピコ太郎ではありません(笑)。

来年、彼らは、私が甲子園に行ったときの年齢に並びます。来夏、選手・保護者・顧問が集まり、同窓会を開くことが決まりました。


甲子園組への最後のスピーチは、いつもより少し長めに。なんせ大トリですから。

祝辞(要旨のみ)
私が、スギモリ君に初めて会ったのは、彼が中学三年生のとき。場所は大山町の体育館でした。
米子商業高校への進学を希望していた同級生のカネダ君と一緒に、私のところへ挨拶に来てくれたのが、スギモリ君でした。スギモリ君は、県立の進学校へ進むと聞いておりましたので、彼に野球を教えることはないのだなと、そのときは思っていたのですが、彼は学業特待生として米子商業高校に入学してきてくれたのです。
スギモリ君の入学によって、野球の技術面ばかり高めようとしていた野球部員たちに変化が起こり始めます。彼に倣って、学習面や行動面も高めていこうという空気が生まれたのでした。
スギモリ君は、控え選手でしたが、「スギモリを甲子園の打席に立たせたい」という私の思いは、ナインも同じだったと思います。ついにその瞬間がやってきました。結果は、初球を打って、キャッチャーへのファールフライ。ファールフライにもかかわらず、私の教えどおり、一塁まで全力疾走を怠らなかったスギモリ君の懸命な姿を、今でもはっきりと覚えています。
彼は、甲子園の開会式で、選手宣誓をするのが夢でした。したがって、選手宣誓の原稿を作りあげてから抽選会に臨みました。当時は、出場する全49校のキャプテンの中からクジによって選ばれる方式でしたが、残念ながら、選手宣誓は別の高校のキャプテンに決まってしまいました。
スギモリ君は、その無念の思いをマスコミに伝えます。すると、それを聞いた日本高野連が、翌年から、選手宣誓は希望する者の中から選ぶと方式を改めたのです。そして、その方式は今でも続いています。そう考えると、スギモリ君は、甲子園を変えた男だと言えそうです。
現在、スギモリ君は、私の後継者として、監督となり、部長を経て、今は副部長として母校を支えています。ヒナタ先生が、米子商業高校の部長として、私が監督として、そして彼が主将として過ごした時間の最大の名誉は、単に夏の甲子園に出場したことではありません。鳥取県出身の選手だけで、夏の甲子園に出場したことです。いずれはスギモリ君が、鳥取県出身の選手を率いて、再び甲子園に還ることを願っております。

いつものように、大声でエールを贈ります。「スギモリ本当におめでとう」。

エールを終えると、すぐに米子鬼太郎空港に移動しました。

訳あって、その日のうちに札幌へ着かなければならなかったのです。

送り迎えをしてくれたタクノ君とエンドウ君、一日ありがとう。

米子から羽田を経由して、札幌・新千歳空港へ。「霧のため、着陸できませんので、上空で待機します」「着陸できない場合は、最悪、羽田に引き返すかもしれません」。
「明日の行事に参加できないと、大変なことになるぞ」。紆余曲折ありましたが、予定より約1時間遅れて、何とか北海道にたどり着きました(安堵)。ホテルに着き、時計を見ると、まもなく24時でした。

11月8
11月7
昨夜24時(今朝0時)、5泊6日の長い旅から戻ってきました。
11/1(火)、1限の授業を終えると、すぐに「羽衣」から南海電車に乗り、「難波」へ。なんばOCAT(JR「難波」)から、高速バスに乗りかえ、「米子」へ向かいました。米子へ帰るとき、いつもは自家用車を使うのですが、今回は広範囲を移動するため、自家用車は使いません。

「難波」から「米子」までは、バスで4時間弱。「米子」から、この日の目的地である皆生(かいけ)温泉までは、路線バスを使いました。

「観光センター前」で下車し、海に向かって少し歩きます。

宿泊する「皆生シーサイドホテル」に到着。

その日の皆生海岸は、人が立っていられないほどの強い風が吹いていました。

よって海は大荒れでした。

いつものメンバーと夕食。本気で闘志をぶつけ合ったライバル同士だからこそ、今こうして笑顔で再会できるのでしょう。すべての者が、指導者または選手として「甲子園」を経験しております。その日の全員の年齢を足すと、ちょうど250歳。ちなみに、私は彼らより一つだけ年上です。

皆生シーサイドホテルは、その名のとおり海の目の前に建っています。潮騒のメロディーを聞きながら眠るのは、最高のぜいたくです。しかし、その日は潮騒というよりも海鳴りを聞きながら眠りに落ちました。

11/1(火)、1限の授業を終えると、すぐに「羽衣」から南海電車に乗り、「難波」へ。なんばOCAT(JR「難波」)から、高速バスに乗りかえ、「米子」へ向かいました。米子へ帰るとき、いつもは自家用車を使うのですが、今回は広範囲を移動するため、自家用車は使いません。

「難波」から「米子」までは、バスで4時間弱。「米子」から、この日の目的地である皆生(かいけ)温泉までは、路線バスを使いました。

「観光センター前」で下車し、海に向かって少し歩きます。

宿泊する「皆生シーサイドホテル」に到着。

その日の皆生海岸は、人が立っていられないほどの強い風が吹いていました。

よって海は大荒れでした。

いつものメンバーと夕食。本気で闘志をぶつけ合ったライバル同士だからこそ、今こうして笑顔で再会できるのでしょう。すべての者が、指導者または選手として「甲子園」を経験しております。その日の全員の年齢を足すと、ちょうど250歳。ちなみに、私は彼らより一つだけ年上です。

皆生シーサイドホテルは、その名のとおり海の目の前に建っています。潮騒のメロディーを聞きながら眠るのは、最高のぜいたくです。しかし、その日は潮騒というよりも海鳴りを聞きながら眠りに落ちました。

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