何故死んでしまったの 祥一郎の生きた証

私、けいは2015年12月28日、最愛のパートナーである祥一郎を突然喪いました。 このブログは、彼の「生きた証を残したい。」という生前の希望を綴ったものです。

パワーを制御するために。



私はパワーが強いらしい。

これは前回のミディアムシップでも言われたことで、私自身には自覚は無いのだが、パワーが強いと言われた。

ペアを組むスピリチュアルワークショップでも、手をかざすと相手が「強いね。」と言って手を下げたり、別の人と組むと、「・・・・手のひらを押される感じがするんです。とても強く。そしてピリピリするんです。」とも言われた。

このパワーの正体を詳しい人に尋ねてみると、純粋に生命エネルギーが強いのだそうだ。

このエネルギーが強い人は想念も強いので、使い方次第ではかなりな恩恵になるとか。

そして、霊能力、ヒーリング能力、現実社会で物事を実現する力にも寄与するらしい。

ということは、間違った使い方をすれば身を滅ぼすことになるのだろうか?

それが若干心配ではあるが、とにもかくにもこの自分のパワーをどうにかして祥一郎の存在を感じるために生かしたいものだ。



それにしてもパワーが強いという自覚はないのだが、若干思い当たる節も無い事はない。

例えば、私は長い間水商売をしていたが、他のお客の相手をしていても別のお客から、「貴方って愛想も悪いし御世辞も言わないけど、何か気になる雰囲気持ってるね。」と言われたことは何度か有る。

苦手なお客だったので他のスタッフに任せようとしているのに、気になると言われた私は(面倒くさいなあ・・・)と思ったことは一度や二度では無い。

また或いは、これはどんな折りにもよく言われることなのだが、話しかけて欲しくないと強く思っていると大概は誰も近づいてはこない。

所謂話しかけ難いオーラが出ていて、それがベールのように私を包んでいるらしい。

これは思い切り自覚しているのだが、私自身は決して気安く話しかけ易い人間では間違ってもない。

何となく(嫌だ・・・・)と思っている事や人間に対しての拒否のパワーは確かに強いと思う。


いやいやしかし、パワーが強いと想念も強いとなると、霊界(幽界)からの祥一郎のメッセージがなかなか感じ取れないことになるな。

実際ミディアムセッションでも、私の想念が強過ぎて合図が届かず、私の周囲の人間を通して祥一郎が色々伝えてきたというメッセージがあった。

まあ言えば迂回作戦だ。

私があまりに強く、(祥一郎、逢いたいよ・・・・傍に居るならお願いだから合図をしておくれ・・・)

と願っているので、それがバリヤーとなって私に直接届かず迂回作戦を取らざるを得なかったという。

となるとますます私のこの強いパワーの使い方を、制御しなければならない。

私の残りの人生の唯一最大の目標は、祥一郎は傍に居るという一体感を得ることなのだから、パワーがその障害となるならこれは本末転倒になる。

これはスピリチュアルな知識を更に深めないと、目標に届かない事になってしまうな。

やれやれ、もっとか弱いパワーで良かったのに。

元々私の魂が持っていたものならば仕方がない。

そのパワーと付き合いながら、なんとか操るしかないのかもしれない。


と、そんな事を想っていたら、窓の外の物干し竿にバタバタっと羽ばたく音がしてキジバトが留まった。

窓際に猫のクロが座っていたのに。

祥一郎よ、これも迂回作戦かい?



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無縁社会



無縁社会か・・・・・・・・・

日本では年間3万2千人余りの人が、身元不明で亡くなっていると言うデータがあるそうだ。

亡くなった後の遺骨はどうなるかというと、無縁仏として葬られるか、ほとんとゴミ扱いされることもあるとか。

今更と言った感もしなくはないが、こうして私はたったひとりの家族を喪ってみて、自分もいずれそうなるのかもしれないという予感が消えない。

別に死んだ後は後は野となれ山となれなのだが、こうして不安になりつつあるのも、祥一郎の死によって自分の老後や死後を殊更に考えるようになったからだろう。

では祥一郎と二人で暮らしていた頃は有縁社会に身を置いていたかというと、あながちそうとも言えない。

地域の集会や行事など参加したことも無いし、そもそも地域の顔役みたいな人とも会ったことが無い。
町会費など殆ど払ったことも無い。

血縁関係はどうか。

何度も書いているが、私の兄弟など殆ど赤の他人だし、東京に居る従兄弟達はもう自分の子供や孫のことで手いっぱいで、遠い親戚にそうそうコミットしてはいられない。辛うじて年に一回会うか会わないかだ。

祥一郎はまがりなりにも月に一度は実家に帰っていたし、母親が亡くなっても父親と墓参りには行っていた。
しかし父親と一緒に同居するといった選択肢はあまり考えていなかったようだ。
その理由は父との確執があり、弟とはあまり仲が良いとは言えず、加えて私というパートナーが居て何かあったら真っ先に私が動くという環境があったからかもしれない。実際私も非力ながらその覚悟くらいはあった。

では仕事環境はどうか。

私はそれほど長期間失業していたわけでもなく、なんとか仕事をみつけ今まで糊口をしのいできたが、それとてまたいつ失業転職の憂き目に逢うやもしれず、よしんば私に何かあり、仕事以外で困ったことがあったからとて親身になって何かをやってくれる会社など、金のわらじを履いて探しても有るわけが無い。私に何事かが起きて無断欠勤が続けば兄弟に連絡が行くくらいだろう。
営利を目的した企業というものはそういうものだ。当然といえば当然だが。

祥一郎にいたっては切れ切れのアルバイトをしていたくらいで、仕事環境と呼べるほどの場所に身を置いていたとはとても言えない。

こうして考えてみると、二人で暮らしてはいたものの、地域、血縁、職場など、社会においての重要な関係性を密に構築していたかというと、まったくそれは否だろう。

LBGTのカップルはえてしてそういう傾向に陥る事が多い。

それは地域血縁職場を含めた社会全体の無理解や偏見、差別から身を隠すために、お互いがお互いを頼りにし、身を寄せ合って助け合うしかないからだ。

赤の他人のゲイやオネエが何をしようが、テレビで色物扱いされようが、他人事として面白がってはいるが、いざ自分の身近な人がLBGTだとわかると、途端に目を逸らしがちになるのが今の日本社会だ。
それを是正しようとする動きは有る事は有るが、まだまだ途半ばといったところだろう。

こうして考えてみると、本当にゲイカップルと言うのは社会の隅に追いやられる傾向が強いと考えざるを得ない。

そして・・・・・・ゲイを含めたLBGTの人達が頼りにしていた心の支えだったパートナーを喪ったらどうなるか・・・・・・・。

巨大な悲しみと孤独と喪失感に四六時中襲われ、何も手に付かず、ただ毎日泣いて過ごすしかできない状態で、ますます社会から孤立していくことは想像に難くないだろう。

そしてやがて無縁状態に陥って行く・・・・・・・。

私は基本的には人間嫌いで、対人関係を築くのが極端に下手な輩だが、それでも人間は社会に身を置く以上それに最低限コミットしなければ生きていけないことくらいは頭では理解している。

だからこそ愛するパートナーである祥一郎を喪ってたった一人に近い状態になり、色々と新たな人と人との関係性を構築しようと、暗中模索している最中なわけだ。

そうやって老体に鞭打って動きながら、幸いにも信頼のおける友人知人が少しでもできれば、この先の人生、少なくとも無縁状態になるのは避けられるかもしれない。

勿論それは互助の精神で、相手が同じような立場になれば私自らも動かねばならないという前提があるのは言うまでも無い。

LBGTに限らず、孤立しがちな、やがて無縁状態に陥りそうな人々が、少しでも寄り添えるものがある社会、少しでも安心できる社会、早くそうなってほしいと切に願う。

祥一郎・・・・・・・

おっちゃんは基本的には一人で生きて行くしかない。

でも、お前の代わりには決してならないだろうけど、なにか寄り添えるものを探して生きて行くしか無いんだよ。

それが出来なければ、あとは残された途は一つしかないからね。

だからお前もおっちゃんが一人で生きていけるように祈っておくれ。


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心がざわついた一日、そしてラップ音



街を歩いていて、向こうから短髪で色黒の男性が歩いていくるとハッとする。

きょうもそうだった。

しかしきょう見かけた人は、歩き方まで少し祥一郎に似ていた。

祥一郎は、本人も気にしていたようだが足が短く、ややがにまたで足を引き摺るように歩く。

そのせいで足音も大きくなって、部屋に居ても帰ってきたのがすぐにわかる。

そんな祥一郎を彷彿とさせる人を見かけ、炎天下私はその人が遠ざかってもずっと目で追っていた。

でも、その人は祥一郎では無い。

祥一郎が向こうから歩いて来ることはもう無いのだ。

それを思い知って、きょうはかなり精神的に落ちていた。

予定が何も無かったことも有るだろう。

部屋を出たり入ったりして、落ち着かない日だった。

心もざわついている。

こんなオフの日を、あと何回過ごさなければならないのか、考えると気が遠くなる。

寂しい・・・・・・寂しくて気が狂いそうだ。

その寂しさが、悲しみを更に増幅させる。

肩が痛い。
きっと項垂れている時間が長いからなのだろう。

生きていくのが、こんなにも重労働になってしまった。



それでもきょう、嬉しい事がひとつあった。

夕暮れ時、部屋で蹲りただひたすら(祥一郎・・・・・お前はおっちゃんの傍に居るんだよね?居るんなら返事をしておくれ・・・・お願いだから・・・)と祈っていた。

その時、部屋の上方で「パシッ」と音が鳴った。

瞬間に感じた。ラップ音だと。

(嗚呼、祥一郎は一生懸命私に知らせようとしてくれているんだ・・・。)と思い、底まで落ちた心が少しだけ上向いたような気がした。

ありがとう、祥一郎・・・・・・。


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大盛ご飯の幸せ



祥一郎と過ごした20数年間、二人の生活で10キロの米が半月もつかもたないかぐらい、我が家は二人にしては大量に米を消費していた。

なにしろ祥一郎は炭水化物大好き人間。

マーボー豆腐や、甘辛く煮た肉、青とうとチリメンジャコの炒め物などで米をばくばく食み、必ずお代わりをしていた。

特に夕飯は必ずご飯を3合は炊いていたので、米櫃の中身はみるみるうちに減って行く。

歳を取って食が細くなってきたとはいえ、私は私でまだ幼い頃の韓国風の食習慣が残っているので、辛い味付けのおかずやスープを必ず作って、ご飯は多めに食べる。
韓国人はまだまだ日本人より米を食べる量は多い。

我が家の電子炊飯機はフル稼働だ。
中蓋が壊れていて、いずれ買い変えようと思っていたが未だ叶わず、とうとうその新しい炊飯器を祥一郎は見ることは無かったけれど。


そのご飯大喰らいの二人家族の為に、私はなんとか美味しくご飯を炊こうと工夫はしていた。
少々酒や塩を入れてみたりするとふっくら炊きあがる。
サラダ油をほんの少しポトリと落とすと、ピカピカのご飯が出来る。

今や特に若い人達などは一日に一度も米を食べない人も増えていると言うが、我が家は夕飯だけをみれば昭和30年代頃の食卓のようだった。

お金の無い時は、大根だけの煮もの、白菜の漬物、わかめの味噌汁のみなんてこともあった。
納豆大好きな祥一郎の為に、それだけは欠かさなかったけれど。


そんな米大好きな祥一郎、そのくせ米のブランドについては無頓着だった。

私の従兄弟の旦那がとある百貨店で米屋をやっているのだが、たまにあの魚沼産コシヒカリを送ってくれることが有った。

それを私は得意満面に大事に炊いて夕餉に出すのだが、祥一郎に「どう?いつものご飯と味が違うでしょ?」と言っても、

「ん?どこか違うの?いつもと変らんで。」と気の無い返事。

「ええ?これは今日本で一番美味しい米だよ。その味が分からんの?」

「うん、うち米の味の違いは分からん。どれもいっしょと違うん?」

まったく、おかずに関してはあれこれ文句を付けるくせに、大盛で食べるご飯の味には無頓着とは、
こりゃ高い米を買っても無駄だな。

そう思い、我が家の普段の米は、安くてそこそこの味のあきたこまちが常だった。

本当にあきたこまちには随分と世話になった。
どこのスーパーに行っても、10キロのもので一番安いのはあきたこまち。
それを二人で10キロずつ担いで運び、「これで当分買い物は重い米を買わなくて済む。」などということもあった。実際は予想より遥かに早く食べ尽くしてしまうのだけれど。

それでも、私は大きめの茶碗に大盛のご飯を持って食べる祥一郎の姿を微笑ましく見ていた。
私が茶碗一杯で済ますところを、炊飯器の底までさらって食べきる祥一郎が好きだった。


今でもご飯を炊く時は3合炊く。
でもそれは、一人きりになってしまった私の、三日か四日分の夕飯の為だ。
あの頃のように、一度で食べきってしまうことはもう有り得ない。

10キロの米をふうふう言いながら運ぶことも無くなった。
5キロの米で十分になった。

他は安い牛丼や立ち食いそば、小さな弁当で済ます。

ご飯を沢山炊いて、それをふたりで一緒に食べることはもう出来なくなってしまったから。

米の味音痴の祥一郎、それでもあいつの為に少しでも美味しいご飯を炊こうと性能の良い炊飯器を新しく買う事ももう無いだろう。

「おっちゃん、もうお代わりせんの?うちが食べてしまうで。」

と言っていた祥一郎の姿は、私の前から永遠に消えてしまった。


祥一郎・・・・・お前と一緒に食べたご飯、あれが私の命と心の平安を維持していたのかもしれない。

また一緒に食べられる日が来るのかな・・・・。


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祥一郎の夢と私の目標



祥一郎御の夢は何だったのだろう。

あいつはいったいどんな夢を描いて生きていたんだろう。

その一端は、何度か行ったミディアムセッションで垣間見ることができた。

あいつは「お母さんと一緒」のような子供番組のイメージを送って来て、おそらく体操のお兄さんのようなことをしたかったのではないか。

身体を動かすことは好きだったから、それを生業にしたかったのかもしれない。


祥一郎とふたりで暮らした年月の中で、あいつの夢の話は殆どしたことは無かったが、それでも記憶に残っている話はある。


あれは大阪に住んでいた頃だ。

大阪でも私は失業の憂き目に遭い、もう一度東京でやり直そうと提案したことが有った。加えて祥一郎は心の中では東京に戻りたいものだと思っていた。

しかし祥一郎から返ってきた答えは、「うち大阪に居りたい。バレエの仕事の話があるねん。」というものだった。

あまり詳しくは聞かなかったが、バレエ教室の講師の補佐のような仕事だったらしい。

私はそれならばと思い、その時は東京行きを諦め、大阪で仕事を探すことになったのだが。

結局祥一郎のその話は、いつの間にか立ち消えになった。

あいつの死後に遺したブログを読んでみると、バレエの講師を演じているのを発見した。

華やかなバレエの世界に関わりたいと思っていたのだろう。


その後何年か経って、やはりふたりは東京に舞い戻ってくることになる。

肝炎を患い、HIVキャリアで有ることも発覚して、あいつはろくな仕事を見つけられずにいたが、それでもパソコンに向かいながらふと呟いたことが有る。

「なあおっちゃん、化粧品の輸入販売なんかしたら儲かるやろか。」と。

誰かに感化されたのか、どこからか情報を得たのかそれは知らないが、あいつの唯一最大の趣味である化粧品に関わる仕事もしたかったのだろう。

前述したブログの中でも、あいつはバレエの講師をしながら趣味はコスメで、日記はそれにまつわる話題が殆どだ。

私は確か祥一郎に、「化粧品の輸入販売?好きなことを仕事にするのはええけど、いざ仕事となるとそう簡単にはいかんで。」というような事を言った記憶がある。

祥一郎はその後二度とその話はせず、あいつは相変わらずの日々を送っていた。


今私は想う。

祥一郎が何がしかの夢を持っていたなら、それに全面的に協力するほどの甲斐性が私に無かったとしても、もっと話しくらいは聞いてやればよかったと。

いや更に言えば、私の方から祥一郎の夢は何なのか、もっと引き出してやればよかったと。

私自身にはもう夢などとっくの昔から無かったけれど、祥一郎にそれが有ったなら、あれがこうなって、これがそうなってと、それこそ夢のような話しをするだけで楽しかっただろうに。

私は色々なものを諦めて生きてきた。

それは祥一郎もそうだったのだろう。

しかし儚い夢でも、想像するくらいはふたりで出来たのかもしれない。祥一郎の夢を描く手伝いくらいはできたのかもしれない。

ふたりで笑顔を浮かべ、「こうなったらええなあ。」と話し合ってみたかった。


確かなことがひとつだけある。

私は夢も希望も無くして生きてきたけれど、それでも祥一郎とふたりで生きていく、それが人生の目標だったのだと。

夢では無く、現実にそこにあった目標。そしてそれは実現していた。

あまりに悲しく突然にそれは終ってしまったけれど。

あと十年も共に暮らしていれば、今度はふたりで生きて添い遂げる、それが目標になっただろう。

・・・・・・・・・・・

そうだ、もうひとつ私には目標がある。

祥一郎が今でも私に望んでいるような生き方をして寿命を全うし、そして大手を振ってあいつに逢いに行く。

忘れてはいけないんだ。これだけは忘れてはいけないんだ。


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