2005年09月09日

モシェ・カツァブ

2005年9月9日12:00 FM95のニュース

オフィール・ピネス大臣は、シナゴーグ破壊について再度協議を行うとする国務長官の要求を受理せず、今日中にも破壊を続行することをシャロン首相に要求。

ピネス大臣は、最高裁判所の後援を受けたにも関わらず、シナゴーグ破壊を遅らせることは無意味であると発言。又、シナゴーグの中にあるべきものを取り除いた今、破壊を遅らせることはガザ撤退を遅らせ、国防軍の滞在を延期することになると忠告。
ラバイ委員会代表は、カツァブ大統領と対談し、シナゴーグ破壊中止の援助を要求。委員会メンバーのイェフダ・デリー氏によると、委員会メンバーらは国内外のシナゴーグに、グシュ・カティーフのシナゴーグ破壊反対の祈りを捧げる事を支持をした。




【解説】
シナゴーグはユダヤ教の礼拝所。
問題になっているのは、入植地撤去の際に残されたシナゴーグをイスラエル側が破壊するべきか、そのまま残しておくかという事。熱心なユダヤ教徒にとって、ユダヤ人がシナゴーグを破壊することは許されない事。パレスチナ側は入植地を撤去するにあたって何も残さないことを要求している。
協議はまだ続いている。



【モシェ・カツァブ】
第8代イスラエル大統領。

1945年にイランのヤズドに生まれる(ハタミ・イラン前大統領とは同郷)。5歳のときに家族と共にイスラエルに移民。その後、キリヤット・マルアヒに移る。

その後、キリヤット・マルアヒ初の学生として、ヘブライ大学で経済と歴史を学ぶ。24歳にしてキリヤット・マルアヒの地方議会議長となる(イスラエルの地方選史上最も若い歳)。

32歳の時、リクード党員として国会議員となり、ベギン内閣で建設大臣を務める。シャミール内閣では労働福祉大臣を務める。

1992−96年の労働党政権の時はリクード党党首を務める。95年にはラビン首相(当時)とオスロ合意を激しく批判。

96-99年のネタニヤフ内閣では観光大臣を、後にアラブ担当大臣を勤め、イスラエル内閣大臣として初めてカフル・カセムの追悼記念日に参加。

エゼル・ワイツマン大統領の辞任後の、大統領選挙(2000年)では有力候補のシモン・ペレス大臣(現副首相)を僅差で破り大統領に就任。

イスラエルでは大統領は国家の象徴であり、政治的権限は無い。カツァブ大統領は、前大統領のような目立つ政治的発言は無い。又、イスラエルとパレスチナの間の分離壁建設を提唱した最初の政治家の一人である。



参考:
http://he.wikipedia.org/wiki/%D7%9E%D7%A9%D7%94_%D7%A7%D7%A6%D7%91

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