すべて運動部に所属する二年生でしたが、話を聞く姿勢がとても素晴らしかったです。
むかし訪れたある高校では、皆が教室の後ろでふんぞり返って、はじめから挑発的な態度を見せている場面もありました。前に座らせるために大きな声を使ったことを今でも覚えています。
しかし、今日は真逆でした。「来たかいがありました」。あっという間の50分でした。
朝西野球をずっと応援してくれる方々に向けて、「日々の出来事」「思い出ばなし」「今の気持ち」などを綴っています(SINCE 2011/02/05)。

阪本くんは、私が本学の監督として初めて迎え入れた選手の一人です。



ところで、私の研究室は野球部員が着替えをする部室の隣の学舎にあります。私は全体練習を終えてから研究室に戻り、次の日の授業準備をして帰ることがありました。学舎を出ようとすると、阪本くんが腕立て伏せをしている場面に出くわすことが、とても多かったのです。




















夏の100回大会に合わせて、併設校に野球部が創設されます。
8年前に大阪へ来たときには、大阪の地で高校野球部の監督を務めることなど考えもしませんでした。それは、甲子園への道のりがあまりにも険しすぎるからだったのでしょう。高校野球=甲子園という考え方が、癖として残っていたのかもしれません。
しかし、本学の野球部員と接することにより、甲子園よりも、もっともっと大切なことが分かりました。プロフェッショナルとは「目の前の学生(生徒)と真剣に向き合う人(こと)」だということも。今は、ワクワクとした気持ちで、そのときを待っています。
目標を立てました。短期目標は「まずは夏一勝」。中期目標は、秋か春か夏のいずれかで「大阪ベスト8以上」。それらを達成して初めて、長期目標である「甲子園初出場」を口に出したいと思います。

昨日は、台風と選挙とボクシングで騒がしい夜を過ごしました。ガラス窓が割れるのではないかと心配するほどの強い風が吹き荒れていました。
本日は、交通網が混乱しているため、本学園は中高大すべて休校となりました。
今朝、久しぶりに太陽の光を見た気がしました。この2日間は、ほとんど家の中にいたため、夕刻は嬉々としてランニングに出かけました。
浜寺公園に行くと、松の枝葉が散乱していました。浜寺公園には、松の木が5,000本以上ありますが、しかし枝葉は折られていたとしても倒れている木は一本もありませんでした。
目に見えなくとも、大きな根が大木を支えているからでしょう。目に見えない世界が、目に見える世界を支えている。組織でも同じことが言えるのかもしれません。

日本シリーズ進出を決めるクライマックスシリーズのファイナルステージは、セ・パともにリーグ優勝チームと3位チームの争いとなりました。仮に3位チーム同士の対戦となったら、これで本当に日本シリーズと言えるのだろうかと、少し心配しています。
ところで、昭和の日本シリーズは、土・日曜日の2連戦から始まり、月曜日が移動日。火・水・木曜日と球場を変えて3連戦。金曜日に初めの球場に戻り、土・日曜日の2連戦で終わるという日程でした。そして、すべてがデーゲームだったのです。
もちろん、第3戦から第5戦も、平日ながらデーゲームでした。その非日常感が日本シリーズを特別なものに感じさせてくれたのです。
小学五・六年生のときの日本シリーズは、いずれも巨人と阪急の戦い。授業はそっちのけで、「巨人は勝っているのか」と、みんながソワソワしていたことを思い出します。
放課後、担任の先生に頼んで(女子にも協力を仰ぎ)、教室に設置されていた白黒テレビで何とか観戦させてもらうことに成功しました。先生も「しょうがねぇなあ、今日だけだぞ」と言いながらも、「どっちが勝っているんだ」と目を輝かせていたことを覚えています。
高校三年生のときは、巨人と西武が競いました。視聴覚室での模擬試験を終えた後、先生に「どっちが勝っていますか」と訊くと、「西武がリードしている」と即答。当時は、ケータイなどなく、情報を得るのは小型ラジオしかありませんでした。先生は、試験監督をしながら、イヤホーンをつけて、ずっと日本シリーズを聞いていたのです(笑)。ともかく、先生も生徒も、その非日常感を共に楽しんでいたのでした。
午後1時から始まる当時の日本シリーズ。試合が3時間を超えると、終盤はちょうど夕陽が沈むころ。その黄昏時の日本シリーズの特別な光景は、今でも鮮やかに心の中に刻まれています。
いつまでもアスリートであり続けたいと思っています。
アスリート。国語辞典には、競技者とか、スポーツマンとか、運動選手などと記されています。
一方、山際淳司さんは『空に近づくために』の中で、こう著しています。「アスリートとは常に自分との対話をくりかえしている人間のことである」。私が目指すアスリートは、こちらです。
この大学で自分は何をしなければならないのか、何を求められているのか。7年間と半年の大学教員生活の中で、ずっとそのことを考えてきました。
停年(定年)までの13年間と半年で自分にできることは何なのか。やはりアレしかないと。覚悟を決めたら、不安や心配事は一気に吹っ飛んでいきました。
アスリートとして、私は、私なりのやり方で、目の前の山を登っていきます。