祥一郎が旅立って8年が過ぎました。
あれから8年、もう8年、やっと8年・・・・・・・
どれも違うような気がします。
私にとってはやはり、ああ長かったなあ、8年・・・・
というのが正直な気持ちです。
毎年暮れに思うのですが、一年に三年くらい歳をとったような、
そんな感覚もあります。
実際の年月はもっと早く過ぎているのでしょうけれど、
一年中悲しみや孤独と戦い続けている私には、
年月が未だに長く感じられます。
きっと実際にも、心身はそれだけ衰えているのでしょう。
長生きなんかしたくありません。
でも、残り少ないであろう余生、このままでは
いけないとも思います。
疲れたとき、落ち込んだ時、虚しいとき、必ず口から出る言葉は、
「祥一郎・・・・・」です。
これが、楽しいとき、嬉しいときに「祥一郎。」
と口から出るようになれば、どんなにいいでしょう。
しかし無理はしません。
もう無理はできないから。
流れる木屑のように、生きていくしか
ありません。
その先に何が待っているのか、あまり考える
こともなく、良く言えば自然体に、
悪く言えば投げやりに生きていくのでしょう。
いや、こんなことを書いても、心のどこかで
僅かな光を求めている自分も、また居るのです。
祥一郎と過ごしたあの年月を強く抱きしめながら、
すっくと立っている自分を夢想するのです。
なんだか今の気持ちを文章にすると、
やはり支離滅裂になってしまいました。
それでも、今湧き出る気持ちを素直に書いた
つもりです。
8回目の祥一郎の命日。
今年はお墓参りに行って、その後は献杯です。
いや、酒浸りかな・・・。
お墓の前で私は何を想うのでしょう。
祥一郎に何を語りかけるのでしょう。
お墓には祥一郎は居ないと思っているのに。
いつも自分の肩に手を置いている
祥一郎が居るはずなのに。
えい、ままよ。
今自分がしたいこと、できることをするだけです。
またあの日の日記を再掲します。
自分の中で変わらない何かと、変わっていく何か
を見つめ直すために。
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読者の皆様、はじめまして。
私けいはこの度、20数年苦楽を共にした相棒を突然、あまりに突然悲惨な形で亡くしてしまいました。彼の名は祥一郎と言います。
12月中ごろから下血が始まり、本人はイボ痔だと言っていて、以前にもあったからその内治ると言っていました。痔の薬を塗布し、やり過ごしていました。
しかし20日頃から今度は腹部の張りが見られ、高熱が出るようになりました。
それでも本人は大丈夫、今に治るからと言っていました。
下血は止まらず、パンツが汚れるのでオムツを買い、熱さましも買い、痔でも座れるクッションも買い、痛み止めも買い、なんとかやり過ごそうとしましたが、それでも症状が治まりません。ときおり酷い寒気や震えも見られるようになりました。
これはやはおかしいと思い、私はなんとか無料か定額で受診できる算段を模索しました。何分にもふたり食べていくのがやっとで、私にも彼の診療費を出す余裕が無く、保険証は会社のものなのでそれを貸すわけにもいかず。
27日に病院のソーシャルワーカーにも相談し、とにかく生活保護の医療扶助を受けるように動いて、病院としては来た患者を断るわけにはいかないので受診して、お金のことはその後相談しましょうとのことでした。
私は更に、住んでいる地区の共産党の議員に生活保護の医療扶助受給に協力してほしいと相談をもちかけ、その場で28日の午前中に福祉課に一緒に行きましょうとの言質を頂きました。
思えばその二日くらい前、珍しく祥一郎が「おっちゃん、手を握って。」と言ってきました。
なにを今更と思い、「さすがに弱気になったの?大丈夫、おっちゃんがなんとかするから。病院行けるようにするから。」といって軽く彼の手を握ってやりました。彼は少し涙ぐんでいました。
祥一郎は28日前夜から変なしゃっくりが止まらず、寝室でも少量嘔吐していました。本人は「昨日食べたチョコレートを吐いちゃった。」といい自分で処理してました。
そして当日です。
私も殆ど心配で寝られず、午前中に議員と福祉課に行って、その後祥一郎を近所の病院に連れて行く算段でした。
しかし早朝7時前ごろ、祥一郎は起き出してきましたが、台所でドスンという大きな音、そして悲鳴のような叫び声のような声が聞こえ、駆け付けると仰向けに倒れた祥一郎が目に入り、抱き起そうとしましたが、突然の大量吐血。
私の膝の上で大量吐血しました。とにかく血を吐き出さそうとして私は祥一郎を横向けにし、背中をタッピングしました。しかし目の焦点は合っていず、呼吸もしていません。私はあわてて介護職の現場で習った心臓マッサージを行いました。マウスtoマウスも行いましたが、意識は戻らず、119番しました。その後もマッサージを行いましたが、祥一郎は戻って来ません。
救急隊員が到着、処置を施しましたが、それでも意識は戻りません。
そして祥一郎と私は救急車の車上の人となり、病院に到着、引き続き救急処置をおこなっていましたが、無情にも医師から、「残念ながら、心臓の鼓動は戻りませんでした。」との死刑宣告を受けました。
皮肉にも、生活保護受給に関して必要になる、千葉在住の彼の実父、弟の連絡先を前夜に詳しく聞いていたメモが手元にあり、迅速に連絡をとることが出来ました。
その時点で私は何が起こったのか、これは現実なのか、動物園の熊のように冷たい病院の廊下を行き来し、ミクシイで知り合った友人に事の顛末を連絡しました。彼は遠い横浜からかけつけてくれ、もうひとり都内の友人も駆け付けてくれました。どちらも祥一郎のことは殆ど知りません。
時間が経過し、やっと実父と弟が到着。
初めて会う得体のしれない私を見て、困惑しているようでしたが、そうも言っておられrず、私は経過を説明しました。
その前に刑事に、事件性の有無の調査でふたりが同性愛の繋がりで有ったことは説明したので、それは二人とも知っていたのでしょう。
二人とも嘆き悲しむどころか、淡々としていました。
私にはあずかり知らぬ肉親の関係性があったのでしょう。しかしその後の言葉に耳を疑いました。
「葬式はせず、明日火葬します。」
なんと、厳粛なお別れをしないというのです。
しかし肉親の言う事、私には猛然と反発することも出来ず、諦めるしか有りませんでした。
その後実父と弟と連絡先を交換し、翌日の火葬場には私も行くことになりました。
祥一郎の死に顔を見ても未だ信じられぬ私は、後ろ髪を引かれる想いで、病院を後にしました。その間ずっと横浜の友人は付き添ってくれました。その後二日間一緒に居てくれました。血だらけになった部屋の片づけも、遺品整理も手伝ってくれました。
翌日の火葬の場。
実父と弟から聞いた話では、祥一郎の死の原因は上部消化管出血によるショック死との事でした。
なぜ出血したのかは、消化管のどこかに潰瘍かガンがあったのではないか、詳しくは解剖しないとわからないとのこと。肉親に希望によって解剖は行わないことになっていました。私の意志など関係ありません。
そして火葬終了後、なんとか分骨をさせてもらえました。
弟さん曰く、「ひょっとしたら兄はその辺で野垂れ死にしたかもしれないのに、私たち肉親よりもずっと長く過ごしたけいさんに看取られて、兄もよかったと思います。」
弟さんも何か感じるところが有ったのでしょう。その言葉で少し救われた気がしました。
火葬前にも、実父が泣きじゃくっている私の背中をさすってくれていました。
その後横浜の友人と4人で、私と祥一郎の過ごした部屋へ戻り、遺品を肉親に手渡しました。
ゆっくり話す間もなく、実父と弟は帰って行きました。
遺品整理しても祥一郎の写真がほとんど見つからず、唯一最近の写真で免許証の写真を引き伸ばして、私にも送ってくれるとのことでした。
あまりのもあっけなく終わった、祥一郎とのお別れの儀式。
その後、私はがらんとした部屋で、まだまだ残った祥一郎の痕跡に囲まれながら、悲しみと苦しみと慟哭に苛まれています。
かたっぱしから友人知人に連絡し、私をひとりにしないでほしいと喚き散らしました。
それに呼応した優しい友人たちは、遠くは栃木からを始め都内からも何人も私の部屋を訪ねてくれました。電話やメールも頂いています。
それに縋って私はまだ辛うじて、心身を保っています。
思えば私は年末の21日から29日まで、1月にある介護福祉士の勉強のため長期休暇をとっていました。
それに合わせるかのように祥一郎は状態を悪化させ、まさに受診の当日の早朝に逝ってしまったわけです。
そしてあんなに嫌がっていた、肉親に知られることになる生活保護受給の件もやっと観念し、連絡先を私に教えて、その後逝ってしまったのです。
これは何かの筋書きなのかと思われてなりません。死神の意志に沿った筋書き。
もっと早くに私が動いていれば、もっと早くにあの子の状態を把握していれば、何ヶ月か前に血圧が高いと言って目眩がすると言っていた時点で動いていれば………悔やんでも悔やみきれるものではありません。
どうしても私の見通しが甘かったと思えてなりません。また、祥一郎本人も今まで体調が悪くなっても医者にはかからず、なんとかやり過ごしてきたという過去があったのかもしれません。
様々なことが遅すぎ、そしてあと一歩遅かった.。
祥一郎はもう居ません。
20数年の私たちの紛れも無い家族の歴史は、一瞬で閉ざされました。
お互いがお互いしか居ませんでした。
どんな時も、私がどんな境遇に陥っても祥一郎はいつも傍らに居ました。
祥一郎は逝ってしまいました。
残された私は、未曾有の悲しみと苦しみと慙愧の念と共に生きて行かねばなりません。
時間は過ぎて行きます。
いつか祥一郎の死が記憶になるまでどれほどかかるのか。それを考えながら私は茫然としています。
巨大な悲しみのために、あまり涙を流すことも出来ないでいます。
いっそ狂ってしまえばいいとも思っています。彼の記憶が無くなるように。
私は、私は、もう祥一郎無しでは生きていけないかもしれません。
運命や神という概念が本当にあるのなら、私はそれを呪います。
ひっそりと都会の片隅で肩を寄り添い、貧しくつつましく助け合って生きてきた祥一郎と私に、何の咎があったのでしょう。
誰か教えてください。誰か………
祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎…………
どこに行ったの?早く帰っておいで。
はやく病院に行かなきゃ。後のことはおっちゃんにまかしとき。
そしてはやく治って、またいつもの暮らしに戻ろう。
二人はいつも一緒だよ……いつも一緒だよ………
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↓祥一郎の供養の為によろしくお願いします。
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