何故死んでしまったの 祥一郎の生きた証

私、けいは2015年12月28日、最愛のパートナーである祥一郎を突然喪いました。 このブログは、彼の「生きた証を残したい。」という生前の希望を綴ったものです。 そして、ゲイの死別という経験を可能な限り見つめて行きます。 #ゲイ  #死別  #孤独

2016年10月

いますが如く  祥一郎の誕生日

誕生日プレゼント



祥一郎・・・・・・・

おっちゃんとお前が出逢って、初めてのお前の誕生日のことを覚えているかい?

確かあの谷中の貧乏長屋に一緒に暮らし始めた頃のことだったよね。

お前はおっちゃんの狭い部屋に押し掛けてきて、置き場所に困るくらいにコスメ製品を持ってきた。

香水や石鹸、パック、スキンクリーム、オーデコロンやその他諸々。

おっちゃんが見た事もないような品々が、粗末な箪笥の上に並んだものだった。

だから、初めてのお前の誕生日はコスメ製品で決まりだったね。

おっちゃんはまったくの門外漢だったので、お金は出すから一緒にお店に行っておまえが選ぶといいと言って出掛けた。

貧乏暮らしだったので、デパートの高級化粧品売り場の物なんか買ってやれなかったから、上野のアメ横に行って怪しげなお店に行ったよね。

お前が選んだのは確か香水だった。

何処のメーカーか、高級なのかそうでないのかおっちゃんはまったく分からなかったし、予算を少しオーバーしたけど、まあ最初の誕生日だから仕方ないかと思って買ってやったんだよ。

会計を済ませてお前に渡したら、

「おっちゃん、これ持って、ちゃんとうちに渡して。」って言った。

だからあらためて「はい、これ。」っておっちゃんが渡すとお前は、

「うふふふふふ。買うてもろうた。」って嬉しそうに呟いてたね。

満面の笑顔を浮かべて、喜びを身体中で発散しているお前の姿を、おっちゃんは今もはっきりと覚えているよ。

愛する人が笑顔になる物を贈る、その喜びを感じたものだった。


あれからお前の誕生日は何回、何十回も祝ったけれど、やっぱりあの初めての誕生日の事を一番思い出すんだ。


十年二十年一緒に暮らすうちに、あまり収入の無いお前にはお金の方がいいだろうと思って、その内
誕生日には何がしかのお金とケーキを買って祝うようになったね。

でもやっぱり、二人で何処かへ出掛けて何か買ってやった方がお前は喜んでくれたのかなあ。

そして去年のお前の誕生日。

何故だかおっちゃんはいつもより奮発した金額を封筒に入れてお前に渡したんだった。

中身を見てお前は、「こんなにもろうてええの?生活苦しいのに。」なんて殊勝なことを言ってたね。

あのお金でお前は何か買ったんだろうか。それはもう今となっては分からない。

あの日から僅か二か月後にあんな悲しい日が来るなんて、これっぽっちも思ってなかった。

あれが生きているお前に渡した最後の誕生日祝いになるなんて、今でも信じられないんだよ。

これから先何年経とうがお前の誕生日が来てお祝いしても、あの笑顔や喜びを発散した姿はもう見られないと思うと、悲しい辛いなんて言葉で言い表せない想いが湧いてくるよ。

それでも・・・・お前が旅立ってしまってから初めての誕生日。

おちゃんはやっぱり祝わずにはいられなかった。

だから一生懸命考えて、お前の好きそうなコスメを買ってきたよ。

お前が残した使いかけの物や空き箱を吟味して、一番多かったコスメメーカーの物にしたよ。

お風呂に入る時に使うといいんだって。お前はお風呂も好きだったものね。

お店の人に綺麗な布に包んで貰ったんだ。お前の好きそうな柄のね。

生きているお前に直接手渡したかったけれど、それはもう叶わない。だから仏壇に供えるね。

喜んでくれるかなあ。

きっと喜んでくれるよね。だってお前は今でもおっちゃんの傍に居るに違いないんだから・・・・・。

誕生日おめでとう、祥一郎。


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ざわつく心と、祥一郎の大事な日

ガーベラ

ガーベラ  10月30日の誕生花

ここ最近、もうすぐあの日がやってくる、祥一郎とのこの世での生活が終りを迎えたあの日がやってくると思うと、自分の心が徐々にざわついてきている感覚を覚えている。

瞑想をしても、深呼吸をしても、ゆっくり睡眠をとっても、そのざわついた感覚は消えない。

当日がますます近づいてきたら私はいったいどんな精神状態になるのか、怖いような気もする。

しかしやることは山ほどある。

和尚様に連絡し、法要の日取りを決め、招待する人達にも都合を聞き、当日の料理のメニューを決め、その他一周忌に必要なものも買い揃えなければならない。

私の精神状態がどうあろうと、ぜったいやり遂げなければならないのだ。

それがいつも私の傍に居る祥一郎の為では無く、生きている私の為であったとしても。


そして、その前に祥一郎の大事な日がもうひとつやってくる。

もうこんなに季節は進んだのかと感じるほど、寒くなった小雨そぼ降るつい先日。

私は疲れた体を引き摺って、繁華街へ赴いた。

心に決めたあるものを購入する為に。

部屋に残った祥一郎の遺品を色々見直し、これならあいつは喜んでくれるかなと思ったあるものを購入しに行ったのだ。

もう祥一郎にお金を渡してもあいつは使う事が出来ない。そして自分は何が欲しいのかも私に伝える事が出来ない。

だから私なりに考えたあるものを購入しに行った。

もしあいつが生きていたなら、それを手渡したあとなんと言っただろうか。

「まあ、趣味が悪いわねえ。これは私には似合わないのよね。」などと憎まれ口を叩きながら、それでも嬉しそうに受け取っただろうか。

それとも素直に、「ええの?ありがとう、おっちゃん。」と殊勝に言ってくれただろうか。

ただでさえ笑顔の似合う、あいつの喜んだ顔をもう二度と見ることは出来ないと思うと、涙は途切れることは無いけれど、それでも私はあいつの大事な日を祝ってやりたい。

もうお分かりだと思うが、10月30日は祥一郎の誕生日だ。

亡くなった人の誕生日を祝ってもいいのか悪いのかそんなことはどうでもいい。

私は祥一郎が楽しみにしていたこの日を蔑ろにはしたくない。

私が生きている限り永遠に。


出掛けた池袋の繁華街は週末とあって人々でごった返していた。

しかし、もうこれは随分前から感じていた事だが、どんなに賑わった街でも楽しそうに行き交う人々が横を通り過ぎても、私の目には全てがハリボテのようにしか映らない。

何もかもが嘘臭くて、ひょっとしたら繁華街の巨大なビル群はすべて本当にハリボテで、行き交う人々は全て中身が空っぽの人形なのではないかと感じてしまう。

それほど私にとって自分を囲むこの世界、この世の全てが空虚なものになってしまった。


しかし・・・・私にとっては祥一郎の為に買い求めたある物だけはちゃんと重みがあり、現実にそこにあるものだった。

私個人の手前勝手な思い込みだと思われてもいい。

喜ぶ祥一郎の顔を見る為に、私は空虚なハリボテではない、存在感ある確かなものを大事そうに抱えて帰途に就いたのだった。

魂になった祥一郎にはもう知られているかもしれないが、大事な当日にはそれを恭しく仏壇に供えようと思っている。

祥一郎・・・・・。

その日にはお前のあの素晴らしい笑顔を見せておくれ。夢の中でもいいから。

あれあれ、お前を喜ばすためなのに、逆におっちゃんが楽しみにしているね。

ああ本当にあのお前の弾けた笑顔がまた見たい・・・・どうしようもなく見たいよ・・・・

祥一郎・・・・・。

愛する人に喜ばれる物を贈る・・・・それがまだ私にもできるのだと思わせてほしいよ・・・・。


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あの時、もしもこうなっていたら・・・・・・・・



以下の文章はあくまでフィクションです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2015年のもう初夏になろうとしているような陽気のある日。

仕事から帰ってくると部屋の窓は閉め切っていて、カーテンもしめている。

私はいぶかしく思ったが、部屋に入ると寝室で祥一郎が横たわっている。いつもならパソコンで遊んでいるか、体操をしている時間帯だ。

私が「どうしたの?」と尋ねると、

祥一郎は、「ちょっとだいぶ調子が悪いねん。なんか身体中がだるいっていうか。」と答えた。

額に触れてみるとやや熱っぽい。私は風邪でもひいたかと思い、買い置きの薬が無かったので買いに走り、祥一郎に与えた。

このところ祥一郎はこうして「だるい。」といって横になることが多くなった。その頻度も多くなり、間隔も短くなっている。

私はそれを認識してはいたものの、仕事で疲れきっていることを理由にまだ動いてはいなかった。

ある日何気にLINEに、「このところ相棒の調子が悪い。寝込むことが多くなったし、舌も白くなっている。辛いものが食べられなくなってもうだいぶ経つかな。」と書きこんだ。

すると古い友人である、医療関係に詳しい人から、「けいさん、それはちょっとヤバいかもしれないですよ。舌が白いって、肝臓ガンによくある症状かも。黄疸とか無いですか?」との書きこみが有った。

私はその書きこみを読んで血の気がさっと身体の下の方に下がる感覚があった。

その後ネットで色々肝臓ガンの症状を調べてみると、どうも祥一郎の現在の症状と符号している。

黄疸はまだ出ていなかったが、その他の症状がどうも疑わしい。

私は祥一郎に提案した。「ちょっと具合が良くなったら、病院行って検査してもらお。な?」

祥一郎は相変らず、「ええて。ちょっと休んでたらまたようなるから。」

私はいつもなら(もう、せっかく俺が心配してるのに。本人に動く気が無いんやから。)と諦め、それ以上言うことは無いのだが、今回は引き下がらなかった。

「あかんて。前から言うてたように、一回ちゃんと診てもらお?な?おっちゃんそれくらいのお金あるから。もしも救急車で急に運ばれることになったらどないするの?そやから一回診てもらお。」

と言って祥一郎にたたみかけた。

そしてとうとう祥一郎を説得し、具合が少し良くなる頃を見計らって近所の総合病院に赴いた。

検査費は馬鹿にならなかったが、やっと渋る祥一郎が医療にかかる切っ掛けを掴んだと思ったものだ。

その後検査結果を聞きに二人で再度病院を訪れ、医師から「まだなんとも言えないので、もう少し検査が必要です。その為一時的にですが、入院が必要になります。」と言われた。

祥一郎は「・・・・どないしよ・・・そんなお金あれへん。もっと検査が必要って、うちどうなるんやろ・・。」と、HIVが発覚したときよりも落ち込んでいる様子だった。

私は「大丈夫やて。いざとなったら生活保護受けれるようにおっちゃん走り回るし、高額医療制度もあるし、貯金もちょっとならあるから。な?あんまり心配せんとき。おっちゃんが何とかするから。」
と励ますのがやっとだった。

その時、医師から私だけ別室に呼ばれ、「貴方はあの患者さんとどういう関係ですか?」と言われたので、「ルームメイトです。」とだけ告げていた。医師は「・・・・・ちょっとお伝えしたい事があるので、あの方の肉親の方はどちらに?」というので、「はあ、そしたら私からあの子の父親に連絡取ってみます。」と言っておいた。そのことは祥一郎には内緒にしておいた。

検査結果が出た当日に即入院となったので、私はこまごまと必要な物を揃え、病室に持って行った。その後父親に連絡をとり、翌日に来ることになっていた。

そして翌日父親と病院で落ちあい、父親だけ医師からの話を聞いていたようだ。

部屋から出てきた父親は、憮然とした表情をしており、私は何かあったのだろうと内心穏やかでは無かった。そしてか細い遠慮がちな声で、「すいませんお父さん、祥一郎の検査結果は・・・・」と聞くと、
父親から残酷な言葉が発せられた。

「祥一郎は肝臓ガンだそうです。それももうほとんど末期に近い状態の。余命は半年あるか無いか。」

私は心の何処かで怖れていた結果通りのことに、下を向いて何も次の言葉を発することが出来ず、涙が溢れて来るのを止められなかった。

父親の次の言葉は、「ずっと家を出たままの不肖の息子ですが、このままにもしておけないので、うちの近くの病院に転院させようと思っています。貴方にはどうもご迷惑をおかけしました。」というものだった。

実の父親のその言葉に、私は反論できるはずも無く、「・・・・そうですか・。」と言うしか無かった。

三日ほど経ってから転院先に行くことになり、私も一日中付きっきりで手伝い、なんとか転院は済んだのだった。

祥一郎には「遠くになってしもうたけど、おっちゃん休みの日は必ず来るからな。ちゃんと病気治すんやで。」と伝えるのが精一杯だった。

祥一郎は不安な面持ちで「・・おっちゃん・・・」とか細い声で答えるだけだった。

後から聞いた話ではその時既に父親から本人に、肝臓ガンであることは知らされていたという。

その日から私はあと半年、祥一郎とどう向かうべきか考えながら過ごすことになった。

四六時中祥一郎のことを考え、仕事にも集中できなくなり、ミスが増えて上司に注意されることも多くなった。いっそ辞めてしまおうかとも考えたが、その後の生活の目処も経たず、惰性で仕事を続けるしか無かった。
祥一郎への見舞いは父親からご自由にとの言質をとっていたので、オフの日は遠い病院まで足繁く通う生活が始まった。

父親の意向としては、「もうあちこち転移していて手遅れのようです。どうせなら痛くないように穏やかに逝かせてやろうと思っています。」とのこと。
抗がん剤や高度の医療処置などはせず、このままモルヒネなどを打ちながら残りの命を静かに過ごさせるつもりだと知った。決して裕福でもない父親の、これも息子にしてやれる精一杯のことだったのだろう。

そんな父親の意向に私が逆らえる筈は無く、自分自身にも祥一郎に何かしてやれる力は無く、ただただ残りの時間を少しでも長く祥一郎と過ごすことだけが私に残された途だった。

転院してからの何ヶ月かは、私が訪れると調子のいい日もあり、祥一郎と想い出話に花が咲くこともあった。

しかし夏が過ぎ秋も深まる頃には、祥一郎は目に見えてやせ細り、食事も流動食になり、訪れる度に眠っている日が多くなっていった。

見舞いに行っても寝ている祥一郎の顔をじっと眺めている時間が多くなり、私はひとり何も答えない祥一郎に話しかけるしかなかった。

私はその時点で、やがて来るであろう祥一郎との永遠の別れ、そしてその後の生活のことなど色々想いを馳せていたが、今更ひとりでどう暮らしていけばいいのか、まったく想像が出来ずにいた。

そしてその年の師走、最後の週に入ろうとする頃に父親から連絡が有り、「祥一郎が・・・そろそろ危ないようです。」との連絡があり、私は急遽職場に長期休暇を申請し、泊まりがけで病院で過ごすことになった。

祥一郎はますますやせ細り、食事ももう殆ど取れず、意識も混濁していた。

そして忘れもしないあの日。あと数日で新年を迎えるというあの日。

ほんの数分祥一郎の意識が戻った瞬間があった。
私は声の限りをつくして、「祥一郎、祥一郎、しっかりしい!おっちゃんやで!死んだらあかん、死んだらあかん、もっと頑張るんや。おっちゃんひとり遺してどこ行くんや。祥一郎、祥一郎・・・。」
と呼びかけた。

その時目をうっすらと開けた祥一郎は、殆ど聞き取れないような声で、

「おっちゃん・・・うち、もう駄目みたいや・・・今までありがとうな・・・おっちゃん・・うちもっと生きたかった・・・」

それが祥一郎の最期の言葉だった。
見る見る生気が無くなっていく顔を見つめ、冷たくなっていく手を握りながら私は悲鳴を上げて泣いていた。

最期を看取ったのは私の他には、父親と弟さんの三人だけ。
泣いているのは私だけだった。

皮肉にも抜けるような青空の冬の快晴の日。
祥一郎は私の腕をスルリと抜けて、旅立って逝った。呆然と立ち尽くす私を遺して・・・・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、私が少しばかり早く祥一郎の病気に気が付き、入院してその後どうなっていたかを想像して書いてみた。

書いたところでどうなるものでも無いのだが、せめてもう少し心の準備や最期の言葉を聞けたならという希望を、今更ではあるが書いてみた。

決して私の理想通りのストーリーというわけではないが、実際に起こったあまりに突然の祥一郎との別れに比べれば、私にも何がしかの少しばかりの心の準備は出来たのかもしれない。

しかし、繰り返すがこんなことを書いても詮無きこと。

それでも書かずにはいられなかったのは、私にまだまだ後悔の念が強く残っているからなのだろう。

何の覚悟も無かった、何も最期の言葉が聞けなかった私の、小さな小さな抵抗だ・・・・・・・・。


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やはり私は独りぼっち

ギョリュウモドキ

ギョリュウモドキ 花言葉:孤独

これまで色々な人達に直接的にも間接的にも声をかけてもらった。

そして何人もの人が私の元へ訪れ、悼みの言葉や慰め、励ましを貰った。

節目の、祥一郎の葬儀代わりの法要にもお盆の法要にも、何人も集まってくれた。

その方達にはお礼の言葉も探せないほど感謝している。

そして何度もこう言って頂いた。

「貴方は決してひとりではない。」

私は独りでは無い。
そうなのだ。悲しみと孤独に殆ど錯乱状態になりかけている私を陰に陽に助けてくれた人達が居るのは確かだ。
それによって私は寸断無く襲ってくる自死願望、或いは希死念慮というものからまだ辛うじて逃げおおせている。

だから、その方達からお叱りを受けるかもしれない事を覚悟で書くのだけれど・・・・

私はやはり独りぼっちなのだなと、基本的には独りなのだなとずっと思っている。

それは仕事から帰宅したときや、何の予定も無いオフの日に部屋で呆然としているとき、独りで食事をしているとき、テレビをぼーと眺めている時、寝床で横になっている時、入浴しているとき・・・・

日常生活のありとあらゆる面で、独りっきりだという孤独を感じてしまうのだ。

当然と言えば当然なのだろう。

何を話さなくとも、傍に居るだけでも、喧嘩をして気まずいときにでも、祥一郎は傍らに居たのだから。

あいつが実家に帰ったり、友人と遊びにでかけたときでも、必ず帰ってくるという確信があった。
だから孤独など感じる筈は無かったのだ。

祥一郎が亡くなってから、私を表に連れ出して共に酒を飲んでくれる人が居ても、部屋に来て線香を手向けてくれる人が居ても、その人達は24時間私の傍らに居てくれるわけではない。

その時だけは私の話に耳を傾け、心配してくれていても、皆それぞれの生活があり、それぞれの場所へ帰って行く。あまりに当然過ぎることだが。

そしてその余韻が無くなっていき、更に私の孤独は輪郭をはっきりとさせる。

こんな思いをするくらいなら、いっそ誰にも頼らず、誰とも会わず話さず、どうせ独りで向き合っていかなければならないのだから、部屋に籠ってただ泣いていた方がいいのではないか。

そんなことも思ってしまう。

しかし勇気のない私にはそんな時間の過ごし方は出来ない。

独りっきりに耐えられなくなって、カレンダーを睨み、職場のシフトを確認し、可能な限り外出の予定や人と会う約束を入れて行く。

そしてまたよりいっそう輪郭のはっきりした孤独と向き合うことになるのにも関わらず。

喩えは悪いかもしれないが、まるで後々同じ苦しみを味わうのにまた麻薬に手を出す、ジャンキーのように。

愛する人と死別して、独りを実感している人達は殆どの人がこんなことを繰り返しながら過ごしているのだろう。

私は今後も同じことを繰り返して行く筈だ。

そして誰かに頼り縋っている時と、独りに戻った時の感情の落差との折り合いをつけていくべきなのだろう。

それが最愛の人を喪った者が必ず通っていく途なら、私はそうするしかない。

そして独りであることを受け入れ、誰か親切にしてくれる人達と時折会い、その後感情の落差をも受け入れていかなければならないのだろう。

遠くて険しい途なのだろうな。

やがてそれをまがりなりにも乗り越えた先に祥一郎の望む私の笑顔があるのなら、この途を歩いて行く。私の残りの人生はそれしか無いのかもしれない。


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私の魂の課題

魂の課題


人生は修行だという。

使い古された陳腐な言葉だが、スピリチュアルな世界でも同じような考え方があるようだ。

修行という言葉は使わないが、この世で生きるということは魂の不得手な面や前回の人生で果たせなかった目的に近づく為らしい。

その為に魂の仲間たちの中から選ばれてこの世に生まれ、その課題を解決すべく生きていくという。

そいういうシステムを信じるならば、私の人生の、この世での課題とはいったい何だろうと考える時が有る。

私の人生はどう振り返って見ても祥一郎と過ごした年月以外は、あまり楽しいと言える時期は無かった。

幼い頃は、自分の力ではどうしようもない境遇に遭って来た。
両親や他の肉親に振りまわされ、自分の本当の身の置き所はいったい何処なのだろうと、小さな頭で考えさせられた。

何度か書いているが、父親は酷いDVの権化で、配偶者は言うに及ばず子供の私にまで理由の無い暴力をふるった。

実の母親の顔も面影も思い出せず、二人の継母は数年間しか私の傍に居なかった。

最後に預けられた祖父の元では、決定的に祖父との折り合いが悪く、思春期を迎えていた私は祖父に殺意さえ覚えたものだ。

そしてそんないびつな家庭に嫌気が差し、私は10代後半から家を出ることになった。

こうして見てみると、私の魂のひとつの課題は、成人するまでは血縁関係との軋轢を乗り越え、それでも逞しく生きて行くことだったのかもしれない。

それともそんな血縁関係でも、両親や親類縁者に恨みを抱かず、愛して生きなさいということか。

前者の課題なら達成したことになるが、後者なら未達成ということになる。


そして成人し一人で生きて行くようになった私は、職を転々とし住居も定まらなかった。

それでも誰に頼ることも無く、一人で物事を決め、それが結果的に間違っていてもなんとか腐らずに、生きてきた。

その代わり、幼少期の家庭環境の影響と、ひとりで人の温もりを知らずに生きてきたからか心は閉ざしがちで、他人を信用することが出来ず、誰も愛することができなかった。

ひとりで逞しく生きることが課題だったのだとしたら、これは達成したように思う。

しかし、ひとりきりでも愛を持って生きて行くことが課題だったならば、これは未達成だ。

そしてその後、祥一郎と運命の出逢いがある。

祥一郎と共に歩んだ人生においての魂の課題とは何だったのだろう。

私以上に生きることが不器用な祥一郎をなんとか守ってやることだったのだろうか。

それともやがて訪れる祥一郎との死別の悲しみを乗り越えることだったのだろうか。

今私が思うには、両方とも課題を達成したとは言い難い。

セッションで祥一郎は「おっちゃんは色々なものからうちを守ってくれた。」と言った。

しかし私は力及ばないことが有ったと思っている。あいつの健康問題もそうだし、経済的なこともそうだ。安定した穏やかな時間を提供できたとは言えない。

そして私は、祥一郎の死は乗り越えただろうか。

今現在、まかり間違ってもそんなことは言えない。

そもそも私が死ぬまでにその課題を達成できる可能性は低いかもしれない。


つらつら書いてきたが、所詮私の魂の本当の課題は何だったのか、それは死ぬまで分からないわけだ。

今、想像して書いているに過ぎない。

しかし私の想像が当たっていると仮定すれば、なんと過酷な課題の多い人生だったことか。
そして私の人生はこれからも続き、課題はまだ残っている。

私の前任者が居たとするならば、「貴方はいったいどれほど努力をしたのですか?何を達成してきたのですか?」と言ってやりたいくらいだ。

結局は目の前の難事を見据え、それをなんとかやり過ごし、解決の方法が間違っていたとしても最期が訪れるまで生きていくしかないのかもしれない。

本当の課題が何であるのか、分からないならそうするしかない。

いずれまたミディアムセッションを行い、今度は私のガイドスピリット(指導霊)に私の魂の課題について聞いてみたいと思う。御教示してくれるかどうかは分からないが。

「私の課題は何と何なのですか?」と聞いてもおそらく教えてはくれないだろうから、「私はこれからどんな生き方をすればいいのでしょうか。」などと聞いてみようと思う。

さてどんな答えが返ってくるのだろうか・・・・・・・。


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